三月に入ってから、ベルノ連隊の砲兵中隊は、以前にも増して頻繁に砲撃を行うようになっていた。
浸透偵察小隊による偵察で、魔族の主陣地の位置が少しずつ明らかになってきたためである。
これまで撃ち返したくても目標がわからなかったベルノ連隊だったが、今では確認された敵陣地へ砲弾を送り込めるようになっていた。
しかし、肝心の敵砲兵の位置は依然として不明だった。
魔族の野砲は、森林と起伏を利用して巧妙に隠されていた。発射音からおおよその方向は推測できても、正確な位置まではつかめない。
連隊司令部では、敵主陣地の背後に偵察兵を送り込む作戦が進められていた。
* * *
連隊司令部近くの森林内に設けられた、浸透偵察小隊本部の天幕。
ヴァルター少佐が机の上に地図を広げていた。
集まっているのは、エレナ、フリーダ、ゲルフ、ローラ、モリス、イルムの六人だった。
「さて、いよいよ敵さんの裏庭を覗きに行くぞ」
ヴァルターはそう言って、地図を指で叩いた。
「入り込むのはエレナ、フリーダ、ゲルフの三班。残りの三班には砲兵の目になってもらう」
「今度は私たちが見送る側ね」
ローラがエレナを見た。
「そうなるわね。砲撃、頼んだわよ」
「任せておきなさい」
ヴァルターは二人のやり取りを聞きながら、地図に目を戻した。
「ローラはエレナと途中まで一緒だ。モリスとイルムは、それぞれ予定の観測地点に入れ。砲撃は夕方からだ。まだ明るいうちに弾着を確認して、必要なら修正してくれ」
三人がうなずいた。
「砲兵の連中は、ここ数日でずいぶん仕事をしてくれた。主な目標はもう射撃諸元が揃っている。今日もそこを中心に撃つ」
ヴァルターは地図上の三か所を順に指した。
「日が暮れれば弾着も見えなくなる。暗くなってから無理に修正する必要はない。あとは決められた場所へ撃ってもらう」
「了解しました」
ローラが答えた。
「敵の見張りが砲撃に気を取られたところで、三班はそれぞれの場所から入り込め。だが、砲撃が始まったからといって、慌てて飛び出すんじゃないぞ」
「わかってますよ、少佐」
ゲルフが答えた。
「お前たちには今さら言うまでもないか」
ヴァルターは笑った。
「それと、敵の野砲についてだ」
少佐は地図の東側を指した。
「これまでの砲撃の間隔や、一度に落ちてくる砲弾の数から、うちの陣地を狙っている野砲は四門から六門程度だと見ている」
「四門から六門ですか」
ゲルフが聞き返した。
「ああ。ただし、あくまで推測だ。どこに何門あるのかもわからんし、一か所にまとまっているとも限らん」
フリーダがうなずいた。
「複数の陣地に分かれている可能性もありますね」
「そういうことだ。だから三班を別々の場所から入れる。敵さんの後ろを、できるだけ広く調べてこい」
エレナが地図を見ながら尋ねた。
「少佐、敵の野砲が見つかったら、遠慮なく撃ってもらえるんですよね?」
「ああ。せっかく無線機まで持たせるんだ。場所がわかったら知らせてこい。砲兵中隊には話を通してある」
「砲弾は惜しまない、と?」
「そいつは砲兵中隊長に聞いてくれ。俺の懐から出すわけじゃないからな」
ローラが吹き出した。
「少佐、それじゃあ私たちが遠慮しなくなりますよ」
「構わんさ。敵の野砲に撃たれ続けるより、よっぽどいい」
ヴァルターは六人を見回した。
「ただし、位置もはっきりしないうちから撃たせるなよ。見つけたらまず確かめろ。敵の真後ろにいることを忘れるな」
エレナがうなずいた。
「了解しました」
「まあ、野砲が見つからなくても構わん。敵の後ろがどうなってるか、少しでもわかれば上出来だ」
ヴァルターは少し間を置いた。
「だが、欲張るなよ。あまり奥まで行って、帰り道がなくなったなんてのは御免だからな」
「了解しました」
