勇者連隊戦記   作:バグスター

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帝国歴232年2月 イジューム戦線


第10章 接敵
第1節 交代完了


ベルノ連隊による陣地交代は、着々と進められていた。

 

ギョーム連隊からの引き継ぎが始まって数日。約十日間をかけて行われる交代作業は、ようやく本格的な段階に入っていた。

 

前線では歩兵中隊が順次交代し、後方では砲兵中隊が射撃準備を整えている。

 

補給部隊は弾薬や糧食を運び込み、工兵は道路と陣地の補修を続けていた。

 

しかし、これらの作業を一度に進めるわけにはいかなかった。

 

敵は東にいる。

 

砲撃は散発的に続き、夜間には魔族の偵察兵が森林地帯へ進出してくることもあった。

 

そのような状況で、守備部隊を一斉に入れ替えることなどできない。

 

ギョーム連隊の兵士たちが警戒を続ける間に、ベルノ連隊の兵士たちが少しずつ持ち場へ入り、陣地の構造や敵の動向を覚えていく。

 

前任の部隊が撤収するのは、後任の部隊がその任務を引き受けられると確認されてからだった。

 

前線の陣地交代とは、そういう作業だった。

 

* * *

 

イジューム戦線のこの区域は、南北およそ五キロメートルにわたっていた。

 

帝国軍の主陣地は西側にあり、魔族軍の主陣地は東側にある。

 

両軍の主陣地の間隔は、およそ五キロメートル。

 

その中間には、広大な森林地帯が横たわっていた。

 

森林は針葉樹を主体とした古い森で、ところどころに広葉樹が混じっている。

 

幹の太い木々が密集し、地面には落葉や枯れ枝が厚く積もっていた。

 

森の中には小さな沢が何本も流れ、緩やかな丘や窪地が連続している。平坦な場所ばかりではなく、徒歩で進むにも難儀する地形だった。

 

冬のため草木の勢いは衰えていたが、針葉樹の枝葉は依然として視界を遮っている。

 

積雪は場所によって異なり、日当たりの悪い斜面や沢沿いには雪が残っていた。

 

それでも、この森林は完全な原生林ではなかった。

 

かつて人々が木材を切り出していた時代の林道が、何本も残されていた。

 

長年使われていない道は草木に覆われていたが、帝国軍側から魔族軍側へと森林を横断するものもある。

 

幅の広い林道もあれば、荷車がようやく通れる程度の道もあった。

 

沢を越える場所には、古い橋の跡が残っていることもあった。

 

地図には、それらの林道が細い線で記されていた。

 

しかし、実際に通行できるかどうかは、現地へ行ってみなければわからない。

 

倒木で塞がれているかもしれない。

 

砲撃によって路面が崩れているかもしれない。

 

あるいは、敵の偵察兵が利用している可能性もあった。

 

森林の両側には、かつて耕作地だった開けた土地が広がっていた。

 

戦争が長く続いたため、農地は放棄されて久しい。

 

畑の畝や農道はほとんど消え、草地と荒れ地に変わっていた。

 

砲撃を受けた場所では土が掘り返され、無数の砲弾孔が残っている。

 

ところどころに、建物の基礎と思われる石積みや、朽ちた柵が残されていた。

 

かつては、この土地にも農民が暮らしていたのだろう。

 

しかし今は、人の生活を感じさせるものはほとんどなかった。

 

森林の外縁までの見通しは、場所によって五百メートルから一キロメートルほどあった。

 

そのため、帝国軍の塹壕からは森林の手前まではよく見えた。

 

しかし、森林の向こうにある魔族軍の主陣地を直接見ることはできなかった。

 

魔族軍側も同様だった。

 

両軍は森林を挟んで対峙している。

 

その森林を互いの偵察兵が行き交い、ときには小規模な交戦が発生していた。

 

砲撃は双方の観測情報や地図上の目標に基づいて行われている。

 

敵の砲兵陣地も歩兵陣地も、地図に位置が記されているからといって、実際にそこにあるとは限らない。

 

偽装陣地もあれば、すでに放棄された陣地もある。

 

そして、まだ発見されていない陣地もあるはずだった。

 

森林の中央を流れる沢や、何本もの古い林道。

 

かつての耕作地に残された低い土手。

 

緩やかな丘陵と、その陰にできる死角。

 

そうした地形の一つひとつが、偵察にも防御にも関係してくる。

 

この広大な森林地帯をどう監視し、どこから敵が接近してくるのかを把握することが、ベルノ連隊に与えられた課題の一つだった。

 

* * *

 

ベルノ連隊の配置は、北から第1歩兵中隊、第2歩兵中隊、第3歩兵中隊の順になっていた。

 

各中隊が受け持つ前線は長い。

 

南北五キロメートルもの戦線を三個中隊で守るため、兵士を隙間なく並べることなどできなかった。

 

それぞれの小隊が担当区域を持ち、さらに各分隊が分散した陣地に配置されている。

 

分隊陣地は連絡壕によって結ばれ、互いに射界を補い合うようになっていた。

 

塹壕の正面には鉄条網や障害物が設けられ、機銃陣地が要所を押さえている。

 

それでも、すべての場所を直接監視できるわけではない。

 

分隊と分隊の間には、地形によって死角が生じていた。

 

森林の奥へ入り込めば、味方陣地から見えない場所も多い。

 

そのため、各中隊は観測所や警戒哨を設け、森林の外縁や古い林道の出口を監視していた。

 

前線から五百ないし八百メートルほど後方には、予備陣地が設けられていた。

 

第一線が砲撃を受けたり、敵の攻撃によって突破されたりした場合には、そこを利用して防御を続けるためだった。

 

第4歩兵中隊は後方の警戒と予備任務を受け持ち、必要に応じて第一線の中隊と交代する。

 

四個歩兵中隊を交代させながら、前線を維持する計画だった。

 

さらに西側へ下がると、連隊本部と砲兵陣地があった。

 

主陣地からおよそ二キロメートル後方である。

 

ベルノ連隊の砲兵中隊が保有する120ミリ榴弾砲は八門。

 

それらは一か所に集中しているわけではなかった。

 

二門ずつ四つの砲兵陣地に分けられ、南北に分散して配置されている。

 

一つの陣地が敵の砲撃を受けても、ほかの砲兵陣地まで同時に被害を受けないようにするためだった。

 

砲兵陣地の周囲には、観測所との通信線や弾薬保管場所が設けられていた。

 

砲を移動させるための道路も必要だった。

 

ベルノ連隊が保有するドーザー付き牽引車は四台。貴重な動力車両であり、砲兵と工兵の仕事に欠かせない存在だった。

 

もっとも、八門すべての砲を同時に牽引できる台数ではない。

 

馬匹による牽引と併用し、限られた車両を必要な場所へ回しながら運用していた。

 

補給部隊は連隊本部の後方に展開していた。

 

後方から伸びる幹線道路を通じて、食糧、弾薬、その他の物資が運び込まれる。

 

輸送の主役は荷馬車だった。

 

