翌朝、高橋たちエレナ班は、馬に乗って宿営地を出発した。
今日の任務は、味方が確保している地域の偵察だった。
ギョーム連隊から引き継いだ地図には、道路や森林、監視哨、塹壕などの位置が詳しく記されている。しかし、実際の地形や道路の状態までは、地図だけではわからない。
浸透偵察小隊は各班に担当区域を割り当て、数日かけて確認することになっていた。
「今日はこの辺りを回るわよ」
エレナは馬上で地図を広げ、高橋たちに見せた。
「前線そのものには近づかないの。道路と森林、それから監視哨の位置を確認するわ。通れる道と通れない道も調べておきたいわね」
「了解です」
「それと、地図と違うところがあったら教えて。小さなことでもいいからね」
高橋は頷いた。
四人は馬を進め、雪に覆われた道路を進んでいった。
周囲には針葉樹の森林が広がっている。ところどころに伐採された場所があり、積まれた丸太や荷馬車の轍が残っていた。
しばらく進むと、道路が二つに分かれていた。
エレナが馬を止める。
「アルノー、地図ではどうなってる?」
「右の道は監視哨へ、左は林道になっていますね」
「じゃあ、まず右へ行きましょう」
四人は右の道を進んだ。
道幅は狭く、馬が二頭並んで進める程度しかない。雪の下には凍った轍が残り、ところどころで馬が足を滑らせそうになった。
「ここは荷馬車だと厳しそうですね」
高橋が言った。
「そうね。冬の間はあまり使われていないのかもしれないわ」
エレナは地図に書き込みを加えた。
やがて、小さな丘の上に監視哨が見えてきた。
土嚢と丸太で補強された簡素な陣地で、周囲には雪をかぶった偽装網が張られている。
近づくと、歩哨が姿を現した。
「所属を!」
「ベルノ連隊浸透偵察小隊よ。陣地交代のため、周辺地形を確認しているの」
エレナが書類を提示する。
歩哨はそれを確認し、四人を監視哨へ案内した。
高橋たちは馬を降り、監視哨の周囲を見て回った。
丘の上からは、雪に覆われた森林と、その間を縫うように延びる道路が見渡せた。
「いい場所ですね」
高橋が言うと、アルノーが頷いた。
「この道路を監視するにはな。ただ、向こうの森林までは見通せない」
アルノーが指さした先には、木々が密集した一帯があった。
監視哨から見えるのは森林の手前までで、その奥はほとんど確認できない。
「だから、こういう場所は巡回が必要になるんだ」
「なるほど」
高橋は地図と実際の地形を見比べた。
地図では単なる森林として描かれている場所でも、現地に立ってみると起伏があり、見通せる場所と見通せない場所がある。
訓練でも習ったことだったが、実際に目にすると印象が違った。
* * *
その後もエレナ班は、担当区域の道路や森林を確認して回った。
沢沿いの道では馬を降り、凍結した水面や岸の状態を調べた。
別の場所では、地図に記された小道が倒木によって塞がれていた。
「ここは通れませんね」
「そうね。記録しておきましょう」
エレナは地図に印をつけた。
昼には森林の中で短い休憩を取った。
馬を休ませ、携行してきたパンと保存食で簡単な食事を済ませる。
「今日は敵を見ることはないんですね」
高橋が尋ねた。
「そうね。今日は味方の区域を調べるのが目的だから」
エレナは水筒に口をつけた。
「敵陣地へ近づくのは、周辺の地形を把握してからよ。まずは自分たちがどこにいるのか、どこを通れるのか、どこから見られるのか。それを知っておかなければならないわ」
「はい」
「敵のことを調べる前に、味方の場所を知らなきゃ話にならないもの」
ミレーナも頷いた。
「慣れてない場所で夜中に迷子になったら、笑い話にもならないからね」
「それは困りますね」
高橋が苦笑すると、アルノーも笑った。
