勇者連隊戦記   作:バグスター

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帝国歴232年3月


第5節 帰還

敵の砲兵陣地への観測砲撃を終えたエレナ班は、急いで丘を下りていた。

 

最後の電信を送ってから、すでにかなりの距離を進んでいる。

 

「少し急ぎましょう。敵も黙ってはいないはずよ」

 

エレナが小声で言った。

 

高橋、アルノー、ミレーナの三人がうなずく。

 

先ほどまで、遠方では激しい爆発が続いていた。

 

敵の野砲陣地二か所と通信施設に対して、ベルノ連隊の砲兵中隊が集中砲撃を行ったのである。

 

その戦果がどれほどだったのか、四人にはまだ分からない。

 

ただ、最初の砲兵陣地で起きた巨大な二次爆発だけは、今も高橋の目に焼き付いていた。

 

四人は森林の中を進んだ。

 

そのとき、先頭のエレナが突然手を上げた。

 

全員が停止する。

 

前方から、複数の足音が聞こえてきた。

 

エレナはすぐに倒木の陰へ身を伏せ、三人にも合図した。

 

しばらくすると、魔族の兵士たちが姿を現した。

 

六体。

 

全員が武器を携え、周囲を警戒しながら歩いている。

 

これまでに見かけた補給兵や連絡兵とは、明らかに様子が違っていた。

 

高橋は小銃を握り、息を殺した。

 

魔族たちは倒木の向こうを通り過ぎていった。

 

一体が足を止め、こちらの方を見た。

 

高橋は一瞬、見つかったのではないかと思った。

 

しかし、エレナは身じろぎ一つしなかった。

 

やがて魔族は仲間の後を追い、森の奥へ消えていった。

 

足音が完全に聞こえなくなってから、エレナが小さく息を吐いた。

 

「……危なかったわね」

 

「もう捜索が始まっているのかもしれないな」

 

アルノーが言った。

 

「ええ。あれだけ正確に砲撃されたんだから、敵も観測兵の存在を疑っているでしょうね」

 

エレナは地図を取り出した。

 

「このまま最短経路を戻るのは危険だわ」

 

「どうする、エレナ?」

 

ミレーナが尋ねた。

 

「南へ迂回しましょう。少し遠回りになるけど、巡察隊との接触を避けたいの」

 

アルノーが地図を見た。

 

「かなり奥深くまで入ったからな。これは大変だぞ」

 

「そうね。でも、無事に帰ることが一番大事よ」

 

四人は進路を南へ変えた。

 

それが、長い帰還行軍の始まりだった。

 

* * *

 

翌日になっても、敵の巡察は厳しかった。

 

四人は夜間に移動し、日中は森林の中で潜伏した。

 

ところが、これまで魔族を見かけなかった場所にまで巡察隊が現れるようになっていた。

 

一度進みかけた方向から足音が聞こえ、引き返す。

 

別の場所では、複数の魔族が林道沿いを捜索していた。

 

そのたびに、エレナは迂回を命じた。

 

「……また遠回りね」

 

ミレーナが小さくため息をついた。

 

「仕方ないわ。戦闘になったら、もっと大変だもの」

 

エレナは周囲を見回した。

 

高橋は黙って歩いていたが、疲労が見え始めていた。

 

アルノーも、背負い具の位置を何度か直している。

 

なかでも負担になっていたのが、無線電信機とその電源だった。

 

持ち運びできるとはいえ、長距離の潜伏行軍ではかなりの重量になる。

 

「……エレナ」

 

アルノーが声をかけた。

 

「そろそろ電信機をどうするか考えた方がいいな」

 

エレナはうなずいた。

 

「私もそう思っていたところよ」

 

やがて四人は、小さな池の近くへ出た。

 

岸辺には薄い氷が残っているが、中央には黒い水面が見えていた。

 

エレナは周囲を確認すると、池のほとりで足を止めた。

 

「ここで電信機を処分しましょう」

 

ミレーナが背負い具を下ろした。

 

「いいの?」

 

「ええ。これ以上持ち歩けば、移動が遅くなるわ。それに、電信機を使える場所を探している余裕もないもの」

 

アルノーがうなずいた。

 

「そうだな」

 

四人は電信機を分解し、重要な部分を壊した。

 

電源や付属品もまとめて、池の深い場所へ沈めた。

 

水面に波紋が広がり、やがて消えた。

 

ミレーナは、軽くなった背負い具を持ち上げた。

 

「……ずいぶん軽くなったわ」

 

「命綱を切ったようなものね」

 

エレナがつぶやいた。

 

「だが、かなり楽に動ける」

 

アルノーが答えた。

 

「そうね。これで少しは移動速度を上げられるわ」

 

エレナは池を一度だけ振り返った。

 

もう連隊本部へ連絡することはできない。

 

自分たちの判断だけで、味方の陣地まで帰らなければならなかった。

 

* * *

 

砲撃から二日が経過した。

 

ベルノ連隊の浸透偵察小隊では、すでにゲルフ班とフリーダ班が帰還していた。

 

しかし、エレナ班からは最後の電信以降、何の連絡もなかった。

 

森林内の小隊本部天幕で、ヴァルター少佐は地図を眺めていた。

 

そこへフリーダが入ってきた。

 

「少佐、エレナたちはまだですか?」

 

「ああ。何も連絡はない」

 

「……そうですか」

 

フリーダは地図に目を落とした。

 

「たぶん、電信機を放棄したわね」

 

「俺もそう思う」

 

ヴァルターは腕を組んだ。

 

「あれから敵の砲撃はまったくなくなったからな。敵の砲兵陣地には相当な損害が出たはずだ。連中もただ黙ってはいないだろう」

 

「巡察が厳しくなっているんでしょうね」

 

「ああ。大きく迂回している可能性がある」

 

フリーダは小さく息を吐いた。

 

「エレナなら、無理に突破しようとはしないでしょうけど……」

 

「そうだな。あいつは慎重だ。それに、アルノーもミレーナも経験がある」

 

ヴァルターは地図を指でなぞった。

 

「高橋もいる。観察眼だけなら、うちの小隊でも相当なものだ」

 

「ええ」

 

「心配なのは、食料と疲労だな」

 

フリーダはうなずいた。

 

エレナ班が持っていった食料は、無制限ではない。

 

敵の捜索を避けて大きく迂回しているなら、帰還までの日数はさらに延びる。

 

「救援に出ることはできませんか?」

 

「居場所が分からん。こちらが動けば、かえって敵を刺激する可能性もある」

 

ヴァルターは首を振った。

 

「今は、あいつらを信じるしかない」

 

フリーダはしばらく黙っていた。

 

やがて、小さくうなずいた。

 

「……そうですね」

 

* * *

 

砲撃から三日が経過した。

 

連隊司令部では、オリヴィエ大佐、アウレリア大尉、ヴァルター少佐が地図を囲んでいた。

 

「まだ帰ってこないのね」

 

オリヴィエが言った。

 

「はい。最後の電信以降、連絡はありません」

 

ヴァルターが答えた。

 

「敵の巡察が増えている可能性が高い。おそらく南へ迂回していると思います」

 

「南へ?」

 

「ええ。連隊正面へ真っすぐ戻るのは危険でしょうから」

 

アウレリアが地図を見つめた。

 

「どの辺りを通っているかしら」

 

「そこまでは分かりません。最後に送られてきた座標は、観測地点のものですから」

 

オリヴィエはしばらく考え込んだ。

 

「……何か、こちらからできることはないかしら」

 

ヴァルターが顔を上げた。

 

「無理に捜索隊を出すのは勧めませんぜ、お嬢」

 

「分かってるわよ。でも、ただ待っているだけっていうのも嫌なのよ」

 

オリヴィエは地図上の敵主陣地を見た。

 

「そうだわ。南側の魔族陣地を夜間砲撃しましょう」

 

アウレリアが顔を上げた。

 

「牽制砲撃ですか?」

 

「ええ。敵の注意を前線へ引き戻すのよ。毎晩砲撃されれば、連中だって主陣地の警戒や補修を優先しなければならないでしょう?」

 

ヴァルターがうなずいた。

 

「なるほど。後方を探し回っている兵を減らせるかもしれませんな」

 

「エレナたちがどこにいるか分からない以上、直接助けることはできないわ。でも、敵の巡察が少しでも減れば、帰りやすくなるはずよ」

 

オリヴィエはアウレリアに向き直った。

 

「砲兵中隊へ命令を出して。南側の敵主陣地に対して、数日間、夜間の牽制砲撃を実施するわ」

 

