エレナに連れられた高橋が酒場を出ていくと、残された一同の間から笑い声が上がった。
「まったく、あいつも変わったもんだな」
石井軍曹は麦酒の杯を傾けながら、二人が消えた扉を眺めていた。高橋がまだ訓練所にいた頃は、どちらかといえば大人しく、目立たない少年だった。それが今では、エルフの女性たちに囲まれて酒を飲んでいるのだから、半年という時間も馬鹿にはできない。
「高橋のやつ、すごいですよね。あんな美人のエルフと二人で街を歩いてるなんて」
山田はまだ羨ましそうだった。
「お前、さっきからそればっかりだな」
井上が呆れると、川崎も笑った。
「しかも本人は、あれがデートだって自覚もなさそうだしな」
「相手の伍長さんも気づいてないみたいだったぞ」
「似た者同士ってやつか」
日本人たちの間で再び笑いが起こった。会話の内容が分からないリュージュが岡田に尋ねると、岡田は少し言葉を選びながら説明した。事情を理解したリュージュも楽しそうに笑っている。
石井はその様子を眺めながら、ふと山田に目を向けた。
「それにしても山田。おまえ、エルフが本当に好きだな」
「もちろんですよ!」
山田は即答した。先ほどまでフリーダたちを眺めていたときの興奮が、まだ収まっていないらしい。
「日本にいた頃から、エルフには憧れてたんです。それが本当にいるんですよ? しかも、みんな美人だし!」
「お前、相変わらずだなあ」
井上は苦笑したが、石井は何やら考え込むように杯を置いた。
「そうか。そこまで好きなら、いい店に連れてってやるか」
「えっ?」
山田が顔を上げた。
「いい店って、何の店ですか?」
「まあ、行けば分かる。せっかくの新年だしな」
石井は上機嫌で立ち上がり、残っていた麦酒を飲み干した。
「新年だからな。イメルダもいるだろう」
その名前を聞いた途端、隣のロイが小さくため息をついた。
「ああ、またあの店か……」
「ロイ、イメルダって誰?」
リースが不思議そうに尋ねた。
「さあな」
ロイは何食わぬ顔で答えた。
「今、またあの店って言ったじゃない」
「気のせいだろ」
「絶対知ってるでしょう?」
「知らん知らん」
ロイは話を打ち切るように杯を持ち上げた。リースは納得できない様子だったが、石井は二人のやり取りなど気にも留めていない。
「おい、井上、川崎、岡田。お前らも来るか?」
「えっ、俺たちもですか?」
井上が尋ねると、石井は大きく頷いた。
「おう。せっかくだからな。先輩として、お前らに少し社会勉強をさせてやろう」
その言葉に、川崎は何となく察したらしい。井上の顔にも、徐々に理解の色が浮かんできた。
一方、山田は期待に満ちた顔で身を乗り出している。
「石井軍曹、その店にはエルフの女性がいるんですよね?」
「いるとも。お前の期待は裏切らんと思うぞ」
「行きます! ぜひ!」
「お前、少しは遠慮しろよ」
川崎が笑ったが、山田はまったく気にしていなかった。
岡田はというと、しばらく考えてから石井に向き直った。
「僕もご一緒していいですか?」
「もちろんだ。遠慮するな」
「ありがとうございます」
いつもと変わらない丁寧な返事だった。
井上が感心したように岡田を見た。
「お前も行くのか。ちょっと意外だな」
「せっかくの機会だからね」
岡田は穏やかに笑った。
その横で、ロイは何とも言えない顔になっていた。
「石井軍曹、俺たちは遠慮しときますよ」
「何だ、ロイ。お前らも来ればいいじゃないか」
「いや、俺たちはこっちで飲んでますから。好きにやってください」
ロイはそう言うと、リースとサクに目を向けた。
「お前らも残るぞ」
「えっ、何でっすか? 俺も行ってみたいっす!」
サクが勢いよく手を挙げたが、ロイは即座に首を振った。