午後も偵察を続け、日が傾く前に宿営地へ戻った。
エレナは確認した地形や道路の状態を報告書にまとめ、ヴァルターに提出した。
同じように、ほかの班もそれぞれの担当区域から戻ってきていた。
こうして浸透偵察小隊は、数日かけて味方警戒区域の地形と陣地を確認していくことになった。
* * *
翌日、ベルノ連隊の補給部隊の一部が到着した。
食料や弾薬、燃料、天幕などを積んだ荷馬車と軍用車両が、ギョーム連隊の後方補給施設へ入っていく。
補給部隊は、これから到着するベルノ連隊主力を受け入れるため、物資の保管場所や輸送経路の確認を始めた。
森林の仮宿営地にも、追加の資材が運び込まれた。
「おお、ベッドだ!」
高橋は荷馬車から降ろされた組み立て式の寝台を見て、思わず声を上げた。
金属製の脚と簡単な枠を組み合わせたもので、寝心地がよさそうには見えない。
それでも、冷たい地面から身体を離して眠れるだけで十分だった。
「これで少しはまともに寝られるわね」
エレナも嬉しそうだった。
各班は天幕の中に寝台を設置し、寝具を移した。
高橋は腰を下ろし、軽く身体を揺らした。
「これならだいぶ違いますね」
「だから言ったでしょ」
エレナが笑った。
初日の夜に感じた地面からの冷気を思い出すと、これだけでもずいぶん贅沢に感じられた。
* * *
さらに翌日には、工兵部隊の一部も到着した。
彼らの任務は、ベルノ連隊が使用する陣地や道路、宿営施設などの確認と整備だった。
ギョーム連隊が使用している塹壕や掩体壕は、そのまま引き継ぐ予定になっている。しかし、部隊によって装備や運用方法が異なるため、必要な改修もある。
特に砲兵陣地については、ベルノ連隊の砲の配置に合わせた整備が必要だった。
浸透偵察小隊が先行して確認した地形情報は、測量隊にも渡されていた。
測量隊は現地で道路や地盤の状態、砲の設置予定地などを調べ、候補地を絞り込んでいった。
ヴァルターも測量隊の担当者と地図を広げ、何度か打ち合わせを行った。
「この辺りなら道路からも近い。砲を運び込むのは難しくないはずだ」
「地盤も悪くありません。ただ、排水は少し考える必要がありますね」
「雪解けの時期か?」
「ええ。今は凍っていますが、春になればぬかるむ可能性があります」
「なるほどな」
浸透偵察小隊の調査結果と測量隊の確認をもとに、砲兵陣地の位置が次々と決められていった。
工兵たちは、砲の搬入に必要な道路の整備や、陣地の準備に取りかかっていた。
まだ砲そのものは到着していないが、受け入れ態勢は着実に整いつつあった。
* * *
その翌日。
オリヴィエ・フォン・ベルノ大佐が、砲兵中隊の一部を伴って到着した。
連隊本部の先遣要員に加え、砲兵中隊の将兵と牽引車、そして一部の百二十ミリ榴弾砲が運び込まれてきた。
ギョーム連隊本部の周囲は、これまで以上に騒がしくなっていた。
工兵たちは砲の搬入経路を確認し、砲兵たちは到着した装備の点検を始めている。
オリヴィエは到着後、ギョーム伯爵への挨拶を済ませると、アウレリアを伴って浸透偵察小隊本部へ足を運んだ。
連隊主力が到着するまでの間、ここがベルノ連隊の臨時本部となっていた。
本部では、ヴァルターとフリーダが地図を広げ、各班から集まった偵察情報を整理していた。
「ご苦労さま。準備は進んでいる?」
オリヴィエが声をかけると、二人が立ち上がった。
「おお、お嬢。わざわざこちらまで来られたんですか」
「ええ。あなたたちが一番詳しい情報を持っているでしょう?」
「そりゃそうですがね」
ヴァルターは笑いながら、机の上の地図を指さした。
「浸透偵察小隊は担当区域の確認を進めています。ギョームの連中からも詳しい資料をもらいましたし、特に問題はありません」
