ギョーム連隊との陣地交代が完了し、ベルノ連隊の浸透偵察小隊では、新たな戦場での偵察活動が始まろうとしていた。
帝国軍と魔族軍の主陣地の間には、およそ五キロメートルにわたる緩衝地帯が広がっている。その中央には針葉樹を主体とする広大な森林が横たわり、大小の沢や、かつて木材の運搬に使われていた林道が複雑に入り組んでいた。
森林の周辺には放棄された耕作地が点在していたが、長い戦争によって人の営みは失われ、今では枯れ草と雑木に覆われた荒れ地となっている。ところどころには砲弾孔が残り、低い土手や朽ちた柵だけが、かつてそこに畑があったことを物語っていた。
両軍の主陣地は互いに遠く離れており、通常の歩兵が塹壕から敵兵の姿を確認できることは少なかった。しかし、森林の中では双方の偵察兵が活動しており、ときには相手の主陣地に近い場所まで進出することもあった。
この森林地帯の地形を調査し、魔族軍の偵察活動や前進陣地の位置を把握することが、浸透偵察小隊に与えられた任務だった。
各班にはそれぞれ担当区域が割り当てられ、エレナ班が受け持つことになったのは、第3歩兵中隊正面の緩衝地帯だった。同じ区域にはローラ伍長の班も割り当てられ、当面は両班が協力して偵察を進めることになっていた。
まず向かうのは、第3中隊が守る高台陣地である。
そこは周囲よりも高い丘陵に設けられた陣地で、正面の荒れ地から森林外縁まで広く見渡せる。敵の観測を受けやすいという欠点はあったが、これから偵察する地形を確認するには好都合だった。
「今日はローラ班と一緒よ」
出発前、エレナが地図を畳みながら言った。
「ローラ班ですか?」
高橋が尋ねると、エレナは少し意外そうな顔をした。
「あら、そういえば高橋は、ローラとあまり話したことがなかったわね」
「はい。顔は知っていますけど、直接話したことはほとんどないです」
「そうだったわね。悪い人じゃないから、心配しなくていいわよ。ちょっと口が悪いけど」
「誰の口が悪いって?」
背後から、勢いのある女性の声がした。
聞こえてきたのはエルフ語だった。
高橋が振り返ると、一人のエルフの女性兵士が近づいてくるところだった。
背丈は百七十センチほどで、エレナと同じくらい。引き締まった体格に鋭い目元が印象的で、近づいてくるだけでも気の強そうな雰囲気が伝わってくる。鮮やかな赤い髪は、偵察任務で目立たないよう後頭部で小さくまとめられ、軍帽の下に収められていた。
ローラ伍長だった。
その後ろには三人の兵士が続いていた。女性が一人、男性が二人。ローラを含めて四人編制の班である。
高橋はローラを見ながら、何となくフリーダを思い出した。
フリーダも面倒見のよい姉貴分といった雰囲気の女性だったが、二人の印象は随分違う。フリーダが落ち着いて周囲の面倒を見るタイプなら、ローラは気性が激しく、思ったことを遠慮なく口にするタイプに見えた。
「おはよう、ローラ」
エレナはエルフ語で挨拶した。
「おはよう。で、誰の口が悪いって?」
「あなたよ」
「相変わらず遠慮がないわね」
「事実でしょう?」
「言ってくれるじゃない」
二人はエルフ語で軽口を交わし、楽しそうに笑い合っていた。
高橋も、まったく理解できないわけではなかった。浸透偵察小隊へ配属されてからエルフ語を学び続けており、日常的に使われる単語や簡単な言い回しなら、少しずつ聞き取れるようになっていた。
しかし、ローラは話すのが速かった。
知っている単語が聞こえても、その意味を考えている間に次の言葉が飛んでくる。エレナが何か言い返し、ローラが笑っていることはわかるのだが、細かなやり取りまでは理解できなかった。
高橋が会話についていこうと懸命に耳を傾けていると、ローラの視線がこちらへ向いた。
「あんたがエレナの男か」
これもエルフ語だった。
エレナという名前と、男を意味する単語は聞き取れた。しかし、それを頭の中でつなぎ合わせるのに少し時間がかかった。
「……え?」
高橋が返事に困っていると、ローラは少し首を傾げた。
「エルフ語はまだ苦手なの?」
高橋はその言葉も半分ほどしか理解できず、曖昧に頷いた。
ローラは一瞬、高橋の顔を眺めた。
それから帝国共通語に切り替えた。
「あんたがエレナの男なのね?」
「あ、はい!」
今度はすぐに意味がわかり、高橋は慌てて返事をした。
ローラはその反応を見て笑った。
「直接話すのは初めてね。ローラよ。よろしく」
「高橋亘一です。よろしくお願いします!」
高橋は姿勢を正した。
ローラはそんな高橋を上から下まで眺めた。遠慮というものを知らないような視線だった。
「ふうん……ちょっと頼りなさそうね」
「えっ……」
どう答えたものかわからず、高橋は言葉に詰まった。
「エレナが男を作ったって聞いたから、どんなのかと思ってたけど。思ったより大人しそうじゃない」
「ちょっと、ローラ」
エレナが苦笑した。
「高橋を怖がらせないでよ」
「別に怖がらせてないわよ。感想を言っただけ」
そのとき、アルノーがエルフ語で口を挟んだ。
「おい、あんまりからかうな」
「何よ。ちょっと話してるだけじゃない」
ローラもエルフ語で答えた。
「高橋が困ってるだろ」
「これくらいで困ってたら、偵察兵なんて務まらないわよ」
