新年休暇の二日目。
高橋亘一が目を覚ましたとき、宿舎の部屋は静まり返っていた。
窓から差し込む冬の陽射しが、木の床に細長い四角形を描いている。普段なら誰かが着替える音や、寝台の軋む音が聞こえる時間だったが、今日はそんな気配もなかった。
高橋は寝台から体を起こし、部屋を見回した。
四つある寝台のうち、使われているのは自分のものだけだった。
同室のアルノーとミレーナは、新年休暇を利用してそれぞれ故郷へ帰っている。エレナの寝台もきちんと整えられており、本人の姿はなかった。どうやら先に起きて出かけたらしい。
こうして一人きりで目を覚ますのは、随分と久しぶりだった。
召喚されてから半年。訓練所でも配属先でも、常に誰かと寝起きを共にしてきた。日本にいた頃は一人の部屋など当たり前だったのに、今では誰もいないことが妙に落ち着かない。
高橋は大きく伸びをし、昨日の出来事を思い出した。
エレナに案内されてベルノの街を歩き、旧王宮で新年の式典を見物した。そのあと酒場で石井軍曹や日本人の仲間たちと再会し、初めて酒を飲んだ。
麦酒は思っていたよりもおいしかった。
ただ、何杯飲んだのかはよく覚えていない。エレナに腕を支えられて宿舎へ帰ってきたことは覚えているので、かなり酔っていたのだろう。
幸い頭痛や吐き気はなかったが、喉が少し渇いていた。
高橋は水を飲んで顔を洗うと、軍服に着替えて食堂へ向かった。
宿舎の廊下も普段より静かだった。里帰りしている者もいれば、まだ寝ている者もいる。訓練のある日なら、とっくに点呼や朝食のために人が行き交っている時間である。
食堂へ入ると、窓際のテーブルにエレナの姿があった。
イルマとリーナも一緒だった。
三人はすでに朝食を終えたらしく、食器の脇に飲み物を置いて何やら相談していた。高橋が近づくと、リーナが最初に気づいた。
「あら、高橋。おはよう」
「おはようございます」
エレナも振り向いた。
「おはよう、高橋。よく眠れた?」
「はい。さっき起きました」
「昨日あれだけ飲んだから、少し心配してたのよ。頭は痛くない?」
「大丈夫です。ちょっと喉が渇いてましたけど」
「それならよかったわ」
エレナが安心したように微笑むと、イルマが高橋を見上げた。
「高橋。元気?」
「うん。元気」
「よかった」
イルマは満足そうに頷き、飲み物に口をつけた。
リーナはその様子を見て、くすくす笑った。
「昨日あれだけ飲んでおいて、よく平気ね。イルマは」
「うん」
「まったく、あなたらしいわ」
イルマは特に気にすることもなく杯を置いた。
高橋は朝食を受け取り、三人のいるテーブルに腰を下ろした。ちょうど話が途切れたところだったので、何を相談していたのか尋ねてみた。
「明日の予定を決めてたのよ」
エレナが答えた。
「明日ですか?」
「ええ。せっかく演習場が空いているから、狩りに行こうかと思って」
「狩り?」
思いがけない言葉に、高橋は顔を上げた。
演習場といえば、匍匐前進や射撃訓練、野営訓練をする場所である。休日にわざわざ出かけて何をするのかと思ったが、エレナたちにとっては別の使い道もあるらしい。
「そう。普段は訓練で使っているけど、今は演習がないでしょう? 獲物もいるからね」
「銃で撃つんですか?」
「まさか。弓を使うのよ」
エレナは笑った。
「イルマも上手なの。明日は二人で獲物を探そうと思って」
イルマは当然のように頷いた。
「ウサギ。いる」
「ウサギですか」
「運がよければ、もっと大きいのもいるかもしれないわね」
リーナが横から口を挟んだ。
「私は食べるだけ。あの二人ならウサギは狩れると思うよ」
「リーナさんも行くんですか?」
「もちろん。せっかくのお休みだもの。森を歩くのも悪くないでしょう?」
リーナは楽しそうだった。
三人は再びエルフ語で相談を始めた。高橋には短い単語がいくつか聞き取れるものの、詳しい内容までは理解できなかった。
イルマの短い言葉なら何とか分かるが、リーナが少し長く話し始めると、途端についていけなくなる。
やはり、もう少し勉強する必要がある。
朝食を終えたところで、高橋はエレナに声をかけた。
「あの、エレナさん」
「なあに?」
「今日、街に行きたいんですけど」
「いいわよ。何か買いたいものがあるの?」
「エルフ語の本が欲しいんです」
エレナは少し意外そうな顔をした。
「エルフ語の本?」
「はい。みんなが話していることが、まだよく分からないので。もう少し勉強したいんです」
高橋は照れくさそうに笑った。
「小隊のみんなが何を話してるのか、分かるようになりたいんです」
エレナはしばらく高橋を見つめていたが、やがて嬉しそうに微笑んだ。
「そう。それなら本屋さんへ行きましょうか」
「いいんですか?」
「もちろん。高橋に合う本を探してあげるわ」
リーナも興味深そうに二人を見た。
「いいことじゃない。エレナ、あまり難しい本を選んじゃ駄目よ」
「分かってるわよ」
イルマも高橋に顔を向けた。
「高橋。本。読む?」
「うん。頑張る」
「よし」
イルマは満足そうに頷いた。
新年二日目のベルノは、昨日ほどの人出ではなかったが、まだ街中に華やいだ雰囲気が残っていた。
家々の新年飾りもそのままで、商店の前には買い物客が集まっている。露店では焼き菓子や温かい料理が売られ、休日を楽しむ兵士たちの姿もあちこちに見られた。
エレナは高橋を連れ、大通りから少し外れた商店街へ向かった。
高橋はいつもの軍服姿だったが、エレナは暖かそうな私服に外套を羽織っていた。昨日もそうだったが、軍服を着ていないエレナは、普段よりずっと柔らかい雰囲気に見えた。
「エルフ語の本って、普通の本屋さんにあるんですか?」
「あるわよ。ベルノにはエルフもたくさん住んでいるんだから」
「そうですよね」
「ただ、高橋が読めそうな本となると、少し考えないとね」
歩きながら、エレナは高橋がどの程度エルフ語を覚えているのか尋ねた。
簡単な挨拶や短い返事なら分かる。日常的によく使う単語もいくつか覚えた。しかし、文字はまだ十分に読めず、長い文章になればほとんど理解できない。
説明を聞いたエレナは、少し考えてから頷いた。
「それなら、最初は子供向けの本がいいと思うわ」
「子供向けですか?」
「ええ。短い文章が多いし、絵もあるから分かりやすいのよ」
高橋は少し恥ずかしそうに笑った。
「子供の本ですか」
「エルフ語はまだ初心者でしょう? 無理して難しい本を買うより、きちんと読める本から始めた方がいいわ」
「そうですね」
しばらく歩くと、二人は小さな本屋の前で足を止めた。
店内には木製の棚が並び、帝国共通語の本とエルフ語の本がそれぞれ置かれていた。エレナは迷うことなく子供向けの本が並ぶ棚へ進み、何冊か取り出して高橋に見せた。
その中の一冊には、森の動物たちが描かれていた。
