魔族の主陣地を突破したエレナ班は、夜の森林を東へ進んでいた。
背後では、まだベルノ連隊の砲声が断続的に響いている。先ほどまであれほど近くに聞こえていた魔族兵の声は、もう聞こえなくなっていた。しかし、四人の足取りは決して速くなかった。
三月に入ったとはいえ、森林にはまだ雪が残っている。
木々の下では地面が露出している場所もあったが、少し開けた場所に出れば、一面が雪に覆われていた。日当たりのよい斜面では雪解けが進み、逆に日の当たらない北向きの斜面には、かなりの雪が残っている。
エレナは雪の少ない場所を選び、木の根元や岩の上、落ち葉の積もった地面をたどりながら進んでいた。
できるだけ足跡を残さないためだった。
雪の上に四人分の新しい足跡を残せば、敵に発見される危険がある。しかも、その足跡を追われれば、自分たちの進んだ方向まで知られてしまう。
だからといって、雪を完全に避けられるわけではない。
雪の下には折れた枝や石が隠れており、凍った地面は滑りやすい。暗闇の中では、次の一歩を置く場所を決めるだけでも時間がかかった。
エレナが立ち止まるたびに、高橋も足を止めた。
彼女が何を確かめているのか、高橋には少しずつわかるようになってきていた。
雪の上を横切らずに済む道はないか。
足元の落ち葉は乾いていないか。
斜面の向こうに、敵から見通される場所はないか。
高橋も先の地形を観察し、足跡を残さずに進めそうな場所を探しながら歩いた。
時折、エレナが選んだ場所でも、高橋の体重のかけ方によって雪を踏み抜きそうになることがあった。そんなときは足を戻し、別の場所を探した。
後ろを歩くミレーナとアルノーは、さらに苦労していた。
ミレーナは大型の無線機を、アルノーは電源用のバッテリーを背負っている。重い装備を抱えたまま足場の悪い斜面を進むのは容易ではなく、時には高橋が手を貸す必要もあった。
普段の行軍なら、とっくに数キロ先まで進んでいるはずだった。
しかし今は、わずかな距離を進むだけでも相当な時間がかかっている。
「……思ったより進めないわね」
ミレーナが小声でつぶやいた。
「仕方ないわ。雪の上に四人分の足跡を残して歩くわけにはいかないもの」
エレナはそう答えながら、前方の地面を確かめた。
「今夜はできるだけ距離を稼ぎたいけど、急いで見つかったら意味がないでしょう?」
「それはわかってるんだけど……」
ミレーナは背負った無線機の肩紐を直した。
アルノーが周囲を見回した。
「これだけ雪が残ってると、予定より時間がかかりそうだな」
「ええ。明るくなるまでに、どこまで進めるかしらね」
エレナは立ち止まり、地図を取り出した。
目指しているのは、旧地図に記された一つの丘だった。
周囲より高く、東側に広がる森林を見渡せる可能性がある。魔族が野砲をどこに隠しているのかは不明だったが、高い位置から見下ろせば、何か手がかりをつかめるかもしれない。
「まずはこの丘ね。うまくいけば、敵の後方をかなり広く見られるはずよ」
高橋は地図を覗き込んだ。
「でも、この地図、かなり古いんですよね?」
「ええ。魔族に占領される前の地図だから、今はどうなっているかわからないわ」
「道は当てにならんな」
アルノーが言った。
「丘までなくなってることはないでしょうけどね」
エレナが笑うと、ミレーナも小さく笑った。
「なくなってたら困るわよ。こんな重い無線機を背負って、何のために歩いてるのかわからなくなるじゃない」
「丘があっても、登るのは自分の足だぞ」
アルノーがバッテリーを背負い直した。
「わかってるわよ。だから今のうちに文句を言ってるんじゃない」
高橋も思わず笑った。
エレナは地図を畳み、前方の森林へ目を向けた。
「それじゃ、行きましょう。無理はしないわ。夜明けまでに着けなければ、途中で隠れる場所を探すことにするから」
四人は再び歩き始めた。
* * *
夜が深まるにつれ、森林の中はますます暗くなっていった。
月明かりは木々に遮られ、足元はほとんど見えない。雪の残っている場所だけが、周囲よりわずかに白く浮かび上がっていた。
四人は、雪のない場所を探しながら進んだ。
一見すると遠回りに思える経路でも、木々の根元をたどれば雪を踏まずに通れることがある。反対に、まっすぐ進めそうな場所でも、雪が深ければ迂回しなければならなかった。
高橋は地面に残った古い足跡らしき窪みに気づき、エレナへ知らせた。
「……エレナさん、ここ、何か通った跡があります」
エレナがしゃがみ込んだ。
雪の縁が崩れた窪みが、木々の間にいくつか続いている。
「……動物かしらね」
「人じゃないですか?」
「はっきりしないわ。でも、この辺りを何かが通ったのは確かね」
エレナはしばらく周囲を観察した。
「この跡をたどるのはやめましょう。先に何があるかわからないもの」
高橋はうなずいた。
エレナは別の経路を探し、雪の少ない斜面へ進んだ。
やがて、前方の木々の間に細長く開けた場所が見えてきた。
林道だった。
エレナが手を上げると、四人は足を止めた。
まずエレナとアルノーが先へ進み、道の両側を観察する。高橋とミレーナは少し後ろで、周囲を警戒していた。
林道は荷馬車が一台通れる程度の幅だった。
道には深い車輪の轍が残り、ところどころに馬の蹄の跡があった。通行によって雪が踏み荒らされた場所もあり、地面が露出している部分には新しい泥の跡が見える。
アルノーが地面を指した。
「……かなり使われてるな」
「ええ。最近も荷馬車が通ったみたいね」
