ベルノ駐屯地の朝は、厳しい冷え込みに包まれていた。
まだ薄暗い営庭には、浸透偵察小隊の隊員たちが整列していた。その傍らには補給部隊、測量隊、工兵部隊から選抜された兵士たちの姿もある。
ベルノ連隊の中部戦線派遣。その第一陣として、彼らは本隊より一足早く出発することになっていた。
隊員たちは冬季装備を身につけ、小銃と背嚢を携えている。
高橋もエレナ班の仲間たちと並んでいた。
「馬はどうしたんですか?」
高橋が隣のエレナに尋ねる。
「昨日のうちに駅へ運んであるわ。列車に乗せる準備も済んでいるはずよ」
「じゃあ、駅までは歩きですか」
「そういうこと。たいした距離じゃないでしょう」
エレナは笑った。
山中訓練で何十キロも歩かされたことを思えば、確かにベルノ駅までの行進など散歩のようなものだった。
やがて連隊本部の建物から、オリヴィエ大佐がアウレリア大尉を伴って姿を現した。
ヴァルター少佐が前に進み出る。
「浸透偵察小隊、ならびに先遣支援部隊、出発準備完了しております」
オリヴィエは整列した兵士たちを見渡した。
「今回の遠征は、ベルノ連隊にとって久しぶりの大規模な前線派遣となります」
その声は、冷たい朝の空気によく響いた。
「第一陣の任務は、本隊に先行して現地の状況を確認し、受け入れの準備を整えることです。工兵、測量、補給の各部隊は、互いに協力して任務を遂行してください」
オリヴィエは一度言葉を切った。
「まずは帝都アウグステンへ向かい、そこから前線へ移動します。詳細は現地での指示に従うこと」
そしてヴァルターに視線を向けた。
「ヴァルター少佐、第一陣の出発を命じます」
「はっ!」
ヴァルターが敬礼する。
オリヴィエも答礼した。
「諸君の健闘を祈ります」
短い訓示だった。
ヴァルターは隊列へ向き直った。
「先遣隊、出発準備!」
号令が伝わり、兵士たちが背嚢を背負い直す。
「前へ、進め!」
雪を踏む軍靴の音が、一斉に響いた。
こうしてベルノ連隊第一陣は、駐屯地を後にした。
ベルノの街は、ようやく朝の活動を始めたところだった。
通りには雪が残り、石畳のあちこちが白く染まっている。
商店の軒先では店主が雪を片づけ、荷馬車がゆっくりと通りを進んでいた。
軍装の一団が現れると、人々は道を開けて立ち止まった。
「兵隊さんたち、また戦争に行くのかい?」
店先にいた年配の女性が声をかけてきた。
「ええ、ちょっと遠出です!」
列の端にいた兵士が答える。
「気をつけて行っておいでよ!」
女性は大きく手を振った。
高橋も軽く頭を下げた。
街の人々にとって、軍隊が前線へ向かう光景は珍しいものではないのだろう。
だが、高橋にとっては違った。
去年の七月、突然この世界に召喚されてから半年あまり。
厳しい訓練も受けた。実際に人を撃ったこともある。
それでも、こうして部隊の一員として遠征に出発するとなると、どこか落ち着かない気持ちになる。
「高橋、どうしたの? 少し緊張してる?」
近くを歩いていたフリーダが声をかけた。
「少しだけ」
「まだ戦場に着いたわけじゃないんだから。今からそんな顔してたら疲れちゃうわよ」
「そうですね」
「それに、最初は帝都でしょう? せっかくだから列車の旅くらい楽しみなさい」
フリーダはそう言って笑った。
隣を歩くイルマも口を開く。
「寝ている間に結構進むからね。歩かなくていいだけ楽だよ」
「それは助かります」
高橋が答えると、周囲から小さな笑い声が上がった。
やがて通りの先に、ベルノ駅の建物が見えてきた。
ベルノ駅には、すでに長い軍用列車が停車していた。
先頭には大きな蒸気機関車。
その後ろに客車、貨車、馬匹輸送用の車両が連なっている。
機関車の煙突からは黒い煙が立ち上り、足元では白い蒸気が噴き出していた。
駅構内は出発準備で慌ただしい。
補給兵たちが貨車の扉を閉め、工兵が資材の積み付けを確認している。
測量隊の兵士たちは、細長い三脚や測量器具を入れた木箱を運んでいた。
馬匹車の方からは、馬のいななきが聞こえてくる。
「おお……」
高橋は思わず声を上げた。
目の前の蒸気機関車は、想像していた以上に大きい。