ページを開くと、大きな絵の下に短いエルフ語の文章が並んでいる。高橋にはまだ読めない文字が多かったが、知っている単語もいくつか見つかった。
「あ、これなら少し分かるかもしれません」
「でしょう? 絵を見れば、何の話をしているかも想像できるから」
エレナは隣から本を覗き込み、最初の文章をゆっくり読んで聞かせた。
高橋が真似して読むと、発音の違うところを優しく直してくれる。二人はしばらく棚の前でページをめくり、何冊か見比べた。
結局、高橋は最初に手に取った動物の絵本を買うことにした。
「これにします」
「本当にそれでいい?」
「はい。頑張れば読めそうです」
高橋は自分の財布から代金を支払った。
店を出ると、冬の陽射しが通りを照らしていた。高橋は買ったばかりの本を大事そうに抱えている。
「帰ったら、さっそく読んでみます」
「分からないところがあったら聞いてね」
「はい。ありがとうございます」
エレナは嬉しそうに微笑んだ。
浸透偵察小隊では、仲間同士の会話はすべてエルフ語で行われる。言葉を覚えれば訓練や任務でもできることが増えるし、何より仲間たちとの距離が縮まるだろう。
高橋が自分から学ぼうとしてくれていることが、エレナには嬉しかった。
二人が宿舎へ戻ったのは、昼近くになってからだった。
高橋は買ってきた本を部屋に置き、しばらくページをめくっていた。しかし、分からない単語も多く、一人で読んでいてもなかなか先へ進まない。
気分転換に外へ出ると、宿舎の裏手から乾いた音が聞こえてきた。
音のする方へ向かうと、エレナとイルマが弓を手にしていた。
二人とも動きやすい私服姿で、少し離れた場所に置いた藁の的へ矢を放っている。的の背後には土を盛った矢止めがあり、ほかの兵士が入り込まない場所で試射しているらしい。
少し離れたところでは、リーナが飲み物を片手に二人を眺めていた。
エレナは弓を構えると、しばらく的を見つめてから矢を放った。
乾いた音とともに矢が飛び、藁束に突き刺さる。
「……少し右ね」
エレナが呟くと、イルマが頷いた。
「風。右から」
イルマも弓を構えた。
彼女はすぐには矢を放たず、周囲の草の揺れを眺めていた。やがて風が少し弱まったところで弦を離す。
矢はエレナのものから、さほど離れていない場所に突き刺さった。
「相変わらず上手ね」
「エレナも」
二人は短く言葉を交わし、弓の状態を確かめている。
「高橋、見てたの?」
エレナが気づいて声をかけた。
「はい。すごいですね、二人とも」
「明日の準備よ。しばらく弓を使ってなかったから、調子を見てるの」
イルマは自分の弓を軽く引いてみせた。
「問題ない」
「そうみたいね」
エレナが笑った。
そのとき、宿舎の正面から聞き覚えのある声がした。
「高橋君!」
振り向くと、丸眼鏡をかけた小柄な女性が立っていた。
水野香織だった。
「水野先生?」
高橋は驚いて駆け寄った。
「どうしたんですか、こんなところまで」
「お散歩よ、お散歩。せっかくのお休みだから、少し歩こうと思って」
水野はそう答えながら、額にかかった黒髪を直した。
「それにしても、ここって随分遠いのね。砲兵中隊の宿舎から歩いてきたら、思ったより距離があって驚いちゃった」
砲兵中隊の宿舎と浸透偵察小隊の宿舎は、同じ駐屯地の中でもかなり離れていた。
昨日、高橋と久しぶりに会ったことで、一度彼の生活している場所を訪ねてみようと思ったらしい。
「昨日はあまり話せなかったでしょう? せっかくだから、高橋君がどんなところで暮らしているのか見てみたかったのよ」
「そうだったんですか」
そのとき、再び弦の鳴る音がした。
水野が振り向く。
「あら、何してるの?」
「エレナさんとイルマさんが弓の練習をしてるんです。明日、狩りに行くそうで」
「狩り?」
水野は興味を引かれたようだった。
高橋に案内されて訓練場所へ向かうと、エレナが弓を下ろして手を振った。
「あら、水野さん。こんにちは」
「こんにちは、エレナさん。昨日はどうも」
水野は笑顔で挨拶した。
リーナも近づいてきた。
「昨日、広場で高橋と会った先生よね?」
「ええ。水野香織です。よろしくお願いします」
水野が丁寧に頭を下げると、リーナも帝国共通語で名乗って挨拶を返した。
その隣で、イルマが水野をじっと眺めていた。
小柄な体に黒髪、丸眼鏡。高橋と同じ日本から来た女性だという。
イルマの視線が、水野の顔から少し下へ移った。
そして、いつもの調子でぽつりとエルフ語で呟いた。
「小さい。でも大きい」
エレナの表情が止まった。
「……イルマ?」
リーナは一瞬、何のことか分からなかったらしい。しかし、イルマの視線の先を見て、すぐに意味を理解した。
「……っ!」
口元を押さえたものの、もう遅かった。
「あはははは! ちょっと、イルマ!」
リーナは腹を抱えて笑い始めた。
「何よ、それ! 初対面でいきなり!」
あまりに可笑しかったらしく、とうとう膝を折り、その場にしゃがみ込んでしまった。
水野は最初、何を言われたのか分からなかった。
「え? 何ですか?」
エレナは慌てて首を振った。
「な、何でもないのよ。イルマったら、もう……」
しかし、水野もイルマの視線とリーナの反応から、ようやく意味を察したらしい。
自分の胸元に目を落とし、みるみる顔を赤くした。
「……えっ?」
イルマは相変わらず真顔だった。
そして、自分の胸元を見下ろしてから、水野に向き直った。
「羨ましい。私、ない」
「ちょ、ちょっと!」
水野は真っ赤になって、慌てて胸元を隠すように両腕を寄せた。
リーナはもう我慢できなかった。
「あはははは! 駄目! もう駄目!」
とうとうその場に座り込み、涙を浮かべながら笑っている。
エレナも口元を押さえていたが、こちらは笑いよりも困惑の方が大きかった。
「イルマ! 初めて会った人にそんなこと言わないの!」
「なぜ?」
イルマは不思議そうに首を傾げた。
「本当のこと」
「本当でも言わなくていいことがあるの!」
エレナの言葉に、リーナがまた吹き出した。
「エレナ、もうやめて! お腹痛い!」
高橋はというと、すっかり困り果てていた。
イルマの言葉は短かったので、ほとんど理解できてしまったのである。
どこを見ればいいのか分からず、ひたすら遠くの的を眺めていた。
水野はそんな高橋に気づき、ますます顔を赤くした。
「……高橋君」
「は、はい!」
「今の、分かったの?」
「……少しだけ」
「……そう」
水野はしばらく黙った。
それから丸眼鏡を直し、何事もなかったように背筋を伸ばした。
「……それで、弓の練習をしてたんですか?」
話題を変えようとする声が、少し上ずっていた。
リーナが再び笑い始めた。
「ふふっ……ごめんなさい、水野さん。イルマはいつもこうなのよ」
「……そうなんですか」
「悪気はないの。思ったことをそのまま言っちゃうだけで」
水野は困ったように微笑んだ。
「それは……よく分かりました」