「了解しました」

 

「観測なしで撃てる、位置の分かっている目標を使って。陣地変換も忘れないように」

 

オリヴィエは地図を見つめた。

 

「……何とか帰ってきなさいよ、エレナ」

 

* * *

 

同じ頃。

 

エレナ班は、ベルノ連隊が予想していたよりも、はるか南の森林を進んでいた。

 

何度も巡察隊を避けた結果、予定していた帰還経路から大きく外れてしまっていたのである。

 

「……ずいぶん南へ来てしまったわね」

 

エレナが地図を見ながら言った。

 

「だが、敵の巡察は少し減ってきたな」

 

アルノーが答えた。

 

「ええ。この辺りまで来るとは思っていなかったのかもしれないわ」

 

その夜、四人が森林を移動していると、遠くから砲声が聞こえてきた。

 

高橋が顔を上げた。

 

「……砲撃ですね」

 

「北西の方からだな」

 

アルノーが耳を澄ませた。

 

「ベルノ連隊の砲兵かしら」

 

ミレーナが言った。

 

「おそらくね」

 

エレナは北西の暗い空を見つめた。

 

敵の主陣地を砲撃しているらしい。

 

しかし、その目的までは分からなかった。

 

「味方も頑張っているのね」

 

エレナはそう言うと、再び歩き始めた。

 

しばらく進んだところで、前方の木々が途切れた。

 

四人は足を止めた。

 

幅の広い林道が、森林の中を延びていた。

 

これまで見た林道と違い、車両が十分にすれ違えるほどの幅があった。

 

「……大きな道ですね」

 

高橋が言った。

 

「ええ。地図で確認しましょう」

 

エレナは周囲を警戒しながら、古い地図を広げた。

 

「この道かしら……」

 

指で林道をたどる。

 

「古い地図では、第2中隊の正面へ続いているみたいね」

 

「じゃあ、この道をたどれば味方の方へ行けるのか?」

 

アルノーが尋ねた。

 

「可能性はあるわ。でも、道を歩くのは危険ね」

 

エレナは道の両側を確認した。

 

そのとき、高橋が地面を指さした。

 

「エレナさん、これ……」

 

林道の土には、幅の広い履帯の跡が残っていた。

 

しかも、一つや二つではない。

 

いくつもの跡が重なり、地面が深く踏み固められていた。

 

「……履帯ね」

 

エレナがしゃがみ込んだ。

 

高橋も、その跡を見つめた。

 

「戦車でしょうか?」

 

「この履帯の幅だと戦車の可能性が高いわね」

 

エレナは跡の一つを注意深く調べた。

 

幅が広く、地面への食い込みも深い。

 

「それにしても、何度も通っているようだな」

 

アルノーが言った。

 

「ええ。少なくとも、一度や二度の通行ではなさそうね」

 

ミレーナが林道の奥を見た。

 

「戦車が何両も通っているのかしら」

 

「そこまでは分からないわ。同じ車両が何度も通った可能性もあるもの」

 

エレナは立ち上がった。

 

「ただ、これだけ幅の広い履帯なら、戦車が通行している可能性は高いと思うわ」

 

高橋は林道の向こうを見つめた。

 

魔族の戦車。

 

講習で見せられた、傾斜装甲を備えた車両の姿が頭に浮かんだ。

 

「……第2中隊の正面へ続いているんですよね」

 

「古い地図ではね。ただ、今もそのまま通じているかどうかは分からないわ」

 

エレナは地図に印をつけた。

 

「重要な情報よ。帰ったら少佐に報告しましょう」

 

四人は林道を慎重に横断した。

 

車両そのものは見かけなかった。

 

渡り終えると、エレナはもう一度地図を広げた。

 

「ここから北西へ進路を取るわ」

 

アルノーがうなずいた。

 

「そうすると、ベルノ連隊の担当正面に近づけるな」

 

「ええ。ただし、私は三上陣地を目指すつもりよ」

 

三上陣地。

 

それは、二月に第3中隊が守っていた高地陣地の通称だった。

 

敵の砲撃によって、第20期召喚者の三上鈴音が戦死した場所である。

 

彼女の死後、兵士たちの間では、いつしかその高地を「三上陣地」と呼ぶようになっていた。

 

正式な名称ではない。

 

稜線に設けられた監視用の陣地と、その背後に整備された反対斜面陣地。この二つを含む高地陣地全体が、三上陣地と呼ばれていた。

 

現在は第3中隊に代わり、第4中隊が守備を担当している。

 

「……鈴音さんが戦死した、あの高地ですね」

 

高橋が言った。

 

「ええ。亘一も知っているでしょう?」

 

「はい。何度も行きましたから」

 

高橋は、稜線の塹壕と、その背後に整備された反対斜面陣地を思い出した。

 

「私たちも地形を知っているし、帰還地点としては悪くないと思うの」

 

アルノーがうなずいた。

 

「確かに、知らない陣地へ出るよりはいいな」

 

「まずは北西へ。林道から距離を取って進みましょう」

 

四人は再び森林の中へ入った。

 

敵の巡察は、明らかに薄くなっていた。

 

それでも、エレナは急がなかった。

 

ようやく味方の前線に近づきつつある。

 

だからこそ、ここで失敗するわけにはいかなかった。

 

* * *

 

砲撃から四日が過ぎた夜。

 

エレナ班は、ようやく魔族の主陣地の後方に到達した。

 

森林の向こうには、塹壕や掩体壕が連なっている。

 

時折、魔族の兵士が行き来する姿も見えた。

 

「……やっとここまで来たわね」

 

エレナがつぶやいた。

 

「しかし、ここを越えないと帰れないな」

 

アルノーが言った。

 

「そうね。まずは潜伏場所を探しましょう」

 

四人は周囲を調べた。

 

やがて高橋が、小さな沢筋を指さした。

 

「エレナさん、あそこはどうでしょう?」

 

沢が斜面を削ってできた窪地だった。

 

倒木と低木が重なり、外側からは内部が見えにくい。

 

アルノーが周囲を確認して戻ってきた。

 

「敵の通り道からも外れている。いい場所だと思う」

 

「そうね。ここにしましょう」

 

四人は窪地に身を潜めた。

 

倒木の隙間からは、魔族の主陣地の一部も見通せた。

 

「……ここなら、日中も観測できそうね」

 

エレナが言った。

 

「明日は敵の配置を調べるんですか?」

 

高橋が尋ねた。

 

「ええ。塹壕や歩哨の位置を確認して、突破できそうな場所を探しましょう」

 

ミレーナが顔を上げた。

 

「突破するのは明日の夜?」

 

「そのつもりよ。今夜はもう動かないわ」

 

エレナは地図を畳んだ。

 

「これからが一番危険だもの。十分に調べてから行動しましょう」

 

そのとき、遠くから砲声が聞こえてきた。

 

四人は顔を上げた。

 

北西方向から、再び砲撃が始まったのである。

 

魔族の主陣地の一角で、砲弾が炸裂した。

 

続いて、いくつもの爆発が起きる。

 

「今夜も撃ってるんですね」

 

高橋が言った。

 

「そうね」

 

エレナは双眼鏡を構えた。

 

砲撃が始まると、敵陣地の中を歩いていた魔族たちが掩体壕へ駆け込んでいった。

 

「……なるほど」

 

「どうした、エレナ?」

 

アルノーが尋ねた。

 

「敵の動きよ。砲撃が始まると、屋外にいる兵士が減るみたいね」

 

「確かにそうだな」

 

「明日の夜も味方が砲撃してくれれば、突破しやすくなるかもしれないわ」

 

「ただし、着弾している場所には近づけないな」

 

「もちろんよ。明日は敵の配置を詳しく調べましょう」

 

エレナは双眼鏡を下ろした。

 

味方がなぜ連夜の砲撃を続けているのかは分からない。

 

しかし、それが四人にとって貴重な機会になるかもしれなかった。

 

「さあ、休みましょう。明日は一日観測よ」

 

四人は交代で警戒しながら、夜を過ごすことにした。

 

* * *

 

翌朝。

 

エレナ班の四人は、潜伏場所から魔族の主陣地を観測していた。

 

夜間の砲撃は、すでに止んでいる。

 

森の向こうでは、ところどころから薄い煙が立ち上っていた。

 

「……ずいぶん荒れているわね」

 

エレナが双眼鏡をのぞきながら言った。

 

塹壕の一部は崩れ、土塁もあちこちで欠けていた。倒木が通路を塞ぎ、大きな砲弾穴が残っている場所もある。

 