多数の馬車が後方と前線の間を往復し、物資を各中隊の集積場所まで運んでいる。

 

そこから先は、人力で塹壕内へ搬入することも多かった。

 

地図の上では、部隊と道路が整然と並んでいる。

 

しかし現地では、道路がぬかるみ、馬車の車輪が泥にはまることもあった。

 

荷馬車がすれ違えない場所もある。

 

工兵たちはそのような問題を一つずつ処理しながら、陣地交代を支えていた。

 

* * *

 

「こちらが第1中隊の担当区域になります」

 

ギョーム連隊の士官が、机に広げられた地図を指し示した。

 

狭い指揮所には、湿った土と煙草の匂いが漂っていた。

 

天井には電灯が一つ吊るされ、机の上には何枚もの地図と報告書が重ねられている。

 

「正面の森林外縁に、古い林道が二本あります。片方は倒木で塞がれていますが、もう片方は敵の偵察兵が利用している可能性があります」

 

第1中隊長のハンス大尉は、その説明を聞きながら地図に印を付けた。

 

「警戒哨は?」

 

「こちらです。夜間は交代で監視しています」

 

「機銃の射界はどうなっていますか?」

 

「右側の分隊陣地と重なるように設定しています。ただし、この窪地だけは死角になります」

 

ハンスは頷いた。

 

「そこは夜間の警戒を増やしましょう」

 

ギョーム連隊の士官は、次の地図を広げた。

 

「それと、前線の後ろにある予備陣地ですが、北側の排水が少し悪くなっています」

 

「工兵に確認させます」

 

「雨が続くと、足元が水浸しになります。冬の間はまだいいのですが、雪解けの時期は厄介でしょう」

 

「なるほど」

 

ハンスは手帳に書き留めた。

 

陣地の引き継ぎでは、こうした細かな説明が延々と続いた。

 

射撃方向、障害物、退避場所、通信線、物資の保管場所。

 

一つ間違えれば、戦闘中に大きな問題となる。

 

ハンスは各小隊長にも、前任部隊との確認を徹底するよう命じていた。

 

* * *

 

第1歩兵中隊の交代要員が、後方から前線へ到着した。

 

その中に、川崎晴斗の姿もあった。

 

川崎は背嚢を背負い、ほかの兵士たちとともに交通壕を歩いていた。

 

塹壕の壁は太い木材で補強され、足元には木製の通路が敷かれていた。

 

曲がり角には土嚢が積まれ、ところどころに掩体壕の入口がある。

 

冷たい空気に、湿った土と木材の匂いが混じっていた。

 

「訓練で使った塹壕より、ずいぶん立派だな……」

 

川崎は周囲を見回した。

 

壁に使われている木材は太く、隙間なく組み合わされている。

 

足元には排水溝も設けられ、塹壕の底に水が溜まらないよう工夫されていた。

 

ドワーフの工兵たちが施工した陣地だと聞いていたが、なるほど見事なものだった。

 

井上がいたら、きっと喜んで見て回るだろう。

 

あいつはG13の講習を終えてから合流する予定だった。

 

そのとき、遠くで砲声が響いた。

 

ドォン!

 

川崎は思わず足を止めた。

 

少し遅れて、低い振動が地面を伝わってくる。

 

「……結構響くな」

 

訓練で聞いた砲声とは違って感じられた。

 

あの音の先では、本当に誰かが撃たれているのかもしれない。

 

そう考えると、胸の奥が少し冷たくなった。

 

前方を歩いていた古参兵が振り返った。

 

「おい、新兵! そこで止まるな。まだ先だぞ!」

 

「はい!」

 

川崎は慌てて歩き始めた。

 

* * *

 

第1中隊の担当区域に到着すると、ギョーム連隊の兵士たちが待っていた。

 

「交代要員か?」

 

「はい! ベルノ連隊第1歩兵中隊です!」

 

「よし。こっちへ来い」

 

前任の分隊長が、川崎たちを塹壕の奥へ案内した。

 

そこには機銃陣地と複数の射撃位置が設けられていた。

 

「正面の森林外縁が見えるか。あの倒木から右側が、この分隊の主な監視区域だ」

 

川崎は双眼鏡を取り出した。

 

前方には荒れた耕作地が広がっていた。

 

ところどころに砲弾孔があり、黒く焼けた切り株が残っている。

 

その向こうには、針葉樹の密集した森林が続いていた。

 

森の中は暗い。

 

木々が重なり、奥がどうなっているのかはほとんどわからなかった。

 

「敵の陣地は、この森の向こうなんですよね?」

 

川崎が尋ねた。

 

「そうだ。主陣地まではおよそ五キロメートルある。ただし、魔族の偵察兵は森の中まで出てくるぞ」

 

「なるほど……」

 

「古い林道があるからな。あいつらも使っているんだろう」

 

前任の分隊長は森林の一角を指さした。

 

「あの切り株の向こうに林道の出口がある。昼間はよく見えるが、夜になるとほとんどわからなくなる」

 

「はい」

 

「それから、砲撃警報が出たら、あちらの掩体壕へ退避しろ」

 

川崎が入口を確認した。

 

「ここからだと、少し距離がありますね」

 

「そうだ。だから、普段から経路を覚えておくんだ。砲撃が始まってから迷っている暇はないぞ」

 

「了解しました」

 

川崎は掩体壕の入口を眺めた。

 

狭い通路が、塹壕の奥へ続いている。

 

実際に砲撃が始まったら、ここへ走り込むことになるのだ。

 

説明が終わると、ギョーム連隊の兵士たちは少しずつ荷物をまとめ始めた。

 

「やっと帰れるな」

 

一人が嬉しそうに言った。

 

「お前ら、あとは頼んだぞ」

 

「はい!」

 

川崎が答えた。

 

「何か質問はあるか?」

 

前任の分隊長が尋ねた。

 

川崎は少し考えた。

 

「敵は毎日攻撃してくるんですか?」

 

「いや。何も起きない日も多い。だが、砲撃だけはいつ来るかわからん」

 

分隊長は肩をすくめた。

 

「静かだからって安心するなよ」

 

その言葉を残して、ギョーム連隊の兵士たちは塹壕を去っていった。

 

川崎は、その背中を見送った。

 

そして、もう一度森林の方へ目を向けた。

 

さっきまでここを守っていた兵士たちは、もういない。

 

これからは自分たちが守るのだ。

 

訓練では何度も塹壕に入った。

 

しかし、本物の敵を前にした塹壕は、やはり違って感じられた。

 

川崎は小さく息を吐き、自分の装備を指定された場所へ運び始めた。

 

* * *

 

一方、最南端の第3中隊では、ミラ中尉が高台陣地の引き継ぎを進めていた。

 

第3中隊の担当区域には、周囲よりも高い丘陵があった。

 

そこからは前方の荒れ地と森林外縁を広く見渡すことができた。

 

森林の奥までは見えないものの、森へ出入りする敵の偵察兵を発見しやすい。

 

そのため、陣地には複数の観測所が設けられていた。

 

