翌朝、ベルノ連隊の司令部では、ヴァルター少佐がオリヴィエ大佐に昨夜の偵察結果を報告していた。
司令部付のアウレリア大尉も同席し、報告内容を記録している。
机の上には戦域地図が広げられ、緩衝地帯の森林内にいくつもの印が書き込まれていた。
「昨夜、六個班を緩衝地帯に進出させました。全班とも無事に帰還しています」
「それはよかったわ。それで、何かわかった?」
オリヴィエが尋ねた。
「思っていた以上に、魔族の活動が活発です。どうやら連中は緩衝地帯を自由に闊歩しているようですな」
「そんなに?」
「ええ。各班とも足跡や移動経路を確認しています。特に林道周辺では、頻繁に魔族が行き来している形跡がありました」
ヴァルターは地図の一点を指さした。
「それから、エレナ班が発見したような小規模な拠点が、全部で四か所確認されました」
「四か所も?」
「はい。いずれも緩衝地帯の森林内です。エレナ班が確認した場所には、天幕が一張り、焚き火があり、歩哨が二体立っていたそうです」
「焚き火ですって! なめてるのかしら!」
オリヴィエが思わず声を上げた。
「敵の目の前で、堂々と焚き火までしてるっていうの?」
「そういうことですな」
ヴァルターは苦笑した。
「ほかの班が発見した拠点も似たような規模だったようです。どうやら、こちらをあまり警戒していないようですな」
「まったく……」
オリヴィエは不愉快そうに腕を組んだ。
アウレリアが口を開いた。
「これまで帝国軍が積極的に緩衝地帯へ進出してこなかったため、魔族も安全だと考えているのでしょう」
「そうなんでしょうね。でも、ずいぶん好き勝手にやってくれるじゃない」
オリヴィエは地図に目を落とした。
四か所の印は、帝国軍と魔族軍の主陣地の間に広がる森林内に分布していた。
「それでヴァルター、これは何のための拠点なの?」
「おそらく、偵察兵や観測兵の休憩と補給を行うための場所でしょうな」
ヴァルターは説明を続けた。
「緩衝地帯で活動する兵士も、長時間歩き回れば休息が必要です。食料や水、弾薬の補給も必要になる。毎回主陣地まで戻っていては効率が悪いでしょう」
「だから前進拠点を置いているわけね」
「そう考えています。ただし、まだ一晩調べただけですから、断定はできません」
アウレリアが地図を覗き込んだ。
「四か所ということは、ほかにも存在する可能性がありますね」
「十分にあるでしょうな。昨夜調べた範囲は、緩衝地帯のごく一部ですから」
ヴァルターは続いて、第2中隊正面から南東へ延びる林道を指さした。
「それと、この古い林道ですが、現在もかなり利用されているようです」
「古い街道だったという道ね」
「はい。ゲルフ班とエレナ班の両方が確認しています。幅員は約三メートル。馬車の轍と多数の魔族の足跡がありました」
「馬車まで通っているの?」
「ええ。補給路として使われている可能性があります。それに、エレナ班はこの林道で魔族六体を確認しています」
「六体?」
「そのうち一体は無線機らしい大型の機材を背負い、別の一体は筒状の観測器材と思われるものを運んでいたそうです」
オリヴィエの表情が変わった。
「観測器材?」
「確証はありませんが、砲兵の観測班だった可能性があります」
アウレリアも顔を上げた。
「無線機と観測器材ですか。砲兵の前進観測班なら、厄介ですね」
「そうですな。もっとも、実際に何を運んでいたのかまでは確認できていません」
オリヴィエは腕を組んだ。
「なるほどね……」
しばらく地図を眺めていたが、やがて不満そうに口を開いた。
「悔しいわね。これじゃあ撃たれっぱなしじゃない」
ヴァルターは頷いた。
「まったくですな」
「こっちは塹壕に籠もっているのに、向こうは好き勝手に森の中を歩いている。観測所まで置かれていたら、こちらの陣地なんて丸見えじゃない」