エレナは林道の西側へ目を向けた。
「方向から考えると、主陣地への補給路かもしれないわ」
高橋も近づき、地面を観察した。
「食料や砲弾を運んでるんでしょうか」
「その可能性はあるわね。でも、今は調べに行かないわ。目標の丘が先よ」
エレナは地図を確かめた。
「ここは横切りましょう。ただし、道に新しい足跡を残さないようにね」
四人はしばらく木陰で待ち、周囲に動きがないことを確認した。
道の中央付近では、荷車が繰り返し通ったために雪がほとんどなくなっていた。しかし、両端には踏み固められた雪が残り、柔らかい場所を踏めば足跡がつきそうだった。
エレナは渡る場所を選び、アルノーに合図した。
アルノーが先に渡り、向こう側の木陰へ身を伏せた。
次に高橋が道へ出た。
林道へ足を踏み出した瞬間、周囲がひどく開けているように感じられた。木々の間にいるときには気にならなかった暗い空が、頭上に広がっている。
高橋は足元の硬い轍を確かめながら道を横切った。
急げばすぐに渡りきれる距離だったが、足音を立てないことと、目立つ足跡を残さないことの方が重要だった。
向こう側に着くと、アルノーの隣へ身を伏せた。
続いてミレーナが渡り、最後にエレナが合流した。
四人はすぐに林道から離れ、森林の奥へ進もうとした。
そのときだった。
アルノーが突然、片手を上げた。
高橋は反射的に足を止めた。
何か聞こえる。
最初は風の音かと思った。しかし耳を澄ませると、落ち葉を踏む規則的な音が混じっていた。
足音だった。
しかも、一体ではない。
エレナが素早く手で合図した。
四人はそれぞれ近くの木陰へ身を隠した。
高橋は、太い倒木の裏側に身体を滑り込ませた。根元には土が盛り上がり、その一部が窪みになっている。高橋はそこへ身体を押し込み、小銃を胸の下に収めた。
倒木の根元には雪がほとんどなく、落ち葉と湿った土が露出している。
隠れるには都合がよかった。
しかし、林道を渡ったばかりだったことが気になった。
自分たちは足跡を残さないようにしたつもりだが、本当に痕跡がないとは言い切れない。
少し離れた場所では、ミレーナが無線機を背負ったまま木の根元に伏せていた。アルノーの姿は、もう見えなかった。
林道から魔族兵の声が聞こえてきた。
三体の巡回兵だった。
小銃を携え、何かを話しながらゆっくり歩いている。
高橋は倒木の隙間から、その姿を観察した。
巡回兵たちは林道を進んでいたが、先頭の一体が何かに気づいたように足を止めた。
残りの二体も立ち止まる。
先頭の魔族兵が地面を見下ろし、何かを話した。
高橋の背筋が冷たくなった。
場所が悪かった。
そこは、つい先ほど四人が林道を横切った場所に近い。
魔族兵は腰をかがめ、道端の雪を調べるような仕草をした。
高橋は、自分が雪の縁を踏んでしまったのではないかと考えた。
あれほど気をつけていたのに、足跡を残したのだろうか。
先頭の魔族兵が仲間に何かを言った。
二体が顔を上げ、周囲を見回した。
高橋は動けなかった。
やがて、先頭の一体が林道を外れて歩き始めた。
こちらへ来る。
一歩、また一歩。
高橋は倒木の陰に身体を押しつけた。
足音が近づくにつれ、落ち葉を踏む音が妙にはっきりと聞こえるようになった。革靴が湿った土を踏み、小枝が折れる乾いた音が混じる。
魔族兵は立ち止まらなかった。
倒木へ向かって、ゆっくりと歩いてくる。
五メートル。
四メートル。
そして、三メートルほどのところで足音が止まった。
高橋の目に、魔族兵の靴が見えた。
泥のこびりついた革靴。その上には汚れた軍服の裾があり、腰から下げた金属製の装備がわずかに揺れていた。
高橋は息を止めた。
その距離なら、身体を少し起こしただけでも見つかるかもしれない。倒木の根元に隠れているとはいえ、完全に姿を消せているわけではなかった。
魔族兵が向きを変えた。
靴の爪先が、高橋の方を向いた。
見つかった。
そう思った瞬間、高橋の指先が銃床を強く握った。
だが、銃を構えることはできない。
ここで動けば、かえって自分の居場所を知らせるだけだった。
魔族兵が少し腰をかがめた。
高橋の身体がこわばった。
倒木の向こうで、何かを確かめようとしているのだろうか。
すぐ近くで、荒い息遣いが聞こえた。
三メートル。
ただそれだけの距離しかない。
高橋は顔を地面に伏せたまま、魔族兵の次の動きを待った。
肺が苦しくなってきた。
少しだけ息を吸いたかったが、身体を動かすことさえ怖かった。
やがて魔族兵が一歩前へ出た。
高橋は心臓が止まるかと思った。
しかし、その足は倒木へは向かわず、横へ移動した。
魔族兵は木の脇に立ち、しばらく周囲を見回していた。
そのとき、林道の方から仲間の声がした。
何かを呼んでいる。
目の前の魔族兵は返事をしたが、すぐには戻らなかった。
高橋の背中を汗が伝った。
寒いはずなのに、身体の内側だけが熱かった。
魔族兵はもう一度、倒木の周囲を見回した。
それから、ようやく踵を返した。
一歩。
また一歩。
足音が少しずつ遠ざかっていった。
高橋はまだ息を吐けなかった。
魔族兵が林道に戻り、仲間たちと話し始める。しばらくして三体は歩き出したが、その足音が遠ざかっても、高橋は動かなかった。
もし一体だけ引き返してきたら。
もし、こちらを見張っていたら。
そう考えると、顔を上げることさえできなかった。
ようやくエレナの小さな合図が見えたのは、それからしばらく経ってからだった。
