勇者連隊戦記   作:バグスター

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帝国歴232年1月下旬。


第3節 夜間訓練

日が暮れてから、すでに数時間が経過していた。

 

冬の演習場には冷たい風が吹き、昼間に踏み荒らされた地面はところどころ凍り始めていた。雪の下にはまだ泥の残る場所も多く、兵士たちが歩くたびに足元から湿った音が聞こえてくる。遠くの山々は暗闇に沈み、雲の切れ間からわずかに月明かりが差し込んでいた。

 

そんな寒さの中でも、砲兵中隊の演習は続いていた。

 

林の外れに設けられた砲兵陣地には、八門の120ミリ榴弾砲が間隔を取って配置されている。各砲の周囲では、兵士たちが灯火を制限した状態で射撃準備を進めており、時折、金属の触れ合う音や短い号令が暗闇の中から聞こえてきた。

 

今夜の訓練は、夜間の実弾射撃と陣地変換を組み合わせたものだった。

 

観測所からの報告に従って目標を砲撃し、射撃終了後は速やかに砲を撤収して別の陣地へ移動する。移動先では再び砲を展開し、観測兵による目標確認と弾着修正を経て効力射を実施するという、実戦を想定した一連の訓練である。

 

砲兵にとって、同じ場所から撃ち続けることは危険だった。砲撃を行えば敵に位置を知られる可能性があり、敵の砲兵による反撃を受ける前に陣地を移さなければならない。

 

そのためには射撃の正確さだけでなく、砲を撤収し、移動させ、再び射撃可能な状態にするまでの時間も重要になる。

 

少し離れた指揮所では、砲兵中隊長のグスタ・レーン大尉が時計を確認していた。

 

「観測所との連絡は?」

 

「良好です。現在、目標の確認を行っています」

 

指揮所の通信兵が答える。

 

演習場の向こう側、小高い丘に設けられた観測所では、数名の観測兵が双眼鏡を構えていた。彼らの前方には敵の陣地を模した標的群が設置されているが、夜間のため、目標の位置を確認するだけでも昼間より手間がかかる。

 

やがて照明弾が上がった。

 

白い光がゆっくりと降下し、それまで暗闇に沈んでいた斜面がぼんやりと浮かび上がる。観測兵は双眼鏡を覗き込み、土塁や標的の位置を確認すると、傍らの電話兵に報告した。

 

「目標確認。斜面中央、敵陣地を模した標的群。異常なし」

 

「観測所より、目標確認!」

 

報告が指揮所へ伝えられ、射撃諸元の最終確認が進められた。

 

「第一砲、試射準備!」

 

号令を受けた砲の周囲で、兵士たちが一斉に動き始めた。

 

「砲弾準備!」

 

「おうっ!」

 

「持ち上げるぞ、せーの!」

 

「おりゃーっ!」

 

「せいっ!」

 

重い砲弾を扱う兵士たちの声が、暗闇の中に響いた。

 

砲弾は装填位置へ運ばれ、砲長の指示に従って薬室へ送り込まれる。続いて装薬が装填され、閉鎖機が閉じられると、砲の周囲にいた兵士たちは射撃時の所定の位置へ下がった。

 

「第一砲、準備よし!」

 

「撃て!」

 

轟音が夜の演習場を揺らした。

 

砲口から巨大な炎が噴き出し、一瞬だけ砲の周囲にいた兵士たちの姿が浮かび上がる。砲身が大きく後退し、続いて砲煙が冷たい夜気の中へ広がっていった。

 

数秒後、遠くの斜面で爆発の光が見えた。

 

「弾着確認! 目標の左手前!」

 

観測所から報告が入る。

 

指揮所では弾着位置に基づいて射撃諸元を修正し、その結果が第一砲へ伝えられた。再び砲弾が装填され、砲身の向きが調整される。

 

「第一砲、準備よし!」

 

「撃て!」

 

二度目の砲声が響き、遠方で爆発が起こった。

 

観測兵は照明弾の光が弱まる前に弾着を確認し、電話兵に報告した。

 

「弾着確認! 目標付近!」

 

「修正良好。効力射へ移行可能!」

 

