食堂は、説明を受けていた兵舎から渡り廊下でつながった建物だった。
外ではまだ雨が降っていたが、朝方に比べると幾分弱まっている。屋根を叩く雨音に混じって、金属製の食器が触れ合う音や、人の話し声が聞こえてきた。
高橋亘一は川崎たちと並んで食堂へ入った。
中は思っていたより広かった。長い木製のテーブルが何列も並び、その両側に椅子が置かれている。壁には大きな窓があり、天井からは電灯が吊るされていた。
そして何より、食べ物の匂いがした。
肉を煮込んだような匂いと、焼いたパンの香ばしさが混じっている。
「おお……」
川崎が思わず声を上げた。
「普通にうまそうじゃん」
「そうだな」
高橋も頷いた。
「もっと変なものが出てくるかと思った」
山田が言うと、井上が笑った。
「お前、異世界の飯に何を期待してたんだよ」
「いや、モンスターの肉とか」
「お前、何でもファンタジーに結びつけるな」
「だって異世界だぞ」
「もうその話は聞き飽きたよ」
食堂の奥では、白い前掛けをつけた女性たちが大きな鍋から料理をよそっていた。近くには軍服姿の兵士もいる。料理を受け取る場所には、木製の盆と金属製の皿、スプーンが積まれていた。
「はい、皆さん。こちらへ並んでください!」
高梨梓が声を張り上げた。
「一人ずつ盆を取って、順番に料理を受け取ってくださいね。おかわりもできますから、慌てなくて大丈夫ですよ」
「おかわりできるんですか!」
川崎が嬉しそうに聞いた。
「できますよ。今日は皆さんの分を多めに用意していますから」
「やった!」
その横で石井軍曹が笑った。
「ただし、食える分だけにしろよ。残すなよ」
「はい!」
生徒たちは学校の給食を思い出したように列を作り始めた。
高橋も盆を受け取り、料理の前へ進んだ。大きな鍋の中には、肉と野菜を煮込んだ料理が入っていた。日本のシチューに似ているが、色は少し濃く、香辛料の匂いがする。それに黒っぽいパンと、茹でた芋のようなもの。飲み物は薄い茶色の温かい液体だった。
「……意外と普通だな」
高橋が呟く。
隣にいた井上も頷いた。
「肉じゃがとシチューの中間みたいな感じか?」
「そうかも」
山田がパンを手に取った。
「これ、硬いな」
「まだ食ってないだろ」
「触ればわかるって」
料理を受け取った生徒たちは、好きな席に座り始めた。高橋たち四人も空いているテーブルを見つけ、腰を下ろした。
「いただきます」
高橋は自然にそう言ってスプーンを手に取った。その向かいで川崎も手を合わせていた。
「いただきまーす」
井上はまず料理を観察している。
「肉は牛かな?」
「知らないよ」
「いや、気になるだろ」
「食えばいいじゃん」
高橋が笑った。
井上は少しだけ肉を口へ運んだ。しばらく噛んでから頷く。
「……うまいな」
「だろ?」
川崎も勢いよく食べ始めた。
「これ、普通にうまいぞ!」
高橋も口に運んでみた。肉は柔らかく、野菜にはよく味が染みている。少し独特の香りはあるが、食べ慣れない味というほどではない。
「ほんとだ。おいしい」
「だよな!」
川崎は嬉しそうだった。
山田も食べ始めたが、しばらくすると顔を上げた。
「……米はないのかな」
「ないんじゃない?」
高橋が答える。
「毎日パンかあ……」
「お前、さっきから文句多すぎ」
井上が呆れた。
「いや、日本人として米は重要だろ!」
「じゃあ、パン俺にくれよ」
「それは嫌だ」
「何なんだよ!」
四人が笑っていると、近くの席から岡田修平が声をかけてきた。
「高橋たち、そっちの料理どう?」
「結構うまいよ」
「こっちも同じだな。俺、おかわり行こうかな」
「早くない?」
「朝から何も食べてないし。腹減ってるんだよ」
岡田は空の皿を持って配膳台へ向かっていった。