「お前は行かなくていい」
「ひどいっすね! 何の店かも教えてもらってないっすよ!」
「知らないなら、それでいいんだよ」
「余計に気になるっす!」
そんなやり取りを聞いていたリュージュは、首を傾げていた。
「結局、何のお店なの?」
誰もすぐには答えなかった。
ロイはわざとらしく咳払いをして話題を変えた。
「ほら、料理が冷めるぞ。リュージュ、そっちの皿取ってくれ」
「ええ? 何よ、みんなして」
リュージュは不満そうだったが、目の前の料理を見るとすぐに機嫌を直した。
石井はそんな一同を眺めながら、楽しそうに笑った。
「じゃあ、行くか。あまり遅くなると門限に間に合わんぞ」
「はい!」
山田が元気よく返事をし、井上、川崎、岡田も席を立った。
四人を引き連れて酒場を出ていく石井の姿は、どこか新兵を引率する教官のようだった。
もっとも、これから始まる社会勉強は、連隊の正式な教育課程には存在しなかった。
石井たちが出ていったあとも、酒場の賑わいは衰える様子がなかった。
窓の外では冬の陽が傾き始めていたが、店内では新年を祝う客たちが次々に杯を重ねている。暖炉の火が赤々と燃え、運ばれてくる料理の湯気が酒場の暖かな空気に溶け込んでいた。
フリーダ、イルマ、リーナ、ゾフィーの四人は、石井たちが出ていった扉を見送っていた。
「……あの軍曹、随分と楽しそうだったわね」
リーナが呟くと、フリーダは苦笑した。
「まあ、新年だもの。羽目を外したいんでしょう」
「それにしても、あの日本人の子たち、ずいぶん素直についていったわね」
ゾフィーも少し呆れたように笑っていた。
四人は普段から浸透偵察小隊で一緒に生活しているが、こうして休日に私服で酒場に集まると、軍務中とはまた違う雰囲気になる。フリーダは椅子の背に外套を掛け、気楽な姿勢で杯を持っていた。イルマはいつもどおり無口で、周囲の会話に時折短い言葉を挟みながら、黙々と酒を飲んでいる。
その隣では、リュージュが随分と上機嫌だった。
「いやあ、新年のお酒はおいしいね!」
リュージュは両手で杯を持ち、嬉しそうに麦酒を飲んだ。小柄な体格と幼さの残る顔立ちのせいで、傍目には随分と若く見える。
彼女の隣に座っていたリースは、少し心配そうだった。
「リュージュ、そんなに飲んで大丈夫なの?」
「大丈夫よ。今日はお休みだし!」
「そうじゃなくて、酔わないの?」
「酔うわよ。でも、まだ平気!」
リュージュは笑いながら杯を置いた。
その様子を見ていたリースが、ふと尋ねた。
「そういえばリュージュって、いくつなの?」
「私? 三十一歳よ」
リースは思わず彼女の顔を見直した。
「……三十一?」
「うん。どうかした?」
「いや、もっと若いと思ってたから……」
リュージュは一瞬きょとんとしたあと、声を上げて笑った。
「あはは! そうでしょうね。日本人にはエルフの歳は分からないみたいね」
「本当に分からないわ……」
リースは感心したように呟いた。
その会話を聞いていたリーナも笑った。
「人間の人たちって、よくそう言うわよね。見た目だけで判断すると間違えるわよ」
「それにしても、リュージュはよく飲むな」
ロイが感心すると、リュージュは得意そうに胸を張った。
「今日は新年だもの!」
「理由になってないぞ」
ロイは苦笑した。
一方、サクもすっかり上機嫌だった。
「いやあ、酒っていいっすね! こんなに楽しいなら、もっと早く飲んでみたかったっす!」
「お前も飲みすぎるなよ」
ロイが注意したが、サクは笑顔で頷くばかりだった。
「大丈夫っす! 全然酔ってないっすよ!」
その言葉を聞いたゾフィーが、小さく笑った。
「飲んだ人は、みんなそう言うのよ」