報告を受けたグスタは頷いた。

 

「全砲、効力射準備!」

 

指示が伝わると、待機していた各砲の周囲が一斉に慌ただしくなった。

 

「第一砲、準備よし!」

 

「第二砲、準備よし!」

 

「第三砲、準備よし!」

 

各砲からの報告が揃うのを確認したグスタは、射撃を命じた。

 

「効力射、開始!」

 

八門の120ミリ砲が次々と火を噴いた。

 

腹の底に響く砲声が連続し、山々に反響する。砲口炎が暗闇を切り裂くたびに砲兵たちの姿が浮かび上がり、遠くの目標区域では爆発の光が続いた。

 

だが、砲の周囲にいる兵士たちにとって、一発撃ったからといって休む暇などなかった。

 

射撃を終えた砲では、すぐに次の装填作業が始まっていた。

 

「次弾準備!」

 

「おうっ!」

 

「砲弾、持ち上げるぞ!」

 

「せーのっ!」

 

「おりゃーっ!」

 

「せいっ!」

 

兵士たちが息を合わせて重い砲弾を持ち上げ、装填位置へ運んでいく。

 

「装填!」

 

「せいっ!」

 

砲弾を送り込み、続いて装薬を装填する。閉鎖機が閉じられると、砲長の確認を受けて次の射撃準備が整った。

 

「装填よし!」

 

「閉鎖よし!」

 

「次弾準備!」

 

「おうっ!」

 

砲声が鳴り響く中でも、兵士たちは互いに声を掛け合いながら作業を続けていた。掛け声は一見すると騒々しいだけのようにも聞こえるが、よく見ると、それぞれの動作に合わせて一定の調子がついている。

 

「せーのっ!」

 

「おりゃーっ!」

 

「せいっ!」

 

最初の声で構え、次の声で力を入れ、最後の声に合わせて動作を終える。

 

砲弾を持ち上げる者と受け取る者の呼吸が合い、次の作業に移る際にも余計な間が生じにくくなっていた。正式な号令を出すのは砲長だが、その指示に従って実際に力仕事を行う兵士たちは、独特の掛け声によって作業のリズムを作り出していた。

 

その中には、水野香織の姿もあった。

 

身長158センチの水野は、周囲の兵士たちと比べると小柄な方だった。黒髪を後ろでまとめ、丸い眼鏡をかけた顔立ちには、今でもどこか真面目な教師らしい雰囲気が残っている。

 

しかし、その身体つきは日本にいた頃とは随分変わっていた。

 

厚手の軍服の下では肩や背中の筋肉が発達し、以前は細かった腕にも力強さが増している。毎日の走り込みで脚は引き締まり、砲弾の運搬や陣地構築を繰り返したことで、見た目以上に力のある身体になっていた。

 

本人はその変化をあまり意識していなかったが、半年近く一緒に訓練してきた兵士たちには、以前との違いがよく分かっていた。

 

「先生! そっちお願いします!」

 

木田が声をかける。

 

「はいっ!」

 

水野は砲弾の反対側へ回り込み、持ち上げる準備をした。

 

「せーのっ!」

 

「おりゃーっ!」

 

「せいっ!」

 

周囲の兵士たちと息を合わせ、重い砲弾を持ち上げる。

 

「よし、次!」

 

「はいっ!」

 

眼鏡の奥の瞳には真剣な光が宿り、額には汗が浮かんでいた。冷たい夜風の中でも、絶え間なく身体を動かしているため寒さを感じる暇はない。

 

「先生、次もお願いします!」

 

「分かってます! せーのっ!」

 

「おりゃーっ!」

 

「せいっ!」

 

大声を張り上げる水野の姿は、半年前まで教壇に立っていた数学教師とは思えなかった。

 

最初の頃は、重い砲弾を扱うだけでも苦労していた。ところが今では、周囲の兵士たちに遅れることなく作業をこなし、時には自分から声を出して仲間の動きを合わせるほどになっている。

 

「先生、すっかり砲兵ですね!」

 

木田が笑いながら声をかけた。

 

「木田さんも、口を動かしてないで手を動かしてください!」

 

「動かしてますよ!」

 