その周囲では、魔族の兵士たちが忙しそうに働いていた。

 

「補修をしているみたいですね」

 

高橋が言った。

 

「ええ。あちこちで土を運んでいるわね」

 

魔族たちは崩れた塹壕を掘り直し、土嚢を積み、破壊された掩体壕を修理していた。

 

ある場所では十体近い魔族が集まり、倒木を片づけている。

 

別の場所では、木材を運ぶ兵士たちが見えた。

 

「昨夜の砲撃だけでも、相当な被害が出ているようだな」

 

アルノーが言った。

 

「そうね。でも、昨夜だけの被害じゃないと思うわ」

 

エレナが指さした先では、埋め戻された砲弾穴のすぐ隣に、新しい穴が開いていた。

 

修理されたばかりと思われる土塁も、再び崩れている。

 

「連日砲撃されているから、補修が追いついていないのね」

 

ミレーナがつぶやいた。

 

「そうみたいね。直しても、夜になればまた砲弾が降ってくるんでしょう」

 

エレナは双眼鏡を左右に動かした。

 

四人は交代で観測を続けた。

 

魔族の主陣地は、森林の縁から緩やかな斜面に沿って延びている。

 

塹壕は連絡通路で結ばれ、その後方には掩体壕が設けられていた。

 

機銃陣地と思われる場所も、いくつか確認できた。

 

「エレナ、あの右側の斜面はどうだ?」

 

アルノーが指さした。

 

「悪くないわね。でも、手前に歩哨がいるでしょう?」

 

「ああ、二体いるな」

 

「塹壕の奥も見えないわ。まだ判断できないわね」

 

エレナは地図に小さな印を書き込んだ。

 

「候補の一つにしておきましょう」

 

その後も四人は、敵の配置を調べていった。

 

北側の林の中。

 

南側の沢筋。

 

どちらも地形を利用できそうだったが、歩哨や巡察隊の動きに不安があった。

 

昼近くになった頃、高橋が双眼鏡をのぞいたまま声をかけた。

 

「エレナさん、ちょっと見てもらえますか?」

 

「どうしたの?」

 

「あそこ、砲撃が直撃したみたいですね。陣地が放棄されてるみたいです」

 

高橋が指さしたのは、主陣地の中央から少し南寄りの場所だった。

 

エレナは双眼鏡を向けた。

 

「……あら、本当ね」

 

そこには大きな砲弾穴が開いていた。

 

塹壕の一部は完全に崩れ、周囲には破壊された木材や土嚢が散乱している。

 

掩体壕らしき構造物も潰れていた。

 

ほかの場所では魔族が補修作業を続けていたが、その一角には誰もいなかった。

 

「ずいぶんひどくやられているわね」

 

「午前中から見ていましたけど、あそこには誰も来ていないんです」

 

高橋が答えた。

 

「なるほど。補修を諦めたのかもしれないわね」

 

アルノーも双眼鏡を向けた。

 

「確かに、あそこだけ人の動きがないな」

 

「でも、安全とは限らないわ」

 

エレナは慎重に観察を続けた。

 

崩壊した部分の左右には、まだ無事な塹壕が残っている。

 

そちらには魔族の歩哨が配置されていた。

 

「左右の陣地から、どの程度見えるかが問題ね」

 

「障害物も残っているかもしれないな」

 

「ええ。でも、ここは有力候補よ」

 

エレナは地図に印をつけた。

 

午後になっても観測は続いた。

 

魔族の補修作業はなかなか終わらなかった。

 

朝から作業していた場所でさえ、夕方になっても修復は不完全だった。

 

そして、高橋が発見した崩壊した陣地には、最後まで魔族の兵士が現れなかった。

 

「エレナさん、やっぱりあそこは放棄したみたいです」

 

高橋が報告した。

 

「ええ。私もそう思うわ」

 

エレナは双眼鏡を下ろした。

 

「今夜は、あそこを第一候補にしましょう」

 

アルノーがうなずいた。

 

「ただ、近くまで行って危険だと分かったら?」

 

「そのときは引き返すわ。無理に突破するつもりはないもの」

 

「味方の砲撃もあるといいわね」

 

ミレーナが言った。

 

「そうね。今夜も撃ってくれれば、敵の注意がそちらへ向くかもしれないわ」

 

エレナは三人を見回した。

 

「今日の観測で、突破できそうな場所は見つかった。でも、敵の主陣地であることに変わりはないわ。最後まで慎重にいきましょう」

 

三人がうなずいた。

 

* * *

 

夕方になり、エレナ班は観測を切り上げた。

 

「さて、食事にしましょうか」

 

エレナの言葉に、四人はそれぞれ背負い具から食料を取り出した。

 

残っていたのは、乾パンと少量の干し肉だけだった。

 

高橋は自分の食料袋をのぞき込んだ。

 

「……これで最後ですね」

 

「ええ。全部食べたら、もう何も残らないわ」

 

ミレーナが答えた。

 

予定より大幅に帰還が遅れたため、ここ数日は食料を節約していた。

 

それでも、ついに底をついたのである。

 

「まさか、こんなに長い任務になるとは思わなかったな」

 

アルノーが静かに言った。

 

「そうね。あそこまで南へ迂回することになるとは思わなかったわ」

 

エレナは乾パンをかじった。

 

硬く、味気ない。

 

しかし、空腹の体にはありがたかった。

 

四人はしばらく黙って食事を続けた。

 

「これで食料はおしまいか……」

 

高橋が空になった袋を畳んだ。

 

「今夜帰れなかったら、明日は何も食べられないんですね」

 

「そうなるわね」

 

エレナはあっさりと答えた。

 

「でも、だからといって無理に突破するつもりはないわよ」

 

「はい」

 

「空腹は我慢できるけど、敵に見つかって撃たれたら、それまでだもの」

 

アルノーがうなずいた。

 

「そのとおりだな。ここまで無事に来たんだ。最後に焦って失敗するわけにはいかない」

 

「でも、できれば今夜帰りたいわね」

 

ミレーナが言った。

 

「私、お腹いっぱいの温かい食事がしたいわ」

 

「俺もです」

 

高橋が即座に答えた。

 

「あと、温かい寝床も」

 

「欲張りね、亘一」

 

エレナが笑った。

 

「でも、私も同じよ」

 

四人の間に、小さな笑い声が起きた。

 

エレナは食料袋を確認した。

 

本当に、もう何も残っていなかった。

 

「さあ、夜まで休みましょう。今夜は長くなるわよ」

 

四人は交代で警戒を続けながら、休息に入った。

 

* * *

 

夜になった。

 

エレナ班の四人は、潜伏場所で装備の点検をしていた。

 

小銃の状態を確認し、弾薬の残数を確かめる。

 

背負い具は、食料も電信機もなくなったため、出発時とは比べものにならないほど軽くなっていた。

 

「全員、準備はいい?」

 

エレナが尋ねた。

 

「大丈夫だ」

 

「私も準備できたわ」

 

「いつでも行けます」

 

三人の返事を聞いて、エレナはうなずいた。

 

「それじゃあ、砲撃が始まるのを待ちましょう」

 

四人は倒木の陰に身を伏せ、魔族の主陣地を見つめた。

 

昼間の観測で、突破地点はほぼ決まっていた。

 

高橋が発見した、砲撃によって破壊された陣地である。

 

ただし、今夜も味方が砲撃してくれるとは限らない。

 

時間が過ぎていった。

 

一時間、さらにもう一時間。

 

夜は深まり、森の冷気が強くなっていく。

 

「……今日は撃たないのかしら」

 

ミレーナが小さくつぶやいた。

 

「まだ分からないわ」

 

エレナは腕時計を確認した。

 

そのときだった。

 

遠くから、低い砲声が聞こえてきた。

 

四人が顔を上げた。

 

「……始まった?」

 

ミレーナがささやいた。

 

続いて二発、三発と砲声が響く。

 

やがて魔族の主陣地の北側で爆発が起きた。

 

一瞬遅れて、さらに数発が炸裂する。

 

「始まったわ」

 

エレナが双眼鏡を構えた。

 

深夜になって、ベルノ連隊の砲兵中隊が攻撃を開始したのである。

 

「今夜も撃ってくれたな」

 

アルノーが言った。

 

「ええ。ありがたいわね」

 

エレナは敵陣地の様子を確認した。

 

砲撃が始まると、塹壕の中を移動していた魔族の姿が減っていった。

 

屋外にいた兵士たちは掩体壕へ退避し、陣地内の動きが鈍くなっている。

 

「昨夜に見たとおりね」

 