その向こうでは佐々木健たちも食事をしていた。
「何だよ、このパン。硬えな」
佐々木がパンを引きちぎりながら文句を言っている。中村が笑った。
「でも肉はうまいじゃん」
「まあな」
加藤真由は黙々と食べていたが、吉田麻衣は料理を前に少し戸惑っているようだった。
「麻衣、食べないの?」
「……何の肉かわからなくて」
「気にしても仕方ないでしょ。普通においしいよ」
加藤は肉を口に運んだ。麻衣は恐る恐るスプーンを動かす。
「お前、変な生き物の肉だったらどうすんだよ」と佐々木。
「やめてよ!」
「魔族の肉だったりしてな!」
「健、食事中にそういうこと言わないで」
加藤が顔をしかめた。
「冗談だろ」
「全然面白くない」
「はいはい」
高橋はその様子を横目で見ていたが、すぐに自分の皿へ視線を戻した。昨日までなら佐々木と同じ場所にいるだけで少し緊張していた。だが、今はそれどころではない。
自分たちはこれから十五年間、軍人になる。しかも最初の一年は戦線へ行く。高梨の説明を思い出すたび、腹の奥が重くなった。
それでも、目の前の料理は温かく、空腹だった身体にはありがたかった。
高橋は残っていた煮込み料理を口へ運んだ。
今は、とりあえず食べよう。
考えることは山ほどあったが、何から考えればいいのかさえわからなかった。
初めての身体検査
食事が終わると、生徒たちは再び最初の兵舎へ案内された。
雨はようやく小降りになっていた。窓の外には濡れた砂利道と低い建物が並び、その間を兵士たちが行き来している。
高橋たちは長椅子に座り、これからどうなるのかと話していた。
「午後は何するんだろうな」
川崎が尋ねる。
「さあ。さっきの説明じゃ、今日は休めるみたいだったけど」
「言葉の勉強とか始まるんじゃないか?」
井上が答えた。
「いきなり?」
「そのうちだろ」
山田は椅子の背にもたれ、天井を見上げていた。
「……何か、疲れたな」
「お前、さっきまで元気だったじゃん」
「いや、いろいろありすぎてさ」
高橋も同感だった。朝、学校へ行ったときには、こんなことになるとは思っていなかった。生徒会長の訃報を聞き、全校集会に出て、突然見知らぬ場所へ現れた。服を失い、雨に打たれ、軍隊に囲まれ、異世界に来たと説明された。
そして今は、軍隊の兵舎で食事まで済ませている。ほんの数時間の出来事とは思えなかった。
そのとき、高梨とリースが入ってきた。
「水野先生、いらっしゃいますか?」
リースが日本語で呼びかけた。
「あ、はい!」
水野が立ち上がる。
「先生、眼鏡の手配に行きましょう」
「お願いします!」
水野は嬉しそうに答えたが、椅子から立ち上がる際には足元を慎重に確かめていた。千尋がすぐに隣へ来る。
「先生、私も一緒に行きましょうか?」
「ありがとう。でもリースさんが案内してくれるから大丈夫よ」
リースが微笑んだ。
「はい。こちらで責任を持ってご案内します」
「先生、気をつけてくださいね」
「大丈夫よ。そんなに心配しなくても。何だか先生なのに、みんなに心配されてばっかりね」
千尋も笑った。
「眼鏡ができれば、またいつもの先生に戻れますよ」
「そうね。早く欲しいわ」
水野はリースに付き添われ、兵舎を出ていった。
高橋はその後ろ姿を見送った。いつもは丸眼鏡の奥から生徒たちを見つめ、少し困ったように笑っている先生。眼鏡がないだけで随分と頼りなく見えるものだった。
「水野ちゃん、眼鏡ないと本当に困るんだな」と川崎。
「そうだね。早くできるといいけど」
「だな」
午後になると、生徒たちは順番に身体検査を受けることになった。
軍の衛生兵が数人やってきて、高梨たちの通訳を介しながら体調を尋ねる。名前、年齢、持病の有無。身長と体重を測り、脈や呼吸も調べられた。
