アウレリア・アル・エルディア大尉は、最後にもう一度生徒たちへ一礼すると、数人の軍人を伴って兵舎を出ていった。
重い扉が閉まる。
途端に、兵舎のあちこちから話し声が上がり始めた。
「……すげえ美人だったな」
川崎が小声で呟いた。
「うん」
高橋も頷いた。
「しかもエルフだぞ! 本物のエルフ!」
山田はまだ興奮していた。
「お前、いい加減にしろよ」
井上が呆れたように言う。
「いや、だってさ。あんな美人、アニメでもなかなかいないぞ」
「お前、さっきからそればっかりだな」
「当たり前だろ。あの耳、すごかったじゃん!」
その会話が聞こえていたのか、高梨梓が笑いながら近づいてきた。
「アウレリア大尉、綺麗な方でしょう?」
「はい!」
山田が勢いよく返事をした。
「本当にエルフなんですか?」
「そうですよ。正真正銘のエルフです。ちなみに四十二歳ですよ」
「ええっ!」
川崎まで声を上げた。
「全然見えなかった……」
「エルフは長寿ですからね。人間とは年の取り方が違うんです。この地方にはエルフがたくさんいますよ。でも、本人の前であまり騒がないでくださいね」
「はい!」
山田は嬉しそうに頷いた。
その隣で木田哲夫が笑っていた。
「お前、エルフがそんなに好きなのか?」
「大好きです!」
「そうか。じゃあ、これから楽しいかもな。まあ、その前に覚えなきゃならないことが山ほどあるけどな」
木田は意味ありげに笑った。山田はその言葉には気づかず、何やら幸せそうに考え込んでいた。
高梨は兵舎の前方へ歩いていった。そこには大きな黒板が置かれていた。石井軍曹が黒板の位置を直し、木田と篠沢も近くの椅子に腰を下ろした。
「はい、皆さん。そろそろ始めますよ! これから、この世界と帝国について説明します。今日一日で全部覚える必要はありませんから、気楽に聞いてくださいね」
伊藤千尋が手を挙げた。
「質問してもよろしいですか?」
「もちろんです。わからないことがあったら遠慮なく聞いてください」
「ありがとうございます。あの、メモを取るものはありますか?」
召喚されたときに持ち物はすべて消えてしまった。千尋は手元を見て、困ったように微笑んだ。
「ああ、後で紙と筆記具を用意します。今日は説明を聞くだけで大丈夫ですよ」
「わかりました」
千尋は姿勢を正した。隣では水野香織が目を細め、黒板の方を見ている。眼鏡がなくなったため、少し離れた文字はほとんど見えない。
「伊藤さん、先生にも後で教えてね」
「はい。私が覚えておきます」
「ありがとう。助かるわ」
高梨はチョークを手に取った。
「さて、まずは世界の話からですね」
二つの大陸と千年戦争
高梨は黒板に大きな円を描いた。
「皆さん、地球は丸いですよね? こちらの世界も同じです。地球とほぼ同じ大きさの球体で、海と陸地があります」
円の中に、大きな二つの陸地を描く。
「大陸は大きく分けて二つあります。北寄りに位置する中央大陸と、南方大陸です」
井上が手を挙げた。
「地球のヨーロッパとかアジアとは違うんですか?」
「まったく違います。地球の地図とは似ていませんね」
「じゃあ、本当に別の惑星なんですか?」
「そう考えるのが自然ですね。ただ、地球からどのくらい離れているのか、そもそも同じ宇宙にあるのかもわかっていません」
「同じ宇宙かどうかも……」
井上は呆然とした。
山田が横から口を挟んだ。
「じゃあ、太陽とか月はあるんですか?」
「ありますよ。昼と夜がありますし、季節もあります。雨も雪も降ります」
川崎が小声で言った。
「じゃあ、何でこんなに寒いんだよ」
高梨が聞きつけた。
「今日は雨ですからね。それに、この地方は東京とは気候が違います。夏でも雨が降ると結構冷えるんですよ。冬は雪も積もりますから、覚悟してくださいね」
「うわ、マジか……」
川崎は肩を落とした。
高梨は黒板に描いた中央大陸の西側を指差した。
「私たちが今いるのは、この中央大陸です。西側が人類側の帝国、東側が魔族の勢力圏です」
「魔族!」
山田が再び反応した。
「じゃあ、やっぱり魔王がいるんですか!」
高梨は笑った。
「魔王がいるかどうかは知りません。でも魔族はいますよ」
「どんな姿なんですか?」
「それは後でお見せしますね」
高梨は黒板に一本の長い線を引いた。
「現在、人類と魔族は戦争をしています。その戦争は、およそ千年間続いています」
「……千年?」
高橋が思わず聞き返した。
「千年間、ずっと戦争してるんですか?」
「そうです」
井上が眉をひそめた。
「千年戦争って……そんなに長く続けられるものなんですか?」
「ずっと同じ場所で戦っているわけではありませんよ。攻めたり、退いたり、ときには長い間ほとんど戦闘が起きない地域もあります。それを繰り返しているんです」
高梨は黒板の線を太くした。
「現在の戦線は、中央大陸を南北に縦断するように広がっています。長さは約三千キロメートルです」
