勇者連隊戦記   作:バグスター

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帝国歴232年2月 イジューム戦線


第3節 夜間偵察

ベルノ連隊がイジューム戦線の防御を引き継いでから、数日が経過していた。

 

各歩兵中隊は陣地の補修と警戒を続け、砲兵中隊も新たな砲兵陣地で射撃準備を整えていた。

 

一方、ヴァルター少佐が率いる浸透偵察小隊では、初めて緩衝地帯への夜間偵察を実施することになった。

 

これまで行っていたのは、主として味方陣地周辺の地形確認と、陣地からの敵情観測だった。

 

しかし、それだけでは森林内で魔族がどの程度活動しているのか把握できない。

 

昼間、帝国軍の陣地から確認できる魔族はごく一部である。

 

夜間には、より多くの魔族が緩衝地帯に入り込んでいる可能性があった。

 

その実態を調べる必要があった。

 

* * *

 

夕方、浸透偵察小隊の司令部では、ヴァルター少佐が各班長を集めていた。

 

机の上には、ギョーム連隊から引き継いだ戦域地図が広げられている。

 

「今夜から緩衝地帯への夜間偵察を開始する」

 

ヴァルターは集まった班長たちを見渡した。

 

「前進させるのは古参の六個班だ。残りの四個班は今回は出さない」

 

浸透偵察小隊は全部で十個班ある。

 

そのうち、今回の偵察に参加するのは、経験豊富な六人の班長が率いる班だった。

 

ヴァルターは地図の北側を指さした。

 

「第1中隊正面はモリス班とイルム班。第2中隊正面はフリーダ班とゲルフ班。第3中隊正面はローラ班とエレナ班だ」

 

各班長が頷いた。

 

「今回の目的は敵陣地への潜入ではない。緩衝地帯の中で、魔族がどの程度活動しているかを調べることだ」

 

ヴァルターは地図に記された林道や沢を指でなぞった。

 

「敵の足跡、移動経路、巡察隊の有無。そういった情報を集めてこい。敵を見つけても原則として交戦は避けろ」

 

フリーダ軍曹が尋ねた。

 

「どこまで前進しますか?」

 

「今夜は味方陣地寄りの森林が中心だ。無理に敵陣地へ近づく必要はない」

 

ヴァルターは地図上の一本の道を指さした。

 

「それから、第2中隊正面から南東へ延びている古い林道がある。ほかの道より幅が広いようだ。フリーダ、ゲルフ、お前たちはこの周辺を調べてくれ」

 

フリーダが地図を覗き込んだ。

 

「古い地図ですね。今でも使える状態なんでしょうか?」

 

「それを確認するのも仕事だ。敵が利用している可能性もある」

 

ゲルフが頷いた。

 

「了解です。道路とその周辺を調べます」

 

「ほかの班も無理はするな。今夜一晩ですべてを調べようと思うなよ」

 

ヴァルターは最後に全員を見渡した。

 

「我々はまだ、この森のことをほとんど知らん。敵も同じとは限らんからな」

 

会議が終わると、エレナはローラを呼び止めた。

 

「ローラ、ちょっといい? 今夜の探索範囲を決めておきたいの」

 

二人は地図を覗き込んだ。

 

「第3中隊の正面を北と南に分けましょう。私たちが北側、ローラたちは南側でどう?」

 

ローラは地図を眺めた。

 

「別に構わないけど、何か理由があるの?」

 

「この林道よ」

 

エレナは第2中隊正面から南東へ延びる道を指さした。

 

「フリーダたちが調べる道路ね。地図を見る限り、私たちの探索区域まで続いているわ」

 

「ああ、なるほど。そこまで行くつもり?」

 

「できればね。道路が今でも使われているのか見ておきたいの」

 

ローラは頷いた。

 

「わかった。じゃあ、私たちは南側を調べるわ。そっちは任せた」

 

「ありがとう。お互い深入りはしないようにしましょう」

 

「そうね。最初の夜から魔族と撃ち合うなんて御免だわ」

 

二人は笑い合った。

 

こうして、第3中隊正面の夜間偵察は、北側をエレナ班、南側をローラ班が担当することになった。

 

* * *

 

日没が近づくころ、エレナ班の四人は第3中隊の北側陣地に集まっていた。

 

エレナ、アルノー、ミレーナ、そして高橋である。

 

装備の点検を終えると、エレナが小さな容器を取り出した。

 

「それじゃあ、顔も塗っておきましょう」

 

容器の中には、黒と暗緑色の迷彩用塗料が入っていた。

 

アルノーとミレーナは慣れた様子で指先に塗料を取り、頬や額に塗り始めた。

 

高橋も容器を覗き込んだ。

 

「フェイスペイントですか?」

 

「そうよ。月明かりがあると、顔の白い部分が意外と目立つの」

 

エレナはそう言いながら、自分の頬に黒い塗料を伸ばした。

 

「鼻や頬骨、額なんかの明るい部分を目立たなくするのよ」

 

高橋は小さな鏡を取り出し、真似して塗り始めた。

 

まず頬に黒い線を引き、続いて額にも塗った。

 

その様子を見ていたミレーナが笑った。

 

「高橋、それじゃあ顔に線を描いただけよ」

 

「え? 違うんですか?」

 

「もっと不規則に塗るの。顔の形がわからなくなるようにね」

 

ミレーナは自分の顔を指さした。

 

黒と暗緑色がまだらに塗られ、頬や鼻の輪郭が目立たなくなっていた。

 

「なるほど……」

 

高橋は鏡を見ながら塗り直した。

 

隣ではアルノーが、耳の周囲にも丁寧に塗料を伸ばしていた。

 

「俺たちは耳も目立つからな」

 