「砲兵陣地は?」
「そちらも測量隊と調整して、位置は決めてあります。工兵が準備を進めていますから、砲の搬入も予定どおりできるでしょう」
「そう。よかったわ」
オリヴィエは机に広げられた地図を眺めた。
地図にはベルノ連隊が引き継ぐ予定の陣地が記され、砲兵中隊の配置予定地には新しい印がつけられていた。
「完全に交代が終わるまで、どれくらいかかりそう?」
「十日ほどでしょうね。歩兵が入ってからも、一度に全部交代するわけにはいきませんから」
「そうね」
オリヴィエは頷いた。
前線の部隊交代は、単に兵士を入れ替えれば済むものではない。
陣地の配置、火器の射界、弾薬や食料の補給経路、通信設備、そして敵の動向まで引き継がなければならない。
特に防御陣地では、交代の途中で警戒に隙間を作るわけにはいかなかった。
「明日から歩兵部隊も入ってくるんだったわね」
「ええ。そこから本格的な人員の交代が始まります。ギョーム連隊の歩兵と順次入れ替わる予定です」
「わかったわ。各中隊長には、引き継ぎを慎重に行うよう伝えておいて」
「承知しました」
オリヴィエはもう一度地図に目を落とした。
今のところ、戦線は落ち着いている。
ギョーム伯爵からも、最近は大きな攻撃がなく、敵の動きも少ないと聞いていた。
部隊交代には好都合な状況だった。
「それにしても、ギョーム伯爵はずいぶん気さくな方ね」
「でしょう? うちの連中も酒を一ケースもらいましたよ」
「あら、そうなの?」
「着任祝いだそうです。寒さがしのげるぞ、って」
オリヴィエは声を上げて笑った。
「それはありがたいわね。でも、飲みすぎないようにしなさいよ」
「もちろんですよ」
「本当かしら?」
「信用ないですねえ」
二人は笑った。
やがてオリヴィエは椅子に腰を下ろし、少し表情を改めた。
「ところで、ヴァルター」
「何です?」
「前から一つ、聞いておきたいことがあったの」
ヴァルターはオリヴィエを見た。
「ベルノの浸透偵察小隊が作られたときの話なんだけど……」
「ほう」
「あなたのほかに、設立に尽力したダークエルフの女性がいたそうね」
ヴァルターの表情が、わずかに変わった。
「誰から聞いたんです?」
「以前、そういう話を聞いたことがあるのよ。でも、詳しいことは知らないの」
オリヴィエはヴァルターの顔を見つめた。
「その人、どんな人だったの?」
ヴァルターは少し懐かしそうな顔をした。
「俺自身もそうだが、今の最古参はみんな世話になってますよ。今の浸透偵察小隊はマズリードの複製ですよ」
「複製?」
「ええ。マズリード旅団の浸透偵察小隊です。編成も、班の使い方も、偵察のやり方も、あそこから教わったものが基本になっています」
「そうだったの……」
「エレナもフリーダも、ゲルフもそうです。ローラ、モリス、イルムもね。今じゃ偉そうに新人を指導してますが、あいつらだって最初からできたわけじゃありません」
ヴァルターは笑った。
「特にエメラルダには、ずいぶん鍛えられましたよ」
「エメラルダという人なのね」
「ええ。マズリード旅団の浸透偵察小隊で副官をしていた少尉です」
そのとき、扉を叩く音がした。
「ゲルフ軍曹です。報告に参りました」
「おう、入れ!」
扉が開き、ゲルフ軍曹が入ってきた。
「少佐、本日の警戒区域の巡回結果ですが、特に異常はありませんでした。西側の林道についても確認が終わっています」
「そうか、ご苦労。報告書はそこに置いてくれ」
「はい」
ゲルフは机の上に書類を置き、オリヴィエに敬礼した。
「伯爵閣下、着任お疲れさまです」
「ありがとう、ゲルフ軍曹」
オリヴィエが微笑んだ。
ヴァルターは何か思いついたようにゲルフを呼び止めた。