「三千キロ!」
井上が身を乗り出した。
「第一次世界大戦の西部戦線より、ずっと長いじゃないですか!」
「そうですね。帝国軍は戦線を北方、中部、南方に分けて管理しています。すべての場所で激しい戦闘が起きているわけではありません」
「なるほど……」
井上は顎に手を当てた。戦史で覚えた知識と照らし合わせているようだった。
山田が尋ねた。
「でも、千年も戦ってるなら、魔法とか強いモンスターとか出てくるんじゃないですか?」
「魔法はありませんよ」
「……え?」
「こちらの世界には、魔法そのものが存在しません」
山田の笑顔が消えた。
「でも、エルフがいるんですよね?」
「いますよ」
「魔族もいるんですよね?」
「います」
「なのに魔法がないんですか?」
「ありません」
「そんな……」
井上が笑いをこらえながら尋ねた。
「じゃあ、戦争はどうやってるんですか?」
「銃と大砲です。塹壕を掘って、砲撃して、銃を撃って戦います」
井上の表情が変わった。
「第一次世界大戦みたいな感じですか?」
「近いところはありますね。もちろん、こちら独自の兵器や戦術もありますけど」
「戦車は?」
「あります」
「航空機も?」
「ありますよ」
井上は何度も頷いた。一方、山田は深いため息をついていた。
「……全然ファンタジーじゃねえじゃん」
「お前、何を期待してたんだよ」
高橋が笑う。
「剣と魔法の世界だと思うだろ、普通」
「普通はそもそも異世界に来ないだろ」
川崎が口を挟み、周囲から笑い声が上がった。
高梨も微笑んだが、そこで少し表情を改めた。
「さて、その魔族についてですが……」
彼女は黒板の横の木箱を開けた。
「実際に写真がありますので、お見せしますね」
魔族の姿
高梨が取り出したのは、一枚の白黒写真だった。
大きめの紙に焼き付けられたもので、ところどころに傷があり、画像もそれほど鮮明ではない。それでも、写っているものの異様さは十分に伝わってきた。
高梨は写真を黒板に留めた。
「これが魔族です」
前の席の生徒たちが身を乗り出した。
二本の腕と二本の脚を持ち、体格はがっしりしている。皮膚は硬い外殻のようにも見えた。顔には人間のような鼻や口がなく、複雑に分かれた顎のような器官がある。頭部からは太い房状の突起が伸びていた。
井上が目を見開いた。
「……何だ、これ」
山田が椅子から立ち上がる。
「プレデターじゃん!」
男子たちが一斉に反応した。
「ほんとだ!」「映画のやつじゃん!」「うわ、プレデターだ!」
高橋も写真を見つめた。確かに、映画に登場する異星人を思わせる姿だった。
「……これ、本物なんですか?」
川崎が尋ねた。
「本物ですよ。帝国軍が撮影した写真です」
「すげえ……格好いいな」
山田の声に井上が呆れた。
「お前、これも格好いいのかよ」
「だってプレデターだぞ!」
「映画じゃないんだぞ」
高梨は写真を指差した。
「魔族にも何種類かいるようですが、帝国軍が戦っている相手は、おおむねこのような姿をしています」
水野が手を挙げた。
「すみません。魔族というのは、人間と同じように言葉を話すんですか?」
「それが少し難しいんです。魔族は、人間の耳には聞こえない音の領域で会話しているらしいんです」
「可聴領域の外ということですか?」
「はい。人間には聞き取れない音で意思疎通していると考えられています」
井上が眉をひそめた。
「じゃあ、言葉がわからないんですか?」
「そうですね。帝国側では魔族の言語を理解できていません」
千尋が手を挙げた。
「翻訳を試みたりはしていないんですか?」
高梨は少し困ったような顔をした。
「それ以前の問題があるんです。人類と魔族の間では、これまで一度も交渉が行われていないんです」
「一度も? 千年も戦争しているんですよね?」
「はい。和平交渉も停戦交渉もありません。捕虜交換もありません。そもそも魔族は、人間との交渉に応じないんです」
「捕虜は取らないんですか?」と井上。
「帝国軍は捕虜を確保しようとしたことがあります。でも、魔族は捕虜になる前に自ら死を選びます」
「……全員ですか?」
「これまで確認されている限り、例外はありません」
井上は黙り込んだ。
「じゃあ、魔族が何を考えて戦争しているのかも、わからないんですか?」
千尋の問いに、高梨は頷いた。
「完全にはわかっていません。帝国でも千年間、研究を続けていますが、わからないことが多いんです」
彼女は写真へ目を向けた。
「それと、もう一つ。皆さんには知っておいてほしいことがあります。魔族は、人間を食料として見ているらしいんです」
兵舎が静まり返った。
「……食料?」
川崎が聞き返した。
「食べるってことですか?」
「そうです。戦場で確認された遺体の状態や、行方不明になった兵士たちの状況などから、帝国軍ではそう考えています。ただし、魔族の社会や生態がすべてわかっているわけではありません」