雨に長時間打たれたせいか、寒気を訴える生徒もいた。そうした者には温かい飲み物と毛布が渡され、別の寝台で休むよう指示が出る。
視力検査も始まった。
壁には、切れ目の入った環状の印が大きさを変えて並ぶ検査表が掛けられていた。日本の眼科にあるものと似ているが、文字は使われていない。係の衛生兵が器具で片目を覆い、示した印の切れ目の向きを答えさせる。言葉が通じなくても、手で方向を示せばよかった。
「次、高橋亘一」
石井が名簿を見て呼んだ。
「はい」
高橋は前へ出た。係の衛生兵に言われるまま片目を覆い、示される印の向きを答えていく。印はだんだん小さくなったが、高橋にはまだ見えていた。
何度か答えるうちに、石井が手元の記録を覗き込んだ。
「おまえ、目がいいな。なにかやってたのか?」
高橋は少し驚いて振り返った。
「とくになにもしてないですが」
「そうか。裸眼でそこまで見えるなら、大したもんだ」
石井は感心したように頷いた。
「中学でバドミントンはやってましたけど……」
「ほう。まあ、あまり関係なさそうだな。次の検査に行ってくれ」
「はい」
高橋は言われたとおり、隣の列へ移った。
それほど特別なことをした覚えはない。学校でも、視力検査で困ったことはなかった。だが、この世界では自分の目の良さが何かの役に立つのだろうか。
高橋はそんなことを考えながら、次の衛生兵の前に立った。
身体検査が進む間、石井と木田は兵舎の中を歩き回り、生徒たちの質問にも答えていた。
「石井軍曹!」
井上が声をかける。
「何だ?」
「ここの軍隊の銃って、どういうものなんですか? さっき兵士が持ってたやつです」
石井は少し笑った。
「興味あるのか?」
「はい!」
「軍隊に入りたいのか?」
「いや、そういうわけでは……。軍事関係が好きなだけです」
「ははっ、そうか。まあ、これから嫌でも覚えることになるさ」
「……ですよね」
「射撃訓練もあるし、分解整備も教わる。お前なら覚えるの早いかもしれんな」
井上は複雑そうな顔をした。
「……それとこれとは別なんですけどね」
「そういうもんだ」
石井は笑いながら次の生徒のところへ向かった。
高橋はそのやり取りを聞いていた。井上は昨日まで戦車や銃の話になると目を輝かせていたが、今日はどこか戸惑っている。
好きなことが、そのまま仕事になる。
しかも、人を殺すための仕事に。
それは、決して嬉しいことばかりではないのだろう。
仮の眼鏡
夕方になると、ようやく雨が上がった。
雲の切れ間から夕日が差し込み、濡れた砂利道が鈍く光っていた。
生徒たちが再び食堂へ移動する準備をしていると、兵舎の入口から明るい声が聞こえた。
「みんな、お待たせ!」
水野香織だった。
高橋は顔を上げた。
「あ、先生!」
水野の顔には眼鏡がかかっていた。いつもの丸眼鏡とは少し違う。細い金属製の枠で、レンズもやや大きい。だが、眼鏡をかけた水野は、先ほどよりずっと元気そうに見えた。
「先生、眼鏡できたんですか?」
千尋が嬉しそうに駆け寄った。
「ううん。まだ仮の眼鏡なの」
水野は眼鏡を指で直しながら答えた。
「視力検査をしてもらったんだけど、私に合うレンズを作るには少し時間がかかるんですって」
「じゃあ、その眼鏡は?」
「用意してあったものの中から、度数の近い眼鏡を選んでもらったの。ぴったりじゃないけど、ないよりずっといいわ」
水野は兵舎の中を見回した。
「ああ、よかった。みんなの顔が見える!」
千尋が笑った。
「先生、さっきまで私の顔もよく見えてなかったんですか?」
「近くならわかったわよ。でも、少し離れるとぼんやりしてたの」
「そうだったんですね」
「それにね、これなら黒板も何とか読めるのよ」
水野は嬉しそうだった。
川崎が近づいてきた。