「おい、ゲルフ。ちょうどいいところに来たな」
「何でしょう?」
「エメラルダの話だ。お前も世話になったろう? 知ってることを話してやれ」
「エメラルダ少尉ですか?」
ゲルフは少し驚いたようだった。
「お嬢が興味を持たれてな。うちの小隊を作るときの話をしてたんだ」
「ああ、なるほど」
ゲルフは懐かしそうに笑った。
「ずいぶんお世話になりましたよ。私だけじゃありません。エレナもフリーダも、当時の連中はみんな同じです」
「どんな人だったの?」
オリヴィエが尋ねた。
「そうですね……偵察に関しては非常に厳しい方でした」
ゲルフは少し考えてから続けた。
「もっとも、指導に来てくれたのはエメラルダ少尉だけではありません。マズリードの浸透偵察小隊から、ほかにも数名が来てくれたんです」
「そうだったの?」
「ええ。前伯爵がいくら使ったのかは知りませんが、皆さん実に熱心に指導してくれましたよ」
ヴァルターが笑いながら口を挟んだ。
「そりゃもう、容赦なかったな。俺たちもそれなりに腕に自信があったんだが、最初はまるで相手にならなかった」
「そんなに?」
「ええ。隠れたつもりでも、いつの間にか見つかっているんです。逆にこちらが探す側になると、まったく見つけられない」
ゲルフも苦笑した。
「地形の読み方、潜伏の仕方、敵の監視哨や巡回経路の調べ方、痕跡を残さずに移動する方法。何から何まで教えてもらいました」
「なるほどね」
「今のベルノ浸透偵察小隊の訓練方法も、ほとんどそのままですよ。大きく違うのは雪山訓練くらいですね」
「雪山?」
「ええ。彼らの土地では雪が降りませんから。雪の中での潜伏や行軍については、我々が独自に取り入れたものです」
ヴァルターが頷いた。
「基本は全部マズリード式ですよ。そこにベルノの土地柄に合わせた訓練を加えただけです」
「じゃあ、今の浸透偵察小隊は、本当にマズリードの小隊を手本にしているのね」
「ええ。もっとも、教えてもらったからといって、すぐに同じことができるわけじゃありませんでしたがね」
ヴァルターは笑った。
「そうですね。何度やり直しを命じられたかわかりませんよ」
ゲルフも笑った。
「特にエメラルダ少尉は厳しかったですから」
「フリーダなんか、よく食ってかかってたよな」
ヴァルターが思い出したように言った。
部屋の隅で書類を整理していたフリーダが顔を上げた。
「少佐、余計なことまで話さないでください」
「ははは! お前も覚えてるだろう?」
「忘れるわけありませんよ」
フリーダは苦笑した。
「でも、あの方たちには本当にお世話になりました。今の私たちがあるのは、あのときの指導のおかげです」
オリヴィエは三人の顔を見渡した。
「そう……前伯爵も、ずいぶん力を入れていたのね」
「ええ」
ヴァルターは頷いた。
「とにかく、二度とあんなことを起こしたくなかったんでしょうね」
その言葉に、オリヴィエは黙って頷いた。
帝国歴225年、旧ベルノ旅団が包囲され、壊滅的な損害を受けた事件。
前伯爵が独自の偵察部隊の創設に力を注いだのも、その経験があったからだった。
しばらくして、オリヴィエが再び口を開いた。
「それで、そのエメラルダ少尉は、今どうしているの?」
「まだマズリードにいるはずですよ」
ゲルフが答えた。
「お子さんと一緒のはずです」
「お子さん?」
オリヴィエが聞き返した。
ゲルフは一瞬、しまったという顔をした。
「あ、すいません。口が滑りました」
その様子を見て、ヴァルターが笑った。
「まあ、いいぜ。別に隠してるわけじゃないからな。俺の嫁はみんな知っている」
オリヴィエはヴァルターの顔をじっと見た。
そして、何かに気づいたように頷いた。
「ああ、察したわ。あなた、いったい何人子供がいるの?」