水野の顔色が変わった。
山田はしばらく写真を見つめてから、小さく呟いた。
「……サキュバスは?」
「はい?」
「サキュバスです。あの、綺麗な女の悪魔みたいな……」
井上が頭を抱えた。
「お前、今その質問するか?」
「いや、だって魔族って言うから……」
高梨は少し考えた。
「少なくとも、私は聞いたことがありませんね」
「……いないんですか」
「ええ」
山田は深いため息をついた。
「……マジかよ。エルフはいるのにサキュバスはいないのか」
「お前、そこなのかよ!」
川崎が吹き出した。
「いや、重大な問題だろ!」
「何が重大なんだよ!」
男子たちの間に笑いが広がった。
それを見ていた石井が椅子から立ち上がった。
「お前ら、残念だったな」
「何がですか?」
「魔法もなけりゃ、サキュバスもいない。敵は人間を食う化け物で、こっちは塹壕掘って大砲撃ってるわけだ」
石井はにやりと笑い、両手を軽く広げた。
「銃と大砲のファンタジー世界へようこそ」
一瞬の沈黙。そして、男子たちが一斉に笑い出した。
「ファンタジーじゃねえ!」「最悪じゃん!」「夢も希望もない!」
山田はがっくりと肩を落とした。
「……俺の想像してた異世界と全然違う」
石井は豪快に笑った。
「俺も最初はそう思ったよ」
だが、その軍服には長く使い込まれた跡があった。高橋はふと気になった。石井はすでに何年もこの世界にいる。ならば、今話していた戦争も経験しているのだろう。そう考えると、冗談の響きが少し違って聞こえた。
帝国の文明
高梨は魔族の写真を木箱に戻した。
「さて、次はこの世界の文明について説明しましょう」
水野が手を挙げた。
「電気はあるんですよね?」
「はい。電気もありますし、工場もあります」
「じゃあ、電話や自動車もあるんですか?」
「ありますよ。ただし、日本ほど普及していません」
高梨は黒板に簡単な機関車を描いた。
「帝国では鉄道が重要な交通手段です。蒸気機関車もありますし、電気を使った設備もあります」
井上が手を挙げた。
「発電はどうしてるんですか?」
「石炭や水力ですね。帝国には大きなダムもあります」
「石油は?」
「貴重です。産出量が少ないので、自動車や航空機に使う燃料は非常に大切にされています」
井上は納得したように頷いた。
「だから鉄道が重要なんですね」
「そういうことです」
高梨は黒板に線を引いた。
「帝国では電力や鉄道のように発達している分野がある一方で、日本ほど発達していない分野もあります。テレビもインターネットもありませんし、一般家庭にすべて電話があるわけでもありません」
「スマホもないんですよね?」
川崎が聞いた。
「もちろんありません」
「……最悪だ。俺、夏休みにゲームするつもりだったのに」
「俺もだよ」
高橋が答える。
山田も暗い顔になった。
「アニメもないんだろうなあ……」
「ありませんね」
「漫画は?」
「日本の漫画はありません」
「……異世界、厳しいなあ」
「お前、さっき最高だって言ってただろ」
井上が突っ込んだ。
「エルフだけじゃ生きていけねえよ!」
また笑い声が起こった。
「まあ、こちらにも娯楽はありますよ。本も音楽もあります。お酒もありますからね」
「俺たち、酒飲めるんですか?」
川崎が尋ねた。
「帝国では成人扱いですからね」
「おお!」
男子の何人かが声を上げた。
「ちょっと!」
水野が慌てて口を挟む。
「あなたたち、日本ではまだお酒飲めない年齢でしょう!」
高梨が笑った。
「先生、ここは日本じゃありませんから」
「それはそうですけど……何だか、先生の立場がなくなっちゃいますね」
「そんなことありませんよ。皆さんにとって先生であることは変わらないでしょう?」
水野は少しだけ嬉しそうに笑った。
皇帝と貴族
「それでは、ここから帝国の制度について説明します」
高梨は黒板を消し、大きく『皇帝』と書いた。
「帝国は、皇帝を頂点とする国家です」
千尋が手を挙げた。
「皇帝が国を統治しているんですか?」
「そうです。ただし、皇帝一人で何でも決めているわけではありません。政府があり、各省庁が行政を担当しています」
「日本の内閣みたいなものですか?」
「似たところもありますが、制度はかなり違いますね」
高梨は黒板に書き加えた。
「帝国の中央政府には十の省があります。軍務省、内務省、産業省、財務省、法務省、文部省、国家奴隷省、鉄道省、燃料省、水力省です」
井上が手を挙げた。
「鉄道とか燃料まで、それぞれ独立した省なんですか?」
「そうですよ。帝国では鉄道も燃料も、国家を維持するために非常に重要なんです。水力省は発電用の水資源や送電網などを管理しています」
「なるほど……」
「それから、国家育成院は文部省の管轄です。法務省の下には監察院という組織もあります」
千尋が尋ねた。
「監察院というのは、どんな仕事をするんですか?」