そう言って長い耳を動かしてみせた。

 

高橋は思わず笑った。

 

「エルフは大変ですね」

 

「お前は耳が短くて楽だな」

 

アルノーも笑った。

 

エレナが高橋の顔を覗き込んだ。

 

「ちょっと見せて」

 

高橋が顔を上げると、エレナはその仕上がりを確かめた。

 

「うーん、鼻のところがまだ白いわね」

 

そう言って指先に塗料を取り、高橋の鼻筋から頬へ塗り広げた。

 

「ほら、これでいいわ」

 

「ありがとうございます」

 

「どういたしまして」

 

ミレーナが横から顔を覗き込んだ。

 

「これなら暗いところで見つけにくそうね」

 

アルノーも頷いた。

 

「まあ、顔だけ塗っても装備をガチャガチャ鳴らしていたら意味がないけどな」

 

「それはそうね」

 

エレナは笑いながら容器の蓋を閉めた。

 

「さて、準備はできたかしら?」

 

三人が頷いた。

 

「それじゃあ、行きましょう」

 

四人は第3中隊北側の警戒哨へ向かった。

 

* * *

 

日が沈み、周囲が暗くなった。

 

エレナ班は第3中隊の警戒哨を通り、陣地の外へ出た。

 

地面には雪が積もっていた。

 

もっとも、雪の深さは大したことがなかった。

 

イジューム戦線は内陸に位置し、冬は寒いものの空気が乾燥しているため、降雪量は比較的少ない。

 

風に吹き払われた場所では、枯れ草や黒い土が顔を出していた。

 

高橋は慎重に一歩を踏み出した。

 

ギュッ。

 

足元から音がした。

 

次の一歩でも、同じ音がした。

 

ギュッ、ギュッ。

 

高橋は思わず立ち止まった。

 

(こんなに音がするのか……)

 

雪山での訓練でも経験していたが、敵がいるかもしれない場所では、足音がひどく大きく感じられる。

 

前を歩いていたエレナが振り返った。

 

「どうしたの?」

 

「雪の音が気になって……」

 

「ああ、それね」

 

エレナは足元を見た。

 

「今夜は冷えているから、よく鳴るわね」

 

彼女も一歩踏み出した。

 

ギュッ。

 

「ほら、私だって音がするでしょう?」

 

「そうですね」

 

「完全に消すのは難しいわ。何か聞こえたら、まず止まることね」

 

アルノーが付け加えた。

 

「森に入れば落葉や土が出ている場所もある。雪だけを踏んで歩く必要はないからな」

 

ミレーナが笑った。

 

「高橋、足元ばかり見ていると前の人にぶつかるわよ」

 

「あ、はい」

 

四人は再び歩き始めた。

 

空には月が出ていた。

 

薄い月明かりが雪を照らし、周囲の地形がぼんやりと浮かび上がっている。

 

高橋にも、前を歩くミレーナの姿や、遠くに広がる森林の輪郭がどうにか見えていた。

 

「思ったより明るいですね」

 

高橋が小声で言った。

 

「真っ暗闇よりはいいさ」

 

アルノーが答えた。

 

「魔族より、エルフの方が目はいいからな。こういう夜なら、こっちの方が有利だ」

 

「そうなんですか?」

 

「ああ。もっとも、何でも見えるわけじゃないがな」

 

高橋は改めて前方を見つめた。

 

自分には、木々の輪郭がかろうじて判別できる程度だった。

 

「アルノーさんには、あの森の木もよく見えるんですか?」

 

「お前よりはな。木と木の間も、ある程度は見分けられる」

 

「へえ……」

 

ミレーナが振り返った。

 

「高橋は私たちより見えにくいんだから、無理して先を見ようとしなくていいわよ」

 

「はい」

 

「でも、後ろから近づいてくるものには気をつけてね」

 

エレナが片手を上げた。

 

「おしゃべりはそこまで。そろそろ森に入るわよ」

 

三人が黙った。

 

前方には、黒々とした針葉樹林が広がっていた。

 

木々の間は月明かりが届きにくく、開けた場所よりも暗い。

 

「ここからは慎重に行きましょう」

 

四人は木々の間へ入っていった。

 

* * *

 

森林内は、思っていた以上に暗かった。

 

針葉樹の枝が月光を遮り、ところどころに濃い影を作っている。

 

四人は木々を遮蔽物に使いながら、ゆっくりと前進していた。

 

地面には枯れ枝が散乱している。

 

倒木を越え、木の根を避けながら進んだ。

 

歩く速度は極めて遅い。

 

ときおりエレナが立ち止まり、周囲の音を聞いていた。

 

そのとき、先を歩いていたアルノーが片手を上げた。

 

全員が足を止めた。

 

アルノーは近くの木の根元にしゃがみ込み、地面を調べ始めた。

 

エレナが近づいた。

 

「何かあった?」

 

「足跡だ」

 

アルノーが雪の上を指さした。

 

高橋も覗き込んだ。

 

雪の上には、いくつもの足跡が残されていた。

 

アルノーはしばらく観察し、周囲にも目を向けた。

 

「魔族の足跡のようだな。三、四体ってところか」

 

「いつ頃のものかわかる?」

 

エレナが尋ねた。

 

「それほど古くない。雪もまだあまり崩れていないし、風で埋まってもいない」

 

アルノーは足跡の続く方向を確認した。

 

「夜間偵察かもしれんな」

 

足跡は森の奥から続き、西の方角へ延びていた。

 

ベルノ連隊の陣地がある方向だった。

 

「こちらの陣地へ向かっているようね」

 

エレナが呟いた。

 

「そう見えるな。俺たちの陣地を偵察しているのかもしれん」

 

ミレーナが周囲を見回した。

 