黒く塗られた巨大な車体。むき出しの連結棒。大きな動輪。
高橋は東京で何度も電車に乗っていたが、蒸気機関車をこれほど間近で見るのは初めてだった。
「高橋、珍しい?」
エレナが尋ねた。
「はい。日本では電車ばかりでしたから。蒸気機関車は初めてです」
「デンシャ?」
「電気で走る列車です。僕が住んでいた東京では、普通に走っていました」
「電気でこんな大きなものを動かすの?」
「そうですよ」
「へえ。日本って面白いところね」
エレナは感心した様子だった。
駅員と軍の輸送担当者が書類を照合し、各部隊の乗車する車両を指定していく。
浸透偵察小隊には数両の客車が割り当てられていた。
各班がそれぞれ指定された車両へ向かう。
「エレナ、私たちの席は隣みたいね」
フリーダが乗車票を確認しながら言った。
「あら、そうなの? それなら行き来しやすいわね」
「ええ。何かあったら声をかけて」
エレナは頷き、自分の班員たちを振り返った。
「じゃあ、みんな乗りましょう」
高橋たちは順番に客車へ乗り込んだ。
車内に足を踏み入れると、外の寒さが嘘のように暖かかった。
片側に細い通路があり、その反対側には四人掛けの区画が並んでいる。
向かい合わせの二人掛けの座席で、窓際には小さなテーブルが備えられていた。
「ここが私たちの席ね」
エレナが座席番号を確認した。
高橋とエレナが向かい合わせに座り、アルノーとミレーナもそれぞれ席についた。
「なかなかいい車両ですね」
高橋は周囲を見回した。
「日本の列車と比べてどう?」
エレナが尋ねる。
「そうですね。日本の電車とはずいぶん違います。こういう古い感じの車両は、写真でしか見たことがありません」
「座り心地は悪くないだろう?」
アルノーが言った。
「ええ。でも、帝都までずっと座っているんですか?」
「いや、夜は寝台になるぞ」
「寝台車なんですか? でも、ベッドがありませんよ?」
「上だよ」
アルノーが天井近くを指さした。
「夜になったら分かるさ」
高橋は頭上を見上げたが、どうやって寝台になるのか、まだよく分からなかった。
やがて車内に出発を告げる声が響いた。
遠くで汽笛が鳴る。
ガタン。
車両が小さく揺れた。
続いて、ガタン、ガタン、と連結器が引っ張られる音が伝わってくる。
窓の外のホームが、ゆっくりと後方へ流れ始めた。
駅の建物が遠ざかっていく。
高橋は窓の外に目を向けた。
見送りの兵士たちが小さくなり、やがてベルノの街並みも遠ざかっていった。
列車は次第に速度を上げていく。
車輪が線路の継ぎ目を通過するたび、規則正しい音が響いた。
ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。
「どう? 蒸気機関車は」
エレナが笑顔で尋ねる。
「思っていたより揺れますね」
「あら、そう?」
「でも、面白いです」
高橋はしばらく窓の外を眺め続けた。
雪に覆われた畑、遠くの森、小さな集落。
見慣れたベルノの景色が、次々と後方へ流れていく。
自分が本当に遠くへ向かっているのだという実感が、少しずつ湧いてきた。
ベルノを出発して数時間が過ぎた。
列車は雪に覆われた平原を走り続けていた。
最初こそ窓の外の景色に夢中になっていた高橋だったが、似たような風景が続くうちに、少し退屈になってきた。
「高橋、暇そうね」
向かいに座っていたエレナが声をかけてきた。
「ええ、まあ。まだ帝都までは遠いんですよね?」
「そうね。明日の朝までかかるわ」
エレナは鞄から一冊のノートを取り出した。
「じゃあ、せっかくだからエルフ語の勉強でもしましょうか」
「あ、お願いします」
高橋も自分のノートを取り出した。
浸透偵察小隊に配属されて以来、高橋はエルフ語の勉強を続けていた。
帝国共通語はある程度理解できるようになっていたが、エルフ語はそうではない。
小隊では作戦中の連絡にエルフ語を使用している。
高橋も簡単な指示や単語は覚えたものの、まだ日常会話には程遠かった。
「それじゃあ、前に教えたところから復習ね」
エレナはノートを開いた。