二人の会話は再びエルフ語になり、高橋にはところどころしか聞き取れなかった。ただ、アルノーが自分をかばってくれているらしいことだけは、何となく理解できた。
「まったく、お前は昔からそうだな」
アルノーがため息をつく。
「何? 文句ある?」
「いや。何を言っても無駄だからな」
「よくわかってるじゃない」
ローラは満足そうに頷いた。
そのやり取りを聞いて、ミレーナが小さく笑った。高橋だけが会話の意味を頭の中で整理しながら、少し遅れて苦笑していた。
エレナはそんな高橋の肩に軽く手を置き、帝国共通語で話しかけた。
「大丈夫よ。ローラは誰にでもあんな感じだから」
「は、はい……」
その様子を見ていたローラが、今度はエレナへエルフ語で何か言い返した。高橋には全部は聞き取れなかったが、エレナの笑い声から、またからかわれているのだろうと見当がついた。
ローラは小隊が創設されたころから所属している古参兵で、エレナやアルノーとは長い付き合いだった。高橋は彼女たちの遠慮のないやり取りを見て、ようやくこれが普段どおりの会話なのだと理解した。
「さて、冗談はこのくらいにして」
ローラが地図を取り出すと、その表情が変わった。先ほどまでの笑みが消え、鋭い目が地図上の地形を追う。
ここからは全員が情報を共有できるよう、帝国共通語で打ち合わせが始まった。
「第3中隊正面の担当区域だけど、まずは高台から確認するんでしょう?」
「ええ。そのつもりよ」
エレナが答えた。
「森林へ入る前に、林道の出口と沢の位置を確かめておきたいの。ギョーム連隊から引き継いだ地図だけでは、わからないことも多いでしょうから」
「そうね。あの高台は見通しがいいけど、敵からもよく見えるんでしょう?」
「そう聞いているわ」
「だったら、あまり目立つ場所に長居しないほうがいいわね」
「ええ。第3中隊の観測所を使わせてもらうつもりよ」
ローラは頷くと、自分の班員たちに振り返った。
「準備できてるわね? 出発するわよ!」
「了解!」
三人が答えた。
高橋も背負っていたG11小銃の位置を直し、装備を確認した。
エレナ班の四人とローラ班の四人。合計八人が、冬の冷たい空気の中、第3歩兵中隊の高台陣地へ向けて出発した。
* * *
第3歩兵中隊の担当区域へ入ると、地形は次第に起伏を増していった。
一行は後方から延びる交通壕を進んでいた。塹壕は丘陵の斜面に沿って曲がりくねり、途中にはいくつもの分岐が設けられている。それぞれの通路が射撃位置や掩体壕へ続いており、初めて来た者には少々わかりにくい構造だった。
壁には太い丸太が組まれ、足元には木製の通路が敷かれている。ドワーフの工兵たちが施工したというだけあって、頑丈な造りだった。ところどころには排水溝が設けられ、塹壕の底に水が溜まらないよう工夫されている。
もっとも、坂を上がるにつれて階段状になった場所が増え、背嚢を背負ったまま歩くのは楽ではなかった。
日陰には雪が残り、踏み固められた地面は凍っていた。兵士たちの靴が木製の足場を踏むたびに、乾いた音が響く。塹壕の上からは冷たい風が吹き込み、ときおり周囲の木々から落ちた雪が細かな粉となって舞い込んできた。
「結構、登りますね」
高橋が息を整えながら言った。
「高台だからね。もう少しよ」
エレナは振り返って笑った。
先頭を歩いていたローラが曲がり角で足を止め、前方の様子を確認した。塹壕の先には見張りの兵士が立っており、こちらの所属を確認すると通行を認めた。
「いいわ。進みましょう」
やがて一行は、高台の前線陣地へ到着した。
ここには二個分隊が配置されていた。一つは石井軍曹が指揮する機銃分隊。もう一つは、伊藤千尋たちが所属する歩兵分隊である。
陣地は丘の斜面に沿って構築され、複数の射撃位置と機銃座が連絡壕で結ばれていた。塹壕の外側には土嚢が積まれ、ところどころに頑丈な掩体壕の入口が開いている。
高台の前面には、かつて耕作地だった荒れ地が広がっていた。緩やかな斜面の先には黒々とした針葉樹の森が続き、地形の低い場所にはまだ雪が残っている。
高台からは森林外縁までかなり広く見渡せたが、陣地そのものも周囲から目立つ位置にあった。敵の観測兵に発見されやすいという話も、実際に来てみれば納得できた。
機銃座の近くでは、数人の兵士がG12機銃の点検を行っていた。
「あれ?」
一人が顔を上げた。
「高橋じゃないか!」
聞き覚えのある声だった。
「石井軍曹!」
高橋は思わず笑顔になった。
石井軍曹が立ち上がり、こちらへ歩いてきた。
「久しぶりだな。元気にしていたか?」
「はい!」
高橋は敬礼し、石井も答礼した。
「そうか、浸透偵察小隊も来たのか」
「はい。今日はこの周辺の地形を確認することになりまして」
「なるほどな」
石井はエレナたちへ目を向けた。
「お疲れさまです。石井軍曹です」
「エレナ伍長です。こちらはローラ伍長。今日は両班で第3中隊正面の偵察を担当します」
「そうでしたか。ここの高台なら、前方の地形を確認するには都合がいいですよ。観測所もあります」
石井は塹壕の奥を指さした。
「ただし、敵からも目立つ場所です。そこは注意してください」
「承知しています。まずは観測所を使わせてもらえますか?」