アウレリアが答えた。
「その可能性があります。ただ、敵の観測位置がわからない以上、こちらも対処が難しいですね」
オリヴィエは第3中隊の高台陣地を指さした。
「特にここよ。しょっちゅう砲撃を受けているでしょう?」
「ええ。高台は目立ちますからな。ただ、敵がどこから観測しているのかは、まだわかっていません」
「それが問題なのよね」
オリヴィエは椅子にもたれかかった。
「ギョーム連隊は、緩衝地帯をあまり調べていなかったのかしら?」
「防御主体の領主軍ですからな。陣地周辺の警戒は行っていても、積極的に森林の奥まで偵察することは少なかったようです」
「損害を出してまで、敵を探しに行く必要はないということね」
「そうです。兵力に余裕があるわけでもありませんし、無理に前進して交戦するより、陣地を守ることを優先するのは当然でしょう」
ヴァルターは地図を見下ろした。
「しかし、魔族の方はそう考えていないようですな。こちらが出てこないとわかっているから、安心して活動しているのでしょう」
オリヴィエは小さくため息をついた。
「それじゃあ、緩衝地帯じゃなくて魔族の庭じゃない」
「今のところ、そんな状態です」
ヴァルターが苦笑した。
アウレリアも地図を見ながら頷いた。
「これまでのように、陣地から観測しているだけでは、森林内の実態はわからないということですね」
「そういうことだな」
ヴァルターは答えた。
オリヴィエは再び地図に目を落とした。
四か所の前進拠点。
頻繁に使われている古い街道。
そして、観測器材を運んでいた可能性のある魔族の一団。
これまで何もわからなかった森林の中で、魔族が組織的に活動していることが少しずつ明らかになってきた。
「ヴァルター、これからどうするつもり?」
「まずは偵察を続けます。まだ調べていない場所が多すぎますからな」
「そうね。でも、敵の観測所は気になるわ」
「私もです。特に第3中隊の高台陣地を観測できる場所は、優先して調べたいと考えています」
オリヴィエは頷いた。
「お願いするわ。ただし、無理はしないでね。偵察小隊を失うわけにはいかないもの」
「承知しています」
ヴァルターは地図を畳まず、そのまま机の上に広げておいた。
緩衝地帯の偵察は、まだ始まったばかりだった。
* * *
同じ頃、砲兵中隊では予備陣地の構築作業が進められていた。
現在使用している砲兵陣地とは別に、敵の砲撃を受けた際に移動できる陣地を用意しておく必要があった。
工兵たちが中心となって作業を進めていたが、人手が足りないため、砲兵中隊からも兵士が動員されていた。
水野香織もその一人だった。
「よいしょっ!」
水野はスコップを地面に突き立てた。
地面は凍りついており、簡単には掘り進められない。
工兵がツルハシで固い地面を崩し、その土を砲兵たちがスコップで運び出していた。
陣地の周囲には掘り出した土が積み上げられ、切り出された丸太や土嚢も並べられている。
水野は額の汗を袖で拭った。
「はあ……朝から力仕事。私、土方なの?」
隣で作業していたリン伍長が笑った。
「いい土方だと思うぞ。なかなかパワーもある」
リンはそう言いながら、大きなスコップで土をすくい上げた。
筋骨隆々の身体に似合った力強い動きだった。
水野も決して非力ではなくなっていた。
召喚されてから半年以上、軍隊生活と訓練を続けてきた結果、以前とは比べものにならないほど筋力がついている。
それでも、朝から続く力仕事にはさすがに疲れていた。
「私は砲兵になったはずなんですけどねえ……」
「砲兵だって陣地を作るんだ。工兵任せにはできんぞ」
リンはそう答えると、少し離れた場所へ目を向けた。