「ただ、歩哨は残っているな」

 

アルノーが指摘した。

 

「ええ。油断はできないわ」

 

エレナは双眼鏡を南側へ動かした。

 

目標にしていた崩壊した陣地は、砲撃を受けている区域から少し離れていた。

 

今のところ、そこに砲弾は落ちていない。

 

「よし。予定どおり、あそこを通りましょう」

 

エレナは三人を見回した。

 

「ここからは声を出さないで。合図だけで行動するわ。どうしても必要な場合を除いて、発砲もしないこと」

 

三人がうなずいた。

 

「行きましょう」

 

四人は潜伏場所を離れた。

 

森林の中を、ゆっくりと進む。

 

先頭はエレナ。その後ろに高橋とミレーナ、最後尾をアルノーが警戒した。

 

主陣地が近づくにつれて、地面には砲弾の破片や折れた枝が増えていった。

 

ところどころに砲弾穴があり、雪と泥が混じった地面は歩きにくかった。

 

エレナは何度も足を止め、周囲を確認した。

 

やがて、前方に崩壊した陣地が見えてきた。

 

大きな砲弾穴が開き、周囲には土嚢や木材が散乱している。

 

塹壕は途中で崩れ、元の形が分からないほどだった。

 

エレナは手を上げた。

 

四人が停止する。

 

右側の塹壕には、魔族の歩哨が一体いた。

 

しかし、こちらには背を向けている。

 

左側の陣地にも歩哨がいるはずだったが、姿は見えなかった。

 

砲撃によって退避しているのかもしれない。

 

エレナは高橋に目を向けた。

 

高橋はうなずいた。

 

昼間から何度も確認していた場所だった。

 

崩壊した陣地の中央では、塹壕が途切れている。

 

そこを通れば、敵の主陣地線を横切ることができるはずだった。

 

エレナは前進の合図を出した。

 

四人は身を低くして進んだ。

 

塹壕の近くまで来ると、崩れた土塁の陰に身を隠した。

 

高橋は息を殺した。

 

すぐ近くに、魔族の主陣地がある。

 

昼間、双眼鏡越しに見ていた場所が、今は手の届きそうな距離にあった。

 

遠くで砲弾が炸裂した。

 

地面がかすかに震える。

 

その音に紛れるように、エレナが前進した。

 

高橋が続く。

 

崩れた塹壕の底には、砲撃で飛び散った木材や土嚢が積み重なっていた。

 

足元を確かめながら、慎重に乗り越えていく。

 

高橋は途中で足を滑らせそうになったが、すぐに体勢を立て直した。

 

後ろのミレーナも、音を立てないよう注意しながら通過した。

 

最後にアルノーが続く。

 

四人は無事に崩壊した塹壕を越えた。

 

しかし、まだ安心はできない。

 

主陣地の前方には、障害物や監視所が残っている可能性があった。

 

エレナは再び手を上げた。

 

四人はその場に伏せた。

 

左手の塹壕から、魔族の話し声が聞こえてきた。

 

高橋は思わず小銃を握り直した。

 

魔族の声は、かなり近い。

 

しかし、こちらへ近づいてくる様子はない。

 

やがて、遠くで大きな爆発が起きた。

 

魔族の声が途切れた。

 

しばらくすると、足音が遠ざかっていく。

 

エレナはその音を聞き届けてから、前進の合図を出した。

 

四人は再び動き始めた。

 

崩れた陣地を抜け、低木の間を進む。

 

そこには、かつて障害物が設置されていたらしい杭が残っていた。

 

しかし、砲撃によって多くが倒され、鉄線も地面に垂れ下がっている。

 

エレナは慎重に通れる場所を確認し、三人を誘導した。

 

そして、最後の障害物を越えた。

 

目の前には、暗い森林が広がっていた。

 

エレナは少し先まで進むと、大きな木の陰に身を隠した。

 

全員が集まるのを待ってから、周囲を確認する。

 

背後には、魔族の主陣地があった。

 

前方には、味方陣地との間に広がる森林が続いている。

 

「……抜けたわ」

 

エレナが小さく言った。

 

高橋は思わず振り返った。

 

「本当に、抜けたんですね」

 

「ええ。魔族の主陣地線は突破したわ」

 

エレナは小さく笑った。

 

「亘一、いい場所を見つけてくれたわね」

 

「いえ、たまたまです」

 

「それでも、あそこを見つけてくれたおかげよ」

 

アルノーが周囲を確認した。

 

「監視も予想以上に薄かったな。砲撃のおかげかもしれない」

 

「そうね。うまくいったわ」

 

ミレーナが大きく息を吐いた。

 

「よかった……」

 

エレナは地図を取り出した。

 

「でも、まだ終わりじゃないわよ」

 

三人が顔を上げた。

 

「この先には緩衝地帯があるわ。まだまだ気を抜けないわよ」

 

アルノーがうなずいた。

 

「まずは無事に抜けないとな」

 

「ええ。それから味方の陣地へ近づくときには、敵と間違えられないようにしないとね」

 

高橋が北西方向を見た。

 

「目指すのは三上陣地ですね」

 

「そうよ。ここからも時間がかかると思うわ」

 

四人は再び歩き始めた。

 

背後では、ベルノ連隊の砲撃が続いていた。

 

* * *

 

魔族の主陣地線を突破してからも、エレナ班の歩みは遅かった。

 

その先には、魔族と帝国軍のどちらも常時占領していない緩衝地帯が広がっている。

 

敵の前哨が残っている可能性もあれば、敵の偵察兵に発見される可能性もあった。

 

四人は何度も足を止め、周囲を確認しながら進んだ。

 

深夜に始まった砲撃は、いつの間にか止んでいた。

 

それからも、かなりの時間が経過している。

 

ようやく、見覚えのある高地が暗闇の中に浮かび上がってきた。

 

「……あれですね」

 

高橋が小声で言った。

 

「ええ。三上陣地よ」

 

エレナが答えた。

 

「ようやく帰ってきたわね」

 

ミレーナがつぶやいた。

 

「まだよ。味方に確認してもらうまでは、帰還したとは言えないわ」

 

エレナは周囲を見回した。

 

「もう少し近づいたら、こちらから光で合図を送りましょう」

 

四人は慎重に前進した。

 

やがて、稜線を見通せる低木の陰に身を伏せた。

 

夜明けが近づいていたが、周囲はまだ暗い。

 

エレナは小さなペンライトを取り出した。

 

「ここから合図を送るわ。みんなは周囲を警戒していて」

 

三人がうなずいた。

 

エレナは稜線へ向けて、ペンライトを短く点滅させた。

 

一度消し、少し間を置いて、もう一度。

 

そして光を消し、じっと待った。

 

* * *

 

三上陣地。

 

稜線の監視陣地では、山田直樹と宍戸亜美兵長が前方の森林を警戒していた。

 

宍戸亜美は、第16期召喚者の日本人女性である。

 

現在は第4中隊の分隊付き衛生兵として勤務していた。

 

明るく気さくな性格で、少し派手な雰囲気と軽い調子の話し方は、いかにも日本の若い女性らしかった。

 

山田ともよく冗談を言い合っていたが、衛生兵としての仕事は真面目にこなしている。

 

戦場で負傷者を手当てすることもあれば、こうして分隊の兵士たちと一緒に警戒勤務につくこともあった。

 

ベルノ連隊の夜間砲撃は、すでに終了していた。

 

「……眠いっすねえ」

 

山田が小さくつぶやいた。

 

「何言ってんの。もうちょっとで交代でしょ」

 

宍戸が答えた。

 

「そうなんですけど……」

 

「ほら、ちゃんと前見てなさいよ」

 

「はいはい」

 

「返事は一回!」

 

「はいっ!」

 

宍戸は小さく笑い、前方へ視線を戻した。

 

現在、ベルノ連隊の各陣地には、通常より厳重な警戒が命じられていた。

 

浸透偵察小隊の一個班が、敵後方での任務を終えた後も帰還していないのである。

 

どの班なのか、一般の兵士たちには知らされていなかった。

 

ただし、帰還を支援するため、前方から接近する少人数の兵士や、光による合図には特に注意するよう指示されていた。

 

発見した場合は直ちに報告し、味方かどうか確認すること。

 

敵との誤認を防ぐためにも、警戒を厳にする必要があった。

 

「浸透偵察の人たち、まだ帰ってきてないんですよね」

 

山田が言った。

 

「そうらしいわね」

 

「ずいぶん長いですよね」

 

「敵の後ろまで行ってるんだから、大変なんでしょうけど」

 