「じゃあ、次いきますよ! せーのっ!」

 

「せいっ!」

 

水野の声に周囲の兵士たちが応じ、再び重い砲弾が持ち上げられた。

 

砲列の少し後方では、オリヴィエ・フォン・ベルノ大佐が射撃の様子を見守っていた。

 

厚手の軍用外套をまとい、隣にはアウレリア大尉と砲兵中隊長のグスタ大尉が立っている。冬の夜間訓練にもかかわらず、オリヴィエは最初の射撃準備から熱心に視察を続けていた。

 

砲兵中隊が八門の120ミリ砲を揃えてから、まだそれほど長い時間は経っていない。新兵も多く、練度にはばらつきがあるものの、以前と比べれば射撃準備から装填までの動作は随分と滑らかになっていた。

 

オリヴィエはしばらく砲列を眺めていたが、あることに気づいてグスタに声をかけた。

 

「グスタ大尉、再装填が随分と早くなっていませんか?」

 

「お気づきになりましたか」

 

グスタは少し嬉しそうに答えた。

 

「実際、以前より早くなっております。あの掛け声を使い始めてから、再装填にかかる時間が短くなりました」

 

「掛け声で?」

 

「はい。砲弾の運搬や受け渡し、装填作業のリズムが揃うようになりまして。以前は一人の作業が終わるのを別の者が待つこともありましたが、今では次の動作に移るタイミングが自然と合うようになっています」

 

オリヴィエは再び砲列へ視線を向けた。

 

「次弾!」

 

「おうっ!」

 

「せーのっ!」

 

「おりゃーっ!」

 

「せいっ!」

 

重い砲弾が運ばれ、砲長の指示に従って装填作業が進む。

 

兵士たちはそれぞれの持ち場で忙しく動いているが、掛け声に合わせて次々と作業が進むため、無駄な待ち時間が少ないように見えた。

 

「なるほど。確かに作業が滑らかですね」

 

「はい。最初は単に賑やかなだけかと思っておりましたが、思いのほか効果がありまして」

 

「面白いわね。こういう改善は大歓迎よ」

 

オリヴィエは満足そうに頷いた。

 

再び砲声が響き、遠くの目標区域で爆発が起こった。観測所からは弾着良好との報告が入り、予定されていた効力射は順調に進んでいた。

 

やがて射撃終了の号令が下され、砲声が途絶えると、演習場には短い静寂が訪れた。

 

しかし、それも一瞬だった。

 

「全砲、陣地変換! 撤収準備!」

 

号令が飛ぶと、砲の周囲にいた兵士たちが一斉に動き始めた。

 

「駐鋤を上げろ!」

 

「おうっ!」

 

「そっち持て! まだ動かすな!」

 

数人の兵士が所定の位置につく。

 

「せーのっ!」

 

「おりゃーっ!」

 

「せいっ!」

 

重い砲架がわずかに動いた。

 

「よし、もう一回!」

 

「おうっ!」

 

「せーのっ!」

 

「おりゃーっ!」

 

「せいっ!」

 

砲撃中とは違い、今度は砲そのものを動かすため、掛け声はさらに大きくなっていた。

 

「もう一丁!」

 

「おうっ!」

 

「せーのっ!」

 

「せいっ!」

 

暗闇の中に、威勢のよい声が響き渡る。

 

声だけ聞いていれば、まるで日本の祭りで神輿を担いでいるようにも聞こえる。もっとも、ここは冬の夜の演習場であり、兵士たちが動かしているのは神輿ではなく、重量のある120ミリ砲だった。

 

「木田さん! そっち、もう少し!」

 

「分かってます! 先生、こっちお願いします!」

 

「はいっ!」

 

水野が両手を砲の金具にかける。

 

「せーのっ!」

 

「おりゃーっ!」

 

「せいっ!」

 

顔を真っ赤にして力を込めると、周囲の兵士たちと一緒に砲架を少しずつ動かしていく。軍服の袖口は泥で汚れ、頬にもいつの間にか黒い汚れがついていたが、本人はそんなことを気にする様子もなかった。

 

「動いた! もう一回!」

 

「はい!」

 

「おりゃーっ!」

 