「それじゃあ、準備にかかれ。出発までに飯は食っておけよ」
ヴァルターは地図を畳み始めた。
「帰ってきたら、何を見てきたか聞かせてもらおう」
「少佐、土産は期待しないでくださいね」
フリーダが言った。
「馬鹿者。土産なんぞいらん。お前らが戻ってくりゃ、それで十分だ」
六人は笑いながら天幕を出ていった。
* * *
午後。
エレナ班とローラ班の八人は、魔族の主陣地へ向かって森林の中を進んでいた。
まだ敵の警戒区域までは距離があり、隊員たちは周囲に気を配りながらも、小声で言葉を交わしていた。
三月に入ったとはいえ、森林の中は冷える。
日陰にはまだ雪が残り、日の当たる場所では融けた雪が木の根元を濡らしていた。
「まったく、いつになったら暖かくなるのかしら」
ローラが小さくぼやいた。
「もう三月よ。少しは春らしくなってもいいと思わない?」
「そうね。でも、私は夏の方が嫌いだわ」
エレナが答えた。
「あら、どうして?」
「虫が多いでしょう。あれが苦手なのよ」
「それはわかるわ。顔の周りを飛び回られると嫌よねえ」
二人の会話を聞いていたミレーナが口を挟んだ。
「私は雨の方が嫌です。装備が濡れるし、服も乾かないし」
「それも嫌ねえ」
ローラはうなずいた。
「結局、偵察にちょうどいい季節なんてないのかしら」
「あるわよ。休暇中」
エレナがさらりと答えた。
ローラが笑い出した。
「それ、偵察じゃないじゃない!」
後ろを歩いていた高橋も、思わず笑った。
「高橋はどう?」
ローラが振り向いた。
「え?」
「日本の冬と、こっちの冬。どっちが寒い?」
「うーん。場所によると思いますけど……こっちの方が寒い気がします」
「日本も雪が降るんでしょう?」
「降りますよ。でも、僕の住んでいたところは、こんなに長く雪が残ることはなかったです」
「そうなんだ」
ローラは少し興味深そうにうなずいた。
「日本ってところに行けるものなら行ってみたいわ」
「僕も、帰れるなら帰りたいですよ」
高橋がそう言うと、ローラはちらりとエレナを見た。
「でも、今の高橋には、こっちにも帰りたくなる場所があるんじゃない?」
「え?」
高橋は一瞬、意味がわからなかった。
エレナが苦笑した。
「ローラ、またその話?」
「あら、別に変なこと言ってないわよ」
「ええ、そうね」
エレナはそれ以上取り合わなかった。
その後ろで、アルノーが背負っていたバッテリーの位置を直した。
「……しかし、重いな、これ」
ミレーナが振り返った。
「さっきは大丈夫って言ってたじゃない」
「大丈夫だ。重いと言っただけだろう」
「じゃあ、まだ持てるわね」
「代わってくれるつもりはないんだな」
「私だって無線機を持ってるのよ」
ミレーナは自分の背中を示した。
「アルノー、落とさないでよ。あのバッテリー、予備がないんだから」
「わかってる。お前も無線機をぶつけるなよ」
「私がそんなことするわけないでしょう」
「さっき木にぶつけそうになってたぞ」
「なってないわよ!」
「二人とも、仲がいいわねえ」
ローラが笑った。
「どこがですか!」
ミレーナが即座に返した。
高橋は笑いをこらえながら、ぬかるんだ地面を避けた。
しばらく歩くと、ローラがふと思い出したように声をかけた。
「そういえば高橋。前に一緒に狙撃に行ったときは、ずいぶん緊張してたわよね」
「……あのときは初めてでしたから」
「そうよねえ。撃った後なんて、手が震えてたもの」
「よく覚えてますね」
「そりゃ覚えてるわよ。初めて魔族を撃ったんでしょう?」
高橋は小さくうなずいた。
「はい」
あのとき狙った魔族兵は、六百メートルほど離れた場所にいた。
照準器の中では小さな姿だったのに、引き金を引いた瞬間のことは、今でも鮮明に覚えている。
ローラは少し笑った。