しかし、この高台には大きな欠点もあった。

 

周囲から目立つのである。

 

森林内に潜んだ敵の観測兵からも発見されやすく、砲撃を受ける危険が高かった。

 

「この掩体壕は何人収容できますか?」

 

ミラが尋ねた。

 

「二十人ほどです。奥にも一つあります」

 

「退避経路が長いですね」

 

「ええ。ここは敵の砲撃を受けやすいので、警報が出たらすぐに退避させています」

 

前任の士官が答えた。

 

ミラは地図に視線を落とした。

 

「第2小隊の陣地ですね」

 

「はい。とくにこの一角は、敵の観測を受けやすい場所です」

 

ミラは塹壕の奥を見た。

 

頑丈に造られた陣地だった。

 

ドワーフたちが施工したという塹壕は、木材の組み方も排水設備もよく考えられていた。

 

天井に太い丸太を重ねた掩体壕は、外側から見るよりも奥行きがあった。

 

壁には物資を置く棚があり、床には水が溜まらないよう排水溝が掘られている。

 

しかし、掩体壕までの距離は変えようがない。

 

「砲撃が始まってからでは遅い場合もありますね」

 

「そのとおりです」

 

前任の士官は頷いた。

 

「ここの兵士には、退避を徹底させています」

 

ミラは静かに答えた。

 

「各小隊長に、もう一度退避手順を確認させます」

 

ミラは塹壕から顔を出し、東の森林を見た。

 

冬の空の下、針葉樹の梢が風に揺れている。

 

その森のどこかから、こちらを監視している魔族がいるかもしれない。

 

高台からよく見えるということは、相手からも見つけられやすいということだった。

 

その第2小隊には、石井軍曹の分隊が配置されることになっていた。

 

石井のほか、ロイ、リース、サクといった兵士たちも、この高台の守備につく。

 

伊藤千尋をはじめとする第20期の日本人新兵たちも、第3中隊の持ち場へ入っていた。

 

誰もが、ここで本格的な前線勤務を始めることになる。

 

* * *

 

砲兵中隊の交代も、ほぼ完了していた。

 

ベルノ連隊の120ミリ榴弾砲八門は、二門ずつ四つの砲兵陣地に分散して配置された。

 

各砲兵陣地は南北に距離を取り、地形の起伏や樹木を利用して偽装されている。

 

砲の位置は、すでに先行した測量隊によって決められていた。

 

工兵は砲を搬入する道路を整備し、地盤の悪い場所には補強を施していた。

 

砲兵たちは砲を据え付け、弾薬を運び込み、観測所との通信を確認していた。

 

冬の冷たい空気の中、砲身に触れる金属音や、弾薬箱を運ぶ兵士たちの掛け声が響いていた。

 

馬に曳かれた荷車が泥の残る道路をゆっくりと進み、砲の近くでは兵士たちが木箱を積み上げている。

 

少し離れたところでは、牽引車が道路の補修に使われていた。

 

履帯が地面を踏み固め、前部のドーザーが泥を押しのけている。

 

その周囲では工兵たちがスコップを振るっていた。

 

少数の動力車両と大勢の兵士、そして馬。

 

ベルノ連隊の砲兵中隊は、そうした人員と装備に支えられていた。

 

ただし、八門の榴弾砲があれば、どこにでも好きなだけ砲弾を撃ち込めるわけではない。

 

各砲兵陣地の射撃準備、観測所との連絡、弾薬の供給。

 

それらがすべて整って、初めて継続した砲撃が可能になる。

 

ギョーム連隊の砲兵も、ベルノ連隊の射撃準備が整うまでは一部が残っていた。

 

「こちらの砲兵陣地には、敵からの砲撃が何度かありました」

 

前任の砲兵士官が説明した。

 

「敵が正確な位置を把握しているかどうかはわかりませんが、念のため注意してください」

 

「承知しました」

 

ベルノ連隊の士官が頷いた。

 

「陣地変換先も準備しています」

 

「それは結構です。ここは長く留まるほど危険になりますからな」

 

前任の士官は砲列を眺めた。

 

「それにしても、八門の120ミリ砲を持っているとは、なかなかの火力ですな」

 

「ベルノ連隊では120ミリ砲を重視していますので」

 

「頼もしいことです」

 

やがて最後の砲の準備が整い、観測所との連絡確認も終了した。

 

四か所の砲兵陣地には、それぞれ二門の120ミリ榴弾砲が据え付けられている。

 

計八門。

 

ベルノ連隊の砲兵中隊は、いつでも射撃命令を受けられる状態になった。

 

ギョーム連隊の砲兵たちは、ようやく撤収準備を始めた。

 

「これで、うちの仕事は終わりだな」

 

前任の砲兵士官が言った。

 

「長い間、ご苦労さまでした」

 

ベルノ連隊の士官が敬礼する。

 

「次はあんたたちの番だ。ここの魔族は、そう簡単には休ませてくれないぞ」

 

砲兵士官は笑いながら答礼した。

 

* * *

 

一方、前線後方に設けられた30ミリ対空機関砲の陣地では、部隊の交代は行われていなかった。

 

ここを守っているのは、師団から派遣された対空砲小隊だった。

 

ギョーム連隊の駐屯中から配置されている部隊であり、今回の陣地交代でも、そのまま防空任務を継続することになっていた。

 

陣地には土嚢と盛り土に囲まれた対空機関砲が据え付けられ、上空へ向けた長い砲身が伸びている。

 

周囲には弾薬箱が積まれ、兵士たちが砲の整備や弾薬の点検を行っていた。

 

砲座の脇には空薬莢を集めるための容器が置かれ、弾薬箱の上には油の染みた布が広げられていた。

 

その陣地を、オリヴィエが訪れた。

 

「小隊長はどちら?」

 

声をかけると、一人の士官が駆け寄ってきた。

 

「はい! 対空砲小隊長であります!」

 

士官は姿勢を正して敬礼した。

 

オリヴィエも答礼する。

 

「ベルノ連隊長のオリヴィエ・フォン・ベルノ大佐です。これから、私たちがこの戦線を担当することになりました。よろしくお願いします」

 

「こちらこそ、よろしくお願いいたします!」

 

「装備や人員に問題はありませんか?」

 

「はい。現在、全砲が使用可能な状態です。弾薬も規定量を確保しております」

 

「結構です」

 

オリヴィエは砲座に目を向けた。

 

「こちらは師団からの派遣ですから、今回の連隊交代でも配置は変わらないのですね」

 

「はい。引き続き、この区域の防空任務に当たります」

 

「わかりました。連絡については、ベルノ連隊本部とも十分に調整してください。何か必要なことがあれば遠慮なく申し出てください」

 

「ありがとうございます」

 

オリヴィエはもう一度、対空機関砲を見上げた。

 

「敵の航空機が来たときは、頼りにしていますよ」

 

「お任せください!」

 

小隊長が胸を張って答えた。

 

オリヴィエは小さく頷くと、兵士たちにも労いの言葉をかけ、陣地を後にした。

 

* * *

 