最初は方向や距離、人数などの単語だった。
高橋が発音すると、エレナがその場で訂正する。
「違う違う。そこはもう少し舌を丸めるの」
「こうですか?」
「うーん、惜しいわね。もう一回」
高橋は何度も繰り返した。
隣で本を読んでいたアルノーが顔を上げた。
「高橋、その発音じゃ別の意味になるぞ」
「えっ、そうなんですか?」
「ああ。まあ、戦場で使う言葉じゃないから大丈夫だが」
アルノーが笑った。
「何て意味なんです?」
「知らない方がいい」
「ええ……」
ミレーナまで笑い始めた。
「アルノー、変なこと教えないでよ」
エレナが呆れたように言った。
「俺は何も教えてないぞ」
「まったく……。高橋、もう一回ね」
こうして高橋のエルフ語の授業は続いた。
途中からはエレナがエルフ語で簡単な質問をして、高橋が答える練習になった。
聞き取れないと、エレナがゆっくりと言い直してくれる。
それでも分からなければ、アルノーやミレーナが横から助け舟を出した。
高橋はノートに新しい単語を書き込みながら、何度も発音を繰り返した。
いつの間にか、かなりの時間が過ぎていた。
「はい、今日はここまでにしましょう」
エレナがノートを閉じた。
「ありがとうございました」
「だいぶ上達したわね。最初のころより、ずっと聞き取れるようになってる」
「でも、まだ全然ですよ」
「焦らなくていいのよ。毎日少しずつ覚えればいいんだから」
エレナは優しく微笑んだ。
高橋もノートを閉じ、窓の外に目を向けた。
雪景色の向こうに、遠く山並みが見えていた。
「そういえば、高橋」
「はい?」
「帝都には一泊する予定なのよね」
「そう聞いています」
「だったら、買い物に行きましょうよ」
「買い物ですか?」
「ええ。帝都には大きなお店がたくさんあるのよ。ベルノでは手に入らないものもあるし」
エレナは楽しそうに言った。
「私、買いたいものがいくつかあるの。高橋も一緒に行かない?」
「いいですよ。僕も帝都を見てみたいですし」
「決まりね!」
エレナは嬉しそうに笑った。
それを聞いていたミレーナが顔を上げた。
「あら、二人でお買い物?」
「ええ、そうよ」
「ふうん」
ミレーナは微笑んだ。
「何よ、その顔」
「別に。楽しんできてね」
エレナは少しだけ眉を上げたが、それ以上は何も言わなかった。
アルノーは本から顔を上げずに口を挟んだ。
「高橋、荷物持ちを頑張れよ」
「えっ、僕、荷物持ちなんですか?」
「違うわよ。そんなにたくさん買うつもりはないもの」
エレナが否定すると、アルノーが笑った。
「そう言っているうちは、まだ分からんぞ」
「もう、アルノーまで!」
四人の席に笑い声が広がった。
高橋は再び窓の外へ目を向けた。
帝都アウグステン。
この世界に来てから、ベルノ以外の大きな都市を訪れるのは初めてだった。
どんな街なのだろう。
少し楽しみになってきた。
夕食を終えるころには、窓の外はすっかり暗くなっていた。
列車は相変わらず規則正しい音を立てながら走り続けている。
車内の照明が灯され、兵士たちはそれぞれ談笑したり、本を読んだりして過ごしていた。
「さて、そろそろ寝る準備をしましょうか」
エレナが立ち上がった。
「高橋、寝台を作るから手伝って」
「はい。でも、どうやるんですか?」
「初めてだったわね。アルノー、お願い」
「はいはい」
アルノーは慣れた手つきで座席の上にある金具を外した。
すると、天井近くに折り畳まれていた寝台が、ゆっくりと下りてきた。
「おおっ!」
高橋が思わず声を上げる。
アルノーは寝台を水平にすると、支えの金具を固定した。
「これで上段は完成だ」
「なるほど、こうなっていたんですね」
「下段も作るぞ。そっちを持ってくれ」
向かい合わせの座席を操作すると、背もたれが倒れ、座面と合わせて平らな寝床になった。
エレナとミレーナも手伝い、反対側の寝台を組み立てる。
こうして、先ほどまで四人が向かい合って座っていた場所に、上下二段、合わせて四つの寝台ができあがった。
「すごいですね。昼間は座席で、夜はベッドになるんですか」
「長距離列車では普通よ」