宍戸は前方の暗い森林を見つめた。

 

そのときだった。

 

「……ん?」

 

宍戸が小さく声を上げた。

 

「どうしました?」

 

「ちょっと待って。今、光らなかった?」

 

「え?」

 

「あそこ。林の縁の辺り」

 

宍戸は前方を指さした。

 

山田も目を凝らした。

 

しばらくすると、暗闇の中で小さな光が見えた。

 

一瞬光り、すぐに消える。

 

少し間を置いて、再び光った。

 

「あっ、見えました!」

 

山田が声を上げかけた。

 

「声、大きい!」

 

宍戸が小声で注意した。

 

「あ、すみません」

 

「ペンライトよね、あれ」

 

「そうですね。誰かが合図してるみたいです」

 

宍戸の表情が引き締まった。

 

「未帰還の偵察班かもしれないわ。あんた、ここで監視してて」

 

「了解!」

 

宍戸は塹壕の中を小走りに進んだ。

 

少し離れた場所にいたフレデリカ曹長に報告する。

 

フレデリカは、第4中隊で分隊長を務める小柄なエルフ女性だった。

 

軍歴は十二年。

 

十歳になる子供を持つ母親でもある。

 

小柄な体格とは裏腹に、豊富な軍務経験を持つ古参兵で、部下への指導は厳しかった。

 

特に、何かと余計なことを口にする山田は、たびたび彼女に叱られている。

 

しかし、部下の面倒見もよく、経験の浅い兵士たちにとっては頼れる分隊長だった。

 

「曹長! 前方の森林でペンライトの光を発見しました!」

 

フレデリカが顔を上げた。

 

「位置は?」

 

「正面の林の縁です。繰り返し点滅しています!」

 

「分かった。案内しろ」

 

フレデリカは近くの兵士に命じた。

 

「連隊司令部へ報告。前方から光による合図を確認。未帰還の浸透偵察班の可能性あり」

 

「了解!」

 

フレデリカは宍戸とともに監視位置へ向かった。

 

「山田、どうだ?」

 

「曹長、まだ同じ場所で光っています!」

 

山田が前方を指さした。

 

ちょうどそのとき、小さな光が見えた。

 

フレデリカは双眼鏡を構えた。

 

「……確かに合図しているな」

 

「帰還する偵察班でしょうか?」

 

宍戸が尋ねた。

 

「可能性はある。だが、まだ分からん」

 

フレデリカは周囲の兵士を見回した。

 

「前方の監視を続けろ。確認できるまで発砲は控えろ。ただし、敵の接近にも備えておけ」

 

「了解!」

 

フレデリカは宍戸に向き直った。

 

「ペンライトを持っているか?」

 

「はい!」

 

「よし。こちらからも合図を返せ」

 

宍戸はポケットからペンライトを取り出した。

 

手で光を遮りながら、前方へ向ける。

 

「送ります」

 

小さな光が、暗い森林へ向けて点滅した。

 

数秒が過ぎた。

 

すると、前方の光が再び点滅した。

 

「あっ! 返ってきました!」

 

宍戸が小声で言った。

 

フレデリカがうなずく。

 

「こちらの合図は見えたようだな」

 

「じゃあ、やっぱり味方ですかね?」

 

山田が尋ねた。

 

「まだ断定できん。接近してきたら、所属と身元を確認する」

 

フレデリカは前方を見つめた。

 

「全員、そのまま警戒を続けろ」

 

* * *

 

「……返事が来たわ!」

 

ミレーナが小さく声を上げた。

 

エレナも稜線を見つめていた。

 

確かに、こちらへ向けて小さな光が点滅している。

 

「よかった。気づいてもらえたみたいね」

 

高橋が大きく息を吐いた。

 

「ようやくですね」

 

「ええ。でも、まだ勝手に近づかないわよ」

 

エレナはもう一度光を送った。

 

向こうからも応答があった。

 

四人は周囲を確認しながら、少しずつ接近した。

 

やがて、前方から帝国共通語の呼びかけが聞こえた。

 

「そこで止まれ! 所属を名乗れ!」

 

エレナはすぐに立ち止まった。

 

「ベルノ連隊、浸透偵察小隊! 任務から帰還した!」

 

少し間があった。

 

「人数は?」

 

「四名! 全員無事!」

 

塹壕の向こうで、人の動く気配がした。

 

「武器を構えるな! その場で待て!」

 

「了解!」

 

エレナは三人に合図した。

 

四人はその場にとどまった。

 

しばらくして、塹壕の一角に兵士たちの姿が見えた。

 

「浸透偵察小隊か?」

 

小柄なエルフの女性曹長が、こちらを見つめていた。

 

「そうよ。私はエレナ伍長。ヴァルター少佐の小隊に所属しているわ」

 

「エレナ伍長だな?」

 

「ええ」

 

フレデリカは四人を順番に確認した。

 

全員が森林での偵察に適した装備を身につけていた。

 

顔には黒や暗緑色のフェイスペイントが施され、薄暗い中では顔立ちがよく分からない。

 

服装もひどく汚れていた。

 

「未帰還の浸透偵察班だな。こちらには帰還支援命令が出ている」

 

フレデリカが言った。

 

「助かったわ。連隊本部と連絡が取れなくなっていたの」

 

「そうか」

 

フレデリカは四人の姿を見回した。

 

「ご苦労だった」

 

そう言って、自分の水筒をエレナに差し出した。

 

「あら、ありがとう」

 

エレナは水筒を受け取り、一口飲んだ。

 

「……おいしい」

 

そして高橋に手渡した。

 

高橋も水を飲み、大きく息を吐いた。

 

「ありがとうございます」

 

「礼はいい。みんなで飲め」

 

高橋はアルノーに水筒を渡した。

 

アルノーが飲み、最後にミレーナへ回す。

 

四人が飲み終えると、エレナはフレデリカに水筒を返した。

 

「本当に助かったわ」

 

「気にするな」

 

フレデリカは近くの兵士に指示した。

 

「四名とも後方へ案内しろ。連隊司令部には、浸透偵察班四名が全員無事に帰還したと報告しろ」

 

「了解!」

 

その様子を、山田が見つめていた。

 

見覚えのあるようなエルフの女性がいる。

 

しかし、顔にはフェイスペイントが施され、はっきりとは分からなかった。

 

その後ろの兵士たちも、顔が真っ黒だった。

 

一人が山田に気づいた。

 

「……山田?」

 

山田は驚いた。

 

「え?」

 

「山田直樹だろ?」

 

聞き覚えのある日本語だった。

 

山田はしばらく相手の顔を見つめた。

 

「……誰?」

 

相手が苦笑した。

 

「高橋だよ。高橋亘一」

 

「……えっ?」

 

山田は目を丸くした。

 

「高橋!?」

 

「ああ。俺だよ」

 

「お前、何だよその顔!」

 

「フェイスペイントだよ。ずっと山の中にいたから」

 

「いや、それは分かるけど! 全然分からなかったぞ!」

 

山田は改めて高橋の顔を見た。

 

真っ黒な顔の中で、目だけが妙にはっきりしている。

 

ようやく、記憶の中の顔と重なった。

 

「あっ!」

 

山田はエレナを見た。

 

「じゃあ、あのエルフの人も!」

 

「ええ。エレナよ。久しぶりね」

 

エレナが笑った。

 

山田は新年の休日に見かけた二人の姿を思い出した。

 

あのときとは、まるで別人のようだった。

 

「おい、騒ぐな!」

 

フレデリカの叱責が飛んだ。

 

「す、すみません!」

 

その隣で、宍戸が首をかしげた。

 

「え、何? 山田の知り合い?」

 

「同じ第20期召喚者です! 高橋です!」

 

「へえ、そうなんだ」

 

宍戸は高橋に向き直った。

 

「初めまして。あたしは宍戸亜美、第4中隊の衛生兵よ」

 

「初めまして。高橋亘一です」

 

宍戸は四人の姿を見回した。

 

「それにしても、あんたたち、ひどい格好ねえ」

 

「何日も敵の後方を歩いていたからね」

 

エレナが答えた。

 

「もう食料も尽きてしまったわ」

 

「えっ、そうなの?」

 

宍戸の表情が変わった。

 

「じゃあ、早く後ろに下がって休んだ方がいいわよ」

 

フレデリカもうなずいた。

 

「よし。四名とも後方へ案内する。詳しい話は帰ってからにしてくれ」

 

「ありがとうございます」

 

エレナが答えた。

 

山田は高橋のそばへ歩み寄った。

 