その後、G13の講習を終えた井上翔太が、第1歩兵中隊の陣地へ合流した。

 

井上が交通壕を進んでいると、前方から見慣れた顔が現れた。

 

「よう、井上! やっと来たか!」

 

川崎だった。

 

「おう、川崎。遅くなったな」

 

井上は背嚢を下ろした。

 

「どうだ、前線は?」

 

「とりあえず、まだ生きてるよ」

 

川崎は笑った。

 

「しかし、ここの塹壕はすごいな。井上、お前、こういうの好きだろ?」

 

「確かに。ドワーフの施工技術は見てみたかったんだよ」

 

井上は周囲を眺めた。

 

木材で補強された塹壕の壁、足元の排水溝、奥へ続く掩体壕。

 

どれも興味を引くものだった。

 

「それにしてもさ」

 

井上が言った。

 

「軍団本部も見てきたけど、ほんと自動車が少ないよな」

 

「そうだな。ここへ来る途中も馬車ばっかりだったし」

 

「ベルノ連隊だって、ドーザー付きの牽引車が四台と、連絡用の自動車が何台かあるだけだろ?」

 

「そう聞いてるな」

 

井上はため息をついた。

 

「兵隊は歩いて、荷物は馬車で運んでる。砲兵だって馬を使ってるところが多いんだろ?」

 

「まあ、そうだな」

 

「せめてトラックぐらい、もっと配備してくれよ」

 

「俺に言われても困るけどな」

 

川崎は苦笑した。

 

「それに、石油とか石炭が少ないって話だぜ。その辺は魔族も一緒だってさ」

 

「まあ、燃料がなけりゃ車も動かせないからな……」

 

井上は肩を落とした。

 

「でも、車はいい感じだよな」

 

川崎が言った。

 

「連隊本部にあるの、けっこうかっこいいぜ」

 

「ああ、あれな!」

 

井上は顔を上げた。

 

「俺も見た。ちゃんとした自動車なんだよな。車体の造りも悪くないし、形もなかなかいい」

 

「だろ?」

 

「軍団本部にも何台かあったけど、こっちの世界、機械の技術自体はけっこう進んでるんだよな」

 

「なのに、移動は馬車ばっかりなんだよなあ」

 

川崎は笑った。

 

「そうなんだよ。もったいないよな」

 

井上も苦笑した。

 

しかし、すぐに表情を曇らせた。

 

「俺たちが馬車なのに、魔族の戦車はT-34みたいなやつなんだぜ。反則だろう、あれ……」

 

「お前、講習でそんなものまで見たのか?」

 

「ああ。敵戦車の写真を見せられた」

 

井上は首を振った。

 

「正面の装甲が斜めになっててさ。あれを見たら、T-34を思い出すって」

 

「戦車だって、そんなにたくさんあるわけじゃないんだろ?」

 

「そうらしいけど、出てきたら困るのはこっちなんだよ!」

 

井上は頭をかいた。

 

川崎は、ふと思い出したように尋ねた。

 

「そういやお前、対戦車兵器の講習を受けてたんだよな」

 

「ああ、G13か」

 

「どうだったんだ?」

 

井上は少し考えてから答えた。

 

「……とんでもない兵器だったよ」

 

「そんなにすごいのか?」

 

「いや、威力はすごいんだけどさ」

 

井上はため息をついた。

 

「パンッアーファーストって知ってるか?」

 

「なんだそれ?」

 

「昔のドイツ軍が使っていた対戦車兵器だよ。G13はあれにそっくりなんだ」

 

井上は身振りを交えて説明し始めた。

 

「最初は俺も興奮したんだぜ。こんな世界にパンッアーファーストみたいな兵器があるなんて思わなかったからな」

 

「お前、そういうの好きだもんな」

 

「でも、講習を受けて考えが変わった」

 

井上の表情が曇った。

 

「射程が五十メートルしかないんだ」

 

「五十メートル?」

 

「そう。パンッアーファーストを持って、敵戦車が五十メートルまで来るのを待つんだぞ」

 

井上は塹壕の外を指さした。

 

「敵戦車は傾斜装甲を持っていて、正面からじゃ簡単には貫通できない。それに、魔族歩兵が随伴してくるんだ」

 

「……それは嫌だな」

 

「嫌なんてもんじゃないよ。発射すると後ろに噴流が出るから、普通の小銃みたいに伏せて撃つこともできない」

 

井上は首を振った。

 

「講習では鋼板を撃ったんだけど、威力はすごかった。でも、実際の戦車が目の前にいるところを想像したら……」

 

そこで言葉を止めた。

 

講習で見せられた写真の敵戦車が、頭に浮かんだ。

 

大きな車体。

 

傾斜した装甲板。

 

その周囲を進む魔族歩兵。

 

自分はその戦車が五十メートルまで接近するのを待つ。

 

敵からは機銃も小銃も撃たれるだろう。

 

「自殺兵器みたいなもんだよ、あれは」

 

川崎も黙り込んだ。

 

五十メートル。

 

短距離走なら、ほんの数秒で駆け抜けられる距離だった。

 

それほど近くまで敵戦車を引きつけ、その周囲にいる魔族歩兵の射撃を受けながら撃たなければならない。

 

井上が恐ろしいと言っている意味は、川崎にも理解できた。

 

そこへ、分隊長が近づいてきた。

 

「何の話をしている?」

 

帝国共通語で尋ねられ、井上は少し言葉に詰まった。

 

「あ、G13の話です」

 

細かい説明をしようとしたが、専門的な単語がうまく出てこない。

 

ちょうど近くを通りかかった飯島仁上等兵に声をかけた。

 

「飯島先輩、すみません。ちょっと通訳をお願いできますか?」

 

「何だ?」

 

「G13の講習の話なんです。分隊長に説明したくて」

 

「ああ、いいぞ」

 

井上は飯島を介して説明し始めた。

 

「G13は、俺の知っているパンッアーファーストという兵器にそっくりなんです。でも、射程が五十メートルしかありません」

 

飯島が帝国共通語に訳した。

 

分隊長は興味深そうに聞いていた。

 

「ほう。それで?」

 

「パンッアーファーストは強力ですけど、敵戦車が近づくのを待たなければならないんです。それも、敵の歩兵がいるところで」

 

井上は身振りを交えながら続けた。

 

「しかも、発射すると後ろに噴流が出るでしょう? 普通の小銃とは撃ち方も違うんです」

 

飯島は井上の説明を丁寧に訳していった。

 

「つまり、使う兵士に大きな危険があるということか?」

 

分隊長が尋ねた。

 

「そうです!」

 

井上は思わず声を大きくした。

 

「パンッアーファーストがあれば戦車を簡単に倒せる、なんて思わないでほしいんです。敵が五十メートルまで来るんですよ! それまで生き残れるかどうかだってわからないんです!」

 

分隊長は、塹壕の外を見た。

 

正面の森林までは、まだかなりの距離がある。

 

もし、そこから敵戦車が姿を現したとしても、G13で攻撃するには、さらに接近してくるのを待たなければならない。

 