「まだ近くにいる可能性もあるわね」

 

エレナはしばらく考えていたが、やがて口を開いた。

 

「足跡をたどりましょう。どこから出発したか知りたいわ」

 

アルノーが顔を上げた。

 

「奥へ向かうのか?」

 

「ええ。反対にたどれば、出発した場所がわかるかもしれない」

 

「敵のいる方へ近づくことになるぞ」

 

「もちろん、無理はしないわ。危険だと思ったら引き返しましょう」

 

アルノーは頷いた。

 

「わかった」

 

エレナは立ち上がり、足跡が続く森の奥へ目を向けた。

 

「行きましょう」

 

四人は足跡を逆にたどりながら、少しずつ東へ進んでいった。

 

ただし、足跡の上を直接歩くことは避けた。

 

木々を遮蔽物に使いながら、足跡を見失わない距離を保って進んだ。

 

しばらくすると、アルノーが呟いた。

 

「どうやら、こいつらは森の中をまっすぐ歩いてきたわけじゃないな」

 

「どういうこと?」

 

エレナが尋ねた。

 

「木の多い場所を選んでいる。開けた場所は避けているようだ」

 

エレナは頷いた。

 

「こちらに見つからないように移動していたのかもしれないわね」

 

そのとき、アルノーが突然足を止めた。

 

片手を上げ、前方を指さす。

 

「……光が見える」

 

高橋は目を凝らした。

 

木々の間に、ぼんやりとした橙色の光が見えた。

 

月明かりとは違う、揺れるような光だった。

 

「あれは……?」

 

「焚き火だな」

 

アルノーが答えた。

 

「魔族の監視拠点かもしれない」

 

エレナは木の陰から前方を見つめた。

 

「もう少し近づきましょう。確認するわ」

 

四人はそれまで以上に慎重に前進した。

 

太い木の幹を遮蔽物にしながら、少しずつ距離を詰める。

 

やがて、焚き火の様子が確認できる場所まで近づいた。

 

エレナは大きな針葉樹の陰にしゃがみ込んだ。

 

アルノーとミレーナも、その近くに身を伏せる。

 

高橋は後方を警戒していた。

 

エレナが小声で呟いた。

 

「……二体見えるわ」

 

木々の向こうには、小さく開けた場所があった。

 

中央で焚き火が燃えている。

 

少し離れたところには天幕が一張り設営され、二体の魔族が小銃を持って立っていた。

 

「歩哨が二体ね」

 

エレナが囁いた。

 

「天幕は一つだけか」

 

アルノーは周囲を確認した。

 

「偵察兵の拠点のようだな。ここから進出してくるのかもしれない」

 

「そうね。さっきの足跡も、ここから出発した連中のものかもしれないわ」

 

現在地はベルノ連隊の前線から、およそ一・五キロメートル。

 

魔族の主陣地には、まだ距離がある。

 

緩衝地帯の中に、小規模な拠点を設けているらしい。

 

「ミレーナ、場所を記録して」

 

「了解」

 

ミレーナは携行していた記録帳を取り出した。

 

エレナが周囲の地形を確認する。

 

「さっきの沢と、ここまでの移動距離を考えると、この辺りね」

 

ミレーナは方位や目印を書き留めた。

 

「少し観察しましょう」

 

エレナが言った。

 

アルノーが頷いた。

 

「天幕の中にも何体かいるかもしれんな」

 

「ええ。歩哨が二体いるからといって、それだけとは限らないわ」

 

エレナは高橋を振り返った。

 

「高橋、あなたは後方を警戒していて」

 

「了解です」

 

高橋は身体の向きを変え、今まで進んできた方向へ目を向けた。

 

前方では焚き火の光が揺れている。

 

しかし、背後の森は暗かった。

 

月明かりで木々の輪郭は見えるものの、その間に何かが潜んでいても簡単にはわからない。

 

高橋は近くの木の幹に身を寄せ、小銃を構えた。

 

一方、エレナたちは魔族の拠点を観察し続けていた。

 

歩哨の一体が天幕へ近づき、入口から中を覗き込んだ。

 

何か声をかけているようだった。

 

しばらくすると、天幕の中から返事が聞こえた。

 

「中にもいるわね」

 

エレナが囁いた。

 

「少なくとも一体はな」

 

アルノーが答えた。

 

歩哨は再び焚き火のそばへ戻った。

 

エレナはさらにしばらく観察していたが、やがてアルノーに顔を向けた。

 

「とりあえず、ここはいいわ。迂回しましょう」

 

「もう少し調べなくていいのか?」

 

「歩哨が二人、天幕が一張り。偵察兵の拠点らしいことはわかったわ。これ以上近づく必要はないでしょう」

 

「そうだな」

 

エレナはミレーナに声をかけた。

 

「場所は記録できた?」

 

「ええ、大丈夫よ」

 

「それじゃあ、先へ進みましょう」

 

エレナは後方を警戒していた高橋の肩に軽く触れた。

 

「高橋、移動するわよ」

 

「了解です」

 

四人は身を低くしたまま、魔族の拠点から離れ始めた。

 

焚き火の明かりが届く範囲を避け、木々の陰を利用しながら迂回する。

 

しばらくの間、誰も口を開かなかった。

 

高橋には、雪を踏む小さな音が妙に大きく感じられた。

 

やがて、木々の間から見えていた焚き火の光が消えた。

 

それでもエレナは足を止めず、さらに距離を取った。

 

十分に離れたところで、四人は停止した。

 

アルノーが後方を確認した。

 

「追ってくる様子はないな」

 

「気づかれなかったみたいね」

 

エレナが答えた。

 

ミレーナが地図を取り出そうとした。

 

「進路はどうする?」

 

