第1節 戦線到着
帝都アウグステンを出発して五日目の朝。
蒸気機関車が長い汽笛を鳴らし、ゆっくりと速度を落としていった。
窓の外には、雪に覆われた町並みが見える。
イジューム。
人口およそ五千人。中部戦線へ向かう鉄道の終着駅であり、前線への補給拠点となっている町だった。
帝都からここまで四泊五日。鉄道は地形や都市を経由して敷設されているため、まっすぐ前線へ向かうわけではない。途中の駅では給水や給炭、軍需物資の積み降ろしのために何度も停車した。
長かった鉄道移動も、ようやく終わろうとしていた。
駅に近づくにつれ、線路の数が増えていく。何本もの側線には貨車が並び、駅の周囲には大小の倉庫が立ち並んでいた。
高橋は窓からその光景を眺めていた。
「ずいぶん大きな駅ですね」
向かいに座っていたエレナが窓の外を見る。
「この先は前線だからね。兵隊も物資も、ほとんどがここを通るのよ」
列車がホームに停車した。
扉が開くと、冷たい空気とともに騒がしい声が飛び込んできた。
「弾薬は三番倉庫だ! そっちじゃない!」
「その貨車はまだ動かすな!」
「馬を先に降ろせ! 後がつかえてるぞ!」
駅構内は軍人と労働者でごった返していた。
貨車からは木箱や麻袋が次々と降ろされ、荷馬車へ積み替えられている。別の線路では、石炭を積んだ貨車が小さな蒸気機関車に引かれて移動していた。
ホームには銃を担いだ兵士たちが列を作り、反対側では負傷兵を乗せた担架が列車へ運び込まれていた。
ベルノの駅とはまるで違う。
高橋は荷物を背負って列車を降りた。
「ここが前線なんですか?」
「まだよ。戦線までは三十キロほどあるわ」
エレナが答えた。
「ここは敵の重砲が届かない場所なの。だから大きな補給拠点を置けるのよ」
駅の外に目を向けると、町のあちこちに軍用倉庫や兵舎が建っていた。元からあった商店や民家の間にも軍用車両や荷馬車が停まっている。
小さな町が、軍隊によって膨れ上がっているようだった。
駅の一角からは、幅の狭い線路が別の方向へ延びていた。
「あれは軽便鉄道よ」
高橋の視線に気づいたエレナが説明する。
「前線のいくつかの地区には、あれで物資を運んでいるの。でも、私たちが向かう地区には線路が通っていないから、ここからは馬で移動することになるわ」
「なるほど……」
線路がなければ、残りの物資は馬車や軍用車両で運ばなければならない。
ここから先は輸送だけでも大変そうだった。
高橋たちは小隊の集合場所へ向かった。
* * *
駅の外にある軍用広場では、ベルノ浸透偵察小隊の隊員たちが出発準備を進めていた。
鉄道で運ばれてきた馬も降ろされ、各班に割り当てられている。
隊員たちは鞍や荷物を点検し、武器を取り出して装備を整えていた。
高橋も自分の馬の背に荷物を固定していた。
「高橋、そっちの紐、もう少し締めて」
「はい」
エレナに言われて締め直す。
「これでいいですか?」
「うん、大丈夫」
アルノーとミレーナも準備を終え、馬のそばで待っていた。
周囲では他の班も次々と準備を終えている。
やがて、ヴァルター少佐が馬に乗って広場の中央へ進み出た。
「おい、全員揃ってるな!」
各班長が返事をする。
ヴァルターは一同を見渡した。
「野郎ども、準備はいいか!」
すると、小隊のどこかから声が上がった。
「女の方が多いぞ!」
「うるせぃ! こっちのほうが締まりがいいんだよ、茶化すな!」
小隊員たちからどっと笑い声が上がった。
ヴァルターも笑いながら馬の手綱を握り直した。
「よし! 出発!」
その号令で、小隊が動き始めた。
先頭のヴァルターに続き、各班が順番に馬を進める。
約五十名の騎馬の列が、イジュームの町を抜けて前線へ向かった。
* * *
町の中心部を抜けると、道の両側には倉庫や軍の施設が目立つようになった。
道路は雪が踏み固められ、所々に馬車の車輪が刻んだ深い轍が残っている。
