勇者連隊戦記   作:バグスター

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帝国歴232年3月後半、イジューム戦線


第4節 グリモフ

第2中隊前方の森林。

 

針葉樹の枝を通り抜けた陽光が、まだら模様となって地面に落ちていた。

 

雪解けの進んだ林床には湿った落ち葉が厚く積もり、ところどころに残雪が白く残っている。風は弱く、木々の梢がわずかに揺れる程度だった。

 

そんな静かな森の向こうから、絶え間なく砲声が聞こえていた。

 

鈍く響く戦車砲の発射音。少し間を置いて届く砲弾の炸裂音。時折、それらに重なるように機銃の連射音が響く。

 

ベルノ連隊の第2中隊が、魔族軍の戦車部隊と戦っているのだ。

 

エレナ班は、林道を斜めに見下ろす小高い場所に潜伏していた。

 

周囲には太い針葉樹が立ち並び、倒木や灌木が天然の遮蔽物になっている。林道からは距離があり、しかも斜面の陰になっているため、こちらの姿は容易には見つからないはずだった。

 

高橋は地面に伏せ、双眼鏡を覗いていた。

 

林道の周辺には、魔族軍の第3陣が展開している。

 

戦車六両と装甲兵員輸送車四両。

 

先に進出した二つの戦車部隊と同じ編成だったが、こちらはまだ前進していなかった。

 

戦車のエンジンは動いているらしく、車体後方から時折排気が立ち上っている。砲塔のハッチから上半身を出した魔族兵が周囲を見回し、車両の間では歩兵が何かを話し合っていた。

 

しかし、攻撃開始を知らせるような動きは見られなかった。

 

「エレナさん、第3陣に動きはありません」

 

高橋が報告すると、隣で双眼鏡を構えていたエレナが頷いた。

 

「分かったわ。引き続き見ていて」

 

エレナはゆっくりと身を引き、少し後方に置かれた無線機のところへ移動した。

 

ミレーナはちょうど送話器を置いたところだった。

 

「小隊本部から連絡よ。第2中隊の主陣地は突破されたらしいわ。中隊本部との通信も途絶えているそうよ」

 

エレナは思わず顔を上げた。

 

「……そう」

 

第2中隊の主陣地には、幾重にも塹壕と掩体壕が設けられていた。工兵たちが地雷を敷設し、対戦車砲や砲兵中隊も支援することになっていた。

 

それでも、敵を食い止められなかったのだ。

 

「敵戦車は予備陣地まで進んでいるそうよ。対戦車砲も沈黙したみたい」

 

ミレーナの声には、いつもの明るさがなかった。

 

エレナは無線機の脇に膝をつき、短く考え込んだ。

 

七年前、帝国歴225年の戦いでも、ベルノの部隊は魔族軍の突破によって包囲された。

 

あのとき生き残った兵士は、ほんのわずかだった。

 

今度こそ同じことを繰り返したくない。その思いで連隊は防御陣地を整備し、訓練を重ねてきた。

 

だが、敵戦車の突破を防げなかったという事実は変わらない。

 

遠くでひときわ大きな爆発音が響いた。

 

「……ミレーナ、小隊本部との連絡を続けて。何か変化があればすぐ知らせてちょうだい」

 

「分かったわ」

 

エレナは高橋のところへ戻った。

 

少し離れた倒木の陰では、アルノーが小銃を抱えて周囲を警戒していた。

 

「アルノー、そちらはどう?」

 

「今のところ異常なし。ただ、林道の向こうじゃ歩兵が動いている。こっちにも来るかもしれんな」

 

「ええ。気をつけて」

 

アルノーは軽く頷くと、再び木々の間へ目を向けた。

 

イルム班は、すでに魔族歩兵の接近によって監視位置を離れていた。敵後方の部隊を観察できる場所は、少しずつ失われている。

 

エレナ班も、いつまでここに留まれるか分からなかった。

 

高橋は双眼鏡を構え直した。

 

林道では、第3陣の戦車が相変わらず待機している。

 

「……あいつら、いつまで待っているんでしょうね」

 

「分からないわ。でも、まだ投入されていない戦車が六両もあるのよ。何かのタイミングを待っているんでしょうね」

 

「これ以上、前へ出てきたら……」

 

高橋は言いかけて、口を閉じた。

 

第2中隊には、岡田修平がいる。

 