「せいっ!」

 

「よし、その位置で止め!」

 

砲長の号令が飛ぶと、兵士たちはすぐに次の作業へ移った。

 

暗闇の中では、隣にいる兵士の動きさえ分かりにくい。掛け声によって力を入れるタイミングを揃えれば、重い器材も動かしやすくなり、声が聞こえる方向から仲間のおおよその位置も把握できた。

 

また、一つの作業が終わると自然に次の作業へ移るため、砲の撤収全体にも一定のリズムが生まれていた。

 

「牽引準備、急げ!」

 

砲長の号令に、兵士たちが再び動き始めた。

 

牽引車が低いエンジン音を響かせながら後退してくる。暗闇の中では運転手から砲の位置が見えにくいため、誘導員が車両の脇に立って大声で指示を出していた。

 

「右! 右! ……止まれ!」

 

「連結位置、確認!」

 

「よし、つなげ!」

 

「せーのっ!」

 

「せいっ!」

 

金属同士が触れ合う音が響いた。

 

「連結確認!」

 

「固定よし!」

 

「乗車! 出発準備!」

 

砲は順次牽引され、暗い林道を通って次の陣地へ向かっていった。

 

オリヴィエたちは、砲の撤収作業を少し離れた場所から見守っていた。

 

「随分と賑やかですね」

 

オリヴィエが微笑んだ。

 

暗闇の向こうから、兵士たちの独特な掛け声が響いてくる。

 

「おりゃーっ!」

 

「せいっ!」

 

「もう一丁!」

 

「おうっ!」

 

「日本人の兵士が使い始めたようです。今では古参兵まで真似をしております」

 

グスタが説明した。

 

「何でも、作業のリズムや力を入れるタイミングを合わせたり、暗闇の中でも声で同僚の位置関係が分かったりするらしいです。案外、理にかなっているようでして」

 

「おりゃー、せい、ですか。面白いですね」

 

オリヴィエは小さく笑った。

 

隣にいたアウレリアが口を開いた。

 

「前線で隠密行動を行う歩兵や偵察兵とは違いますから、掛け声が大きくても特に問題はないのではないでしょうか。むしろ夜間の作業では、声を出して互いの位置を知らせる方が安全でしょう」

 

「確かにそうですね。それに、砲撃が始まれば嫌でも大きな音を立てますから」

 

オリヴィエの言葉に、グスタも苦笑した。

 

そのとき、ひときわ甲高い声が聞こえてきた。

 

「せーのっ! おりゃーっ!」

 

続いて数人の野太い声が重なる。

 

「せいっ!」

 

「よし、もう一回!」

 

「おうっ!」

 

「女性の声も随分と元気ですね」

 

オリヴィエが笑った。

 

「ええ。男も女も関係なく、あの調子です。最初は戸惑っていた者も、今ではすっかり馴染んでおります」

 

グスタも笑みを浮かべた。

 

砲兵中隊には現地出身の女性兵士も多数所属しており、力仕事だからといって男性だけが担当しているわけではなかった。重い器材を動かす際には体格や腕力に応じて持ち場を分担するものの、掛け声は誰もが同じように使っている。

 

「おりゃーっ!」

 

「せいっ!」

 

兵士たちの声と、重い砲を動かす金属音が夜の演習場に響いていた。

 

オリヴィエはしばらくその様子を眺めていたが、やがて満足そうに微笑んだ。

 

「なんだか独特な雰囲気ね。悪くはないわ」

 

隣にいたアウレリアが頷いた。

 

「皆、よく声が出ています。それに、楽しそうでもありますね」

 

「そうね。厳しい訓練なのに、妙に活気があるわ」

 

兵士たちが苦しい訓練の中でも自分たちなりのやり方を見つけ、互いに声を掛け合いながら作業していることは、オリヴィエにとって好ましい光景だった。

 

「それにしても、随分と動きがよくなりましたね」

 

「昼間なら、さらに早くできます。しかし夜間はどうしても時間がかかります」

 

グスタが答える。

 

「構いません。まずは確実に動けるようにしてください。時間を縮めるのは、それからです」

 