それも、遮蔽物の少ない荒れ地を進んでくる敵戦車に対してである。

 

「なるほど。確かに危険だな」

 

飯島が最後まで訳し終えると、分隊長は真剣な表情で頷いた。

 

「よくわかった」

 

「ありがとうございます!」

 

井上はほっとした。

 

自分がG13の講習で感じた恐ろしさを、少しは伝えられたと思った。

 

分隊長は井上の肩を軽く叩いた。

 

「講習を受けた者の意見として、小隊長にも伝えておこう」

 

「はい!」

 

しかし、その分隊長の頭には、もう一つの言葉が強く残っていた。

 

パンッアーファースト。

 

井上が何度も繰り返していた、その兵器の名前である。

 

* * *

 

その日の夕方。

 

分隊長は小隊長へ、井上から聞いた話を報告していた。

 

「そういえば、G13についてですが」

 

「何だ?」

 

「日本人新兵の話によると、パンッアーファーストという名称のようです」

 

「パンッアーファースト?」

 

「はい。G13は制式番号で、兵器の名前はそういうものらしいのです」

 

「ほう、そうなのか」

 

小隊長は初めて聞く名前だった。

 

「それで、そのパンッアーファーストという兵器は、やはり射程が短いのか?」

 

「はい。五十メートル程度です。講習を受けた日本人によると、実戦で使用するには相当な危険があるそうで」

 

「なるほど。中隊長にも伝えておこう」

 

こうして、井上の話は小隊長へ伝わった。

 

翌日、小隊長は中隊長へ報告した。

 

「G13、通称パンッアーファーストについてですが……」

 

「パンッアーファースト?」

 

「はい。日本人兵士によると、そういう名称だそうです」

 

中隊長も頷いた。

 

「なるほど。覚えやすい名前だな」

 

さらに、その話は中隊内のほかの小隊へ伝わった。

 

「G13はパンッアーファーストというらしいぞ」

 

「何だ、その名前は?」

 

「日本人が知っていたそうだ。正式な名称らしい」

 

「へえ、そうなのか」

 

やがて、別の歩兵中隊でも同じ名前が使われ始めた。

 

「パンッアーファーストの講習は受けたか?」

 

「いや、まだだ」

 

「射程が短いから、扱いが難しいそうだぞ」

 

補給担当の兵士たちも、その名前を耳にするようになった。

 

「G13の弾薬を追加で持ってきてくれ」

 

「ああ、パンッアーファースト用ですね」

 

「そう、それだ」

 

誰も、特に疑問を持たなかった。

 

井上は兵器の危険性を伝えたかっただけだった。

 

しかし、その説明の中で繰り返された名称は、本人の知らないところで広まっていった。

 

* * *

 

連隊本部でも、陣地交代の最終調整が続いていた。

 

オリヴィエとアウレリアは、各中隊から届いた報告書に目を通していた。

 

机の上には陣地配置図と補給一覧が広げられ、その脇には各中隊長からの報告書が積み重ねられている。

 

部屋の隅では小さなストーブが燃えていたが、床から伝わる冷気までは防げなかった。

 

「歩兵中隊の弾薬補充は問題なさそうね」

 

オリヴィエは一枚の書類を机に置いた。

 

「それにしても、あちこちから補給の要求が来るわね」

 

「前任部隊との装備の違いもありますから。しばらくは仕方ありません」

 

アウレリアはそう答えながら、次の報告書を差し出した。

 

「こちらは第1歩兵中隊からです。対戦車兵器の追加講習を希望しています」

 

「対戦車兵器?」

 

オリヴィエは書類に目を落とした。

 

『G13、通称パンッアーファーストの取り扱いについて――』

 

そこで手が止まった。

 

「……アウレリア」

 

「はい?」

 

「パンッアーファーストってなに? 食べ物?」

 

アウレリアは一瞬、言葉に詰まった。

 

「……いえ、食べ物ではありません」

 

「じゃあ、何なの?」

 

「G13のことです」

 

「G13?」

 

オリヴィエはもう一度、書類を見た。

 

「対戦車兵器のG13?」

 

「はい」

 

「いつからそんな名前になったの?」

 

「正式名称はG13のままです。ただ、最近は兵士たちの間でパンッアーファーストと呼ばれているようでして」

 

「どうして?」

 

「それが……日本人の兵士が、そう呼んでいたのが始まりだそうです」

 

アウレリアは、井上がG13の危険性を説明した際に、似た兵器の名称を何度も口にしていたことを伝えた。

 

「本人は名称を広めたかったわけではなく、G13を使用する際の危険性を伝えようとしていたようです」

 

「それなのに、名前のほうが広まっちゃったの?」

 

「そういうことになります」

 

オリヴィエはしばらく黙っていた。

 

そして、吹き出した。

 

「あはは! 何やってるのよ、うちの将兵たちは!」

 

アウレリアも思わず口元を緩めた。

 

「皆が正式な名称だと思い込んでいたようです」

 

「もう、誰か確認しなさいよ!」

 

オリヴィエは笑いながら書類を机に置いた。

 

「でも、パンッアーファーストねえ……」

 

もう一度、口に出してみる。

 

「やっぱり、お菓子の名前みたいじゃない?」

 

「……そうでしょうか」

 

「帝都のお店で売っていても不思議じゃないわ」

 

アウレリアは苦笑した。

 

オリヴィエは、再び報告書に目を落とした。

 

「それで、その井上って子は、そんなに危険だと言っているの?」

 

「はい。射程が五十メートルしかないこと、敵戦車に随伴する歩兵の存在、発射時の後方噴流などを心配しているようです」

 

「五十メートルねえ……」

 

オリヴィエは少し考えた。

 

机の上には、ベルノ連隊の陣地配置図が広げられている。

 

歩兵中隊の塹壕、機銃陣地、掩体壕。

 

それらが細い線で結ばれていた。

 

敵戦車が接近したとき、歩兵たちはこうした陣地の中で戦うことになる。

 

「アウレリア、一度実際に見たほうが良さそうね。各将兵にも使用の実演を見せましょう」

 

「G13の実演射撃ですか?」

 

「ええ。講習を受けた者だけが知っていても意味がないわ。実際に使う可能性のある兵士には、どんな兵器なのか理解させないと」

 

「では、武器科と各中隊に連絡します」

 

「そうしてちょうだい。それと……」

 

オリヴィエは報告書を指で叩いた。

 

「その井上って子、実際に撃ったことがあるんでしょう?」

 

「講習で実射を経験しているそうです」

 

「なら、その子に実演してもらいましょう」

 

「井上二等兵を、ですか?」

 

「ええ。本人が危険性をよく理解しているようだし、ちょうどいいじゃない」

 

オリヴィエは微笑んだ。

 

「どんな子なのか、私も見てみたいわ」

 

* * *

 

陣地交代の完了を目前に控えた日。

 

ベルノ連隊の後方に設けられた射撃訓練場には、冷たい風が吹いていた。

 

二月の空は薄い雲に覆われ、時折、その切れ間から弱い日差しが差し込んでいる。

 