「よく帰ってきたな」

 

「ああ。今回は本当に大変だったよ」

 

「何日も帰ってこない偵察班がいるって聞いてたけど、お前たちだったのか」

 

「そうなんだ」

 

山田は小さく息を吐いた。

 

そして、高橋の肩を軽く叩いた。

 

「まあ、とにかく無事でよかったな」

 

「ありがとう」

 

高橋は疲れ切った顔で笑った。

 

夜明けが近づいていた。

 

魔族の主陣地を突破し、長い緩衝地帯を越え、ようやくたどり着いた三上陣地。

 

エレナ班の帰還が、ベルノ連隊へ伝えられた。

 

* * *

 

朝になっていた。

 

三上陣地から後方へ送られたエレナ班の四人は、連隊司令部近くの森林に設けられた浸透偵察小隊の宿営地へ戻ってきた。

 

天幕の周囲では、数人の兵士が朝の作業をしていた。

 

「……帰ってきたぞ!」

 

最初に四人に気づいた兵士が声を上げた。

 

その声に、周囲の兵士たちが一斉に振り返った。

 

「エレナ!」

 

天幕から飛び出してきたのは、フリーダだった。

 

短い黒髪の彼女は、四人の顔を順番に見回した。

 

「全員いるわね! よかった、本当によかったわ!」

 

「ただいま、フリーダ」

 

エレナが笑った。

 

「ずいぶん心配をかけたみたいね」

 

「当たり前でしょう! 何日帰ってこないと思ってるのよ!」

 

フリーダはそう言いながら、エレナを抱きしめた。

 

それから少し体を離し、高橋たちにも目を向けた。

 

「亘一も、アルノーも、ミレーナも、よく帰ってきたわね」

 

「ただいま戻りました」

 

高橋が答えた。

 

「もう、みんなひどい顔ねえ。そんなに真っ黒じゃ、誰が誰だか分からないわよ」

 

「顔を洗う暇もなかったからね」

 

ミレーナが苦笑した。

 

そのとき、奥の天幕からヴァルター少佐が姿を現した。

 

「……帰ってきたか」

 

エレナはすぐに姿勢を正した。

 

「エレナ班、四名全員、無事帰還しました!」

 

ヴァルターは四人を見回した。

 

「そうか。よく帰ってきたな」

 

短い言葉だった。

 

しかし、その表情には安堵の色が浮かんでいた。

 

「電信機を失いました。帰還中、連絡できなくなってしまって……」

 

「分かってる。あれだけ敵の巡察が増えれば、持ち歩くのは難しかっただろう」

 

「はい。途中の池に放棄しました」

 

「それでいい。あんなもののために四人を失うわけにはいかん」

 

ヴァルターは四人をもう一度見回した。

 

「それより、怪我はないか?」

 

「全員、怪我はありません。ただ、食料は昨日の夕方で尽きました」

 

「そうか。まずは食わせてやらんとな」

 

そのときだった。

 

「エレナ!」

 

聞き慣れた女性の声が響いた。

 

天幕の方から、オリヴィエ大佐が歩いてきた。

 

その後ろにはアウレリア大尉もいる。

 

エレナは驚いた。

 

「大佐!?」

 

オリヴィエは四人の前まで来ると、足を止めた。

 

「帰ってきたのね!」

 

「はい。ただいま帰還しました!」

 

エレナは敬礼した。

 

高橋たち三人も慌てて敬礼する。

 

「いいわよ、そんなの!」

 

オリヴィエは四人の姿を見回した。

 

「四人とも無事なのね? 怪我は?」

 

「全員無事です。負傷者もおりません」

 

「そう……」

 

オリヴィエは大きく息を吐いた。

 

「本当によかったわ」

 

アウレリアもエレナのそばへ歩み寄った。

 

「心配していたのよ、エレナ」

 

「ご心配をおかけしました、アウレリア大尉」

 

「まったく……。あなたたちなら大丈夫だとは思っていたけれど、さすがに長すぎるわ」

 

アウレリアはエレナの汚れた軍服を見つめた。

 

「ずいぶん苦労したみたいね」

 

「ええ。敵の巡察が予想以上に厳しくて。かなり南まで迂回することになりました」

 

ヴァルターが口を挟んだ。

 

「三上陣地から帰還の報告が入ったんで、お嬢がすっ飛んできたんだ」

 

「ちょっと、ヴァルター!」

 

「何だよ。本当のことだろ」

 

「余計なこと言わなくていいの!」

 

オリヴィエはそう言ってから、エレナたちに向き直った。

 

「とにかく、よく帰ってきてくれたわ。あなたたちの報告のおかげで、敵の野砲陣地を攻撃できたんだから」

 

「砲撃は成功したんでしょうか?」

 

エレナが尋ねた。

 

「ええ。少なくとも二か所の砲兵陣地には大きな損害を与えたはずよ。あれ以来、敵の砲撃は止まっているわ」

 

「そうですか……」

 

エレナはほっとした表情を浮かべた。

 

「それなら、苦労した甲斐がありました」

 

「ええ。大した戦果よ」

 

オリヴィエはうなずいた。

 

「でもね、戦果がどれだけ大きくても、あなたたちが戻ってこなかったら喜べなかったわ」

 

エレナは少し驚いたようにオリヴィエを見た。

 

「……ありがとうございます」

 

「それにしても、ずいぶん南から戻ってきたのね」

 

アウレリアが言った。

 

「三上陣地へ出てくるとは思わなかったわ」

 

「私たちも、最初からそこを目指していたわけではありません。巡察隊を避けているうちに、かなり南へ回り込んでしまいました」

 

「やはりそうだったか」

 

ヴァルターがうなずいた。

 

「俺たちも南へ迂回してる可能性は考えていたが、そこまでとはな」

 

「でも、助かりました」

 

エレナが答えた。

 

「何が?」

 

オリヴィエが尋ねた。

 

「夜間の砲撃です。連日、魔族の主陣地を砲撃していましたよね?」

 

「ああ、それね!」

 

オリヴィエの表情が明るくなった。

 

「帰還の助けになるかもしれないと思って、南側の敵陣地を夜間砲撃させていたのよ」

 

「やっぱり、そうだったんですか」

 

「ええ。どこにいるか分からなかったから、直接援護することはできなかったけれど」

 

「十分助けられました」

 

エレナはうなずいた。

 

「敵の主陣地は連日の砲撃で補修が追いついていませんでした。砲撃で破壊され、放棄された一角を見つけたんです」

 

「放棄された陣地?」

 

ヴァルターが興味を示した。

 

「はい。亘一が発見しました」

 

高橋は突然名前を出されて、少し姿勢を正した。

 

「昼間に観測していたら、魔族がまったく補修していない場所がありまして……」

 

「それで?」

 

「夜に砲撃が始まってから、そこを通過しました。監視もかなり緩んでいました」

 

「なるほどな」

 

ヴァルターがうなずいた。

 

「よく見つけたな、高橋」

 

「ありがとうございます」

 

オリヴィエは嬉しそうに手を打った。

 

「じゃあ、砲撃が役に立ったのね!」

 

「はい。あれがなければ、突破はもっと難しかったと思います」

 

エレナが答えた。

 

「よかったわ!」

 

その様子を見て、ヴァルターが口を開いた。

 

「お嬢、詳しい話はあとにしようぜ」

 

「え?」

 

「こいつら、一週間以上も敵の後方にいたんだ。昨日の夕方で食料も尽きたらしい」

 

オリヴィエは目を丸くした。

 

「えっ! そうなの?」

 

「はい。食料がなくなってしまいまして」

 

エレナが答えた。

 

「もう! それを早く言いなさいよ!」

 

オリヴィエは周囲を見回した。

 

「食事! すぐに食事を用意してあげて!」

 

「お嬢、ここは俺の小隊だ。もう手配するところだよ」

 

「だったら早くしなさい!」

 

「へいへい」

 

ヴァルターが苦笑した。

 

アウレリアも笑っていた。

 

「オリヴィエ、まずは四人を休ませてあげましょう」

 

「そうね」

 

オリヴィエはエレナたちに向き直った。

 

「詳しい報告は食事と休息のあとでいいわ。今はゆっくり休みなさい」

 

「ありがとうございます、大佐」

 

エレナが敬礼すると、オリヴィエは軽く手を振った。

 

「本当に、ご苦労さま」

 

* * *

 

四人は自分たちの天幕へ戻った。

 

中には簡易寝台が並び、暖房用のストーブが焚かれていた。

 

高橋は久しぶりに感じる暖かさに、思わず大きく息を吐いた。

 