エレナはそう言いながら、寝台の毛布を整えた。
高橋は興味深そうに金具を眺めていた。
東京の電車とはまるで違うが、よく考えられた仕組みだった。
「高橋、そんなに珍しいか?」
アルノーが笑った。
「ええ。日本にも寝台列車はありましたけど、僕は乗ったことがなかったので」
「そうか。まあ、慣れれば快適なものだぞ」
それぞれの寝台にはカーテンが備えられており、閉めれば小さな個室のようになる。
寝台の割り当ては、エレナとミレーナが下段、アルノーと高橋が上段となった。
「高橋、上で大丈夫?」
「はい、問題ありません」
「夜中に降りるときは気をつけてね。列車が揺れるから」
「分かりました」
隣のボックスでも、フリーダ班が寝台の準備を始めていた。
「イルマ、そっちの留め金をお願い。リーナは反対側を見てくれる?」
「はい」
「ゾフィー、寝具を出しておいてね」
フリーダは落ち着いた口調で指示を出しながら、自分も上段の寝台を引き下ろしていた。
金具を固定し、寝台が水平になったことを確かめる。
「はい、これで大丈夫ね」
四人は慣れた様子で作業を進めていた。
高橋が隣を覗くと、すでに寝台の展開はほとんど終わっていた。
「早いですね」
「あら、高橋。何度も乗ってるからね。もう慣れちゃったわ」
フリーダは笑いながら答えた。
「そっちはどう?」
「アルノーさんに教えてもらって、何とかできました」
「最初はちょっと戸惑うわよね。でも、覚えれば簡単よ」
そこへエレナが顔を出した。
「フリーダ、そっちはもう終わったの?」
「ええ、ちょうど終わったところ。エレナたちは?」
「こっちも終わったわ。高橋が珍しがって、あちこち見ていたけど」
「ふふっ、初めてなんだもの。仕方ないわよね」
フリーダは高橋の肩を軽く叩いた。
「明日は帝都よ。今夜はゆっくり休んでね」
「はい、ありがとうございます」
「おやすみ、高橋」
高橋とエレナは自分たちのボックスへ戻った。
やがて兵士たちはそれぞれの寝台に入り始めた。
高橋も上段へ登った。
天井が近く、座っていると少し窮屈だったが、横になれば十分な広さがある。
毛布をかぶり、カーテンを少し閉めてみる。
周囲の視線が遮られると、不思議と落ち着いた。
「高橋、どう?」
下からエレナの声がした。
「思ったより快適ですね」
「そうでしょう。揺れにもすぐ慣れるわよ」
向かいの上段では、アルノーが早くも横になっていた。
「明日は帝都だからな。寝坊するなよ」
「分かってますよ」
高橋が答える。
「それはお前に言ってるんじゃない。エレナに言ってるんだ」
「ちょっと、どういう意味よ!」
エレナが抗議すると、ミレーナが笑った。
「エレナ、買い物の日は朝から元気だものね」
「いいじゃない。久しぶりの帝都なんだから」
その声を聞きつけたのか、隣からフリーダが顔を出した。
「あら、明日は買い物に行くの?」
「ええ。高橋と行く約束をしたの」
「そう、いいわね。久しぶりの帝都だもの。楽しんできなさいよ」
「ありがとう。フリーダは?」
「私は補給品を少し確認しておきたいの。時間があったら街も歩いてみるつもりよ」
「相変わらず真面目ね」
「ふふっ。それ、エレナが言う?」
二人は顔を見合わせて笑った。
「じゃあ、また明日ね」
「ええ。おやすみ、フリーダ」
フリーダは軽く手を振り、自分のボックスへ戻っていった。
やがて照明が落とされ、通路には夜間用の小さな灯りだけが残った。
車輪の音が、いっそう大きく聞こえる。
ガタン、ゴトン。
ガタン、ゴトン。
高橋は毛布の中で寝返りを打った。
昼間、エレナから習ったエルフ語を頭の中で繰り返してみる。
方向、距離、人数。簡単な報告の言葉。
覚えなければならないことは、まだたくさんあった。
「高橋、まだ起きてる?」
下からエレナの小さな声がした。
「はい」
「明日、楽しみね」
「ええ。帝都って、どんなところなのか楽しみです」
「私のお気に入りのお店にも案内してあげる」
「はい、お願いします」
「それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみなさい、エレナさん」
