第1節 雪山訓練
雪を踏みしめるたびに、ぎゅっ、ぎゅっ、と鈍い音がした。
高橋亘一は、白く染まった山の斜面を登りながら、大きく息を吐いた。
「……きつい」
思わず漏れた言葉に、前を歩いていたエレナが振り返った。
「大丈夫、高橋?」
「大丈夫です。でも、雪山を歩くのって、こんなに疲れるんですね」
「スキーはしたことがあるんでしょう?」
「ありますよ。でもスキーとこれは全然違います。滑るんじゃなくて、登ってばかりですから」
エレナが笑った。
「まだ始まったばかりよ」
「それ、聞きたくなかったです」
先頭を歩いていたアルノーが振り返った。
「高橋、足を高く上げすぎだ。余計に疲れるぞ」
「そうなんですか?」
「ああ。前の足跡を使え。少しは楽になる」
高橋はアルノーの足跡をたどった。
確かに、何もない雪を踏み固めながら歩くよりは楽だった。
「ありがとうございます」
「まだ先は長いからな」
後ろからミレーヌが声をかけた。
「アルノー、少し休まない?」
「さっき休んだばかりだろう」
「無線機が重いのよ。代わってくれる?」
「俺だってバッテリーを持ってるんだぞ」
「そうだったわね」
ミレーヌは笑った。
「高橋、代わってくれる?」
「えっ、僕ですか?」
「冗談よ。自分の装備だけで大変でしょう?」
高橋は苦笑した。
「はい。正直、かなりきついです」
「慣れるわよ。去年の私もそうだったから」
アルノーが笑った。
「去年も同じことを言ってただろう」
「余計なこと言わないで」
四人は再び雪の斜面を登り始めた。
雪が積もった山中を、軍装を身につけ、銃と装備を背負って歩く。
これまでにも何度か山岳訓練を経験していたが、冬の雪山は勝手が違った。
足を踏み出すたびに雪に沈み、斜面では普段の倍以上の力が必要になる。背中の荷物も、いつもより重く感じた。
今回の訓練区域は、これまで使用していた山とは違っていた。
ベルノからかなり離れた山岳地帯で、周囲には人家もほとんどない。
出発前、ヴァルターから妙なことを言われていた。
「高橋、今回の訓練は最後にちょっとしたお楽しみがあるぞ」
「お楽しみ、ですか?」
「ああ。まあ、期待しておけ」
それ以上は何も教えてくれなかった。
雪山での訓練に、いったいどんな楽しみがあるというのだろう。
高橋には見当もつかなかった。
初日の訓練は、観測陣地の構築から始まった。
雪のない季節なら、倒木や茂み、地形の起伏を利用して身を隠す。
しかし冬の山は事情が違う。
周囲が真っ白なため、少しでも暗い色が露出すると、かえって目立ってしまう。
「そこ、黒い布が見えてるわよ」
エレナが少し離れた場所から声をかけた。
高橋は慌てて自分の作った偽装陣地を見直した。
「えっ、どこですか?」
「右側。雪の影になっているところ」
指摘された場所を見ると、確かに天幕の端がわずかに見えていた。
「これぐらいでも見えるんですね」
「雪山ではね。それと、足跡も考えないと駄目よ」
高橋は自分たちが歩いてきた斜面を振り返った。
白い雪の上に、くっきりと足跡が続いている。
「……隠れても、ここに来たことが丸わかりですね」
「そういうこと。雪は便利なこともあるけど、厄介なことも多いの」
雪を盛り上げて形を整え、周囲の地形に合わせて偽装を施す。
しかし、きれいに整えすぎても不自然だった。
風に吹かれた雪には独特の起伏があり、人の手で作った平らな面は遠くからでもわかってしまう。
高橋が作業を続けていると、アルノーが戻ってきた。
「高橋、ちょっと来てみろ」
「はい?」
アルノーは高橋を少し離れた場所へ連れていった。
「自分の陣地がどこにあるかわかるか?」
「……あそこですよね」
「そうだ。形は悪くないが、周囲の雪と色が違う」
高橋は目を凝らした。