同じ第20期の召喚者で、訓練中から顔を合わせてきた仲間だった。

 

あの戦車部隊の向こうでは、今も岡田たちが戦っているはずだ。

 

エレナは高橋の横顔を見た。

 

「亘一、心配なのは分かるわ。でも、今は目の前の敵を観察しましょう」

 

「……はい」

 

高橋は頷いた。

 

しばらくの間、二人は言葉を交わさず林道を見つめていた。

 

遠方の砲声だけが、静かな森林に重く響いていた。

 

そのときだった。

 

双眼鏡の視界の端に、何かが動いた。

 

高橋はゆっくりと双眼鏡を動かした。

 

林道の奥、木々の間に黒い影が見える。

 

初めは歩兵かと思った。

 

しかし、影は人間よりもはるかに大きく、上下に揺れながら近づいてくる。

 

馬だった。

 

しかも一頭ではない。

 

何頭もの馬が、林道をこちらへ進んでいた。

 

「エレナさん!」

 

「どうしたの?」

 

「騎馬の一団が近づいてきます!」

 

エレナはすぐに双眼鏡を向けた。

 

針葉樹の間から、馬に乗った魔族兵たちが次々と姿を現す。

 

「……本当ね」

 

これまで見てきた魔族軍の戦車や装甲兵員輸送車とは、明らかに異なる一団だった。

 

先頭の騎兵は林道の左右へ目を配り、その後ろにも複数の騎兵が続いている。

 

馬の歩調は落ち着いており、急いで移動している様子はない。

 

「戦車部隊のところへ向かっているようです」

 

高橋が報告した。

 

その言葉どおり、騎馬の一団は待機中の戦車部隊へ近づくにつれて速度を落とし始めた。

 

すると、林道脇にいた魔族兵たちが慌ただしく動き始めた。

 

一体が近くの戦車へ走り、砲塔の上から顔を出していた乗員に何かを伝える。

 

間もなく、ハッチから一体の魔族兵が降りてきた。

 

その兵士は軍服を整えると、ほかの将校らしい魔族兵を伴って林道へ向かった。

 

「……何かあるみたいですね」

 

「ええ。普通の騎兵部隊じゃなさそうね」

 

エレナは後方へ声をかけた。

 

「ミレーナ、騎馬の一団を確認したわ。小隊本部に報告してちょうだい」

 

「数は?」

 

高橋が双眼鏡を動かし、一騎ずつ確認する。

 

「……八騎です。全部で八騎」

 

「騎馬八騎が林道の後方から接近中。第3陣の戦車部隊へ向かっているようだ、と伝えて」

 

「了解」

 

ミレーナは送話器を手に取り、小隊本部を呼び出した。

 

「こちらエレナ班。小隊本部、応答願う」

 

しかし、返ってきたのは激しい雑音だった。

 

『ザザザザ……』

 

ミレーナは眉をひそめ、受信機を調整した。

 

「こちらエレナ班。小隊本部、聞こえる?」

 

返答はなかった。

 

先ほどまで問題なく交信できていたはずなのに、受信機からは耳障りな雑音ばかりが流れてくる。

 

ミレーナは接続を確認し、もう一度呼びかけた。

 

それでも結果は同じだった。

 

「……おかしいわね」

 

エレナが振り返った。

 

「どうしたの?」

 

「通信ができないの。さっきまで普通につながっていたのに、急に雑音がひどくなったわ」

 

「無線機の故障?」

 

「違うと思う。機器は正常に動いているもの。通信妨害かもしれないわ」

 

エレナは林道へ目を向けた。

 

騎馬の一団は、すでに戦車部隊の近くまで進んでいる。

 

偶然なのか、それとも騎馬隊の接近と何か関係があるのか。

 

今の段階では判断できなかった。

 

「もう少し試してみて。駄目なら、無理に送信を続けなくてもいいわ」

 

「分かった」

 

ミレーナは再び小隊本部を呼び出したが、やはり応答はなかった。

 

その間にも騎馬の一団は戦車部隊へ到着し、林道の脇で停止していた。

 

八騎のうち七騎が、中央の一騎を取り囲むように位置を変え始める。

 

数騎は馬首を後方へ向け、ほかの騎兵は左右の森林を警戒していた。

 

中央の一騎だけは動かず、戦車部隊から出迎えに来た魔族兵たちと向き合っている。

 