射撃場は、かつて農地だった場所を利用していた。

 

周囲には低い丘が連なり、遠くには針葉樹の森が見える。地面には枯れ草が残り、日陰には融け残った雪がまだらに積もっていた。

 

中央には、戦車の装甲を模した鋼板標的が設置されていた。

 

鋼板は太い木材で組まれた架台に固定され、周囲には以前の射撃訓練でできたらしい小さな穴や、掘り返された土が残っている。

 

そこから五十メートル離れた場所に、G13の射撃位置が設けられていた。

 

見学者たちは安全な場所に集められ、歩兵中隊の士官や下士官、代表の兵士たちが実演の開始を待っていた。

 

前線の警戒を緩めるわけにはいかないため、各中隊の見学者は交代で参加することになっていた。

 

周囲では武器科の兵士たちが準備を進めていた。

 

「井上、こっち来い」

 

篠沢遊馬一等兵が声をかけた。

 

「はい!」

 

井上翔太が駆け寄ってきた。

 

「準備はできたか?」

 

篠沢が尋ねた。

 

「はい。でも……」

 

「でも?」

 

「本当に俺が撃つんですか?」

 

篠沢は笑った。

 

「今さら何を言ってるんだ」

 

「だって、連隊長が見に来るんでしょう?」

 

「そうだな」

 

「講習のときは、こんなに人がいなかったんですよ」

 

井上は見学者たちの方を見た。

 

「俺、G13の危険性を説明したかっただけなんですけど……」

 

「わかってるよ」

 

篠沢は頷いた。

 

「だから今日は、その危険性をみんなに見てもらうんだ。お前が実際に撃って見せれば、説明だけより伝わるだろう」

 

「それはそうですけど……」

 

井上は落ち着かない様子で足元を見た。

 

少し離れた場所では、川崎晴斗がその様子を眺めていた。

 

「井上、お前、緊張しすぎだろ」

 

「うるさいな。お前は見てるだけだから気楽でいいよな!」

 

「まあな」

 

川崎は笑った。

 

「でも、連隊長直々のご指名なんだろ? 光栄じゃないか」

 

「俺は別に、そんなこと望んでないんだよ!」

 

篠沢は二人のやり取りを聞きながら、苦笑していた。

 

* * *

 

しばらくして、一台の自動車が射撃場へ入ってきた。

 

オリヴィエ・フォン・ベルノ大佐とアウレリア大尉の到着だった。

 

連隊本部が保有する、数少ない連絡用自動車の一台である。

 

砂利の敷かれた場所で車が停まると、武器科の士官が駆け寄り、敬礼した。

 

「G13実演射撃、準備完了しております!」

 

「ご苦労さま」

 

オリヴィエは答礼した。

 

今日は普段の軍服の上に厚手の外套を羽織り、革の手袋をはめている。

 

風に揺れる髪を片手で押さえながら、射撃場を見回した。

 

「思ったより広い場所ね」

 

「後方噴流の危険があるため、十分な場所を確保しております」

 

武器科の士官が説明した。

 

「そう。ありがとう」

 

オリヴィエは五十メートル先の鋼板標的へ目を向けた。

 

「あれを撃つのね?」

 

「はい」

 

「ずいぶん近いわね」

 

「G13の有効射程を想定しております」

 

「なるほど……」

 

オリヴィエは頷いた。

 

それから、射撃位置の近くにいる兵士たちへ視線を移した。

 

その中に、一人だけ妙に目を引く日本人兵士がいた。

 

背丈はそれほど高くない。

 

周囲の兵士たちが引き締まった体格をしているのに対し、その兵士は全体的に丸みを帯びていた。

 

肩幅はそれなりにあるものの、腹回りにも少し肉がついている。厚手の冬用軍服を着込んでいるせいもあって、ころっとした印象だった。

 

顔も丸い。

 

ふっくらとした頬に、柔らかな目元。

 

険しい表情を作っても、あまり怖そうには見えない顔立ちだった。

 

その兵士は篠沢に何か言われて、慌てて姿勢を正した。

 

しかし、どうにも落ち着かないらしい。

 

背筋を伸ばしたかと思えば、また篠沢の方を向いて何か尋ねている。

 

隣にいる川崎に声をかけられると、今度は困ったような顔をした。

 

表情がころころ変わる。

 

どうやら本人は大真面目なのだが、その仕草には妙な愛嬌があった。

 

オリヴィエは思わず目を輝かせた。

 

「あら?」

 

「どうかなさいましたか?」

 

アウレリアが尋ねた。

 

「アウレリア、あの子が井上?」

 

「はい。第1歩兵中隊の井上翔太二等兵です」

 

「へえ……」

 

オリヴィエは興味津々といった様子で井上を眺めた。

 

「ころっとして、愛嬌のある子ね」

 

その声には、初めて見る珍しい生き物を見つけたような、無邪気な喜びが混じっていた。

 

アウレリアはそんなオリヴィエの横顔を見て、いたずらっぽく微笑んだ。

 

「オリヴィエ様は、ああいう方が好みなんですか?」

 

「えっ!?」

 

オリヴィエは驚いて振り返った。

 

「ち、違うわよ!」

 

「そうなのですか?」

 

アウレリアは涼しい顔をしている。

 

「でも、ずいぶん嬉しそうにご覧になっていましたので」

 

「そういう意味じゃないわよ!」

 

オリヴィエは小声で言い返した。

 

そして、もう一度井上の方を見る。

 

「でも、なんかかわいくない?」

 

「……かわいい、ですか?」

 

「そうよ。なんだか、見てるだけで面白いじゃない」

 

アウレリアは笑いを堪えた。

 

「なるほど。そういうご趣味でしたか」

 

「だから違うってば!」

 

「失礼しました」

 

アウレリアは軽く頭を下げた。

 

しかし、その口元にはまだ笑みが残っていた。

 

「もう!」

 

オリヴィエは少し頬を膨らませたが、すぐに井上へ視線を戻した。

 

当の井上は、こちらでそんな会話が交わされているとは夢にも思っていない。

 

連隊長の前で実演射撃をしなければならないという事実に、ただひたすら緊張していた。

 

オリヴィエは小さく笑った。

 

「さて、それじゃあ実演を見せてもらいましょうか」

 

* * *

 

実演に先立ち、武器科による説明が始まった。

 

篠沢がG13を手に取り、見学者たちの前に立つ。

 

「武器科所属、篠沢遊馬一等兵であります!」

 

オリヴィエは頷いた。

 

「あなたも日本人なのね」

 

「はい!」

 

「では、説明をお願いします」

 

篠沢はG13の構造と性能について説明した。

 

歩兵が携行できる対戦車兵器であり、成形炸薬弾によって敵戦車の装甲を貫通する。

 

しかし、有効射程は約五十メートルしかなく、射手は敵戦車が極めて近くまで接近するのを待たなければならない。

 

さらに、発射時には強烈な後方噴流が発生する。

 

「後方噴流?」

 

オリヴィエが尋ねた。

 