「でも、あれからずいぶん慣れたんじゃない?」
「どうでしょう。今でも緊張しますよ」
「その方がいいわ。怖いもの知らずになられたら、こっちが困るもの」
エレナもうなずいた。
「そうね。高橋は今ぐらいでいいと思うわ」
「そうですか?」
「ええ。慎重なのは悪いことじゃないもの」
「そういうところはエレナと似てるな」
アルノーが横から口を挟んだ。
「似てるかしら?」
エレナが振り返った。
「似てるさ。二人とも、気になることがあると、納得するまで確かめたがる」
「それは必要なことよ」
「ほら、そういうところだ」
ローラが笑った。
「でも、慎重な人間が二人いるのはいいことじゃない。少なくとも、無茶をして仕事を増やされるよりはね」
「そのとおりよ」
エレナが満足そうに答えた。
「急いで死ぬ必要なんてないんだから」
「……そうだな」
アルノーも笑いながらうなずいた。
* * *
夕方が近づくにつれ、森林の中の光は少しずつ弱くなっていった。
やがて、ローラが手を上げた。
八人は足を止めた。
「……そろそろね」
それまでの明るい表情が消え、ローラの目つきが変わった。
前方には、低い尾根が横たわっていた。
木々の向こうには、魔族の主陣地がある。
「あの高地よ。覚えてるでしょう?」
ローラがエレナに尋ねた。
「ええ」
エレナは小さくうなずいた。
「予定どおりね」
「それじゃ、私たちはここから上がるわ」
ローラが尾根の方を指した。
エレナはその先を見つめた。
「私たちは沢の方へ回るわね」
「わかった」
ローラは短く答えると、高橋に顔を向けた。
「高橋」
「はい」
「今夕は私たちが後ろから見張ってるから、安心して行ってきなさい」
「……無茶を言いますね」
高橋が答えると、ローラが笑った。
「あはは! 言うようになったわね!」
「ローラ、砲撃の方もよろしくね」
エレナが言った。
「任せなさい。まだ明るいうちに、しっかり観測しておくわ」
「頼りにしてるわ」
「ただし、魔族がどう動くかまでは保証できないわよ」
「それは私たちで確かめるわ」
エレナは笑った。
二人は短く手を握った。
「気をつけてね」
「ローラも」
それ以上、言葉を交わす必要はなかった。
ローラは手を離すと、自分の班員たちに合図した。
ローラ班の四人が、静かに尾根の斜面へ向かっていく。
その後ろ姿を見送ってから、エレナは三人を振り返った。
「さて、私たちも行きましょう」
「了解」
アルノーが答えた。
ミレーナは無線機の肩紐を締め直した。
高橋も小銃を持ち直した。
四人は森林の奥へ進み始めた。
ここから先は、もう雑談をする場所ではなかった。
* * *
エレナ班は、さらに森林の奥へ進んだ。
しばらくすると、前方の木々の間に、低い土の盛り上がりが見えてきた。
魔族の塹壕だった。
エレナが手を上げた。
四人は一斉に身を伏せた。
高橋は双眼鏡を取り出した。
まだ完全には暗くなっていない。
西の空には夕暮れの明るさが残り、木々の間から敵陣地の輪郭を確かめることができた。
右側の塹壕には二体の魔族兵がいた。
一体が銃を持って立ち、もう一体は少し後ろで何かをしている。
「……右側に二体います」
高橋がささやいた。
「ええ。私も見ているわ」
エレナは左側の斜面を指した。
「あちらにも塹壕があるわ」
アルノーが沢の方を観察した。
「……思ったより狭いな」
「通れそう?」
「通れる。ただ、見つかったら厄介だ」
「そうね」
エレナは双眼鏡を下ろした。
「しばらく様子を見ましょう。砲撃まで、まだ少し時間があるわ」
四人は倒木の陰に身を伏せた。
高橋は再び双眼鏡を覗いた。
右側の見張りは、時折塹壕の奥を振り返りながら、前方を監視している。
その動きをしばらく追っていると、高橋は少し気になることに気づいた。