高橋はゆっくりと息を吐いた。
胸が痛かった。
倒木の陰から身体を起こすと、膝が少し震えていた。
「……大丈夫?」
エレナが近づき、耳元でささやいた。
高橋はうなずこうとしたが、うまく声が出なかった。
「……三メートルくらいでした」
ようやく、それだけ言った。
「ええ。見えていたわ」
エレナの声も、いつもより少し硬かった。
「本当に危なかったわね」
「……もう、見つかったと思いました」
「よく動かなかったわ。あそこで慌てていたら、見つかっていたかもしれない」
高橋は自分の手を見た。まだわずかに震えている。
アルノーとミレーナも、木々の陰から姿を現した。
「……あいつ、こっちへ向かってきたときは肝が冷えたぞ」
アルノーが小声で言った。
「私、無線機が木の根に当たりそうで、動くに動けなかったわ」
ミレーナも顔をこわばらせていた。
エレナは林道の方へ耳を澄ませた。
「まだ話は後よ。ここから離れましょう」
四人は装備を確かめ、慎重に歩き始めた。
高橋は一度だけ後ろを振り返った。
巡回兵の姿はもう見えない。
それでも、三メートル先に立っていた魔族兵の靴が、頭から離れなかった。
* * *
夜明けが近づくころ、四人はようやく目標の丘の近くまで進出した。
夜通し歩いてきたものの、進んだ距離は決して長くなかった。雪の多い場所を避けるために何度も遠回りし、林道を横切る際には巡回兵に遭遇して、長い時間動けなくなった。
そのうえ、夜が明け始めた森林では、今まで以上に移動へ注意を払わなければならない。
雪に残した足跡は、暗闇では見つかりにくくても、明るくなれば遠くからでも目立つ場合がある。特に人がほとんど通らない斜面に、真新しい足跡が四人分も続いていれば、不自然でしかなかった。
エレナは地面が露出している木々の下を選び、できるだけ丘の裾へ近づこうとしていた。
そのときだった。
「……待って」
エレナが足を止めた。
四人は近くの木陰に身を伏せた。
エレナが見上げている方向へ、高橋も双眼鏡を向ける。
丘の頂上付近から、細長いものが空へ突き出していた。
最初は枯れ木かと思った。しかし、明るくなるにつれて、それが人工物であることがわかってきた。
「……あれ、アンテナですよね」
高橋がささやいた。
「ええ。嫌な予感がするわね」
エレナはさらに周囲を観察した。
アンテナの根元には低い建物があり、柵らしきものも見える。何本かの支柱が立ち、建物からアンテナへ向かって線が延びていた。
「……通信施設ね」
エレナがつぶやいた。
アルノーも双眼鏡を構えた。
「見張りがいるな。建物の前を歩いてる」
「ええ。丘へ続く道にも兵がいるわ」
高橋はアンテナの周囲を丁寧に観察した。
建物の近くを二体の魔族兵が歩いている。そのうち一体が建物の裏手へ移動し、入れ替わるように別の魔族兵が姿を現した。
丘の斜面には踏み固められた道があり、残雪の上にも数多くの足跡がついていた。
「……ここには登れませんね」
高橋が言った。
「そうね。これでは観測どころじゃないわ」
エレナは地図を開いた。
旧地図では何も記されていなかった丘だったが、現在は魔族の通信施設が建てられていた。
「ずいぶん立派なアンテナね」
ミレーナが小声で言った。
「遠くの部隊と通信しているのかもしれないわ」
「そうね。何に使っているかまではわからないけれど、この施設は報告する価値があるわ」
エレナはしばらく施設を観察してから、高橋に声をかけた。
「高橋、写真を撮っておいて」
「はい」
高橋は携行していたカメラを取り出した。
木の幹に身体を寄せ、アンテナと建物が一緒に写るように構える。朝の光はまだ弱かったが、施設の輪郭は確認できた。
慎重にシャッターを切り、さらに別の角度からも撮影した。
「……撮れました」
「ありがとう。ここは諦めましょう」
エレナは地図の南東側を指した。
「第二候補の丘へ向かうわ。少し遠くなるけど、ここで無理をする必要はないもの」
アルノーが地図を覗き込んだ。
「ずいぶん南へ回ることになるな」
「ええ。しかも、この辺りは警備も厳しそうね」
高橋は丘へ続く道を見た。
雪の上には魔族兵の足跡が数多く残っている。敵の足跡に紛れるように進むことも考えられたが、見張りのいる通信施設へ近づくのは危険すぎた。
「丘の向こう側へ回れないでしょうか」
高橋が地図を指した。
エレナはしばらく考えた。
「そこは雪が多そうね。それに、向こう側からも施設の見張りに見られるかもしれないわ」
彼女は南側の森林へ目を向けた。
「少し戻って、雪の少ない斜面を探しましょう。遠回りになるけど、その方が安全よ」
ミレーナは無線機を背負い直し、ため息をついた。
「……また歩くのね」
「ごめんなさいね」
エレナが微笑んだ。
「いいのよ。どうせ帰るときにも歩かなきゃならないんだから」
「それを今言うか?」
アルノーが苦笑した。
四人は丘の斜面へ近づくのをやめ、森林の奥へ引き返し始めた。
* * *
丘の裾を離れ、南側の森林へ回り込もうとしたときだった。
高橋は前方の木々の間で、何かが動いたような気がして足を止めた。
風ではない。
低い枝の向こうを、一瞬だけ黒い影が横切った。
「……エレナさん」
高橋が声をかけるより早く、エレナも気づいていた。
彼女は片手を下げ、四人に伏せるよう合図した。
直後、前方から魔族兵の話し声が聞こえてきた。
丘の通信施設を警備する巡回兵らしい。
エレナは四人のいる場所を素早く見回した。