当のイルマは、もうこの話は終わったと思ったらしい。
何事もなかったように弓を手に取り、矢筒から一本の矢を抜いた。
「エレナ。続ける?」
エレナは大きくため息をついた。
「……ええ。続けましょうか」
水野も気を取り直し、二人の試射を眺め始めた。
ただしリーナだけは、しばらく肩を震わせていた。
弓の試射が再開されると、水野はすぐにその技術に興味を示した。日本にも弓道という競技があることを説明し、自分は経験したことがないが、弓で遠くの的を狙うのは難しそうだと話した。
エレナは風の影響や弓の扱いについて簡単に説明した。イルマも何度か矢を放ち、そのたびに藁束のほぼ同じ場所へ命中させた。
「すごいですね。まるで銃みたいに正確」
水野が感心すると、エレナは微笑んだ。
「明日は本物の獲物を狙うから、もう少し難しいわよ」
「明日、狩りに行くんでしたね」
「そうだ、水野さん。明日、一緒に来ませんか?」
「え?」
「狩りよ。せっかくのお休みでしょう?」
水野は目を丸くした。
「私もですか? でも、狩りなんてしたことありませんよ?」
「高橋だって初めてよ。弓を使えなくても大丈夫。獲物を探したり、森を歩いたりするだけでも楽しいわよ」
「そうなんですか?」
「ええ。それに、高橋にはソリを引いてもらう予定だから」
水野が高橋を見た。
「……ソリ?」
「獲物を運ぶためらしいです」
高橋が苦笑すると、水野は声を上げて笑った。
「ふふっ! それじゃあ、高橋君は荷物運びね」
「そうみたいです」
「大変ねえ」
エレナも楽しそうに笑った。
「水野さんにはそんなに重いものを持たせないから、安心して」
「あら、そうですか。でも、力仕事なら結構得意ですよ」
水野はさらりと答えた。
エレナはその言葉を、あまり深く考えなかった。
目の前の水野は自分よりも背が低く、見た目も華奢な女性である。重いものを持たせるのは気の毒だと思っていた。
イルマが水野に顔を向けた。
「水野。来る?」
「え?」
短いエルフ語だったが、水野には分からなかった。
エレナが通訳すると、水野は笑顔で頷いた。
「ええ。ぜひ、ご一緒させてください」
イルマも満足そうだった。
「よし」
こうして、翌日の狩りには水野も同行することになった。
新年休暇の三日目。
夜の間に少し雪が降ったらしく、朝の駐屯地は薄い新雪に覆われていた。
屋根や木々の枝には白い雪が残り、地面も前日より明るく見える。しかし空は雲一つない快晴で、昇り始めた太陽が雪面を眩しく照らしていた。
高橋が食堂へ向かうと、すでにエレナとイルマが朝食を済ませ、出発の準備をしていた。
二人とも動きやすい服装をしており、壁際には弓と矢筒、背負い袋やロープなどの道具が揃えられている。
「おはようございます」
「おはよう、高橋。今日はいい天気ね」
エレナは窓の外を眺めながら、機嫌よく答えた。
「夜の間に雪が降ったみたいですね」
「ええ。このくらいなら、ちょうどいいわ」
「ちょうどいいんですか?」
高橋が不思議そうに尋ねると、エレナは窓の外を指さした。
「新しい雪が積もると、動物の足跡がよく分かるのよ。雪が降りやんでから通った獲物なら、どちらへ歩いていったのか追いやすいでしょう?」
「ああ、なるほど」
「昨日までの古い足跡も消えてるからね。今日は狩りにはいい日になりそうよ」
イルマも頷いた。
「雪。少ない。いい」
そこへリーナが姿を現した。背負い袋を肩に掛け、暖かそうな外套を着ている。
「おはよう。いい天気になったわね」
「ええ。これなら気持ちよく歩けそうね」
エレナが答えると、リーナは弓を眺めた。
「今日は期待してるわよ、二人とも。私は食べる方が専門なんだから」
「分かってるわよ」
しばらくして、水野も宿舎へやってきた。
「おはようございます!」
厚手の上着に歩きやすい靴を履き、丸眼鏡の奥の目を楽しそうに輝かせている。
「水野先生、早かったですね」
「砲兵中隊の宿舎からここまで結構遠いでしょう? 遅れないように早めに出てきたの」
水野は白い息を吐きながら笑った。
「それにしても、いいお天気ね。雪もきれいだし、散歩には最高じゃない」
高橋はそんな水野を見ながら、宿舎の外に用意されたソリに目を向けた。
「……やっぱり、これも持っていくんですね」
「もちろん。大きな獲物が獲れたら、持って帰らなきゃいけないもの」
エレナは当然のように答えた。
「ウサギなら背負い袋に入ると思うんですけど」
「もしかしたら大物がいるかもしれないでしょう?」
イルマも頷いた。
「必要」
高橋は諦めて引き綱を肩に掛けた。
その様子を見ていた水野が笑った。
「高橋君、今日は頑張ってね」
「はい……」
五人は準備を整え、駐屯地の奥に広がる演習場へ向かった。
演習場の奥へ進むにつれ、周囲は静かになっていった。
昨夜降った雪は薄く地面を覆う程度だったが、木々の枝や下草にも白く積もり、冬の森を明るく見せていた。雲一つない青空から陽光が差し込み、風に揺れた枝から、ときおり雪が細かく舞い落ちている。
先頭を歩くエレナとイルマは、雪面に残された足跡を調べながら進んでいた。
高橋にはどれも似たような跡に見えたが、二人は立ち止まるたびに周囲の様子を確かめ、進む方向を決めている。
やがて、エレナが不意に足を止めた。
「高橋、あそこ」
エレナは声を落とし、少し離れた茂みを指さした。
高橋は首から下げていた双眼鏡を持ち上げ、教えられた方向を覗いた。
最初は雪と枯草しか見えなかったが、ゆっくり視線を動かしていくと、茂みの陰に茶色いものが見えた。
「あっ、ウサギだ」
「見つけた?」
「はい。二羽います」
一羽は低い茂みのそばにうずくまり、もう一羽は少し離れた場所で雪の下の草を探していた。ときおり長い耳を動かし、周囲の様子をうかがっている。
エレナは双眼鏡で二羽の位置を確認すると、イルマに小声で話しかけた。
「右の子は私が狙うわ。イルマ、左をお願い」
「うん」
イルマは短く答え、背中から弓を下ろした。
エレナも矢筒から一本の矢を抜いた。二人は周囲の木々を眺め、風の向きを確かめている。
「高橋たちはここで待っていて。あまり動かないでね」
「はい」
「リーナ、水野さんたちをお願い」
「分かったわ」
リーナは二人を少し離れた木の陰へ案内した。そこならエレナとイルマの動きを見渡せるうえ、ウサギのいる場所も確認できた。
高橋と水野は双眼鏡を構えた。リーナも双眼鏡で二人の動きを追っている。
エレナとイルマは、木や茂みを利用しながら静かに獲物へ近づいていく。二人の動きは滑らかで、足元の雪を踏む音もほとんど聞こえなかった。
「……すごいですね」
水野が小さく呟いた。
「ほとんど音がしないわ」
「ウサギは、ちょっとした物音でも逃げちゃうからね」
リーナは双眼鏡を覗いたまま答えた。
「それに、風向きも気にしてるのよ。こちらの匂いが獲物に届かないようにね」