「東へ進みましょう。例の林道を確認したいわ」

 

アルノーが頷いた。

 

「ここからなら、そう遠くないはずだ」

 

「ええ。ただし、敵の活動が激しいようなら引き返すわ」

 

四人は再び東へ向かった。

 

* * *

 

しばらく進んだところで、エレナが足を止めた。

 

「ミレーナ、ちょっと地図を確認しましょう」

 

「ええ」

 

二人は大きな木の陰にしゃがみ込んだ。

 

ミレーナが地図を広げると、エレナは外套の覆いを二人の頭から被せた。

 

その内側で、小さなペンライトを点灯する。

 

外へ光が漏れないようにしながら、地図を照らした。

 

「現在地はこの辺りね」

 

エレナは指先で地図をなぞった。

 

「さっきの魔族の拠点がここ。そこから迂回して、今はこの辺りだと思うわ」

 

ミレーナも地図を覗き込んだ。

 

「沢はまだ越えていないから、もう少し西側じゃない?」

 

「そうね。じゃあ、この辺りかしら」

 

二人は進んできた距離と地形を照らし合わせた。

 

「たぶん、あと五百メートルね。問題の林道に出るわ」

 

「思ったより近いわね」

 

「ええ。もう少し進んでみましょう」

 

エレナがペンライトを消すと、二人は覆いを外して立ち上がった。

 

アルノーが振り返った。

 

「現在地はわかったか?」

 

「だいたいね。林道まであと五百メートルくらいよ」

 

「なるほど。そろそろ敵の通行も増えるかもしれんな」

 

「そうね。ここからは、もう少し慎重に行きましょう」

 

四人は再び東へ向かった。

 

しばらくすると、前方の地面がわずかに低くなっていることに気づいた。

 

小さな沢の跡だった。

 

今はほとんど水が流れておらず、底には薄く雪が積もっている。

 

エレナが先に沢を渡り、対岸の様子を確認した。

 

「大丈夫よ。渡りましょう」

 

高橋も慎重に沢を越えた。

 

対岸は緩やかな上り勾配になっていた。

 

木々の間を縫うように坂を上っていく。

 

やがて、先頭のエレナが足を止めた。

 

「……あったわ」

 

高橋が前方を見ると、森が途切れ、細長く開けた場所が月明かりに浮かび上がっていた。

 

道路だった。

 

「これが例の林道ですか?」

 

「そうみたいね」

 

四人は木々の陰に身を寄せ、道路の様子を確認した。

 

道は北西から南東へ延びていた。

 

ちょうど緩やかなカーブになっている場所で、両方向とも先の方は木々に遮られて見通せない。

 

幅員はおよそ三メートル。

 

馬車一台が余裕をもって通れる程度の広さだった。

 

路面は土と小石で固められており、周囲の地面とは明らかに違っていた。

 

アルノーが小声で言った。

 

「なるほどな。こいつは単なる林道じゃないぞ」

 

「どういうこと?」

 

エレナが尋ねた。

 

「昔は主要街道だったんじゃないか? 道幅もあるし、路面もしっかりしている」

 

エレナは道路の先へ目を向けた。

 

「そうかもしれないわね。今は森の中だけど、昔は人の往来が多かったのかしら」

 

「千年も戦争をやってるんだ。昔の道が森に埋もれていても不思議じゃないさ」

 

アルノーはそう言うと、道路の端へ近づいた。

 

しゃがみ込み、地面を調べ始める。

 

高橋もその様子を見ていた。

 

雪が薄く積もった路面には、いくつもの筋が残されていた。

 

アルノーは指先で雪を払い、地面の状態を確かめた。

 

「……馬車が通っているな」

 

「馬車?」

 

エレナが近づいた。

 

「ああ。車輪の跡がある。ほら、こことここだ」

 

アルノーが指さした場所には、平行した二本の轍が残っていた。

 

その周囲には、馬と思われる蹄の跡もある。

 

「しかも、一度や二度じゃなさそうだ」

 

アルノーは少し場所を移して、別の轍を確認した。

 

「何台も通っているようだな。古い跡の上に新しい跡が重なっている」

 

ミレーナも路面を調べ始めた。

 

「こっちには足跡があるわ」

 

エレナが覗き込んだ。

 

雪の上には、複数の足跡が残されていた。

 

「魔族のものね」

 

エレナが言った。

 

「そうだろうな」

 

アルノーは道路の先を見た。

 

「こいつは結構頻繁に使われているようだぞ」

 

エレナは腕を組んだ。

 

「なるほどね……。フリーダたちがこの林道を調べたがっていた理由がわかるわ」

 

アルノーが頷いた。

 

「これだけしっかりした道なら、物資の輸送にも使える。歩兵の移動にも便利だろう」

 

「ええ。単なる偵察兵の通り道じゃないかもしれないわね」

 

エレナは再び道路を見渡した。

 

北西へ延びる道。

 

そして南東へ続く道。

 

どちらも森の中へ消えている。

 

「ミレーナ、現在位置を記録して」

 

「了解」

 

ミレーナは木の陰に戻り、地図を取り出した。

 

エレナも隣にしゃがみ込み、覆いの内側でペンライトを点灯した。

 

「このカーブね。さっき渡った沢との位置関係からして、間違いないと思うわ」

 

「ええ。旧街道らしい道路、幅員約三メートル。馬車の轍と魔族の足跡を多数確認……と」

 

ミレーナが記録した。

 

アルノーがエレナに声をかけた。

 

「どうする? 少し道路沿いを調べてみるか?」

 

エレナは道路の南東方向へ目を向けた。

 

「そうね。もう少し調べてみましょう。ただし、道路の上は歩かないわ。魔族が通るかもしれないから」

 

アルノーが頷いた。

 

