勇者連隊戦記   作:バグスター

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帝国歴232年1月下旬


第2節 最後の演習

一月も下旬に入り、ベルノ連隊では中部戦線への派遣に向けた最後の訓練が行われていた。

 

歩兵中隊に課せられたのは、三日間にわたる塹壕戦闘訓練だった。これまでにも塹壕の構築や戦闘配置については教わっていたが、今回は実際の前線生活を想定し、食事も睡眠も陣地内で行うことになっている。

 

訓練場には、雪に覆われた地面を切り裂くように幾筋もの塹壕が掘られていた。人の背丈ほどもある深い溝が曲がりくねりながら続き、その先には機銃陣地や掩体壕が設けられている。地面はところどころ凍りつき、木材で補強された塹壕の壁には白い霜が付着していた。

 

第1歩兵中隊の兵士たちは、それぞれの小隊に分かれて集合していた。

 

その中に、井上翔太の姿もあった。

 

井上は第20期召喚者の一人で、同期の中でも軍事関係の知識が豊富な、いわゆる軍オタだった。日本にいた頃から軍事関係の本や資料を読むのが好きで、兵器の性能や軍隊の編成、過去の戦争における戦術などについては、かなり詳しい知識を持っていた。

 

もっとも、知識と体力は別の話だった。

 

召喚された当初の井上は小太りで、基礎訓練では随分と苦労したものだった。しかし、あれから半年。毎日の行軍や体力訓練、歩兵中隊に配属されてからの厳しい訓練によって、身体はかなり引き締まっていた。

 

以前は腹のあたりが窮屈だった軍服にも、今では余裕がある。本人もその変化には満足していたが、だからといって軍隊生活が楽になったわけではない。

 

それでも、井上は訓練そのものには興味を持っていた。

 

これまで本でしか知らなかった兵器や戦術を、実際に自分で扱い、経験することができる。軍事好きの井上にとって、それは興味深いことだった。

 

ただし、もうすぐ向かうのは訓練場ではなく、本物の戦場である。

 

そのことも、十分に理解しているつもりだった。

 

「おい、井上。何をそんなに眺めてるんだ?」

 

隣から声をかけてきたのは、同じ第20期の川崎晴斗だった。

 

「塹壕だよ。思ったよりしっかり造ってあるなと思ってさ」

 

「そりゃ訓練用だって、崩れたら困るだろ」

 

「そうだけど、掩体壕まであるとは思わなかったんだ」

 

川崎は興味深そうに塹壕を覗き込んだ。

 

「俺にはただの溝にしか見えないけどな」

 

「中に入ればわかるよ」

 

そんなことを話していると、小隊長が兵士たちの前に立った。

 

「よし、全員集まったな。これから三日間、ここで塹壕戦闘訓練を行う。前線が初めてという者も多いだろうから、最初に基本的なことを説明しておく」

 

兵士たちが姿勢を正した。

 

小隊長は背後の塹壕を指差した。

 

「まず覚えておいてほしいのは、我々のような地方領主軍の役割は、基本的に防御だということだ。帝国軍には敵陣地への攻撃を担当する部隊もあるが、我々がそのような任務を命じられることは、まずない」

 

小隊長は兵士たちを見回した。

 

「敵の塹壕に突撃して、銃剣で敵兵を倒すような戦闘を想像している者もいるかもしれん。だが、そんなことは考えなくていい。我々の任務は、与えられた陣地を守り、敵を突破させないことだ」

 

そう言って、持参した地図を広げた。

 

「それから、戦線についても説明しておこう。お前たちは戦線と聞くと、長い塹壕に兵士が隙間なく並んでいると思うかもしれんが、実際は違う」

 

地図には、複数の陣地が間隔を置いて描かれていた。

 

「各部隊は、互いの火力が届く範囲で分散して陣地を構える。すべての場所に兵士を配置するほど、我々には人員がいないからな」

 

一人の兵士が手を上げた。

 

「小隊長、陣地と陣地の間には誰もいないんですか?」

 

「常に兵士が立っているわけではない。だからこそ、その間を監視する必要がある」

 

小隊長は地図上の空白部分を指差した。

 

「敵の偵察兵が、こうした隙間を抜けてくることがある。敵も馬鹿ではない。正面から攻撃するばかりではなく、手薄な場所を探しているんだ」

 

井上が頷いた。

 

「浸透偵察ですね」

 

「そのとおりだ。敵の偵察兵に陣地の位置や兵力を知られれば、敵の砲兵に情報が渡ることもある」

 

今度は川崎が手を上げた。

 

「小隊長、敵の偵察兵を見つけたら追いかけるんですか?」

 

「いや、勝手に追いかけるな。まず報告しろ。お前たちが持ち場を離れれば、そこに新しい隙ができる。逃げられた場合も、人数や移動した方向を報告すればいい。後方には別の警戒部隊もいるからな」

 

川崎は納得したように頷いた。

 

小隊長は地図を畳みながら、兵士たちに言い聞かせた。

 

「歩兵の仕事は、敵が突撃してきた時に銃を撃つことだけではない。監視と警戒も重要な任務だ。何も起きない日が何日も続くこともあるが、それでも油断するな。たった一度の見落としが、分隊全員の命取りになることもあるんだ」

 

説明を終えると、兵士たちは塹壕の中へ降りていった。

 

地上から眺めている時にはそれほど感じなかったが、実際に中へ入ると、思った以上に狭かった。深さは十分にあるものの、通路の幅は人がすれ違うのにも苦労するほどで、ところどころに設けられた曲がり角では、背負った装備が壁に引っかかりそうになる。