高橋は改めて二人を観察した。
エレナが立ち止まると、イルマも動きを止める。どちらかが進み始めると、もう一方も少し遅れて動く。
互いに声をかけている様子はないのに、不思議なほど息が合っていた。
やがて二人はそれぞれ弓を構えた。
しかし、すぐには矢を放たない。
風に揺れる枯草を見つめ、何かを待っているようだった。
「どうして撃たないのかしら?」
水野が小声で尋ねた。
「風を待ってるのよ」
リーナが答えた。
「今は少し横から吹いてるでしょう? それが落ち着くのを待ってるんだと思う」
しばらくすると、草の揺れが小さくなった。
エレナがイルマに顔を向け、ほんのわずかに頷く。
イルマも小さく頷き返した。
二人がほとんど同時に弓を引き絞った。
次の瞬間、二本の矢が放たれた。
右のウサギにエレナの矢が、左のウサギにイルマの矢が命中した。
高橋の双眼鏡の中で、二羽のウサギがほとんど同時に倒れた。
「……当たった!」
水野が驚いたように呟いた。
「二羽とも……」
「やったわね」
リーナは嬉しそうに双眼鏡を下ろした。
「さすが、エレナとイルマだわ」
高橋はまだ双眼鏡を覗いていた。
二人は弓を下ろすと、周囲を確かめてから獲物の方へ歩き始めた。
「すごいですね。ほとんど同時でしたよ」
「そうね。二人とも腕がいいからね。それに、一緒に訓練もしてるから、動きがよく合うのよ」
リーナは感心したように答えた。
イルマが浸透偵察小隊に加わってから、まだ数年だった。それでも普段の訓練で互いの技量を知っており、こうした場面では細かな指示がなくても連携できるらしい。
しかし、高橋には簡単なこととは思えなかった。
小銃で的を狙う訓練なら何度も受けている。だが、弓には銃のような照準器もなく、矢は放たれてから弧を描いて飛んでいく。しかも風を読み、獲物を驚かせずに接近し、二人でタイミングまで合わせている。
水野も感心しきった様子だった。
「弓って、あんなに正確に当たるものなのね」
「誰でもできるわけじゃないわよ」
リーナは笑った。
「特にイルマは上手なの。エレナも負けてないけどね」
やがてエレナがこちらへ手を振った。
高橋たちが近づくと、雪の上には二羽のウサギが並べられていた。
「今日は幸先がいいわね」
エレナは嬉しそうだった。
イルマも満足そうに頷いた。
「二羽。成功」
「本当にすごかったです」
高橋が言うと、イルマはいつもの無表情に近い顔で答えた。
「うん」
水野は二羽のウサギを眺め、改めてエレナたちに感心したようだった。
「昨日の試し撃ちもすごかったけど、本当に獲物を仕留めるところを見ると違いますね」
「そうね。的と違って、動物はこっちの都合で待ってくれないもの」
エレナは矢と獲物の状態を確かめながら答えた。
リーナが二羽を持ち上げ、嬉しそうに笑った。
「これで今夜のおかずは確保ね」
「まだ始まったばかりよ」
エレナが答えると、イルマも森の奥へ目を向けた。
「もっといる」
最初の二羽を仕留めたあと、一行はさらに演習場の奥へと進んだ。
日が高くなるにつれ、森の中も少しずつ暖かくなってきた。木々の枝に積もっていた雪は陽光を受けて緩み、ときおり小さな塊となって落ちてくる。
エレナとイルマは相変わらず先頭を歩き、雪面に残る足跡を調べていた。途中で新しいウサギの足跡を見つけると、その方向へ静かに進んでいく。
やがて二人は、倒木の向こうにいる二羽のウサギを発見した。
今度は木々が密集していたため、二人は少し離れた位置から接近した。高橋たちは双眼鏡で見守っていたが、イルマの姿は何度も木の陰に隠れ、見失いそうになる。
「……あれ、イルマさんが見えなくなりました」
「もう少し左よ」
リーナに教えられ、高橋が視線を動かすと、太い木の陰にイルマの姿があった。
彼女は低い姿勢を保ち、枝に触れないよう体を傾けながら進んでいる。
「……よく見失いませんね」
水野が感心したように言った。
「私なんか、双眼鏡で見ていても分からなくなりそう」
「二人とも、こういうことには慣れてるからね」
リーナが答えた。
やがてエレナとイルマは、それぞれ弓を構えた。
二羽のウサギがほぼ同時に動きを止めたところで、二本の矢が放たれた。
高橋の双眼鏡の中で、右側のウサギが倒れる。続いて左側の一羽も雪の上に倒れた。
「……また当たった!」
水野が思わず声を上げた。
「四羽ね。今日は本当に調子がいいわ」
リーナは満足そうに双眼鏡を下ろした。
回収したウサギを袋に収めながら、エレナが言った。
「これだけあれば、今夜はみんなに食べてもらえそうね」
「もう十分じゃないですか?」
高橋が尋ねると、エレナは森の奥を見た。
「そうね。でも、せっかくここまで来たんだから、もう少し歩きましょうか」
イルマも頷いた。
「まだ、時間ある」
リーナは呆れたように笑った。
「二人とも欲張りね。私はもう十分だと思うけど」
「あなたは食べるだけだものね」
エレナが言い返すと、リーナは悪びれもせず頷いた。
「そうよ。だから期待してるの」
そのやり取りに水野も笑った。
高橋は袋をソリに載せ、引き綱を持ち直した。ウサギ四羽が増えた程度なら、まだ大した重さではない。
一行がさらに森の奥へ向かおうとした、そのときだった。
先頭を歩いていたイルマが、不意に足を止めた。
彼女は雪面の一点を見つめ、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
「……エレナ」
短い呼びかけに、エレナも足を止めた。
「どうしたの?」
イルマは答えず、雪の上を指さした。
エレナが近づき、同じようにしゃがみ込む。
二人はしばらく無言で足跡を調べていた。
「……あら」
エレナが小さく声を上げた。
「これは、いいものを見つけたわね」
高橋たちも近づいた。
雪面には、これまで見てきたウサギの足跡とは明らかに違う、大きなくぼみが残されていた。
二つに割れたような形をした足跡が、一定の間隔で奥へ続いている。
「……何の足跡ですか?」
「鹿よ」
「鹿?」
高橋は思わず顔を上げた。
水野も隣から覗き込んだ。
「へえ、これが鹿の足跡なんですね」
「ええ。ウサギとは全然違うでしょう? 鹿は蹄があるから、こんな形になるの」
エレナは足跡の一つを指さしながら説明した。
雪はそれほど深くなかったが、鹿の重さで地面近くまで踏み込まれている。いくつもの足跡が林の奥へ続き、その一部には土が見えていた。
イルマは足跡の縁を確かめると、周囲の木々を見渡した。
「新しい」
エレナも頷いた。
「そうね。今朝、ここを通ったのかもしれないわ」
「この先にいるんですか?」
高橋が尋ねると、エレナは少し考えてから答えた。
「いるかもしれないわね。でも、もう遠くへ行っている可能性もあるわ。追ってみないと分からないわよ」
リーナも足跡を覗き込んだ。
「これ、結構大きいんじゃない?」