高橋はカーテンを閉じた。
東京にいたころ、寝台列車に乗って旅をすることなど考えたこともなかった。
それが今は、異世界の軍用列車で、エルフの仲間たちと一緒に眠ろうとしている。
妙なものだと思った。
そして列車の心地よい揺れに身を任せ、ゆっくりと目を閉じた。
軍用列車は夜の雪原を走り続けていた。
*
翌朝。
高橋が目を覚ますと、窓の外はすでに明るくなっていた。
寝台から下りると、エレナが窓の外を眺めていた。
「おはよう、高橋」
「おはようございます」
「もうすぐ帝都よ」
高橋は窓へ近づいた。
昨日までの田園風景とは違い、線路の周囲には大きな建物が増えていた。
工場の煙突が何本も立ち、広い操車場には貨車が何列も並んでいる。
列車が進むにつれ、街並みはさらに大きくなっていった。
「すごいですね……」
高橋がつぶやく。
「ここはまだ帝都の外れよ」
エレナは笑った。
やがて列車は速度を落とし、いくつもの分岐器を通過していった。
遠くから汽笛が聞こえる。
貨物列車、客車、軍用車両。
広大な駅構内には無数の線路が延びていた。
そして、長いホームが見えてきた。
車内に到着を告げる声が響く。
「まもなく、アウグステン軍用駅に到着します。各部隊は降車準備を行ってください」
高橋は荷物棚から背嚢を下ろした。
エレナが班員たちに声をかける。
「みんな、忘れ物はないわね?」
「大丈夫だ」
アルノーが答えた。
「じゃあ、降りましょう」
列車がゆっくりとホームへ滑り込む。
車輪が軋み、やがて完全に停止した。
高橋は窓の外を見た。
そこには見渡す限りの駅施設と、大勢の軍人たちの姿があった。
帝都アウグステン。
帝国の政治と軍事の中心地。
高橋にとって初めての寝台列車の旅は、ここでひとまず終わった。
駅構内には何本もの線路が並び、貨車の入れ替えや物資の積み下ろしが行われていた。
先遣隊の兵士たちはホームに降り、部隊ごとに整列した。
ヴァルター少佐が全員を見渡す。
「本日は帝都で一泊する。明朝八時に再集合だ。遅刻した奴は尻を蹴り飛ばすからな」
兵士たちの間から笑いが漏れた。
「装備の管理は各班長の責任とする。外出する者は行き先を報告しろ。以上、解散!」
号令とともに兵士たちが動き出した。
特に用事のない兵士たちは、軍用駅に併設された兵舎で寝泊まりすることになっていた。
高橋たちも割り当てられた兵舎へ向かい、荷物を置いた。
昼前には自由時間となった。
「高橋、行きましょうか」
エレナが声をかけてきた。
「はい。どこへ行くんですか?」
「まずは市場ね。買いたいものがあるの」
二人は兵舎を出て、帝都の街へ向かった。
帝都アウグステンは、ベルノとは比較にならないほど大きな街だった。
広い石畳の道路には馬車が行き交い、通りの両側には何階建てもの建物が並んでいる。
冬の冷たい風が通りを吹き抜けていたが、街には大勢の人々が行き交い、活気に満ちていた。
商店の軒先では店員たちが声を張り上げ、荷馬車から商品を降ろす男たちが忙しそうに働いている。厚手の外套を着た女性たちが買い物袋を提げ、子供たちがその間を走り回っていた。
高橋は物珍しそうに周囲を見回していた。
「すごいですね。ベルノとは全然違います」
「帝都だもの。これでもまだ中心部じゃないのよ」
エレナは慣れた足取りで歩いていく。
しばらくすると、大きな市場に出た。
屋根のある商店街には、衣類、食料品、雑貨など、さまざまな商品が並んでいた。
「まずはこっちね」
エレナが入ったのは衣料品店だった。
棚には下着や靴下、肌着などが整然と並べられている。
「下着ですか?」
「そうよ。前線では洗濯も思うようにできないことがあるから、予備が必要なの」
エレナは生地を指先で確かめながら商品を選んでいく。
「ここの品物は質がいいのよ。少し高いけど、長持ちするわ」
「なるほど」
「高橋も買っておいたら? 軍から支給されるものだけじゃ不便でしょう」
「そうですね。せっかくだから」
高橋も何枚か選ぶことにした。
エレナは生地の厚さや縫い目を確かめながら、高橋の分まで品物を見てくれた。
