勇者連隊戦記   作:バグスター

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帝国歴232年3月後半、イジューム戦線


第2節 迎撃準備

第7軍団司令部。

 

早朝から司令部の通信室では、敵軍の無線通信を傍受した記録の整理が続けられていた。

 

軍団長ライゼン大将は、執務室で通信担当士官から報告を受けていた。

 

「大将閣下。昨日の敵軍の通信記録について、解析結果がまとまりました」

 

「どうだった?」

 

「依然として、グリモフという音が頻繁に確認されています。むしろ、これまでより増えているようです」

 

ライゼンは机の上に置かれた報告書へ視線を落とした。

 

「通信の内容は?」

 

「残念ながら、解読できておりません。ただ、複数の通信で同じ音が繰り返されています。単なる偶然とは考えにくいかと」

 

「そうか……」

 

ライゼンは椅子の背にもたれた。

 

グリモフ。

 

七年前、第7軍団の防衛線を突破した魔族軍の将軍だった。

 

その戦車部隊による突破は、帝国軍に甚大な損害をもたらした。ベルノ旅団も包囲され、ほぼ壊滅している。

 

ライゼンにとっても、その名前は決して聞き流せるものではなかった。

 

「本人が来ているという確証は、まだないのだな?」

 

「はい。現時点では、名前が頻繁に使われているということしか分かっておりません」

 

「分かった。引き続き監視を続けてくれ。変化があれば、些細なことでも報告するように」

 

「はっ!」

 

通信士官は敬礼すると、執務室を退出した。

 

ライゼンはしばらく報告書を眺めていたが、やがて立ち上がった。

 

「参謀長を呼んでくれ」

 

* * *

 

ほどなくして、参謀長と作戦担当の将校たちが集まった。

 

机の上には、第7軍団の担当戦域を示す大きな地図が広げられていた。

 

「グリモフの名前は、昨日の通信でも頻繁に確認されたそうだ」

 

ライゼンの言葉に、参謀長がうなずいた。

 

「敵が大規模な攻勢を準備している可能性は、ますます高くなりましたな」

 

「そうだな。問題は、どこに戦車を集中させてくるかだ」

 

第7軍団が担当する防衛線は長い。

 

森林や丘陵、集落を結ぶ道路が複雑に入り組んでおり、戦車が進撃可能な経路も一つではなかった。

 

「対戦車砲の配備状況はどうなっている?」

 

「軍団後方予備から抽出した対戦車砲チームは、すでに各師団の前線へ向かっています。地雷とG13の追加補給についても、輸送を進めています」

 

「間に合うといいがな」

 

ライゼンは地図を見つめた。

 

「相手が本当にグリモフなら、戦車を数両送り込む程度の攻撃では済まんはずだ」

 

参謀長は黙ってうなずいた。

 

「第1戦車師団と第10戦車旅団には、すでに待機態勢を命じてある」

 

「両部隊とも、出動準備を進めています」

 

「よろしい。だが、まだ動かすな。後方で待機させる」

 

作戦担当の将校が尋ねた。

 

「敵の攻勢正面が判明するまで、予備として温存するということでしょうか」

 

「その通りだ」

 

ライゼンは地図の広い範囲を手で示した。

 

「敵の機甲師団がどこから現れるか分からん。今の段階でこちらの戦車部隊を一か所に集めれば、別の正面を突破されたときに対応できなくなる」

 

「敵の出現を確認してから投入するとなると、迎撃部隊が到着するまでに相当な時間を要しますな」

 

「分かっている」

 

ライゼンはうなずいた。

 

「だから、前線部隊には遅滞戦闘に努めてもらう。敵の進撃を少しでも遅らせ、我が戦車部隊が展開する時間を稼いでもらうしかない」

 

「各師団には、その方針を伝達いたします」

 

「うむ。ただし、無理に現在の陣地を死守させるな。戦える部隊まで無駄に失うわけにはいかん」

 

参謀長はその言葉を記録した。

 

ライゼンは地図に視線を戻した。

 

「もっとも……」

 

そこで言葉を切った。

 

「戦車の衝撃力は大きい。敵の機甲師団が本格的な突破攻撃を仕掛けてきた場合、その正面に立つ部隊は、相当ひどい目に遭うだろうな」

 

誰も答えなかった。

 

七年前の戦いが、その可能性を証明していた。

 

「どの連隊が、その正面に当たるかも分からないわけですな」

 

参謀長がつぶやいた。

 

「そうだ。どの部隊にも、同じ危険がある」

 

机の上の地図には、各師団と連隊の防御区域が細かく記されていた。

 

そのどこかに、敵戦車部隊が殺到することになる。

 

「各師団に改めて通達しろ。対戦車防御の準備を急がせるとともに、敵が突破してきた場合の後退経路と次の防御線についても検討させる」

 

「了解しました」

 

「第1戦車師団と第10戦車旅団には、いつでも出動できる態勢を維持させろ。ただし、私の命令があるまで現在の待機地域を離れてはならん」

 

「はっ!」

 

ライゼンは地図から顔を上げた。

 

「我々が最も避けなければならんのは、七年前と同じことだ。敵の突破を許し、後方に回り込まれ、部隊を包囲されることだけは防がなければならん」

 

参謀長がうなずいた。

 

「各師団へ、直ちに命令を伝達いたします」

 

会議を終えた将校たちが、次々と部屋を出ていった。

 

ライゼンは一人、地図の前に残った。

 

軍団の戦車部隊をどこへ向かわせるか。

 

その判断が遅れれば、前線の兵士たちが犠牲になる。

 

しかし、判断を誤れば、軍団全体が危機に陥ることもあり得た。

 

「グリモフか……」

 

ライゼンは小さくつぶやいた。

 

「七年前のようには、させんぞ」

 

* * *

 

前日の連隊会議から一日が経過した、その夜。

 

ベルノ連隊司令部に、四台の軍用トラックが到着した。

 

先頭のトラックが司令部前の広場に進入し、続いて三台がゆっくりと入ってくる。

 

夜間のため、前照灯には遮光が施されていた。

 

二台のトラックは、それぞれ後部に対戦車砲を牽引していた。

 

残る二台には、木箱に収められた対戦車地雷とG13、それに砲弾や関連装備が積み込まれていた。

 

「到着しました! 軍団司令部からの対戦車装備です!」

 

当直士官から報告を受けたオリヴィエは、アウレリアを伴って建物の外へ出た。

 

「まあ、本当に来たのね。それも四台もトラックを使って?」

 

オリヴィエは驚いた様子で、並んだ車両を見渡した。

 

帝国では石油が貴重だった。

 

軍用トラックも決して数が多いわけではなく、補給物資の輸送には鉄道や馬車が広く使われている。

 