確かに、雪を掘り返した部分だけが少し暗く見える。
「なるほど……」
「雪の下の土を混ぜるな。それと、入口の足跡も目立つ」
そこへミレーヌがやってきた。
「高橋、まだ終わらない?」
「もう少しです」
「じゃあ、私は先に無線の準備をしておくわ」
アルノーが頷いた。
「頼む。終わったら観測を始める」
「了解」
ミレーヌは自分たちの陣地へ戻っていった。
高橋は再び雪を集め始めた。
アルノーはその作業を見ながら言った。
「高橋、急がなくていい。見つからないことが俺たちの仕事だからな」
「はい」
何度も陣地を作り直し、離れた場所から見え方を確認した。
観測が始まると、今度は寒さとの戦いだった。
動いている間は汗をかくほど暑いのに、じっとしていると、たちまち身体が冷えてくる。
高橋は双眼鏡を手に、指定された区域を観測し続けた。
時折、エレナが交代してくれる。
「指先、冷たくなってない?」
「まだ大丈夫です」
「無理しないでね。指が動かなくなったら銃も撃てないわよ」
高橋は手袋の中で指を動かした。
寒さも敵なのだ。
初日のビバークは、雪の斜面を少し掘り込んだ場所に設けられた。
風を避けるための簡単な囲いを作り、その中に寝床を用意する。
夕食を終える頃には、周囲はすっかり暗くなっていた。
「寒い……」
高橋は毛布にくるまりながら呟いた。
「冬だからね」
隣でエレナが平然と答える。
「いや、わかってますけど」
「ほら、こっちに来なさい」
エレナが毛布を持ち上げた。
高橋は言われるまま、その中に潜り込んだ。
二人で抱き合い、互いの体温を逃がさないようにする。
最初の頃は戸惑ったものだが、今ではすっかり慣れてしまった。
山中で何日も過ごす浸透偵察小隊では、こうした寒さ対策も珍しいことではない。
「少しは暖かい?」
「はい。だいぶ違います」
「よかった。明日も歩くんだから、ちゃんと休まないとね」
高橋は目を閉じた。
少し離れた場所では、アルノーとミレーヌが明日の行動について話している。
やがて二人の声も聞こえなくなった。
外では風が木々を揺らしている。
時折、枝に積もった雪が落ちる音がした。
日本にいた頃、冬の山といえばスキー場だった。
リフトに乗り、整備された斜面を滑り、寒くなれば暖かい建物に入る。
今は、銃を抱えて雪山の中で眠っている。
半年ほど前まで高校生だった自分が、こんな生活をしている。
考えてみると、ずいぶん奇妙な話だった。
「高橋、眠れないの?」
「いえ、ちょっと日本のことを考えてました」
「そう」
エレナはそれ以上聞かなかった。
「おやすみ、高橋」
「おやすみなさい」
高橋は毛布の中で身体を丸めた。
寒さはまだ残っていたが、やがて眠りに落ちた。
翌日からも、訓練は続いた。
移動、観測、潜伏。
指定された地点まで進み、周囲を観測して報告する。
場合によっては何時間も同じ場所に留まる。
夜間にも移動が行われた。
雪の上を歩くのは疲れるが、悪いことばかりではなかった。
足跡が残るため、人や動物が通ったことを見つけやすい。
一方、自分たちの移動経路も残ってしまう。
新しい雪が降れば、それまでの足跡が消えることもある。
高橋は、雪のない季節とはまるで違う山の表情を少しずつ覚えていった。
そして訓練最終日。
思いがけない出来事が起こった。
昼前、ヴァルターのもとに民警からの連絡が入った。
ベルノ領都の民警副署長からだった。
副署長はヴァルターの古くからの友人で、浸透偵察小隊が毎年この山域で冬季訓練を行っていることを知っていた。
強盗事件を起こした男二人が、山中へ逃げ込んだという。
民警はすでに捜索を開始していたが、山岳地帯は広い。
そこで、付近で訓練中の浸透偵察小隊に協力を求めてきたのである。
「まったく、訓練の最後に面倒な仕事を持ってきやがったな」