 

靴底を通して、凍りかけた土の硬さが伝わってきた。

 

「なるほどな……」

 

井上が塹壕の壁を眺めていると、小隊長が近くの補強材を叩いた。

 

「塹壕の建設や大きな修繕は、基本的に工兵の仕事だ。だが、お前たち自身も陣地の状態には気を配れ。壁が崩れかけている、排水が悪い、補強材が傷んでいる。そんなところを見つけたら、すぐに分隊長へ報告するんだ」

 

小隊長は足元を指差した。

 

「小さな問題なら自分たちで直せることもある。工兵が来るまで何もしないで待っていたら、その間に塹壕が使えなくなるかもしれんからな」

 

一人の兵士が塹壕の縁を見上げた。

 

「小隊長、塹壕は地面の中にありますけど、敵から見えるんですか?」

 

「掘り返した土や土嚢、機銃陣地は意外と目立つ。だから偽装が必要なんだ。敵の偵察兵に位置を知られれば、砲兵の集中砲火を浴びると思え」

 

小隊長は塹壕の外へわずかに顔を出し、すぐに身を引っ込めた。

 

「それに、こんなふうに何度も頭を出していれば、敵の観測兵や狙撃兵に見つかる。必要もないのに塹壕から身を乗り出すなよ」

 

兵士たちが頷いたところで、小隊長はさらに奥へ進み、掩体壕の入口で足を止めた。

 

「次は敵の砲撃を受けた場合だ。砲撃が始まったら、速やかに掩体壕へ退避しろ。塹壕にいるから安全だと思うな。そのまま残っていたら、爆風で吹っ飛ばされるぞ」

 

井上は入口の奥を覗き込んだ。

 

掩体壕は塹壕よりも深い位置に造られ、天井も太い木材と土で補強されていた。内部は薄暗く、入口から冷たい空気が流れ込んでいる。

 

「自分の持ち場から、どこの掩体壕へ退避するのか、あらかじめ確認しておけ。砲撃が始まってから探すようでは遅い」

 

そこで川崎が手を上げた。

 

「小隊長、砲撃中に敵が突撃してきたらどうするんですか?」

 

「基本的に、敵も砲撃している間は突撃してこない」

 

小隊長は笑った。

 

「誰だって味方の砲撃で殺されるのは嫌だからな」

 

兵士たちの間から小さな笑い声が漏れた。

 

「もちろん例外はあるが、通常は砲撃が終わってから歩兵が突撃してくる。敵は砲撃で我々の陣地を叩き、その直後に歩兵を突入させようとするんだ」

 

小隊長は掩体壕の入口から振り返った。

 

「だから砲撃が止んだら、すぐに戦闘配置へ戻れるようにしておけ。敵が来てから慌てて機関銃を据えていたんじゃ間に合わん。砲撃中に無駄死にするな。だが、砲撃が終わったからといって安心するなよ」

 

午後からは、砲撃を想定した退避訓練が始まった。

 

各分隊が所定の位置につくと、教官の号令が塹壕に響いた。

 

「敵砲撃! 掩体壕へ退避!」

 

兵士たちが一斉に動き始めた。

 

井上も小銃を抱えて交通壕へ向かったが、同じように退避する兵士たちが狭い通路に集まり、思うように進めない。

 

前の兵士の背嚢が壁に引っかかり、後ろから来た者が危うくぶつかりそうになった。

 

「押すな! 順番に入れ!」

 

分隊長の怒鳴り声が響く。

 

井上は前の兵士が入口を抜けるのを待ち、ようやく掩体壕へ潜り込んだ。

 

中に入ると、外の風が少し弱まった。木材で補強された天井が頭上に迫り、兵士たちの荒い息遣いが狭い空間にこもっている。

 

「全員入ったか!」

 

分隊長が人数を確認する。

 

やがて、砲撃終了の号令がかかった。

 

「砲撃終了! 敵歩兵接近! 戦闘配置につけ!」

 

今度は一斉に掩体壕から飛び出した。

 

井上は人の流れに合わせて交通壕を進み、ようやく自分の持ち場へ戻って小銃を構えた。

 

機銃班もG12の射撃準備を整えている。

 

「遅いぞ! 敵は待ってくれん!」

 

小隊長の声が飛んだ。

 

訓練は何度も繰り返された。退避と戦闘配置、敵発見時の報告、射撃担当区域の確認。最初は兵士同士がぶつかっていた交通壕も、回数を重ねるにつれて混乱が少なくなっていった。

 

それでも、狭い塹壕を何度も行き来するのは想像以上に体力を使った。

 

夕方になる頃には、井上も川崎もすっかり息を切らしていた。

 

日が暮れると、塹壕の中は急速に暗くなった。

 

地上を吹く風が雪を巻き上げ、塹壕の縁から細かな雪が降り込んでくる。兵士たちはそれぞれの持ち場を片づけると、後方から運ばれてきた夕食を受け取った。

 

大きな容器に入った温かいスープとパンだった。

 

「うまいな」

 

川崎は湯気の立つスープを口に運び、満足そうに息を吐いた。

 

「寒いからな。温かいだけでありがたいよ」

 

井上もスープをすすった。

 

しかし、食事をしている間にも冷たい風が吹き込み、スープはみるみる冷めていった。兵士たちはパンをかじりながら、少しでも風を避けられる場所に身体を寄せている。

 