軍用の荷馬車が何台も連なり、その間を徒歩の兵士たちが行き交っていた。
重い荷物を背負った歩兵の一団とすれ違う。
先頭を歩いていた兵士が、こちらへ声をかけた。
「ようこそ前線へ! どこの部隊だ!」
「ベルノだ!」
ヴァルターが大声で返す。
「頑張れよ!」
「おう、お前らもな!」
兵士たちは笑いながら手を振り、再び歩き始めた。
高橋も軽く手を上げた。
周囲の兵士たちは、意外なほど明るかった。
前線に向かう者もいれば、前線から戻ってくる者もいる。疲れ切った顔の兵士もいたが、仲間同士で冗談を言い合っている者も多い。
戦場へ向かう道というより、巨大な軍の駐屯地を移動しているような光景だった。
「思ったより普通ですね」
高橋がつぶやくと、隣を進むエレナが振り向いた。
「何が?」
「もっと殺気立っているのかと思ってました」
「ああ、そういうことね」
エレナは少し笑った。
「ここはまだ後方だから。前線に近づけば雰囲気も変わるわよ」
「そうですか……」
「それに、ずっと緊張していたら身体がもたないでしょ。兵隊だって、普段はこんなものよ」
確かにそうかもしれない。
ベルノの駐屯地でも、兵士たちはよく笑い、酒を飲み、馬鹿な話をしていた。
戦争をしているからといって、四六時中深刻な顔をしているわけではないのだ。
しばらく進むと、周囲の建物が少なくなり、畑や林が広がり始めた。
雪に覆われた畑の向こうには、低い丘陵が続いている。
道路沿いには、一定の間隔で道標が立てられていた。
地名や距離とともに、軍の部隊名や補給所の方向を示す標識もある。
分かれ道には交通整理の兵士が立ち、馬車と軍用車両の行き先を振り分けていた。
馬車の列とすれ違うたびに、小隊の隊列が少し狭くなる。
荷馬車には食料の袋や木箱が山積みにされ、中には大きな砲弾を積んだものもあった。
それを見た高橋は、改めて戦争の規模を実感した。
ここを通る物資のすべてが、前線で消費されていくのだ。
「すごい量ですね」
「これでも一部よ」
エレナが答える。
「前線には何万人もの兵隊がいるの。食料だけでも毎日相当な量が必要になるわ」
高橋は振り返った。
はるか後方には、イジュームの町から立ち上る煙が見える。
あの駅には、今も列車が到着し、荷物が運び込まれているのだろう。
その物資が馬車に積み替えられ、こうして前線へ送られていく。
戦争とは、ただ銃を撃ち合うだけのものではない。
そんな当たり前のことを、目の前の光景が教えてくれていた。
* * *
小隊は途中で短い休憩を挟みながら、さらに道を進んだ。
道沿いには時折、小さな村が現れた。
民家の軒先には薪が積まれ、畑には雪が残っている。
軍隊が行き交う道のすぐそばでも、住民たちは普段の生活を続けていた。
井戸端で水を汲む女性や、荷車を押す老人の姿も見える。
子供たちが騎馬の列を珍しそうに眺め、手を振ってきた。
高橋が手を振り返すと、子供たちは嬉しそうに笑った。
「なんだか、ベルノとあまり変わらないですね」
エレナは前方を見たまま答えた。
「そうね。でも、この先には戦場があるのよ」
その言葉に、高橋は少し黙った。
ここに暮らす人々にとって、戦争は遠くの出来事ではない。
すぐ近くで、何年も続いている日常なのだ。
やがて、道路の先に軍の検問所が見えてきた。
土嚢を積んだ小さな監視所と、木製の遮断機。
数名の歩哨が銃を肩にかけ、通行する兵士や馬車を確認していた。
先頭のヴァルターが馬を止め、書類を提示する。
歩哨は書類を確認すると、敬礼して遮断機を開けた。
小隊は再び進み始めた。
そこから先は、道の両側に軍用の建物が増えていった。
通信線が道路沿いの電柱を伝い、何本もの線が建物へ引き込まれている。
馬をつないだ厩舎や、車両の整備場らしい建物も見える。
さらに進むと、周囲を柵で囲まれた施設が現れた。