近くには大きな岩があり、その脇には倒木が折り重なっている。隠れるには十分な場所だったが、そこへ移動するには雪の残る斜面を数歩進まなければならない。
巡回兵の足音は、すでに近づいていた。
エレナは無理に移動せず、その場に伏せるよう指示した。
高橋は木の根元に身体を沈めた。そこには雪がなく、湿った土と落ち葉が積もっている。
朝の光が差し込む森林では、夜ほど暗がりに頼ることができない。低い草や倒木があるとはいえ、相手が少し高い場所へ登れば見つかってしまいそうだった。
三体の魔族兵が現れた。
一体が先頭を歩き、残りの二体が少し離れて続いている。
先頭の魔族兵は、木々の間を注意深く見回していた。先ほど林道で遭遇した巡回兵とは違い、最初から警戒している様子がはっきりわかる。
高橋は額を地面に近づけた。
魔族兵たちは、四人が隠れている場所の少し手前で立ち止まった。
何かを話している。
そのうちの一体が、雪の残る斜面を指さした。
高橋の心臓が強く打った。
そこは、自分たちが通ってきた方向だった。
魔族兵は斜面へ歩き、雪の上を覗き込んだ。
高橋は、自分たちがどこかで足跡を残してしまったのではないかと考えた。
足元には気を配っていた。しかし、暗いうちに歩いた場所もあり、すべての痕跡を確認できたわけではない。
魔族兵はしばらく地面を調べていたが、やがて仲間に何かを話した。
その言葉の意味は、高橋にはわからなかった。
ただ、三体がこちらを警戒しているように見えた。
魔族兵の一体が、道から外れて歩き始めた。
こちらへ来る。
高橋は身体をさらに低くした。
すぐ近くにはミレーナが伏せている。
背中の無線機は大きく、身体を完全に隠すのが難しい。彼女は片方の肩を地面に押しつけ、装備の角が木の根元からはみ出さないようにしていた。
魔族兵が近づくにつれ、高橋にはその軍服の細部まで見えるようになった。
先頭の一体は倒木の脇で足を止め、周囲を見回している。
もう一体が、その少し横を回り込んできた。
高橋はエレナへ視線を向けた。
エレナも、その魔族兵の動きを見ていた。
彼女はほんの少し指先を動かし、ミレーナにそのままでいるよう伝えた。
魔族兵がさらに一歩進む。
茂みの向こうから、汚れた軍服の膝が見えた。
その兵があと数歩進めば、ミレーナの背中が見えるかもしれない。
高橋は小銃の銃床を握った。
もし発見されたら、どうする。
三体の魔族兵が相手だ。ここで戦闘になれば、丘の通信施設から増援が来るかもしれない。
しかも、雪の残る森林では逃げた跡を追われる危険がある。
たとえ撃ち勝っても、無事に離脱できるとは限らなかった。
魔族兵が立ち止まった。
周囲を見回している。
高橋は、ミレーナの無線機が木の根元から見えていないか気になった。しかし、それを確かめるために顔を動かすことさえできない。
そのとき、後方の魔族兵が声をかけた。
回り込んできた魔族兵が振り返る。
短い言葉が交わされ、やがて魔族兵は元の場所へ戻っていった。
高橋は胸の奥に詰まっていた息を、静かに吐いた。
だが、まだ終わっていなかった。
三体はその場で何かを話していたが、突然、一体がこちらへ顔を向けた。
高橋は目を伏せた。
自分が見られているのかもしれない。
木々の隙間から差し込む朝日が、倒木の一部を照らしている。そのすぐ脇に、高橋は伏せていた。
魔族兵が一歩動いた。
乾いた落ち葉を踏む音が、やけに大きく聞こえた。
しかし、足音は横へそれていった。
三体はやがて方向を変え、丘へ続く道の方へ歩き始めた。
高橋は、その後ろ姿を倒木の隙間から見送った。
まだ動いてはいけない。
先ほどの林道での出来事が頭に浮かんだ。
敵の姿が見えなくなったからといって、すぐに立ち上がっていいわけではない。
三体の姿が木々の向こうへ消えても、エレナは動かなかった。
高橋も、伏せたまま待った。
足音が遠ざかり、話し声が聞こえなくなってから、さらにしばらく時間が過ぎた。
ようやくエレナが身体を起こした。
「……行ったみたいね」
高橋はゆっくりと顔を上げた。
「……また見つかるところでした」
「ええ。あの兵がもう少し回り込んでいたら、ミレーナが見つかっていたかもしれないわ」
ミレーナは苦笑した。
「私、もう駄目かと思った。無線機を背負ってるから、身体を小さくできなくて……」
アルノーが低い声で答えた。
「俺のバッテリーも大概だがな。あんなところで見つかったら、逃げるのも一苦労だ」
エレナは巡回兵たちが調べていた斜面を見た。
「何を見ていたのかしらね」
高橋もその方向へ目を向けた。
「……僕たちの足跡でしょうか」
「わからないわ。何か別のものを見つけたのかもしれない。でも、確認しに行くのはやめましょう」
エレナは地図を取り出した。
「この辺りは、思ったより巡回が多いわね。通信施設があるせいかもしれないわ」
彼女は現在位置を確かめ、南側の森林を指した。
「明るいうちに動き回るのは危険よ。まず施設から離れて、隠れられる場所を探しましょう」
四人は丘から距離を取り、木々の密集した斜面へ移動した。
雪の多い場所を避けながら進むため、移動には時間がかかった。
しかし、今度は誰も急ごうとは言わなかった。
* * *
昼間、エレナ班は倒木と岩に囲まれた窪地で休息を取ることにした。
周囲には背の高い針葉樹が密集し、上から見ても簡単には見つからない場所だった。近くに道はなく、人が頻繁に通った形跡も見えない。
窪地の中にはほとんど雪が残っておらず、落ち葉と枯れ枝が地面を覆っていた。