「もちろんです。ご案内します」
観測所へ向かう途中、高橋は石井の機銃分隊の兵士たちと顔を合わせた。
G12機銃は土嚢に囲まれた銃座に据えられ、長い弾帯が弾薬箱へ続いている。脇には交換用の銃身と工具が置かれ、兵士たちが弾薬や給弾機構の点検を続けていた。
「ロイ、リース、サク!」
高橋が声をかけると、三人が顔を上げた。
「おお、高橋!」
ロイが笑いながら手を上げた。リースも軽く手を振り、サクは控えめに微笑んだ。
「久しぶりだな。元気だったか?」
「こっちは元気だぞ。それより、お前はどうなんだ?」
ロイが高橋を眺めた。
「エルフばかりの小隊で、ずいぶん鍛えられてるらしいじゃないか」
「まあ、それなりに……」
「それなり? 前より少し顔つきが変わったんじゃないか?」
「そうかな?」
高橋は首を傾げた。
そこへローラが口を挟んだ。
「まだまだよ。もう少し鍛えないとね」
「ローラ!」
エレナが苦笑した。
「何よ。本当のことでしょう?」
高橋は返事に困った。そのやり取りを聞いていた石井が笑う。
「どうやら、うまくやっているようだな」
「……はい」
高橋は少し照れくさそうに答えた。
* * *
石井の機銃陣地から少し離れた場所には、もう一個の歩兵分隊が配置されていた。
塹壕の前面には複数の射撃位置が設けられ、兵士たちが小銃の手入れや土嚢の補修を行っている。砲撃に備えた掩体壕の入口もあり、そこからは冷たい土の匂いが漂っていた。
高橋たちが通りかかると、一人の女性兵士が顔を上げた。
「あっ、高橋君!」
振り返ると、伊藤千尋がこちらへ歩いてきた。
「伊藤!」
高橋も手を上げた。
「久しぶり! こんなところで会うなんて思わなかった」
「第3中隊にいるのは知ってたけど、ここだったんだな」
「そうなの。この高台を守ることになったの」
千尋は笑ったが、少しだけ表情を曇らせた。
「結構、砲撃が来る場所らしいんだけどね」
高橋は周囲を見回した。
土嚢の一部は新しく積み直され、塹壕の壁にも補修したばかりの木材が見える。どれほど頑丈な陣地でも、砲弾が落ちれば被害が出ることは、訓練で嫌というほど教えられていた。
「大丈夫なのか?」
「今のところはね。でも、砲撃警報が出たらすぐに掩体壕へ退避しろって、何度も言われてるの」
千尋は少し肩をすくめた。
その後ろから、もう一人の日本人女性兵士が顔を出した。
「千尋、知り合い?」
「あ、鈴音。高橋君よ。覚えてるでしょ?」
「もちろん」
三上鈴音だった。
第20期召喚者の一人で、千尋とは日本にいたころからのクラスメートだった。正月の休日には、水野香織と一緒に旧王宮を訪れていた女子生徒の一人でもある。
あのときは、久しぶりに与えられた休日を仲間たちと過ごしていた。しかし、それからひと月ほどが過ぎた今、鈴音は第3歩兵中隊の一員として、この高台陣地を守っていた。
「久しぶり、高橋君」
「三上さん! ここにいたんだ」
「うん。千尋と同じ分隊になったの」
鈴音は隣の千尋を見た。
「知ってる顔が一緒で、少し安心してるんだけどね」
「そうだね」
千尋も頷いた。
高橋は二人を見比べた。
召喚されてから、まだ一年も経っていない。ついこの間まで同じ訓練を受けていたはずなのに、こうして前線の塹壕で再会すると、随分久しぶりに会ったような気がした。
日本にいたころの教室とは、何もかもが違っていた。
二人とも帝国軍の軍服を着て、小銃を持ち、魔族軍のいる方角を警戒している。自分も同じように軍服を着ているのだから、今さら驚くことではないのかもしれない。それでも、かつてのクラスメートが本物の戦場で兵士として働いている姿には、どこか不思議な感じがした。
「高橋君は偵察の仕事?」
鈴音が尋ねた。
「ああ。今日は、この高台から前方の地形を確認するんだ」
「そうなんだ」
千尋は高橋の後ろにいるエルフたちへ目を向けた。
「相変わらず、エルフの人たちと一緒なんだね」
「うん。同じ小隊の人たちだよ」
そのとき、少し離れた場所からローラの声が飛んできた。
「高橋! いつまでお喋りしてるの!」
今度は帝国共通語だった。
「は、はい!」
高橋は慌てて振り返った。
千尋が小さく笑った。
「高橋君、怒られてる」
「いや、あの人、いつもあんな感じらしくて……」
「怖そうな人だね」
鈴音が呟いた。
「……ちょっとね」
高橋は苦笑した。
アルノーが塹壕の向こうから手招きしているのが見えた。高橋は二人に軽く手を振ると、エレナたちの後を追った。
* * *
高台の観測所は、前面の塹壕から少し奥まった場所に設けられていた。
木材と土嚢で頑丈に補強され、上部には偽装網が掛けられている。観測用の開口部は狭く、外側からは内部の様子がわかりにくい構造だった。
石井の案内で中へ入ると、薄暗い室内には双眼鏡や地図が置かれていた。壁際には通信線が引き込まれ、連絡用の野戦電話も設置されている。
「なかなかいい場所ね」
ローラが観測用の開口部を覗きながら言った。
「前方の森林外縁は、かなり広く見えます」
石井が説明した。
「ただし、敵からもこちらの高台は見えやすいので、身を乗り出さないようにしてください」
「了解」
ローラは短く答えた。
エレナが地図を広げると、二人は観測所から見える地形と地図上の目印を照らし合わせ始めた。