入口には武装した歩哨が立っている。
門の脇には、第121師団司令部を示す標識が掲げられていた。
ヴァルターが馬を止め、後ろを振り返った。
「よし、着いたぞ!」
小隊の列がゆっくりと停止する。
「第百二十一師団……」
高橋が標識を読み上げると、隣にいたエレナが口を開いた。
「三桁師団ね」
「三桁師団?」
「帝国軍の師団には、大きく分けて二つの種類があるの。中央軍だけで編成される正規師団と、地方領主の部隊を組み込んで編成される師団よ」
「番号で区別しているんですか?」
「そう。三桁の番号が付いた師団は、基本的に防御を担当する部隊なの」
エレナは司令部の建物へ目を向けた。
「三桁師団にも中央軍の兵士はいるわ。師団司令部のほか、砲兵、工兵、通信、補給なんかの支援部隊と、歩兵一個連隊程度が基幹になっているの。そこに私たちのような地方部隊が加わって、一個師団になるのよ」
「じゃあ、ベルノ連隊も第121師団の一部になるんですか?」
「今回の派遣中は、その指揮下に入るわ。ほかの地方連隊と合わせて、一万人を少し超えるくらいの規模になるはずよ」
「なるほど」
「中央軍の正規師団より格下に見られることもあるけど、弱いとは限らないのよ。長く戦線を守ってきた地方部隊もあるからね」
高橋は頷いた。
ベルノ連隊も地方領主であるオリヴィエ伯爵の部隊だ。平時は領主の指揮下にあり、こうして前線へ派遣されると中央軍の指揮系統に組み込まれる。
三桁師団とは、帝国が各地の領主軍をまとめて戦線を維持するための仕組みなのだ。
そのとき、先頭にいたヴァルターが振り返った。
「お前ら、ちょっと待ってろ! フリーダ、ついてこい。師団長への挨拶だ」
「はい、少佐」
フリーダ軍曹が馬を降りた。
ヴァルターも下馬すると、近くの隊員に手綱を預けた。
「少し休んでろ。すぐ戻る」
二人は歩哨に声をかけ、師団司令部の建物へ入っていった。
* * *
残された小隊員たちは、道路の邪魔にならない場所へ馬を寄せ、小休止に入った。
高橋も馬を降り、固くなった脚を伸ばした。
「ふう……」
「疲れた?」
エレナが笑いながら尋ねた。
「少し。やっぱり馬に乗りっぱなしだと、脚が疲れますね」
「まだ先があるから、今のうちに休んでおきなさい」
隊員たちは思い思いに休息を取っていた。
水筒に口をつける者、馬の様子を確かめる者、仲間と雑談する者。
司令部の周囲では軍用馬車や徒歩の兵士が行き交っている。
高橋は建物を眺めた。
「ここで詳しい説明を受けるんですか?」
「いいえ。作戦地域の地図も、部隊配置も、必要な情報は帝都でもらっているわ。今日は予定どおり、交代先の連隊本部まで進むことになっているの」
「じゃあ、少佐は挨拶だけですか?」
「基本的にはね。でも、現地の最新情報は聞いてくるでしょう」
「なるほど」
「前線の状況は変わるからね。帝都で聞いた話が、今もそのままとは限らないもの」
そう言ってエレナは自分の馬の首を軽く撫でた。
高橋も馬の様子を確かめる。
ここまでの行軍は順調だった。道路の状態も悪くなく、途中で特に問題が起きることもなかった。
小隊はこの先、現在の防衛部隊が駐屯している連隊本部へ向かう。
そこで現地の部隊と合流し、警戒区域や陣地の状況を確認する予定だった。
高橋はもう一度、師団司令部に目を向けた。
大きな建物というほどではなかったが、周囲には通信線が張り巡らされ、伝令らしい兵士が頻繁に出入りしている。
ここで多数の部隊の指揮が執られているのだ。
しばらくすると、司令部の入口からヴァルターとフリーダが姿を現した。
「よし、全員集まれ!」
ヴァルターの声に、休んでいた隊員たちが動き始めた。
班長たちが部下を呼び集め、出発準備を整える。
ヴァルターは馬に乗ると、小隊員たちを見渡した。
「師団長に挨拶してきた。最新の話じゃ、このところ戦線は落ち着いているそうだ」
