ベルノ連隊司令部の天幕に、浸透偵察小隊からの電文が届いた。
通信兵が持ち込んだ電文に目を通したヴァルター少佐が、作戦地図の前に立つオリヴィエに声をかけた。
「お嬢、エレナの班からだ。敵の野砲陣地を二か所発見した。各四門、合計八門。位置も特定できたそうだ」
「本当!?」
オリヴィエが勢いよく顔を上げた。
「でかしたわ!」
その場にいたアウレリア大尉と砲兵中隊長も、地図へ視線を向けた。
「これまで散々やってくれたからね。最大火力で行くわよ!」
オリヴィエは地図の上に手を置いた。
ベルノ連隊は、数週間にわたって敵の砲撃に苦しめられてきた。
特に第3中隊の高地陣地では三上鈴音が戦死し、伊藤千尋をはじめ負傷者も出ている。その後も敵の砲撃は続き、三月に入ってからも負傷者が相次いでいた。
その敵砲兵の位置が、ようやく判明したのである。
しかし、砲兵中隊長が口を挟んだ。
「大佐、お待ちください。両翼に展開している計四門が射程外です」
「え?」
オリヴィエが地図に視線を落とした。
ベルノ連隊の120mm榴弾砲八門は、敵の砲撃による一挙壊滅を避けるため、二門ずつ四か所に分散配置されていた。
砲兵中隊長は地図上の陣地を指さした。
「中央寄りの四門は射程内ですが、両翼の四門は距離がありすぎます」
「お嬢、どうする?」
ヴァルターが尋ねた。
「移動させた場合、どれぐらいかかる?」
オリヴィエは砲兵中隊長に顔を向けた。
「牽引車がちょうど四台ありますし、中央の砲の予備陣地に展開すれば、一時間以内には大丈夫だと思います」
「予備陣地はもう出来上がっているのね?」
「はい。構築も測量も済んでおります。砲を据えれば射撃可能です」
オリヴィエは少し考えた。
「だったら決まりね。四門とも中央へ移動させなさい」
「了解しました!」
「せっかく敵の砲兵を見つけたんですもの。中途半端な攻撃はしたくないわ。八門全部使うわよ」
砲兵中隊長がうなずいた。
「ただし、敵陣地まで約十一キロあります。試射と着弾修正が必要になります」
「それはエレナたちに任せるわ」
オリヴィエはヴァルターを見た。
「少佐、エレナたちに伝えて。砲撃開始は一時間後。着弾観測をお願いするって」
「わかった。すぐに伝える」
ヴァルターは通信兵に向き直った。
「エレナ班へ返信。射撃開始、一時間後。それだけでいい」
「了解しました!」
通信兵が天幕を出ていった。
アウレリアが地図上の二つの印を見つめた。
「敵の野砲八門を無力化できれば、今後の戦況もずいぶん変わりますね」
「そうね」
オリヴィエの表情が引き締まった。
「それに、あの子たちは敵の後方まで入り込んでいるのよ。せっかく危険を冒して見つけてくれたんだから、私たちも仕事をしなくちゃ」
ヴァルターがうなずいた。
「ああ。あいつらが見つけた獲物だ。今度はこっちの番だな」
砲兵中隊長は敬礼し、急いで天幕を出ていった。
* * *
ベルノ連隊砲兵中隊の陣地にも、緊急命令が届いていた。
水野香織の所属する小隊では、砲の整備や弾薬の点検をしていた兵士たちが集められた。
「全員、聞け! これから両翼の砲兵陣地から二門が移動してくる。ここの予備陣地に展開させることになった!」
小隊長の言葉に、兵士たちが顔を見合わせた。
「二門も増えるんですか?」
水野が尋ねた。
「そうだ。残りの二門も別の中央予備陣地へ移動する。砲兵中隊の八門すべてを使って攻撃することになった」
「八門全部……?」
「砲が到着して射撃準備が整い次第、攻撃開始だ。それまでに弾薬を十分に用意しておけ。各砲の弾薬係は直ちに作業にかかれ!」
水野は驚いた。
まだ砲が到着していないうちから弾薬を集めろというのである。しかも、八門すべてを使うという。
「ずいぶん気合いが入ってますね」
隣にいた木田がつぶやいた。
「うん。司令部、相当本気みたい」
「そりゃ、目標が目標だからな」
「目標?」
水野が聞き返すと、小隊長が声を張り上げた。
「今回の目標は、敵の野砲陣地だ! 浸透偵察小隊が敵後方で発見した。野砲八門、位置も判明している!」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、兵士たちから歓声が上がった。
「おおっ!」
「ついに見つけたのか!」
「今まで散々撃ってきやがって!」