「さあ、何人でしょうね」
ヴァルターは愉快そうに笑った。
「……あきれた。エルフってみんなそうなの?」
オリヴィエがため息をつくと、傍らで話を聞いていたアウレリアが口を開いた。
「いいえ、オリヴィエ様。エルフの男性には、たまにいるんですよ。こうして大家族を作る方が」
「たまに?」
「ええ。私の祖父もそうでしたから。そういう男性がいないと、今頃エルフは滅んでますよ」
「そこまでなの?」
「ええ。家族を持たない男性も多いんです」
ゲルフが頷いた。
「そうですね。男はだいたい一匹狼ですね。私もそうですし」
アウレリアがゲルフに顔を向けた。
「ゲルフ軍曹は家族を持たないんですか?」
「たぶん、私は持たないと思います」
「そうなんですか?」
「ええ。今の生活で十分ですからね」
ゲルフは穏やかに答えた。
アウレリアはオリヴィエに向き直った。
「まあ、こんな感じですよ。オリヴィエ様」
「なるほどねえ……」
オリヴィエは腕を組んだ。
「つまり、ゲルフみたいな男性が多くて、ヴァルターみたいなのが時々いるってこと?」
「そういうことです」
「それにしたって、ヴァルターは極端じゃない?」
「ははは! お嬢、ひどい言いようですねえ」
ヴァルターが豪快に笑った。
「もういいわ、仕事の話に戻りましょう」
オリヴィエは呆れたように言うと、机の上の地図に目を戻した。
* * *
「では、陣地の状況について説明します」
ヴァルターも表情を改め、地図を広げた。
「各班に担当区域を回らせましたが、ドワーフの作った塹壕は、一部を除いてかなり状態がいいですね」
「そうなの?」
「ええ。掩体壕もしっかりしていますし、排水設備もよく考えられています。木材の使い方なんかも丁寧ですよ。さすがに土木仕事が得意な連中ですな」
ヴァルターは地図の数か所を指さした。
「ただ、こちらの陣地は少し手直しが必要です。雪解けの時期に水が溜まりそうな場所がありましてね。工兵にはすでに伝えてあります」
「なるほど。ほかには?」
「ゲルフ、何かあったか?」
ヴァルターが隣にいたゲルフに尋ねた。
「はい。陣地そのものについては、少佐のおっしゃるとおりです。塹壕の壁面も丁寧に補強されていますし、木製の足場もよく整備されています。全体的に良好な状態ですね」
「それなら安心ね」
オリヴィエが頷いた。
「ただ、一つ問題があります」
ゲルフが少し困った顔をした。
「何かしら?」
「酒です」
「……はあ? 酒?」
オリヴィエは思わず聞き返した。
「はい。酒瓶がかなりの量ありまして、処理するのが大変そうです」
「酒瓶?」
「ええ。塹壕のあちこちに空き瓶が置かれているんです。掩体壕の隅や物資置き場にもあります。とにかく量が多いんですよ」
オリヴィエはヴァルターを見た。
「……どういうこと?」
「いやあ、ドワーフの連中は酒好きですからねえ」
ヴァルターは苦笑した。
「我々も着任祝いに一ケースもらいましたが、どうも普段から相当飲んでいるようですな」
「それで、空き瓶が溜まっているってこと?」
「そういうことです」
ゲルフが頷いた。
「ですが、あれは危険ですよ」
先ほどまでの穏やかな表情が、真剣なものに変わった。
「今まではあまり撃ち合いがなかったようですが、砲弾が落ちて酒瓶が砕けたら、相当な被害が出ます」
「……ああ、そういうことね」
オリヴィエも表情を引き締めた。
「ええ。爆風でガラスの破片が飛び散ります。特に狭い塹壕や掩体壕の中では危険です。砲弾の破片を避けられても、酒瓶の破片で負傷するなんてことになりかねません」
ヴァルターも頷いた。
「そいつは確かにな。せっかく頑丈な掩体壕を造っても、中にそんなものが山積みじゃ意味がない」