「これ、冬の前線でも毎日やるんだよな」

 

川崎が呟いた。

 

「そうだろうな」

 

「雪が降ってても?」

 

「当然だろ」

 

「……大変だな」

 

井上はパンを口に運びながら、塹壕の壁を眺めた。

 

戦争の本では、塹壕の構造や防御戦術について何度も読んだことがあった。しかし、その中で食事をし、眠り、何日も生活するということについては、あまり考えたことがなかった。

 

食事を終えると、兵士たちは掩体壕に戻って寝床の準備を始めた。

 

内部には板敷きの床が設けられ、簡単な寝床も用意されている。壁際には各自の荷物が並び、薄暗い空間に湿った軍服や革製品の匂いがこもっていた。

 

「やっと休めるな」

 

川崎は毛布を広げ、そのまま横になろうとした。

 

「ちょっと、あんたたち」

 

突然、後ろから声をかけられた。

 

振り返ると、日本人の女性上等兵が立っていた。

 

三田村千里上等兵。第18期召喚者で、井上たちより二年先輩にあたる兵士だった。

 

「何やってるの?」

 

「寝る準備ですけど」

 

川崎が答えた。

 

「装備は?」

 

「ここにあります」

 

川崎は足元に置いた荷物を指差した。

 

三田村は呆れた顔をした。

 

「あんたねえ。夜中に敵が来たらどうするの? 暗闇で装備を探すつもり?」

 

「あっ……」

 

「銃も装備も、すぐ手が届くところにまとめておきなさい。寝ぼけていても持って出られるようにね」

 

川崎が慌てて荷物をまとめ始めたところへ、今度は男性の声がした。

 

「井上、その荷物も邪魔だぞ」

 

声をかけてきたのは、飯島仁上等兵だった。

 

三田村と同じ第18期の日本人兵士で、井上が通路脇に置いた背嚢を指差している。

 

「そこは人が通る場所だ。夜中に誰かが踏んだらどうする?」

 

「あ、すみません」

 

井上は慌てて背嚢を引き寄せた。

 

「狭いんだから、余計なものを広げるなよ。自分たちだけで使っているわけじゃないんだからな」

 

飯島はそう言いながら、ほかの兵士の荷物も確認していた。

 

三田村も井上たちの足元を見て、再び口を開いた。

 

「それと二人とも、靴下は替えておきなさい。濡れたまま寝ると足が冷えるわよ。明日の朝、足が痛いなんて言わないでね」

 

「はい」

 

川崎が素直に返事をすると、三田村は少し笑った。

 

「まあ、最初はそんなものよ。私も先輩によく怒られたから」

 

「三田村さんもですか?」

 

井上が尋ねた。

 

「当たり前でしょう。最初から何でもできる人なんていないわよ」

 

飯島が横から笑った。

 

「三田村は今でもよく怒られてるけどな」

 

「飯島、余計なこと言わないで」

 

「はいはい」

 

川崎が思わず笑うと、三田村はそちらへ顔を向けた。

 

「何笑ってるの。さっさと片づけなさい」

 

「はい!」

 

慌てて姿勢を正した川崎を見て、飯島がまた笑った。

 

「まあ、前線に行けば嫌でも覚えるさ。今のうちに失敗しておけ」

 

そう言い残して、二人は掩体壕の奥へ戻っていった。

 

井上は片づけた荷物を見下ろした。

 

小銃や装備の置き方一つにも、実際に生活してみなければわからないことがあるらしい。

 

「……結構細かいな」

 

川崎が小声で言った。

 

「でも、言ってることはもっともだろ」

 

井上は毛布を広げ直した。

 

狭い掩体壕の中では、すぐ隣に別の兵士が横になっている。誰かが寝返りを打つたびに床板がきしみ、あちこちから咳払いや衣擦れの音が聞こえた。

 

その夜、井上と川崎には夜間警戒の当番が割り当てられていた。

 

二人はようやく眠りについたと思った頃、交代の兵士に肩を揺すられた。

 

「井上、川崎。交代の時間だ」

 

「……はい」

 

井上は眠い目をこすりながら起き上がった。

 

掩体壕から外へ出ると、刺すような冷気が顔に当たった。昼間とは違って風が弱まっていたものの、空気そのものが冷え切っており、吐く息が白く広がる。

 

「寒っ!」

 

川崎が小さく声を上げた。

 

「静かにしろ。敵に聞こえるぞ」

 

交代する兵士に注意され、川崎は慌てて口を閉じた。

 

もちろん、ここは訓練場である。しかし、夜間警戒については実戦と同じように行動するよう命じられていた。

 

二人は監視場所についた。

 

塹壕の外には、月明かりに照らされた雪原が広がっていた。遠くの林は黒い影となって浮かび上がり、風が吹くたびに木々の枝から雪が落ちる。

 

「……何も見えないな」

 

川崎が呟いた。

 

「だから監視するんだろ」

 

「それはそうだけどさ」

 

しばらくは二人とも黙って前方を眺めていた。

 

だが、寒さと眠気に耐えているうちに、川崎が再び話しかけてきた。

 

「井上、日本にいた頃、こんな生活すると思ってたか?」

 

「思うわけないだろ」

 

「だよなあ。俺なんか、今頃は暖かい布団で寝てたはずなのに」

 

「ゲームでもしてたんじゃないか?」

 

「そうそう。それで夜更かししてさ……」

 

二人が小さく笑ったところで、背後から声がした。

 

「おい、お前たち」

 

振り返ると、飯島が立っていた。

 