「今度はこっちの番だ!」
水野も思わず木田と顔を見合わせた。
「やった! 敵の砲兵が見つかったんだ!」
「ああ。これで少しは仕返しができるな!」
これまで敵の砲撃に対し、思うような反撃ができなかった。
砲兵たちにも、仲間の死傷者を減らせない悔しさがあった。
そこへ、リン伍長の大声が響いた。
「砲兵中隊の見せ場だよ! 気合い入れろ!」
「おおっ!」
「いいかい! 砲弾が足りないなんて言わせないよ! どんどん運んできな!」
「了解!」
「水野! 木田! あんたたちもさっさと動く!」
「はいっ!」
二人は弾薬集積所へ駆け出した。
120mm砲弾は重い。運ぶだけでも一苦労である。
「よいしょっ!」
水野は木田と協力して砲弾を運んだ。
砲弾が次々と運び込まれ、陣地の所定の場所に並べられていく。
まだ一発も撃っていないのに、すでに大仕事が始まっていた。
「ねえ、木田君」
「なんだ?」
「これ、撃ち始めたら大変なことになりそうだね」
「ああ。八門全部だからな。相当撃つつもりなんじゃないか」
「その前に腕が疲れちゃいそう」
水野が苦笑すると、後ろからリンの声が飛んできた。
「水野! 口を動かす元気があるなら、手を動かしな!」
「は、はいっ!」
周囲から笑い声が上がった。
しかし、誰一人として作業の手を緩めなかった。
やがて、遠くから牽引車のエンジン音が聞こえてきた。
「来たぞ!」
誰かが叫んだ。
林道の向こうから、二台の牽引車が姿を現した。後ろには、それぞれ120mm榴弾砲が連結されている。
「予備陣地へ誘導しろ!」
砲兵たちが走り出す。
砲を所定の位置に据え、固定し、射撃準備を整えなければならない。
水野は額の汗を袖で拭い、到着した二門を見つめた。
今度こそ、あの忌々しい砲撃を止められるかもしれない。
「さあ、もうひと頑張りだよ!」
リン伍長が大きな手を打ち鳴らした。
「砲を据えたら、すぐに撃てるようにしておきな! 今日は忙しくなるよ!」
兵士たちの返事が、冬の森に響いた。
* * *
ベルノ連隊司令部では、オリヴィエが作戦地図を前に、砲兵中隊からの報告を待っていた。
敵の野砲陣地には、赤い印が二つ書き込まれている。
そこへ砲兵中隊長が入ってきた。
「大佐、砲兵中隊、全八門の射撃準備が完了しました。移動した四門も予備陣地への展開を終えています」
オリヴィエは腕時計を見た。
「あら、ずいぶん早いわね」
「ええ、敵砲兵陣地と聞いて、隊員もかなりやる気になっています」
「ふふっ、そうでしょうね。今まで一方的に撃たれてきたんですもの」
オリヴィエは満足そうに笑った。
「弾薬の準備は?」
「十分に用意しております。継続射撃にも対応できます」
「結構。では、始めましょうか」
砲兵中隊長が地図を指さした。
「まず北側の第一目標から攻撃します。一門で試射を行い、観測班からの修正を受けます。着弾位置が確認でき次第、全八門による効力射に移ります」
「二か所同時には攻撃しないのね?」
「はい。今回は敵後方の観測班との無線電信による連絡が頼りです。通信にも時間がかかりますので、一か所ずつ確実に叩きます」
「分かったわ。それでいきましょう」
オリヴィエはヴァルターに顔を向けた。
「少佐、エレナたちとの連絡は?」
「ああ、問題ない。通信班も待機してる。いつでも始められるぜ」
「よし。それじゃあ、始めましょうか」
ヴァルターは通信兵に指示を出した。
アウレリアは地図上の二つの印を見つめていた。
「敵の野砲八門……。これだけの砲を潰せれば、第3中隊の高地陣地もずいぶん楽になりますね」
「ええ。あの高地では戦死者まで出しているのよ」
オリヴィエの表情から笑みが消えた。
「これ以上、好き勝手に撃たせるつもりはないわ」
砲兵中隊長が姿勢を正した。
「大佐、射撃命令をお願いします」
オリヴィエはうなずいた。
「砲兵中隊、射撃開始!」
「了解!」
砲兵中隊長は敬礼すると、急いで天幕を出ていった。
その背中を見送り、ヴァルターが口を開いた。
「しかしまあ、うちの砲兵連中も相当頭に来てたみたいだな」
「当然よ。私だって頭にきていたんだから」
ヴァルターが小さく笑った。
「わかってるぜ、お嬢」
アウレリアも思わず苦笑した。
「二人とも、ずいぶん楽しそうですね」
「楽しくなんかないわよ!」
オリヴィエが即座に言い返した。