隊員たちの間に、少し安堵した空気が流れた。
「大きな攻撃もなく、陣地に変化もない。予定を変更する必要はなさそうだ」
ヴァルターは前方を指さした。
「このまま交代先の連隊本部まで行く。現地で引き継ぎを受けるぞ!」
「了解!」
各班長が返事をした。
フリーダも馬に乗り、隊列へ戻っていく。
「高橋、出発よ」
「はい!」
高橋は鞍に足をかけ、馬にまたがった。
全員の準備が整ったのを確認すると、ヴァルターが手を上げた。
「よし、出発!」
先頭の馬が歩き始めた。
約五十名の浸透偵察小隊は、第121師団司令部を後にして、さらに前線へ向かっていった。
* * *
第121師団司令部から先は、周囲に森林が広がる道が続いていた。
道路沿いには時折、土嚢を積んだ監視所や軍の資材置き場が現れる。
行き交う兵士の数は次第に少なくなっていた。
しばらく進むと、木々に囲まれた一角に軍の施設が見えてきた。
木造の兵舎や倉庫が並び、建物の間には通信線が張られている。入口には歩哨が立ち、軍用馬車が数台停まっていた。
「ここが交代先の連隊本部だ」
ヴァルターが後方へ声をかけた。
門の前まで進むと、歩哨が近づいてきた。
高橋は、その兵士の姿を見て少し驚いた。
背が低い。
しかし、肩幅は広く、身体は驚くほどがっしりしていた。顔には濃い髭を蓄え、分厚い冬用軍服の上からでも頑丈そうな体格がわかる。
「あれがドワーフですか?」
高橋が小声で尋ねた。
「そうよ。北ドワーフね」
エレナが答えた。
「今回交代するのはギョーム伯爵領の連隊なの。北方山脈の北側にある領地で、北ドワーフが多く暮らしているところよ」
高橋は新兵教育で習った地理の授業を思い出した。
確か、ドワーフが多く暮らす地域として、ハルデンという地名を習ったはずだ。
「ハルデンとは違うんですか?」
「ハルデンは北方山脈の南側よ。あちらは南ドワーフね。ギョーム伯爵領は山脈の北側だから北ドワーフ。同じドワーフでも言葉が違うのよ」
「ああ、そういえば授業で習いましたね」
高橋は頷いた。
地理の授業では地図を見ながら各地の領主や住民の種族について教わったが、実際にその土地の兵士を見るのは初めてだった。
「エレナさんは北ドワーフと会ったことがあるんですか?」
「いいえ、私も初めてよ」
「そうなんですか」
「ええ。南ドワーフとは会ったことがあるけどね」
高橋はもう一度歩哨を見た。
教科書で習った帝国の地理が、少しだけ身近なものに感じられた。
歩哨はヴァルターの提示した書類を確認すると、敬礼して門を開けた。
* * *
小隊は敷地内の広場に馬を並べて停止した。
「フリーダ、行くぞ。伯爵への挨拶だ」
「はい、少佐」
ヴァルターとフリーダは馬を降り、連隊本部の建物へ向かった。
案内された部屋には、大きな机が置かれ、壁には戦線の地図が何枚も掲げられていた。
机の向こうに、一人の男性が座っていた。
六十代と思われる、白髪交じりの短い髪をした男性だった。顔には深い皺が刻まれているが、表情は穏やかで、どこか人懐こい雰囲気があった。
「ベルノ連隊浸透偵察小隊長、ヴァルター・エルフェン少佐、着任いたしました」
ヴァルターが敬礼する。
「同じく、フリーダ・ベルガー軍曹です」
「おお、よく来たな! 長旅だったろう」
男性は立ち上がると、二人に歩み寄った。
「私がギョームだ。まあ、楽にしてくれ」
これがギョーム伯爵だった。
「ありがとうございます、閣下」
「堅苦しい挨拶はそれくらいでいい。ベルノから来たんだったな。若い伯爵殿が新しく就任したと聞いているぞ」
「はい。昨年八月に就任されました」
「そうかそうか。まだ若いのに大変だな。よろしく伝えておいてくれ」
ギョーム伯爵は笑いながら二人に椅子を勧めた。
ヴァルターは、ずいぶん気さくな人物だと思った。