その貴重な車両を四台も動員して、夜間に装備を届けてきたのだ。

 

「ずいぶん急いでくれたものね」

 

「軍団司令部も、相当危機感を持っているのでしょう」

 

アウレリアが答えた。

 

先頭のトラックから士官が降りてきた。

 

「ベルノ連隊長殿でありますか!」

 

「ええ。オリヴィエ大佐です」

 

「軍団司令部の命令により、対戦車砲二門および対戦車装備の補充品を輸送してまいりました。砲員も同行しております」

 

士官は書類を差し出した。

 

「こちらが引渡書類と装備一覧になります」

 

アウレリアが内容を確認する。

 

「対戦車砲二門、砲弾、対戦車地雷、G13……。確かに受領しました」

 

オリヴィエは砲員たちに顔を向けた。

 

「長旅だったでしょう。ご苦労さま。でも、申し訳ないけど休んでいる時間はないの」

 

「承知しております。到着後、直ちに陣地へ移動するよう命令を受けております」

 

「それなら話が早いわね」

 

オリヴィエはアウレリアに顔を向けた。

 

「リュート大尉とベル大尉を呼んでちょうだい。予定していた配置作業を始めるわ」

 

ほどなくして、第2中隊長リュート大尉と工兵中隊長ダリオ・ベル大尉が司令部に到着した。

 

「対戦車砲が到着したそうですな」

 

リュート大尉が、広場に並ぶ砲を見ながら言った。

 

「ええ。二門とも届いたわ。配置場所は決まっている?」

 

「候補地は二か所まで絞り込みました。砲員にも現地を確認してもらい、最終的に決めたいと考えております」

 

「いいわ。すぐにお願い」

 

ベル大尉が続けた。

 

「砲を据える場所の工事は進んでおります。ただし、まだ完成しておりません。今夜から作業を増強します」

 

「地雷の方は?」

 

「敷設予定区域は決めております。現物が届きましたので、直ちに作業に入れます」

 

「お願いするわ。第2中隊正面を優先してちょうだい」

 

「了解しました」

 

「G13も各歩兵中隊へ補充して。第2中隊には多めに回してほしいわ」

 

アウレリアが書類に記入する。

 

「配分はこちらで調整します」

 

「お願いね」

 

オリヴィエは再びトラックを見た。

 

「それにしても、軍団司令部も本気というわけね」

 

リュート大尉がうなずいた。

 

「通常の補給なら、もっと日数がかかるでしょうな」

 

「ええ。これだけ急いでいるということは、それだけ敵の攻勢が近いと考えているのでしょう」

 

誰も否定しなかった。

 

広場では、さっそく荷下ろしが始まっていた。

 

「そっちは地雷だ! 取り扱いに注意しろ!」

 

「G13の箱はこっちだ! 中隊別に仕分けするぞ!」

 

「砲弾は対戦車砲の方へ運べ!」

 

暗い広場に、兵士たちの掛け声が響いた。

 

工兵たちが資材を整理し、砲員は牽引車両の点検を行っていた。

 

オリヴィエはその様子を見渡した。

 

「夜のうちに、できるだけ作業を進めましょう。明るくなれば、またあの飛行機が来るかもしれないわ」

 

「各中隊にも伝えます」

 

「それから、トラックは用が済んだら速やかに後方へ戻してちょうだい。こんなところで敵の砲撃を受けて失うわけにはいかないもの」

 

「承知しました」

 

やがてエンジンが始動し、低い排気音が響いた。

 

二門の対戦車砲は、兵士たちに誘導されながら、暗い林道へと向かっていった。

 

その先には、第2歩兵中隊の防御陣地がある。

 

「間に合ってくれればいいけど……」

 

オリヴィエは小さくつぶやいた。

 

* * *

 

同じ夜、浸透偵察小隊の宿営地でも、出動準備が進められていた。

 

森林内に設営された小隊本部の天幕には、十個班の班長たちが集まっていた。

 

中央の机には、ベルノ連隊の担当正面と、その前方に広がる森林を描いた地図が置かれている。

 

ヴァルター少佐が、全員の顔を見渡した。

 

「さて、連隊司令部から命令が出た。今夜から各班を緩衝地帯に配置する」

 

ヴァルターは地図を指した。

 

「目的は敵戦車部隊の早期発見だ。全十個班のうち九個班を前方へ出す。残る一個班は小隊本部で通信支援に当たらせる」

 

地図の上に九つの駒が置かれた。

 

「主要な林道を中心に監視地点を設ける。今回の任務は敵陣地への浸透ではない。敵の動きを見つけて報告することだ」

 

ゲルフが尋ねた。

 

「敵の歩兵が通過した場合はどうします?」

 

「通常の巡回兵なら、位置と規模を報告するだけでいい。こちらから戦闘を仕掛けるな」

 

「戦車の数も確認しますか?」

 

今度はローラが尋ねた。

 

「可能ならな。だが、数を数えるために危険を冒す必要はない。発見した段階でまず第一報を送れ」

 

ヴァルターは通信支援を担当する班長に顔を向けた。

 

「お前たちは各班からの報告を集約する。音声無線は各班が同じ報告を聞くこともある。重要な情報を聞き落とすなよ」

 

「了解しました」

 

「本格的な戦闘が始まった場合は、小隊本部を連隊司令部へ移す。そこで通信所を設け、各班の情報を連隊の指揮系統へ直接流す」

 

フリーダが口を開いた。

 

「では、戦闘が始まっても監視を続けるのですね?」

 

「原則としてそうだ。ただし、退路を断たれる恐れがあれば、各班長の判断で後退して構わん」

 

ヴァルターは少し声を強めた。

 

「いいか。今回は敵を倒すことが仕事じゃない。無理をして戦闘に巻き込まれるな」

 

班長たちがうなずいた。

 

続いて、ヴァルターは第2中隊正面の林道を指した。

 

「イルム。お前の班はこの林道の奥だ。敵戦車部隊の早期発見を担当してもらう」

 

「了解しました」

 

「エレナ班は、その後方。味方の第2中隊に近い場所だ」

 

エレナが地図を覗き込んだ。

 

「私たちが最終警戒線ですね」

 

「そうだ。イルム班の第一報を受け、戦車がそのまま第2中隊正面へ接近してくるか確認してくれ」

 

「分かりました」

 

「ただし、報告を終えたら速やかに後退しろ。無理に留まる必要はない」

 

ヴァルターは再び全員を見渡した。

 

「各班は深夜に出発する。夜明けまでに配置を完了してくれ。無線機の点検を忘れるな」

 

班長たちが立ち上がった。

 

「以上だ。各班、準備にかかれ」

 