「ようやく反撃できるんだから、少しぐらい喜んだっていいじゃない!」
「ははっ、そういうところは昔から変わらねえな」
「うるさいわね!」
ヴァルターは肩をすくめた。
アウレリアは二人のやり取りを聞きながら、静かに笑っていた。
オリヴィエは再び作戦地図に視線を落とした。
「さあ、エレナ。あとはあなたたちの腕の見せどころよ」
* * *
魔族陣地の後方、森林に覆われた丘。
エレナ班の四人は、朝から観測を続けていた場所で味方の砲撃を待っていた。
ミレーナが無線電信機の受信内容を確認した。
『第一、試射開始』
「第一目標への試射を始めるそうよ」
「了解。高橋、アルノー、観測準備」
エレナは双眼鏡を構えた。
「高橋は着弾位置を見て。アルノーは敵の砲煙との位置関係を確認してちょうだい。私も地図と照合するわ」
「了解」
高橋は双眼鏡を目に当てた。
丘の北側には、森林に囲まれた谷が広がっている。
敵の野砲は、その樹林の中に隠されていた。
砲そのものは木々や地形に遮られ、ほとんど見えない。しかし、発射のたびに樹冠の上へ白煙が立ち上り、その位置から八門の所在を突き止めることができた。
最初の攻撃目標は北側の四門。
もう一か所、北東側に展開する四門は、その後に攻撃する予定だった。
「そろそろ来るわね」
エレナがつぶやいた。
高橋は息を潜めて、森林の向こうを見つめた。
そのときだった。
森の奥で、突然、茶色い土煙が噴き上がった。
少し遅れて、鈍い爆発音が届く。
「着弾!」
高橋が声を上げた。
「目標より奥です! 右にもずれています!」
「アルノー?」
「俺も確認した。右奥だな」
エレナは地図と照合した。
「高橋、距離は?」
「三百メートルくらいだと思います!」
「分かった。ミレーナ、第一、右奥三百」
「了解」
ミレーナは短い電文を打った。
『第一、右奥三百』
送信を終えると、受信に切り替えた。
敵地での無線電信は危険を伴う。送信時間を少しでも短くするため、電文は必要最小限に抑えられていた。
エレナは再び双眼鏡を構えた。
敵野砲の発射煙は、相変わらず木々の間から上がっている。
「まだ撃ってますね」
高橋が言った。
「そうね。あの一発だけじゃ、自分たちが狙われているとは思わないかもしれないわ」
やがて、返信が届いた。
『第一、第二射』
「次が来るわよ」
ミレーナの声に、高橋は双眼鏡を構え直した。
しばらくして、再び森林の中で爆発が起きた。
「着弾! 今度は近いです!」
高橋が声を上げた。
「目標の少し手前、左側です!」
「俺も同じだ!」
アルノーが答えた。
エレナは着弾位置を確認し、ミレーナに告げた。
「第一、左手前」
『第一、左手前』
再び短い電文が送られた。
「だいぶ近づいてきましたね」
高橋が言った。
「ええ。次で決まるかもしれないわ」
エレナは地図に二発目の着弾位置を書き込んだ。
一発目は目標の右奥、二発目は左手前。
敵の砲煙の位置を基準にして、少しずつ着弾を近づけている。
しばらくして三発目が飛来した。
今度は、敵野砲の発射煙が上がっていた場所のすぐ近くで爆発が起こった。
「着弾! 目標付近です!」
「確認した!」
アルノーも声を上げた。
土煙が樹冠を越えて噴き上がり、枝葉が舞い散った。
「いいわ!」
エレナは満足そうにうなずいた。
「ミレーナ、第一、目標付近。効力射可」
『第一、目標付近。効力射可』
短い送信が終わった。
高橋は双眼鏡を下ろし、大きく息を吐いた。
「ようやくですね」
「ええ。ここからが本番よ」
エレナは腕時計に目を落とした。
「ベルノの砲兵が、どれだけやれるか見せてもらいましょう」
やがて、ミレーナが顔を上げた。
『第一、効力射開始』
「効力射開始よ。全八門で撃つそうよ!」
「八門全部か」
アルノーが口元を緩めた。
「ずいぶん気合いが入ってるな」
「当然よ。今まで散々撃たれてきたんだから」
エレナは双眼鏡を構え直した。
「高橋、しっかり観測してね」
「はい!」
四人は敵砲兵陣地へ視線を集中させた。
やがて、森林の中で最初の爆発が起きた。
続けて二発、三発。
ほとんど間を置かずに、次々と土煙が噴き上がる。
「うわっ!」
高橋が思わず声を上げた。
それまでの試射とは、まるで違った。
最初の爆発が収まらないうちに次の爆発が起こり、森のあちこちから土煙が立ち上っていく。