ヴァルターはそう言いながらも、協力を引き受けた。
各班へ捜索の指示が伝えられる。
「強盗犯二名。猟銃を所持している可能性がある。発見したら報告しろ。民警が捜索中だ。こちらは発見と監視を優先する」
連絡を受けたエレナ班も、周辺の捜索を始めた。
歩きながら、高橋がエレナに尋ねた。
「エレナ、民警って軍警とは違うんですか?」
「ええ。軍警は軍隊の中の犯罪や軍紀違反を取り締まる組織。民警は一般市民の犯罪を扱うのよ」
「じゃあ、脱走兵は軍警で、強盗犯は民警ですか?」
「そういうこと。どちらも領主の管轄だけど、指揮系統が違うの。軍警は軍の組織、民警は民政の組織ね」
「なるほど」
「ベルノ領都の民警は、領都役所のワーレン所長の指揮下にあるわ。実質的には市長みたいな人ね」
「民警も兵隊なんですか?」
「職業民警もいるけど、徴兵されて配属された人もいるわ。それに、前線で負傷して戦闘任務が難しくなった兵士が転属することもあるの」
「軍隊を辞めなくてもいいんですね」
「ええ。できる仕事があるなら、そちらに回されることもあるわ」
高橋は頷いた。
帝国の徴兵制度は、必ずしも戦場で銃を持つためだけのものではないらしい。
「でも、どうして民警が僕たちに頼んできたんでしょう?」
「副署長がヴァルターの友人なのよ。毎年ここで訓練していることも知ってるから」
「それで協力要請が来たんですね」
「そう。山の中で人を探すなら、私たちの得意分野でしょう?」
エレナは笑った。
「もっとも、犯人を裁くのは私たちの仕事じゃないわ。見つけたら民警に引き渡すのよ」
「わかりました」
高橋は雪の斜面に視線を戻した。
しばらく進んだところで、雪の上に人の足跡を見つけた。
「エレナ、これ」
エレナが足を止めた。
「……新しいわね」
アルノーも足跡を覗き込んだ。
「二人だな。雪の崩れ方を見ると、それほど時間は経っていない」
「犯人でしょうか?」
高橋が尋ねた。
「まだわからない。ただ、こんな場所を二人で歩く理由は少ないな」
足跡は林の奥へ続いている。
エレナが頷いた。
「アルノー、周囲を警戒して。ミレーヌ、ヴァルターに報告をお願い」
「了解」
「わかったわ」
アルノーは銃を構えて周囲を確認した。
ミレーヌは背負っていた無線機を降ろした。
真空管式の無線機は重く、電源用のバッテリーもかさばる。雪山でこれを運ぶ苦労は相当なものだった。
「少し待ってね」
ミレーヌは慣れた手つきで機器を準備し、通信を開始した。
やがてヴァルターにつながった。
エレナが足跡の発見場所と進行方向を報告する。
しばらくして返答があった。
『そのまま追跡を続けろ。犯人を発見したら報告しろ』
「了解」
通信を終えたミレーヌが顔を上げた。
「追跡続行ね」
「そうよ。アルノー、先頭をお願い」
「任せろ」
アルノーは足跡を確認すると、林の奥へ歩き始めた。
「高橋、足跡ばかり見てるなよ。周りも見ておけ」
「はい」
ミレーヌが笑った。
「高橋、こういう時のアルノーは頼りになるのよ」
「こういう時だけか?」
「普段も頼りになるわよ。たまにはね」
「まったく……」
高橋は思わず笑った。
しばらくすると、ヴァルターから別の連絡が入った。
エレナ班の進行方向にはフリーダ班が展開しているという。
地形の関係で、フリーダ班の方が犯人の予想進路に近かった。
間もなく、そのフリーダから報告が届いた。
『こちらフリーダ。地図にない小屋がある。去年は無かった』
エレナは地図を広げた。
「場所は?」
フリーダから位置が伝えられる。
確かに、地図には何も記されていない。
『狩猟小屋のようね。煙突から煙が出てる。少し様子を見るわ』
「了解。こちらも向かう」
エレナは地図を畳んだ。
「フリーダたちが小屋を見つけたみたい」