「何を楽しそうに話してるんだ?」

 

「すみません!」

 

川崎が慌てて姿勢を正した。

 

「声が大きい。夜は思った以上に響くぞ。それに、二人で顔を見合わせてどうする。前を見ろ」

 

井上も慌てて前方へ視線を戻した。

 

飯島は二人の間から雪の積もった斜面を眺めた。

 

「退屈なのはわかる。寒いし眠いし、何も起きなきゃ誰だって気が緩む。だが、敵だって夜に動くんだぞ」

 

二人は黙って聞いていた。

 

「前線では、本当に敵がいるからな。見張りが油断したせいで、仲間が危険な目に遭うことだってある。自分だけの問題じゃないんだ」

 

「はい」

 

飯島は二人の様子を確認すると、少し声を和らげた。

 

「まあ、最初は大変だろうけどな。もう少し頑張れ」

 

そう言って、塹壕の奥へ戻っていった。

 

しばらく沈黙が続いた。

 

「……怒られたな」

 

川崎が小声で呟いた。

 

「ああ」

 

井上は双眼鏡を構え直した。

 

月明かりの下、雪に覆われた林は静まり返っている。何も動くものは見えず、聞こえてくるのは時折吹く風の音だけだった。

 

それでも、目を離すわけにはいかなかった。

 

昼間、小隊長が話していたことを思い出す。

 

何も起きない日が何日も続く。

 

それでも監視を怠るな。

 

井上は冷えた指先を動かし、もう一度双眼鏡を覗いた。

 

翌朝、井上は分隊長の声で目を覚ました。

 

「起床! 全員起きろ!」

 

掩体壕の中では、兵士たちが毛布を押しのけ、眠そうな顔で身体を起こしていた。夜間警戒で途中何度か起こされたせいか、十分に眠った気がしない。硬い寝床で身体のあちこちが痛み、毛布から出るのも億劫だった。

 

隣では川崎がまだ目を閉じていた。

 

「川崎、起きろ」

 

「あと五分……」

 

「駄目だって」

 

井上が肩を揺すると、川崎はようやく起き上がった。

 

「……身体が痛い」

 

「俺もだよ」

 

二人は顔を見合わせ、苦笑した。

 

掩体壕の外へ出ると、塹壕の縁には新しい雪が積もっていた。夜の間に降った雪が交通壕の底にも吹き込み、ところどころ足元が白くなっている。

 

兵士たちは朝食の前に、通路の雪を取り除き、陣地の状態を確認するよう命じられた。

 

「これも毎朝やるのか……」

 

川崎がスコップで雪をかき出しながら呟いた。

 

「放っておいたら通れなくなるだろ」

 

井上も隣で作業を続けた。

 

積もった雪の下には凍った土があり、スコップを差し込むたびに硬い感触が腕に伝わった。朝から身体を動かしていると、寒さは少し和らいだものの、今度は軍服の内側に汗がにじんでくる。

 

そこへ飯島がやってきた。

 

「おい、そこだけじゃなくて、排水溝も確認しておけよ」

 

「はい」

 

「今は凍っているからいいが、昼間に雪が解けると水がたまる。排水が悪いと塹壕の底が泥だらけになるぞ」

 

井上は足元の細い溝を覗き込んだ。

 

土や雪が詰まりかけている。

 

「なるほど……」

 

「なるほどじゃなくて、手を動かせ」

 

「はい!」

 

川崎が隣で笑った。

 

「井上、また怒られたな」

 

「お前も手伝えよ!」

 

そんなやり取りをしながら作業を終えると、兵士たちは朝食を受け取った。

 

冷えた身体に温かい食事が入ると、ようやく目が覚めた気がした。とはいえ、のんびりしていられる時間は短い。朝食を終えた兵士たちは、それぞれの持ち場へ移動していった。

 

二日目は、敵歩兵の突撃を想定した防御戦闘と、塹壕内での白兵戦闘が予定されていた。

 

小隊長は兵士たちを機銃陣地の前に集めた。

 

そこには、三脚に据えられたG12機関銃があった。

 

帝国軍の主力小銃G11と同じ7.92mm弾を使用する、ベルト給弾式の空冷機関銃だった。銃のそばには予備の銃身や弾薬箱が並べられ、機銃班の兵士たちが装備を確認している。

 

「さて、敵の歩兵が突撃してきた場合だ」

 

小隊長は機関銃を指差した。

 

「魔族軍は、砲撃のあとに歩兵を突撃させてくることが多い。これを防ぐ中心になるのが、このG12だ。小銃だけでは、多数の敵が一度に押し寄せてきた場合に対処しきれない」

 

井上は興味深そうに機関銃を眺めていた。

 

これまでにもG12の取り扱いについては学んでいたが、実際の陣地に据えられた姿を見ると、兵器としての役割がよくわかる。

 

「機銃班は射撃を続けるだけではない。G12は空冷式だから、撃ち続ければ銃身が過熱する。必要に応じて交換しなければならん。機銃手と助手の連携が重要になる」

 

小隊長は機銃班の兵士たちを見回した。

 

「敵が来てから弾薬を探すような真似はするなよ。配置についた時点で、必要な装備が揃っているか確認しておくんだ」

 

そして、少し離れた場所に置かれた砲を指差した。

 

「それから、各歩兵中隊には45mm速射砲が一門ずつ配備されている。通称、中隊砲だ」

 

小型の火砲だった。

 

大口径の野砲に比べれば小さく、歩兵中隊が直接使用する支援火器として扱われている。

 