そこでは木田がスコップを杖代わりにして、肩で息をしていた。
「おい、木田! 何を休んでる!」
「ちょ、ちょっと待ってください……もう腕が上がりません……」
「おまえは鍛え方が足りん!」
「そんなこと言ったって、朝からずっと穴掘りですよ!」
リンは呆れたように首を振った。
「水野を見ろ。まだちゃんと働いてるぞ」
木田は水野の方を見た。
「先生、なんでそんなに元気なんですか……」
「元気なわけないでしょう! 私だって疲れてるわよ!」
「でも、先生、最近どんどん筋肉ついてません?」
「それ、褒めてるの?」
「もちろんですよ。もう立派な肉体労働者です」
「嬉しくないわよ!」
リンが豪快に笑った。
「ははは! まあ、二人ともよく働いてる。もう少しで昼飯だ。そこまで頑張れ!」
木田は空を見上げた。
「昼飯……早く来てくれ……」
「口を動かす暇があったら手を動かせ!」
リンの一喝に、木田は渋々スコップを握り直した。
* * *
やがて、待ちに待った昼食の時間になった。
予備陣地へ炊事班の兵士たちが食事を運んできた。
大きな容器には温かいスープが入っており、パンと肉の煮込みも用意されていた。
作業していた工兵や砲兵たちは、一斉に手を止めた。
「飯だぞー!」
その声に、あちこちから歓声が上がった。
水野もスコップを地面に置いた。
「やっと終わった……」
「まだ午前中が終わっただけだぞ」
リンが笑いながら言った。
「午後もある」
「聞きたくありません!」
水野は即座に答えた。
木田もふらふらと近づいてきた。
「先生……私、午後まで生き残れるでしょうか……」
「知らないわよ。私だって限界なんだから」
三人は丸太の上に腰を下ろし、配られた食事を受け取った。
温かいスープを一口飲むと、水野は大きく息を吐いた。
「ああ……生き返る……」
リンはパンをちぎりながら笑った。
「そんなに大げさなことか?」
「大げさじゃありませんよ。私、元の世界では数学の教師だったんですよ?」
「それがどうした?」
「毎日黒板に数式を書いてたんです。それが今じゃ、一日中スコップを振り回してるんですから」
木田が横から口を挟んだ。
「先生、黒板よりスコップの方が似合うようになってきましたね」
「木田さん?」
水野がじろりと睨んだ。
「いえ、何でもありません」
木田は慌ててスープを飲んだ。
リンが笑いながら言った。
「木田、おまえも水野くらい鍛えた方がいいぞ。さっきからへばってばかりじゃないか」
「伍長、水野先生と比べないでくださいよ」
「どうしてだ?」
「先生、最近おかしいんですよ。昔はもっとか弱い女性だったのに、今じゃ重たいものでも平気で持ち上げるんです」
「おかしいって何よ!」
「いや、褒めてるんですって!」
リンは二人のやり取りを面白そうに眺めていた。
「まあ、力があるのはいいことだ。砲兵は重い砲弾も扱うからな。水野はいい砲兵になるぞ」
「ありがとうございます。でも、できれば穴掘り以外で評価してほしいです」
水野がぼやくと、リンはまた笑った。
「ははは! 午後も期待してるぞ!」
「もう勘弁してください……」
木田が小さく笑った。
「先生、土方としての才能を認められましたね」
「木田さん、午後はあなたの分まで働いてあげようかしら?」
「えっ、いいんですか?」
「その代わり、私の食器洗いも洗濯も全部お願いね」
「……遠慮しておきます」
「だったら自分で働きなさい!」
リンが声を上げて笑った。
周囲では工兵たちも食事を取りながら談笑していた。
冬の陣地構築は楽な仕事ではなかったが、こうして温かい食事を取っている間だけは、少しばかり気が休まった。
水野はパンをちぎり、スープに浸した。
「でも、こうやって食べてると平和ですよねえ……」
木田が頷いた。