予備陣地に到着した砲兵たちは、休む間もなく砲の展開作業を始めた。

 

「牽引車、停止!」

 

「砲を切り離すぞ!」

 

「おうっ!」

 

「せーのっ!」

 

「おりゃーっ!」

 

「せいっ!」

 

砲を所定の位置へ移し、脚を開いて駐鋤を据える。照準器や砲弾などの器材も次々と運び込まれ、各砲の周囲では再び忙しい作業が始まっていた。

 

「右へ寄せろ!」

 

「もう少し!」

 

「せーのっ!」

 

「せいっ!」

 

「よし、止め!」

 

一つの作業が終われば次の号令が飛び、兵士たちは暗闇の中でも互いの声を頼りに動いていく。

 

水野は息を切らしながら、足元に置かれた器材を確認していた。

 

「照準器の箱、そこじゃありません!」

 

「ここでいいだろ?」

 

「駄目です! 通路を塞ぎます!」

 

「暗くて分からねえよ!」

 

「だから置く場所を決めたんでしょう!」

 

水野の声が飛ぶ。

 

夜間作業で足元に物が散乱していれば、兵士がつまずくだけでなく、砲弾を抱えたまま転倒する危険もある。そのため器材を置く場所は細かく決められていたが、急いでいるとつい手近な場所に置いてしまう者もいた。

 

「右側の区画です! そこなら通路を塞ぎません!」

 

「分かった、分かった!」

 

周囲から笑いが起こった。

 

木田が水野に声をかける。

 

「先生、怖いですよ」

 

「何がですか!」

 

「いえ、何でもありません!」

 

木田まで吹き出したが、水野は真面目な顔で器材の位置を確認していた。

 

もともと教師だったせいか、こうした細かなことには妙に厳しい。もっとも、そのおかげで作業中の混乱が減っていることも、周囲の兵士たちはよく分かっていた。

 

「第二砲、射撃準備急げ!」

 

砲長の号令が飛ぶ。

 

「はいっ!」

 

水野は器材の確認を終えると、すぐに持ち場へ戻った。

 

「砲弾準備!」

 

「了解!」

 

「木田さん、そっち持ってください!」

 

「はい!」

 

「せーのっ!」

 

「おりゃーっ!」

 

「せいっ!」

 

重い砲弾を扱う兵士たちの声が、再び夜空に響き渡った。

 

指揮所では、グスタ大尉が各砲からの報告を受けていた。

 

「第一砲、射撃準備完了!」

 

「第二砲、準備完了!」

 

「第三砲、準備完了!」

 

次々と報告が入るたびに、グスタは時計へ目を落としていた。

 

「……昼間より、かなり時間がかかっています」

 

「当然でしょう」

 

オリヴィエが答えた。

 

「ですが、去年の秋には夜間の陣地変換など、まともにできなかったはずです。そう考えれば随分と進歩したものですね」

 

「はい。新兵が増え、砲も増強されました。正直なところ、最初はどうなることかと思いました」

 

「よくここまで仕上げてくれました」

 

オリヴィエは素直に労った。

 

「ただ、前線では暗いからといって敵が待ってくれるわけではありません。まだ改善できるところはあるでしょうね」

 

「承知しております」

 

グスタは姿勢を正した。

 

やがて全砲の準備が整い、観測所からも第二目標の確認が報告された。

 

「観測所より報告! 第二目標、確認!」

 

「次の目標は、先ほどより少し遠い斜面です。観測所からの視認は良好とのことです」

 

グスタの説明に、オリヴィエは頷いた。

 

「では、お願いします」

 

「はっ!」

 

グスタは指揮所へ向き直り、試射を命じた。

 

再び照明弾が上がり、暗い斜面が白い光に照らされる。

 

「第一砲、試射!」

 

轟音が響いた。

 

観測兵たちは双眼鏡を構え、弾着を待つ。遠くの斜面で爆発が起こると、すぐに位置を確認して指揮所へ報告した。

 

「弾着確認! 目標右側!」

 

射撃諸元が修正され、再び砲声が響く。

 

「弾着確認! 目標付近!」

 

「効力射へ移行!」

 

グスタの号令が伝わり、各砲の周囲が慌ただしくなった。

 