「これは敵の歩兵集団や陣地に対して使用する。機関銃だけでは対処できない相手にも火力を集中できる」

 

小隊長の説明を聞いていた井上が手を上げた。

 

「小隊長、質問があります」

 

「なんだ、井上」

 

「この装備では、敵の戦車に対抗できないのではありませんか?」

 

小隊長は井上を見た。

 

「戦車か」

 

「はい。45mm砲でも、相手の装甲によっては貫通できないと思います。それに、機関銃ではどうにもならないでしょうし」

 

小隊長は頷いた。

 

「そのとおりだ。中隊砲は戦車を相手にするための装備ではない」

 

「では、戦車が攻めてきた場合はどうするんでしょうか?」

 

「敵も戦車を保有しているが、お前たちが前線で実際に見かけることは、まずないだろう」

 

井上は少し意外そうな顔をした。

 

「そんなに少ないんですか?」

 

「ああ。戦車は製造にも運用にも莫大な費用がかかる。特に燃料の問題が大きい。魔族軍も大量に保有しているわけではないからな」

 

小隊長は続けた。

 

「戦車が投入されるのは、敵が大規模な攻勢をかけるような重要な戦線だ。我々のような地方部隊が担当する陣地とは事情が違う」

 

「なるほど……」

 

「もちろん、絶対に現れないとは言わん。戦車が確認された場合は速やかに報告し、上級部隊の指示を受ける。普通の歩兵中隊だけで何とかしようとするな」

 

井上は納得したように頷いた。

 

小隊長は兵士たちを見回した。

 

「お前たちがまず覚えるべきなのは、敵の砲撃に耐え、その後の歩兵突撃を防ぐことだ。機関銃も中隊砲も、そのためにある」

 

そこで別の兵士が手を上げた。

 

「小隊長、敵が一度に大勢攻めてきた場合はどうするんですか?」

 

「自分たちだけで全部を相手にする必要はない。隣の陣地とも連携するし、後方には砲兵もいる。だが、そのためには敵の状況を正しく報告しなければならん」

 

小隊長は塹壕の前方を指差した。

 

「敵がどこから来ているのか、どのくらいの数がいるのか。見つけたらすぐに報告するんだ。勝手な判断で持ち場を離れるなよ」

 

兵士たちが頷いたところで、小隊長は号令をかけた。

 

「よし、各分隊、配置につけ!」

 

午前中は、防御戦闘の訓練が繰り返された。

 

兵士たちはそれぞれの持ち場につき、敵役の動きを監視した。離れた場所に設けられた標的や合図に合わせて、敵歩兵の接近を報告し、機銃班と小銃手が射撃を行う想定で行動する。

 

「前方に敵歩兵接近!」

 

「分隊長に報告!」

 

「機銃班、準備!」

 

号令が飛び交い、兵士たちが塹壕の中を行き来する。

 

時には敵が正面から、時には側面から接近してくる想定となり、そのたびに小隊長や分隊長から新しい指示が出された。

 

井上は小銃を構えながら、周囲の動きを確認していた。

 

自分の射撃担当区域ばかりを気にしていると、隣の兵士の動きが見えなくなる。反対に周囲を気にしすぎると、今度は前方への注意がおろそかになる。

 

「井上! 自分の持ち場を確認しろ!」

 

「はい!」

 

慌てて前方へ視線を戻した。

 

何度も繰り返すうちに、兵士たちの動きは少しずつ滑らかになっていった。しかし、途中で教官が想定を変えると、すぐに混乱が生じる。

 

井上は改めて、実際の戦闘が教科書どおりに進むわけではないことを感じていた。

 

昼食を終えた兵士たちは、午後から白兵戦闘訓練に移った。

 

「次は銃剣だ!」

 

小隊長の声が響いた。

 

「敵が塹壕に侵入してきた場合を想定する」

 

兵士たちの前に、土嚢を詰めた標的が運び込まれた。

 

「基本的には、敵を塹壕に近づける前に倒す。だが、必ず防げるとは限らん。弾が切れたり、装填が間に合わないこともある」

 

小隊長はG11小銃を手に取り、先端に訓練用の銃剣を取り付けた。

 

「塹壕の中は狭い。小銃を自由に振り回せると思うなよ」

 

井上たちは順番に訓練を始めた。

 

「始め!」

 

号令とともに、井上は前方の標的へ銃剣を突き出した。

 

鈍い感触が手に伝わる。

 

続いて塹壕の曲がり角へ移動し、次の標的に向かおうとしたところで、小銃の銃身が壁に当たった。

 

「井上! 周囲をよく見ろ! ここは広い訓練場じゃないぞ!」

 

「はい!」

 

井上は慌てて構え直した。

 

地上で行った銃剣訓練では、周囲に十分な空間があった。だが、塹壕内では少し身体の向きを変えるだけでも壁が邪魔になる。

 

「井上、お前でも失敗するんだな」

 

後ろで順番を待っていた川崎が苦笑した。

 

「実際にやってみると難しいんだよ」

 

「そうみたいだな」

 

やがて川崎の順番になった。

 

ところが、川崎も曲がり角で小銃を壁にぶつけてしまった。

 

「川崎! 銃を壁に引っかけるな!」

 

「はい!」

 

今度は井上が笑った。

 

「人のこと言えないじゃないか」

 

「うるさいな。お前だって同じだろ」

 

二人は顔を見合わせて苦笑した。

 