「そうですね。ここに来てから、まだ本格的な戦闘もありませんし」
「そのまま何事もなければいいんだけど」
水野がそう言ったときだった。
ドォン……。
遠くから、低い砲声が聞こえてきた。
三人は顔を上げた。
一発だけではなかった。
ドォン、ドォン……。
少し間を置いて、さらに砲声が続いた。
水野は手に持っていたパンを止めた。
「……砲撃?」
木田も音のした方向へ顔を向けた。
「結構撃ってますね」
リンは黙って耳を澄ませていた。
ドォン……ドォン、ドォン……。
遠くの空気を震わせるような、重い音だった。
周囲の工兵たちも食事の手を止め、砲声が聞こえる方向を見ていた。
水野がリンに尋ねた。
「伍長、どこで撃ってるんでしょう?」
リンはしばらく音を聞いてから答えた。
「さあな。ここからじゃ、まだわからん」
また砲声が響いた。
今度は数発が短い間隔で続いた。
水野はパンを持ったまま、遠くの空を見つめていた。
つい先ほどまで、三人は穴掘りの苦労を笑い合っていた。
しかし、ここは戦場なのだ。
そのことを思い出させるように、遠くから砲声が続いていた。
* * *
同じ頃、第3中隊の高地陣地では、三上鈴音が警戒監視についていた。
高台の塹壕からは、前方に広がる森林を見渡すことができた。
もっとも、木々の奥までは見えない。
時折、双眼鏡を覗きながら、魔族の動きがないか確認していた。
「鈴音、お昼持ってきたよ」
背後から声がした。
振り返ると、伊藤千尋が食事を持って立っていた。
「ありがとう、千尋」
「今日は温かいスープもあるよ」
「助かる。朝からずっとここにいるから、身体が冷えちゃって」
千尋は食事を置くと、鈴音の隣に腰を下ろした。
二人は同じ第20期召喚者で、同じ歩兵分隊に配属されている。
「そういえば、昨日の夜、高橋君たちが帰ってきたのよ」
千尋が話し始めた。
「高橋君? あの偵察小隊の?」
「うん。私が歩哨に立ってたときに帰ってきたの。夜中だったけど」
「ああ、夜間偵察に出てたんだっけ」
「そう。四人で帰ってきたんだけど、みんな顔が真っ黒だった」
「何それ?」
「迷彩塗料を塗ってたみたい。最初は誰だかわからなかったわ」
鈴音が笑った。
「高橋君も?」
「もちろん。顔が真っ黒で、なんだか別人みたいだった」
「ふふっ。見てみたかったな」
千尋はスープの容器を手渡した。
「はい、冷めないうちに食べて」
「ありがとう」
鈴音はスープを一口飲んだ。
「ああ、温まる……」
「ずいぶん長いこと偵察してたみたいよ。六時間くらいだって」
「へえ。夜の森を六時間も歩くなんて大変そう」
「本当よね。私だったら迷子になりそう」
「私も」
二人は小さく笑った。
鈴音は食事を取りながらも、ときおり双眼鏡を手に取って前方を確認していた。
千尋も塹壕の縁から森林へ目を向けた。
「あの森の中を歩いてきたのよね」
「そうみたいね」
「魔族もいるんでしょう?」
「そりゃあいるでしょう。この前だって高橋君が撃ったんだから」
千尋は少し黙った。
高橋が初めて魔族を狙撃したことは、すでに第3中隊の兵士たちの間でも知られていた。
「高橋君、大丈夫かな」
「何が?」
「初めて人を……じゃなくて、魔族を撃ったんでしょう?」
鈴音は少し考えてから答えた。
「そりゃ、平気じゃないと思うよ。でも、昨日もちゃんと偵察に行ったんでしょう?」
「うん」
「だったら、頑張ってるんじゃないかな」
千尋は頷いた。
「そうだね」
鈴音は再び双眼鏡を覗いた。
「……今のところ、異常なし」
そう言って、食事に手を伸ばした。
そのときだった。
ヒュルルルル……。
遠くから、何かが空気を切り裂くような音が聞こえてきた。
鈴音が顔を上げた。
「……え?」
次の瞬間。
ドォン!