「全砲、効力射!」

 

八門の砲が次々と火を噴いた。

 

「次弾準備!」

 

「おうっ!」

 

「せーのっ!」

 

「おりゃーっ!」

 

「せいっ!」

 

砲声の合間に、兵士たちの掛け声が響く。

 

第一陣地での射撃よりも、作業の流れは滑らかになっていた。砲弾を持ち上げる者、受け取る者、装填する者が互いに声を掛け合い、それぞれの作業を途切れさせずに進めている。

 

「装填!」

 

「せいっ!」

 

「装填よし!」

 

「閉鎖よし!」

 

射撃準備の報告が伝わり、再び砲声が響いた。

 

遠くの目標区域では爆発が続き、観測所からは弾着良好との報告が入る。射撃と装填を繰り返す砲兵たちの掛け声は、いつしか砲声の合間を埋めるように響いていた。

 

やがて予定されていた射撃が終了した。

 

「射撃終了!」

 

最後の砲声が消えると、山々に残っていた反響も次第に遠ざかっていった。

 

グスタがオリヴィエに報告する。

 

「第二目標への射撃、終了しました」

 

オリヴィエは時計を確認した。

 

「もう一度、陣地変換を実施してください」

 

グスタが少し驚いた表情を見せた。

 

「もう一度ですか?」

 

「ええ。今度は撤収から次の射撃準備までの時間を測ってください。射撃は行わなくて結構です」

 

「了解しました」

 

「私は最後まで見ています」

 

「連隊長、もう夜も遅いですが……」

 

「あなたたちが訓練しているのに、私だけ先に帰るわけにはいきません」

 

オリヴィエは平然と言った。

 

隣でアウレリアが小さく苦笑した。

 

「こうなると、何を申し上げても無駄ですね」

 

「そういうことよ」

 

オリヴィエは悪びれる様子もなく答えた。

 

グスタも苦笑すると、指揮所へ向き直った。

 

「承知しました。では、もう一回やらせましょう」

 

再び号令が飛んだ。

 

「全砲、陣地変換!」

 

「撤収準備!」

 

暗闇の向こうから、兵士たちの声が響いてくる。

 

「よーし、もう一回だ!」

 

「おりゃーっ!」

 

「せいっ!」

 

すでに長時間の訓練で疲れているはずだったが、掛け声の勢いは衰えていなかった。

 

「木田さん! 次はもっと早くしますよ!」

 

「先生、元気ですねえ!」

 

「返事は!」

 

「はいっ!」

 

「よしっ! せーの!」

 

「おりゃーっ!」

 

「せいっ!」

 

水野の甲高い声に、周囲の兵士たちの野太い声が重なる。

 

冷たい冬の夜、砲兵中隊の訓練はまだまだ続いていた。

 

訓練が終了したのは、夜もかなり更けてからだった。

 

*

 

泥だらけになった砲兵たちは、兵舎へ戻ると次々にシャワー室へ向かった。牽引車の車輪が掘り返した地面はぬかるみ、砲の据え付けや撤収を繰り返すうちに、軍服も靴もすっかり汚れていた。

 

水野も例外ではなかった。

 

「疲れたぁ……」

 

泥まみれの軍服を脱ぐと、水野は大きなため息をついた。

 

黒髪は汗で湿り、丸い眼鏡には泥の飛沫までついている。軍服を着ているときにはあまり目立たないが、以前より肩幅が増し、腕や脚にもはっきりと筋肉がついていた。

 

日本にいた頃の水野は、どちらかといえば柔らかな顔立ちの、落ち着いた雰囲気の女性だった。

 

黒い瞳に丸い眼鏡という組み合わせは、いかにも数学教師らしく、話し方も丁寧である。身長は158センチと小柄な方で、もともと胸が大きいこともあって、身体の線が目立つ服装はあまり好まなかった。

 

ところが、半年近くに及ぶ軍隊生活は、その身体を大きく変えていた。

 

毎日の走り込みで脚が鍛えられ、重い砲弾の運搬や陣地構築によって腕や肩、背中にも筋肉がついた。全体として身体が引き締まり、以前よりもずっと力強い体格になっている。

 