四人は交代で見張りを立てることにした。
アルノーが周囲を確認している間に、ミレーナは無線機を下ろし、肩を揉んでいた。
「……もう、肩が痛いわ」
「壊れてないだろうな?」
アルノーが尋ねた。
「大丈夫よ。ちゃんと守ったわ」
「それならいい」
「まず私の心配をしてくれてもいいんじゃない?」
「お前はこうして文句を言ってるから大丈夫だろう」
ミレーナが不満そうな顔をすると、エレナが小さく笑った。
「二人とも、今のうちに休んでおきなさい。今夜も長く歩くことになるわ」
高橋は外套を身体に巻きつけ、木の根元に腰を下ろした。
昨夜からほとんど歩き通しだったので、身体はひどく疲れている。足は重く、背中も痛かった。
それなのに、目を閉じてもなかなか眠れなかった。
林道の巡回兵が頭から離れない。
三メートル先に立っていた魔族兵。
泥のついた革靴。
倒木の向こうから聞こえた息遣い。
あのとき、魔族兵がもう一歩踏み出していたら、どうなっていただろう。
高橋は目を開けた。
隣には、エレナが座っていた。
「……眠れない?」
彼女が小声で尋ねた。
「……ちょっと」
高橋は苦笑した。
「昨夜のこと、思い出しちゃって」
「ああ、あれね」
エレナは高橋の方へ身体を寄せ、そっと抱き寄せた。
高橋は少し驚いたが、そのまま彼女に身体を預けた。外套越しに伝わる温もりが、張り詰めていた気持ちを少し和らげてくれる。
「怖かったでしょう?」
「はい。撃たれるのも怖いですけど、あんなに近くに敵がいるのに、何もできないのは……」
「そうね」
エレナは高橋の背中に腕を回した。
「でも、何もしなかったから助かったのよ」
「……はい」
「見つかっていないのに撃てば、かえって危険になることもあるわ。隠れてやり過ごすのも、私たちの仕事よ」
高橋は小さくうなずいた。
「……エレナさんも、怖かったですか?」
「もちろんよ」
エレナは少し笑った。
「私だって、あんな近くに敵がいたら怖いわ。しかも、あなたのすぐそばだったんだから」
高橋は顔を上げた。
「……すみません」
「謝ることじゃないでしょう。あなたはちゃんと動かなかったもの」
エレナは高橋の髪を軽く撫でた。
「それに、怖いと思えるのは悪いことじゃないわ。怖いからこそ、慎重に動けるんだから」
しばらくの間、二人はそのままでいた。
周囲には風が枝を揺らす音だけが聞こえている。少し離れた場所ではアルノーが見張りを続け、ミレーナは木の根元に身体を寄せて休んでいた。
やがて、高橋の肩から少しずつ力が抜けていった。
「……少し落ち着いた?」
「はい。ありがとうございます」
「それならよかった」
エレナは微笑み、高橋を抱いていた腕を緩めた。
「さあ、少しでも寝ておきなさい。今夜も歩くんだから」
高橋はもう一度外套にくるまり、目を閉じた。
今度は、不思議とすぐに眠気が訪れた。
* * *
午後遅く、日が傾き始めるころ、エレナ班は再び行動を開始した。
目指すのは、最初の丘より南東にある第二候補の高地だった。旧地図には周囲を見渡せる小高い丘として記されているが、今そこに何があるのかはわからない。
四人は日が暮れるまでの間、地形を確認しながら慎重に移動した。
雪が残る場所を避けようとすると、どうしても進路が曲がりくねる。尾根をまっすぐ越えれば近道になる場所でも、斜面が雪に覆われていれば、木々の密集した谷側へ回り込まなければならなかった。
夜になれば足跡は見えにくくなるが、翌朝になれば残した痕跡が消えるわけではない。
それが厄介だった。
エレナは地面の状態を確かめながら進み、雪を避けられない場所では、周囲から足跡を発見されにくい経路を選んだ。
高橋も少しずつ、自分から進みやすい場所を見つけるようになっていた。
「……エレナさん、あの倒木の向こうなら雪が少なそうです」
高橋が小声で言った。
エレナは双眼鏡を向け、地形を確かめた。
「そうね。あそこを通りましょう」
四人は倒木の脇へ回り込んだ。
高橋の見つけた場所は、木々の枝が重なっているためか、周囲より雪が少なかった。地面には落ち葉が積もり、足跡も残りにくい。
ただし、倒木の下を通るには身体を低くしなければならず、重い無線機を背負ったミレーナには少し厄介だった。
アルノーが枝を持ち上げ、ミレーナを先に通した。
「……ありがとう」
「いいさ。お前に無線機を壊されたら困るからな」
「またそれ?」
ミレーナが小声で言い返す。
高橋は二人の後ろを通りながら、周囲へ目を向けた。
時間はかかっている。
それでも、雪の上に足跡をつけながら進むよりはよほどいい。
夕闇が深まると、四人の歩く速度はさらに落ちた。
途中、遠くで馬車の音を聞き、木々の陰でしばらく待った。別の場所では魔族兵らしき声が聞こえたため、大きく迂回することになった。
ときには、進もうとした斜面が思いのほか深い雪に覆われており、来た道を少し戻ることもあった。
普通の行軍なら簡単に越えられる距離が、今はひどく遠く感じられた。
高橋も足が重かった。昨日の夕方に魔族の主陣地を突破して以来、まとまった睡眠は取れていない。
エレナは三人の様子を見ながら、ときどき休息を取らせていた。
「……少し休みましょう」
彼女が言うと、ミレーナは近くの倒木に腰を下ろした。
「助かったわ。もう足が棒になりそう」
「まだ歩けるか?」
アルノーが尋ねた。
「歩くわよ。ここで寝るわけにもいかないでしょう」
「そうだな」
アルノーもバッテリーを下ろし、肩を回した。