「水野ちゃん、その眼鏡似合ってるじゃん!」
「そう? でも、いつもの眼鏡の方がいいなあ」
「いや、そっちもいいですよ。何かちょっと大人っぽい」
その言葉に水野は頬を膨らませた。
「川崎君。先生は最初から大人です!」
周囲から笑い声が上がった。
リースも兵舎へ入ってきた。
「水野先生、具合はどうですか?」
「はい。ずいぶん楽になりました」
「よかったです。ただ、度数が完全に合っているわけではありませんから、目が疲れるようなら無理しないでくださいね」
「わかりました」
「正式な眼鏡は、レンズが出来上がり次第お渡しします。それまでは、その眼鏡を使ってください」
「ありがとうございます。本当に助かりました。ほかの子たちの分もよろしくお願いします」
「はい。順番に作っていきますから」
千尋が隣に並んだ。
「先生、これで一人でも歩けますね」
「もう、伊藤さんったら! 先生、そこまで頼りなくないでしょう?」
「どうでしょうね」
「伊藤さん!」
また笑い声が起こった。
高橋はその様子を眺めながら、少しだけ安心した。昨日までの水野香織が、ようやく戻ってきたような気がした。
隣の兵舎
夕食が終わると、生徒たちは就寝するため、隣の兵舎へ移動することになった。
外に出ると、雨上がりの空気は少し冷たかった。
遠くには低い山並みが見え、その手前には広い平地が続いている。施設の周囲には有刺鉄線の柵があり、ところどころに監視用の小さな建物が建っていた。兵士たちは相変わらず巡回していた。
高橋は空を見上げた。雲の間から夕焼けが見えた。日本の空と何も変わらないように見える。
「……変な感じだな」
「何が?」
川崎が尋ねた。
「空は普通なんだよな」
「……ああ。ほんとだな」
二人はしばらく黙って歩いた。
就寝用の兵舎は、説明を受けた建物のすぐ隣にあった。長い部屋に木製の寝台が何列も並び、それぞれに薄い敷布団と毛布、小さな枕が用意されている。壁際には棚があり、窓には木製の雨戸がついていた。
「うわ、合宿所みたいだな」
川崎が言った。
「ほんとだ」
高橋も頷いた。
「学校の林間学校を思い出すな」
井上が言う。山田は寝台に腰を下ろした。
「……硬い」
「そりゃ軍隊のベッドだからな。でも床で寝るよりはましだろ」
「まあな」
高橋も空いている寝台に腰を下ろした。木製の枠が少しきしむ。柔らかいベッドではないが、横になれる場所があるだけでもありがたかった。
石井が部屋の入口に立った。
「いいか。寝台は一人一つだ。勝手に場所を変えても構わんが、明日から人数確認をするから、自分の寝る場所は覚えておけ。それと今夜は消灯まで少し時間がある。質問がある奴は今のうちに聞いておけ」
木田と篠沢も部屋に入ってきた。二人とも軍服の上着を脱ぎ、少し楽な格好になっている。リースは女子区画の案内を終えたらしく、入口近くで高梨と話していた。
正式な説明会とは違い、今度はもっと気楽な雰囲気だった。生徒たちは寝台に腰を下ろし、思い思いに話し始めた。何人かは早くも横になっている。
高橋は川崎たちと並んで座り、先輩たちの話を聞いていた。
神代先輩
「なあ、先輩」
少し離れたところから声がした。
佐々木健だった。
篠沢遊馬が振り向く。
「ん? 俺?」
「そう。神代って知ってる?」
篠沢は少し考えた。
「神代……ああ、知ってるよ。同じ期だったから」
「マジで? 今どこにいるの?」
佐々木は身を乗り出した。
篠沢は一瞬黙った。そして静かに答えた。
「最初の戦場で撃たれた。即死だった」
佐々木の表情が止まった。
「……は?」
「戦死したんだよ。戦線に出て、最初の戦闘でね」
佐々木はしばらく何も言わなかった。
「……マジかよ」