地方領主の中には、こうした人物が少なくない。
特に亜人の住民を多く抱える領地では、人間の領主が権威ばかり振りかざしていては領民との関係がうまくいかない。種族の異なる住民たちと友好的な関係を築くため、日頃から気さくに接する領主が多いとも聞いていた。
ギョーム伯爵も、長年北ドワーフたちと暮らしてきた人物なのだろう。
「さて、仕事の話をしようか」
伯爵は机の上に広げられた地図へ二人を招いた。
「こちらが現在の担当区域だ」
地図には森林、丘陵、道路、河川などの地形とともに、各歩兵中隊の陣地が細かく書き込まれていた。
「この一帯を我が連隊が守っている。前面が敵陣地だ。こちらに前進陣地があって、後方には予備陣地と連絡路がある」
伯爵は指で地図をなぞりながら説明した。
「各陣地の配置はここに記してある。塹壕、掩体壕、監視哨、連絡路、それに補給路だ。砲兵の陣地も載せてあるが、そちらの詳しいことは後で担当者に聞いてくれ」
ヴァルターとフリーダは身を乗り出して地図を確認した。
「こちらの森林は?」
ヴァルターが一角を指さした。
「現在は我が方の警戒区域だ。監視哨がいくつかあるが、常時兵を置いていない場所もある」
「なるほど」
「敵もこのところは静かなものだ。たまに砲撃があるくらいで、大きな攻撃はない。ただし、偵察兵が入ってこないとは限らんからな」
「承知しました」
フリーダも地図を確認しながら尋ねた。
「閣下、こちらの沢沿いは通行できますか?」
「できるぞ。ただ、雪解けの時期は水が増える。今は凍っている場所もあるから、現地で確認したほうがいい」
「ありがとうございます」
伯爵はさらに、前線の監視哨や警戒経路について説明を続けた。
帝都で受領した地図にも部隊配置は記されていたが、目の前の図面には実際の陣地や連絡路の位置まで細かく書き込まれている。
ヴァルターにとっては、こちらの情報のほうが重要だった。
「詳しい資料は写しを渡そう。現地の案内も必要なら兵をつける」
「助かります」
「なに、こちらも交代してもらう立場だからな。引き継ぎはきちんとせんと、お互い困る」
伯爵は笑った。
「ところで、お前さんたちは五十人ほどだったな?」
「はい。浸透偵察小隊の先遣隊です。連隊主力は後日到着します」
「それなら宿営場所が必要だな」
伯爵は地図の一角を指さした。
「この本部の近くに森林がある。あそこなら場所も広いし、風も避けられる。しばらく使ってくれて構わんぞ」
「ありがとうございます。そこを仮宿営地にさせていただきます」
「ああ、それと馬だが、後方の補給部隊の宿営地に馬小屋がある。そちらを使ってくれ」
伯爵は窓の外に目を向けた。
「この辺りはベルノより雪も多いし、寒いからな。馬まで野宿させることはあるまい」
「それは助かります。馬の管理も楽になります」
「なに、厩舎には余裕がある。飼料も補給部隊から出させよう。必要なときに連れてくればいい」
「ご配慮、感謝いたします」
「うむ。まずは落ち着いてくれ。仕事は明日からでよかろう」
伯爵はそう言って笑った。
* * *
ギョーム伯爵との面会を終えたヴァルターとフリーダが、連隊本部の廊下を歩いていると、背後から声をかけられた。
「おう、ベルノの連中だな!」
振り返ると、髭を蓄えたドワーフの兵士が立っていた。
背は低いが肩幅が広く、がっしりとした体格をしている。
「そうだが、何か用か?」
「ちょっと待ってろ。着任祝いだ!」
ドワーフは近くの部屋へ引っ込むと、木箱を抱えて戻ってきた。
中には酒瓶が何本も詰められている。
「ほら、持っていけ!」
「おいおい、なんだこりゃ?」
「酒だよ、酒! 見りゃわかるだろ!」
ドワーフは豪快に笑った。
「こっちの冬は寒いぞ。こいつを飲めば寒さがしのげる!」
「ははは! そいつはありがたい!」
ヴァルターも笑った。
フリーダが木箱の中を覗き込む。