「本当に大丈夫っす!」
サクは胸を張って答え、また麦酒を飲んだ。
リーナは、イルマの杯がいつの間にか空になっていることに気づいた。
「そういえばイルマ、亘一にも随分飲ませてたわね」
「うん」
「あの子、初めてのお酒だったんでしょう?」
「うん。おいしいって」
イルマはそれだけ答えた。
「エレナ、帰り道が大変だったんじゃないかしら」
フリーダが笑うと、イルマは少し考えた。
「高橋、元気だった」
「あなたの基準で考えちゃ駄目よ」
ゾフィーが呆れたように言った。
「それに、エルフだからってみんなお酒に強いわけじゃないんだから。イルマは特別製なのよ」
「確かにね。私だって、イルマと同じ調子で飲んだら潰れるわ」
リーナが頷くと、イルマは不思議そうに二人を見た。
「そう?」
「そうよ!」
フリーダとリーナの声が重なり、テーブルに笑いが起こった。
その笑い声に混じって、サクも愉快そうに笑っていた。
もっとも、彼の様子には少しずつ変化が現れていた。
最初はロイやリースに盛んに話しかけていたのだが、やがて話題があちこちへ飛び始め、誰も尋ねていない訓練所での苦労話を熱心に語るようになったのである。
「俺、最初は銃の持ち方も分からなかったっすよ。でも、石井軍曹に教えてもらって、ようやく人並みになったっす。人生って努力が大切っすよね!」
「そうだな。だからもう水でも飲んどけ」
ロイが水の入った杯を差し出すと、サクは素直に受け取った。
「ロイさん、優しいっすね! 俺、感動したっす!」
「大げさだな」
「いや、本当っすよ! 俺、ロイさんのこと尊敬してるっす!」
ロイは苦笑しながら、リースと顔を見合わせた。
「……こいつ、ちょっと酔ってるな」
「ちょっと、かな?」
リースも心配そうだった。
サクはそんな二人を気にすることなく、水を飲み干した。
そして、突然何かに気づいたように店の隅を見た。
そこには、古い武人をかたどった小さな石像が飾られていた。鎧をまとった男が剣に手を置いて立っているもので、店主の趣味なのか、壁際の棚にはほかにもいくつかの置物が並んでいる。
サクはしばらく、その石像をじっと見つめていた。
「……どうした、サク?」
ロイが尋ねたが、返事はなかった。
サクは真剣な顔で立ち上がり、石像の前まで歩いていった。
そして、石像と向かい合って椅子に腰を下ろした。
「……あの、ちょっと相談があるっす」
ロイは耳を疑った。
「……は?」
サクは石像の顔を見上げていた。
「俺、最近いろいろ悩んでるっすよ。訓練は大変だし、先輩には怒られるし、なかなか一人前になれないっす」
石像は当然ながら何も答えなかった。
ところがサクは、真剣な表情で頷いた。
「……なるほどっす」
テーブルに残っていた一同は、呆然とその光景を眺めていた。
「……今、何してるの?」
リュージュが小声で尋ねると、ロイはゆっくり首を振った。
「俺にも分からん」
サクは石像の前で腕を組み、考え込んでいた。
「そうっすね。焦っても仕方ないっすよね。毎日少しずつ頑張るしかないっす」
そして、またしばらく黙り込んだ。
どうやら相手の返事を聞いているつもりらしい。
「……いや、それはちょっと違うと思うっす」
今度は反論を始めた。
「確かに結果も大事っすけど、努力することにも意味があると思うっすよ。そこは譲れないっす!」
石像は黙っていた。
「……そうっすか。まあ、考え方は人それぞれっすからね」
サクは納得したように頷いた。
リュージュの肩が小刻みに震え始めた。
「ちょっと……何よ、あれ……」
リーナも口元を押さえていたが、とうとう耐えきれなくなった。
「あはははは! 何なのよ、あの子!」