高橋も双眼鏡を取り出した。
目の前には緩やかな斜面が広がり、その先には枯れ草に覆われた荒れ地が続いていた。ところどころに砲弾孔があり、日陰には融け残った雪が白く見える。かつて畑を区切っていたらしい低い土手や、朽ちた柵の跡も残されていた。
その向こうには、針葉樹の森林が横たわっていた。
高台から見ると、森の外縁が一直線ではないことがよくわかった。木々が大きく張り出している場所もあれば、逆に森林が奥へ引っ込んでいる場所もある。その間には小さな沢や窪地があり、古い林道が森へ入っていく場所も確認できた。
「高橋、あそこを見て」
エレナが声をかけた。
指さした先には、森林の外縁からこちらへ向かって伸びる浅い窪地があった。
「わかる?」
「はい。沢ですか?」
「そう。地図にも載っているわ」
エレナは地図の線を指でなぞった。
「森の中から、あの沢に沿って近づけそうね」
ローラが隣から口を挟んだ。
「ただし、敵も同じことを考えるでしょうけど」
「ええ。だから確認が必要なのよ」
エレナは頷いた。
森の中は静かだった。
遠くで針葉樹の梢が揺れている。風が強くなると、枝に残った雪が細かな粉となって舞い落ちた。時折、どこか遠くで砲声が響くものの、目の前の荒れ地に動くものは見えなかった。
ローラが双眼鏡を下ろした。
「それにしても、ここは目立つわね」
「そうね。敵の観測所からも見えている可能性が高いわ」
「長居はしたくない場所だわ。観測するには便利だけど、砲撃を受けたら逃げるのも大変そう」
エレナは頷き、再び双眼鏡を構えた。
「まずは森林外縁を一通り確認しましょう」
高橋もそれに倣った。
これから自分たちが潜入することになる緩衝地帯が、目の前に広がっている。地図に描かれている沢や林道を実際の風景と照らし合わせると、同じ距離でも場所によって見通しが大きく異なることがわかった。
高橋はゆっくりと双眼鏡を動かし、沢の位置や林道の出口を覚えようとしていた。
* * *
しばらくして、エレナの双眼鏡が止まった。
「……あら?」
隣にいたアルノーが顔を向けた。
「どうした?」
「いるわね」
「何が?」
「魔族よ。偵察兵だと思うわ」
その言葉に、高橋は顔を上げた。
「どこですか?」
「あの沢の向こう。林道の出口から少し右よ」
高橋は双眼鏡を向けたが、すぐには見つけられなかった。
森林の外縁には倒木や切り株が散らばり、木々の影も重なっている。黒っぽいものはどれも人影に見えたが、よく観察すると木の幹だったり、砲撃で掘り返された土だったりした。
「……わからないですね」
「倒木があるでしょう? その奥を見て」
エレナに言われ、高橋は双眼鏡を少し右へ動かした。
倒木の向こうに、黒っぽい影があった。最初は木の幹かと思ったが、しばらく観察していると、それがゆっくりと動いた。
「あっ……」
人影のようなものだった。
一つではない。周囲を警戒しながら、森の外縁に沿って移動している。
「見えました!」
「でしょう? 距離は六百メートルくらいかしら」
高橋は双眼鏡の焦点を合わせ、その姿を確かめようとした。
そこにいたのは、人間に似た形をした何かだった。
二本の足で歩き、腕を使い、小銃らしいものを持っている。暗い色の軍服を着ており、遠くから見れば帝国軍の兵士と似ていなくもない。
しかし、明らかに人間とは違っていた。
頭部の輪郭も、首から肩にかけての形も、人間とは違う。身体の均衡もどこか異様で、歩くときの動きにも、高橋の知っている人間とは違うものが感じられた。
距離があるため、顔立ちまではよくわからない。それでも、あれが人間ではないということだけは、はっきりと理解できた。
「……あれが、魔族か」
高橋は思わず呟いた。
召喚されてから、魔族については何度も教えられてきた。軍の資料には姿を描いた絵も載っていたし、訓練では敵の特徴や戦い方について説明を受けている。
しかし、生きて動いている魔族を見るのは初めてだった。
あれが、実際に自分たちと戦争をしている相手なのか。
高橋には、まるで怪物のように見えた。
日本にいたころ、映画やゲームに登場する怪物を何度も見たことがある。だが、あれは作り物だった。どれほど恐ろしい姿をしていても、画面の向こうにいる存在でしかなかった。
今、双眼鏡の向こうにいるものは違う。
実際に歩き、周囲を警戒し、武器を持っている。それが同じ地面の上にいて、わずか六百メートルほど先を移動しているのだ。
高橋は背筋に冷たいものを感じた。
そのとき、隣にいた石井が双眼鏡を構えた。
「また出てきたのか」
「以前から、あの辺りに出没しているんですか?」
エレナが尋ねた。
「ええ。最近多いんですよ」
石井は森林の外縁を見た。
「昼間でも、ああして姿を見せることがあります。森の中に何体いるのかまではわかりませんが、こちらの様子を探っているんでしょうね」
「この距離じゃ、小銃で撃っても当たらないわね」
エレナが言った。
「ええ。普通に撃っても、まず無理でしょう。動いている相手ですし、森へ戻られたら姿が見えなくなります」
石井は少し困ったように答えた。
ローラも双眼鏡を向けた。
「ふうん……」
しばらく観察してから、彼女は顔をしかめた。