「政府や軍、地方の行政が法律や規則に従って仕事をしているか調べる機関ですね。帝国では役人や貴族であっても監察の対象になります」
「かなり制度が整っているんですね」
「そうですね。ほかに皇帝直属の宮内庁もありますが、こちらは十省とは別の組織です」
水野は目を細めながら黒板を眺めた。
「何だか、大学の政治学の授業みたいね……」
千尋が横から小声で答える。
「先生、あとで省の名前を書いておきますね」
「お願い。全然見えないの」
高梨は二人に微笑み、説明を続けた。
「帝国は単なる封建国家ではありません。政府と各省庁によって広い範囲の行政が行われています。ただし、日本のような民主主義国家ではありません」
「皇帝と貴族を中心とした国家なんですね」
「そうです。そして帝国には中央貴族と地方貴族がいます。中央貴族は政府や軍の高官を務め、地方貴族は領地を持って行政や治安維持を担います」
「貴族って、伯爵とか公爵とかですか?」
山田が尋ねた。
「そうです」
「じゃあ、さっきのアウレリア大尉も?」
「貴族の家系の方ですよ」
「なるほど……」
山田は妙に納得した顔をしていた。
千尋は構わず質問を続けた。
「地方貴族は、自分の領地を自由に統治できるんですか?」
「一定の自治権があります。でも帝国法に反することはできません。領主にも法律に基づく権限と責任があります」
「なるほど……」
「ちなみに、ここはベルノ伯爵領です。ベルノ伯爵が治めている地方ですね。昔、この地方にはエルディア王国というエルフの王国がありました」
「王国?」
「はい。現在は帝国に併合されています」
千尋が尋ねた。
「戦争で征服されたんですか?」
「いいえ。交渉によって平和的に併合されたと聞いています。旧王家も帝国の貴族として遇され、現在もその血筋が残っています」
「じゃあ、アウレリア大尉も?」
「そうですね。旧王家につながる方です」
山田はまた感動したように頷いた。
「本物のお姫様みたいな人だったんだ……」
「お前、またそれかよ」
井上が笑った。
「帝国は、支配下に入った地域の文化や慣習を、必ずしもすべて変えさせるわけではありません。ただし、帝国法に違反することは許されません」
千尋は少し考えた。
「自治を認める一方で、国としての法律は徹底するということですね」
「そうです」
「……面白い制度ですね」
「実際に暮らしてみると、面白いだけでは済まないこともありますけどね」
高梨は笑った。
自由民と家族
「さて、次は皆さんにも直接関係する自由民についてです」
高梨は黒板に『自由民』と書いた。
「帝国では、一般の市民を自由民と呼んでいます。皆さんも自由民として登録されることになります」
千尋が尋ねた。
「自由民には、どのような権利があるんですか?」
「財産を持つ権利、法律に基づく保護を受ける権利、軍務を終えた後に職業を選ぶ権利などがあります」
「じゃあ、日本の一般市民と似ていますね」
「似ているところもありますが、違うところもあります。例えば、帝国では結婚制度が貴族にしかありません」
「……え?」
水野が聞き返した。
「結婚制度がないんですか?」
「はい。一般の自由民には、法律上の結婚制度がありません」
千尋も驚いた。
「じゃあ、普通の人たちは結婚しないんですか?」
「一緒に暮らしたり、子供を持ったりはしますよ。ただし、日本のような婚姻届を出して夫婦になる制度がないんです」
「でも、それって……家族はどうなるんですか?」
水野は困惑していた。
「家族はありますよ。親子もいますし、一緒に暮らす男女もいます。女性同士で家庭を作る人もいます」
「女性同士でも?」
「はい。帝国では珍しいことではありません」
水野は目を丸くした。
「一般の自由民が誰と生活するかについて、帝国は比較的寛容なんです。ただし、貴族の婚姻とは別のものです」
「じゃあ、貴族だけが法律上の結婚をするんですね」
「そういうことです」
「どうして貴族だけなんですか?」
「爵位や領地の継承、家同士の関係などがあるからですね。貴族の婚姻は法律上の意味が大きいんです」
高橋は不思議な気分だった。結婚することが当たり前ではない社会。普通の人間には結婚という制度そのものがない。日本では考えたこともなかった。
山田が何か言いかけたが、井上に肘で小突かれて黙った。
「日本と違うでしょう?」
「全然違いますね」
千尋が答えた。
国家奴隷省
「それから、もう一つ重要な制度があります」
高梨は黒板に『国家奴隷省』と書いた。
「帝国には奴隷制度があります」
途端に兵舎の空気が変わった。
「……奴隷?」
水野が顔を上げた。
「今でも奴隷がいるんですか?」
「います。ただし、帝国では民間人が奴隷を所有することはできません」
千尋が尋ねた。
「じゃあ、奴隷は誰が管理しているんですか?」
「国家です。先ほどお話しした国家奴隷省が管理しています」
「全員が国家の奴隷なんですか?」