「……真ん中の魔族、見えますか?」

 

高橋が小声で尋ねた。

 

エレナは双眼鏡の焦点を合わせた。

 

「ええ。ほかの兵士とは、ずいぶん格好が違うわね」

 

中央の魔族がかぶっている制帽には、ほかの兵士たちとは明らかに異なる意匠が施されていた。

 

帽子の正面には大きな徽章があり、つばにも細かな刺繍が施されている。

 

さらに、赤い裏地のマント。

 

胸には勲章のような装飾がいくつも並んでいた。

 

馬上で身体を動かすたびにマントが揺れ、鮮やかな赤い裏地が覗く。胸に並んだ飾りも、時折、木漏れ日を反射して鈍く光っていた。

 

周囲の魔族兵が比較的地味な軍装であるだけに、その姿はひときわ目立っていた。

 

「ずいぶん派手な格好ですね。将校でしょうか?」

 

高橋の問いに、エレナはすぐには答えなかった。

 

装飾の多い制帽。

 

赤い裏地のマント。

 

胸に並んだ勲章らしい飾り。

 

どこかで見たことがある。

 

エレナは双眼鏡を覗いたまま、記憶をたどった。

 

以前、小隊で回覧された魔族軍の資料だ。

 

階級制度や軍装の特徴をまとめたもので、将校の服装を描いた図も載っていた。

 

細かな意匠までは覚えていない。

 

だが、上級将校ほど制帽や軍服の装飾が豪華になるという説明は印象に残っていた。

 

「あの軍装……以前見た資料に似ているわ」

 

「資料ですか?」

 

「魔族軍の階級についてまとめたものよ。あの制帽とマント、かなり上の階級のものだったと思うの」

 

エレナは双眼鏡を覗き直した。

 

馬上の魔族は、戦車部隊から出迎えに来た将校らしい兵士たちへ何かを話している。

 

その周囲には七騎の護衛。

 

戦車部隊の兵士たちも、姿勢を正して話を聞いていた。

 

「……将軍クラスかもしれないわ」

 

「将軍ですか?」

 

高橋は思わず聞き返した。

 

エレナは小さく頷いた。

 

「ええ。ただ、ここからじゃ徽章や勲章の細部までは分からないから、断定はできないけど」

 

高橋は双眼鏡を構え直した。

 

馬上の魔族が右手を上げた。

 

赤い裏地のマントが肩からずれ、胸に並んだ勲章が見えた。

 

戦車部隊の将校らしい魔族兵が、深く頭を下げている。

 

「もし本当に将軍だったら、ずいぶん前線に近いところまで来ているんですね」

 

「そうね。戦況を直接確認しに来たのかもしれないわ」

 

二人の見ている前で、中央の魔族はベルノ連隊の陣地がある方向を指さした。

 

その指先を追うように、周囲の将校たちも前方へ目を向ける。

 

会話の内容は聞こえない。

 

だが、戦車部隊の行動について何か指示しているように見えた。

 

「ミレーナ、通信はどう?」

 

「駄目。相変わらず雑音ばかりよ」

 

「……そう」

 

エレナは唇を噛んだ。

 

騎馬八騎の接近も、高級将校らしい人物の存在も、まだ小隊本部へ報告できていない。

 

これほど重要な情報を目の前にしながら、連絡する手段が失われていた。

 

そのとき、高橋が双眼鏡を少し左へ動かした。

 

「エレナさん、周囲に歩兵が展開してきています」

 

エレナも確認した。

 

戦車部隊の周辺から、魔族歩兵が数体ずつ林道の両側へ入り始めていた。

 

小銃を構え、木々の間を慎重に進んでいる。

 

一組は林道の北側へ、別の組は斜面の下へ向かった。

 

さらに別の場所でも歩兵が動いていた。

 

騎馬の七騎は中央の魔族から離れず、その周囲を固めている。

 

どうやら、それとは別に歩兵による警戒網を広げようとしているらしい。

 

「……厄介ね」

 

エレナは双眼鏡を下ろし、周囲の森林を見回した。

 

静かに潜伏できていたのは、これまで敵がこちらを積極的に探していなかったからでもある。

 

歩兵が組織的に捜索を始めれば、ここも安全ではなくなる。

 

「ミレーナ、通信は一旦中止して。すぐに撤退できるよう、無線機をまとめておいて」

 

「了解」

 