「ずいぶんいただきましたね」
「五十人もいるんだろ? これくらい必要だ!」
ドワーフはそう言って、得意そうに胸を張った。
「ギョームの連中は酒好きばかりでな。お前らも遠慮するな!」
「ありがたくいただくぜ。伯爵にも礼を伝えておいてくれ」
「おう! ベルノの連中にもよろしくな!」
ドワーフは手を振って去っていった。
ヴァルターは木箱を見下ろし、愉快そうに笑った。
「いやあ、気前のいい連中だな」
「少佐、これどうします?」
「とりあえず持っていこう。今夜は寒そうだしな」
フリーダは苦笑した。
「飲みすぎないようにしてくださいよ」
「わかってるって!」
そう答えるヴァルターの顔は、すでに上機嫌だった。
* * *
連隊本部の外では、小隊員たちが帰りを待っていた。
ヴァルターとフリーダが木箱を抱えて戻ってくると、近くにいた隊員が声を上げた。
「少佐、それは何ですか?」
「着任祝いだとよ! ギョームの連中から酒をもらった!」
「おおっ!」
周囲の隊員たちから歓声が上がった。
「寒さがしのげるそうだ!」
ヴァルターが笑いながら言う。
フリーダは木箱を近くの隊員に預けた。
「まずは宿営地を設営するわよ。お酒はその後!」
「了解!」
小隊員たちから笑い声が上がった。
高橋はその様子を見ながら、隣のエレナに尋ねた。
「ドワーフって、酒好きなんですか?」
「そういう人が多いとは聞くわね。でも、私も北ドワーフと会うのは初めてなのよ」
「そうでしたね」
「ええ。ずいぶん気前のいい人たちね」
エレナも笑っていた。
ヴァルターが声を張り上げた。
「よし、お前ら! 今日の宿営場所が決まったぞ!」
小隊員たちが集まってくる。
「本部の近くの森林を使わせてもらう。馬は後方の補給部隊の厩舎に預けることになった。今日は宿営地の設営だ!」
ヴァルターはフリーダに向き直った。
「フリーダ、何人か連れて宿営場所を確認してこい」
「了解です」
「馬の方はゲルフ、頼めるか?」
「はい、少佐」
「必要な荷物は先に降ろしておけ。馬を預けたら戻ってこい」
隊員たちはそれぞれの作業に取りかかった。
高橋も馬から荷物を降ろし、天幕や寝具をまとめた。
やがてフリーダが戻ってきた。
「少佐、森林の少し奥に平坦な場所があります。風も避けられそうです」
「よし、そこにする。各班、移動!」
* * *
森林の中は、道路よりも雪が深かった。
高い針葉樹が立ち並び、地面には枯れ枝や落ち葉が雪の下に埋もれている。
フリーダが選んだ場所は、周囲を木々に囲まれた比較的平坦な土地だった。
「ここなら悪くないな」
ヴァルターが周囲を見渡した。
「よし、各班で天幕を張れ! 炊事場と便所は離して設けるんだぞ!」
号令とともに隊員たちが動き始めた。
高橋たちエレナ班も、荷物を運び込んだ。
「まず雪をどけましょう」
アルノーがスコップを取り出した。
「高橋、そっちをお願い」
「はい!」
高橋は雪をかき始めた。
雪は思ったより深く、踏み固められた部分は硬くなっていた。
アルノーと二人で地面をならし、天幕を張る場所を確保する。
その間にエレナとミレーナが天幕や支柱を準備していた。
「高橋、そこに支柱を立てて」
「はい!」
指示に従って支柱を立て、ロープを張る。
ベルノで何度も練習した作業だった。
天幕を張り終えると、次は地面からの冷気を防ぐために敷物を敷き、寝具や装備を運び込んだ。
周囲でも同じような作業が進んでいる。
木々の間に次々と天幕が立ち上がり、仮宿営地らしい形ができていった。
別の班は炊事場を設け、薪を集めている。
少し離れた場所では、便所用の穴を掘る作業も始まっていた。
「こうして見ると、ずいぶん手際がいいですね」
高橋が感心したように言った。
「みんな慣れているからね。野営なんて何度もやっているもの」
エレナが笑った。
「ベルノの訓練と同じですね」