陣地の近くで砲弾が炸裂した。
地面が揺れ、土が舞い上がった。
「きゃっ!」
千尋が思わず身をすくめた。
続いて、別の砲弾が飛んでくる音がした。
ヒュルルル……。
ドォン!
今度は少し離れた場所で爆発した。
「砲撃だ!」
塹壕の向こうから怒鳴り声が響いた。
「退避! 全員、退避壕へ入れ!」
分隊長の声だった。
鈴音と千尋は顔を見合わせた。
「千尋、行こう!」
「うん!」
二人は食事を放り出し、塹壕の中を走り始めた。
退避壕までは、それほど遠くない。
しかし、頭上では砲弾の飛翔音が続いていた。
ドォン!
また近くで爆発した。
「早く!」
鈴音が叫んだ。
千尋が先に退避壕の入口へたどり着いた。
身をかがめ、その中へ飛び込んだ。
その瞬間だった。
ヒュルルル――。
ドガァン!!
すぐ背後で、凄まじい爆発が起こった。
千尋は背中を強く押されたような衝撃を受けた。
「きゃあっ!」
身体が宙に浮いた。
何が起こったのかわからなかった。
次の瞬間には、退避壕の奥へ投げ込まれ、地面に転がっていた。
「うっ……!」
背中を打ち、息が詰まった。
目の前がぐるぐると回っている。
耳の奥では、キーンという高い音が鳴り続けていた。
誰かが近づいてきた。
「おい! 大丈夫か!」
石井軍曹だった。
石井は千尋の肩をつかみ、助け起こした。
「しっかりしろ! 聞こえるか!」
「……あ……はい……」
千尋は何とか返事をした。
しかし、自分の声が遠くから聞こえてくるようだった。
「怪我は?」
「……わかりません……」
石井は千尋の身体を確認した。
目立った大量の出血はない。
手足も動いている。
「立てるか?」
「……はい……」
千尋は石井に支えられながら、何とか身体を起こした。
まだ少し目が回っていた。
退避壕の中では、ほかの兵士たちが身を寄せ合っていた。
外では砲撃が続いている。
ドォン!
壕の天井から土がぱらぱらと落ちてきた。
石井は千尋を壁際に座らせた。
「ここでじっとしてろ。外へ出るなよ」
「……はい……」
千尋は頷いた。
そのとき、何かがおかしいことに気づいた。
隣にいるはずの人物がいない。
「……あれ?」
千尋は周囲を見回した。
鈴音がいない。
先ほどまで一緒に食事をしていた。
砲撃が始まって、二人で退避壕へ走った。
自分が先に入口へ飛び込んだ。
その後は……。
「……鈴音?」
千尋は立ち上がった。
「鈴音は?」
石井が振り返った。
「どうした?」
「三上さんです! 一緒に走ってきたんです!」
千尋は退避壕の入口へ向かおうとした。
「鈴音がまだ外に!」
石井が慌てて腕をつかんだ。
「馬鹿! 出るな!」
「でも! 鈴音が!」
「まだ砲撃中だ!」
「離してください!」
千尋は必死に石井の腕を振りほどこうとした。
「鈴音が外にいるんです!」
「わかってる! だが今出たら、お前までやられるぞ!」
石井は千尋を押さえ込んだ。
外では、まだ砲弾が炸裂していた。
ドォン!