ミレーナは送話器を戻し、携行具を整え始めた。

 

その間に、エレナはアルノーへ声をかけた。

 

「林道のこちら側にも歩兵が入ってきたわ。警戒をお願い」

 

「分かった。少し位置を変えて見ておく」

 

アルノーは小銃を抱え、倒木の向こうへ身を移した。

 

湿った落ち葉がかすかに擦れる。

 

しばらくして、彼が低い声で呼びかけた。

 

「エレナ。敵の歩兵がこちらへ向かっている。まだ距離はあるが、いずれこの斜面まで来るぞ」

 

エレナは双眼鏡を下ろした。

 

林道には、八騎の騎馬がまだ留まっていた。

 

中央の魔族は馬上から部下たちへ指示を続けているようだった。

 

その間にも、周囲の魔族歩兵は少しずつ広がっている。

 

「……もう長居はできないわね」

 

エレナは小さくつぶやいた。

 

そして、高橋へ顔を向けた。

 

「亘一、あの将校を撃てる?」

 

高橋は少し驚いた様子でエレナを見た。

 

「……中央の、派手な軍装の魔族ですか?」

 

「ええ」

 

高橋は再び双眼鏡を構えた。

 

距離はあるものの、中央の魔族はまだ馬上に留まっていた。

 

「距離はどのくらい?」

 

エレナが尋ねた。

 

高橋は木々の高さと騎馬の大きさを見比べ、しばらく観察した。

 

「……およそ三百メートルです」

 

「当てられる?」

 

「相手が動かなければ、十分狙えます」

 

高橋の返答に迷いはなかった。

 

エレナは頷いた。

 

あの魔族が本当に将軍級の高級将校なら、ここで狙撃する価値は大きい。

 

だが、発砲すれば潜伏している場所を敵に知られる危険がある。

 

しかも、周囲にはすでに魔族歩兵が展開し始めていた。

 

エレナは後方を振り返った。

 

「アルノー、ミレーナ。ちょっと集まって。相談したいことがあるの」

 

二人は周囲を確認すると、身を低くして高橋たちのところへ移動してきた。

 

「どうした?」

 

アルノーが尋ねた。

 

エレナは林道を指さした。

 

「あそこにいる高級将校らしい魔族を狙撃しようと思うの」

 

ミレーナは双眼鏡を受け取り、中央の騎馬を確認した。

 

「……ああ、あの派手な格好の魔族ね。護衛がずいぶん厳重だわ」

 

「ええ。軍装からすると、将軍級の可能性があるの。亘一なら狙撃できる距離よ」

 

アルノーは一瞬、驚いたように高橋を見た。

 

「三百メートルくらいあるだろう?」

 

「はい。相手が動かなければ、狙えます」

 

高橋が答えると、アルノーは改めて林道へ目を向けた。

 

「……なるほどな」

 

エレナは三人を見回した。

 

「みんなの意見を聞きたいの。相手が本当に将軍なら、大きな戦果になるかもしれない。でも、撃てば敵に気づかれる危険があるわ。通信もできないから、小隊本部へ報告して指示を受けることもできない」

 

針葉樹の向こうで砲声が響いた。

 

誰もすぐには口を開かなかった。

 

今も第2中隊の後方では、味方の兵士たちが戦っている。

 

エレナたちが見ている第3陣の戦車が動き出せば、ベルノ連隊はさらに苦しい状況になるだろう。

 

やがてアルノーが口を開いた。

 

「俺は賛成だ」

 

エレナが顔を向けると、アルノーは林道の騎馬を指さした。

 

「以前、聞いたことがあるんだ。魔族軍は指揮官が倒れると、指揮系統が瓦解して、兵士たちが逃げ始めることがあるってな」

 

「……指揮官が倒れるだけで?」

 

「ああ。指揮官に強く依存している部隊ほど、その傾向があるらしい。もちろん、全部の部隊がそうなるとは限らんけどな」

 

アルノーは一度言葉を切った。

 

遠くから聞こえる砲声に耳を傾け、少し表情を険しくする。

 

「今、うちの連隊は相当苦戦している。あの魔族が本当に将軍なら、撃つ価値は十分あると思う」

 

エレナは考え込んだ。

 

魔族軍の戦車と歩兵は、驚くほど統制の取れた動きをしていた。

 

その部隊を指揮している人物が、目の前の魔族だとしたら。

 