* * *

 

出発を前に、浸透偵察小隊の宿営地では各班が最後の装備点検を行っていた。

 

エレナがアルノーたちと準備をしていると、背後から声をかけられた。

 

「エレナ、ちょっといいか」

 

振り返ると、イルムが立っていた。

 

エルフにしてはがっしりとした体格の男だった。

 

銀色の髪に碧い瞳。顔には古い戦傷による痣があり、その厳つい顔立ちはどこかヴァルター少佐を思わせる。

 

ただし、見た目とは違って、性格は穏やかだった。

 

小隊の中でも面倒見のよい班長として知られている。

 

「イルム、どうしたの?」

 

「俺たちの班は、お前たちより前方になる。何かあればすぐに知らせる」

 

「ええ。お願いね」

 

イルムの後ろでは、三人のエルフの女性班員が準備を進めていた。

 

イルム班は、班長のイルムと女性班員三名からなる四人班だった。

 

三人ともイルムの恋人である。

 

そのうちの女性班員の一人が、無線機を持ち上げようとしていた。

 

「イルム、これも持っていくわよ」

 

「ああ、待て。それは俺が持つ」

 

イルムは女性班員から無線機を受け取ると、自分の背負子に固定した。

 

さらに、重量のあるバッテリーも背負う。

 

「ちょっと、また全部自分で持つつもり?」

 

女性班員が呆れたように言った。

 

「全部じゃないさ。お前たちには他の装備を任せる。俺はこのくらい平気だ」

 

「本当にもう……」

 

女性班員は苦笑しながらも、それ以上は言わなかった。

 

通常、浸透偵察班では通信機を担当する兵士が決まっている。

 

しかしイルム班では、班長自身が無線機とバッテリーを担いでいた。

 

大柄なイルムにとっても、決して軽い荷物ではない。

 

エレナはその様子を見て笑った。

 

「相変わらずね、イルム。みんなを甘やかしすぎよ」

 

「そんなことはないさ。こいつらは俺よりずっと働き者だからな」

 

イルムがそう答えると、女性班員たちが笑った。

 

「分かってるじゃない」

 

「そういうことは、もっと普段から言ってほしいわね」

 

イルムは苦笑した。

 

その表情には、厳つい顔立ちからは想像しにくい優しさがあった。

 

やがて三人の女性班員が少し離れると、イルムはエレナに顔を近づけた。

 

「……エレナ」

 

声が小さくなった。

 

「何?」

 

「今回の敵が、本当にグリモフなら……連隊は持たないかもしれん」

 

エレナの表情が変わった。

 

「イルム……」

 

「俺は七年前、新兵だった。あの戦いには参加していない」

 

イルムは静かに続けた。

 

「だが、生き残った連中から話は聞いている。戦車に突破され、退路を断たれた部隊がどうなったのかもな」

 

エレナは黙っていた。

 

「報告を終えたら、脱出することも考えておけ。連隊の防御線が持ちこたえることを当てにするな」

 

普段は穏やかな男が、珍しく厳しい表情をしていた。

 

エレナはイルムを見つめた。

 

「……分かったわ。でも、あなたたちの方がずっと前方なのよ」

 

「ああ」

 

「イルムこそ、退路を考えておいてね」

 

イルムは少し笑った。

 

「もちろんだ。俺も三人を連れて帰らなきゃならん」

 

そう言って、背後で準備を続けている女性班員たちを振り返った。

 

「俺が倒れたら、あいつらに何を言われるか分からんからな」

 

エレナも思わず笑った。

 

「そうね。きっと三人とも怒るでしょうね」

 

「ああ。だから、そんなことにはならんようにするさ」

 

イルムは無線機を背負い直した。

 

「エレナ、お互い生きて帰ろう」

 

「ええ。必ずね」

 

二人は短く握手を交わした。

 

やがて出発命令が伝えられた。

 

「イルム班、出発するぞ」

 

イルムの呼びかけに、三人の女性班員が装備を整えて集まってきた。

 

「準備できてるわ」

 

「いつでも行けるわよ」

 

「よし。行こう」

 

四人は暗い森林へと歩き出した。

 

大きな無線機とバッテリーを背負ったイルムが先頭に立ち、三人の女性班員がその後に続いていく。

 

エレナは、四人の姿が木々の間に消えるまで見送っていた。

 

「エレナ、どうした?」

 

アルノーが声をかけた。

 

「何でもないわ。私たちも行きましょう」

 

エレナはそう答えた。

 

だが、イルムの言葉が頭から離れなかった。

 

――連隊の防御線が持ちこたえることを当てにするな。

 

エレナは小さく息を吐いた。

 

「……みんな、無事に帰ってこられるといいわね」

 

* * *

 

深夜。

 

森林内の宿営地から、浸透偵察小隊の各班が次々と出発していった。

 

装備を整えた兵士たちは、それぞれの監視地点へ向かって暗い森の中へ消えていく。

 

エレナ班の四人も宿営地を後にした。

 

エレナ、アルノー、ミレーナ、そして高橋。

 

つい先日まで敵陣地の奥深くを偵察していた四人だったが、今度は味方前線に近い場所での監視任務だった。

 

「まさか、またこんなに早く出動することになるとはね」

 

ミレーナが言った。

 

「今回は前回ほど遠くへ行かないわ」

 

エレナが答えた。

 

「そうは言っても、戦車が来るかもしれないんでしょう?」

 

「ええ。だからこそ、見落とすわけにはいかないわね」

 

ミレーナが背負った無線機を確認した。

 

「無線機は問題なし。予備のバッテリーも持ったわ」

 

「ありがとう。高橋、そっちは?」

 

「準備できています」

 

高橋は小銃を肩に掛け直した。

 

「じゃあ、行きましょう」

 

夜空は雲に覆われ、月明かりはほとんどなかった。

 

森の中にはまだ雪が残っていたが、ところどころ土が露出し、踏みしめると水を含んだ地面が柔らかく沈んだ。

 

春の雪解けが始まっていた。

 

高橋は足元を確かめながら歩いた。

 

「戦車って、こんな地面でも走れるんでしょうか」

 

「道路なら問題ないでしょうね。でも、森の中を好き勝手に走り回るのは難しいと思うわ」

 

エレナが答えた。

 

「ぬかるみに嵌まったら、戦車だって動けなくなるもの」

 

「それで林道を監視するんですね」

 

「そういうことよ。ただ、今回の偵察でも分からなかった場所があるから、油断はできないわね」

 

四人は会話をやめ、再び静かに歩き始めた。

 

* * *

 

第2中隊の前線を通過したエレナ班は、緩衝地帯の森林へ入った。

 