「そうね。小さな鹿ではなさそう」
イルマは足跡の続く方向を眺めていた。
「追う?」
その一言に、エレナは笑顔を浮かべた。
「もちろん」
高橋は二人を交互に見た。
「……もしかして、鹿を狩るんですか?」
「ええ。見つけられたらね」
「弓で?」
「そうよ」
エレナは当然のように答えた。
水野は少し驚いた表情で、雪面の大きな足跡を見つめていた。
「ウサギとは随分大きさが違いますよね。本当に弓で仕留められるんですか?」
「できるわよ。ただし、ウサギよりずっと慎重に近づかないといけないけどね」
エレナはイルマに目を向けた。
二人は短いエルフ語で何かを相談し始めた。高橋には単語がいくつか聞き取れたものの、詳しい内容までは理解できなかった。
やがて相談を終えたエレナが、三人に向き直った。
「少し慎重に進みましょう。鹿はウサギよりずっと警戒心が強いから、見つけても大声を出さないでね」
高橋と水野が頷いた。
五人は足跡をたどり、静かな冬の森の奥へと進んでいった。
鹿の足跡を追って、五人はさらに林の奥へと進んだ。
それまでのウサギ狩りとは違い、エレナとイルマはほとんど言葉を交わさなくなっていた。ときおり立ち止まって雪面を調べ、周囲の木々や風の様子を確かめながら進んでいく。
高橋たちも自然と口数が少なくなり、雪を踏む音にさえ気を遣うようになっていた。
足跡は比較的まっすぐ続いていたが、途中で何度か立ち止まった形跡があった。低い木の枝には食いちぎられたような跡があり、その下の雪は蹄で踏み荒らされている。
「ここで何か食べてたみたいね」
エレナは枝の先を調べながら、小声で説明した。
水野も興味深そうに覗き込んだ。
「動物って、いろんな痕跡を残すものなんですね」
「そうね。足跡だけじゃなくて、食べた跡や折れた枝からも、どちらへ進んだのか分かることがあるのよ」
高橋はその会話を聞きながら、双眼鏡で林の奥を眺めていた。雪の白さと木々の黒い影が入り混じり、慣れない目には獲物を見つけるのも難しかった。
そのとき、先頭のイルマが急に立ち止まった。
片手を上げ、後ろの四人に動かないよう合図する。
エレナもすぐに足を止め、イルマの視線を追った。
しばらくして、エレナが高橋の肩にそっと手を置いた。
「高橋、あそこ。大きな倒木の向こうよ」
高橋は双眼鏡を構えた。
最初は何も見えなかった。倒木の周囲に枯れた草が伸び、その奥には細い木々が立ち並んでいる。
しかし、エレナに教えられた場所をゆっくり探していくと、木々の間に茶色いものが見えた。
鹿だった。
大きな体をした一頭の鹿が、木々の間で下草を食べていた。
頭には立派な角が生えている。左右へ大きく伸びた角は途中で何本にも枝分かれし、冬の陽射しを受けて鈍く光っていた。堂々とした体格の雄鹿で、太い首と厚い胸を持ち、立っているだけでもかなりの重量がありそうだった。
「……いました。鹿です。すごい角ですね」
高橋が囁くと、水野も双眼鏡を向けた。
「ああ……いた!」
水野は感激したように小声で言った。
「大きいわね。それに、立派な角。野生の鹿って、こんなに近くで見るのは初めて」
「いい雄鹿ね」
エレナも双眼鏡を覗きながら答えた。
「かなり大きいわ。あれなら肉もたくさん取れそう」
リーナも嬉しそうに頷いた。
「あら、これは期待できそうね」
「まだ遠いわよ。ここからじゃ弓は届かないわ」
エレナは静かに答えた。
その隣で、イルマが口を開いた。
「私が行く」
短い言葉だった。
エレナはイルマを見た。
「そうね。お願いできる?」
「うん」
イルマは弓を持ち直し、矢筒の位置を確かめた。
水野が少し驚いた様子で尋ねた。
「一人で行くんですか?」
「ええ。人数が多いと気づかれやすいから。私たちはここで待ちましょう」
エレナはそう答えると、イルマに向かって短くエルフ語で何かを伝えた。
イルマは一度だけ頷き、鹿のいる場所を確かめてから、ゆっくりと左手の林へ移動し始めた。
高橋は双眼鏡でその姿を追った。
イルマは鹿に向かってまっすぐ歩いていくのではなかった。少しずつ左へ回り込み、木々の陰を利用しながら進んでいる。
「あれ? 見えなくなりました」
「左から回り込んでるのよ。鹿の風下へ入るつもりね」
エレナが説明した。
「風下?」
「ええ。鹿は鼻がいいから、風に乗って人間の匂いが届いたら気づかれちゃうの。だから、向こうからこちらへ風が流れる位置を取るのよ」
エレナは雪面から顔を上げ、林の梢を見た。
枝先がかすかに揺れている。
「今日は風が弱いから、悪くない条件ね。でも、途中で風向きが変わることもあるから油断できないわ」
水野は双眼鏡を構え直した。
「なるほど……。ただ近づけばいいってものじゃないんですね」
「そうよ。相手は生き物だからね」
リーナも双眼鏡を覗きながら、少し笑った。
「イルマなら大丈夫でしょう。こういうことは本当に上手だから」
しばらくすると、木々の間にイルマの姿が現れた。
高橋が思っていたよりも、ずっと鹿に近い場所だった。
「……あんなところまで」
イルマは大きな木の陰に身を寄せ、しばらく動かなかった。
雄鹿は相変わらず下草を食べていた。ときおり角のある大きな頭を上げ、長い耳を動かしている。周囲の音を聞いているのだろう。
やがてイルマは木の陰で片膝をついた。
高橋は双眼鏡を覗き続けていたが、やがて雄鹿の方に動きがあった。
鹿が頭を上げ、ゆっくりと数歩進んだのである。
体の向きが変わり、イルマから見て横向きになった。
「……今なら」
高橋が呟いた。
しかし、イルマはまだ弓を引かなかった。
風が少し強くなり、木々の枝が揺れた。積もっていた雪が枝から落ち、細かな白い粉となって地面へ舞い降りる。
その間も、イルマはじっと待っていた。
やがて風が弱まった。
イルマがゆっくりと立ち上がり、弓に矢をつがえた。
高橋には、その動作が不思議なほど滑らかに見えた。昨日、宿舎の裏で試し撃ちをしていたときと同じだったが、今度の相手は藁の的ではない。
立派な角を持った、大きな野生の雄鹿である。
イルマは弓を引き絞り、狙いを定めた。
「……撃つわ」
エレナが小さく呟いた。
次の瞬間、イルマの指が弦を離れた。
高橋の双眼鏡の中で、矢が鹿へ向かって飛んだ。
そして、雄鹿の胴体に突き刺さった。
「当たった!」
水野が思わず声を上げた。
しかし、鹿はその場には倒れなかった。
大きく跳ねるように体を動かすと、突然走り出したのである。
立派な角を揺らしながら木々の間を駆け抜け、あっという間に視界から消えていった。
「……逃げた!」
高橋は慌てて双眼鏡を動かしたが、鹿の姿はもう見えなかった。
「エレナさん、逃げちゃいました!」
「大丈夫。落ち着いて」
エレナは静かに答えた。
「今のはいいところに当たったと思うわ。肺に入っているはずよ」
「でも、走っていきましたよ?」