もっとも、当の本人はその変化をあまり意識していなかった。

 

男女共用の広いシャワー室には湯気が立ち込め、あちらこちらから兵士たちの話し声が聞こえていた。

 

水野も眼鏡を外し、温かい湯を浴びた。

 

「はあぁ……生き返る……」

 

冷え切った身体に湯が染み渡り、緊張していた筋肉がようやくほぐれていく。

 

男女一緒のシャワーにも、半年以上の軍隊生活ですっかり慣れてしまった。最初の頃はかなり抵抗があったものの、周囲の現地兵たちがあまりにも平然としているため、今では自分だけ恥ずかしがっているのも馬鹿らしくなっていた。

 

とはいえ、完全に気にならなくなったわけではない。

 

特に、自分の胸の大きさは今でも少し気になっていた。

 

もともとかなり胸が大きく、日本にいた頃から人目を意識することはあった。今でも時折、周囲の視線が気になって落ち着かないことがあるが、軍隊生活の中では、そんなことよりも身体についた泥を落とし、少しでも早く休む方が大事になっていた。

 

「先生、今日は大変でしたね」

 

隣で頭を洗っていた木田が声をかけた。

 

「本当に疲れました。腕も脚も痛いですし、明日はきっと筋肉痛ですよ」

 

「最後の陣地変換、かなり早くなりましたよね」

 

「そうですね。でも、もう一回と言われたら倒れてましたよ」

 

水野は笑いながら背中に湯をかけた。

 

そのとき、木田がふと声を上げた。

 

「あれ? 先生、背中の筋肉、すごくついてません?」

 

「……はい?」

 

「いや、肩から背中にかけて、前と全然違いますよ。なんだかアスリートみたいな身体つきになってます」

 

「アスリート?」

 

水野は思わず自分の肩に手を回した。

 

「そんなことないでしょう?」

 

「いや、本当ですよ。先生、最初はもっと普通の体つきだったじゃないですか。それが今じゃ、肩も腕も随分しっかりしてますよ」

 

木田が感心したように言った。

 

そこへ、大柄な女性兵士が近づいてきた。

 

「何だ、どうした?」

 

リン伍長だった。

 

身長180センチ。砲兵中隊の中でもひときわ大柄な女性で、短く切り揃えた金髪と、整った目鼻立ちが印象的だった。顔だけ見れば、なかなかの美人である。

 

しかし、その首から下は、水野がこれまで見てきた女性たちとはまるで違っていた。

 

広い肩幅に、盛り上がった上腕。背中には厚い筋肉がつき、腹部にはくっきりと筋が浮かんでいる。胸も大きいのだが、それが豊かな乳房によるものなのか、発達した胸筋によるものなのか、水野にはよく分からなかった。

 

腰から伸びる脚は驚くほど長く、太腿からふくらはぎにかけても力強い筋肉がついている。それでいて全体の均整は取れており、決して不格好ではない。

 

水野は以前から、リンの身体を見るたびに思っていた。

 

まるで古代ギリシャの彫像だ。

 

ただし、女性像ではない。神殿に飾られているような、筋骨隆々の男性像である。

 

そんな肉体の上に、金髪の美しい女性の顔が乗っているのだから、何とも不思議な印象を受ける。

 

そして、その筋肉が見かけ倒しでないことも、水野は知っていた。

 

以前、命令違反をした二等兵を、リンが軽々と投げ飛ばしたことがあったのだ。

 

相手は成人男性だったが、まるで子供を扱うような力強さだったという。

 

それ以来、水野はリン伍長に対して、少なからず畏敬の念を抱いていた。

 

「リン伍長、先生の背中、見てくださいよ。すごく筋肉がついてるんです」

 

木田が声をかけると、リンは水野の背中に目を向けた。

 

「ほう……」

 

リンは感心したように声を漏らした。

 

「水野、随分いい身体になったじゃないか。肩も背中もしっかりしてきたな」

 

「えっ、そんなに変わりました?」

 

「変わったとも。最初の頃とは全然違うぞ。腕にも筋肉がついてるし、脚も随分引き締まったじゃないか」

 