高橋は地図を広げたエレナのそばに座った。
「……あと、どのくらいですか?」
「もう少しよ。地形が合っていれば、次の尾根を越えた先ね」
「今度は何もないといいですね」
「そうね。もう一本アンテナが立っていたら困るわ」
ミレーナが顔を上げた。
「やめてよ。冗談でも嫌だわ」
アルノーが笑った。
「そのときは第三候補だな」
「もう!」
ミレーナが小声で抗議した。
短い休息を終えると、四人は再び装備を背負った。
誰も急ごうとは言わなかった。
足跡を残さず、敵に見つからず、無事に目標へたどり着く。そのためには、どれほど時間がかかっても慎重に進むしかなかった。
そして、魔族の主陣地へ侵入してから二日目の夜。
エレナ班は、ようやく第二候補の丘にたどり着いた。
* * *
丘の斜面には針葉樹が密集していたが、頂上近くには大きな岩がいくつも露出していた。
エレナとアルノーが先に登り、周囲を確認した。
斜面の一部には雪が残っていたが、岩の周囲は地面が露出しており、雪の上に足跡を残さず移動できそうだった。
しばらくして二人が戻り、高橋とミレーナに合図した。
「敵の気配はないわ。上の方に岩陰があるから、そこで休みましょう」
「……ようやく着いたのね」
ミレーナが安堵のため息をついた。
「今度はアンテナがなくてよかったわ」
「本当だな」
アルノーも苦笑した。
四人は丘を登り、岩陰に荷物を下ろした。
エレナは地図を広げ、現在位置を確認した。最初に目指していた丘は、ここからかなり北西にある。予定していた地点よりも、ずいぶん南東へ回り込むことになった。
「……でも、悪い場所じゃないわね」
エレナが言った。
「最初の丘とは違う角度から、敵の後方を見られるはずよ」
アルノーは周囲の暗い森林に目を向けた。
「明るくならないと何とも言えんが、北側は開けていそうだな」
「ええ。期待しましょう」
高橋は岩に背中を預けた。
足を伸ばした途端、筋肉に鈍い痛みが走った。肩も腰も重く、しばらくは動きたくなかった。
ミレーナは無線機を下ろすと、その場に座り込んだ。
「……温かいスープが飲みたいわ」
「帰ったら好きなだけ飲め」
アルノーが答えた。
「その前に、ちゃんと帰らないとね」
エレナが言うと、ミレーナが笑った。
「それ、昨日も言ってたわよ」
「何度でも言うわよ。大事なことだもの」
四人は携行食で簡単に腹を満たし、交代で見張りをしながら朝まで休むことにした。
火は焚かない。
遠くから見える光や煙は、敵後方では命取りになるかもしれなかった。
* * *
夜も更けたころ、見張りについていた高橋は、丘の北側に広がる森林を眺めていた。
空には雲がかかり、月明かりも弱かった。目の前には黒い木々の輪郭が重なっているばかりで、遠くの地形はほとんどわからない。
アルノーとミレーナは岩陰で休んでいた。エレナも外套を身体に巻きつけ、少し離れた場所に横になっている。
高橋は双眼鏡を手元に置き、周囲の物音に耳を澄ませていた。
そのときだった。
ドォン……。
遠くから、低い砲声が聞こえた。
高橋は顔を上げた。
先ほどまで聞こえていた風の音とは明らかに違う。しかも、ベルノ連隊の砲兵がいる西側ではなく、北の方角から響いてきた。
高橋は身体を起こし、暗い森林に目を向けた。
しばらくすると、もう一度砲声が聞こえた。
ドォン!
その瞬間、遠くの木々の向こうに赤みを帯びた光が見えた。
ほんの一瞬だったが、確かに光った。
「……エレナさん」
高橋はすぐにエレナを起こした。
「何?」
「北の方で砲声がしました。今、光が見えたんです」
エレナはすぐに起き上がり、高橋の示した方角へ目を向けた。
「どの辺り?」
「あの少し低くなっているところです。木の向こうが一瞬光りました」
二人は岩陰に身を伏せたまま、北側の森林を見つめた。
しばらく何も起こらなかったが、やがて再び砲声が響いた。
ドォン!
木々の間から、赤い光が瞬いた。
「……見えたわ」
エレナが小さく言った。
「砲口炎ね」
「敵の野砲でしょうか?」
「その可能性が高いわ。でも、ここからでは距離がわからない。方角だけ覚えておきましょう」
高橋はうなずき、方位を確認した。
砲声はその後も何度か聞こえた。そのたびに光の見えた方向を確かめたが、発射地点が何か所あるのかまでは判別できなかった。
「……あの辺りにいるのは間違いなさそうですね」
「ええ。でも、位置を決めるのは明るくなってからよ」
エレナはしばらく北の森林を見つめていた。
「朝になったら、あの方向を重点的に調べましょう」
夜の砲撃が止むと、森林は再び静かになった。
高橋は見張りを続けながら、ときどき北側へ目を向けた。
暗闇の向こうには、何も見えなかった。
* * *
夜明けとともに、丘の周囲が少しずつ明るくなってきた。
高橋は双眼鏡を取り出し、北側の森林を眺めた。夜には真っ黒な塊にしか見えなかった地形が、次第に姿を現していく。
丘の下には広い森林が続き、その向こうには緩やかな谷や低い尾根が重なっていた。ところどころに木々の少ない場所があり、細い林道が森林を横切っている。
「……思ったより見えるわね」
エレナが言った。
アルノーも双眼鏡を構えた。
「ここへ来たのは正解だったな」
「ええ。かなり遠回りになったけど」
エレナは北西の方角を指した。
「あれを見て」
高橋が双眼鏡を向けると、遠くの丘の上に細長いアンテナが立っていた。
「あ、最初の丘ですね」
「そうよ。あそこから、ずいぶん南東へ来たわね」