「四発……五発……!」
アルノーが着弾を数えていた。
「六、七、八! 八発確認!」
敵砲兵陣地の一帯が、土煙と白煙に包まれた。
「すごい……」
高橋は双眼鏡をのぞいたまま、つぶやいた。
「これが八門の一斉射撃……」
エレナも目標を確認した。
「着弾はおおむね良好ね。ミレーナ、第一、着弾良好」
『第一、着弾良好』
ミレーナが電鍵を叩いた。
ところが、その送信が終わるか終わらないかという頃だった。
「……あれ?」
高橋が声を上げた。
再び、森林の中で爆発が始まった。
一発、二発。
「早いな! もう第二斉射か!」
アルノーが驚いたように言った。
「ちょっと、ベルノの砲兵って、こんなに早く撃てたかしら?」
エレナも驚いていた。
試射の間は一発ごとに長く待たされていたのに、効力射に移った途端、砲弾が次々と降り注いでいる。
「すごいですね! ほとんど休んでいないみたいです!」
高橋がそう答えた、その瞬間だった。
敵砲兵陣地の一角で、突然、巨大な火柱が立ち上がった。
「うわっ!」
高橋が思わず身を引いた。
それまでの砲弾の爆発とは、明らかに規模が違っていた。
赤い炎が樹冠より高く噴き上がり、続いて黒い煙が一気に広がった。
少し遅れて、腹に響くような轟音が丘まで届いた。
「な、何だ今のは!」
アルノーが叫んだ。
「弾薬に引火したのかしら!」
エレナも双眼鏡を構え直した。
爆発した場所では、黒煙が空高く立ち上がっている。
その周囲では、第二斉射の残りの砲弾が次々と炸裂していた。
さらに第三斉射、第四斉射が降り注いだ。
すでに第一目標は大量の煙に包まれ、どこに砲弾が落ちているのか判別することも難しくなっていた。
「すごい……」
高橋は呆然とつぶやいた。
「敵の弾薬が爆発したんでしょうか?」
「おそらくね。でも、まだ分からないわ」
エレナは双眼鏡から目を離さなかった。
やがて砲撃が止み、黒煙が風に流され始めた。
爆発した場所の様子が少しずつ見えてくる。
「……あれ?」
高橋が声を上げた。
「エレナ伍長、見てください! 木が!」
「どうしたの?」
「木が倒れています! 陣地の周りの木が、なくなっています!」
エレナは双眼鏡を向けた。
先ほどまで鬱蒼とした森林に覆われていた場所が、ぽっかりと開けていた。
大爆発の爆風によって、周囲の木々がなぎ倒されていたのである。
折れた幹や枝が散乱し、その向こうに、今まで見えなかったものが姿を現していた。
「……野砲だわ!」
エレナが声を上げた。
「高橋、見える?」
「はい! 見えます!」
高橋は双眼鏡をのぞき込んだ。
確かに野砲だった。
倒木の間に長い砲身が見える。別の場所にも、車輪と砲架らしきものがあった。
「あっ、あの砲、傾いています!」
「どれ?」
「右側です! 砲身が変な方向を向いています!」
エレナも確認した。
野砲の一門は、明らかに不自然な姿勢になっていた。周囲の土塁も崩れ、陣地の原形をとどめていない。
「これは……相当やったわね」
アルノーも双眼鏡をのぞき込んでいた。
「すごいな」
「弾薬が誘爆したんでしょうね。間違いなく大きな損害を与えているわ」
エレナは確信した。
何門が破壊されたのかまでは分からない。倒木や煙に遮られ、見えない部分も多かった。
それでも、敵砲兵陣地が大きな被害を受けたことは明白だった。
「アルノー、もう一つの陣地はどう?」
「ちょっと待ってくれ」
アルノーが双眼鏡を北東側へ向けた。
「……ああ、見えた。まだ撃ってるぞ。発射煙が上がってる」
「四門とも?」
「そこまでは分からない。でも、少なくとも二か所から煙が上がった」
エレナはうなずいた。
「よし。次はあっちね」
「第一目標はもういいんですか?」
高橋が尋ねた。
「十分な損害を与えたわ。もちろん、まだ使える砲が残っているかもしれない。でも、今はもう一か所を叩く方が大事よ」
エレナは北東側の森林を見つめた。
「あちらも、この砲撃には気づいているはず。逃げ出す前に攻撃したいわ」
エレナはミレーナに声をかけた。
「第一目標は損害大。第二目標への変更を要請して」
「了解」
ミレーナは電文を短くまとめた。
『第一、大爆発。損害大。第二へ変更要請』
電鍵を叩き終えると、すぐに受信へ切り替えた。
エレナは双眼鏡を北東側へ向けた。
そちらの森林には、まだ大きな変化がなかった。