「少し離れて、木々の間を進もう」

 

四人は林道を外れ、南西側の森林へ入った。

 

道路から一定の距離を保ち、木々に身を隠しながら、林道とほぼ並行して南東方向へ進んだ。

 

この辺りは比較的平坦で、下草も少なかった。

 

月明かりに照らされた林道が、木々の間から白く浮かび上がって見えた。

 

しばらく進んだところで、先頭のアルノーが突然片手を上げた。

 

停止の合図だった。

 

四人はすぐに足を止め、それぞれ近くの木の陰に身を寄せた。

 

アルノーは林道の方向へ顔を向け、じっと耳を澄ませている。

 

エレナも同じ方向を見た。

 

「……何か聞こえた?」

 

アルノーは小さく頷いた。

 

「足音のようなものが聞こえた」

 

高橋も耳を澄ませた。

 

しかし、何も聞こえない。

 

風が枝を揺らす音と、ときおり雪が落ちる音だけだった。

 

四人はそのまま動かず、林道の方向を警戒し続けた。

 

しばらくすると、アルノーが小さく指を動かした。

 

「あそこだ」

 

エレナが目を凝らした。

 

林道の奥、月明かりに照らされた路面に黒い影が現れた。

 

一つではない。

 

いくつもの影が、ゆっくりと移動している。

 

「……魔族ね」

 

エレナが囁いた。

 

数名の魔族が林道を歩いていた。

 

高橋にも、ようやくその姿が見えた。

 

暗い影が道路上を移動している。

 

距離があるため細かな姿まではわからないが、人間より大柄な体格と、特徴的な頭部の輪郭が確認できた。

 

エレナは木の陰から魔族たちを注意深く観察していた。

 

「……全部で六体ね」

 

アルノーが目を細めた。

 

「おい、あの後ろのやつを見ろ。ずいぶんと大きな荷物を背負っているぞ」

 

「……無線機かしら?」

 

「そう見えるな」

 

大きな箱状の機材を背負った魔族が、ほかの兵士に続いて歩いていた。

 

さらに、別の魔族も奇妙な荷物を背負っている。

 

細長い筒状の機材だった。

 

「もう一体、変わったものを背負っているわね」

 

エレナが呟いた。

 

アルノーもそちらへ目を向けた。

 

「筒みたいなものだな。観測器材か?」

 

「そうかもしれないわ」

 

エレナはしばらく考え込んだ。

 

無線機らしい大型の機材。

 

そして、筒状の観測器材。

 

単なる歩兵の巡察隊にしては、装備が少し変わっている。

 

「……砲兵の観測班かもしれないわね」

 

アルノーが頷いた。

 

「なるほど。無線で砲兵陣地に連絡するわけか」

 

「ええ。でも、まだそうと決まったわけじゃないわ」

 

エレナは再び魔族たちへ視線を戻した。

 

「ミレーナ、記録しておいて。六体編成。無線機と思われる機材が一つ、筒状の観測器材が一つ」

 

「了解」

 

ミレーナは手元の記録帳に簡単なメモを取った。

 

高橋も木の陰から林道を見つめていた。

 

しかし、エレナたちほど細かなところまでは見えなかった。

 

「エレナ伍長、あれが無線機なんですか?」

 

「たぶんね。高橋には見える?」

 

「大きな荷物を背負っているのはわかりますけど、何なのかまでは……」

 

「そう。私にもはっきりとはわからないわ。でも、普通の背嚢とは違うようね」

 

高橋はもう一度目を凝らした。

 

確かに、六体のうち二体だけが、ほかの魔族とは異なる荷物を背負っている。

 

アルノーが小さく呟いた。

 

「もし砲兵の観測班なら、どこかに観測所を設けるつもりかもしれんな」

 

「そうね」

 

エレナの表情が少し険しくなった。

 

第3中隊の高台陣地は、敵の砲撃を受けている。

 

魔族が緩衝地帯の中に観測所を設け、そこから帝国軍の陣地を観測している可能性はあった。

 

ただし、目の前の六体がその任務についているかどうかは、まだわからない。

 

「とにかく、今夜の重要な情報ね」

 

エレナはそう言って、魔族たちの動きを見守った。

 

六人は立ち止まることなく、林道を歩き続けた。

 

やがて緩やかなカーブの向こうへ消え、木々の間から姿が見えなくなった。

 

アルノーはしばらく耳を澄ませていた。

 

「……行ったようだな」

 

エレナは頷いた。

 

「ここまでにしましょう。西へ戻るわ」

 

ミレーナが顔を上げた。

 

「林道の調査はもういいの?」

 

「ええ。馬車の通行も確認できたし、無線機や観測器材らしいものを運ぶ部隊まで見つけたわ。今夜は十分よ」

 

アルノーも同意した。

 

「そうだな。あの六体が戻ってくる可能性もある」

 

エレナは三人を見渡した。

 

「いい? 道中の地形はしっかり覚えるように。沢や坂、特徴のある木、見通しのいい場所。次に来たときに迷わないようにね」

 

「了解」

 

三人が答えた。

 

「特に高橋。あなたはまだ、この辺りの地形に慣れていないでしょう?」

 

「はい」

 

「帰りは少し余裕を持って、周りを見ながら歩きなさい。ただし、警戒も忘れないでね」

 

「わかりました」

 

四人は林道から離れ、森林の中を西へ向かって歩き始めた。

 

* * *

 

月はまだ空に出ていた。

 

木々の間から差し込む月明かりが、薄く積もった雪を照らしている。

 

高橋は歩きながら、周囲の地形を注意深く観察した。

 

倒れた大きな針葉樹。

 

少し開けた平坦な場所。

 

斜面に露出している岩。

 