見張りは前方を見ているが、沢の方にはほとんど顔を向けていなかった。
「……エレナさん」
「何?」
「あの右側の見張り、沢の方をほとんど見ていないんです」
エレナは双眼鏡を構え直した。
「どれ?」
「さっきから正面と右ばかりです。左側には、ほとんど顔を向けていません」
エレナはしばらく見張りの動きを観察した。
「……確かにそうね」
彼女は今度は左側の塹壕へ双眼鏡を向けた。
「でも、沢の向こうには別の陣地があるわ。そちらの見張りに任せているのかもしれない」
「そうですね」
「よく気づいたわね。ただ、右側が見ていないからといって、沢が安全とは限らないわ」
エレナは地形を確かめるように、ゆっくりと双眼鏡を動かした。
左側の塹壕には、一体の魔族兵が立っていた。
こちらも時折、身体をかがめては、再び土塁の上に顔を出している。
「……左側にもいますね」
高橋が言った。
「ええ。あちらが問題ね」
エレナは双眼鏡を下ろした。
「砲撃が始まって、あの見張りがどう動くか見てから決めましょう」
高橋はうなずいた。
以前なら、右側の見張りが沢を見ていないことに気づいただけで、安全な通路を見つけたと思ったかもしれない。
だが、エレナはそれだけでは判断しなかった。
敵が見ていない場所と、敵から見えない場所は違う。
高橋はそのことを頭に入れ、再び塹壕へ目を向けた。
* * *
やがて、遠くから砲声が響き始めた。
ドォン……。
続いて、もう一発。
ドォン!
高橋は腕時計を確認した。
予定の時刻だった。
「……始まったわね」
エレナがつぶやいた。
しばらくして、魔族陣地の奥で砲弾が炸裂した。
ドガァン!
木々の間から土煙が立ち上った。
さらに数発の砲弾が着弾する。
ベルノ連隊の百二十ミリ榴弾砲による支援砲撃だった。
砲弾は、これまでの偵察で位置を確認していた魔族の陣地へ撃ち込まれていた。
エレナは双眼鏡を構え、塹壕に残っている魔族兵の動きを見つめていた。
ローラ班も今ごろは、尾根の観測地点から弾着を確認しているはずだった。
「……右側の見張りが動きました」
高橋がささやいた。
魔族兵の一体が、砲撃の方向を振り返った。
少し後ろにいた魔族兵も何かを叫んでいる。
やがて一体が塹壕の中へ消えた。
もう一体は残っていた。
「……あいつ、しぶといな」
アルノーが小さくつぶやいた。
「ええ。まだ動かないわ」
エレナは時計を確認した。
次の砲声が響いた。
ドォン!
数秒後、敵陣地の奥で砲弾が炸裂した。
ドガァン!
砲弾の落ちた場所から、再び土煙が立ち上がった。
高橋は敵の見張りを観察し続けた。
右側の魔族兵は、しばらく塹壕の外を見ていたが、やがて身を低くした。
「……右側、見張りが引っ込みました」
「ええ」
エレナは左側の塹壕へ視線を移した。
「でも、まだあちらが残っているわ」
左側の魔族兵は動いていなかった。
砲撃が始まっても、その場を離れようとしない。
しばらくすると、別の魔族兵が塹壕の奥から現れた。
二体は何かを話し始めた。
「……増えましたね」
高橋が言った。
「ええ。交代かもしれないわね」
エレナは動かなかった。
二体の魔族兵は短く言葉を交わすと、一体が塹壕の奥へ戻っていった。
残った一体は、再び周囲を監視し始めた。
「……まだいます」
高橋が報告した。
「そうね」
エレナは小さくうなずいた。
「焦る必要はないわ。もう少し待ちましょう」
砲撃は続いていた。
西の空は次第に暗くなり、森林の中には夕闇が広がっていった。
高橋は双眼鏡を覗いたまま、魔族兵の姿を追った。
しかし、徐々に輪郭が見えにくくなってきた。
「……暗くなってきましたね」
「ええ。もうすぐ見張りの動きも見えなくなるわ」
エレナが答えた。
そのとき、また砲弾が炸裂した。
ドガァン!