少なくとも、何らかの混乱を引き起こせる可能性はある。

 

「ミレーナはどう思う?」

 

「私も賛成よ」

 

ミレーナは即答した。

 

「敵の捜索がここまで来たら、どうせ私たちは撤退するしかないでしょう? だったら、その前に一発撃ち込んでやりたいわ」

 

その口調には、いつもの気の強さが戻っていた。

 

「でも、撃ったらすぐに逃げなきゃならないわよ」

 

「分かってる。それに、高橋が外したとしても責めないわ。三百メートル先の馬上の相手なんだから」

 

高橋は思わず苦笑した。

 

「……できれば、外したくないですけどね」

 

アルノーも小さく笑った。

 

「頼りにしてるぞ、高橋」

 

その何気ない言葉に、高橋は頷いた。

 

だが、心の中では緊張が高まり始めていた。

 

今までも魔族を狙撃したことはある。

 

しかし、今回は相手が違う。

 

七騎もの護衛に囲まれた、将軍級かもしれない高級将校。

 

命中すれば戦局に影響するかもしれないという期待と、失敗した場合の危険が、同時に胸の中へ押し寄せてきた。

 

エレナは三人の顔を順番に見た。

 

誰も反対していなかった。

 

「分かったわ。狙撃しましょう」

 

決断すると、エレナの表情はいつもの班長のものへ戻った。

 

「ただし、相手が本当に将軍かどうかは分からないし、撃ったからといって敵が崩れる保証もないわ。それは忘れないで」

 

アルノーが頷く。

 

「分かってるさ」

 

エレナはそこで、ミレーナの足元に置かれた無線機へ目を向けた。

 

「それから、撤退について決めておきたいことがあるの」

 

三人の視線が集まった。

 

「発砲後、敵に発見されずに離脱できるなら、無線機も持ち帰るわ。でも、見つかって追撃された場合は放棄しましょう」

 

ミレーナは無線機へ目を落とした。

 

携行式とはいえ、本体と電源を合わせれば相応の重量がある。

 

足場の悪い森林を移動するだけでも負担になるのに、敵に追われながら背負って走れば、逃げ切れるものも逃げ切れなくなるかもしれない。

 

「……そうね。これを背負ったまま走るのは厳しいわ」

 

「ええ。でも、敵に使える状態で渡すわけにもいかない。放棄するときは、できるだけ壊してから捨ててちょうだい」

 

ミレーナは頷いた。

 

「分かったわ。すぐに下ろせるようにしておく」

 

「ただし、壊すことに時間をかけすぎないで。あくまで撤退が優先よ」

 

「了解」

 

ミレーナは無線機の携行具を確かめた。

 

アルノーも、その様子を見ながら口を開いた。

 

「ミレーナが無線機を処分する間は、俺が後ろを見ておくさ」

 

「お願い。敵が接近したらすぐに知らせて」

 

エレナは周辺の地形を確かめた。

 

潜伏地点の後方には、緩やかな斜面が続いている。その先には小さな沢があり、さらに森林の奥へ進めば味方の陣地へ戻ることができる。

 

ただし、敵に追われることになれば、まっすぐ帰れるとは限らない。

 

「撃ったら、まず後方の斜面へ下がるわ。敵が追ってきたら、無理に交戦せず、逃げることを優先します」

 

三人が頷いた。

 

「亘一、あなたは狙撃に集中して。撤退の判断は私がするわ」

 

「はい」

 

「アルノーは後方警戒。ミレーナは無線機をすぐ放棄できるよう準備して、撤退時は周辺の警戒に加わって」

 

「了解」

 

「分かったわ」

 

四人は短く頷き合った。

 

エレナは最後に、全員の顔を見回した。

 

「狙撃に成功しても、私たちが帰れなかったら意味がないわ。必ず生きて戻りましょう」

 

誰も異論を唱えなかった。

 

アルノーが小銃を抱え直し、少し笑った。

 

「よし。じゃあ、頼んだぞ、高橋」

 

高橋は深く頷いた。

 

「はい」

 

四人はそれぞれの位置へ戻った。

 

アルノーは後方の警戒へ、ミレーナは無線機のそばで撤退準備を整える。

 

エレナは高橋の隣に伏せ、双眼鏡を構えた。

 

林道では、装飾の多い制帽をかぶった魔族が、まだ馬上にいた。

 