来るときには気にも留めなかったものが、帰り道では目印になることに気づいた。

 

そのとき、先頭のアルノーが片手を上げた。

 

「待て。また足跡だ」

 

四人は足を止めた。

 

アルノーは近くの木の根元にしゃがみ込み、薄く積もった雪を調べ始めた。

 

エレナも隣に膝をついた。

 

「魔族のもの?」

 

「ああ、そうだと思う。こいつも比較的新しいな」

 

雪の上には、複数の足跡が続いていた。

 

アルノーはその方向を確認すると、森の奥へ目を向けた。

 

「……こっちへ続いているな」

 

エレナも足跡の先を見つめた。

 

「この方向だと、さっき見つけた拠点じゃないかしら?」

 

「ああ。位置関係からすると、その可能性が高いな」

 

ミレーナが尋ねた。

 

「じゃあ、あの天幕を使っている魔族の足跡かしら?」

 

「そうかもしれないわね」

 

エレナはしゃがんだまま、足跡を観察した。

 

「最初に見つけた足跡も、あの拠点へ続いていたわ。今度は別の場所からね」

 

アルノーが頷いた。

 

「どうやら、あの拠点から複数の方向へ偵察兵が出ているようだな」

 

「そうね。単なる野営地じゃなくて、やっぱり偵察兵の前進拠点なのかもしれないわ」

 

エレナはミレーナに声をかけた。

 

「この足跡も記録しておいて。位置と、続いている方向をね」

 

「了解」

 

ミレーナは地図を取り出し、覆いの内側でペンライトを点灯した。

 

エレナは地図を覗き込んだ。

 

「最初に見つけた足跡がここ。天幕があったのがこの辺り。そして今見つけたのが……ここね」

 

ミレーナが地図に印を付けた。

 

「確かに、どちらも同じ辺りへ続いているわね」

 

「ええ。でも、本当にあの拠点につながっているかどうかは、まだわからないわ」

 

アルノーが立ち上がった。

 

「追って確かめるか?」

 

エレナは首を横に振った。

 

「いいえ。今夜はもう十分よ。帰りましょう」

 

ミレーナが地図をしまう。

 

四人は再び西へ進んだ。

 

しばらくすると、エレナが足を止めた。

 

周囲の地形を確認してから、アルノーに声をかける。

 

「ここからだと、あの高台の陣地かしら」

 

アルノーも周囲を見回した。

 

「そうだな。けっこう南に寄ったからな。出発した北側の陣地より、あっちの方が近いだろう」

 

「そうね。じゃあ、あの高台を目指しましょう」

 

ミレーナが頷いた。

 

「第3中隊の陣地ね」

 

「ええ。帰還したら、小隊本部に報告しましょう」

 

エレナは高橋を振り返った。

 

「高橋、行くわよ」

 

「はい」

 

四人は進路を少し南寄りに修正した。

 

高橋は、昼間に狙撃を行った高台のことを思い出していた。

 

あのときは、帝国軍の陣地から魔族のいる森を眺めていた。

 

今夜は、その森の中から帝国軍の陣地へ戻ろうとしている。

 

同じ場所でも、立場が変わるとずいぶん違って感じられた。

 

四人は足音に注意しながら、第3中隊の高台陣地へ向かって歩き続けた。

 

* * *

 

やがて、木々の向こうに高台陣地の輪郭が見えてきた。

 

月明かりの下、稜線に沿って築かれた塹壕がうっすらと浮かび上がっている。

 

高橋は小さく息を吐いた。

 

「やっと戻ってきましたね」

 

「ええ。でも、まだ気を抜かないで」

 

エレナが答えた。

 

「ここからは味方に撃たれないようにしないとね」

 

夜間、敵のいる方向から陣地へ近づいてくる者がいれば、歩哨は当然警戒する。

 

それが味方なのか魔族なのか、暗闇の中では簡単に判断できない。

 

エレナは三人に合図し、歩く速度をさらに落とした。

 

四人は陣地へ向けてゆっくりと近づいた。

 

ある程度の距離まで来たところで、エレナは立ち止まった。

 

「ここで知らせましょう」

 

エレナはペンライトを取り出し、陣地の方向へ向けた。

 

カチッ、カチッ。

 

小さな光が、事前に決められた合図に従って点滅した。

 

四人はその場で待った。

 

しばらくすると、塹壕の方から女性の声が聞こえてきた。

 

「そこで止まって! 合言葉は?」

 

エレナは足を止めたまま、その夜に指定されていた合言葉を答えた。

 

少し間があった。

 

「了解! 入っていいわよ!」

 

女性の声が返ってきた。

 

「行きましょう」

 

エレナの合図で、四人は素早く陣地へ近づいた。

 

塹壕の入口まで来ると、銃を持った女性兵士が立っていた。

 

「お疲れさまです!」

 

高橋はその顔を見て、思わず声を上げた。

 

「あ、伊藤さん!」

 

歩哨に立っていたのは、伊藤千尋だった。

 

第3中隊に所属する第20期召喚者の一人である。

 

千尋も高橋に気づいた。

 

「あ、高橋君! お帰りなさい」

 

「ただいま戻りました」

 

千尋は四人を見渡した。

 

「皆さん、お疲れさまでした。ずいぶん長かったですね」

 

エレナが微笑んだ。

 

「ありがとう。少し遠くまで調べてきたの」

 

「そうなんですか。何か見つかりました?」

 

「ええ、いろいろとね。でも、詳しい話は報告してからにするわ」

 

「わかりました」

 

千尋は塹壕の奥を指さした。

 

「中へどうぞ」

 

四人は順番に塹壕へ入った。

 

高橋は土壁に囲まれた通路へ降り、ようやく肩の力を抜いた。

 