川崎はもともと運動が得意で、体力にも自信があった。しかし、狭い塹壕では身のこなしがよいだけで何とかなるわけではないらしい。

 

何度か繰り返すうちに、二人とも軍服の袖や膝を泥で汚し、額に汗を浮かべていた。

 

銃剣訓練が終わると、今度はスコップが配られた。

 

小隊長は短い柄のスコップを持ち上げた。

 

「次はこいつだ。普段は土を掘るための道具だが、いざとなれば武器にもなる。塹壕では、小銃を使えないほど狭い場所もあるからな」

 

一人の兵士が尋ねた。

 

「小隊長、本当にスコップで戦うことがあるんですか?」

 

「ある。だが、好んでそんな戦闘をするなよ。敵がそこまで近づいた時点で、状況は相当悪いと思え」

 

兵士たちに配られた訓練用のスコップは、実物と同じ大きさだったが、安全のため縁が丸められていた。

 

塹壕内に設置された標的に向かい、順番に打撃訓練を行う。

 

井上はスコップを握り直した。

 

小銃とは重さも感触も違う。振り下ろして標的に当てると、想像していた以上の衝撃が腕へ伝わってきた。

 

何度か繰り返すうちに、肩から腕にかけて重い疲労が残った。

 

「……これ、結構きついな」

 

井上が呟くと、隣で訓練していた川崎も息を切らしながら頷いた。

 

「銃剣の方がまだ楽じゃないか?」

 

「状況によるだろうな」

 

川崎は手にしたスコップを見下ろした。

 

「こんなので戦うことになるのか……」

 

それまで冗談を言い合っていた二人も、少し黙り込んだ。

 

日本にいた頃、井上は戦車や砲兵、機関銃の性能について、いろいろと調べていた。

 

戦術についても、それなりに知識があるつもりだった。

 

だが、今こうして狭い塹壕の中でスコップを握っていると、そんな知識とはまったく別の現実を感じる。

 

戦車の装甲厚や砲の射程距離を覚えるのとは違う。

 

敵が目の前に現れ、自分が握っているスコップで戦わなければならなくなる。

 

そんな状況を、井上はこれまで真剣に想像したことがなかった。

 

二日目の訓練が終わる頃には、井上たちはすっかり疲れ切っていた。

 

夕食が運ばれてくると、兵士たちはそれぞれ風を避けられる場所を探し、食事を始めた。

 

昨日よりも食事の手際はよくなっていた。配給を受け取る順番にも慣れ、食器や装備の置き場所をめぐって注意されることも少なくなっている。

 

「腕が上がらない……」

 

川崎がスープの入った器を持ちながらぼやいた。

 

「俺もだよ」

 

井上も疲れた腕を動かし、パンをちぎった。

 

「それにしても、ずっと塹壕にいると、時間の感覚がおかしくなるな」

 

「まだ二日目だぞ」

 

「わかってるよ」

 

川崎はため息をついた。

 

「前線だと、何週間もここで暮らすんだろ?」

 

「場合によっては何か月もじゃないか?」

 

「……勘弁してくれ」

 

そこへ三田村がやってきた。

 

「何の話?」

 

「前線では何か月も塹壕で暮らすのかって話です」

 

井上が答えた。

 

「そうね。交代はあるけど、長い時はかなり長いわよ」

 

三田村は二人の隣に腰を下ろした。

 

「最初は大変だけど、そのうち慣れるわ」

 

「慣れるものなんですか?」

 

川崎が尋ねた。

 

「慣れないとやってられないでしょう?」

 

三田村は笑った。

 

ちょうどそこへ、飯島も食事を持ってやってきた。

 

「まあ、塹壕生活は退屈な時間も多いけどな」

 

「敵が来ないんですか?」

 

井上が尋ねた。

 

「毎日戦闘しているわけじゃないさ。敵もこっちも、年中突撃しているわけじゃないからな」

 

飯島はスープをすすった。

 

「ただ、いつ敵が来るかわからない。それが厄介なんだ」

 

川崎は少し考えた。

 

「じゃあ、何も起きない日の方が多いんですか?」

 

「場所によるな。砲撃ばかり受ける場所もあるし、何週間も静かな場所もある」

 

三田村が口を挟んだ。

 

「静かな場所でも、見張りをさぼったら駄目よ。昨日みたいに、おしゃべりばかりしてちゃね」

 

「はい……」

 

川崎は少し気まずそうに答えた。

 

飯島が笑った。

 

「まだ言われてるのか、お前」

 

「飯島さんが先に怒ったんじゃないですか」

 

「それもそうだな」

 

四人は顔を見合わせて笑った。

 

三田村はパンをちぎりながら続けた。

 

「それに冬は寒いし、夏は暑いし、雨が降れば泥だらけ。決して快適な場所じゃないわね」

 

「お前、嫌なことばっかり教えるなよ」

 

飯島が苦笑した。

 

「本当のことでしょう?」

 

「まあな」

 

三田村はスープを飲み、少し表情を和らげた。

 

「でも、みんなで何とかやってるものよ。あんたたちも少しずつ覚えていけばいいの」

 

井上は黙って頷いた。

 

二年先輩の二人は、日本にいた頃なら少し年上の高校生程度の年齢である。しかし、前線を経験した二人の言葉には、これまで教官たちから聞いた説明とは違う重みがあった。

 

特に飯島が言った、いつ敵が来るかわからないという言葉が、井上には妙に印象に残った。

 

何日も戦闘が起きないことがある。

 