リュージュもテーブルに突っ伏して笑い始めた。
「だ、だって……石像と喧嘩してる……!」
二人の笑い声に、周囲の客たちも何事かと振り向いた。
ロイは慌てて席を立った。
「おい、サク! 何やってるんだ!」
サクは振り返り、人差し指を口元に当てた。
「しーっ、ロイさん。今、大事な話をしてるっす」
「誰とだよ!」
「この人っす」
サクは当然のように石像を指さした。
「……石像だぞ、それ」
「知ってるっす」
「知ってるのかよ!」
「でも、すごくいいこと言うっすよ。この人、人生経験が豊富っす」
その返答に、リーナは完全に笑い崩れた。
「あははは! もう駄目! お腹痛い!」
リュージュも涙を浮かべながら笑っている。
「人生経験って! 石像なのに!」
フリーダは笑いをこらえようとしていたが、口元が緩んでしまっていた。ゾフィーも肩を震わせている。
そんな周囲の反応など意に介さず、サクは石像へ向き直った。
「すみませんっす。話の途中だったっすね」
そして、少し間を置いた。
「……えっ?」
サクは驚いたように身を乗り出した。
「いや、それは俺が悪かったっす! すみませんっす!」
今度は石像に向かって頭を下げた。
ロイは額を押さえた。
「……もう駄目だ、こいつ」
それでもサクの相談は終わらなかった。
「でも、先輩の言うことはちゃんと聞くべきっすよね。俺、これからもっと頑張るっす!」
そこで何かを思い出したように、隣の棚へ目を向けた。
そこには小さな動物の彫り物が置かれていた。
サクはその前へ移動した。
「……そっちはどう思うっすか?」
ロイは天井を仰いだ。
「今度はそっちかよ……」
サクは真剣だった。
「いや、そういう意見もあると思うっす。でも、さっきの人とはちょっと違うっすね」
リュージュはもう笑いすぎて声も出なかった。リーナもテーブルに突っ伏したまま、何度も手を叩いている。
サクは二つの置物を交互に眺め、何か難しい問題を議論しているようだった。
「なるほどっす。確かにそういう考え方もあるっすよね」
少し考えてから、首を横に振った。
「でも、俺は最初の人の意見の方が好きっす!」
ロイはとうとう我慢できなくなった。
「サク! もう帰るぞ!」
「えっ、まだ相談の途中っすよ!」
「十分相談しただろ!」
「いや、もう少しで結論が出るところっす!」
「相手は置物だ!」
ロイの怒鳴り声に、サクは不思議そうに首を傾げた。
「……ロイさん、酔ってるっすか?」
その一言で、テーブルは再び大爆笑に包まれた。
「お前にだけは言われたくない!」
ロイはサクの腕をつかんだ。
リースも席を立ち、反対側から支える。
「ほら、サク。帰ろう。もう十分飲んだでしょう?」
「分かったっす。でも、ちょっと待ってほしいっす」
サクは石像に向き直った。
「今日はありがとうございましたっす! また相談に来るっす!」
深々と頭を下げる。
ロイはもう何も言わず、リースと二人でサクを連れて酒場を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、フリーダはようやく笑いを収めた。
「……あんな酔い方する子、初めて見たわ」
「私もよ」
ゾフィーが頷いた。
リュージュはまだ肩を震わせていた。
「明日、サクに何を話してたのか聞いてみようかな」
「覚えてるかしらね?」
リーナがそう言うと、また二人で笑い出した。
ちなみに翌朝、サクは石像に人生相談をしたことを何一つ覚えていなかった。
その夜、二人の置物にどのような助言をもらったのかは、結局誰にも分からないままだった。
日がすっかり傾いた頃、石井軍曹と四人の日本人たちも、駐屯地へ向かって歩いていた。