左側の見張りが振り返った。
何かを叫び、塹壕の奥へ姿を消した。
「……引っ込みました」
高橋がささやいた。
エレナはすぐには答えなかった。
双眼鏡を構えたまま、しばらく左側の塹壕を観察していた。
やがて、静かに言った。
「……まだ待つわ」
高橋はエレナを見た。
「はい」
「見えなくなっただけかもしれないでしょう?」
「……そうですね」
高橋は再び双眼鏡を向けた。
塹壕の中は暗く、もう魔族兵の姿は見えなかった。
エレナは左右の陣地を何度も見比べていた。
高橋は、彼女が何を確かめているのかを考えた。
見張りの姿が消えたことだけではない。
ほかの兵が出てこないか。
銃口が土塁の上に現れないか。
あるいは、沢の方を監視する動きがないか。
エレナは、見えなくなった敵がどこにいるのかを考えているのだ。
高橋も双眼鏡を覗き直した。
左側の塹壕を見つめていると、土塁の上に一瞬、細い影が現れた。
すぐに引っ込んだが、確かに何かが動いた。
「……エレナさん」
「何?」
「左側、今、何か出ました。銃の先かもしれません」
エレナはすぐに双眼鏡を向けた。
「どこ?」
「あの倒れた木の右側です」
エレナはしばらく観察した。
だが、もう何も見えなかった。
「……そう。そこね」
彼女は高橋が示した場所を見つめたまま言った。
「見張りが完全に退避したわけではなさそうね」
「はい」
「もう少しだけ待ちましょう」
高橋はうなずいた。
薄暗い森林の中で、四人は身を伏せたまま動かなかった。
砲撃の音だけが、断続的に響いていた。
* * *
さらに時間が過ぎた。
西の空にわずかに残っていた明るさも、ほとんど消えかけていた。
魔族の塹壕は、暗い土の盛り上がりにしか見えなくなっていた。
時折、砲弾が炸裂するたびに周囲が一瞬だけ明るくなる。
しかし、それだけで見張りの位置を確かめることは難しかった。
高橋は双眼鏡を下ろした。
「……もう、ほとんど見えません」
「そうね」
エレナも双眼鏡を下ろした。
しばらく耳を澄ませていたが、敵の塹壕からは先ほどまでのような物音は聞こえなかった。
アルノーが沢の方を見た。
「……今なら行けそうだな」
「ええ」
エレナは左右の陣地を最後にもう一度確認した。
「行きましょう。ただし、少しでもおかしいと思ったら止まって」
三人がうなずいた。
四人は静かに動き始めた。
エレナが先頭に立ち、倒木の陰から沢へ向かって進む。
高橋がその後ろを追った。
ミレーナとアルノーも続いた。
沢に近づくにつれ、地面の傾斜が急になった。
落ち葉の下には石があり、ところどころに薄い氷が張っている。
エレナは足元を確かめながら斜面を下った。
高橋も慎重に足を運んだ。
背負った装具が枝に触れないよう、身体を少し横にする。
沢底に着くと、エレナが手を上げた。
四人はその場にしゃがみ込んだ。
右側には魔族の塹壕があった。
距離は数十メートルほどしかない。
高橋は見上げたくなるのを我慢した。
顔を上げたところで、塹壕の中まで見えるわけではない。それよりも、自分の姿を見つけられる方が怖かった。
エレナが小さく手を振った。
四人は沢の底を進み始めた。
水はほとんど流れていなかったが、石の間には薄い氷が残っていた。
高橋は足を置く場所を慎重に選んだ。
前方でエレナが立ち止まる。
すぐに高橋も動きを止めた。
右側の塹壕から、魔族兵の声が聞こえた。
一体が何かを叫んでいる。
少し離れた場所から、別の声が返ってきた。
エレナが手を下げた。
四人はその場に伏せる。
高橋の頬に、冷たい土が触れた。
塹壕の中を歩く足音が聞こえてきた。
一歩、また一歩。
高橋は息を殺した。
すぐ後ろでは、ミレーナが無線機を背負ったまま身体を伏せている。
アルノーはバッテリーを下ろすこともできず、肩に背負ったまま動きを止めていた。
足音が近づいた。
高橋は反射的に小銃を握り直した。
そのとき、アルノーが高橋の肩にそっと触れた。
高橋は横目で彼を見る。
アルノーは何も言わず、小さく首を振った。
高橋は銃を構えるのをやめた。
今ここで一発でも撃てば、敵陣地全体に侵入を知られてしまう。
四人は動かなかった。
頭上の足音が止まった。
魔族兵が何かを話している。
高橋には、すぐそばで敵がこちらを見下ろしているように思えた。
心臓の鼓動が大きくなる。
そのときだった。
ドガァン!