退避壕が揺れた。
千尋はその場にしゃがみ込んだ。
「鈴音……」
声が震えていた。
石井は何も答えなかった。
* * *
それからしばらくして、砲撃が止んだ。
退避壕の中では、誰もすぐには動かなかった。
外から聞こえてくるのは、崩れた土が落ちる音と、遠くで続く砲声だけだった。
やがて、分隊長が入口の様子を確認した。
「……砲撃が止んだようだ。負傷者を確認するぞ!」
兵士たちが次々と退避壕から出ていった。
千尋も立ち上がった。
「鈴音!」
石井が声をかけた。
「おい、待て!」
しかし、千尋はもう走り出していた。
退避壕の外へ出ると、景色が変わっていた。
塹壕の一部が崩れ、土が散乱している。
近くには大きな砲弾孔ができていた。
千尋は辺りを見回した。
「鈴音!」
返事はなかった。
「鈴音! どこ!?」
少し先の塹壕に、兵士たちが集まっていた。
千尋はそちらへ走った。
そして、足を止めた。
「……え?」
そこにいたのは、三上鈴音だった。
いや、鈴音だったもの、と言うべきだった。
下半身は失われ、上半身だけが塹壕の中に残されていた。
つい先ほどまで、一緒に食事をしていた。
笑っていた。
高橋の話をしていた。
その鈴音が、目の前にいた。
「……鈴音?」
千尋は一歩、近づこうとした。
その瞬間、後ろから伸びてきた大きな手が、千尋の目を覆った。
石井だった。
「見るな!」
石井は千尋の身体を抱えるようにして、後ろへ引き寄せた。
「……軍曹?」
「もう見るな」
石井の声は低かった。
千尋は何も言えなかった。
目の前を塞がれたまま、身体が小刻みに震え始めた。
つい数分前まで、鈴音は隣にいた。
温かいスープを飲んでいた。
笑っていた。
それなのに。
「……鈴音……」
千尋の口から、小さな声が漏れた。
石井は千尋の視界を塞いだまま、周囲の兵士たちに向かって叫んだ。
「衛生兵! 衛生兵はどこだ!」
近くにいた兵士が振り返った。
「今、呼んできます!」
石井は千尋を少し離れた場所へ連れていこうとした。
そのとき、千尋の軍服の袖に赤い染みが広がっていることに気づいた。
「おい、伊藤。お前も怪我をしてるじゃないか」
「……え?」
千尋はぼんやりと石井を見上げた。
石井が彼女の腕を指さした。
「腕だ。血が出てるぞ」
千尋は自分の腕に目を落とした。
軍服の袖が裂け、その周囲に血がにじんでいた。
「……あれ?」
初めて気づいたようだった。
砲弾の破片が当たったのか、爆風で何かにぶつけたのか、自分でもわからなかった。
痛みもほとんど感じていない。
ただ、まだ少し目が回っていた。
「伊藤、お前も怪我をしてる。診てもらえ」
「でも……鈴音が……」
千尋は再び、鈴音が倒れていた方向へ顔を向けようとした。
石井は彼女の肩をつかんだ。
「伊藤! 俺の顔を見ろ!」
千尋はびくりと身体を震わせた。
「……はい」
「お前は負傷してるんだ。まず自分の身体を診てもらえ。いいな?」
「……はい……」
千尋の返事は小さかった。
そこへ衛生兵が駆けつけてきた。
「負傷者は?」
「こっちだ! 爆風で退避壕に吹き飛ばされた。意識はあるが、ふらついている。腕からも出血している」
衛生兵は千尋の腕を確認した。
「伊藤さん、こちらへ。傷を確認します」
「……はい」
千尋は促されるまま歩き始めた。
しかし、数歩進んだところで立ち止まった。
「……軍曹」
石井が振り返った。
「何だ?」
「鈴音は……」
千尋はその先を言えなかった。
石井もすぐには答えなかった。
やがて、静かに口を開いた。
「……今は衛生兵の言うことを聞け」
千尋は俯いた。
「……はい」
衛生兵に付き添われて歩いていく千尋を、石井はしばらく見送っていた。
そして、ゆっくりと振り返った。
砲撃で崩れた塹壕。
散乱する土砂と装備品。
その向こうには、つい先ほどまで警戒任務についていた三上鈴音がいた。
石井は唇を強く結んだ。
まだ、ほかにも負傷者がいるかもしれない。
立ち止まっているわけにはいかなかった。
「おい! ほかに負傷者はいないか! 各員の所在を確認しろ!」
石井の怒鳴り声が、砲撃の止んだ高地陣地に響いた。