「それに、数が尋常じゃないんです」
ゲルフは少し呆れたように続けた。
「最初に見たときは、何かの備蓄物資かと思いましたよ」
ヴァルターが吹き出した。
「ははは! 確かに備蓄には違いないな!」
「笑い事じゃないでしょう!」
オリヴィエが言い返した。
「塹壕の造りは立派なのに、酒瓶が危険だなんて……」
「まあ、ドワーフらしいと言えばドワーフらしいですがね」
ヴァルターは肩をすくめた。
「とにかく、交代までに撤去させましょう」
オリヴィエは地図に目を落とした。
「ギョーム伯爵には私から話しておくわ。前線の陣地にある酒瓶は、全部片づけてもらいましょう」
「そうしていただけると助かります」
ゲルフが答えた。
「特に前進陣地と掩体壕の中は、引き継ぎ前に確認しておきたいですね」
「ええ。各中隊長にも伝えておくわ」
オリヴィエはため息をついた。
「まったく……陣地交代で酒瓶の心配をすることになるなんて、思わなかったわ」
ヴァルターは愉快そうに笑った。
「ははは! お嬢、これも土地柄ってやつですよ!」
「あなたは酒をもらったから喜んでるだけでしょう!」
「そりゃ否定できませんな!」
また部屋に笑い声が広がった。
* * *
「ほかに気になるところはある?」
オリヴィエが尋ねた。
「はい。右翼の陣地ですが……」
ゲルフが地図の一角を指さした。
「ここは高台にあって、射界は良好です。前方の斜面から道路まで広く見渡せますし、防御陣地としては悪くありません」
「それなら問題ないんじゃない?」
「ええ。ただ、あそこは標的になるかもしれません」
オリヴィエは地図に目を落とした。
「どういうこと?」
「周囲より高い位置にありますから、こちらから敵がよく見えるということは、敵からも見つけられやすいということです」
ゲルフは地図の尾根を指でなぞった。
「塹壕そのものはよく造られています。ですが、高台の上に陣地があることは、敵も当然承知しているでしょう。砲兵の観測目標にされる可能性があります」
ヴァルターが頷いた。
「俺もそこは気になってた。あの高台は見晴らしがいいが、目立つんだよな」
「そうですね。ギョーム連隊では、これまで大規模な攻撃を受けていないようですから、問題にならなかったのかもしれません」
「掩体壕はどうなの?」
オリヴィエが尋ねた。
「かなり頑丈に造られています。ドワーフの仕事だけあって、木材の組み方もしっかりしていますね。ただ、砲撃を受けた際の退避経路が少し気になります」
「退避経路?」
「ええ。高台の上から後方へ下がる連絡壕があるんですが、一部が浅いんです。敵に観測されている状態で砲撃を受けると、移動が難しくなるかもしれません」
オリヴィエは腕を組んだ。
「射界が良くても、砲撃で兵士が動けなくなっては困るわね」
「そのとおりです」
ゲルフが答えた。
「もっとも、すぐに陣地を放棄する必要はないと思います。掩体壕の補強と連絡壕の整備、それから偽装をもう少し徹底すれば、かなり改善できるはずです」
「そうね。工兵に確認させましょう」
オリヴィエは地図の右翼陣地に印をつけた。
「それと、あそこを担当する中隊長にも伝えておいて。敵の砲撃が始まったら、無理に塹壕へ兵士を残さず、掩体壕へ退避させること」
「承知しました」
ヴァルターが頷いた。
「それにしても、ギョームの連中は立派な陣地を造ってますね。こっちで手を加えるところは、そう多くないでしょう」
「そう。せっかく良い陣地を引き継げるんだから、必要なところだけ直しましょう」
オリヴィエは地図全体を見渡した。
「明日から歩兵が入ってくるわ。各中隊には、引き継ぎの際に射界だけでなく、掩体壕や退避経路も必ず確認するよう伝えておいて」
「了解しました」
ゲルフが敬礼した。