目的の林道までは、さほど距離がない。

 

以前の浸透偵察とは違い、敵陣地を突破する必要もなかった。

 

それでもエレナは慎重だった。

 

時折足を止め、周囲の物音に耳を澄ませる。

 

林道が近づいたところで、エレナは全員を停止させた。

 

「この先ね」

 

四人は木々の間から、暗い林道を確認した。

 

道路にはまだ雪が残っている場所もあったが、ところどころ地面が露出していた。

 

高橋が周囲を見渡した。

 

「道路のすぐ近くに潜伏しますか?」

 

「いいえ。少し離れましょう」

 

エレナは周囲の地形を見回した。

 

やや高くなった地形が、林道から少し離れた場所に続いている。

 

「向こうがよさそうね」

 

エレナが指したのは、林道より少し高い位置にある林の中だった。

 

アルノーが地形を確かめた。

 

「確かに、あそこなら道路を見下ろせるな」

 

「道路のすぐ脇にいるより安全でしょう。亘一、見通しを確認してくれる?」

 

「はい」

 

四人は林道へ近づきすぎないよう注意しながら、小高い場所へ移動した。

 

斜面には針葉樹が生えており、その根元には低木が密集していた。

 

高橋は木の幹に身を寄せ、双眼鏡を覗いた。

 

林道は木々の間を緩やかに曲がりながら続いていた。

 

手前の道路はよく見える。奥の方は木々に遮られるものの、車両が通れば一部は視界に入るはずだった。

 

「いい場所だと思います。道路を走る車両なら、確認できそうです」

 

「そう。じゃあ、ここにしましょう」

 

林道からは少し距離があり、道路上から見上げても、低木と木の幹によって姿が隠れる。

 

「ミレーナ、無線機を設置して。アルノーは後方の警戒をお願い」

 

「分かったわ」

 

「了解」

 

ミレーナが無線機を準備し、小隊本部との通信確認を行った。

 

短い呼びかけに、すぐ応答が返ってきた。

 

『こちら小隊本部。感度良好』

 

「こちらエレナ班。配置完了」

 

『了解』

 

エレナは小さくうなずいた。

 

四人は携行してきた装備を目立たない場所にまとめ、監視を開始した。

 

高橋は改めて林道を見つめた。

 

今は何も動いていない。

 

遠くで風が木々を揺らす音が聞こえるだけだった。

 

「エレナさん」

 

「なに?」

 

「本当に、ここに戦車が来るんでしょうか」

 

「分からないわ。でも、イルム班が前方にいるから、敵が来れば先に知らせてくれるはずよ」

 

エレナは林道の奥へ視線を向けた。

 

「私たちは、その後に敵がここまで進んできたか確認する。それが仕事ね」

 

「責任重大ですね」

 

「そうね。でも、戦車を相手に私たちの小銃は役に立たないわ。報告したら、敵に発見される前に後退しましょう」

 

「はい」

 

エレナは三人を見渡した。

 

「それまでは交代で休むわよ。いつまでここにいることになるか分からないんだから」

 

ミレーナが小さく笑った。

 

「賛成。今のうちに寝られるなら寝ておきたいわ」

 

ミレーナは無線機の傍らに戻り、うなずいた。

 

「通信の見張りは任せて。何か入ったらすぐに起こすわ」

 

「お願いね」

 

エレナはもう一度、暗い林道を見つめた。

 

この道を魔族軍の戦車部隊が通るのかどうか、まだ誰にも分からなかった。

 

四人は木々の陰に身を隠し、監視を続けた。

 

* * *

 

翌朝。

 

第2歩兵中隊の陣地では、夜を徹して行われていた防御準備が続いていた。

 

対戦車地雷は工兵たちによって前方へ運ばれ、対戦車砲の陣地工事も急ピッチで進められていた。

 

各分隊には、追加補給されたG13が配られていた。

 

ナゲフ軍曹の分隊にも、木箱に収められたG13が届いていた。

 

「岡田、そっちを持ってくれ」

 

「はい」

 

岡田修平は、同じ分隊の兵士と一緒に木箱を掩体壕へ運び込んだ。

 

箱を開けると、見覚えのある筒状の兵器が現れた。

 

G13。

 

以前、講習で実射を経験した対戦車兵器だった。

 

有効射程は五十メートル。敵戦車の正面装甲を貫通することはできない。

 

実際に戦車を迎え撃つかもしれない状況になると、その頼りなさばかりが気になった。

 

ナゲフ軍曹が分隊員たちを集めた。

 

「聞いていると思うが、我々の陣地は敵戦車の予想進撃路に位置している」

 

岡田は顔を上げた。

 

ナゲフ分隊の陣地は、第2中隊が担当する正面のほぼ中央にあった。

 

前方には森林が広がり、その奥には魔族軍の戦車が進出してくる可能性のある林道が続いている。

 

「対戦車砲が二門配備されるが、それだけに頼るわけにはいかん。各員、G13の取り扱いを再確認しておけ」

 

「了解しました」

 

分隊員たちが返事をした。

 

岡田も声を合わせたが、胸の奥には重いものが残っていた。

 

これを使うということは、敵戦車を目の前まで近づけるということだった。

 

岡田は木箱の中のG13を見つめた。

 

できれば、使わずに済んでほしい。

 

しばらくして、岡田は中隊陣地の連絡通路で広瀬と城島に出会った。

 

二人とも第20期召喚者で、元の世界では岡田と一緒にサッカーをしていた仲間だった。

 

広瀬はナゲフ分隊に補充され、城島は重傷を負ったリュージュのいたG12機銃分隊に補充されていた。

 

「よう、岡田」

 

広瀬が声をかけた。

 

「おう。そっちも準備してたのか?」

 

「ああ。対戦車砲も来たらしいな」

 

城島が答えた。

 

「さっき後ろで工事してたぞ」

 

三人は連絡通路の脇に寄った。

 

遠くでは、工兵たちが作業を続ける音が聞こえていた。

 

広瀬が前方の森林を見た。

 

「なあ……この位置、やばいよな」

 

岡田と城島も、同じ方向を見た。

 

「やばいって?」

 

城島が尋ねた。

 

「だって、俺たちの陣地、戦車が来ると予想されてる場所の真ん中だろ?」

 

「まあな」

 

「対戦車砲も地雷も、こっちに集めてるんだぜ。上も相当怪しいと思ってるんだろ」

 

岡田はうなずいた。

 

「そうなんだろうな」

 

広瀬はため息をついた。

 

「勘弁してくれよ。なんで俺たちのいるところなんだよ」

 

城島が苦笑した。

 

「お前、そんなこと言ったって、戦車に別のところから来てくれって頼めるわけじゃないだろ」

 