時折、木々の間から白煙が上がっている。
「向こうの連中、どう思ってるんでしょうね」
高橋がつぶやいた。
「さあね」
エレナは少し笑った。
「でも、隣の砲兵陣地があんなことになったんだから、気が気じゃないでしょうね」
「俺なら逃げるな」
アルノーが言った。
「私もそうするわ」
エレナはあっさりと答えた。
「だから急がないと」
しかし、次の砲撃はすぐには始まらなかった。
目標変更の指示を受けた砲兵中隊では、新しい座標に合わせて射撃諸元を計算し直さなければならない。
さらに、分散した八門への命令伝達も必要だった。
エレナたちは、その間も敵の野砲陣地を監視し続けた。
「なかなか始まりませんね」
高橋が腕時計を見た。
「仕方ないわ。砲兵の方でも準備があるんでしょう」
エレナは双眼鏡を下ろさずに答えた。
「それに、こちらから何度も無線を使うわけにはいかないもの」
十分ほど経過した頃、ようやくミレーナの無線電信機に返信が入った。
『第二、試射開始』
「第二目標への試射を始めるそうよ」
「了解。高橋、アルノー、観測準備」
「了解!」
高橋は双眼鏡を握り直した。
第二目標への最初の一発は、敵野砲陣地のやや手前に落ちた。
「着弾! 目標手前です!」
エレナが双眼鏡で確認する。
「ミレーナ、第二、手前二百」
『第二、手前二百』
短い電文が送られた。
しばらくして、二発目が飛来した。
今度は敵野砲の発射煙が上がっていた場所の近くで爆発が起きた。
「目標付近です!」
「アルノー、どう?」
「いいと思う。ほぼ合ってるぞ」
「よし。ミレーナ、第二、目標付近。効力射可」
『第二、目標付近。効力射可』
ミレーナが送信を終えた。
やがて返信が届いた。
『第二、効力射開始』
「始まるわよ!」
エレナの声に、高橋とアルノーが双眼鏡を構え直した。
しばらくして、北東側の森林で爆発が起きた。
一発、二発、三発。
続けざまに土煙が噴き上がり、敵野砲陣地の周囲が煙に包まれていく。
「相変わらず早いな!」
アルノーが感心したように言った。
「ほんとね。うちの砲兵、なかなかやるじゃない」
エレナも満足そうだった。
第一斉射が終わると、ほどなく第二斉射が始まった。
再び森林の中で爆発が続く。
そのうち、高橋が異変に気づいた。
「あっ! 火が出ています!」
「どこ?」
「目標の右側です! 木の間から炎が見えます!」
エレナが双眼鏡を向けると、確かに森林の一角から赤い炎が上がっていた。
「火災が発生したみたいね」
さらに第三斉射が降り注いだ。
火は少しずつ広がり、木々の間から黒い煙が立ち上り始めた。
「おっ、また爆発したぞ!」
アルノーが声を上げた。
燃えている場所の一角で、砲弾の着弾とは異なる小さな爆発が起きた。
しばらくすると、別の場所でも爆発が起こった。
「弾薬が燃えているんでしょうか?」
高橋が尋ねた。
「その可能性は高いわね。小さな爆発が続いているもの」
エレナは双眼鏡を動かしながら答えた。
第四斉射、第五斉射。
ベルノ連隊の砲兵中隊は、なおも砲撃を続けた。
第一目標のような巨大な爆発こそ起きていないが、第二目標の森林では火災が広がり、ときおり炎の中から爆発が起きていた。
「ミレーナ、第二、火災発生。断続的爆発」
『第二、火災。断続的爆発』
短い電文が送られた。
「それにしても、よく燃えるわね」
エレナがつぶやいた。
「砲弾が燃えてるんですかね?」
「弾薬かもしれないし、積んであった資材かもしれないわ。ここからでは分からないけど、砲兵陣地としては相当な被害でしょうね」
さらに第六斉射が着弾した。
爆発のたびに、燃えている木々の間から新たな煙が噴き上がった。
「まだ撃つんですね」
高橋が言った。
「ええ。第一目標と違って、決定的な大爆発が起きていないもの。確実に叩いておきたいんでしょう」
そして第七斉射。
八門の榴弾砲から放たれた最後の砲弾が、次々と森林の中で炸裂した。
敵砲兵陣地の一帯は、すっかり煙に覆われていた。
「これで七斉射か……」
アルノーがつぶやいた。
「五十六発も撃ち込んだんですね」
高橋が答えた。
「それだけ撃てば、かなりの損害でしょうね」
エレナは双眼鏡を動かした。
敵野砲の発射煙は、もはや確認できなかった。
ただし、砲撃と火災による煙が視界を遮っているため、実際に敵の砲撃が止まったかどうかまでは分からない。