「そうです。帝国の奴隷は法律に基づいて奴隷身分に落とされた人たちです。重大な犯罪に対する刑罰として使われています」
「じゃあ、刑務所の代わりみたいなものですか?」
「似ている部分はあります。ただ、労働を通じて刑罰を執行する制度ですから、日本の刑務所とはかなり違いますね」
水野は険しい表情になった。
「でも、人間を奴隷にするなんて……」
「日本人からすれば、そう感じると思います。私も最初は驚きました」
千尋が質問した。
「奴隷になると、自由民としての権利はなくなるんですか?」
「大幅に制限されます。国家の管理下に置かれますから、自由に仕事を選んだり、住む場所を決めたりすることはできません」
「……厳しいですね」
「そうですね。ただし、帝国では奴隷を個人の所有物として売買することは認められていません。奴隷制度そのものが国家の刑罰制度なんです」
千尋は考え込んだ。自由民の権利を保障する一方で、重大な違法行為には奴隷という処罰を科す。日本とは考え方がまるで違っていた。
「帝国は法律について非常に厳格な国です。法律で認められた権利は守る。その代わり、法律で定められた義務を果たさない者には、厳しい処罰を下します」
「法治国家なんですね」と千尋。
「そう言っていいと思います。ただし、日本とは法律の中身が違います。日本の感覚で考えると驚くことも多いですよ」
「……そうですね」
召喚者という呼び名
「ところで、高梨さん」
千尋が手を挙げた。
「私たちは召喚者と呼ばれているんですよね? 帝国が私たちを召喚したんですか?」
「いいえ。帝国は皆さんを召喚していません」
「……え?」
高梨は少し笑った。
「実は、召喚者という呼び名を使い始めたのは日本人なんです」
「日本人が?」
「はい。最初にこちらへ来た日本人たちが、自分たちの状況を説明するときに使った言葉なんです。帝国でもその呼び名を使うようになりました」
高梨は黒板に『召喚者』と書いた。
「帝国でもこの現象の原因はわかっていません。毎年、日本の高校生たちが突然現れる。それだけなんです」
「でも、召喚施設がありますよね?」
「あります。あの岩盤のことですね。毎年同じ場所に現れるので、帝国が周囲に施設を整備したんです。召喚を起こす技術も、止める技術もありません。皆さんが来るのを待って、受け入れているだけなんです」
千尋は納得したように頷いた。
そこへ山田が手を挙げた。
「じゃあ、勇者っていうのは?」
「勇者?」
「はい。異世界召喚なら勇者じゃないんですか?」
高梨は笑った。
「ああ、それも日本人が言い出したんですよ。最初の頃に来た日本人たちが、自分たちを勇者だって言ってたそうです」
木田が横から口を挟んだ。
「まあ、いかにも日本人が考えそうなことだよな」
「そうですね。それで、ベルノ連隊には『勇者連隊』というあだ名がついているんです」
山田の目が輝いた。
「勇者連隊! めちゃくちゃ格好いいじゃないですか!」
石井が笑った。
「名前だけはな」
「……名前だけ?」
「そのうちわかる」
石井はそれだけ言って木製のコップを口に運んだ。
高橋は少し気になった。確かに勇者連隊は格好いい名前だが、石井の笑い方にはどこか皮肉が混じっていた。
十五年間の軍務
「さて、ここからは皆さんに直接関係する話です」
高梨の声が少し真剣になった。
黒板に大きく『軍務十五年』と書く。
「帝国の自由民には、原則として十五年間の軍務義務があります」
一瞬、兵舎が静かになった。
「……十五年?」
川崎が聞き返した。
「十五年間も軍隊に入るんですか?」
「そうです」
「長すぎませんか!?」
千尋が思わず立ち上がった。
「私たち、まだ高校一年生ですよ!」
「日本人の感覚では長いでしょうね」
「長いどころじゃないですよ!」
川崎が頭を抱えた。
「十五年も軍隊にいたら三十歳超えちゃうじゃないですか!」
「そうなりますね」
「……マジかよ」
山田も呆然としていた。
「十五年って……アニメ何作品見られるんだろう」
「お前、今それ考えるか?」
井上が呆れた。しかし、彼自身も顔色が悪かった。戦車や銃を見るのは好きだったが、軍人になることを考えたことはなかった。
水野が手を挙げた。
「この子たち全員が軍隊に入るということですか? まだ十五歳や十六歳なんですよ?」
「そうです。帝国では成人として扱われますから」
「そんな……」
高梨は説明を続けた。
「皆さんは帝国の言葉も軍隊のことも知らないでしょう。ですから、最初は語学教育と基礎的な軍事訓練を受けます」
水野は少し安心したようだった。
「じゃあ、適性に合わせて仕事を決めてもらえるんですね?」
高梨は首を振った。
「それは最初の一年が終わってからです。まず、全員が戦線へ行きます」
兵舎が静まり返った。
「……全員?」
千尋が聞き返した。
「私たち全員が、戦争に行くんですか?」