「はい。発射時に高温のガスが後方へ噴き出します。射手自身や周囲の兵士に危険が及ぶことがあります」

 

「なるほど……」

 

オリヴィエはG13を眺めた。

 

長い発射筒の先端に、大きな弾頭が取り付けられている。

 

小銃とも機銃とも違う、奇妙な形をした兵器だった。

 

「これを歩兵が一人で扱うのね」

 

「はい」

 

「わかりました。実際に見せてください」

 

* * *

 

実演射撃が始まった。

 

井上は篠沢からG13を受け取った。

 

ずしりとした重量が両手にかかる。

 

講習で一度撃っているとはいえ、何度持っても妙な形をした兵器だった。

 

射撃位置に立つと、冷たい風が頬をなでた。

 

見学者たちの話し声が、少し離れた場所から聞こえてくる。

 

その中には、オリヴィエ大佐もいる。

 

井上はできるだけそちらを見ないようにした。

 

「射手、準備!」

 

教官の声が響いた。

 

井上はG13を構えた。

 

折りたたまれていたサイトを起こす。

 

続いて、発射筒の後方を確認した。

 

安全区域には誰もいない。

 

篠沢が少し離れた場所から見守っている。

 

井上は再び標的へ向き直った。

 

二つの安全ピンを抜き、引き金に手をかける。

 

五十メートル先の鋼板標的が見える。

 

たった五十メートル。

 

こうして見ると、驚くほど近い。

 

講習のときにも感じたことだった。

 

あそこに本物の戦車がいたら、どうなるだろう。

 

鋼板は動かない。

 

機銃も撃ってこない。

 

周囲に魔族歩兵もいない。

 

それでも、井上の頭には講習で見せられた敵戦車の写真が浮かんでいた。

 

傾斜した装甲板。

 

大きな車体。

 

その周囲を進む魔族歩兵。

 

こちらに向けられた機銃。

 

もし、あれが本物だったら。

 

井上は小さく息を吐いた。

 

「射撃用意!」

 

教官の声が響く。

 

井上はサイト越しに標的を見つめた。

 

「撃て!」

 

ドンッ!

 

鈍い発射音とともに、G13が火を噴いた。

 

発射筒の後方から凄まじい噴流が吹き出し、地面の砂や土埃を巻き上げる。

 

枯れ草が激しく揺れた。

 

ほとんど同時に、弾頭が五十メートル先の鋼板へ命中する。

 

鋭い金属音が響き、標的の周囲に煙が広がった。

 

「おおっ!」

 

見学していた将兵たちから驚きの声が上がった。

 

「すごい威力だ!」

 

「これなら戦車も撃ち抜けるぞ!」

 

兵士たちの視線は、煙の立ち上る鋼板へ集中していた。

 

しかし、オリヴィエは違った。

 

彼女は弾頭の命中ではなく、井上が立っている射撃位置を見つめていた。

 

後方に巻き上がった土埃が、まだ風に流されている。

 

「あら……」

 

オリヴィエは小さく呟いた。

 

隣にいたアウレリアが振り向く。

 

「どうかなさいましたか?」

 

「今の、見た?」

 

「はい。かなりの威力ですね」

 

「違うわ。後ろよ、後ろ」

 

オリヴィエは射撃位置を指さした。

 

「発射したとき、後ろからものすごい勢いで噴き出したでしょう?」

 

「バックブラストですね」

 

「そう、それよ」

 

オリヴィエは腕を組んだ。

 

「これ、かなり危ないわね」

 

アウレリアも射撃位置を見た。

 

土埃が薄くなり、井上の姿がはっきり見えてきた。

 

「確かに、後方に人がいたら危険でしょうね」

 

「それだけじゃないわ」

 

オリヴィエは首を振った。

 

「姿勢を間違えたら、撃った本人だって危ないんじゃない?」

 

彼女は近くにいた篠沢へ声をかけた。

 

「篠沢一等兵、ちょっといいかしら」

 

「はい!」

 

篠沢が駆け寄ってきた。

 

「今の後方噴流について教えてちょうだい。射手自身が怪我をする危険はないの?」

 

「あります。G13は発射時に後方へ高温のガスを噴出します。構え方が不適切であったり、後方の状況を確認していなかったりすると、射手自身や周囲の兵士が危険にさらされます」

 

「やっぱりね……」

 

オリヴィエは、もう一度射撃場を見回した。

 

ここは開けた場所だった。

 

周囲には十分な空間がある。

 

後方に人が立ち入らないよう管理され、落ち着いて安全確認をしてから射撃を行っている。

 

しかし、実際の戦場は違う。

 

ベルノ連隊の歩兵たちが守る陣地には、狭い塹壕や掩体壕が複雑に入り組んでいた。

 

土壁が迫り、木材の補強が施され、すぐ近くには味方の兵士がいる。

 

砲撃によって塹壕が壊れていることもあるだろう。

 

そんな場所で、敵戦車が五十メートルまで迫ってくる。

 

「……塹壕の中だと、もっと危ないわね」

 

オリヴィエが呟いた。

 

篠沢は頷いた。

 

「はい。後方が塞がれた場所では、噴流の影響が射手にも及ぶ危険があります」

 

「でしょうね」

 

オリヴィエは、先ほど井上が撃った場所を見つめた。

 

「敵の戦車が来た。慌ててG13を持ち出す。構え方を間違えたり、周囲を確かめずに撃ったりしたら……」

 

そこで言葉を切った。

 

「敵に撃たれる前に、自分の兵器で怪我をするかもしれないわけね」

 

「そのとおりです」

 

篠沢は答えた。

 

アウレリアが言った。

 

「通常の小銃とは、まったく違う注意が必要ですね」

 

「ええ。しかも五十メートルまで敵を引きつけなければならないんでしょう?」

 

オリヴィエはため息をついた。

 

「そんな状況で、冷静に撃てと言われても難しいわよ」

 

彼女はG13を見た。

 

先ほどは鋼板を見事に撃ち抜いた。

 

その威力は確かに魅力的だった。

 

しかし、威力があることと、兵士にとって安全に使えることは別の問題だった。

 

* * *

 

「井上二等兵」

 

オリヴィエが声をかけた。

 

「は、はい!」

 

井上は慌てて姿勢を正した。

 

オリヴィエは間近で井上を見た。

 

先ほど遠くから見たときよりも、顔の丸みがよくわかる。

 

緊張のためか、頬が少し赤くなっていた。

 

一生懸命に姿勢を正している様子に、オリヴィエは思わず頬を緩めそうになった。

 

だが、今は仕事の話だった。

 

「あなた、講習を受けて、この兵器が怖くなったそうね?」

 

「はい!」

 

「その理由が、よくわかったわ」

 

井上は驚いたように顔を上げた。

 

「本当ですか?」

 

「ええ。敵戦車に近づく危険もあるけれど、発射すること自体にも危険があるのね」

 

「そうなんです!」

 

井上は思わず声を大きくした。

 

「敵が五十メートルまで来ている状況で、後ろも確認しなきゃならないんです! しかも敵の歩兵もいるわけで……」

 