「そうよ。違うのは、ここが本当の戦場だってことくらいね」
高橋は周囲を見渡した。
作業の手順も、班員同士のやり取りも、ベルノでの訓練と変わらない。
しかし、ここから先には敵の陣地がある。
そのことを考えると、同じ作業でも少し違って感じられた。
しばらくすると、森林のあちこちから薪を割る音や隊員たちの声が聞こえてきた。
炊事場からは細い煙が立ち上っている。
ヴァルターとフリーダは宿営地を一回りし、各班の設営状況を確認していた。
「見張りの配置は後で指示する! 勝手に遠くへ行くなよ!」
隊員たちから返事が上がる。
日が傾く頃には、宿営地の設営もほぼ終わっていた。
* * *
森林の中には班ごとに天幕が並び、少し離れた場所には炊事場が設けられている。
馬は後方の補給部隊の厩舎に預けてあり、宿営地には必要な装備だけが運び込まれていた。
各班長はヴァルター少佐のもとに集まり、食事の時間や夜間の歩哨当番について打ち合わせを行っていた。
食事は炊事場が混雑しないよう班ごとに時間を分け、歩哨も班単位で交代することになっている。
高橋は天幕の中で寝具を広げていた。
地面には敷物を敷いてあるものの、下から伝わってくる冷気はかなりのものだった。
「うう、寒い……」
思わず声が漏れる。
隣ではアルノーが自分の寝具を整えていた。
「まだ日が出てるからいいけど、夜はもっと冷えるぞ」
「そうですよね……」
高橋は厚手の毛布を広げた。
ベルノでも冬の野営訓練は経験していたが、こちらはそれ以上に寒い気がする。
そこへ天幕の入口が開き、エレナが戻ってきた。
「お待たせ。今日の予定が決まったわよ」
「どうでした?」
「今日の食事は少し遅い時間ね。それと、今夜は私たちの班に歩哨当番はないわ」
「おお、それは助かります」
高橋はほっとした。
「明日からは交代で回ってくるから、今夜はゆっくり休んでおきなさい」
エレナはそう言いながら、自分の荷物を下ろした。
ミレーナも寝具の準備を終え、毛布を広げている。
「それにしても、やっぱり寒いですね」
高橋は手をこすり合わせた。
「ベルノよりずいぶん寒い気がします」
「ここは内陸だからね。冬の冷え込みが厳しいのよ。雪もベルノより多いし」
エレナは天幕の中を見回した。
「でも、本隊が到着すれば、もう少しまともな宿営地になるわ」
「そうなんですか?」
「ええ。今は先遣隊だから最低限の装備しか持ってきていないけど、本隊は仮設ベッドなんかの資材も運んでくる予定なの」
「ベッドですか!」
「もちろん立派なものじゃないわよ。簡単な組み立て式だけど、地面に直接寝るよりはずっとましになるわ」
アルノーも頷いた。
「地面から身体を離せるだけでも、だいぶ違うからな」
「なるほど……」
「それまでは我慢ね」
エレナは笑った。
高橋は改めて自分の寝床を見た。
毛布と寝袋を広げただけの簡素なものだ。
訓練のときなら、数日もすれば駐屯地の兵舎へ戻ることができた。
しかし、今回は違う。
これからしばらくの間、この森林が自分たちの生活する場所になるのだ。
* * *
やがて、炊事場から食事の準備ができたという知らせが届いた。
指定された時間になると、エレナ班の四人も食器を持って炊事場へ向かった。
大きな鍋から湯気が立ち上り、温かいスープの匂いが漂っている。
「今日は温かいものが食べられるだけありがたいな」
アルノーが言った。
「本当にそうですね」
高橋も頷いた。
受け取ったスープとパンを持ち、四人は天幕の近くに戻った。
冷たい空気の中で食べる温かい食事は、思いのほか美味しかった。
「明日は何をするんですか?」
高橋が尋ねた。
「まずは味方の警戒区域を確認するわ。陣地や監視哨の位置、連絡路なんかを実際に歩いて調べるの」
「帝都でもらった地図に載っている場所ですね」