「分かってるよ。でもさ……」

 

広瀬は言葉を切った。

 

「戦車だぞ? こっちは小銃と機銃しかないんだぜ」

 

「G13もあるだろ」

 

城島が言った。

 

「五十メートルまで近づけなきゃ使えないやつな」

 

広瀬は即座に言い返した。

 

「しかも正面からじゃ効かないんだろ? どうしろっていうんだよ」

 

岡田は二人の話を聞きながら、以前の講習を思い出していた。

 

傾斜した分厚い鋼板に対する実射。

 

G13の弾頭は、鋼板を貫通できなかった。

 

城島が少し声を落とした。

 

「なあ、岡田。もし本当に戦車が来たら、俺たちどうなるんだ?」

 

「……分からない」

 

岡田は正直に答えた。

 

「対戦車砲がどれだけ撃破できるかによるんじゃないか」

 

「相手が十両とか二十両だったら?」

 

誰もすぐには答えられなかった。

 

城島は連絡通路の先を見つめた。

 

「俺、G12機銃分隊だろ。歩兵が来たら撃てるけど、戦車が来たらどうにもならないぞ」

 

「だよなあ……」

 

広瀬が乾いた笑いを漏らした。

 

「サッカーやってた頃は、こんなことになるなんて思いもしなかったよな」

 

「当たり前だろ」

 

城島が答えた。

 

「高校卒業したら、大学でもサッカー続けようかなって思ってたのに」

 

岡田も思わず笑った。

 

「俺もだよ」

 

三人はしばらく黙っていた。

 

元の世界では、同じグラウンドを走り、ボールを追いかけていた。

 

試合に負ければ悔しがり、練習が終わればくだらない話をして笑っていた。

 

それが今では、異世界の戦場で戦車の襲来を待っている。

 

広瀬がつぶやいた。

 

「俺たち、何やってるんだろうな」

 

岡田は答えられなかった。

 

そのとき、後方から兵士たちの声が聞こえた。

 

「工兵が通るぞ! 道を空けてくれ!」

 

三人は連絡通路の端に寄った。

 

工兵たちが工具や資材を抱え、前方の陣地へ向かっていく。

 

広瀬はその姿を見送った。

 

「……本当に来るのかな、戦車」

 

「来ないかもしれないさ」

 

岡田が答えた。

 

「だったら、来ないでほしいな」

 

城島が言った。

 

「俺もそう思うよ」

 

岡田はうなずいた。

 

しばらくして、広瀬が口を開いた。

 

「なあ、もし戦車が来ても、絶対に生き残ろうな」

 

城島が笑った。

 

「何だよ、急に」

 

「いいだろ、別に」

 

広瀬は少し照れくさそうに答えた。

 

「俺たち三人、せっかくまた同じ中隊になれたんだからさ」

 

岡田は二人を見た。

 

「そうだな。三人とも生き残ろう」

 

「よし、約束な」

 

三人は軽く拳を合わせた。

 

そのとき、ナゲフ軍曹の声が響いた。

 

「岡田! 広瀬! 戻ってこい!」

 

「はい!」

 

岡田と広瀬が返事をした。

 

「じゃあな、城島」

 

「おう。またあとで」

 

城島はG12機銃分隊の陣地へ、岡田と広瀬はナゲフ分隊の陣地へと戻っていった。

 

岡田は連絡通路を歩きながら、前方の森林を見た。

 

暗い木々の向こうには、魔族軍の陣地がある。

 

そのさらに奥に、本当に戦車部隊が集結しているのだろうか。

 

掩体壕へ戻ると、先ほど届けられたG13の木箱が置かれていた。

 

岡田はそれを一瞥して、自分の持ち場へ戻った。

 

* * *

 

第2歩兵中隊の後方に設けられた予備陣地でも、各部隊の受け入れが始まっていた。

 

すでに第3中隊の約半数が配置についており、工兵たちが塹壕や退避壕の整備を進めている。

 

そこへ、第1中隊から派遣された歩兵分隊が到着した。

 

井上翔太と川崎晴斗のいる分隊だった。

 

「ここが新しい配置先か」

 

川崎は、前方に延びる塹壕を見渡した。

 

「なんか、前より忙しそうなところだな」

 

「ああ。第2中隊の後方だからな」

 

井上は荷物を下ろした。

 

「なあ、井上」

 

「何だよ」

 

「俺たち、よりによって一番危なそうなところに移されたんじゃないか?」

 

「……そうかもしれないな」

 

「おい、否定してくれよ」

 

「仕方ないだろ。実際、そういう配置なんだから」

 

川崎は大きくため息をついた。

 

「後方予備って、もっと安全なところだと思ってたんだけどな」

 

井上も同じ気持ちだった。

 

前方の第2中隊が持ちこたえられなかった場合、次に戦うのは自分たちということになる。

 

「まあ、まだ戦車が来ると決まったわけじゃないしな」

 

井上はそう言って、装備を整理し始めた。

 

しばらくすると、後方から別の部隊がやってきた。

 

先頭を歩いていたのは石井軍曹だった。

 

その後ろには、G12機銃の装備を分担して運ぶロイ、サク、リースの姿があった。

 

石井の分隊は第3中隊の所属だったが、これまでは連隊司令部付近の機銃陣地に配置されていた。

 

今回の防御態勢の変更に伴い、第2中隊後方の予備陣地へ移動してきたのである。

 

「おっ、石井軍曹じゃないですか!」

 

井上が声を上げた。

 

石井は振り返り、二人を見つけた。

 

「ん? 井上と川崎か。お前たちもここに来たのか」

 

「はい。第1中隊から派遣されました」

 

「そうか。ずいぶん集めてるな」

 

石井は周囲を見渡した。

 

第3中隊の兵士たちに加え、第1中隊から派遣された分隊も配置につき始めている。

 

さらに第4中隊からも予備兵力が送られてくる予定だった。

 

「石井軍曹も、司令部からこっちに?」

 

川崎が尋ねた。

 

「ああ。今度はここで歩兵の支援だ」

 

石井は後ろの三人を振り返った。

 

「ロイ、サク、リース。先に機銃の配置場所を確認しておいてくれ」

 

「了解!」

 

三人は指定された陣地へ向かった。

 

井上が尋ねた。

 

「石井軍曹、やっぱり戦車が来るんですかね?」

 

「俺に聞くな。連隊司令部だって、まだ分かっていないんだろう」

 

「ですよね……」

 

川崎が口を挟んだ。

 

「軍曹、G12で戦車は撃てないですよね?」

 

「当たり前だろ。俺たちの仕事は敵の歩兵を撃つことだ」

 

石井は前方を指した。

 