アンテナは朝の空を背景にはっきり見えていた。その根元にある建物まではよくわからなかったが、施設の位置を確認するには十分だった。
「……帰りも、あの辺りを避けるんですよね」
ミレーナが言った。
「そうなるわね」
「やっぱり、帰り道は長そうね……」
「今から帰ることを考えても仕方ないだろう」
アルノーが笑った。
エレナも微笑んだが、すぐに北側へ双眼鏡を向け直した。
「さて、仕事をしましょう。昨夜の砲口炎が見えたのは、あちらよ」
四人は丘の岩陰に身を伏せ、観測を始めた。
* * *
明るくなるにつれ、魔族の後方地域の様子が少しずつわかってきた。
谷底を通る林道には、雪の消えた部分が細長く続いていた。その周囲には荷馬車が走ったと思われる轍が残っている。遠くでは魔族兵らしき影が何体か動いていたが、いずれもかなり離れていた。
高橋は昨夜、砲口炎が見えた方角を重点的に観察していた。
しかし、野砲らしいものは見つからなかった。
「……見えませんね」
「ええ。うまく隠しているわね」
エレナも同じ方向を観察していた。
「木々の中に砲を置かれたら、簡単には見つからないわ。砲そのものが見えなくても、周囲の変化を探してみましょう」
高橋はうなずき、双眼鏡をゆっくりと動かした。
林道の曲がり方や、木々の間に見える地面の色の違いを確かめる。雪が残る場所と地面が露出した場所の境目も、注意して観察した。
伐採されたように見える場所もあったが、それが砲兵陣地なのか、単に木が倒れた場所なのかまではわからない。
アルノーも観測を続けていた。
「昨夜の光は確かにあの辺りだったんだがな」
「そうね。まだ時間はあるわ。慌てずに探しましょう」
エレナは地図を広げ、見えている尾根や林道の位置を確認していった。
午前中、四人は交代で双眼鏡を覗きながら、北側の森林を観測し続けた。
時折、遠くの林道を荷馬車が通り過ぎた。木々の間で魔族兵が動くこともあったが、砲兵陣地と思われる場所には目立った変化がない。
高橋は何度か目を休ませながら、同じ場所を繰り返し観察していた。
見つからないからといって、そこに何もないとは限らない。
エレナが言っていた言葉を思い出した。
敵が隠れているなら、敵自身が姿を現すのを待つしかない場合もある。
そう考えながら、もう一度双眼鏡を構えたときだった。
ドォン!
突然、北側から砲声が響いた。
高橋はすぐに音のした方向へ双眼鏡を向けた。
木々の間から、白っぽい煙が立ち上っていた。
「……撃ちました!」
エレナが顔を上げた。
「どこ?」
「あの尾根の下です。林道が曲がっているところの少し右!」
エレナも双眼鏡を向けた。
「……見えたわ!」
続いて、少し離れた場所から別の煙が立ち上った。
ドォン!
さらにもう一発。
ドォン!
高橋は煙の立ち上がった場所を一つずつ確認した。
「……三か所です!」
その直後、さらに砲声が響いた。
ドォン!
少し右側の木々の間から、四つ目の煙が上がった。
「……四か所!」
エレナも観測を続けていた。
「ええ。四門ね」
アルノーが双眼鏡を構え直した。
「一つの陣地にまとまってるな」
「そうね。間違いなく砲兵陣地だわ」
四つの煙は、ある程度の間隔を空けて立ち上っていた。砲そのものは木々に隠れてほとんど見えないが、発砲するたびに煙が上がるため、それぞれの位置を区別できた。
高橋は見つけた四か所を見失わないよう、双眼鏡を動かした。
一度目に煙が上がった場所。
その少し右側。
さらに奥まった場所。
それぞれの位置を頭の中で整理する。
「……高橋、地図を見て」
エレナが声をかけた。
高橋は双眼鏡を下ろし、彼女の広げた地図を覗き込んだ。
「昨夜の砲口炎が見えたのは、この方向でしたよね」
「ええ。今見えている陣地と合っているわ」
高橋は地図の林道を指した。
「この曲がっているところが、あの谷底の道だと思います。その後ろに低い尾根があるので……」
アルノーが横から覗き込んだ。
「そうだな。あの尾根の形は地図とも合ってる」
エレナは双眼鏡と地図を何度も見比べた。
「……この辺りね」
彼女は鉛筆で位置を書き込んだ。
まだ砲の位置を一点で正確に示せるわけではないが、地形と発砲時の煙を照らし合わせれば、陣地のある区域をかなり絞り込める。
「もう一度撃つまで待ちましょう。位置を確認したいわ」
四人は再び観測を続けた。
しばらくすると、同じ場所から砲声が響き、四か所に煙が立ち上った。
高橋は最初に記憶した位置と照らし合わせた。
「……間違いありません。四門です」
「ええ。まず四門見つかったわね」
エレナは小さくうなずいた。
ヴァルター少佐は、これまでの砲撃状況から敵野砲を四門から六門程度と推測していた。
そのうちの四門を発見できたことになる。
しかし、エレナは双眼鏡を下ろさなかった。
「ほかにもあるかもしれないわ。周囲も見ておきましょう」
* * *
それから、さらにしばらく時間が過ぎた。
高橋は最初の砲兵陣地を観察しながら、ときどき周辺の森林へ目を向けていた。
砲声が途切れた時間には、別の動きがないか確かめる。
そのとき、少し違う方向から砲声が聞こえた。
ドォン!
高橋は顔を上げた。
「……今の、さっきと方向が違いませんか?」
「ええ。少し東寄りね」
エレナも気づいていた。
二人は双眼鏡を動かした。
北東側の森林から、一筋の白い煙が立ち上っている。
「……あそこです!」
高橋が指さした。
続いて、その少し左からも煙が上がった。
ドォン!