「大きな動物は、矢が当たってもすぐには倒れないことがあるの。追いかければ余計に逃げちゃうから、少し待ちましょう」
水野も双眼鏡を下ろした。
「……あんな大きな動物が、あんなに速く走るんですね」
その声には驚きが混じっていた。
やがて戻ってきたイルマに、エレナが声をかけた。
「どうだった?」
イルマはいつもの無表情に近い顔で答えた。
「当たった。肺」
「私もそう見えたわ」
エレナが頷いた。
イルマは鹿が逃げた方向を指さした。
「あっち。追える」
「そうね。少し休んでから行きましょう」
高橋は雪に覆われた林の奥を見た。
先ほどまで、そこには大きな雄鹿が立っていた。
今はもう、その姿はない。
しかし雪の上には、走り去った鹿の蹄の跡がはっきりと残っているはずだった。
しばらく時間を置いてから、五人は鹿が逃げた方向へ歩き始めた。
雪の上には大きな蹄の跡が続いており、ときおり赤い血の跡も見つかった。ウサギの足跡とは違い、走り去った鹿の足跡は深く、周囲の雪が大きく乱れている。
イルマは先頭でその跡を追い、エレナも周囲の林に目を配りながら後に続いた。
高橋はソリを引きながら、何度も双眼鏡で前方を確認していた。
「結構走ったんですね」
高橋が呟くと、エレナは足元の血の跡を確かめながら頷いた。
「そうね。でも、ちゃんと当たっているから、そう遠くまでは行けないと思うわ」
しばらくして、先頭のイルマが足を止めた。
「いた」
その短い言葉に、一同は顔を上げた。
木々の間に少し開けた場所があり、その端に大きな茶色い体が横たわっていた。
雄鹿だった。
立派な角を持った頭を雪の上に横たえ、ほとんど動かなくなっている。
高橋が双眼鏡を覗くと、鹿の腹部がかすかに上下していた。まだ息があるようだった。
「……倒れてますね」
「ええ。行きましょう」
エレナは弓を下ろし、鹿へ近づいた。
五人がそばまで来ても、鹿は立ち上がらなかった。大きな体を横たえたまま、弱々しく息をしている。イルマの放った矢は胴体に深く刺さっていた。
水野は鹿を見下ろし、先ほどまでの明るい表情を少し曇らせた。
「……まだ生きてるんですね」
「ええ。でも、もう長くはないわ」
エレナは鹿の様子を確認すると、すぐに腰のナイフへ手を伸ばした。
「手早く片付けましょう。高橋、後ろ足をロープで縛って」
「はい」
高橋は背負い袋からロープを取り出した。
しかし、目の前の鹿を見て、少し手が止まった。
これまで戦闘訓練では何度も銃を撃ってきたが、実際に大型の動物が目の前で死にかけているところを見るのは初めてだった。
雄鹿の体は思っていた以上に大きかった。太い首の先には立派な角が伸び、近くで見ると、その迫力に圧倒されそうになる。
エレナは高橋の様子に気づいた。
「高橋、気をつけて。まだ急に脚を動かすことがあるから」
「はい」
「イルマ、少し手伝って」
「うん」
イルマが鹿の動きを見守る間、エレナは手早くナイフを使い、鹿にとどめを刺した。
高橋は息を呑んだ。
鹿の体がわずかに動き、やがて完全に静かになった。
エレナはその様子を確かめてから、高橋に頷いた。
「もう大丈夫よ。後ろ足を縛ってちょうだい」
高橋は言われたとおり、鹿の後ろ脚にロープを回した。
雪の上に膝をつき、二本の後ろ脚をまとめて縛る。普段から野営訓練でロープの扱いには慣れていたが、こうして獲物を縛るのは初めてだった。
エレナが結び目を確かめた。
「うん、これなら大丈夫ね」
「このあと、どうするんですか?」
「血抜きをするのよ。血抜きしないとまずくなるからね」
エレナはそう説明すると、近くの木を見上げた。幹が太く、横へ張り出した丈夫そうな枝がある。
「イルマ、あの枝でどう?」
「いい」
二人は手慣れた様子でロープを枝に掛け、鹿を吊り上げる準備を始めた。
高橋も言われたとおりロープを引いたが、鹿は驚くほど重かった。最初はほとんど動かず、足を踏ん張ってようやく少し持ち上がる。
「……重いですね!」
「そりゃそうよ。あんなに立派な雄鹿なんだから」
リーナが笑った。
「高橋、頑張って。今夜のご馳走がかかってるんだから」
「リーナさんも手伝ってくださいよ!」
「私は応援してるわ」
「それ、朝から言ってませんか?」
「気のせいよ」
二人のやり取りに、エレナも笑った。
そのとき、横から水野が声をかけた。
「高橋君、私も手伝うわ」
「えっ、先生?」
「一人じゃ大変でしょう?」
水野はそう言うと、高橋の隣でロープを握った。
小柄な体を少し前に傾け、両足をしっかり踏ん張る。
「せーの!」
二人が力を合わせると、鹿の体が持ち上がり始めた。
高橋は少し驚いた。
水野が加わった途端、ロープを引くのが随分と楽になったのである。
「先生、結構力ありますね」
「ふふっ。毎日砲兵中隊で鍛えられてるんだから、これくらいはね」
水野は笑顔で答えた。
エレナとイルマも手を貸し、鹿はやがて後ろ脚を上にして吊り下げられた。
エレナは高さとロープの状態を確認すると、ナイフを手に取った。
「それじゃあ、少し離れていてね」
高橋と水野が下がると、エレナは慣れた手つきで血抜きの作業を始めた。
雪の上に赤い血が落ちていく。
水野はしばらく黙ってその様子を見ていた。
日本にいた頃、スーパーで売られている肉を買うことはあっても、動物が食肉になるまでの過程を見る機会などなかった。
それは高橋も同じだった。
「……こういうことも、自分たちでするんですね」
水野が小さく呟いた。
「ええ。獲ったものはちゃんと処理しないとね」
エレナは手を動かしながら答えた。
「私たちは子供の頃から教わっているけど、日本ではあまり経験しないのかしら?」
「そうですね。少なくとも私は初めてです」
「僕もです」
エレナは少し考えてから微笑んだ。
「そうなのね。でも、こういうことも覚えておいて損はないわよ」
イルマも横から頷いた。
「食べる。大事」
短い言葉だったが、高橋には意味がよく分かった。
しばらくして作業を終えると、エレナは鹿の状態をもう一度確かめた。
「これでいいわ。そろそろ運びましょうか」
鹿をソリに載せるだけでも、ひと仕事だった。
五人がかりで何とかソリに載せ、荷が崩れないようロープで固定した。立派な角が邪魔にならないよう頭の位置も整え、四羽のウサギを一緒に載せると、朝はほとんど空だったソリが、すっかり重そうな荷物になってしまった。
高橋は引き綱を肩に掛け、試しに引っ張ってみた。
ソリは少し動いたが、雪面の凹凸に引っ掛かり、すぐに止まってしまう。
「……これは結構大変ですね」
「だからソリを持ってきたのよ。担いで帰るよりはずっと楽でしょう?」
エレナは涼しい顔で答えた。
「高橋、頑張ってね」
リーナも楽しそうだった。
イルマは鹿を見て頷いた。
「大きい。重い」
「それは分かってますよ……」
高橋は苦笑しながら、再びソリを引き始めた。