神代は、佐々木が日本で慕っていた先輩だった。粗暴で喧嘩っ早く、学校でも有名な不良だった。佐々木にとっては悪仲間の兄貴分のような存在で、何かあると真っ先に頼っていた。
日本では高校二年の後半に中退してしまったが、その後も付き合いは続いていた。佐々木は当然、こちらでも元気にやっているものと思っていた。
「……あいつ、喧嘩強かったんだけどな」
篠沢は少しだけ苦笑した。
「銃で撃たれるのと、喧嘩は違うからね」
「……そうかよ」
佐々木はそれ以上何も言わなかった。隣の中村も黙っている。
篠沢は少し間を置いてから尋ねた。
「日本では、神代はどうしてたの?」
「……高校辞めた。二年の後半でな」
「そうなんだ。こっちに来なかった神代は、そういう人生を送ったんだね」
佐々木は顔を上げた。
「……そういうことになるのか」
「うん。日本にいる神代は今も生きてるんだろ?」
「……ああ」
「なら、そっちの神代はそっちの人生を生きてる。ここに来た神代は戦場で死んだ。それだけのことだよ」
佐々木は黙り込んだ。
高橋は少し離れたところから、そのやり取りを聞いていた。昨日まで自分から金を巻き上げていた佐々木が、今は何も言わず俯いている。
神代という人物のことはよく知らない。だが、佐々木にとって大切な先輩だったことだけはわかった。
そして、こちらの世界では人が死ぬことがあるのだと、改めて実感した。
広瀬先生
「……あの」
今度は水野香織が声をかけた。
木田が振り向いた。
「はい、先生?」
水野は少し迷ってから尋ねた。
「広瀬先生って、ご存じですか?」
木田はすぐに頷いた。
「ああ、知ってますよ」
「本当ですか! 広瀬先生もこちらにいらっしゃるんですね!」
「はい。以前、一緒に仕事をしたことがあります」
「よかった……」
水野はほっとしたように笑った。
広瀬は学校の学年主任だった。前年に転勤してきた教師で、新任の水野にとっては最も頼りにしていた先輩だった。授業の進め方から生徒との接し方、保護者への対応まで、わからないことがあるたびに相談に乗ってくれた。
「広瀬先生、今どこにいらっしゃるんですか?」
木田は少し表情を変えた。
「ああ……」
そこで一度、言葉を切った。
「三か月ほど前に亡くなりました」
水野の笑顔が止まった。
「……え?」
「戦場で野砲の破片を受けたんです。砲撃があって、そのときに被弾したそうです」
「……亡くなったんですか?」
「はい」
水野はしばらく黙っていた。
「……そう、ですか」
木田はそれ以上何も言わなかった。
水野はゆっくりと椅子に腰を下ろした。
今朝まで広瀬は学校にいた。いつものように職員室で仕事をしていたはずだ。夏休み前の行事についても、昨日いろいろと指示を受けていた。
その広瀬が、こちらの世界では三か月前に亡くなっている。
頭では理解できる。日本にいる広瀬と、こちらに来た広瀬は別の人生を生きている。篠沢がそう説明してくれた。
だが、親しい人の死を聞かされると、簡単には割り切れなかった。
「先生……」
千尋が小さく声をかけた。
水野は顔を上げ、仮の眼鏡の位置を直した。
「あ、ごめんね。大丈夫よ」
無理に笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「広瀬先生、私が学校に来たときからずっと面倒を見てくれていたの。何にもわからない新任教師だったから、失敗ばっかりでね。そのたびに助けてもらって……」
水野は少し笑った。
「昨日も、夏休み明けの授業のことで相談してたのよ」
「……そうだったんですね」
木田が口を開いた。
「先生、日本にいる広瀬先生は今も元気なんですよね?」
水野は頷いた。
「はい」
「なら、それでいいんじゃないですか。こっちの広瀬先生は亡くなりました。でも日本にいる広瀬先生は、今も先生の面倒を見てくれてるんでしょう?」