千尋が声をかけた。

 

「高橋君、大丈夫? 疲れたでしょう」

 

「ええ、まあ。でも、何事もなく帰ってこられました」

 

「それが一番だよ」

 

千尋は笑った。

 

「私、もう少し歩哨だから。またあとでね」

 

「はい。お疲れさまです」

 

エレナも千尋に声をかけた。

 

「警戒を続けてね。私たちは帰還の報告をしてくるわ」

 

「了解です!」

 

千尋は再び陣地の外へ目を向けた。

 

四人は塹壕の奥へ進んでいった。

 

出発から、およそ六時間。

 

エレナ班の初めての緩衝地帯への夜間偵察は、こうして無事に終了した。

 

* * *

 

第3中隊の高台陣地から後方へ戻ったエレナ班は、浸透偵察小隊の司令部へ向かった。

 

連隊司令部の掩蔽壕から少し離れた森の中に、小隊司令部が設けられていた。

 

木々に囲まれた場所には天幕が張られ、周囲には偽装が施されている。

 

天幕の中では、ヴァルター少佐が各班からの報告を整理していた。

 

机の上には戦域の地図が広げられ、すでにいくつかの印が書き込まれている。

 

「エレナ班、戻りました」

 

エレナが声をかけた。

 

ヴァルターが顔を上げた。

 

「おう、ご苦労。どうだった?」

 

「かなり収穫がありました。魔族の前進拠点と思われる場所と、旧林道を使って移動する部隊を確認しました」

 

「ほう。詳しく聞かせろ」

 

エレナは机に近づき、地図を覗き込んだ。

 

ミレーナも隣に立ち、携行していた記録を取り出した。

 

「まず、第3中隊の北側から緩衝地帯へ入りました。森林内で三、四体程度の魔族の足跡を発見し、逆にたどったところ、ここに小規模な拠点を発見しました」

 

エレナは地図の一点を指さした。

 

「前線から約一・五キロメートル。天幕が一張り、焚き火があり、歩哨が二体立っていました。天幕の中にも人員がいましたが、総数は確認できていません」

 

ヴァルターは地図に印を付けた。

 

「監視拠点か?」

 

「おそらく。偵察兵の前進拠点かもしれません。帰路にも別の場所で魔族の足跡を発見しましたが、方向からすると、この拠点へ続いているようでした」

 

「なるほどな」

 

ヴァルターは地図を見つめた。

 

「実はな、先に帰ってきたゲルフ班からも、似たような報告があった」

 

「ゲルフたちも見つけたんですか?」

 

「ああ。あいつらも小規模な拠点を発見している。場所はこっちだ」

 

ヴァルターは第2中隊正面の森林を指さした。

 

「規模は大きくないようだが、魔族が継続して使っている可能性があるそうだ」

 

アルノーが口を開いた。

 

「やはり、緩衝地帯の中にいくつも拠点を設けているんでしょうか?」

 

「そう考えた方がよさそうだな。もっとも、まだ二か所確認しただけだ。実際にどれだけあるかはわからん」

 

ヴァルターはエレナに続きを促した。

 

「それで、旧林道はどうだった?」

 

「到達できました。思った以上に立派な道路です。幅員は約三メートル。古い主要街道だったようです」

 

「今も使われているのか?」

 

「はい。馬車の轍と多数の魔族の足跡を確認しました。相当頻繁に利用されているようです」

 

ヴァルターは頷いた。

 

「ゲルフも同じことを言っていた。あの林道は今でも使われているらしいな」

 

「それと、道路を移動する魔族六体を確認しました」

 

「六人か」

 

「はい。そのうち一体は無線機と思われる大型の機材を背負っていました。もう一体は筒状の観測器材らしいものを運んでいました」

 

ヴァルターの表情が変わった。

 

「観測器材だと?」

 

「確証はありません。ただ、通常の歩兵装備とは違っていました」

 

アルノーが補足した。

 

「無線機と観測器材を持った部隊なら、砲兵の観測班かもしれません」

 

ヴァルターは腕を組んだ。

 

「十分あり得るな」

 

しばらく地図を眺めていたヴァルターが、顔を上げた。

 

「ほかに気づいたことは?」

 

「魔族の活動が、思っていた以上に活発です。少なくとも、あの林道は日常的な移動経路になっているようです」

 

「そうだろうな」

 

ヴァルターは椅子に腰を下ろした。

 

「そもそも、こちらは緩衝地帯で積極的な偵察活動をしてこなかったからな」

 

エレナが頷いた。

 

「ギョーム連隊からの引き継ぎ資料にも、森林内の情報はあまりありませんでしたね」

 

「ああ。領主軍は基本的に防御が主任務だ。塹壕を守り、敵の攻撃を撃退する。それが仕事だからな」

 

ヴァルターは地図上の帝国軍陣地を指でなぞった。

 

「もちろん、陣地周辺の警戒や偵察はやっている。だが、危険を冒してまで緩衝地帯の奥へ出ていくことは少ない」

 

「無理に進出して損害を出すより、陣地を守る方が重要ですからね」

 

エレナが答えた。

 

「そういうことだ。特に領主軍は、自分の兵を無駄に失いたくない。防御さえしっかりしていれば、わざわざ敵を探しに行く必要はないというわけだ」

 

ヴァルターは小さく笑った。

 

「まあ、気持ちはわからんでもないがな」

 

アルノーが言った。

 

「その結果、魔族が好き勝手に歩き回っているわけですか」

 

「どうやらな」

 

ヴァルターは地図に書き込まれた印を見つめた。

 

「こちらが出てこないとわかっていれば、連中にとっては都合がいい。偵察拠点を置くこともできるし、林道を使って人や物資を運ぶこともできる」

 