「ミレーナ、第二、損害大。射撃終了要請」
『第二、損害大。射撃終了要請』
短い電文が送られた。
アルノーが北側へ双眼鏡を向けた。
「あっちもまだ煙が上がってるぞ」
第一目標の森林には、巨大な爆発によって生じた黒煙が残っていた。
そして第二目標では、砲撃によって発生した火災が続いている。
二か所の敵野砲陣地が、そろって煙を上げていた。
「エレナ伍長、敵の砲撃は止まったんでしょうか?」
高橋が尋ねた。
「今のところ発射煙は確認できないわね。でも、火災と砲撃の煙で見えなくなっているだけかもしれない」
エレナは慎重だった。
「何門破壊できたかは分からない。でも、両方の陣地に大きな損害を与えたのは確かよ」
「やりましたね!」
高橋の声が弾んだ。
「ええ。よくやってくれたわ、ベルノの砲兵たち」
エレナは満足そうに笑った。
そして、双眼鏡を別の方向へ向けた。
「……そうだわ」
「どうしました?」
「ついでに、あのアンテナも壊しましょう」
エレナが指さした先には、以前から確認していた魔族のアンテナが立っていた。
森林の中から高く突き出した、鉄塔のような構造物だった。
「あれも撃つんですか?」
「ええ。あれだけ大きなアンテナなら、通信にも相当使われているはずよ。壊しておいて損はないわ」
アルノーが笑った。
「今日は徹底的にやるつもりだな」
「せっかくここまで来たんだもの。使える機会は使わなくちゃ」
エレナは地図を広げた。
「ミレーナ、アンテナの砲撃を要請して」
「了解」
ミレーナは位置を確認し、必要な座標と短い符号だけを送信した。
「それにしても、今日は砲兵中隊が大活躍ですね」
高橋が言った。
「本当ね。帰ったら褒めてあげなくちゃ」
「その前に、こっちが無事に帰らないとな」
アルノーの言葉に、エレナが笑った。
「そのとおりよ。まだ敵の後方にいるんだから、浮かれてはいられないわね」
再び待つことになった。
目標の座標が変われば、砲兵中隊は射撃諸元を計算し直さなければならない。
エレナは腕時計に目を落とした。
最初の試射が始まってから、すでにかなりの時間が経っている。
その間、四人はほとんど同じ姿勢で双眼鏡をのぞき続けていた。
やがてミレーナが顔を上げた。
『第三、試射開始』
「アンテナへの砲撃、始まるそうよ」
「了解。高橋、アルノー、観測準備」
エレナは双眼鏡を構えた。
「ずいぶん目立つものを建てたわね」
「まさか、ここまで砲弾が飛んでくるとは思ってなかったんでしょうね」
アルノーが答えた。
やがて、アンテナの手前で砲弾が炸裂した。
「着弾! 手前です!」
「ミレーナ、第三、手前」
『第三、手前』
短い電文が送られる。
次弾はアンテナの右側に落ちた。
「右です!」
「確認したわ。第三、右」
再び修正情報が送られた。
三発目は、アンテナの根元近くで炸裂した。
土煙が上がり、周囲の木々が大きく揺れた。
「近い!」
アルノーが声を上げた。
アンテナはまだ立っていた。
だが、エレナは満足そうにうなずいた。
「いいわ。ミレーナ、第三、目標付近。効力射可」
『第三、目標付近。効力射可』
返信が届くと、再び砲撃が始まった。
今度は八門の砲弾が、アンテナの周囲で次々と炸裂した。
「一発、二発……!」
高橋が着弾を追う。
土煙が塔の下部を覆い隠した。
続いて第二斉射が降り注いだ。
そのときだった。
「あっ!」
高橋が叫んだ。
アンテナの上部が、ゆっくりと傾き始めた。
「倒れる!」
アルノーも声を上げた。
高い鉄塔が途中で折れ曲がるように傾き、やがて支えを失った。
そのまま周囲の木々を巻き込みながら倒れ込んでいく。
「やった! 倒れました!」
高橋が歓声を上げた。
「確認したわ!」
エレナも笑みを浮かべた。
「見事ね。あんな細い目標まで倒してしまうなんて」
「うちの砲兵、今日は絶好調だな!」
アルノーが笑った。
エレナはミレーナに振り向いた。
「第三、アンテナ倒壊。送ってちょうだい」
『第三、アンテナ倒壊』
ミレーナが短い電文を送信した。
高橋は双眼鏡を下ろした。
「これで敵の通信も困るんでしょうか?」
「少なくとも、あのアンテナは使えなくなったわ。どれだけ影響が出るかは分からないけどね」
エレナは北側の森林へ双眼鏡を戻した。
第一目標では、大爆発の跡から黒煙が立ち上っている。