「……そうですね」
「俺たちも最初は変な感じでしたよ。こっちで死んだ奴が、日本では普通に学校へ行ってるって聞かされるんですから。でも、そういう世界なんですよ。ここは」
水野はしばらく考え、小さく頷いた。
「……そうですね」
その声には、まだ少し寂しさが残っていた。
姉の消息
しばらくすると、伊藤千尋が石井に声をかけた。
「あの、石井軍曹。質問してもいいですか?」
「おう。何だ?」
「伊藤和江という人をご存じですか?」
石井はすぐに顔を上げた。
「伊藤和江?」
「はい」
「知ってるぞ。第十七期の伊藤和江だろ?」
千尋の顔が明るくなった。
「そうです! 私の姉なんです!」
「姉さんか!」
石井は少し驚いたように笑った。
「そうか。妹がいたんだな。和江からは聞いたことがなかったよ」
「姉は元気ですか?」
「ああ、元気だぞ。第3歩兵中隊の上等兵だ」
「よかった……」
千尋はほっと息を吐いた。それから少し遠慮がちに尋ねた。
「今も戦場にいるんですか?」
「いや、今は軍務から一時的に離れている」
「……え? 怪我でもしたんですか?」
「いやいや、違う。そうじゃない」
石井は軽く手を振った。
「二か月ほど前に連隊が戦線から帰還したんだが、その後で妊娠していることがわかったんだよ」
「……妊娠?」
千尋は目を丸くした。
「姉がですか!?」
「ああ」
「えっ、ちょっと待ってください。姉が妊娠してるんですか?」
「そうだよ。今は身体のことを考えて、軍務を休んでいるんだ」
千尋は口を開いたまま固まった。
日本にいる姉は、まだ高校を卒業して間もない年齢だった。恋人がいたことは知っているが、妊娠しているなどという話は聞いたことがなかった。
「……姉が、お母さんになるんですか」
「そういうことだな。体調は落ち着いているそうだ。俺も最近は会っていないが、元気にしてると聞いている」
千尋はしばらく考え込み、ふと思い出したように顔を上げた。
「あの……相手は誰なんでしょうか?」
「父親か?」
「はい」
石井は少し考えた。
「確か、南井だったと記憶してるな」
「……南井?」
千尋は思わず聞き返した。
「南井先輩ですか?」
「ん? 知ってるのか?」
「はい! 姉が中学生の頃から付き合っていた人です!」
千尋の声が少し大きくなった。
「でも……」
そこで言葉を切った。
「どうした?」
石井が尋ねる。
「日本では、別れたはずなんです」
「別れた?」
「はい。姉が高校一年生の冬に、南井先輩とは別れたって言ってました」
千尋は当時のことを思い出していた。
姉の和江と南井は、中学生の頃から付き合っていた。南井は家へ遊びに来たこともあり、千尋にも気さくに話しかけてくれた。二人は仲がよく、千尋もずっと付き合っていくものと思っていた。
ところが、姉が高校一年生の冬になった頃、突然別れたと聞かされた。理由は詳しく教えてもらえなかったが、和江がしばらく元気をなくしていたことは覚えている。
「……そうか」
石井は納得したように頷いた。
「日本ではそうなったんだな。でも、こっちでは付き合いが続いていたみたいだぞ」
「……そうなんですか」
千尋は小さく呟いた。
日本では、高校一年生の冬に別れた二人。しかし、こちらの世界に来たのは、その前の夏だった。同じ記憶を持っていたはずの二人が、それぞれ別の人生を歩み始めた。
日本では別れた恋人同士が、帝国では交際を続けていた。そして、子供まで授かった。
「……じゃあ、南井先輩もこの連隊にいるんですね?」
千尋が尋ねた。
石井の表情が変わった。それまでの穏やかな顔から笑みが消えた。
「ああ……南井は、もういないんだ」
「……え?」
千尋は顔を上げた。石井は少し間を置いてから答えた。