「新しい小屋なんですか?」
「そうみたいね。フリーダは去年もここで訓練してるから」
高橋は周囲を見回した。
なるほど、自分にとっては初めての山だが、古参隊員たちには馴染みのある場所なのだ。
一行は足跡を追って進んだ。
しばらくして再びフリーダから連絡が入った。
『男二人を確認。強盗犯の可能性あり。猟銃一丁を確認したわ』
「了解。こちらも間もなく到着する」
エレナ班が到着した時には、フリーダ班はすでに小屋を監視していた。
狩猟小屋は、森の中にぽつんと建っていた。
丸太を組んだ小さな建物で、屋根には雪が積もっている。
煙突からは細い煙が上がっていた。
フリーダがエレナを手招きした。
「二人とも中にいるわ」
「こちらには気づいてる?」
「いいえ。まったく気づいていないみたい」
「武器は?」
「猟銃一丁。ほかにもあるかもしれないけど、今のところわからない」
エレナは頷いた。
「民警には?」
「報告済みよ。こちらへ向かっているわ」
二つの班は、小屋の周囲に分かれて配置についた。
エレナは班員たちに指示を出した。
「アルノー、周囲の警戒をお願い。ミレーヌは通信を維持して」
「了解」
「任せて」
高橋は小屋が見える位置に伏せ、銃を構えた。
小屋までの距離は、およそ百メートル。
雪の上に伏せると、冷たさが身体に伝わってくる。
アルノーは周囲の林に目を配り、ミレーヌは無線機のそばについた。
しばらくすると、小屋の扉が開いた。
男が一人、外へ出てきた。
肩には猟銃を担いでいる。
男は周囲を見回し、煙草を取り出した。
火をつけると、小屋の壁にもたれながら煙を吐いた。
どうやら一息ついているらしい。
やがて男は猟銃を壁に立てかけた。
高橋は銃を構えた。
その様子に気づいたエレナが、双眼鏡を覗いた。
男は猟銃のすぐ近くにいた。
「高橋、犯人との距離が近いわ。猟銃の機関部だけを狙撃できる?」
「できます」
高橋は迷わず答えた。
エレナは一度、高橋の顔を見た。
それからミレーヌに声をかけた。
「ミレーヌ、ヴァルターにつないで」
「了解」
ミレーヌが無線機を操作した。
通信がつながると、エレナは状況を報告した。
「こちらエレナ。犯人一名が小屋の外に出ています。猟銃を壁に立てかけました。高橋が機関部を狙撃できます」
『距離は?』
「約百メートルです」
『犯人との位置関係は?』
「猟銃のすぐ近くにいます。ただし、高橋は銃だけを狙撃できると判断しています」
少し間があった。
『よし。高橋に撃たせろ。フリーダ班はその直後に制圧射撃。犯人を小屋に釘づけにしろ。民警が到着するまで監視を続ける』
「了解」
エレナは高橋を振り返った。
「高橋、ヴァルターの命令よ。猟銃の機関部を撃って」
「はい」
フリーダ班にも射撃命令が伝えられた。
アルノーが高橋を見た。
「頼むぞ、高橋」
高橋は頷き、銃を構え直した。
照準の中に、壁に立てかけられた猟銃を捉える。
男は煙草を吸いながら、ぼんやりと森を眺めていた。
高橋は呼吸を整えた。
引き金を引く。
乾いた銃声が山中に響いた。
猟銃が激しく跳ねた。
機関部が砕け、金属片が飛び散った。
壊れた猟銃が壁から離れ、雪の上に転がった。
「うわっ!」
男が悲鳴を上げた。
何が起きたのかわからない様子で、壊れた猟銃を見つめている。
次の瞬間、慌てて小屋に駆け込んだ。
扉が閉まった。
間を置かず、別の方向から銃声が響いた。
フリーダ班だった。
小屋の周囲に次々と弾着があり、雪が跳ね上がる。
中にいる男たちは、完全に動きを封じられた。
高橋はそのまま小屋の扉を監視した。
「出てきませんね」
「ええ。ヴァルターの狙いどおりね」
エレナは双眼鏡で小屋を確認した。
「民警が来るまで、このまま監視よ」
「了解です」
フリーダ班では、イルマが双眼鏡を覗いていた。