さらに二発の砲声が響き、別の二か所から煙が立ち上った。
高橋は一度双眼鏡を下ろし、目をこすった。
もう一度覗く。
煙の立ち上がった場所は、確かに四か所あった。
「……こちらも四門です!」
アルノーも双眼鏡を構えていた。
「別の砲兵陣地だな。最初の陣地とは離れてる」
「そうね」
エレナは両方の陣地を見比べた。
「これで八門だわ」
「少佐の推測より多いですね」
高橋が言った。
「ええ。しかも、二か所に分散しているわ」
エレナは双眼鏡を覗いたまま、しばらく敵の砲撃を観察していた。
最初に発見した四門は、発砲を終えてから次の射撃まで、かなりの間を空けていた。もう一方の陣地も同じような間隔で砲撃を続けている。
「……ベルノの砲撃と比べると、次弾までの間隔が大きいわ。砲の数はそれで見誤ったのかもしれないわね」
アルノーがうなずいた。
「なるほどな。同じ時間に撃ってくる砲弾が少なければ、実際の門数も少なく見積もっちまうわけか」
「そういうことね。もっとも、ほかにも隠れているかもしれないから、確認できたのは八門ということにしておきましょう」
エレナは地図の別の場所にも印をつけた。
最初の四門と、今見つけた四門。
距離を空けて配置されているため、同じ目標として砲撃することは難しいかもしれない。
それでも、八門の存在が確認できたことは大きかった。
「高橋、二つ目の位置をもう一度確認して」
「はい」
高橋は地図を覗いた。
北東側の陣地は、最初の陣地よりも奥まった場所にある。付近には低い尾根が続き、その南側を林道が通っていた。
「この尾根の向こう側だと思います。林道の曲がり方も合っています」
エレナは双眼鏡を向け直した。
「……そうね。あの地形なら砲を隠すにはちょうどいいわ」
アルノーも位置を確認した。
「一つ目より少し遠いな」
「ええ。射程の問題も出てきそうね」
三人は観測結果を照らし合わせ、地図に二つの砲兵陣地の位置を書き込んだ。
敵の主陣地から、およそ四キロ。
味方の主陣地からは約九キロ。
ベルノ連隊の砲兵陣地からなら、およそ十一キロになる。
エレナは地図を見つめた。
「……かなり遠いわね」
アルノーもうなずいた。
「うちの百二十ミリ砲で、全部届くのか?」
「砲の配置によるでしょうね。分散しているから、届かない砲もあるかもしれないわ」
ベルノ連隊の百二十ミリ榴弾砲八門は、二門ずつ四か所に分散配置されている。今の陣地から全門が射撃できるとは限らなかった。
だが、それを判断するのは砲兵中隊の仕事だった。
エレナは地図を畳んだ。
「まずは知らせましょう。ミレーナ、無線機を準備して」
「了解」
ミレーナはすぐに装備を開いた。
アルノーがバッテリーを運び、接続を手伝う。アンテナ線も周囲の枝に沿わせ、外から目立たないよう設置した。
高橋はその間も双眼鏡を構え、二つの砲兵陣地を交互に監視していた。
魔族の野砲は、まだ砲撃を続けている。
一か所から煙が立ち上がると、少し遅れて別の場所からも煙が上がる。二つの陣地で八門が活動していることは、もはや疑いようがなかった。
「……準備できました」
ミレーナが声をかけた。
岩陰には無線機が設置されていた。ミレーナはヘッドホンを耳に当て、機器の状態を確かめてから電鍵に指を置いた。
「連隊本部を呼び出すわ」
エレナがうなずいた。
ミレーナが電鍵を叩き始めた。
カチ、カチカチ……。
小さな音が岩陰に響いた。
しばらくして、ミレーナはヘッドホンに耳を澄ませた。
「……応答がありました」
エレナは地図を開き、伝える内容を確認した。
「敵野砲陣地を二か所発見。各四門、合計八門。現在も砲撃中。位置はこの二か所よ」
ミレーナは暗号表を確認し、電文を送信した。
敵後方での通信は、いつどこで敵に探知されるかわからない。必要な情報を簡潔に伝え、余計な送信は避けなければならなかった。
高橋は双眼鏡を構えたまま、送信が終わるのを待っていた。
やがてミレーナが顔を上げた。
「……受信確認です。位置情報を砲兵中隊に伝えるそうです」
「わかったわ。こちらは観測を続けましょう」
エレナが答えた。
それからしばらく、四人は岩陰で敵の砲兵陣地を見張り続けた。
時折、砲声が響くたびに煙が立ち上る。魔族の砲兵たちは、自分たちの位置が発見され、すでにベルノ連隊へ報告されたことなど知る由もなかった。
高橋は双眼鏡を下ろし、地図に記された二つの印を見た。
ようやく見つけた。
これまで、どこから撃たれているのかさえわからなかった敵の野砲。
その位置が、今は目の前の地図に書き込まれている。
三上鈴音が戦死した砲撃も、このような砲から撃たれたのだろうか。
もちろん、目の前の野砲が撃ったと確かめることはできない。
それでも高橋は、二つの陣地から目を離すことができなかった。
そのとき、ミレーナが顔を上げた。
「……エレナ、連隊本部から通信よ」
エレナが振り返った。
ミレーナは受信した符号を書き取り、暗号表で内容を確認した。
「砲撃開始は、一時間後とのことです」
エレナは腕時計に目を落とした。
「一時間か。うちの野砲は分散配置だから、移動させるのかもしれないわね」
アルノーが地図を覗き込んだ。
「十一キロもあるからな。今の陣地からじゃ届かない砲もあるだろう」
「ええ。使える砲を集めるのかもしれないわ」
エレナは双眼鏡を手に取った。
「二人とも、敵の砲兵陣地から目を離さないで。砲撃が始まったら、弾着を確認するわよ」
「了解」
高橋は双眼鏡を構え直した。
遠くの森林から、再び白い煙が立ち上った。
ドォン!
魔族の野砲は、まだこちらに気づいていない。
エレナはもう一度、腕時計を確認した。
砲撃開始まで、あと一時間。
四人は岩陰に身を伏せ、敵の砲兵陣地を見つめ続けた。