それでも、次の瞬間には敵の砲撃が始まるかもしれない。

 

そうした生活を何週間も、あるいは何か月も続けるのだ。

 

川崎はすでに食事を終え、眠そうに目をこすっていた。

 

「今日は早く寝たいな……」

 

「夜間警戒があるだろ」

 

井上が言うと、川崎はがっくりと肩を落とした。

 

その様子を見た三田村が、また笑った。

 

三日目の朝。

 

二度目の夜を塹壕で過ごした兵士たちは、前日よりも手際よく寝床を片づけていた。

 

初日のように通路へ荷物を置く者も少なくなり、朝の点検や雪かきも、それぞれが何をすればよいのか理解している。

 

もっとも、二日間の疲労は確実に蓄積していた。

 

井上も眠気を残したまま装備を整え、身体を伸ばした。背中から腰にかけて鈍い痛みがあり、昨日のスコップ訓練のせいか腕も重い。

 

隣では川崎が、いつもより静かに毛布を畳んでいた。

 

「今日は元気ないな」

 

井上が声をかけた。

 

「もう疲れたよ。早く兵舎に帰りたい」

 

「今日で最後だろ」

 

「そうだけどさ」

 

そこへ三田村が通りかかった。

 

「あら、今日はちゃんと片づけてるじゃない」

 

「三田村さんに怒られましたからね」

 

川崎が答えると、三田村は満足そうに笑った。

 

「よろしい。少しは覚えたみたいね」

 

飯島も井上の荷物を確認した。

 

「こっちも大丈夫そうだな」

 

「はい」

 

「三日で少しは覚えたか」

 

井上は笑った。

 

「だいぶ覚えました」

 

「まだまだだぞ」

 

飯島はそう言って、井上の肩を軽く叩いた。

 

三日目は、負傷者の救護と搬送を中心とした訓練が行われた。

 

小隊長は兵士たちを塹壕に集めた。

 

「止血や包帯の使い方は新兵訓練で習ったな。今日はそれを、この狭い塹壕の中でやってもらう」

 

小隊長は足元の通路を指差した。

 

「広い訓練場とは勝手が違うぞ。負傷者が倒れていても、周りには十分な場所がない。おまけに、敵の攻撃が続いていることもある」

 

兵士たちは周囲を見回した。

 

塹壕の幅は、二人が並んで歩くにも苦労するほどだった。ここに負傷者が倒れれば、それだけで通路の大部分が塞がってしまう。

 

「負傷者が出たからといって全員で集まるな。救護する者以外は警戒を続けるんだ。自分まで負傷してしまっては意味がないからな」

 

小隊長が分隊長たちに指示を出すと、それぞれの持ち場で訓練が始まった。

 

井上たちの分隊では、川崎が負傷者役になった。

 

「敵の砲弾の破片で脚を負傷したという想定だ」

 

分隊長の説明を受け、川崎は塹壕の底に横たわった。

 

井上は救急包帯を取り出し、川崎のそばにしゃがみ込んだ。

 

「……狭いな」

 

片膝をついただけで、通路の半分以上を塞いでしまう。

 

「井上、もう少しこっちへ寄ってくれ」

 

「これ以上寄れないよ」

 

「じゃあ、どうするんだ?」

 

「ちょっと待ってろ」

 

井上は身体の向きを変え、何とか処置を始めた。

 

新兵訓練では何度も練習した作業だったが、狭い塹壕の中では思うように腕を動かせない。背中が壁に当たり、川崎の脚を支えようとすると、今度は自分の膝が邪魔になった。

 

「井上、遅いぞ!」

 

分隊長から声が飛んだ。

 

「はい!」

 

「落ち着け。慌てて雑な処置をするな」

 

井上は一度手を止め、姿勢を整え直した。

 

周囲からは、別の兵士たちが訓練を続ける声や足音が聞こえてくる。頭上からは時折、細かな雪が落ちてきた。

 

井上は何とか処置を終え、分隊長へ報告した。

 

「終わりました!」

 

「よし。次は搬送だ」

 

担架が運び込まれた。

 

しかし、塹壕の底に置こうとすると、それだけで通路がいっぱいになってしまった。

 

「これ、どうやって運ぶんだ?」

 

井上が呟いた。

 

川崎は担架に横たわりながら笑った。

 

「よろしく頼むぞ」

 

「お前は気楽でいいよな」

 

「俺は負傷者だからな」

 

井上たちは担架を持ち上げ、交通壕を進み始めた。

 

最初の数メートルは何とか進めたものの、曲がり角に差しかかったところで、担架の端が壁に引っかかってしまった。

 

「おい、ぶつかるぞ!」

 

川崎が声を上げた。

 

「わかってるよ!」

 

「わかってるなら何とかしてくれ!」

 

後ろから分隊長の声が飛んだ。

 

「井上! 無理に通そうとするな。負傷者を落とすつもりか!」

 

「すみません!」

 

井上たちはいったん担架を降ろした。

 

狭い交通壕では、担架を運ぶだけでも数人の連携が必要だった。しかも、足元には凍った土や雪があり、少し油断すると滑ってしまう。

 

そこへ飯島がやってきた。

 

「どうした?」

 

「担架が曲がり角を通らなくて……」

 

井上が答えた。

 

飯島は交通壕を覗き込んだ。

 

「焦るな。担架を壊したら元も子もないぞ」

 

「はい」

 

「今は訓練だからいいけど、実戦じゃ負傷者が痛がって暴れることだってあるんだ。落ち着いてやれ」

 