「三か月前、魔族の大規模な攻勢があってな。その戦闘で戦死した」
「……戦死?」
「ああ。南井もそのとき戦線にいたんだ。残念だが、帰ってこなかった」
千尋は言葉を失った。
つい先ほどまで、姉が妊娠していることに驚いていた。まさか、その子供の父親がすでに亡くなっているとは思わなかった。
「……南井先輩が、死んだんですか?」
「そうだ」
石井は短く答えた。
千尋は俯いた。中学生の頃、姉と一緒に家へ遊びに来ていた南井の顔が浮かんだ。日本では姉と別れた後も、普通に学校へ通っていたはずだ。
その南井が、こちらでは戦死している。
「……姉は、知っているんですよね?」
「もちろんだ。同じ連隊にいたからな」
「そうですか……」
千尋はしばらく黙っていた。石井も急かさなかった。
近くでは別の生徒たちが先輩の消息を尋ね、時折笑い声も聞こえてくる。だが千尋には、その声が遠く感じられた。
やがてゆっくりと顔を上げた。
「石井軍曹」
「ん?」
「姉には、会えますか?」
石井はすぐに頷いた。
「ああ、もちろんだ。同じベルノ連隊だからな。今は戦線にも行っていないし、落ち着いたら会えるように手配するよ」
「……ありがとうございます」
千尋は深く頭を下げた。
「そんなにかしこまるな。和江も妹が来たと知ったら驚くだろうな」
「……そうですね」
千尋も小さく笑った。そして、もう一度尋ねた。
「姉は……元気なんですよね?」
「ああ。身体の方は心配しなくていいと聞いている。ただ、南井のこともあったからな。いろいろ大変だったとは思う」
「……はい」
「でも、お前が来たことを知れば、きっと喜ぶよ」
千尋は少しだけ表情を和らげた。
「私も、早く姉に会いたいです」
その様子を見ていた水野が、そっと声をかけた。
「伊藤さん、よかったわね。お姉さんが元気で」
「はい。でも、何だか変な気分です」
「そうね……」
「日本では南井先輩と別れた姉が、こちらではずっと付き合っていて、子供までできて……。なのに南井先輩はもう亡くなっているんですね」
水野は静かに頷いた。
「……本当に、別の人生なのね」
「はい」
日本にいる姉には、これから別の恋人ができるかもしれない。結婚して、子供を持つかもしれない。けれども帝国にいる姉は、南井との子供を身ごもっている。
どちらも同じ伊藤和江だったはずなのに、もうまったく違う人生になっている。
千尋は、先ほど篠沢が話していたことを思い出した。
日本にいる自分とは、もう別の人生を生きている。
その言葉の意味が、ようやく少しわかった気がした。
石井は立ち上がりながら言った。
「まあ、今夜はゆっくり休め。姉さんの件は俺から話を通しておく」
「はい。よろしくお願いします」
石井は軽く手を振り、別の生徒たちのところへ歩いていった。
千尋はその背中を見送ったあと、静かに椅子へ腰を下ろした。水野が隣に座る。
「先生」
「なあに?」
「……早く姉に会いたいです」
「うん。会えるといいわね」
千尋は小さく微笑んだ。
「はい」
生きている者と、死んだ者
それからも、先輩たちへの質問は続いた。
日本で知っている人の名前を挙げる生徒もいれば、学校の先生の消息を尋ねる者もいた。
「先輩、去年の生徒会にいた人たちは?」
「ああ、何人かは知ってるよ。今度会えるかもしれないな」
「前に学校にいた先生は?」
「ちょっと待ってくれ。その名前なら聞いたことがあるぞ」
「その人、今はどこにいるんですか?」
「確か補給の方だったと思うけどな。明日確認しておくよ」
そんな会話が、兵舎のあちこちで交わされていた。
生きている人。亡くなった人。別の部隊にいる人。家庭を持った人。子供が生まれた人。軍務中に負傷して、今は後方で働いている人。