その肩で、赤い裏地のマントがわずかに揺れている。

 

距離は約三百メートル。

 

エレナは周囲の木々に目を向けた。

 

上空では梢がわずかに揺れている。

 

だが、林床の落ち葉はほとんど動いていなかった。

 

「風は木に遮られて、ほぼないわ」

 

エレナは静かに言った。

 

「亘一のタイミングで撃って」

 

「了解」

 

高橋は小銃を肩に当て、頬を銃床へ寄せた。

 

エレナは後方へ顔を向けた。

 

「アルノー、ミレーナ。撃ったら後方に退却します。周囲の警戒をお願い」

 

「了解」

 

アルノーが答えた。

 

ミレーナも片手を上げた。

 

エレナは双眼鏡を構え直した。

 

「……亘一、落ち着いてね」

 

「はい」

 

高橋は照準器から目を離さなかった。

 

視界の中央に、馬上の魔族が映っていた。

 

華やかな制帽。

 

裏地の赤いマント。

 

胸に並んだ勲章らしい飾り。

 

その魔族は、戦車部隊の将校へ何かを話している。

 

右腕を上げると、マントが肩からずれ、赤い裏地が覗いた。

 

指先は、ベルノ連隊の陣地がある方向を示していた。

 

何か命令を下しているのだろうか。

 

高橋には声は聞こえない。

 

聞こえてくるのは遠くの砲声と、近くの木々が軋むかすかな音だけだった。

 

ドォン……。

 

重い爆発音が響いた。

 

少し遅れて、別の砲声が続く。

 

戦闘はまだ続いている。

 

岡田たちは、どうなっただろう。

 

第2中隊の陣地は、もう敵に占領されてしまったのだろうか。

 

一瞬、そんな考えが頭をよぎった。

 

高橋はゆっくりと息を吐いた。

 

――今は、目の前の敵だ。

 

照準器の向こうへ意識を戻す。

 

中央の魔族は、相変わらず馬上で話を続けている。

 

マントの下から胸元が見えた。

 

しかし、狙いを定めようとした瞬間、護衛の騎兵が前を横切った。

 

高橋は引き金にかけた指を止めた。

 

護衛が通り過ぎる。

 

今度は別の騎兵が馬を寄せてきた。

 

その馬の首と騎兵の身体が、中央の魔族の胴体を覆い隠す。

 

「……駄目だ」

 

高橋が小さくつぶやいた。

 

エレナは双眼鏡を覗いたまま尋ねた。

 

「どうしたの?」

 

「護衛が何度も前を横切ります。身体を狙うのは無理そうです」

 

エレナも状況を確認した。

 

確かに、中央の魔族の胴体は周囲の騎兵や馬によって頻繁に遮られていた。

 

肩から羽織ったマントも、身体の輪郭を分かりにくくしている。

 

だが、制帽と頭部だけは、その上に見えている時間が長かった。

 

高橋は照準器の中で、華やかな制帽を見つめた。

 

「……頭を狙います」

 

エレナは一瞬、高橋を見た。

 

三百メートル先の馬上の標的。

 

しかも、相手はわずかに身体を動かしている。

 

胴体よりも、はるかに小さな目標だった。

 

「分かったわ」

 

それ以上は何も言わなかった。

 

高橋の狙撃技術を、エレナは知っていた。

 

訓練でも、実戦でも、何度もその腕を見ている。

 

今さら細かな指示を出す必要はない。

 

「亘一に任せるわ」

 

「はい」

 

高橋は静かに答えた。

 

照準器の中で、中央の魔族が顔を横へ向けた。

 

制帽の大きな徽章が、わずかに光った。

 

その瞬間、護衛の一騎が前を横切った。

 

高橋はまた引き金を引くのをやめた。

 

――まだだ。

 

呼吸を整え、待つ。

 

周囲の音が、少しずつ遠ざかっていくように感じられた。

 

戦車砲の轟音も、機銃の連射音も、今はただ遠くで響いているだけだった。

 

三百メートル先の一体の魔族。

 

その頭部。

 

高橋の意識は、そこだけに集中していた。

 

そのとき、後方からアルノーの声が聞こえた。

 

「エレナ……敵歩兵が近づいているぞ」

 

「どのくらい?」

 

「まだ距離はある。だが、こちらの方向へ捜索を続けている」

 