「戦車だけで攻めてくるとは限らん。随伴する歩兵を食い止めるのが、俺たち機銃分隊の役目だ」

 

「なるほど」

 

井上がうなずいた。

 

石井は苦笑した。

 

「もっとも、そこまで敵が来なければ一番いいんだがな。俺だって戦車なんぞ見たくないさ」

 

川崎が少し笑った。

 

「軍曹でもそう思うんですね」

 

「当たり前だ。戦車が怖くない歩兵なんて、そうそういないぞ」

 

その言葉に、井上も苦笑した。

 

午前中、予備陣地の各部隊に対して配置の説明が行われた。

 

指揮を執るのは、第3中隊長のミラ中尉だった。

 

ミラは集まった分隊長たちを前に、地図を広げた。

 

「我々の任務は、第2中隊の後方を守ることです」

 

ミラは前方を指した。

 

「敵が第一線を突破した場合には、我々がその進撃を阻止することになります。各分隊は指定された陣地を確認し、射界と連絡通路を把握してください」

 

分隊長たちは黙って聞いていた。

 

「また、戦闘開始後にはオリヴィエ大佐が、この予備陣地付近の前進指揮所へ移動される予定です」

 

その言葉に、何人かの分隊長が顔を上げた。

 

連隊長自身が前方へ進出してくる。

 

それだけ、今回の戦闘を重大なものと考えているのだろう。

 

「まだ敵戦車の姿は確認されていませんが、いつ戦闘が始まっても対応できるよう準備を進めてください」

 

「了解しました!」

 

分隊長たちはそれぞれの持ち場へ戻っていった。

 

午後。

 

井上と川崎は、割り当てられた塹壕の整備を手伝っていた。

 

少し離れた場所では、石井分隊がG12機銃の射撃位置を確認している。

 

「こっちからなら、前方の開けたところを撃てるな」

 

石井が機銃の射界を確認しながら言った。

 

リースが双眼鏡を下ろした。

 

「軍曹、右側は木が邪魔になりますね」

 

「ああ。そっちは別の分隊に任せよう。俺たちは正面を担当する」

 

ロイとサクは機銃の設置位置を調整していた。

 

その様子を見ながら、川崎がつぶやいた。

 

「なあ、井上」

 

「何だ?」

 

「前に第3中隊が砲撃された時、石井軍曹もあそこにいたんだよな」

 

「ああ。三上が戦死した高地だろ」

 

二人は石井たちの方を見た。

 

石井の分隊は、すでに前線で実戦を経験している。

 

「やっぱ、経験がある人が近くにいると少し安心するな」

 

川崎が言った。

 

「そうだな」

 

井上も素直にうなずいた。

 

しかし、石井軍曹も戦車を相手にした経験があるわけではなかった。

 

井上は塹壕の前方を見つめた。

 

その先には第2中隊の防御陣地があり、さらにその向こうには森林が広がっている。

 

「……何も起きなきゃいいんだけどな」

 

川崎もうなずいた。

 

「ほんと、それだよ」

 

二人は再び塹壕の整備を始めた。

 

* * *

 

ベルノ連隊の砲兵中隊でも、慌ただしく迎撃準備が進められていた。

 

連隊が保有する120mm榴弾砲は八門。

 

二門ずつ四か所に分散配置されている砲兵陣地では、砲員たちが射撃諸元の確認と弾薬の準備に追われていた。

 

連隊司令部からは、第2歩兵中隊正面への火力集中を命じられていた。

 

砲兵中隊の指揮所では、地図を囲んだ将校たちが射撃計画を検討していた。

 

「敵戦車が林道を進出してきた場合、まずこの森林出口に砲撃を集中する」

 

指揮官が地図を指した。

 

「戦車そのものを榴弾で撃破するのは難しい。随伴歩兵や後続部隊を混乱させ、進撃を遅らせることを優先する」

 

別の士官がうなずいた。

 

「敵戦車が地雷や対戦車砲によって停止した場合には、後続部隊が密集する可能性もあります」

 

「そうだ。その機会を逃さないようにしたい」

 

地図には、あらかじめ射撃目標とする地点が書き込まれていた。

 

「各砲兵陣地には射撃諸元を配布済みです。観測所との通信も確認しています」

 

「よし。射撃命令が出たら、速やかに火力を集中できるようにしておけ」

 

「了解しました」

 

四か所の砲兵陣地では、砲員たちが次々と照準を確認していた。

 

「第一目標、方位確認!」

 

「仰角、確認!」

 

「第二目標へ移るぞ!」

 

砲身がゆっくりと動き、砲長が計器を確認する。

 

射撃目標は複数設定されていた。

 

森林出口、林道の交差地点、敵歩兵の集結が予想される場所。

 

各砲兵陣地は、指揮所からの命令に応じて射撃目標を切り替えられるよう準備を進めていた。

 

* * *

 

その頃、水野香織のいる砲兵陣地でも、砲弾の搬入が続いていた。

 

「水野! そっちの砲弾、数を確認して!」

 

リン伍長の声が響いた。

 

「はい!」

 

水野は積み上げられた木箱を確認し、記録表に数量を書き込んだ。

 

「それにしても、今日は忙しいですね」

 

水野が言うと、リン伍長は砲弾の箱を持ち上げながら答えた。

 

「そりゃそうよ。戦車が来るかもしれないんだから!」

 

リンは筋骨隆々とした腕で重い箱を運び、所定の場所へ置いた。

 

「でも、うちの砲で戦車を撃破できるんですか?」

 

「直撃すれば相当な損害は与えられるでしょうけど、動いてる戦車に直撃させるなんて簡単じゃないわよ」

 

「そうですよね……」

 

「私たちの仕事は前線の支援よ。戦車だけを狙っていればいいわけじゃないの」

 

リンは前方の森林を指した。

 

「敵が大勢来たら、砲兵の出番でしょう?」

 

「なるほど」

 

水野はうなずいた。

 

リンは再び砲弾を運び始めた。

 

「ほら、考えてる暇があったら手を動かす! 砲撃が始まったら、もっと忙しくなるんだから!」

 

「はい!」

 

水野は慌てて作業に戻った。

 

砲の近くでは、砲長が射撃諸元を確認していた。

 

水野は砲身の向く先を見た。

 

その向こうには、第2中隊の陣地があった。

 

そこには、同じ第20期召喚者の岡田修平たちもいる。

 

「……みんな、大丈夫かな」

 

水野が小さくつぶやいた。

 

リンが振り返った。

 

「何か言った?」

 

「あ、いえ。第2中隊に知り合いがいるんです」

 

「ああ、そういうこと」

 

リンは少しだけ表情を和らげた。

 

「だったら、なおさら頑張らないとね」

 