旧王宮前の賑わいはまだ続いていたが、通りには帰路につく人々の姿が増えていた。店先には明かりが灯り、石畳の道を行き交う人々の影が長く伸びている。冷たい風が吹くたびに、兵士たちは外套の襟を立てた。
そんな中、石井はすこぶる上機嫌だった。
その後ろを歩く四人も、出かけたときとは随分と様子が違っていた。
特に井上は、今にも歌い出しそうな顔をしている。
「いやあ、石井軍曹! 今日は本当にありがとうございました!」
井上が勢いよく頭を下げた。
「これで俺も脱童貞だ! 感無量です!」
通りを歩いていた人が何事かと振り返った。
「お前、そんな大声で言うなよ!」
川崎が笑いながら井上の肩を叩いた。
「だってよ! こんな日が来るなんて思わなかったんだぞ!」
「分かったから、少し静かにしろって」
川崎も笑顔だったが、井上ほど浮かれてはいなかった。何となく周囲の視線が気になるらしく、時折辺りを見回している。
一方、山田は先ほどから夢でも見ているような表情だった。
「……エルフですよ」
「何だ、山田?」
石井が振り向いた。
「本物のエルフですよ! もう一生忘れません!」
山田は両手を握りしめ、感慨深げに空を見上げた。
「日本にいた頃、あんなに憧れてたエルフが……まさか本当に……」
「お前は本当にエルフが好きだなあ」
石井は愉快そうに笑った。
「しかし、あそこまで喜んでもらえると、連れていった甲斐があるな」
「石井軍曹、一生ついていきます!」
「大げさだな、お前は」
その隣を歩いていた岡田は、いつもどおり落ち着いた様子だった。
井上のように騒ぐわけでもなく、山田のように感慨に浸るわけでもない。ただ、いつもより少し晴れやかな表情をしている。
駐屯地の門が見えてきたところで、岡田は石井に向き直った。
「石井軍曹、僕もいい経験になりました。ありがとうございました」
「おう。楽しめたなら何よりだ」
石井は満足そうに頷いた。
「それにしても岡田、お前は落ち着いてるな。もっと驚くかと思ったぞ」
「そうですか?」
岡田は少し考えてから、穏やかに微笑んだ。
「初めてのことでしたから、勉強になることも多かったです」
「お前、そういうところは本当に真面目だな」
井上が呆れたように言うと、川崎も笑った。
「遊びに行ってまで勉強かよ」
「せっかくの経験だからね」
岡田は悪びれもせず答えた。
その言葉に、石井は腹を抱えて笑った。
「ははは! いいぞ、岡田。そういう考え方は嫌いじゃない!」
五人は笑いながら駐屯地の門へ近づいていった。
ところが、門の近くには見覚えのある女性たちが立っていた。
水野香織と、第20期の女子生徒たちである。
彼女たちも新年の外出を終え、ちょうど帰営するところだった。
水野は門の衛兵に外出許可証を見せながら、何やら話し込んでいた。その少し後ろで、千尋たちは帰ってくる兵士たちを眺めていた。
そして、運悪く、石井たちの会話はしっかり聞こえていた。
「…………」
千尋は言葉を失っていた。
井上や山田については、普段の言動から何となく想像できなくもない。
川崎も、まあ、そういうことに興味があるのだろう。
しかし。
千尋の視線は、笑顔で石井に礼を述べている岡田に向けられていた。
勉強ができて、運動も得意で、誰に対しても礼儀正しい。
同級生の女子たちからの評判もよかった。
その岡田が、あの四人の中にいる。
しかも、誰よりも落ち着いた顔で、石井軍曹に感謝している。
「……まさか、岡田君まで」
千尋の口から、小さな声が漏れた。
隣にいた女子生徒も、何とも言えない顔をしていた。
「……私も意外だった」
「岡田君って、そういうことに興味ないと思ってた……」
「……男の子って分からないわね」