「……今の、高橋?」
「そうよ」
フリーダが答えた。
「機関部だけ?」
「ええ」
イルマはもう一度、壊れた猟銃を見た。
「すごいね」
「高橋は狙撃手だからね」
「聞いてたけど」
イルマは双眼鏡を下ろした。
「驚いた」
隣にいたゾフィーが笑った。
「高橋の腕、初めて見た?」
「うん」
「なかなかでしょう?」
「うん。上手い」
イルマは再び双眼鏡を覗いた。
高橋がいる方向を見たが、雪の中に偽装された陣地は見つけられなかった。
「……どこにいるんだろ」
「さあね」
フリーダが笑った。
しばらくして、民警の捜索隊が到着した。
指揮していたのは、ヴァルターの友人である民警副署長だった。
年配の男で、山道を歩いてきたせいか、額に汗を浮かべていた。
「まったく。こんな山奥まで逃げ込みやがって」
副署長は狩猟小屋を見上げた。
「二人とも中か?」
フリーダが答えた。
「ええ。武器は猟銃一丁を確認。外に置いたところを撃って破壊したわ」
「ほう」
副署長は雪の上に転がる猟銃を見た。
機関部が破壊され、使い物にならなくなっていた。
「なるほど。こいつは助かった」
「ほかにも武器を持っている可能性はあるわ。注意して」
「ああ、わかってる」
副署長は部下たちに指示を出した。
民警たちは小屋を包囲し、犯人に投降を呼びかけ始めた。
副署長はフリーダたちを振り返った。
「協力に感謝する。あとは我々で対応する」
「了解。こちらは訓練に戻ります」
「ヴァルターにも礼を言っておいてくれ」
「伝えておくわ」
副署長は苦笑した。
「毎年ここに来ているのを知っていてよかった。あいつの部下なら山の中でも安心して任せられる」
フリーダは笑った。
「本人が聞いたら喜ぶわね」
「調子に乗るから、あまり褒めるなよ」
二人は笑い合った。
浸透偵察小隊の隊員たちは、民警に現場を引き継ぐと、再び訓練へ戻った。
フリーダ班とエレナ班は、最後の集合地点に向かって移動を始めた。
しばらく歩いたところで、イルマが高橋に声をかけた。
「高橋」
「はい?」
「さっきの射撃」
「ああ、猟銃ですか?」
「うん。すごかった」
「ありがとうございます」
「驚いた」
イルマは少し考えた。
「また見たい」
「射撃訓練なら、いつでも」
「うん」
それだけ言うと、イルマは再び歩き始めた。
高橋は少し不思議そうに彼女の背中を見た。
隣を歩いていたゾフィーが笑っている。
「イルマ、よっぽど感心したみたいね」
「そうなんですか?」
「そうよ。あの人、気に入らないものには興味を示さないから」
「はあ……」
高橋には、いまひとつよくわからなかった。
午後になり、一行は最後の集合地点に近づいた。
途中、フリーダ班は先に進み、エレナ班は指定された最後の観測地点を確認してから集合することになった。
山の斜面を回り込むと、木々の間から白い湯気のようなものが見えた。
「……煙?」
高橋が呟いた。
「火事じゃないわよ」
エレナが笑っている。
「じゃあ、何ですか?」
「行けばわかるわ」
妙に楽しそうだった。
さらに進むと、水の流れる音が聞こえてきた。
雪に覆われた谷間に、岩場が広がっている。
その奥から白い湯気が立ち上っていた。
そして、そこにはヴァルターがいた。
「おう、来たか!」
いつものように豪快な声だった。
「どうだった、冬の山は?」
「疲れました」
高橋は即答した。
ヴァルターが笑った。
「そうか、そうか。じゃあ、最後のお楽しみだ」
「お楽しみ?」
「見てみろ」
ヴァルターが指差した。
高橋は岩場の奥を覗き込んだ。
そこには、湯気を上げる大きな湯船があった。
周囲を岩と木材で囲み、天然の温泉をためたものらしい。
雪景色の中で、湯面から白い湯気がもうもうと立ち上っている。
「……温泉?」
「そうだ」