平らな場所では何とか進むものの、少し上り坂になると途端に足が重くなる。積もった雪にソリの底が食い込み、引っ張るたびに体力を奪われていった。
しばらく進んだところで、水野が高橋に声をかけた。
「高橋君、ちょっと代わってくれる?」
「えっ、先生がですか?」
「ええ。私も少し引いてみたいわ」
高橋は迷った。
水野は身長も低く、体格も自分よりずっと小さい。いくら砲兵中隊で鍛えられたといっても、この重さでは大変なのではないか。
「でも、かなり重いですよ」
「大丈夫よ。貸してみて」
水野は笑顔で引き綱を受け取った。
そして肩に掛けると、体を少し前に倒し、足を踏ん張った。
ソリが動いた。
最初こそ少し力を込めたものの、水野はそのまま一定の歩調で雪道を進んでいく。上り坂に差しかかっても、足を止める様子がない。
「……あれ?」
高橋は目を丸くした。
水野は足元の雪を確かめ、ソリが引っ掛かりそうになると、少し方向を変えて引き出している。単純な腕力だけでなく、重いものを動かすことに慣れているらしい。
エレナも驚いたようだった。
「水野さん、ずいぶん力があるのね」
「そうですか?」
水野は振り返って笑った。
「砲兵中隊って、力仕事が多いんですよ。砲弾は重いし、砲の取り扱いも結構大変なんです」
「でも、先生ってそんなに力ありましたっけ?」
高橋が尋ねると、水野は少し得意そうに胸を張った。
「日本にいた頃とは違うのよ、高橋君。砲兵中隊に配属されて、もう二か月になるんだから」
「二か月でそんなに鍛えられるんですか?」
「毎日重い砲弾を運んでたら、嫌でも力がつくわよ。それに、重いものは体の使い方が大事なの」
水野はそう言って、またソリを引き始めた。
高橋は何とも言えない顔でその後ろ姿を眺めていた。
昨日までは、自分よりずっと小柄な元数学教師だと思っていたのに、今では大きな雄鹿を載せたソリを平然と引いている。
リーナが感心したように呟いた。
「へえ。見かけによらないわね」
イルマも水野を見つめていた。
昨日、初めて水野に会ったときのことを思い出したらしい。
「小さい」
エレナが振り向いた。
「……イルマ?」
イルマは水野の足取りを眺め、続けた。
「でも、強い」
エレナは一瞬きょとんとしたあと、吹き出した。
「あはは! そうね。確かにそうだわ!」
リーナも笑い始めた。
「何よ、どうしたの?」
水野が振り返った。
「何でもないわ。イルマが水野さんのこと、すごく力持ちだって感心してるの」
「そうなの?」
水野は嬉しそうに笑った。
「ふふっ。ありがとう」
イルマは満足そうに頷いた。
「強い。すごい」
その短い言葉は、高橋にも理解できた。
エレナは高橋に目を向けた。
「高橋、先生の方が上手じゃない?」
「……そうみたいですね」
高橋は少し複雑な顔をした。
水野はそんな二人の会話を聞いて、楽しそうに笑った。
「高橋君、これでも毎日砲兵中隊で訓練してるのよ。先生を甘く見ちゃ駄目」
「はい……」
「それに、こういうのは力任せに引っ張ればいいってものでもないの。体の使い方があるのよ」
かつて数学を教えていた先生が、今では重い鹿を載せたソリの引き方を教えている。
高橋は何とも不思議な気分になった。
しばらくして、エレナが笑いながら声をかけた。
「水野さん、疲れたら高橋に代わらせてね」
「ええ、もちろん。でも、まだ大丈夫ですよ」
水野は元気よく答えた。
イルマがぽつりと言った。
「高橋。休憩」
「えっ?」
「水野。元気」
その言葉に、リーナが吹き出した。
「あはは! 高橋、今日は先生に負けちゃったわね!」
水野は振り返り、昔と変わらない教師の笑顔を浮かべた。
「高橋君、もっと鍛えないとね!」
高橋は苦笑するしかなかった。
結局、その後も何度か交代しながらソリを引いたが、水野は最後まで元気だった。
小柄な体格からは想像できない体力と、重いものを扱うことに慣れた動き。
砲兵中隊での二か月間の訓練が、彼女を随分と変えていたのである。
五人が宿舎へ戻ったのは、午後になってからだった。
ソリに載せられた立派な角の雄鹿を見た兵士たちが、驚いたように足を止める。すでに帰営していた者も多く、宿舎の周囲には昨日までとは違う賑わいが戻ってきていた。
「おお、やったな!」
厨房から出てきたのは、補給を担当しているエルフの男性兵士だった。
彼はエレナとイルマが狩りに出かけることを知っていたらしく、鹿を見るなり嬉しそうに駆け寄ってきた。
「ウサギくらいは期待してたが、まさかこんな立派な雄鹿まで獲ってくるとはな!」
男は鹿の角を見上げ、感心したように声を上げた。
「いい角じゃないか。これだけの雄鹿なら、肉も相当取れるぞ」
「イルマが仕留めたのよ」
エレナが答えると、男はイルマを見た。
「さすがだな。いい獲物じゃないか」
イルマは短く頷いた。
「うん」
「よし。こいつは俺に任せろ」
男は鹿の状態を確かめると、近くにいた補給担当の兵士たちを呼んだ。数人がかりで鹿を厨房の裏手へ運び、処理の準備を始める。
「今夜はみんな帰ってくるんだろう?」
「ええ。明日からまた山中訓練だからね」
「そうか。なら、今夜はご馳走だな」
男は満足そうに頷いた。
「本当は少し肉を寝かしときたいんだけどな。お前ら明日からまた山中訓練だろう。しっかり食ってくれ」
そう言って、厨房へ戻っていった。
高橋はようやくソリの引き綱を外し、大きく伸びをした。
「……疲れた」
「お疲れさま、高橋」
エレナが笑った。
「今日はよく頑張ったわね」
「途中から水野先生の方が頑張ってましたけど……」
「そうね。水野さんには驚かされたわ」
リーナが笑いながら言った。
水野は少し照れくさそうだった。
「そんなに大したことじゃないですよ。砲兵中隊じゃ、もっと重いものを扱うこともありますから」
「へえ……」
エレナは改めて水野を眺めた。
小柄で華奢に見える女性が、あれほどの力仕事に慣れているとは思わなかった。
その隣で、イルマがまた呟いた。
「小さい。でも強い」
「イルマ、それ気に入ったの?」
リーナが笑うと、イルマは真顔で頷いた。
「うん」
水野は意味が分からず首を傾げていたが、エレナとリーナはもう笑いをこらえられなかった。
夕方になると、浸透偵察小隊の食堂には久しぶりに全員の顔が揃った。
新年休暇を利用して自宅へ帰っていた隊員たちも、翌日からの山中訓練に備えて戻ってきている。宿舎のあちこちから話し声が聞こえ、普段の賑やかさが戻っていた。
アルノーとミレーナも帰ってきていた。
高橋は久しぶりに顔を合わせた二人から、それぞれの里帰りの話を聞いた。しかし、今日の食堂で一番の話題は、何といっても狩りの獲物だった。
立派な角を持った雄鹿を仕留めたという話は、すでに小隊中に広まっていた。
厨房からは肉を焼く香ばしい匂いが漂い、大きな鍋では野菜とともに鹿肉が煮込まれている。ウサギも別の料理に使われているらしく、料理係たちは今日の獲物を無駄なく使おうと忙しく働いていた。