「……帰ってきたんですね」

 

隣にいたアルノーが笑った。

 

「ああ。ようやくな」

 

ミレーナは背負い具を下ろすと、その場に座り込んだ。

 

「もう、しばらく森の中を歩きたくないわ」

 

「私もよ」

 

エレナが答えた。

 

そのとき、天幕の入口が開いた。

 

「みんな、帰還おめでとう」

 

ゲルフだった。

 

後ろにはゲルフ班の隊員が数人続いている。

 

彼らは大きな桶をいくつも運び込んできた。湯気の立つお湯が、たっぷりと入っている。

 

「ゲルフ!」

 

エレナが顔を上げた。

 

「お湯を持ってきたよ。たくさん用意したから、遠慮なく使ってくれ」

 

「まあ、こんなに?」

 

「八日も森の中にいたんだ。顔だけじゃなく、体も洗いたいだろう?」

 

ゲルフは穏やかに笑った。

 

「大戦果だったな。本当にお疲れさま」

 

「ありがとう。ずいぶん心配かけちゃったわね」

 

「まあね。でも、四人とも無事でよかったよ」

 

ゲルフは高橋たちにも目を向けた。

 

「亘一もよく頑張ったな」

 

「ありがとうございます」

 

「帰り道も大変だったそうだね。まずはゆっくり休んでくれ」

 

ゲルフ班の隊員たちは桶を並べ、清潔な手拭いを置いた。

 

「お湯が冷めたら交換するよ」

 

「助かるわ。本当にありがとう」

 

エレナが答えた。

 

ゲルフたちが天幕を出ていくと、エレナはさっそく軍服の上着を脱ぎ始めた。

 

「さあ、みんな。まずは体をきれいにしましょう」

 

「賛成!」

 

ミレーナも待ちかねたように服を脱ぎ始めた。

 

アルノーと高橋もそれに続く。

 

八日間、まともに体を洗うこともできなかった。

 

汗をかいたまま歩き、泥の中を這い、雪の上に伏せて眠った。乾いた汗の上にまた汗をかき、軍服の内側までひどく汚れている。

 

四人は脱いだ軍服を隅にまとめ、温かい湯に手拭いを浸した。

 

「……ああ、気持ちいい!」

 

エレナが顔を拭った。

 

黒いフェイスペイントが落ち、手拭いがたちまち黒く染まった。

 

「うわ、すごいわね、これ」

 

ミレーナが笑った。

 

「あなたの顔だって真っ黒よ」

 

「エレナだって!」

 

二人は顔を見合わせて笑った。

 

高橋も手拭いを湯に浸し、顔を拭った。

 

一度拭いただけで、布に黒い筋がついた。

 

もう一度拭う。

 

今度は泥と汗が混じった汚れが落ちた。

 

「……これ、何回洗えばいいんでしょう」

 

高橋がつぶやいた。

 

アルノーも腕を拭きながら苦笑した。

 

「何度か湯を替えないと駄目そうだな」

 

桶の一つは、すでに水面が黒ずみ始めていた。

 

「顔だけでこれだもの。体を拭いたら、もっとすごいことになりそうね」

 

エレナはそう言いながら、首筋から肩、腕へと手拭いを動かした。

 

「……ああ、生き返るわ」

 

ミレーナも同じように体を拭いていた。

 

「こんなにお湯がありがたいと思ったこと、ないわね」

 

「本当だな」

 

アルノーがうなずいた。

 

四人が使った手拭いは、どれもあっという間に黒くなった。

 

汚れを落とすために何度もすすぐが、なかなかきれいにならない。

 

そのとき、天幕の入口から声がした。

 

「エレナ、入ってもいい?」

 

フリーダ班のレーナだった。

 

「いいわよ!」

 

入口の布が開き、レーナとゾフィーが顔をのぞかせた。

 

二人とも、腕に清潔なタオルを何枚も抱えている。

 

「やっぱり! タオルが足りなくなると思ったのよ」

 

レーナが笑った。

 

「新しいのを持ってきたわ」

 

「まあ、ありがとう!」

 

エレナが手を伸ばした。

 

ゾフィーは四人の使っている手拭いと、黒ずんだお湯を見比べた。

 

「……ずいぶん汚れたわねえ」

 

「八日分の汚れよ」

 

ミレーナが答えた。

 

「見て。これ、最初は白かったのよ」

 

ミレーナが持ち上げた手拭いは、すっかり灰黒色になっていた。

 

レーナが思わず吹き出した。

 

「本当に? 雑巾みたいじゃない!」

 

「ひどいわね!」

 

四人の間に笑い声が広がった。

 

ゾフィーは新しいタオルを配りながら言った。

 

「まだあるから、足りなかったら言ってね。お湯も追加で持ってくるわ」

 

「ありがとう、ゾフィー。助かるわ」

 

エレナが答えた。

 

「それにしても、みんな無事でよかった」

 

レーナは少し真面目な表情になった。

 

「フリーダもずっと心配してたのよ」

 

「そうだったのね」

 

「ええ。昨日なんて、何度も小隊本部に顔を出してたんだから」

 

エレナは小さく笑った。

 

「あとでお礼を言わないとね」

 

「それより、まずはきれいになって。食事ももうすぐできるそうよ」

 

「食事!」

 

高橋が思わず顔を上げた。

 

その反応に、ゾフィーが笑った。

 

「そんなにお腹がすいてるの?」

 

「昨日の夕方で食料がなくなってしまったので……」

 

「あら、それは大変!」

 

レーナが言った。

 

「じゃあ、早く食べさせてあげないとね」

 

「お願い。もう四人ともお腹ぺこぺこなの」

 

エレナが笑った。

 

「分かったわ。食事の準備ができたら知らせるから」

 

レーナとゾフィーはそう言って天幕を出ていった。

 

四人は新しいタオルを使い、ようやく体の汚れを落とした。

 

温かい湯。

 

ストーブの火。

 

仲間たちの笑い声。

 

敵の後方では、決して味わうことのできなかったものばかりだった。

 

* * *

 

新しい軍服に着替え、久しぶりの温かい食事を終えた頃には、すっかり朝になっていた。

 

四人とも疲労が溜まっていた。

 

アルノーとミレーナは食事を終えると、早々に簡易寝台へ横になった。

 

高橋も眠気に抗えず、毛布をかぶっている。

 

「亘一、もう寝ていいわよ」

 

エレナが声をかけた。

 

「エレナさんは?」

 

「私は小隊本部へ報告に行ってくるわ。カメラも提出しないといけないし」

 

「一緒に行きましょうか?」

 

「大丈夫よ。詳しい報告は私だけで十分だから。あなたは休んでなさい」

 

「……はい。ありがとうございます」

 

高橋はそう答えると、目を閉じた。

 

エレナは三人の様子を見回し、静かに天幕を出た。

 

小隊本部の天幕へ向かうと、ヴァルター少佐が机に向かっていた。

 

「エレナか。もう少し寝ててもよかったんだぞ」

 

「そういうわけにもいかないでしょう。報告が残っているもの」

 

「まあな。座れ」

 

エレナは椅子に腰を下ろした。

 

「まず、砲撃の詳しい報告をします」

 

「聞こう」

 

エレナは地図を広げた。

 

「敵の野砲陣地は二か所。どちらも四門ずつ配置されていました。砲撃開始前に確認できたのは合計八門です」

 

ヴァルターがうなずいた。

 

「砲撃の結果は?」

 

「第一陣地では、砲撃によって大きな二次爆発が起きました。弾薬の集積場所に命中したものと思われます」

 

エレナは地図上の位置を指さした。

 

「爆発で周囲の木々が倒れ、野砲にも損害が出ていました。ただし、何門が完全に破壊されたかまでは確認できませんでした」

 

「なるほど」

 

「第二陣地でも火災と複数の小規模な二次爆発を確認しました。こちらも相当な損害を与えたと思いますが、正確な撃破数は分かりません」

 

「それで十分だ。砲撃後に敵陣地へ近づいて確認するわけにもいかんからな」

 

「はい。それから、大型アンテナも砲撃で倒壊しました」

 

「そいつは大きいな」

 

ヴァルターは地図を見つめた。

 

「砲兵陣地だけでなく、通信設備にも損害を与えられたわけか」

 

「ええ。ただ、ほかにも通信設備がある可能性はあります」

 

「そうだな」

 

エレナは背負い袋からカメラを取り出した。

 

「それから、これを提出します」

 

ヴァルターはカメラを受け取った。

 

「写真は撮れたのか?」

 