「ここから侵入して、いきなり遭遇戦は勘弁だね。どうする?」
エレナは答えず、双眼鏡を動かした。最初の魔族がいた場所から、さらに南側の森林外縁を追っていく。
「……あら、あっちにもいるわね」
「どこ?」
ローラが尋ねた。
「さっきの場所からもう少し南。あの低い丘の近くよ。二グループだわ」
ローラが双眼鏡を向けた。
「ああ、いたいた。ずいぶん堂々と動いてるじゃない」
二つ目のグループも、森林の外縁に沿って移動していた。最初に発見した魔族たちとは少し離れているが、互いに連絡を取っている可能性もあった。
「同じ偵察隊なのかしら?」
ミレーナが尋ねた。
「まだわからないわ。別々の経路を調べているのかもしれないし、互いに連携しているのかもしれない」
エレナは答えた。
「面倒ね。よりによって、私たちが偵察する区域に二組もいるなんて」
ローラは小さく舌打ちした。
「でも、先に発見できてよかったわ。知らずに森へ入っていたら、鉢合わせしていたかもしれないもの」
「それはそうね」
ローラは頷いた。
エレナはもう一度、最初のグループを確認した。魔族たちはまだ沢の近くにおり、時折立ち止まりながら周囲を警戒している。一体が倒木の近くに立ち、もう一体がその奥で何かを調べているようだった。
エレナは双眼鏡を下ろすと、石井へ顔を向けた。
「石井軍曹、電話を借りるわ」
「電話ですか? 構いませんが」
石井は少し意外そうな顔をした。
ローラがエレナを見た。
「どうする気?」
エレナは高橋へ向き直った。
「高橋、あの距離はいける?」
高橋は一瞬、何を尋ねられたのかわからなかった。しかし、すぐに意味を理解した。
彼はもう一度双眼鏡を構え、沢の近くにいる魔族を確認した。
距離はおよそ六百メートル。
決して近い距離ではないが、射撃訓練で経験のある距離だった。相手は紙の標的ではなく、実際に動いている魔族だったが、射撃そのものは不可能ではないと思った。
「……できると思います」
エレナは頷いた。
「ヴァルターに狙撃の許可を取るわ。少し偵察活動を黙らせましょう」
ローラが高橋を見た。
「へえ……」
先ほどまでとは違う、興味深そうな目だった。
「なるほど。そういうことね」
「まだ当たると決まったわけじゃないわよ」
エレナは笑った。
「でも、試してみる価値はあると思うの」
ローラは再び森林の方角へ目を向けた。
「そうね。やるなら、私は周囲を見ておくわ」
石井はエレナを指揮所へ案内した。
* * *
観測所から少し離れた指揮所には、野戦電話が設置されていた。
狭い室内には湿った土と木材の匂いが漂い、机の上には地図と記録用紙が置かれている。外では風が塹壕の上を吹き抜け、ときおり天井の隙間から細かな土が落ちてきた。
エレナは受話器を取り、連隊本部の浸透偵察小隊との接続を求めた。
しばらくして、ヴァルター少佐につながった。
「ヴァルター少佐、エレナです。現在、第3中隊の高台陣地にいます」
エレナは、正面の緩衝地帯で魔族の偵察兵を二グループ発見したことを報告した。敵までの距離は約六百メートル。高橋が狙撃可能と判断していること、そして敵の偵察活動を妨害するため、狙撃の許可を求めたいことを伝えた。
電話の向こうで、ヴァルターは少し考えたようだった。
『高橋が撃てると言っているのか?』
「はい。本人も可能だと判断しています」
『そうか』
短い沈黙があった。
『許可する。やってみろ』
「了解しました」
エレナは受話器を置いた。
外へ出ると、ローラと石井が待っていた。
「どうだった?」
ローラが尋ねた。
「許可が出たわ」
エレナは高橋へ目を向けた。
「高橋、準備して」
「はい!」
高橋は背負っていたG11小銃を下ろした。
これまで何度も手入れをしてきた銃だった。木製の銃床には使い込まれた跡があり、銃身の上には狙撃用の照準器が取り付けられている。射撃訓練では何度もこの銃を使い、遠距離の標的を撃ってきた。
しかし、今日は少し違って感じられた。
高橋は小銃を手にしたまま、前方の森林を見つめた。あの森の手前に、先ほど初めて見た魔族がいる。
人間とは違う姿をした、怪物のような存在。
これから自分は、あの魔族を撃つのだ。
「緊張してる?」
エレナが尋ねた。
「……少し」
「そうでしょうね」
エレナは穏やかに答えた。
「でも、いつもどおりにやればいいわ。私が観測するから、あなたは射撃に集中して」
「はい」
高橋は頷いた。
石井が観測所に隣接する射撃位置へ案内した。そこは周囲を土嚢で囲まれ、前方の荒れ地と森林外縁を見渡せる場所だった。
「ここなら正面がよく見えます」
石井が言った。
「ありがとう」
エレナは短く答え、双眼鏡を構えた。ローラも隣で観測を始める。アルノーとミレーナは周囲の警戒に当たり、射撃に邪魔が入らないよう気を配っていた。
高橋は射撃位置につくと、前方の地形を改めて確認した。
高台から森林外縁へ向かって緩やかな斜面が続き、魔族のいる沢は陣地よりも低い位置にあった。これまでの射撃訓練では平坦な場所で撃つことが多かったが、今は高台から目標を見下ろす形になっている。
高橋は胸のポケットから、小さく折り畳んだ紙を取り出した。