敵陣地の奥で砲弾が炸裂した。
地面がわずかに揺れた。
頭上から怒鳴り声が聞こえ、足音が遠ざかっていく。
エレナはすぐには動かなかった。
しばらく待ってから、ゆっくりと手を振った。
四人は再び移動を始めた。
右側の塹壕を通り過ぎる。
高橋は、土塁の輪郭が少しずつ後方へ遠ざかっていくのを感じていた。
しかし、まだ左側にも敵陣地があった。
沢は途中から狭くなり、両側の斜面が迫ってくる。
エレナが立ち止まった。
前方には、倒れた木が沢を横切るように横たわっていた。
太い幹ではなかったが、装備を背負ったままでは通りにくそうだった。
エレナは木の下を覗き込んだ。
それから身体を伏せ、ゆっくりとくぐり抜けた。
高橋も後に続いた。
装具が木の幹に触れないよう注意しながら、腹ばいになって進む。
向こう側へ抜けると、エレナが手を貸してくれた。
続いてミレーナが近づいてきた。
無線機の入った荷物が枝に引っかかりそうになる。
アルノーがすぐに手を伸ばした。
「……待て」
ミレーナが動きを止める。
アルノーは枝を押さえ、肩紐を静かに外した。
ミレーナが身体を少し戻す。
枝が音もなく元の位置へ戻った。
「……ありがとう」
ミレーナが口の動きだけで礼を言った。
アルノーはうなずき、自分も木の下をくぐり抜けた。
四人が揃ったところで、エレナは再び前進を始めた。
左側の塹壕も、もうすぐそこだった。
砲撃はまだ続いている。
しかし、高橋には先ほどより爆発音が遠く感じられた。
その代わり、すぐそばにある敵陣地の物音が気になって仕方がなかった。
誰かが咳をした。
別の魔族兵が何かを言った。
木材を踏むような音も聞こえた。
高橋は一歩ずつ慎重に進んだ。
エレナが立ち止まるたびに、同じように動きを止めた。
途中で、左側の斜面から小石が転がり落ちる音がした。
高橋は足を止めた。
すぐ前のエレナも動きを止めていた。
二人はほとんど同時に、斜面の上へ目を向けた。
何も見えなかった。
だが、しばらくすると、塹壕の方からかすかな足音が聞こえてきた。
エレナは振り返り、高橋に小さくうなずいた。
高橋もうなずき返した。
四人はその場でじっと待った。
やがて足音が遠ざかり、再び静かになった。
エレナが手を振った。
四人は移動を再開した。
やがて沢は緩やかに左へ曲がり、再び森林の中へ入り込んでいった。
エレナが手を上げた。
四人は身を伏せた。
彼女は来た道をしばらく観察していた。
右側の塹壕は、もう木々の向こうへ隠れている。
左側の陣地も、少し後方になっていた。
追ってくる足音は聞こえない。
「……抜けたわね」
エレナが小さく言った。
高橋はゆっくりと振り返った。
魔族の主陣地は、自分たちの背後にあった。
「……本当に通れたんですね」
思わず声が漏れた。
アルノーが小さく笑った。
「まだ帰りがあるぞ」
「……そうでした」
「そうよ。喜ぶのは戻ってからにしましょう」
ミレーナも小声で言った。
エレナは三人の顔を見た。
「ここから先は敵の後方よ。気を抜かないで」
四人は再び歩き始めた。
背後では、まだベルノ連隊の砲声が続いていた。
エレナ班は魔族の主陣地を後にし、暗い森林の奥へと姿を消していった。