「はい」

 

水野は改めて砲弾の箱に手を伸ばした。

 

今は、自分にできることをするしかなかった。

 

夕方になっても、砲兵中隊の準備作業は終わらなかった。

 

四か所の砲兵陣地では、砲弾の補充、射撃諸元の確認、通信線の点検が繰り返されていた。

 

やがて、各陣地から準備完了の報告が届き始めた。

 

「第一陣地、射撃準備完了!」

 

「第二陣地、準備完了!」

 

「第三陣地、通信確認完了!」

 

「第四陣地、射撃諸元の確認終了!」

 

報告を受けた指揮官は、地図上の第2中隊正面を見つめた。

 

「各陣地に伝達。射撃目標の優先順位に変更なし。即応態勢を維持せよ」

 

「了解!」

 

通信兵が命令を伝えていった。

 

ベルノ連隊の120mm榴弾砲八門。

 

四か所に分散した砲兵陣地では、第2中隊正面への射撃準備が整えられていた。

 

あとは、命令を待つだけだった。

 

* * *

 

翌日。

 

久しぶりに雲の少ない、よく晴れた朝だった。

 

第2中隊後方の予備陣地では、前日から引き続き陣地の整備が行われていた。

 

井上翔太は作業の手を休め、ふと空を見上げた。

 

遠くから、微かなエンジン音が聞こえていた。

 

「あれ?」

 

井上は目を細めた。

 

青空の中に、小さな飛行機が見えた。

 

機影はゆっくりと移動しながら、ベルノ連隊の前方に広がる緩衝地帯の上空を飛んでいた。

 

かなり高い高度を飛行しているため、後方の予備陣地からでも見ることができた。

 

「おい、川崎。飛行機だぞ」

 

「また魔族のか?」

 

隣で作業していた川崎晴斗が顔を上げた。

 

「いや、あれは味方の観測機だと思う」

 

「味方?」

 

「ああ。こっちの後方から飛んできたし、機体の形もこの前の魔族のとは違う」

 

井上は空を見上げたまま答えた。

 

「たぶん、敵の様子を調べてるんだろうな」

 

「へえ。こっちにも飛行機があったんだな」

 

「そりゃあるだろ。数は少ないみたいだけど」

 

川崎は青空を見上げた。

 

「でも、ずいぶん高いところを飛んでるな」

 

「敵の対空砲を警戒してるんだろう」

 

「なるほどね」

 

観測機は、緩衝地帯の上空をゆっくりと飛んでいた。

 

時折進路を変えながら、眼下の森林を調べているようだった。

 

井上は少しだけ安心した。

 

敵の偵察機には好きなように飛ばれていたが、帝国軍もただ黙っているわけではないらしい。

 

「これで敵の戦車が見つかればいいんだけどな」

 

「森の中に隠れてるんだろ?」

 

「そうだろうな。上から見つけられるかは分からないけど、道路の様子くらいは確認できるかもしれない」

 

二人はしばらく観測機を眺めていた。

 

そのときだった。

 

遠くから、別のエンジン音が聞こえてきた。

 

最初は小さな音だった。

 

しかし、その音は急速に大きくなっていく。

 

「ん?」

 

井上が音のする方向へ顔を向けた。

 

「何だ、あれ……」

 

高い空から、一機の飛行機が急降下してきていた。

 

先ほどの観測機とは、明らかに速度が違った。

 

機首を下げ、ものすごい勢いで高度を落としている。

 

井上の表情が変わった。

 

「戦闘機だ!」

 

「え?」

 

「魔族の戦闘機だ! 観測機を狙ってる!」

 

川崎が慌てて空を見上げた。

 

敵戦闘機は、ほとんど一直線に帝国軍の観測機へ向かっていた。

 

「おい、逃げろ!」

 

井上が思わず叫んだ。

 

だが、その声が上空へ届くはずもなかった。

 

次の瞬間。

 

敵戦闘機の機首付近が、短く光った。

 

観測機の周囲に、細かな光が連続して走った。

 

遠くから、乾いた連続音が遅れて聞こえてきた。

 

「撃ってる!」

 

川崎が叫んだ。

 

直後、観測機から破片が飛び散った。

 

「あっ!」

 

井上が声を上げた。

 

観測機の片翼が折れ、機体から離れた。

 

続いて胴体が砕け、無数の破片が青空に散らばった。

 

機体は一瞬で原形を失っていた。

 

「うわっ!」

 

川崎が叫んだ。

 

観測機だったものが、ばらばらになって落ちていく。

 

折れた翼が回転しながら落下し、胴体の残骸は黒い煙を引いていた。

 

敵戦闘機はその残骸を追うこともなく、急降下の勢いを利用して飛び去っていった。

 

全てが、ほんの数秒の出来事だった。

 

「……嘘だろ」

 

川崎が呆然とつぶやいた。

 

井上も言葉を失っていた。

 

高い空に、黒い煙と落下する破片だけが残されていた。

 

やがて、残骸は遠方の森林へと消えていった。

 

陣地のあちこちから、兵士たちの声が聞こえ始めた。

 

「今の見たか!?」

 

「味方の飛行機が撃ち落とされたぞ!」

 

「魔族の戦闘機だ!」

 

少し離れた機銃陣地では、石井軍曹たちも空を見上げていた。

 

「……ひどいな」

 

石井が低い声で言った。

 

傍らのリースも、青空を見つめたまま動かなかった。

 

「逃げる暇もありませんでしたね」

 

「ああ。あんなもの、どうしようもないな」

 

石井は煙の残る空を見上げた。

 

敵戦闘機は、すでに見えなくなっていた。

 

一方、井上はまだ空から目を離せずにいた。

 

「……一撃かよ」

 

川崎が顔を向けた。

 

「何?」

 

「一回の攻撃で、あんなにばらばらになるなんて……」

 

井上は小さく首を振った。

 

軍事関係の本や映像で、戦闘機が敵機を撃墜する場面は何度も見たことがあった。

 

だが、実際に目の前で見るのは初めてだった。

 

しかも、撃墜されたのは味方の飛行機だった。

 

ほんの少し前まで、何事もなく青空を飛んでいた機体が、数秒後には跡形もなく砕け散っていた。

 

川崎がつぶやいた。

 

「あれ、乗ってた人は……」

 

井上は答えなかった。

 

答えられなかった。

 

二人は、しばらく青空を見上げていた。

 

晴れ渡った空には、もう一機の飛行機も見えなかった。

 

まるで、先ほどの出来事など最初からなかったかのようだった。

 

「……やっぱり、何か始まるのかな」

 

川崎が言った。

 

井上はゆっくりとうなずいた。

 