「そうです。帝国では軍務の最初の一年に戦線を経験することになっています」
「じゃあ、私も?」と水野。
「先生もです」
「でも、私は数学の教師ですよ?」
「それでも同じです。私も最初の一年は戦線にいましたから」
「高梨さんも?」
「はい。最初は二等兵として配属されました。戦線を一度経験すると、一等兵に昇進します」
千尋が尋ねた。
「戦線に行くだけで昇進するんですか?」
「そういう制度です。もちろん、生きて帰ってこられれば、ですけどね」
最後の言葉に生徒たちは黙った。
「最初に戦場を経験させるのは、帝国の軍務制度の基本なんです。どんな仕事に就くとしても、まず戦場を知っておくべきだという考え方ですね」
井上が頷いた。
「後方勤務でも、前線の事情を理解しておく必要があるからですか?」
「そうです。補給を担当する人も、通信を担当する人も、事務を担当する人も、戦場がどういう場所か知っている方がいいという考え方です」
「でも、そんなの危険すぎませんか?」
千尋は困惑していた。
「危険ですよ。戦争ですから」
高梨はあっさり答えた。
「一年目の戦線勤務が終わった後は、それぞれの適性や能力を見て配属が決まります。歩兵や砲兵を続ける人もいれば、補給、通信、整備、衛生などに進む人もいます」
「じゃあ、数学が得意なら……」
水野が尋ねた。
「砲兵や測量など、数学を使う仕事もありますよ」
「そうなんですか……」
しかし、水野はすぐに顔を上げた。
「でも、私はこの子たちに戦争をさせたくありません。まだ子供なんです。日本では、これから高校生活を送って、大学に行ったり、就職したり……そういう年齢なんですよ」
声がいつもよりずっと強かった。
高梨はしばらく黙り、静かに答えた。
「私も高校生だったんですよ、先生。こちらに来たときは皆さんと同じでした。軍隊に入るなんて考えたこともありませんでした。でも、帝国ではそういう決まりなんです」
水野は俯いた。
千尋が手を挙げた。
「軍務を拒否した場合は、どうなるんですか?」
「正当な理由がなく軍務を拒否した場合、国家奴隷刑の対象となります」
再び兵舎が静まり返った。
「……奴隷?」
川崎が呟いた。
「軍隊に入りたくないと言っただけで、奴隷にされるんですか?」
千尋の顔が険しくなる。
「不安や不満を口にしただけで処罰されるわけではありません。ただし、法律上の軍務義務を拒否すれば、重大な違法行為になります」
「それは、あまりにも厳しすぎませんか?」
水野も青ざめていた。
「日本人からすれば、そうでしょうね。でも帝国は千年間戦争を続けている国です。軍務は国家を維持するための重要な義務なんです」
そのとき、兵舎の後方から怒鳴り声が響いた。
「ふざけんなよ!」
佐々木健だった。
「勝手にこんなところに連れてきやがって、今度は十五年も軍隊に入れってか!」
中村も頷いた。
「そうだよ! こっちは頼んでないだろ!」
加藤真由も険しい顔で言った。
「それは私もおかしいと思います。勝手に呼んでおいて、軍隊に入れって言われても……」
高梨は黙って聞いていた。佐々木は勢いづいた。
「お前らが勝手に呼んだんだから、責任取れよ!」
「そこは、一つ訂正させてください」
高梨が静かに口を開いた。
「帝国は、皆さんを呼んでいません」
「……は?」
佐々木は眉をひそめた。
「先ほど説明しましたよね。召喚という呼び名は日本人が使い始めたものです。帝国が皆さんを意図して呼び寄せたわけではありません」
「でも、ここにいるじゃねえか!」
「そうです。皆さんは突然ここに現れました。帝国も原因を知りません」
「じゃあ、何で軍隊に入らなきゃいけねえんだよ!」
「帝国の自由民だからです」
高梨の返事は短かった。
千尋が口を開いた。
「でも、私たちは日本人です。もともと帝国の国民ではありません」
「はい。だからこそ、帝国は皆さんを自由民として受け入れているんです」
「……どういうことですか?」
「帝国から見れば、皆さんは突然現れた異邦人なんです。言葉も法律も社会の仕組みも知らない。それでも帝国は衣食住を用意し、教育を行い、自由民としての権利を与えています」
高梨は生徒たちを見渡した。
「帝国は、皆さんを呼んだ責任があるから保護しているわけではありません。ここに現れた異邦人を、自国の自由民と同じ立場で受け入れることにしたんです」
千尋は考え込んだ。
「例えば、帝国の十六歳の自由民が十五年間の軍務を負うのに、同じ十六歳の日本人だけが免除されるとしたら、どうでしょう?」
「……不公平だと思います」
「そうですね」
「でも、私たちは望んで来たわけではありません」
「そのとおりです。帝国も、皆さんを望んで呼んだわけではありません」
その言葉に、千尋は黙った。
「日本人からすれば理不尽でしょう。私だって最初はそう思いました。でも帝国の人たちからすれば、召喚の責任まで押しつけられる筋合いはないんです」