井上たちは担架の位置を調整し、何とか曲がり角を通過した。

 

しかし、今度は段差があった。

 

雪と泥で滑りやすくなった足元に気をつけながら、少しずつ進んでいく。

 

「気をつけろよ、井上」

 

川崎が担架の上から声をかけた。

 

「お前、さっきから注文が多いぞ」

 

「怪我人なんだから仕方ないだろ」

 

「元気な怪我人だな!」

 

周囲から笑い声が上がった。

 

しかし、実際に運んでいる井上たちには、それほど余裕がなかった。

 

担架の重さが腕にかかり、足元を確認しながら進むだけでも神経を使う。狭い通路では持ち替えることも難しく、何度も立ち止まりながら進まなければならなかった。

 

ようやく後方の救護所に見立てた場所へ到着すると、井上は大きく息を吐いた。

 

「脚に負傷。応急処置済みです!」

 

衛生兵役の兵士が状況を確認し、川崎を引き取った。

 

担架から起き上がった川崎が、満足そうに笑った。

 

「俺は楽だったぞ」

 

「じゃあ、次はお前が運べよ」

 

「えっ?」

 

「次は交代だろ」

 

分隊長が頷いた。

 

「そうだ。次は井上が負傷者役だ。川崎、しっかり運んでやれ」

 

「了解!」

 

川崎は勢いよく返事をした。

 

井上は担架に横たわり、少し不安になった。

 

「頼むから落とすなよ」

 

「任せろ!」

 

その返事を聞いて、井上はますます不安になった。

 

午後になり、三日間の訓練がようやく終了した。

 

小隊長は兵士たちを塹壕の前に集めた。

 

三日間を過ごした兵士たちの軍服は、ところどころ泥で汚れていた。朝から降った雪はすでにやんでいたものの、冷たい風は相変わらず吹いている。

 

「どうだ。新兵訓練で習ったことも、実際の塹壕の中では簡単にいかんだろう?」

 

兵士たちが頷いた。

 

「戦闘だけでなく、食事や睡眠、夜間警戒、負傷者の搬送まで、すべて塹壕の中で行わなければならん。前線では、こうした生活が何日も続くことになる」

 

小隊長は兵士たちを見回した。

 

「できれば、お前たちが実戦で白兵戦や負傷者の救護を行う機会がないことを願っている。だが、必要になった時に何もできないようでは困る」

 

兵士たちは黙って聞いていた。

 

「自分の命も、仲間の命も守れるようになっておけ。お前たちに求めているのは、英雄になることじゃない。自分の持ち場を守り、生き残ることだ」

 

「はい!」

 

兵士たちが返事をした。

 

小隊長は頷いた。

 

「よし、訓練終了! 各分隊、装備をまとめろ!」

 

兵士たちの間から、ほっとした声が漏れた。

 

井上と川崎も荷物をまとめ始めた。

 

「やっと帰れるな」

 

川崎が呟いた。

 

「ああ」

 

「風呂に入りたい」

 

「俺もだよ」

 

二人がそんなことを話していると、三田村と飯島がやってきた。

 

「お疲れさま」

 

三田村が声をかけた。

 

「どうだった? 三日間の塹壕生活は」

 

「大変でした」

 

川崎が即答した。

 

飯島が笑った。

 

「たった三日だぞ」

 

「十分長かったですよ」

 

「前線ではもっと長いからな。覚悟しておけよ」

 

「はい……」

 

三田村は笑いながら、井上たちの装備を見た。

 

「でも、二人とも初日よりはずいぶんよくなったわよ。荷物もちゃんとまとめてるし」

 

「ありがとうございます」

 

井上が答えた。

 

「向こうに行っても、わからないことがあったら先輩に聞きなさい。変に知ったかぶりしないでね」

 

「はい」

 

飯島も頷いた。

 

「それと、何かおかしいと思ったらすぐに報告しろ。自分一人で判断するなよ」

 

「了解です」

 

二人の先輩はそう言うと、ほかの兵士たちのところへ向かった。

 

井上は装備を背負い、三日間を過ごした塹壕を振り返った。

 

最初は単なる訓練施設にしか見えなかった。

 

しかし、ここで食事を取り、眠り、夜中に起きて監視を続けているうちに、少しずつ見方が変わっていた。

 

塹壕は、敵と戦うための場所であると同時に、兵士たちが生活する場所でもあった。

 

日本にいた頃、井上が興味を持っていたのは兵器の性能や戦術だった。

 

戦車の装甲厚や砲の射程距離、機関銃の発射速度。そうした知識は今でも面白いと思っているし、役に立つこともあるだろう。

 

だが、実際の軍隊では、塹壕の補修や監視、装備の手入れ、食事の準備、負傷者の救護といった仕事に多くの時間を費やしている。

 

しかも、それらを寒さや疲労に耐えながら続けなければならない。

 

本を読んでいるだけでは、わからなかったことだった。

 

「井上、行くぞ」

 

川崎に声をかけられ、井上は振り返った。

 

「ああ」

 

二人はほかの兵士たちとともに歩き始めた。

 

訓練場を出れば、暖かい兵舎と食事が待っている。風呂に入り、清潔な寝床で眠ることもできる。

 

しかし、中部戦線に向かえば、そうはいかない。

 

川崎が隣で呟いた。

 

「……本当に戦争に行くんだな、俺たち」

 

井上は少し間を置いて答えた。

 

「ああ」

 

二人は装備を背負い、雪の残る訓練場を後にした。

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