訓練中に作成した、G11小銃の射撃記録表だった。距離ごとの弾道特性や、実際の射撃訓練で確認した結果が細かく書き込まれている。何度も開いているため、折り目の部分は少し傷んでいた。
高橋は記録表を確認してから、エレナへ顔を向けた。
「エレナさん、ここは高台ですよね。撃ち下ろしの補正も考えたほうがいいですか?」
「そうね。でも、ここから沢までの高低差は、それほど大きくないわ」
エレナは双眼鏡を覗き、地形を確認した。
「まずは落ち着いて。風も変わってきているから、よく見ておきましょう」
高橋は頷き、記録表を丁寧に折り畳んで胸のポケットへ戻した。
訓練で覚えた知識が、今、実際の戦場で必要になっている。そのことが、これから行う射撃を一層現実のものとして感じさせた。
石井分隊の兵士たちも、高橋の様子に気づいていた。
「おい、本当にあの距離から撃つのか?」
ロイが小声でリースに尋ねた。
「そうみたいだな」
リースは前方の森林を見た。
「六百メートルくらいあるぞ」
「当たるのか?」
「さあな……」
サクは黙って高橋を見つめていた。
高橋の射撃成績が優秀だったことは、訓練のころから知られていた。しかし、あれほど離れた場所にいる敵を撃つところなど、誰も見たことがなかった。
石井は二人の肩を軽く叩いた。
「静かにしてろ。射撃の邪魔になる」
ロイとリースは口を閉じた。
高橋は小銃を構え、照準器を覗いた。
丸い視界の中に、冬枯れの荒れ地が広がっていた。倒木の向こうには浅い沢があり、その先には針葉樹の森が続いている。雪の残る地面には枯れ草がまばらに生え、風が吹くたびに細い茎が揺れていた。
魔族の偵察兵は、まだ沢の近くにいた。
高橋は照準器を動かし、その姿を捉えた。
先ほど双眼鏡で見たときよりも、意識が一体の魔族に集中していた。
二本の足で立ち、小銃を持っている。その姿は確かに人間に似ていたが、頭部や肩の輪郭には違和感があり、高橋の目にはやはり怪物のように映った。
暗い色の軍服を着たその魔族は、倒木の近くで立ち止まり、周囲を警戒していた。
高橋は小さく息を呑んだ。
本当に、あんなものがいるんだ。
そう思うと、胸の奥が冷たくなった。
しかし、その魔族は特別なことをしているわけではなかった。
周囲を警戒し、ときおり仲間の方を振り返り、腕を動かして何か合図を送っている。少し歩いては立ち止まり、また周囲を見回していた。
姿は怪物のようなのに、やっていることは帝国軍の偵察兵と変わらなかった。
「高橋、見えている?」
エレナの声がした。
「はい」
「手前の一体を狙いましょう。今、倒木の近くにいるのがわかる?」
「わかります」
高橋は短く答えた。
エレナは双眼鏡で敵の動きを追いながら、周囲の枯れ草や木々の揺れ方を確かめていた。
「距離はおよそ六百。風は右からね。少し変わってきているわ」
高橋は小さく頷き、照準器の中に魔族の姿を捉え続けた。
冬の冷たい空気が頬を撫でる。遠くでは、ときおり砲声が響いていた。高台の塹壕では兵士たちが行き来し、どこかで木箱を動かす音もしている。
しかし、高橋にはそれらの音が次第に遠くなっていくように感じられた。
照準器の中には、魔族の姿が見えている。
高橋はゆっくりと息を整えた。
今まで何度も撃ってきた。
射撃訓練では、遠くの標的を照準器に捉え、引き金を引くだけだった。命中すれば教官が褒めてくれたし、外れれば修正して撃ち直した。
今日も、同じことをする。
そう考えようとした。
しかし、照準器の中にいるのは紙の標的ではない。
怪物のような姿をした、本物の敵だった。
高橋は引き金にかけた指に、わずかな力が入っていることに気づいた。
「まだよ」
エレナが静かに言った。
高橋は待った。
魔族が数歩進み、倒木の近くで立ち止まった。
「高橋」
エレナの声が聞こえた。
「落ち着いて。大丈夫よ」
「……はい」
高橋は小さく息を吐いた。
魔族はまだ周囲を見回していたが、しばらくすると動きを止めた。
エレナは双眼鏡から目を離さなかった。
そして、短く声をかけた。
「今!」
高橋が引き金を引いた。
ターン!
乾いた銃声が、高台陣地に響き渡った。
照準器の中で、魔族の身体が大きく揺れた。そのまま膝から崩れるように倒れ、地面に横たわった。
「命中!」
エレナが声を上げた。
高橋は顔を上げなかった。
身体は次に何をすべきか覚えていた。
ボルトを操作すると空薬莢が排出され、新しい弾が薬室へ送られた。手はほとんど無意識に動き、再び照準器の中に敵の姿を探していた。
最初の一体が倒れたことで、周囲の魔族たちは慌て始めていた。
一体は倒れた仲間へ振り返り、別の一体は身を低くしている。何が起きたのかわからないのか、周囲を見回す者もいた。
「もう一体いくわ。奥の魔族」
エレナが言った。
高橋は照準を移した。
倒れた魔族の少し奥に、別の一体がいた。
その魔族は仲間が倒れた場所を見つめ、何か叫んでいるようだった。高橋には声は聞こえない。しかし、その慌てた動きははっきりと見えた。
「焦らないで」
エレナの声が聞こえた。
高橋は照準器の中に目標を捉えた。
魔族が数歩動き、後ろを振り返った。
「まだ……」
エレナは双眼鏡を覗いたまま、敵の動きを追っていた。
魔族が一瞬、足を止めた。
「今!」
ターン!