「これなんかいいんじゃない?」
「じゃあ、それにします」
「ちゃんと大きさを確認しなさいよ」
「はい」
高橋は少し照れくさそうに答えた。
買い物を終えると、次は食料品を扱う店へ向かった。
エレナは塩、胡椒、乾燥させた香草を少しずつ購入していく。
「調味料ですか?」
「ええ。軍の食事って、どうしても単調になるでしょう?」
「そうですね」
「こういうものが少しあるだけで、ずいぶん違うのよ」
エレナは小さな包みを高橋に見せた。
「特に香草は便利よ。干し肉でもスープでも使えるから」
高橋は感心して頷いた。
店を出ると、通りの向こうを軍用の荷馬車が通り過ぎていった。
幌をかけた荷台には木箱が高く積まれ、車体の側面には軍の標章が描かれている。
その後ろには、銃を肩にかけた兵士たちが数人歩いていた。
高橋は何となく、その姿を目で追った。
ここは帝国の首都だった。
市場には豊富な商品が並び、街の人々はごく普通の生活を送っている。
けれど、その一方で、何千キロも離れた前線では今も戦争が続いている。
自分も明日には、そこへ向かう列車に乗るのだ。
「高橋?」
エレナに呼ばれ、高橋は振り返った。
「あ、はい」
「どうしたの?」
「いえ、何でもありません」
「そう?」
エレナは少し高橋の顔を見たが、それ以上は聞かなかった。
「じゃあ、最後にコーヒーを買っていきましょう」
「はい」
最後にエレナが立ち寄ったのは、コーヒー豆を扱う店だった。
店内には香ばしい匂いが漂っている。
エレナは店主と少し話し、豆の入った袋を手に取った。
「これも買うんですか?」
「もちろん」
エレナは笑った。
「あるとないとじゃ違うのよね」
「エレナさん、コーヒー好きですもんね」
「そうよ。特に寒い朝は、温かいコーヒーが飲みたくなるの」
エレナは満足そうに袋を受け取った。
高橋は、その様子を見て少し笑った。
普段は厳しい訓練を指揮する班長だが、こうして買い物をしている姿は、まるで別人のようだった。
一通り買い物を終えた二人は、市場の外にある小さな広場で休むことにした。
広場の中央には石造りの噴水があったが、冬のため水は止められていた。水盤には薄く雪が積もり、その縁には氷が張りついている。
周囲にはベンチが並び、買い物帰りの人々が腰を下ろしていた。
広場に面したパン屋からは焼きたてのパンの匂いが漂い、少し離れた場所では子供たちが雪を丸めて遊んでいる。
高橋は荷物を足元に置き、ベンチに腰を下ろした。
「結構買いましたね」
「そうね。でも必要なものばかりよ」
エレナも隣に腰を下ろした。
高橋は手袋を外し、冷たくなった指先を擦り合わせた。
広場の向こうでは、小さな子供が母親に手を引かれながら歩いていた。
子供はパン屋の店先に並んだ菓子を指さし、何かをねだっている。母親は困ったように笑いながら、子供の手を引いて店に入っていった。
高橋はその姿をぼんやりと眺めていた。
東京にいたころも、こんな光景はどこにでもあった。
学校へ行き、友人と話し、家に帰る。
そんな生活が当たり前だった。
それが今では、軍服を着て、銃を持ち、戦場へ向かおうとしている。
七月に召喚されてから、わずか半年。
ずいぶん遠いところまで来てしまった。
山中訓練では実際に銃を撃った。訓練とは違う緊張も味わった。
それでも、目の前にいる相手を狙って撃つことと、砲弾が降り注ぐ戦場に身を置くことは、まったく違うはずだった。
夜間訓練で聞いた百二十ミリ砲の轟音を思い出す。
あの砲弾が自分のいる場所へ飛んできたら、どうなるのだろう。
敵がどこにいるのかも分からないまま、突然砲撃を受けるかもしれない。
塹壕の中で身を伏せていても、必ず助かるとは限らない。
自分は本当に、そんな場所で生き残れるのだろうか。
「高橋」
エレナの声で、我に返った。
「はい?」
「戦場へ行くの、怖い?」
突然の質問だった。
高橋は少し考えてから答えた。
「……はい。怖いです」
エレナは黙って続きを待った。
「訓練では何度も教わりましたけど、本当の戦場がどんなところなのか、まだ分かりませんし」