水野が口を開きかけた。
「でも、それでも……」
「先生のお気持ちはわかります。ただ、帝国側からすれば、自由民としての権利を与えることが最大限の譲歩なんです」
「……最大限の譲歩」
千尋が繰り返した。
「帝国の自由民には権利があります。そして義務もあります。その両方を等しく与えるということなんです」
千尋はしばらく考えていた。
「……筋は通っていると思います。でも、納得できるかどうかは別です」
「そうでしょうね。私も皆さんに納得しろとは言いません。ただ、この国がどういう考え方で動いているのかは知っておいてほしいんです」
佐々木は不満そうに腕を組んでいたが、それ以上何も言わなかった。石井軍曹が静かにこちらを見ていたからだった。
ベルノ連隊
「最後に、皆さんの今後について説明します」
千尋が手を挙げた。
「私たちは、このベルノでずっと暮らすんですか?」
「はい」
高梨ははっきりと答えた。
「皆さんはベルノ伯爵領で受け入れられます。軍務も全員、ベルノ連隊に所属することになります」
「全員ですか?」
「そうです」
「じゃあ、別々の地方に送られたりはしないんですね?」
「軍務中に他の戦線へ派遣されることはあります。でも、所属する部隊はベルノ連隊です」
千尋は少し安心したようだった。
「ベルノ連隊は、この伯爵領を基盤とする部隊です。召喚者は基本的に全員、この連隊に編入されます」
「じゃあ、木田先輩も篠沢先輩も?」
岡田が尋ねた。
「もちろんです」と木田。「俺も篠沢もベルノ連隊だよ」
「石井軍曹も?」
「そうだぞ」と石井。「俺は第十五期だ。お前らより五年先輩になる」
「五年!」
川崎が驚いた。
「十五年間のうちの五年ですか……」
高橋が呟く。
「そういうことだ。まだ十年も残ってるけどな」
石井は笑った。五年。それでも、まだ十年。高橋は十五年間という数字の重さを少しずつ感じ始めていた。
高梨は黒板の地図に戻った。
「さて、皆さんがこれから生活するベルノについて、少しお話ししましょう。ここが帝都です。そして、そこから南西へおよそ五百キロメートル離れた場所に、ベルノ伯爵領があります」
「五百キロ……結構遠いですね」
川崎が呟いた。
「そうですね。でも鉄道がありますから、行き来はできますよ」
高梨は地図に大きな湖を描いた。
「この湖がエルディア湖です。ベルノ伯爵領はこの湖の北東岸に位置しています」
「湖があるんですか?」
水野が尋ねた。
「はい。とても大きな湖です。天気のいい日は景色も綺麗ですよ。ベルノ伯爵領には人間もエルフも暮らしています。農業が盛んな地域で、街には工場や商店もあります」
「じゃあ、普通に買い物もできるんですか?」
「もちろんです」
「本屋もありますか?」
山田が期待した顔で聞いた。
「ありますよ」
「漫画は?」
「日本の漫画はありません」
「……やっぱり」
山田は深いため息をついた。
「お前、いつまで漫画の心配してんだよ」
井上が笑った。
「重要だろ!」
「はいはい」
高梨は笑いながら続けた。
「皆さんはこれから帝国の言葉を学び、軍務に必要な教育を受けます。その後、ベルノ連隊の各部隊に配属されることになります」
「全員が同じ部隊ではないんですね?」
千尋が尋ねた。
「そうです。ベルノ連隊には歩兵、砲兵、偵察、補給、通信、衛生など、さまざまな仕事があります」
「それでも、最初の一年は戦線なんですよね?」
「はい。まず戦線を経験する。それから、それぞれの適性に応じた配属を考えることになります」
水野が小さく息を吐いた。
「……やっぱり、戦争に行くんですね」
「そうです」
高梨の返事は変わらなかった。
木田が口を開いた。
「まあ、あんまり今から心配しすぎても仕方ないですよ、先生。俺も最初は何もわからなかったですから。銃なんか触ったこともなかったし。それでも、ちゃんと訓練してもらいましたよ。先輩もいましたし」
石井が頷いた。
「まあ、俺たちが面倒見るさ」
「……ありがとうございます」
水野は小さく頭を下げた。
「礼を言われるほどのことじゃないですよ。俺たちも最初は先輩に世話になりましたから」
石井は笑った。
眼鏡の手配
「さて、今日はここまでにしましょう」
高梨はチョークを置いた。
「皆さん、朝から大変でしたからね。そろそろ食事にしましょう」
「飯ですか!」
川崎が嬉しそうに言った。
石井が立ち上がる。
「そうだ。腹減っただろ?」
「めちゃくちゃ減ってます!」
「なら順番に食堂へ移動する。押すなよ。全員分あるからな」
「異世界の飯って何が出るんだろうな」
山田が言うと、井上が笑った。
「お前、ほんと元気だな……」
生徒たちが立ち上がり始めた。長椅子が床を擦る音が響き、兵舎の中が再び賑やかになる。
そんな生徒たちを見ていた石井が、何かを思い出したように手を叩いた。
「ああ、そうだ。ちょっと待て!」
生徒たちの動きが止まった。