エレナは地図の旧林道を指さした。

 

「馬車まで通っているとなると、単に偵察兵が利用しているだけではありませんね」

 

「ああ。補給にも使っている可能性がある」

 

ヴァルターは頷いた。

 

「しかし、今夜の報告だけでも随分と見えてきたな」

 

彼は地図上の二つの拠点に目を向けた。

 

「これまで緩衝地帯は、敵味方のどちらもいない場所のように扱われていた。実際には、魔族がかなり活動しているようだ」

 

「そうですね」

 

エレナが答えた。

 

「それに、私たちが見つけたのは、その一部だけでしょうね」

 

「間違いないだろう」

 

ヴァルターは腕を組んだ。

 

「ともかく、ご苦労だった。初めての偵察としては十分な成果だ」

 

エレナが微笑んだ。

 

「ありがとうございます」

 

「全員無事か?」

 

「はい。四人とも異常ありません」

 

「よし。詳しい記録はあとで整理して提出してくれ。今夜はもう休め」

 

「了解しました」

 

エレナたちは敬礼した。

 

ヴァルターは再び地図に視線を戻した。

 

エレナたちが発見した監視拠点と、ゲルフ班が発見した拠点。

 

そして、その間を通る古い街道。

 

地図の上に新たな情報が書き込まれていく。

 

これまで空白だった緩衝地帯の様子が、少しずつ明らかになり始めていた。

 

* * *

 

小隊本部での報告を終え、アルノーたちが先に休憩場所へ戻ったあと、エレナは追加の確認を済ませてから三人のもとへ戻ってきた。

 

アルノー、ミレーナ、高橋の三人は、すでに装備を下ろして休んでいた。

 

「お疲れさま。報告は全部終わったわ」

 

エレナはそう言いながら、自分の頬を指でこすった。

 

黒い迷彩塗料が指先に付いた。

 

「炊事班にお湯をもらいましょう。早く顔を拭きたいわ」

 

ミレーナも自分の顔に触れた。

 

「そうね。私は身体も拭きたいわ。汗をかいたままだと気持ち悪いもの」

 

「俺もだな」

 

アルノーが立ち上がった。

 

「高橋、一緒に行こう。お湯をもらってくるぞ」

 

「了解です」

 

高橋も立ち上がった。

 

「じゃあ、行ってきます」

 

「お願いね。できれば多めにもらってきて」

 

エレナが声をかけた。

 

「わかりました」

 

二人は湯を入れる容器を持ち、炊事班のいる方へ歩いていった。

 

その後ろ姿を見送っていたミレーナが、エレナに顔を向けた。

 

「ねえ、エレナ」

 

「なあに?」

 

「高橋、どうだった?」

 

エレナは少し考えてから答えた。

 

「上出来でしょう。特に問題もなかったし、訓練どおりにやってるわ」

 

「初めての緩衝地帯だったのに、落ち着いてたわね」

 

「ええ。足跡を見つけたときも、魔族の拠点に近づいたときも、指示にはちゃんと従っていたわ」

 

「後方警戒も真面目にやってたしね。私たちが観察している間、余計なことをしなかったのはよかったわ」

 

エレナは頷いた。

 

「まだ経験は足りないけど、教えたことはきちんと覚えてる。あとは実戦を重ねるだけね」

 

ミレーナは満足そうに笑った。

 

「うん、あの子は成長するわね。素質ありそう」

 

「そう思う?」

 

「ええ。素直だし、飲み込みも悪くない。それに、初めて魔族を撃ったばかりでしょう? それでも今夜はちゃんと任務をこなしたんだから」

 

「そうね」

 

エレナは少し嬉しそうだった。

 

ミレーナはそんな彼女の顔を眺めて、にやりと笑った。

 

「いい男捕まえたじゃない」

 

「ありがとう」

 

エレナはあっさり答えた。

 

その返事があまりに自然だったので、ミレーナは吹き出した。

 

「そこは否定しないのね」

 

「どうして? 私だってそう思ってるもの」

 

「はいはい、ごちそうさま」

 

二人は笑った。

 

ミレーナは少し考えるような仕草をしてから、声を落とした。

 

「でも、リーナには注意かな。それともイルマかな。あの子とは波長が合ってそうだし」

 

エレナは不思議そうに首を傾げた。

 

「何が?」

 

「高橋よ。あの子、これからもっといい男になると思うわ。ほかの女の子が放っておかないんじゃない?」

 

「ああ、そういうこと」

 

エレナは小さく笑った。

 

「別に気にしないわよ。その辺は高橋の自由だもの」

 

ミレーナは目を丸くした。

 

「うわ、余裕」

 

「違うわよ」

 

エレナは苦笑した。

 

「高橋が誰と仲良くするかなんて、私が決めることじゃないでしょう?」

 

「まあ、そうだけど」

 

「それに、リーナもイルマもいい子じゃない。仲良くするのは結構なことよ」

 

ミレーナは呆れたように笑った。

 

「あなたらしいわねえ」

 

そのとき、外からアルノーの声が聞こえた。

 

「おーい、お湯をもらってきたぞ!」

 

続いて高橋が、大きな容器を抱えて入ってきた。

 

「結構熱いですから、気をつけてください」

 

「ありがとう、高橋」

 

エレナは笑顔で迎えた。

 

ミレーナは高橋の顔をちらりと見た。

 

真面目な顔で湯を運んでいる少年は、まだどこか幼さを残している。

 

だが、これから先、ずいぶん頼もしい男になるかもしれない。

 

そんなことを考えながら、ミレーナはエレナに目配せした。

 

エレナはその意味に気づいたらしく、小さく笑った。

 

高橋だけは、二人が何を話していたのか、まったく知らなかった。

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