エレナは双眼鏡を下ろさずに答えた。

 

「分かった。警戒をお願い」

 

背後で小さく枝を踏む音がした。

 

エレナは振り返らなかった。

 

今は高橋の観測を続けることが、自分の役割だった。

 

隣の高橋は、ほとんど動いていない。

 

小銃を構え、頬を銃床に当て、照準器を覗き続けている。

 

その横顔からは、先ほどまでの緊張が消えたように見えた。

 

いや、消えたのではない。

 

極限まで集中しているのだ。

 

エレナは何も言わなかった。

 

林道では、中央の魔族が再び右手を上げた。

 

戦車部隊の将校が、深く頭を下げる。

 

――やっぱり、相当な高官ね。

 

将軍級かもしれない。

 

そうであれば、この一発が戦局を変える可能性もある。

 

だが、それは命中して初めて意味を持つ話だった。

 

エレナは双眼鏡を握る指に、知らず知らず力を込めていた。

 

高橋の照準器の中で、護衛の一騎がゆっくりと動き始めた。

 

中央の魔族の前にいた騎兵だった。

 

その騎兵が馬の向きを変え、林道の右側へ移動する。

 

今まで遮られていた制帽が、はっきりと見えた。

 

続いて、別の護衛も馬を動かした。

 

一瞬、中央の魔族の周囲が開けた。

 

――今だ。

 

高橋は呼吸を止めた。

 

照準器の中央に、魔族の頭部が入る。

 

制帽の下から、顔の輪郭が見えていた。

 

相手はまだ、戦車部隊の将校へ何かを話している。

 

ほんのわずかに、首が動いた。

 

高橋は焦らなかった。

 

その動きが収まるのを待つ。

 

一秒。

 

二秒。

 

護衛の馬が、さらに右へ進んだ。

 

中央の魔族が、顔を正面へ戻した。

 

照準器の中で、頭部が静止した。

 

高橋の指が、引き金を絞った。

 

パンッ!

 

乾いた銃声が、針葉樹の森に響いた。

 

銃床から肩へ、鋭い反動が伝わった。

 

銃口がわずかに跳ねる。

 

高橋はすぐに照準器の中へ視線を戻した。

 

三百メートル先。

 

中央の魔族は、まだ馬上にいた。

 

ほんの一瞬、何も起きていないように見えた。

 

次の瞬間だった。

 

魔族の頭部が、突然後方へ弾かれた。

 

華やかな制帽が跳ね上がり、林道脇の灌木へ飛んでいく。

 

それまで背筋を伸ばしていた身体が大きく仰け反った。

 

右手が宙を泳ぐ。

 

肩から羽織っていたマントが大きく翻り、赤い裏地が鮮やかに広がった。

 

そして、身体が横へ傾いた。

 

「……命中!」

 

高橋が叫んだ。

 

エレナは双眼鏡の中で、その一部始終を見ていた。

 

中央の魔族が鞍から崩れ落ちる。

 

片足が一瞬、鐙に引っかかったように見えた。

 

しかし、次の瞬間には身体が馬の脇へ滑り落ちた。

 

マントの赤い裏地が、林道の地面に広がった。

 

距離があるため、倒れた音は聞こえなかった。

 

だが、地面に倒れたことは、はっきりと確認できた。

 

「当たった……!」

 

エレナが思わず声を上げた。

 

中央の魔族は、もう動いていない。

 

騎馬の一団に、異変が広がった。

 

最初に動いたのは、中央の魔族と話していた戦車部隊の将校だった。

 

目の前で何が起きたのか理解できなかったのだろう。

 

一瞬、その場に立ち尽くしていた。

 

しかし、次の瞬間には地面へ倒れた魔族に駆け寄った。

 

護衛の騎兵たちも、ほぼ同時に動いた。

 

七騎のうち数騎が中央へ馬を寄せ、残る騎兵が慌てて周囲を見回している。

 

一頭の馬が驚いて後ずさった。

 

騎兵が手綱を強く引き、何かを叫んでいる。

 

戦車部隊の周囲にいた魔族歩兵も、騒ぎに気づいて走り始めた。

 

倒れた魔族の周囲へ兵士たちが集まっていく。

 

一体が膝をつき、赤い裏地のマントに包まれた身体を抱き起こそうとしていた。

 

しかし、すぐにほかの兵士たちが集まり、その姿は見えなくなった。

 