第二目標では、いまだに火災が続き、ときおり小さな爆発が起きていた。
そして、先ほどまで森林の上にそびえていたアンテナは、もう見えなくなっていた。
「敵野砲陣地二か所に、通信施設が一つ……」
アルノーが数えるように言った。
「今日は大戦果だな」
「ええ」
エレナはうなずいた。
「でも、まだ喜ぶのは早いわ。私たちは敵の後方にいるんだから」
高橋も周囲の森を見回した。
最初の試射が始まってから、すでに一時間近くが経過していた。
敵が何らかの反応を示しても不思議ではなかった。
「そろそろ引き揚げますか?」
アルノーが尋ねた。
エレナは倒れたアンテナの方向をもう一度確認した。
「そうね。十分な成果は得られたわ」
そしてミレーナに声をかけた。
「連隊本部に観測終了を報告して。これから帰還するわ」
「了解」
ミレーナが最後の電文を打った。
『観測終了。帰還開始』
送信を終えると、無線電信機の電源を切った。
エレナは地図を畳み、双眼鏡をしまった。
「さあ、みんな。今度は無事に帰るのが仕事よ」
四人は装備を確認し、撤収の準備を始めた。
* * *
ベルノ連隊砲兵中隊、中央砲兵陣地。
「射撃終了! 全砲、射撃止め!」
小隊長の号令が響いた。
最後の砲声が森の向こうへ消えていく。
それまで轟音と怒号に包まれていた砲兵陣地に、ようやく静けさが戻ってきた。
「お、終わったぁ……」
水野香織はその場にへたり込んだ。
「もう……無理……」
隣では木田も膝に手をつき、肩で息をしていた。
「腕が……上がらん……」
「私も……足が動かない……」
二人とも汗だくだった。
三月とはいえ、イジュームの森にはまだ雪が残っている。それなのに、水野の軍服は汗でぐっしょりと濡れていた。
朝からずっと動きっぱなしだった。
最初は弾薬の準備だった。
敵の野砲陣地が発見されたと聞き、砲兵中隊全体が沸き立った。水野も興奮して、木田と一緒に弾薬を運び始めた。
ところが、運んでも運んでも終わらない。
さらに、両翼から移動してきた二門の受け入れ準備まで重なった。
ようやく射撃準備が整ったと思ったら、今度は砲撃開始である。
試射の間はまだよかった。
だが、効力射に移った途端、陣地の様子が一変した。
「次弾、準備!」
「装填!」
「せいっ!」
「撃て!」
轟音とともに砲が火を噴く。
「次!」
「おりゃー!」
「せいっ!」
次から次へと砲弾が運び込まれ、装填され、発射されていく。
八門による全力射撃。
最初の目標には三十五発。
次の目標には五十八発。
最後のアンテナには十九発。
砲兵中隊全体で、合計百十二発。
水野は弾薬置場と砲の間を何度往復したのか、もう覚えていなかった。
一発の砲弾を送り出せば、すぐに次の準備が始まる。
目標変更や試射の間も休めない。次の効力射に備えて弾薬を揃え、残弾を確認し、砲の周囲を整える。
そして再び効力射が始まれば、全員が全力で動き回った。
まるで朝からずっと全力疾走を続けているようだった。
「……こんなの、初めてだよ」
水野がつぶやいた。
「何が?」
木田が息を切らしながら尋ねた。
「こんなに大変だったこと……。訓練でもなかったよ……」
「ああ……俺もだ……」
水野は砲兵中隊に配属されて以来、何度も厳しい訓練を経験してきた。
冬の夜間実弾射撃、繰り返される陣地変換。重い砲弾を運び、寒さの中で榴弾砲を扱う訓練は、決して楽ではなかった。
だが、今日の忙しさは別物だった。
朝から重い砲弾を運び続け、砲撃が始まれば全力で動き回る。そして、それが一時間近くも続いたのである。
体力だけでなく、集中力も使い果たしていた。
ほかの砲の周囲でも、兵士たちが座り込んだり、砲架にもたれかかったりしていた。
「水……誰か水をくれ……」
「自分の水筒はどうした……」
「空っぽだ……」
「俺もだ……」
あちこちから疲れ切った声が聞こえてくる。
そこへ、リン伍長がやってきた。
「なんだい、あんたたち! だらしないねえ!」
いつもの大声だった。
だが、そのリンも額に汗を浮かべ、肩で息をしていた。
水野が顔を上げた。
「リン伍長……もう勘弁してください……」
「何言ってんだい。まだ終わってないよ!」
「……え?」
リンは腰に手を当て、兵士たちを見回した。
「陣地変換だよ! いつまでそこに座ってるつもりだい!」
「えええっ!」