日本ではまだ高校生だった人々が、こちらでは何年も別の人生を送っていた。
高橋はその話を聞きながら、何とも言えない気持ちになっていた。
さっきまで、異世界という言葉にはどこか現実味がなかった。魔族の写真を見て驚き、エルフの美しさに感心し、千年戦争という話にただ呆然とした。
だが今聞いているのは、もっと身近な話だった。
日本にいた先輩たちの消息。学校の先生の死。姉の妊娠。そして、その子供の父親の戦死。
それらはすべて、今の自分たちにも起こり得ることだった。
この世界では、別の人生が始まる。そして、その人生には当然、死もある。
高橋は自分の手を見下ろした。今朝までは普通の高校生だった。明日から夏休みだった。そのはずだった。
それが今では、軍隊の兵舎にいる。
何年後かには、自分も誰かから消息を尋ねられるのだろうか。あるいは、そのときにはもう、この世にいないのだろうか。
そんなことを考えていると、隣から川崎が声をかけてきた。
「……高橋」
「何?」
「何か、すげえ世界だな」
「うん」
「さっきまで、ちょっと面白そうだと思ってたんだけどさ」
「……うん」
「やっぱ、怖えな」
川崎は苦笑した。
高橋も小さく笑った。
「俺も」
二人はしばらく黙っていた。その横で井上は寝台に横になり、天井を見上げている。山田も珍しく静かだった。普段ならエルフだの異世界だのと騒ぎ続けているはずだが、今夜はもうそんな元気も残っていないらしい。
異世界の最初の夜
やがて石井が立ち上がった。
「よし、そろそろ消灯だ!」
兵舎のあちこちで寝台のきしむ音がした。
「明日は朝からいろいろある。今日はもう休め」
「はい!」
何人かが返事をした。
木田と篠沢も立ち上がり、生徒たちに声をかけながら部屋を出ていった。リースは女子区画へ戻り、高梨も最後の確認をしている。
石井は入口で振り返った。
「いいか。夜中に具合が悪くなった奴は、当直の兵士に言え。言葉が通じないときは、俺たちを呼んでもらえればいい」
「わかりました」
千尋が代表して答えた。
石井は頷いた。
「それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい!」
生徒たちの声が重なった。
やがて天井の電灯が消された。
部屋の中が暗くなる。窓の外には、わずかな月明かりが見えていた。
高橋は寝台に横になり、毛布を胸元まで引き上げた。硬い寝台だった。枕も小さく、敷布団は薄い。それでも、朝からの疲れが一気に押し寄せてきた。
少し離れたところでは誰かが小声で話している。時折、すすり泣く声も聞こえた。
高橋は目を閉じた。
日本にいる家族のことを考えた。
母親。父親。五歳年下の妹。
今頃、家では何をしているのだろう。たぶん、いつもどおり夕食を食べ、テレビを見て、明日からの夏休みの話でもしているのだろう。
そこには、もう一人の自分もいるはずだった。
それなら家族は心配していない。日本にいる自分は普通に生活している。それは確かに救いだった。
だが、ここにいる自分はもう帰れない。家族に会うこともできない。その事実は何も変わらなかった。
高橋は毛布を少し強く握った。
不意に昨日のことを思い出した。教室で山田や井上と夏休みの話をしていたこと。水野が数学の授業をしていたこと。佐々木に二千円を巻き上げられたこと。
全部、つい昨日の出来事だった。
それなのに、今では遠い昔のことのように感じられた。
高橋はゆっくりと息を吐いた。
外では、また雨が降り始めていた。屋根を叩く小さな雨音が、静かな兵舎に響いている。
その音を聞きながら、高橋亘一はいつの間にか眠りに落ちていた。
帝国歴231年7月。
第20期召喚者たちの、異世界での最初の夜だった。
第一章 了