二発目の銃声が響いた。
照準器の中で魔族の身体が跳ね、そのまま地面へ倒れ込んだ。
「命中!」
エレナが叫んだ。
隣で観測していたローラも、はっきりと確認した。
「二体撃破確認!」
高台陣地に歓声が上がった。
「おおおっ!」
「すげえ! 二発で二体だぞ!」
石井軍曹の機銃分隊では、ロイが拳を握りしめ、リースも興奮した様子で声を上げていた。
「おい、見たか? 二発とも命中したぞ!」
「六百メートルもあったんだぞ。よく当てたな!」
サクは驚いたように目を見開いたまま、高橋を見つめていた。
石井も双眼鏡を下ろし、高橋を振り返った。
「見事だ、高橋!」
機銃陣地の方からも歓声が聞こえてきた。
射撃の様子を見ていなかった兵士たちにも、命中の知らせが伝わったらしい。
「何だ? どうした?」
「偵察小隊の日本人が魔族を二体撃ったんだ!」
「二体? 六百メートル先だぞ!」
「本当かよ!」
千尋と鈴音も、騒ぎを聞いて塹壕の奥から顔を出した。
「えっ、高橋君が?」
千尋は驚いて射撃位置の方を見た。
「すごいじゃない!」
鈴音も目を丸くしていた。
「あんな遠くから当てたの?」
二人は顔を見合わせた。
ローラも高橋へ目を向けた。
先ほど頼りなさそうだと思った日本人の少年が、六百メートル先の魔族を二発で二体倒したのだ。
しかし、ローラは何も言わず、再び双眼鏡を構えた。
最初のグループに残っていた魔族たちは、倒れた仲間を残して森林の方へ逃げ込んでいった。さらに南側にいた別のグループも、銃声と仲間の異変に気づいたらしい。それまで沢沿いに姿を見せていた魔族たちが慌ただしく身を隠し、次々と森林の奥へ消えていく。
「他のグループも、今ので逃げたわね」
ローラは双眼鏡を下ろした。
エレナも森林の外縁を確認していた。
「そうね。少しは偵察活動を抑えられたかしら」
「しばらくは大人しくなるかもしれないけど、向こうも警戒を強めるでしょうね」
ローラはそう答えてから、高橋の方を振り返った。
そこで初めて、彼がまだ小銃を構えていることに気づいた。
* * *
周囲では歓声が続いていたが、高橋は顔を上げようとしなかった。照準器の向こうには、先ほど倒れた二体の魔族が見えている。
一体は倒木の近くに、もう一体はその少し奥に横たわっていた。
どちらも動かない。
高橋は、それを見つめていた。
ついさっきまで、あの魔族たちは歩いていた。周囲を警戒し、仲間と合図を交わし、ときには立ち止まって何かを確かめていた。
その二体が、今は動かなくなっている。
自分が撃ったからだ。
高橋は、それまで感じたことのない奇妙な感覚に襲われた。
二発とも命中した。それも、六百メートルという距離からだった。
射撃訓練であれば、嬉しかったはずだった。教官に褒められ、仲間と喜び、次はもっと上手く撃とうと思っただろう。
現に今、周囲の兵士たちは喜んでいる。
魔族の偵察兵を二体倒し、さらに別のグループまで森へ追い払ったのだから、軍人としては立派な成果だった。
高橋にも、それは理解できた。
命中した瞬間には、確かに手応えを感じた。あれほど遠くの敵を撃ち倒せたことに、射手としての満足感もあった。
しかし、その感情は長く続かなかった。
代わりに胸の奥から、何とも言えないものが湧き上がってきた。
恐ろしいような、悲しいような、何か取り返しのつかないことをしてしまったような感覚だった。
高橋には、それが何なのかわからなかった。
自分は敵を撃った。敵を倒した。訓練で教わったことを、正しく実行しただけだった。
それなのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう。
高橋は再び、倒れている二体を見つめた。
あれは魔族だ。
人間ではない。
初めて姿を見たときは、怪物にしか見えなかった。頭部の形も、身体の輪郭も、人間とは違っていた。そんなものが本当に存在すること自体、恐ろしく感じられた。
だが、今は違った。
怪物のように見えても、あの二体は確かに生きていたのだ。
ついさっきまで、自分の足で歩いていた。仲間と一緒に任務をしていた。周囲を警戒し、何かを考え、何かを見ていたはずだった。
それが今は、もう動かない。
自分が、その命を奪ったのだ。
高橋は、二体目の魔族が倒れる直前の姿を思い出した。
仲間が倒れたことに驚き、慌てて周囲を見回していた。何かを叫んでいるようにも見えた。
あの魔族は、何を叫んでいたのだろう。
仲間の名前を呼んでいたのだろうか。それとも、敵に撃たれたことを知らせようとしていたのだろうか。
高橋にはわからなかった。
しかし、あの魔族も自分が撃った。
自分の指が引き金を引き、その直後に命が失われた。
その事実だけは、どう考えても変わらなかった。
高橋は、小銃を握る手に力が入っていることに気づいた。
指先が震え始めていた。
* * *
「……高橋?」
最初に異変に気づいたのは、ミレーナだった。
高橋は照準器を覗いたまま、ほとんど動かなかった。魔族の偵察兵は、すでに森林へ逃げ込んでいる。もう撃つ必要はないはずなのに、銃口は最初に狙撃した場所へ向けられたままだった。
「高橋?」
ミレーナがもう一度呼びかけた。
返事がない。
彼女は高橋の隣へ近づき、その手を見た。
小銃を握りしめている指が、小刻みに震えている。
「……エレナ」
ミレーナの声が変わった。
「高橋の様子がおかしいわ」
エレナが振り返った。
「えっ?」
「震えてるの」
エレナはすぐに高橋のそばへ寄った。
「高橋?」
高橋は何か答えようとしたが、言葉にならなかった。胸が締めつけられるような感じがして、喉の奥が詰まっていた。
さっきまで照準器の中にいた魔族の姿が、頭から離れなかった。
とくに、二体目だった。
仲間が倒れたことに驚き、何かを叫んでいた。
あの魔族は、自分が撃たれることなど考えていなかったのかもしれない。