水野と木田が同時に情けない声を上げた。
周囲からも、うめき声が上がった。
「まだやるんですかぁ……」
「当たり前だろ! あれだけ派手に撃ったんだ。敵に位置を知られたかもしれないんだよ!」
「でも……敵の野砲を攻撃したんですよね?」
水野が尋ねた。
「そうだよ」
「だったら、もう反撃してこないんじゃ……」
「ばか言うんじゃないよ! 敵の砲が全部壊れたなんて、誰が言ったんだい?」
「……誰も言ってません」
「そういうことさ!」
ベルノ連隊砲兵中隊では、各砲に三か所から四か所の予備陣地が用意されていた。
いずれも事前に構築、測量を済ませた陣地である。
敵に砲兵陣地の位置を知られた場合、速やかに移動できるよう準備されていた。
そして今回は、八門すべてが大量の砲弾を撃ち込んでいる。
射撃位置を敵に察知された可能性は十分にあった。
ちょうどそのとき、小隊長の号令が響いた。
「全員、陣地変換準備! 各砲、指定予備陣地へ移動!」
「了解!」
兵士たちが重い体を引きずるように立ち上がった。
「木田君……」
「なんだ……」
「私、もう動けない……」
「俺だって同じだよ……」
「誰か代わってくれないかな……」
「全員同じこと考えてるだろ……」
二人は顔を見合わせ、力なく笑った。
しかし、命令が下った以上、動かなければならない。
砲の点検を済ませ、牽引準備に取りかかる。
「駐鋤を上げろ!」
「了解!」
「せーの!」
「おりゃー!」
「せいっ!」
いつもの掛け声が響いた。
だが、さすがに朝のような勢いはなかった。
「声が小さいよ!」
リンが怒鳴った。
「もっと気合い入れな!」
「は、はいっ!」
「せーの!」
「おりゃー!」
重い砲架を動かす。
「せいっ!」
「よし! その調子!」
リンも自ら作業に加わった。
その顔にも疲労の色が濃く浮かんでいたが、手を休めることはなかった。
やがて、牽引車のエンジン音が響いた。
砲兵中隊の牽引車は四台。
八門すべてを一度に移動させることはできない。
あらかじめ決められた順序で四門ずつ移し、牽引車を戻して残りの砲を移動させる。
「よし! 牽引準備完了!」
「移動開始!」
重い120mm榴弾砲が、ゆっくりと動き始めた。
水野はそれを見ながら、深いため息をついた。
「……まだ終わらないんだね」
「そうだな……」
木田が答えた。
砲を移動させれば終わりというわけでもない。
新しい陣地では砲を据え、再び射撃可能な状態に戻さなければならない。弾薬や装備の移動も残っている。
水野は、もう何度目になるか分からないため息をついた。
「今日って……何時になったら休めるのかな……」
「さあ……」
木田も遠い目をした。
そこへリンがやってきた。
「ほら、水野! 木田! ぼさっとしてないで移動準備!」
「はーい……」
「返事に元気がないねえ!」
「はいっ!」
水野は残った力を振り絞って返事をした。
リンは満足そうに笑った。
「よし! それでいいんだよ!」
そして、少しだけ声を落とした。
「まあ、今日はよくやったよ、あんたたち」
「え?」
「敵の砲兵陣地を攻撃できたんだ。今まで散々撃たれっぱなしだったんだからね」
水野はうなずいた。
第3中隊の高地陣地で戦死した三上鈴音の顔が、ふと頭に浮かんだ。
一月の新年休暇には、旧王宮の広場で一緒に笑っていた女の子だった。
あのときは、こんなに早く彼女が死んでしまうなんて思いもしなかった。
今日の砲撃で、敵の野砲を何門破壊できたのかは分からない。
それでも、あの砲撃を少しでも減らせたのなら。
「……頑張ってよかった」
水野が小さくつぶやいた。
「ん? 何か言ったかい?」
リンが尋ねた。
「いえ、何でもありません」
水野は笑った。
「だったら、あとひと頑張りだよ!」
「はい……」
先発の牽引車が、砲を引いて林道へ進んでいく。
その後ろを、装備を抱えた兵士たちが続いた。
水野も重い足を引きずりながら歩き始めた。
「木田君……」
「なんだ?」
「明日、絶対筋肉痛だよ……」
「俺はもう全身痛い……」
「私も……」
二人は力なく笑った。
朝から弾薬を運び続け、百十二発の砲撃に全力を尽くし、今度は陣地変換。
水野にとって、これほど過酷な一日は初めてだった。
だが、ベルノ連隊砲兵中隊の一日は、まだ終わらない。
砲撃が終わっても、砲兵の仕事は終わらないのである。