ヴァルター・エルフェン少佐も食堂へ姿を現した。
「ずいぶんいい匂いがするな」
小隊長が厨房の方を眺めると、エレナが今日の狩りについて報告した。
「イルマが鹿を一頭仕留めたの。ウサギも四羽獲れたわ」
「ほう。大したものだな」
ヴァルターは感心したように頷いた。
「しかも、なかなか立派な角の雄鹿だったそうじゃないか」
「ええ。かなり大きかったわ」
エレナが答えると、イルマも何食わぬ顔で頷いた。
「鹿。大きかった」
「そうだろうな。厨房も大喜びだ」
ヴァルターは笑いながら席についた。
食堂には次々と料理が運ばれてきた。
鹿肉の煮込み、焼いた肉、野菜料理、そして温かい汁物。人数の多い小隊全員が食べられるよう、厨房では肉を小さく切り分け、ほかの食材と組み合わせていた。
水野も食堂へ招かれていた。
砲兵中隊の所属である彼女にとって、浸透偵察小隊の食堂で夕食を取るのは初めてだった。
「本当に私までご馳走になっていいんですか?」
水野が遠慮がちに尋ねると、エレナは笑顔で答えた。
「もちろんよ。今日は一緒に狩りに行ったんだから」
「それに、鹿を運んでくれた功労者だもの」
リーナが付け加えた。
その言葉を聞いて、周囲の隊員たちが興味深そうに水野を見た。
「鹿を運んだ?」
フリーダが尋ねると、リーナは待ってましたとばかりに説明を始めた。
「そうなのよ。高橋よりずっと上手にソリを引いてたんだから!」
「へえ!」
ゾフィーも驚いたように水野を見た。
「水野さん、そんなに力があるの?」
「いえ、そんなことは……」
水野は少し照れくさそうに笑った。
「砲兵中隊で毎日鍛えられてるだけですよ」
フリーダは感心したように頷いた。
「なるほどね。砲兵は力仕事が多いものね」
「そうなんです。砲弾を運んだり、砲を動かしたり。配属されてから二か月ですけど、随分鍛えられました」
そこへイルマが口を挟んだ。
「小さい。でも強い」
リーナが吹き出した。
「ふふっ! イルマ、昨日からそればっかり!」
イルマは真顔で頷いた。
「うん。強い」
エレナも笑いながら水野を見た。
「本当にそうなのよ。高橋なんて途中でへばっちゃって」
「へばってませんよ!」
高橋が慌てて言い返すと、周囲から笑い声が上がった。
水野はそんな高橋をかばうように口を開いた。
「あの、高橋君も頑張ってたんですよ。私が代わったのは途中からですし」
「先生、別にそこまでかばわなくても……」
「だって、本当のことでしょう?」
水野は真面目な顔で答えた。
その教師らしい態度が、かえって周囲の笑いを誘った。
フリーダは笑いながら高橋の肩を叩いた。
「まあ、高橋。明日からまた訓練なんだから、頑張りなさい」
「はい」
イルマも頷いた。
「高橋。鍛える」
「……はい」
高橋は諦めたように頷き、鹿肉を口に運んだ。
食事が進み、あちこちで会話が弾み始めた頃、水野がふと高橋に顔を寄せた。
「ねえ、高橋君」
「はい?」
「あの、向こうに座っている格好いい人。お名前は?」
水野が目で示した先には、数人の隊員と話しているゲルフの姿があった。
「ああ、ゲルフ軍曹です」
「えっ、ゲルフ軍曹ですか?」
水野は改めてゲルフを眺めた。
「へえ……。素敵な人ね」
「そうですか?」
「そうよ。それに、あちらの人も格好いいわね」
今度はアルノーを見ていた。
「ああ、アルノーです。僕と同じ部屋なんですよ」
「そうなの? 高橋君、随分いい男の人たちに囲まれて生活してるのね」
水野は楽しそうに笑った。
「この小隊、格好いい人が多いじゃない」
「……そうですかね」
「高橋君は男の子だから気づかないのかもしれないけど、なかなか目の保養になるわね」
そう言って、水野はもう一度ゲルフの方へ視線を向けた。
高橋は少し意外だった。
日本では数学を教えていた水野先生が、今では軍隊の食堂で同僚の男性たちを眺め、楽しそうに話している。
そんな姿を見るのは初めてだった。
「先生も、そういうこと気にするんですね」
高橋が何気なく言うと、水野は少し頬を赤らめた。
「あら、失礼ね。私だって女性なんだから、格好いい人くらい気になるわよ」
「すみません」
高橋が慌てて謝ると、水野はおかしそうに笑った。
そんな二人の様子を、少し離れた席からヴァルターが眺めていた。
彼の視線は、いつの間にか水野の方へ向いていた。
小柄な黒髪の女性で、丸眼鏡をかけている。エレナやリーナと楽しそうに話しており、その隣には高橋が座っていた。
ヴァルターはしばらく眺めたあと、高橋を手招きした。
「高橋、ちょっと来い」
高橋が近づくと、ヴァルターは彼の肩に手を回し、女性たちに聞こえないよう顔を寄せた。
「お前の女か? いい女だな」
高橋は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「ち、違いますよ!」
思わず声を上げかけた高橋を、ヴァルターが制した。
「しっ。声がでかい」
「あ、すみません……」
高橋も慌てて声を落とした。
「学校の先生だったんですよ。日本にいたときの」
「ほう、先生か」
ヴァルターは面白そうに頷いた。
「今はただの同僚だろう? いい女だと思わんか?」
「いや、その……」
「エレナとどっちがいい?」
「えっ?」
高橋は思わず目を丸くした。
エレナにはいつも世話になっているし、水野は日本での学校の先生である。そもそも、二人をそんなふうに比べたことなどなかった。
「……そういうことは、考えたことがないので」
ヴァルターは呆れたように肩をすくめた。
「つまらん奴だな。女遊びぐらいしねえと兵隊なんざやってられねえぞ」
そう言って、声を殺して笑った。
「こんなのは早いもの勝ちだからな」
「……はあ」
高橋は曖昧に頷くしかなかった。
「まあ、いい。戻って食え。せっかくの鹿肉が冷めちまうぞ」
高橋はほっとして自分の席へ戻った。
「高橋、何の話だったの?」
エレナが尋ねた。
「えっ? いえ、ちょっとした話です」
「そう?」
エレナはそれ以上追及せず、高橋の皿に鹿肉を取り分けた。
「ほら、まだあるわよ。しっかり食べてね」
「ありがとうございます」
高橋はヴァルターの方をちらりと見た。
少佐は何食わぬ顔で杯を傾けている。その口元には、まだ楽しそうな笑みが残っていた。
高橋は小さくため息をつき、鹿肉を口に運んだ。
食堂では相変わらず笑い声が絶えず、久しぶりに顔を揃えた隊員たちは、休暇中の出来事を語り合っていた。水野もすっかり打ち解けた様子で、エレナやリーナとの会話を楽しんでいる。
明日からは再び山中訓練が始まり、二月には中部戦線への派遣が控えている。
高橋にとって初めてのベルノでの新年休暇は、思いがけず賑やかで、楽しい三日間となった。
こうして新年休暇は終わり、ベルノ連隊にはいつもの軍隊生活が戻ってくるのだった。