ヴァルターは得意そうに胸を張った。
「うちの小隊自慢の露天風呂だ!」
高橋は目を丸くした。
「こんなところに温泉があるんですか?」
「昔から湯は湧いていたんだがな。小隊の連中が訓練のたびに少しずつ手を入れて、ここまで作ったんだ」
周囲を見回すと、確かに手作りらしい。
岩を積んだ部分もあれば、木材で補強された部分もある。
近くには簡単な脱衣場所まで設けられていた。
「すごいですね……」
「だろう? 冬場の訓練は、これが楽しみでな」
ヴァルターは笑った。
「お前も入ってこい。冷えた身体には最高だぞ」
その時、湯船の方から声がした。
「高橋!」
イルマだった。
湯気の向こうから手を振っている。
どうやらフリーダ班は、先に入浴を始めていたらしい。
「早くおいで!」
フリーダの声も聞こえた。
リーナとゾフィーも、すっかりくつろいでいる様子だった。
高橋は呆気に取られた。
つい先ほどまで、雪の中で強盗犯を包囲していた人たちである。
それが今は、山奥の温泉でのんびりしている。
「……なんというか、すごい小隊ですね」
ヴァルターが大笑いした。
「何を今さら! これがうちの小隊だ!」
エレナも笑っていた。
「さあ、高橋。私たちも入りましょう」
高橋はもう一度、湯気の立つ露天風呂を眺めた。
雪山の行軍。
寒さに震えたビバーク。
観測と潜伏の繰り返し。
そして、思いがけない強盗犯の追跡。
いろいろなことがあった数日間だった。
その締めくくりが、まさか露天風呂とは。
「……確かに、お楽しみですね」
高橋が呟くと、ヴァルターが振り返った。
「何をぼさっとしている。さっさと服を脱げ!」
そう言うと、ヴァルターは高橋を追い越して脱衣場所へ向かった。
手際よく軍服を脱ぎ、さっさと湯船へ入ってしまった。
「おお、いい湯だ!」
豪快な声が響いた。
高橋も装備を降ろし、服を脱いだ。
冷たい空気に思わず身を縮める。
慌てて湯船に入ると、自然に声が出た。
「ああ……暖かい」
数日間、雪山を歩き回っていた身体に、温泉の熱が染み渡った。
「どうだ、高橋。最高だろう?」
「はい。これはいいですね」
「そうだろう、そうだろう!」
ヴァルターは満足そうに笑った。
高橋は湯船の縁に寄りかかり、ほっと息をついた。
雪に囲まれた谷間で、温泉に浸かっている。
こんな贅沢があるとは思わなかった。
少し離れたところでは、フリーダたちが楽しそうに話していた。
そのとき、エレナが湯気の向こうから近づいてきた。
「高橋、どう? 気持ちいい?」
「はい。最高です」
エレナは笑いながら、高橋の隣に腰を下ろした。
高橋は思わずどきりとした。
普段から一緒にシャワーを浴びることもある。今さら慌てるような間柄ではないはずだった。
それなのに、雪景色を背に、ゆったりと温泉に浸かるエレナは、いつもとは少し違って見えた。
湯気のせいだろうか。
いつも親しく接してくれるエレナが、妙に大人びた雰囲気をまとっているように感じられた。
高橋は何となく目をそらした。
「どうしたの?」
「い、いえ。何でもないです」
「変な高橋」
エレナは不思議そうに首を傾げた。
その様子を、ヴァルターは見逃さなかった。
高橋のそばに寄ると、耳元で小さく囁いた。
「いい女だろう?」
「…………」
高橋は何も答えられなかった。
ヴァルターは高橋の顔を見て、にやりと笑った。
そして何事もなかったように湯船へ肩まで浸かり、満足そうに息を吐いた。
高橋は黙って湯気の向こうを見つめた。
どうにも、この小隊の人たちにはかなわない。
雪山での厳しい訓練は、こうして終わった。
数日後には、いよいよ中部戦線へ向けて出発する。
だが、今は誰もそんな話をしていなかった。
雪の積もった谷間の露天風呂には、浸透偵察小隊の賑やかな声がいつまでも響いていた。