高橋は、もう一度その姿を思い浮かべた。
怪物のような姿だった。
しかし、撃たれたときの反応は、自分が知っている生き物と変わらなかった。
弾を受けて倒れ、そのまま動かなくなった。
ただ、それだけだった。
高橋は小銃を握りしめたまま、震えていた。
手だけではなかった。腕から肩へ、そして背中へと震えが広がっていくようだった。
身体が冷たい。
冬の寒さとは違う。
自分でも、どうしてこんなに震えるのかわからなかった。
「高橋、大丈夫?」
ミレーナが心配そうに顔を覗き込んだ。
高橋は何か言おうとしたが、うまく声が出なかった。
アルノーが近づいてきた。
高橋の様子を見ると、その表情が変わった。
「高橋」
落ち着いた声だった。
「俺の声が聞こえるか?」
高橋はわずかに頷いた。
「よし」
アルノーは高橋の隣にしゃがんだ。
「高橋、銃をゆっくり離せ」
高橋は動かなかった。
小銃を握っている指が、思うように開かなかった。自分でも力を抜こうとしているのに、手が言うことを聞かなかった。
アルノーは急かさなかった。
「もう撃たなくていい。敵は逃げた」
高橋の肩が震えた。
「大丈夫だ。ゆっくりでいい」
アルノーは高橋の手元へ腕を伸ばした。
「俺が支える。お前は手を離せ」
高橋は、ようやく照準器から目を離した。
すぐ隣にアルノーがいた。
いつもと変わらない、落ち着いた表情だった。
高橋は少しずつ指の力を緩めた。
アルノーが小銃を受け取り、安全を確認した。
「よし。もう大丈夫だ」
高橋は両手を下ろした。
しかし、震えは収まらなかった。
指先が冷たかった。手袋をしているのに、自分の手ではないような感覚がした。
「……俺……」
高橋は呟いた。
「俺、撃ちました……」
エレナが隣に膝をついた。
「ええ」
「二体……」
「そうね」
「……本当に、当たったんですね」
エレナは静かに頷いた。
高橋は俯き、自分の両手を見つめた。
さっきまで、あの手で小銃を握っていた。引き金を引いた感触が、まだ指に残っている気がした。
「……殺したんですね、俺……」
その声は、ひどく小さかった。
エレナはすぐには答えなかった。
高橋自身が、今起きたことを理解しようとしているのがわかった。
ミレーナが高橋の背中に手を添えた。
何か言葉をかけようとしたが、うまく見つからなかった。
普段の高橋は真面目で、少し遠慮がちではあるものの、射撃訓練では誰よりも落ち着いていた。その高橋が、今は全身を震わせている。
ミレーナは心配そうに顔を覗き込み、背中に添えた手を離さなかった。
エレナは、高橋の肩をそっと抱いた。
「高橋、私を見て」
高橋がゆっくりと顔を上げた。
「……エレナさん」
「ええ。ここにいるわ」
エレナは穏やかに答えた。
「もう銃を持たなくていいから。少し休みましょう」
「……はい」
高橋は小さく頷いた。
しかし、震えはなかなか収まらなかった。
エレナは無理に立たせようとはせず、そのまま高橋に付き添った。ミレーナも隣にしゃがみ、心配そうに見守っている。
* * *
少し離れたところでは、石井軍曹がその様子を見ていた。
高橋が射撃訓練で優秀な成績を収めていたことは、石井もよく知っている。高橋が浸透偵察小隊へ配属されたのも、その射撃能力を評価されてのことだった。
しかし、標的を撃つことと、生きている敵を撃つことは違う。
訓練でどれほど上手に撃てても、そのことに慣れているわけではない。
高橋は今、初めて自分の手で敵の命を奪ったのだ。
石井は周囲の兵士たちを見回した。
「おい、お前たち。持ち場に戻れ。警戒を続けるんだ」
「は、はい!」
ロイたちは慌てて機銃陣地へ戻った。
まだ興奮した様子の兵士もいたが、石井に促されると、それぞれの持ち場へ戻っていった。
ここは前線だった。
魔族の偵察兵を二体倒したからといって、戦闘が終わったわけではない。銃声を聞いた敵が、新たな行動を起こす可能性もあった。
機銃座ではロイとリースがG12の点検を再開し、歩兵たちは森林外縁の監視へ戻った。塹壕の奥からは荷物を運ぶ足音が聞こえ、冷たい風が土嚢の上を吹き抜けている。
つい先ほどまで歓声に包まれていた高台は、徐々にいつもの静けさを取り戻していた。
ローラも高橋の様子を見ていた。
初めて会ったときは、少し頼りなさそうな日本人だと思った。しかし、六百メートル先の魔族を二発で二体倒した腕前は本物だった。
そして、その射撃を終えた今は、震えが止まらなくなっている。
ローラは何も言わなかった。
アルノーが小銃を手に、彼女の隣へ戻ってきた。
「……初めてだからな」
アルノーが小さく言った。
「そうね」
ローラは短く答えた。
それから、もう一度双眼鏡を構え、森林の外縁を確認した。
魔族の姿は、もう見えなかった。
さっきまで二つのグループが活動していた場所には、風に揺れる枯れ草と、森の暗い影が広がっているだけだった。
ただ、最初のグループがいた沢の近くには、二体の魔族が倒れたままになっていた。
ローラはしばらくその光景を見つめ、それから双眼鏡を下ろした。
高台の上を、冷たい風が吹き抜けていった。
エレナは高橋の肩を抱いたまま、静かに寄り添っていた。ミレーナも隣に座り、時折、高橋の顔を心配そうに覗き込んでいる。
高橋はまだ俯いていた。
初めて見た魔族は、人間とは違う、怪物のような存在だった。
その怪物が恐ろしかった。
しかし、自分が撃ち倒した二体を見て、初めて気づいたことがあった。
あの魔族たちも、確かに生きていたのだ。
そして自分は、初めてその命を奪った。
敵を倒したという安堵も、狙撃に成功したという満足感も、胸の奥から湧き上がる恐ろしさも、すべてが入り混じっていた。
高橋には、その感情を何と呼べばよいのかわからなかった。
ただ、自分の手がまだ震えていることだけは、はっきりとわかっていた。