「そうね」
「砲撃とか、敵の攻撃とか……。考えると手が震えます」
高橋は自分の手を見つめた。
先ほどまで冷たさのせいだと思っていた指先が、かすかに震えていた。
「訓練では、いつもエレナさんたちがいますから。何かあっても、どうすればいいか教えてもらえますし」
高橋は言葉を探した。
「でも、戦場では何が起こるか分からないんですよね」
「ええ。そうね」
「自分がちゃんと動けるのか……正直、自信がありません」
エレナは静かに頷いた。
「怖くて当たり前よ」
「エレナさんもですか?」
「もちろん。私だって怖いわ」
高橋は意外そうに顔を上げた。
「そうなんですか?」
「そうよ。死にたくないもの」
エレナはあっさりと言った。
「長く兵隊をやっているからって、怖くなくなるわけじゃないのよ」
「……そうなんですね」
「それに、怖いと思うことは悪いことじゃないわ。慎重になるから」
エレナは広場の向こうへ目を向けた。
子供たちが笑いながら走り回っている。
その向こうを、軍服姿の兵士が二人、買い物袋を提げて歩いていった。
「戦場ではね、怖がらない人より、怖さを知っている人の方が長生きすることもあるのよ」
高橋は黙って聞いていた。
「でも、怖がってばかりでも疲れてしまうでしょう?」
「はい」
エレナは高橋の顔を見た。
そして、ふっと微笑んだ。
「そうね……少し忘れさせてあげようか」
「え?」
高橋が聞き返すと、エレナは立ち上がった。
「ほら、行きましょう」
「どこへですか?」
「いいから」
エレナは高橋の手を取った。
高橋は慌てて荷物を持ち上げ、引かれるままに歩き出した。
市場の喧騒が遠ざかり、二人は人通りの少ない通りへ入った。
建物の間から差し込む冬の日差しが、石畳を淡く照らしていた。
エレナは高橋の手を引いたまま、一軒の宿屋の前で足を止めた。
高橋が看板を見上げる。
振り返ったエレナと目が合った。
高橋は少し顔を赤らめたが、つないだ手を離さなかった。
エレナは微笑むと、宿屋の扉を開けた。
二人はそのまま中へ入っていった。
*
部屋に案内されると、エレナは買い物の荷物をテーブルに置いた。
高橋は少し緊張した様子で、部屋の中を見回していた。
エレナは高橋のそばへ歩み寄った。
「ねえ、高橋。こっちを向いて」
高橋が振り向くと、エレナは両手を彼の肩に置いた。
「今は私のことだけみてて」
そう言って、優しく口づけた。
高橋は戸惑いながらも、彼女を抱きしめた。
エレナもその背中に腕を回した。
二人はしばらくそのまま抱き合っていた。
*
部屋の中は静かだった。
窓の外から、遠くを走る馬車の音がかすかに聞こえてくる。
高橋はベッドに横になったまま、天井を見つめていた。
隣ではエレナが、穏やかな表情でくつろいでいる。
「ねえ、高橋」
「はい?」
「どうだった?」
高橋は少し考えた。
「……なんか幸せな気持ちです」
その答えを聞いて、エレナは優しく微笑んだ。
「そう。ならよかったわ」
そう言うと、エレナは身を寄せ、高橋の唇にそっとキスをした。
高橋は照れくさくなり、少し離れて毛布をかぶった。
「あら、高橋。何をそんなに離れてるの?」
「えっ、いや……」
「こっちに来なさい」
エレナは毛布を少し持ち上げた。
「裸で抱き合って寝るの、気持ちいいのよ。ほら、おいで」
高橋は少し迷ったが、エレナの方へ身体を寄せた。
「そうそう」
エレナは高橋を優しく抱き寄せた。
「ほら、温かいでしょう?」
「……はい」
「ふふっ。そんなに緊張しなくていいのよ」
高橋もおずおずとエレナの背中に腕を回した。
「そう。それでいいの」
しばらく二人は、そのまま抱き合っていた。
「エレナさん……ありがとうございます」
「もう、またお礼?」
エレナはくすりと笑った。
「お礼はいいわ。亘一、あなたは私の男よ。意味、わかる?」
「えっ……」
高橋は思わず顔を上げた。
「私の男。つまり、そういうことよ」
エレナは高橋の頬に手を添えた。
「それとも、水野がよかった?」
「えっ、先生ですか?」
突然出てきた名前に、高橋は目を丸くした。