「忘れるところだった。眼鏡が必要な奴、手を挙げろ!」
あちこちで手が上がった。高橋は思わず周囲を見回した。かなり多い。
「眼鏡をかけていた奴だけじゃないぞ! コンタクトレンズを使っていた奴もだ。今、裸眼で生活するのに困る奴は全員手を挙げろ!」
さらに手が増えた。
「おお、結構いるな。木田! リース! 人数を数えてくれ!」
「了解!」
木田は右側へ、リースは左側へ回った。
「はい、手を挙げたままでお願いします。数え終わるまで下ろさないでくださいね」
リースが日本語で呼びかける。二人は列ごとに人数を確認していった。
「おい、そこの男子。お前、さっき手を挙げてただろ。下ろすなよ」
「あ、すみません!」
「別に怒ってるわけじゃないからな」
木田が笑う。
川崎も手を挙げていた。
「お前も目が悪かったっけ?」
高橋が尋ねる。
「コンタクトだよ。学校じゃ眼鏡かけてないからな」
「そうだったんだ」
「お前は?」
「俺は大丈夫」
「いいなあ。俺、これじゃ黒板もろくに見えねえよ」
少し離れたところでは水野も手を挙げていた。隣の千尋がリースへ声をかける。
「すみません! 水野先生もお願いします!」
「はい、先生も数に入っていますよ」
リースは笑顔で答えた。
しばらくして木田とリースが石井のところへ戻った。
「石井軍曹、確認できました」
「何人だ?」
「百二十人です」
「百二十? 全部で二百人だろ? 六割か」
「そうなりますね」
リースが頷いた。
石井は腕を組んで生徒たちを見渡した。
「いやあ、今年も多いな」
井上が手を挙げた。
「あの、眼鏡って作ってもらえるんですか?」
「もちろんだ。帝国じゃ、日本人は目が悪い人種だって認識されてるからな。召喚者が来たら眼鏡を大量に用意しなきゃならんってことになってる」
生徒たちの間から小さな笑い声が上がった。
「人種って……」
川崎が苦笑する。
「でも、実際六割だもんな」
石井は続けた。
「安心しろ。全員の分を作る。ただし、すぐにはできんぞ。一人ずつ視力を調べて、レンズを合わせなきゃならんからな。少し時間がいる」
「どれくらいですか?」
千尋が尋ねた。
「人数が多いから正確な日数はまだ言えん。今日中に視力の確認を始めて、出来上がったものから順番に渡すことになる」
「わかりました」
「それまでは、目の悪い奴は無理するなよ。特に階段や段差には気をつけろ。見えないからって勝手に歩き回るな」
石井は水野へ目を向けた。
「それと、水野先生」
「は、はい!」
「先生は眼鏡がないと、かなり不自由なんだろう?」
「はい。近くなら何とかわかるんですけど、少し離れると……。さっきも伊藤さんにずっと案内してもらっていました」
「そうか。先生は今回の連中にとって大事な人だからな。今後も生徒たちをまとめてもらうことになるだろうし、眼鏡がないと困る」
「えっ、私ですか?」
「そうだよ。日本人の教師が一緒に来てくれたんだ。こっちとしてもありがたいんだぞ」
水野は少し驚いた。自分も生徒と同じように保護される立場だと思っていたが、石井は当然のように彼女を教師として扱っていた。
「食事が終わったら、先生の眼鏡を優先して手配する。リースについていってくれ」
「わかりました。ありがとうございます!」
水野は深く頭を下げた。
リースが近づいてきた。
「水野先生、食事が終わったら私が案内しますね。視力検査をして、レンズを合わせてもらいましょう」
「はい。よろしくお願いします」
「それまでは足元に気をつけてくださいね」
「ありがとうございます」
隣で千尋が笑った。
「先生、よかったですね」
「本当に助かったわ。眼鏡がないだけで、こんなに困るとは思わなかったもの」
「先生、教室でもよく眼鏡探してましたからね」
「伊藤さん! それは言わなくてもいいでしょう!」
千尋がくすくすと笑った。近くの女子生徒たちもつられて笑う。
高橋はその様子を眺めながら、少しだけ安心した。水野は、相変わらず水野だった。眼鏡がなくても、見知らぬ世界に放り出されても、生徒たちに心配され、からかわれ、そして必死に教師であろうとしている。
石井は全員を見渡すと、もう一度大きな声を出した。
「よし! 今度こそ食堂へ行くぞ! 質問は飯を食ってからにしてくれ!」
「はーい!」
高梨が先頭に立ち、木田とリースが列の左右についた。水野は千尋に手を引かれながら歩き出した。
その後ろを高橋たちが続く。
窓の外では、朝から降り続いていた雨が、ようやく少しだけ弱まっていた。
高橋はふと振り返った。黒板には、高梨が書いた帝国の制度についての文字がまだ残っている。
皇帝。自由民。国家奴隷。軍務十五年。
見知らぬ国の、見知らぬ法律。そのどれもが、これから自分たちの生活に関わってくるのだろう。
「高橋! 早く来いよ!」
川崎が扉の向こうから呼んでいた。
「ああ、今行く!」
高橋は振り返り、友人たちの後を追った。