リンは自分の太い腕を軽く叩いた。

 

「これだけ短い間に筋肉がつくのは大したもんだ。もともと素質があったんだろうな」

 

「……素質ですか?」

 

「ああ。誰でも同じように鍛えれば、同じように筋肉がつくわけじゃないからな。お前は身体が鍛えられやすいんだと思うぞ」

 

リンは素直に感心しているようだった。

 

水野は改めて自分の腕や肩を眺めた。確かに以前より筋肉がつき、腕に力を入れるとその形がはっきりと浮かび上がる。

 

それから、自分の腹へ目を落とした。

 

「……あれ?」

 

腹部も以前とは違っていた。縦に筋が入り、うっすらと腹筋の形まで見え始めている。

 

試しに力を入れてみる。

 

硬い。

 

「……腹筋まで?」

 

水野は呆然とした。

 

さらに胸が以前より少し小さくなっていることにも気づき、ますます複雑な気分になってしまった。

 

「どうした、水野?」

 

リンが不思議そうな顔をした。

 

「い、いえ。何でもありません」

 

水野は慌てて答えた。

 

リンはそんな水野の様子を気にすることもなく、豪快に笑った。

 

「まあ、いいことじゃないか。砲兵は身体が資本だからな。お前なら、まだまだ鍛えられるぞ」

 

「……まだ鍛えるんですか?」

 

「当然だろう。今の調子なら、あと数年もすれば相当な身体になるぞ」

 

水野は思わずリンの身体を見上げた。

 

広い肩、太い腕、厚い背中。そして長く筋肉質な脚。

 

以前、二等兵を軽々と投げ飛ばしたという話が頭をよぎる。

 

「……あの、リン伍長」

 

「何だ?」

 

「私も、そのうちリン伍長みたいになるんでしょうか?」

 

「おっ、私みたいになりたいのか?」

 

リンが嬉しそうに笑った。

 

「いえ、そういうわけじゃ……」

 

「はっはっは! そいつは嬉しいな。まあ、そう簡単にはなれんぞ!」

 

「先生、リン伍長を目指すんですか?」

 

横から木田が口を挟んだ。

 

「目指してません!」

 

水野が慌てて否定すると、リンはさらに大きな声で笑った。

 

「遠慮するな、水野! 私が鍛えてやってもいいぞ!」

 

「遠慮してるんじゃなくて、本当に違うんです!」

 

「先生、頑張ってください!」

 

「木田さんまで!」

 

湯気の立ち込めるシャワー室に、三人の笑い声が響いた。

 

水野はもう一度、自分の腕と腹を見下ろした。

 

確かに体力はついた。以前より重い砲弾も運べるようになったし、長時間の訓練にも耐えられる。

 

それは嬉しいことだった。

 

しかし、だからといって、リン伍長のような身体になりたいわけではない。

 

「……私、数学の教師だったのになあ」

 

水野は小さくため息をついた。

 

第20期召喚者、200名。

 

半年近くに及ぶ軍隊生活で、誰もが多少なりとも身体つきが変わっていた。日本では運動部に所属していた者も多く、もともと体力に自信のある若者も少なくなかったが、それでも毎日の軍事訓練は彼らの身体に大きな変化をもたらしていた。

 

その中でも、最も大きな変化を見せたのが水野香織だった。

 

もともと彼女には、運動能力に恵まれた素質があったのだろう。筋力も持久力も訓練に応じて着実に伸びており、半年ほどの間に、以前とは見違えるような身体つきになっていた。

 

しかし、日本にいた頃の水野は、その才能を自覚する機会がなかった。

 

運動選手を目指したこともなければ、自分に特別な身体能力があると考えたこともない。数学が好きで教師になり、生徒たちに数式を教える毎日を送っていたのである。

 

異世界に召喚され、半ば強制的に始まった軍隊生活が、思いがけず彼女の眠っていた才能を引き出していた。

 

もっとも、当の本人はそんなことなど考えていない。

 

シャワーを終え、眼鏡をかけ直した水野は、もう一度だけ自分の腹を見下ろすと、深いため息をついた。

 

「……腹筋なんか、割れなくていいのに」

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