三人はしばらく黙って岡田を眺めていた。
当の本人は、こちらに気づく様子もなく、石井と楽しそうに話している。
千尋はゆっくりと息を吐いた。
そういえば、この世界へ召喚されてから半年が経っている。
日本ではまだ高校一年生だった自分たちも、帝国では成人として扱われていた。
軍隊に入り、給与を受け取り、武器を持って戦場へ向かう。
日本にいた頃の常識が、そのまま通用する場所ではない。
千尋は改めて岡田を見た。
そして、何かを諦めたように小さく頷いた。
「……そうよね。もうみんな成人なのよね」
そう呟いたところで、衛兵との話を終えた水野が振り向いた。
「え、なに?」
水野は不思議そうな顔をしていた。
「岡田君がどうかしたの?」
どうやら、肝心な会話は聞いていなかったらしい。
千尋は一瞬、水野の顔を見つめた。
「先生、戻りましょう」
「え? でも、あそこに岡田君たちがいるじゃない」
水野は石井たちに気づくと、嬉しそうに手を振った。
「あら、岡田君! 井上君たちも!」
その声に、四人が一斉に振り向いた。
「水野先生!」
最初に返事をしたのは井上だった。
しかし、その後ろに千尋たち女子生徒がいることに気づいた途端、顔から笑顔が消えた。
山田も口を開けたまま固まった。
川崎は思わず顔をそらした。
岡田だけは、少し困ったように笑っていた。
女子生徒たちの視線が痛い。
どう考えても、何かを聞かれていた。
「みんな随分楽しそうね。何かいいことあったの?」
水野は屈託のない笑顔で尋ねた。
「え、ええ、まあ……」
岡田が曖昧に答える。
「そう! よかったわね!」
水野は満面の笑みだった。
千尋は静かに目を閉じた。
「……先生」
「なあに?」
「お願いですから、これ以上聞かないでください」
「え? 何で?」
「いいんです。知らなくていいこともあるんです」
「何よ、それ。気になるじゃない」
水野はますます不思議そうな顔をした。
千尋は岡田たちをもう一度見た。
先ほどまで大騒ぎしていた井上も山田も、今ではすっかり大人しくなっている。川崎に至っては、女子生徒たちと目を合わせようともしなかった。
岡田だけが、いつもの穏やかな笑顔を崩していない。
それが千尋には、かえって衝撃だった。
「……もう、いいです」
千尋は小さく呟いた。
一方、石井はようやく状況を理解したらしい。
四人の男子と、門の脇に立つ女子生徒たちを交互に見た。
そして、何とも愉快そうな顔になった。
「……お前ら」
四人が振り向いた。
「だから、ハメ外しすぎるなよ」
「はい!」
四人は思わず元気よく返事をした。
「……返事だけは立派だな」
石井は苦笑し、そのまま門の中へ歩き出した。
男子たちも慌てて後に続く。
その背中を女子生徒たちが何とも言えない表情で見送っていた。
千尋はもう何も言わなかった。
日本にいた頃なら、委員長として何か注意していたかもしれない。
しかし、ここではみんな成人である。
軍務を離れた休日に何をしようと、法律や軍規に違反していない限り、千尋が口を出すことではなかった。
そう自分に言い聞かせながら、彼女は水野の背中を押して兵舎へ向かおうとした。
「さあ先生、戻りましょう」
「ちょっと、千尋さん。さっきから何なのよ」
水野はまだ納得していない様子だった。
その後ろでは、ほかの女子生徒たちが笑いをこらえながらついてきていた。
やがて水野は、どうしても気になったらしく、もう一度千尋に尋ねた。
「ねえ、千尋さん。岡田君たち、何をそんなに喜んでたの?」
千尋は足を止めた。
少し考え、深いため息をつく。
「……大人になったそうです」
「あら、そうなの? いいことじゃない!」
「……先生、もういいです」