「はい。主に敵の通信施設を撮影しました。大型アンテナの周辺も写っているはずです」

 

「野砲陣地の方は?」

 

「そちらも撮影は試みましたが、距離がありましたので、細かいところまでは分からないと思います」

 

「そうか。砲撃後の被害もか?」

 

「はい。大きな爆発や火災は肉眼でも確認できましたが、写真で野砲の損害まで判別できるかどうか……」

 

ヴァルターはうなずいた。

 

「分かった。現像に回して確認しよう。通信施設の写真だけでも十分価値がある」

 

「お願いします」

 

「野砲陣地の被害については、おまえたちの観測報告を中心にまとめることにしよう」

 

エレナはうなずいた。

 

「はい」

 

そして、一度言葉を切った。

 

「それから、もう一つ報告があります」

 

「何だ?」

 

「帰還途中に、幅の広い林道を横断しました」

 

エレナは地図の南側を指さした。

 

「この辺りです。古い地図では、ベルノ連隊の第2中隊正面へ続く林道のようです」

 

「ほう」

 

「そこで、履帯の跡を発見しました」

 

ヴァルターの表情が変わった。

 

「履帯だと?」

 

「はい。複数の跡が重なっていました。かなり幅の広い履帯です」

 

「戦車か?」

 

「その可能性が高いと思います」

 

エレナは慎重に答えた。

 

「履帯の幅から見て、戦車が通行した可能性が高いと判断しました。地面には深い跡が残っていて、何度も車両が通過しているようでした」

 

ヴァルターは地図へ視線を落とした。

 

「……戦車が通れる林道があるわけか」

 

「はい。ただし、車両そのものは確認していません。台数も不明です」

 

「複数の戦車が通ったのか、それとも同じ戦車が繰り返し通ったのかも分からない、ということだな」

 

「そのとおりです」

 

エレナはうなずいた。

 

「ただ、林道はかなり広く、戦車が通行するには十分な幅がありました」

 

「第2中隊の正面へ続いている可能性があるのか」

 

「古い地図ではそうなっています。ただ、現在もそのまま通じているかは確認できませんでした」

 

ヴァルターは腕を組んだ。

 

「……気になるな」

 

エレナも地図を見つめた。

 

「敵の野砲陣地を発見した場所からは、かなり南になります。でも、あの林道を車両が繰り返し通行していることは確かです」

 

「分かった。これは早めに連隊本部へ報告しておこう」

 

ヴァルターは地図上の林道を指でなぞった。

 

「戦車が第2中隊の正面へ出てくる可能性があるなら、警戒が必要だ」

 

「はい」

 

「もっとも、今のところ履帯の跡だけだ。敵が何を考えているかまでは分からんな」

 

ヴァルターはそう言うと、報告書に書き込みを始めた。

 

「砲撃の結果と写真、それに戦車と思われる履帯の跡か……」

 

そして顔を上げた。

 

「大した仕事をしてくれたな」

 

「ありがとうございます」

 

「しかも四人とも無傷で帰ってきた。よくやったよ」

 

エレナは少し笑った。

 

「帰り道は、かなり苦労しましたけどね」

 

「だろうな。敵の巡察が増えたのは、こっちでも分かっていた」

 

「電信機を放棄したので、連絡もできなくなってしまいました」

 

「あれは仕方ない。よく判断したと思うぞ」

 

ヴァルターは椅子の背にもたれた。

 

「で、帰りは三上陣地に出たんだったな」

 

「ええ。南へ大きく迂回してしまったので、あそこを目指しました」

 

「正解だったな。お嬢が各陣地に帰還支援の命令を出していたから、味方に撃たれずに済んだ」

 

「本当に助かりました」

 

エレナはうなずいた。

 

「それに、夜間砲撃もです。敵の主陣地は補修が追いついていなくて、砲撃で放棄された一角を通過できました」

 

「そうか。あれも役に立ったか」

 

「ええ。亘一が昼間の観測で見つけたんです」

 

「また高橋か」

 

ヴァルターは嬉しそうに笑った。

 

「あいつの観察眼は、やっぱりたいしたもんだな」

 

「そうですね。今回もずいぶん助けられました」

 

「うん。よし、分かった」

 

ヴァルターは報告書をまとめた。

 

「分かった。お嬢に報告しとく。写真も現像に回す。それと履帯の件は、早めに連隊本部へ伝えておこう」

 

「お願いします」

 

エレナが立ち上がろうとすると、ヴァルターが声をかけた。

 

「それから、エレナ」

 

「はい?」

 

「おまえらは三日休暇をやる。ゆっくり休め」

 

エレナは少し驚いた顔をした。

 

「いいんですか?」

 

「当たり前だろ。ずっと敵の後方にいて、戻ってきたばかりなんだぞ」

 

ヴァルターは笑った。

 

「報告は済んだ。あとはこっちの仕事だ。戦車の件も俺たちに任せておけ」

 

「ありがとうございます、少佐」

 

「休暇中は余計なことを考えずに寝てろ。高橋たちにもそう伝えとけ」

 

「分かりました」

 

エレナは敬礼した。

 

「エレナ班、三日間の休暇をいただきます」

 

「おう。ご苦労だった」

 

ヴァルターは敬礼を返した。

 

エレナは天幕を出た。

 

外では朝の陽光が木々の間から差し込んでいた。

 

三日間の休暇。

 

何日も敵の後方を歩き続けてきた四人にとって、それは何よりありがたいものだった。

 

エレナは小さく伸びをした。

 

「……さあ、私も寝ようかしら」

 

そして、仲間たちの待つ天幕へ戻っていった。

 

* * *

 

天幕の中では、ストーブが静かに燃えていた。

 

アルノーとミレーナは、それぞれの簡易寝台で眠っている。

 

高橋も毛布をかぶり、すっかり眠り込んでいた。

 

「……みんな、お疲れさま」

 

エレナは小さくつぶやいた。

 

高橋の寝顔を見つめる。

 

顔のフェイスペイントはきれいに落ちていたが、疲れはまだ残っているようだった。

 

エレナは軍靴を脱ぎ、続いて軍服の上着とズボンも脱いだ。

 

下着姿になると、そっと高橋の寝台に腰を下ろした。

 

そして、毛布を持ち上げ、その中へ潜り込んだ。

 

狭い簡易寝台が、わずかに軋んだ。

 

「……ん?」

 

高橋が薄く目を開けた。

 

「エレナさん……?」

 

「ただいま、亘一」

 

「報告……終わったんですか?」

 

「ええ。全部終わったわ。三日間の休暇ももらえたのよ」

 

「そうですか……よかった……」

 

高橋は眠そうに答えた。

 

エレナは微笑むと、その体をそっと抱き寄せた。

 

「もう寝ていいわよ」

 

「……はい」

 

高橋も自然に腕を回した。

 

エレナは彼の顔を見つめた。

 

「亘一」

 

「はい……?」

 

「本当によく頑張ったわね」

 

「エレナさんも……」

 

「ありがとう」

 

エレナはそう言うと、そっと高橋の唇にキスをした。

 

短い、優しい口づけだった。

 

高橋は少し驚いたように目を開けた。

 

「……エレナさん?」

 

「ふふっ。お帰りなさいのキスよ」

 

「それなら……」

 

高橋は眠そうな顔で、少し笑った。

 

「エレナさんにも、お帰りなさいですね」

 

今度は高橋の方から、エレナにそっと口づけた。

 

「……ただいま」

 

エレナが微笑んだ。

 

「お帰りなさい」

 

高橋が答えた。

 

エレナはもう一度彼を抱き寄せ、その胸に頬を寄せた。

 

温かな体。

 

規則正しい鼓動。

 

何日も敵の後方を歩き続けた。

 

何度も巡察隊を避け、食料も尽き、最後は敵の主陣地を突破して帰ってきた。

 

その間、四人の誰か一人でも失う可能性はあった。

 

けれど、全員が帰ってきた。

 

エレナは高橋を抱く腕に、少しだけ力を込めた。

 

「……無事でよかった」

 

小さな声だった。

 

「エレナさんも……」

 

高橋が眠たげに答えた。

 

「ええ。私もね」

 

エレナは目を閉じた。

 

もう敵の巡察隊を気にする必要はない。

 

物音のたびに目を覚ます必要も、冷たい地面に伏せて眠る必要もない。

 

今は、ただ眠ればいい。

 

隣の寝台から、ミレーナの静かな寝息が聞こえていた。

 

エレナは高橋の体温を感じながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。

 

長い浸透偵察任務が、ようやく終わった。

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