井上は両手を使って説明し始めた。

 

その様子を、オリヴィエは興味深そうに眺めていた。

 

先ほどまで緊張していたのに、G13の話になると急に饒舌になる。

 

話している内容は真剣そのものなのだが、表情の変化が実に豊かだった。

 

オリヴィエは微笑みながら頷いた。

 

「ええ、わかるわ。訓練では落ち着いてできても、実戦で同じようにできるとは限らないものね」

 

「はい!」

 

井上は力強く答えた。

 

自分が伝えたかったことを、連隊長が理解してくれた。

 

それが何より嬉しかった。

 

オリヴィエは篠沢に向き直った。

 

「篠沢一等兵」

 

「はい!」

 

「今後の講習では、今のバックブラストについて、特に注意して教えてちょうだい」

 

「了解しました!」

 

「威力の説明だけでは駄目よ。射手自身や周囲の兵士が危険になることも、しっかり理解させてください」

 

「はい!」

 

オリヴィエはアウレリアにも言った。

 

「各中隊長にも伝えて。G13を使わせるなら、兵士たちに十分な教育を受けさせること。敵戦車を倒せたとしても、撃った兵士が自分の兵器で怪我をするようでは困るわ」

 

「承知しました」

 

アウレリアは手帳に書き留めた。

 

オリヴィエは再び、五十メートル先の鋼板を眺めた。

 

「……強力なのは確かね。でも、簡単に扱える兵器ではないわ」

 

そして、井上を見て微笑んだ。

 

「ありがとう、井上二等兵。実際に見てよかったわ」

 

「ありがとうございます!」

 

井上は姿勢を正して敬礼した。

 

オリヴィエは答礼すると、ふと思い出したように言った。

 

「ところで、井上」

 

「はい?」

 

「このパンッアーファーストって名前、あなたがつけたの?」

 

「……えっ?」

 

井上の表情が固まった。

 

* * *

 

翌日。

 

ギョーム連隊の最後の部隊が撤収準備を終えたころ、前線指揮所では両連隊長による最後の引き継ぎが行われていた。

 

ギョーム伯爵とオリヴィエ・フォン・ベルノ大佐が、机を挟んで向かい合っていた。

 

机の上には、この一帯の陣地配置を示した大きな地図が広げられている。

 

窓の外からは馬のいななきと車輪の軋む音、荷物を積み込む兵士たちの掛け声が聞こえてきた。

 

「以上が、我が連隊からの引き継ぎ事項です」

 

ギョームが地図を指しながら言った。

 

オリヴィエは地図に目を落とした。

 

「右翼の高台陣地についてですが」

 

「ああ、あそこですか」

 

ギョームの表情が少し真剣になった。

 

「地形上、どうしても敵の観測を受けやすい場所です。しかし、あの高台を放棄すれば、右翼全体の守りが難しくなります」

 

「ええ。陣地を維持する必要があることは理解しています。退避経路については、こちらでも確認しました」

 

「申し訳ありませんな。もう少し改修できればよかったのですが」

 

「いいえ。十分立派な陣地です。これだけの設備を引き継げるのですから、むしろ感謝しています」

 

オリヴィエは地図を見ながら続けた。

 

「工兵にも必要な補修を命じています。あとは兵士たちが、この陣地に慣れることですね」

 

「それには少し時間がかかるでしょう」

 

ギョームは苦笑した。

 

「前線というのは、地図で見ただけではわからないことが多いものです」

 

「そのとおりですね」

 

二人はしばらく、敵陣地の配置や砲撃の傾向について意見を交わした。

 

とくに森林地帯へ通じる古い林道と、高台陣地の前方に広がる死角については、ギョームも注意を促した。

 

「我々も、森林内の敵の活動を完全に把握できているわけではありません」

 

「承知しています。現地の状況を確認しながら対応していきます」

 

「ええ。どうか慎重に」

 

やがて、ギョームが地図を畳んだ。

 

「さて、これで正式な引き継ぎは終了ですな」

 

彼は椅子から立ち上がった。

 

オリヴィエも立ち上がる。

 

「長い間、この戦線を守っていただき、ありがとうございました」

 

「こちらこそ、予定どおり交代していただき助かりました。我が連隊も、ようやく兵を休ませることができます」

 

ギョームは差し出された手を握った。

 

「ベルノ伯爵。あとはよろしくお願いします」

 

「お任せください」

 

オリヴィエは、しっかりと握手を返した。

 

「我がベルノ連隊が、この戦線を引き受けます」

 

ギョームは満足そうに頷いた。

 

「それでは、貴連隊の武運を祈ります」

 

「ギョーム伯爵の連隊にも、十分な休養がありますように」

 

二人は最後に敬礼を交わした。

 

こうして、ギョーム連隊からベルノ連隊への陣地交代は、すべて完了した。

 

* * *

 

夕方。

 

最後のギョーム連隊の部隊が、後方へ続く道路を進んでいった。

 

幌馬車や荷馬車が長い列を作り、その前後を徒歩の兵士たちが歩いている。

 

馬の蹄が硬くなった路面を踏み、車輪が轍を軋ませる。

 

御者の掛け声と馬のいななきが、冷たい夕暮れの空気に響いていた。

 

馬車の荷台には天幕や工具、弾薬箱、兵士たちの私物が積み込まれていた。

 

馬の吐く息が白く漂う。

 

歩兵たちは小銃を肩に掛け、疲れた足取りながらも、どこか晴れ晴れとした表情で歩いていた。

 

見送るベルノ連隊の兵士たちに、手を振る者もいた。

 

「じゃあな! あとは頼んだぞ!」

 

「おう! ゆっくり休んでこい!」

 

そんな声が交わされる。

 

オリヴィエも連隊本部の前から、遠ざかっていく馬車と兵士たちの列を眺めていた。

 

隣にはアウレリアが立っている。

 

「これで、ようやく交代完了ね」

 

「はい。各中隊の配置も完了しました。砲兵中隊も全門射撃可能です」

 

「補給は?」

 

「当面の必要量は確保しています。追加の物資も順次到着する予定です」

 

「そう。ご苦労さま」

 

オリヴィエは頷いた。

 

馬車の列の最後尾が、道路の曲がり角へ消えていった。

 

その向こうには、広大な森林地帯が横たわっていた。

 

森のさらに東には、魔族軍の陣地がある。

 

前線に配置した三個歩兵中隊。

 

後方警戒と予備を受け持つ第4歩兵中隊。

 

四か所に分散配置された八門の120ミリ榴弾砲。

 

師団から派遣された対空砲小隊。

 

そして、連隊本部、補給部隊、工兵、浸透偵察小隊。

 

ベルノ連隊の部隊は、すべて配置についていた。

 

「アウレリア」

 

「はい」

 

「明日からは、私たちだけね」

 

長い間、この戦線を守ってきたギョーム連隊は去った。

 

そして今、ベルノ連隊がその役目を引き受けた。

 

明日からは、ここが彼らの戦場となる。

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