「そうよ。胸、大きいものね」
エレナはいたずらっぽく微笑んだ。
「男の人って、やっぱりああいうのが好きなんでしょう?」
「い、いや、そんなこと……」
「あら、違うの?」
「先生は先生ですよ!」
慌てて答える高橋を見て、エレナはとうとう声を出して笑った。
「あははっ! ごめんなさい。ちょっと意地悪しちゃった」
「もう、勘弁してくださいよ……」
「ふふっ。高橋って、からかうと本当に面白いわね」
エレナは笑いながら、高橋をもう一度抱き寄せた。
「でもね、亘一」
「はい?」
「たぶん私たち、うまくいくわ」
先ほどまでとは違う、穏やかな声だった。
「……そうですか?」
「ええ。わかるもの」
エレナは高橋の目をじっと見つめた。
「あなたと一緒にいると、私も安心するの。無理に何か話さなくてもいいし、こうしているだけで気持ちがいいわ」
エレナは少しだけ顔を近づけた。
「今度は、あなたからキスして」
高橋は一瞬ためらった。
これまではエレナの方からキスしてくれていた。自分からとなると、どうしても緊張してしまう。
「ほら、遠慮しないで」
エレナは目を閉じた。
高橋はそっと彼女の頬に手を添え、顔を近づけた。
二人の唇が静かに重なった。
しばらくして唇が離れると、エレナは満足そうに微笑んだ。
「うん。上手にできたわね」
「……子供扱いしてません?」
「あら、そんなことないわよ」
そう言いながら、エレナはもう一度、高橋に口づけた。
今度は高橋もためらわず、彼女を抱き寄せた。
「あら?」
エレナは高橋の様子に気づき、いたずらっぽく微笑んだ。
「あら、元気ね」
「えっ、いや、その……」
「ふふっ。そんなに慌てなくてもいいのよ」
エレナは高橋の頬を優しく撫でた。
「時間はあるわ。ゆっくり私を感じて」
高橋は黙って頷いた。
エレナは優しく微笑み、彼を抱き寄せた。
窓の外では、帝都の夜が静かに更けていった。
*
翌朝、帝都アウグステンの軍用駅は、早くから大勢の兵士たちで賑わっていた。
ホームには中部戦線へ向かう軍用列車が停車している。
貨車への物資の積み込みはほぼ終わり、輸送係の兵士たちが最後の確認を行っていた。
浸透偵察小隊も集合を終え、班ごとに整列していた。
高橋はエレナ班の列に並んでいた。
隣にはアルノーとミレーナ、その少し先にはフリーダ班の姿も見える。
前夜、駅の兵舎に戻らず市内で外泊したのは、エレナと高橋の二人だった。
小隊の者たちは皆、そのことを知っていた。
だが、誰も二人に余計なことは聞かなかった。
やがてヴァルター少佐が姿を現した。
各班長から人員の報告を受けると、ヴァルターは整列した隊員たちをぐるりと見渡した。
「よし! 野郎ども、揃ってるな!」
大きな声がホームに響き渡った。
「次は戦場だ! 乗り込め!」
「了解!」
隊員たちが一斉に答えた。
ヴァルターの号令で、浸透偵察小隊は各班ごとに列車へ乗り込み始めた。
「さあ、私たちも行きましょう」
エレナが高橋たちに声をかけた。
「はい!」
高橋は背嚢を背負い直し、エレナの後に続いた。
客車に乗り込むと、再び四人掛けの区画へ向かった。
アルノーが荷物棚に背嚢を上げ、ミレーナも自分の席に腰を下ろした。
高橋が荷物を片づけていると、通路をヴァルター少佐が歩いてきた。
「エレナ班、全員揃っているな?」
「はい、少佐」
「よし」
ヴァルターは軽く頷くと、高橋に目を向けた。
「高橋、ちょっといいか」
「はい」
高橋が通路に出ると、ヴァルターは少し身をかがめ、小声で言った。
「いい顔になったな。生き残れよ」
高橋はヴァルターを見上げた。
いつもの豪快な笑顔ではなかった。
「……はい!」
ヴァルターは高橋の肩を軽く叩くと、何事もなかったように次の区画へ歩いていった。
高橋はその後ろ姿を見送った。
席に戻ると、エレナが微笑んだ。
「さあ、高橋。いよいよ戦場ね」
「はい」
高橋はしっかりと頷いた。
やがて汽笛が鳴り響いた。
列車がゆっくりと動き始める。
帝都アウグステンの軍用駅が、少しずつ遠ざかっていった。
ベルノ連隊第一陣は、いよいよ中部戦線へ向けて出発した。