「そう。でも地図だけじゃわからないことも多いから、実際に見ておく必要があるのよ」
エレナはスープを一口飲んだ。
「明日からは仕事よ。今日はしっかり休んでおきなさい」
「はい」
食事を終える頃には、森林の中はすっかり暗くなっていた。
各班の天幕からは小さな明かりが漏れ、炊事場では後の時間に割り当てられた班の隊員たちが食事を取っている。
歩哨に立つ隊員たちは装備を整え、交代の時間に合わせて持ち場へ向かっていた。
高橋たちには今夜の歩哨当番がない。
天幕に戻ると、四人はそれぞれ寝る準備を始めた。
高橋は寝袋に潜り込み、毛布を身体に引き寄せた。
「……やっぱり寒いですね」
地面から伝わってくる冷気が、なかなか消えない。
「高橋、こっちにいらっしゃい」
隣で寝具を整えていたエレナが声をかけた。
「え?」
「一緒に寝れば暖かいでしょ」
エレナは当然のように高橋を手招きした。
高橋はちらりと反対側を見た。
アルノーとミレーナも、すでに寝る準備を終えている。
「でも……二人もいるんですけど」
高橋がためらっていると、ミレーナが口を開いた。
「ねえ、高橋。こういうことは、あまり詮索しないのが不文律なんだけど……高橋、よくわかってないでしょ?」
「え? 何がですか?」
「帝都でエレナと外泊したでしょ?」
「えっ!」
高橋は思わず声を上げた。
「な、なんで知ってるんですか?」
「そんなの、みんな知ってるわよ」
ミレーナは呆れたように笑った。
「あれはね、エレナが小隊のみんなに『高橋は自分の男だ』って宣言したのと同じなのよ」
「ええっ!」
高橋は隣のエレナを見た。
エレナは否定するどころか、楽しそうに笑っている。
「おい、ミレーナ。あまり高橋を困らせるな」
アルノーが口を挟んだ。
「だって、こういうことは知っておかないとまずいでしょ?」
ミレーナは高橋に向き直った。
「いい、高橋? この小隊でも、これから情事の一つや二つあるかもしれないけど、いちいち気にしちゃ駄目だからね」
「じょ、情事って……」
「誰と誰が一緒に寝たとか、誰の天幕に出入りしたとか、そういうことを詮索したり、噂にしたりしないの。わかった?」
「は、はい……」
「それに、これは浸透偵察小隊だけの話じゃないわよ。帝国軍全体で、そういうことには余計な口を出さないものなの」
高橋は困惑した。
日本にいた頃の感覚では、同じ部屋で男女が抱き合って寝るなど、周囲の目が気になって仕方がない。
ところが、ここでは誰も気にしていないらしい。
「まあ、他人に迷惑をかけたり、任務に支障を出したりすれば別だけどな」
アルノーが付け加えた。
「そういうこと。だから高橋も、そんなによそよそしくしなくていいのよ」
ミレーナはそう言って、自分の毛布をかぶった。
エレナは一連のやり取りを聞きながら、ずっと笑っていた。
「ほら、高橋。もういいでしょ?」
エレナが再び手招きした。
「……はい」
高橋はようやくエレナの隣に身体を寄せた。
エレナは毛布を二人にかけ直し、高橋を抱き寄せた。
「暖かいでしょ?」
「……はい」
高橋もエレナの背中に腕を回した。
「最初からそうすればいいのに」
ミレーナが小さく笑う。
「ミレーナさん、もう勘弁してください……」
「はいはい。おやすみ」
「おやすみなさい」
アルノーも明かりを消し、天幕の中が暗くなった。
外では冷たい風が木々を揺らしている。
高橋はエレナの温もりを感じながら、目を閉じた。
「亘一」
耳元でエレナが小さく囁いた。
「はい?」
「私の男、なんだって」
声が笑っている。
「……聞こえてましたよ」
「ふふっ。おやすみ、亘一」
「おやすみなさい、エレナさん」
高橋は少し照れながらも、エレナを抱き寄せた。
明日からは、初めての前線での偵察任務が始まる。
不安がないわけではなかった。
だが、今はエレナが隣にいる。
高橋は彼女の温もりを感じながら、そのまま眠りについた。