「分からない。でも、魔族は俺たちに空から偵察されたくないんだろうな」

 

「戦車を隠してるからか?」

 

「……かもしれない」

 

井上は前方の森林へ視線を向けた。

 

その向こうには、第2中隊の防御陣地がある。

 

さらに先の緩衝地帯では、浸透偵察小隊の各班が敵の動きを監視しているはずだった。

 

敵戦車が本当に接近しているのかは分からない。

 

ただ、帝国軍の観測機が撃ち落とされたという事実だけは、疑いようがなかった。

 

井上は小さく息を吐いた。

 

「……嫌な予感しかしないな」

 

今度は、川崎も何も言い返さなかった。

 

* * *

 

翌朝。

 

緩衝地帯の森林内に潜伏していたイルム班は、前方から聞こえてくる低い音に気づいた。

 

最初は、遠くで雷が鳴っているような響きだった。

 

だが、その音は途切れることなく、少しずつ大きくなっていく。

 

イルムは耳を澄ませた。

 

「……来たかもしれん」

 

隣で監視していた女性班員が顔を上げた。

 

「車の音?」

 

「ああ。それも一台や二台じゃない」

 

イルムは三人に合図し、全員を低木の陰に伏せさせた。

 

四人は動きを止め、林道の奥を見つめた。

 

やがて、木々の間に黒っぽい車体が見え始めた。

 

幅の広い車体。

 

前方へ突き出した長い砲身。

 

左右の履帯が地面を踏みしめながら進んでくる。

 

戦車だった。

 

「……戦車よ」

 

女性班員の一人が小声で言った。

 

イルムは双眼鏡を覗いた。

 

最初の一両に続いて、二両目、三両目が姿を現した。

 

車列は途切れなかった。

 

「四……五……六……」

 

六両。

 

少なくとも、先頭に六両の戦車がいる。

 

さらに後方から、別の車両も続いていた。

 

イルムは双眼鏡を向け直した。

 

戦車とは形の異なる車両だった。

 

「兵員輸送車か……」

 

何両いるのか、まだ確認できない。

 

戦車を先頭に、歩兵を乗せた車両が続く。

 

明らかに、単なる偵察ではなかった。

 

「本当に来たのね……」

 

隣の女性班員がつぶやいた。

 

イルムはゆっくりとうなずいた。

 

「無線を入れる。周囲の警戒を頼む」

 

三人の女性班員が、それぞれ監視についた。

 

イルムは背負っていた無線機とバッテリーを下ろし、送信の準備を整えた。

 

近づいてくるエンジン音の中で、送話器を口元へ寄せる。

 

「こちらイルム班。小隊本部、エレナ班、聞こえるか?」

 

すぐに応答があった。

 

『こちら小隊本部。感度良好』

 

続いて、エレナの声も聞こえた。

 

『こちらエレナ班。聞こえているわ』

 

イルムは林道に視線を向けたまま、報告を始めた。

 

「敵戦車部隊を発見。先頭に戦車六両。その後方に兵員輸送車が複数続いている。主要林道を帝国軍方向へ進行中。車列の後尾は確認できない」

 

『小隊本部、了解。現在位置を報告せよ』

 

イルムは地図を確認し、発見地点を伝えた。

 

『了解した。監視を継続せよ。ただし、敵に発見されるな』

 

「了解」

 

続いて、エレナが呼びかけた。

 

『イルム、こちらでも警戒を強めるわ。気をつけてね』

 

「ああ。そっちもな」

 

イルムは送話器を戻した。

 

再び双眼鏡を構える。

 

先頭の戦車部隊は、そのまま前進を続けていた。

 

履帯が地面を踏みしめる重い音が、森林の中に響いている。

 

その後方からは、さらに車両が現れ始めていた。

 

イルムは低くつぶやいた。

 

「……いったい、何両いるんだ」

 

* * *

 

第2中隊正面。

 

林道から少し離れた小高い場所に潜伏していたエレナ班でも、イルムの報告を受信していた。

 

「……本当に来たのね」

 

エレナがつぶやいた。

 

高橋は双眼鏡を手に取った。

 

「先頭だけで六両ですか……」

 

「後ろにも続いているそうだから、もっと多いかもしれないわね」

 

ミレーナが前方を見つめた。

 

「兵員輸送車までいるなんて……」

 

エレナは高橋に顔を向けた。

 

「亘一、林道をお願い。アルノーは退路をもう一度確認しておいて」

 

「はい」

 

「了解」

 

「ミレーナは無線をお願い。次の報告があるかもしれないから」

 

「分かったわ」

 

四人はそれぞれの持ち場についた。

 

高橋は双眼鏡を覗いた。

 

林道には、まだ何も見えなかった。

 

相変わらず、木々の間を一本の道が静かに延びている。

 

しかし、その奥から魔族軍の戦車部隊が接近していることは、もう間違いなかった。

 

高橋は双眼鏡を持つ手に、少し力を込めた。

 

昨日まで、来るかもしれないと話していた敵が、本当に現れたのだ。

 

「エレナさん……」

 

「なに?」

 

「緊張しますね」

 

エレナは高橋の横顔を見た。

 

「そうね。私もよ」

 

そして、再び林道へ視線を戻した。

 

「でも、まだ姿は見えないわ。慌てずに待ちましょう」

 

「はい」

 

高橋は深く息を吸った。

 

遠くで鳥の鳴き声がした。

 

いつもと変わらない、静かな朝だった。

 

その静けさの向こうで、六両の戦車を先頭とする魔族軍の車列が近づいていた。

 

* * *

 

浸透偵察小隊本部。

 

ヴァルター少佐も、イルムからの報告を聞いていた。

 

「……来たか」

 

ヴァルターは机に広げた地図へ歩み寄った。

 

通信支援班の兵士が、イルムの報告地点を記入する。

 

ヴァルターは、その地点から林道を指でたどった。

 

行き着く先は、第2歩兵中隊の正面だった。

 

「連隊司令部へ直ちに報告! 敵戦車六両を先頭とする車列が接近中。後方に兵員輸送車が随伴していると伝えろ!」

 

「了解!」

 

通信兵が連隊司令部への連絡を始めた。

 

「それから、小隊本部の移動準備に入れ。いつでも司令部へ移れるようにしておけ」

 

「はっ!」

 

天幕の中が慌ただしくなった。

 

ヴァルターは地図を見つめた。

 

オリヴィエが対戦車砲二門を集中させた第2中隊正面。

 

そこへ、敵戦車部隊が接近していた。

 

「お嬢……どうやら賭けには当たったようですな」

 

だが、その表情に喜びはなかった。

 

敵が現れる場所を当てたからといって、勝てるわけではない。

 

問題は、ここからだった。

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