高橋は照準器を覗いたまま、その様子を確認していた。

 

「……エレナさん」

 

「ええ。見ていたわ」

 

エレナは双眼鏡を下ろした。

 

「間違いなく命中したわ」

 

その声には、興奮と緊張が入り混じっていた。

 

高橋は照準器から目を離し、ようやく息を吐いた。

 

心臓が激しく打っていた。

 

狙っている間は、不思議なほど落ち着いていた。

 

だが、撃ち終えた途端、手のひらに汗をかいていることに気づいた。

 

三百メートル先。

 

七騎の護衛に囲まれた、赤い裏地のマントを羽織る魔族の高級将校。

 

その頭部を、高橋の放った一発が確かに捉えた。

 

エレナはもう一度だけ、林道へ双眼鏡を向けた。

 

倒れた将校の周囲では、魔族兵たちが慌ただしく動き回っている。

 

しかし、護衛の一部はすでに林道の周囲へ散り始めていた。

 

狙撃者を探しているのだろう。

 

「……亘一、見事だったわ」

 

エレナは短く告げた。

 

そしてすぐに、表情を引き締めた。

 

「でも、ここからが問題ね」

 

遠くでは、まだ激しい砲声が響いていた。

 

魔族軍の戦車は、ベルノ連隊の予備陣地へ攻撃を続けている。

 

そして林道では、撃たれた将校の周囲に兵士たちが殺到していた。

 

エレナ班の四人は、その将校の名前を知らなかった。

 

だが、高橋が今、頭部を撃ち抜いた魔族こそ、七年前にベルノ旅団を壊滅へ追い込んだ将軍――グリモフだった。

 

「亘一、離脱するわ。ミレーナ、アルノー、撤退よ!」

 

エレナは双眼鏡をしまい、小銃を手に取った。

 

高橋も狙撃位置から身体を起こす。

 

ミレーナは無線機を背負い、アルノーは後方の斜面を警戒しながら撤退経路を確かめた。

 

だが、四人が動き始めるより早く、林道の方角から魔族兵の怒鳴り声が響いた。

 

アルノーが木の陰から身を乗り出した。

 

「エレナ! 敵がこっちを見ているぞ!」

 

斜面の下に、複数の魔族歩兵が姿を現していた。

 

一体がこちらの方向を指さしている。

 

次の瞬間、その魔族兵が小銃を構えた。

 

「見つかった! 伏せて!」

 

エレナが叫んだ。

 

パンッ! パンッ!

 

高橋のすぐ横にある木の幹が弾け、樹皮の破片が飛び散った。

 

続けて数発の銃弾が飛来し、頭上の枝を折る。

 

四人は一斉に身を伏せた。

 

「ミレーナ、無線機を放棄!」

 

「了解!」

 

ミレーナは倒木の陰へ転がり込み、背負っていた無線機を下ろした。

 

事前に決めていたとおり、機器を敵に使われないように処置する。

 

電源を切り離し、取り出した部品を石で叩き壊した。さらに無線機本体を小銃の銃床で強く打ち、倒木の下へ押し込んだ。

 

その間も、アルノーが小銃を構えて援護していた。

 

パンッ!

 

アルノーの放った弾丸に、斜面を登ってきた魔族兵が慌てて木の陰へ飛び込んだ。

 

すぐに撃ち返してくる。

 

パンッ! パンッ!

 

「ミレーナ、まだか!」

 

「もう終わる!」

 

ミレーナは無線機から手を離し、小銃を拾い上げた。

 

「放棄したわ!」

 

「よし、下がるぞ!」

 

アルノーは小銃を抱え直した。

 

エレナは後方へ目を向けた。

 

林道とは反対側の斜面には、太い針葉樹が続いている。そこまで移動できれば、木々を遮蔽物にしながら後退できるはずだった。

 

「亘一、アルノー、先に下がって! ミレーナ、私たちも続くわ!」

 

高橋は小銃を構え、林道側にいる魔族兵へ一発撃ち込んだ。

 

パンッ!

 

その隙にアルノーが後方へ走る。

 

高橋も次弾を装填すると、木々の間へ移動した。

 

エレナとミレーナは、二人が安全な位置まで下がるのを確認してから動こうとした。

 

しかし、敵は予想以上に速く接近していた。

 

「エレナ、右側にもいるわ!」

 

ミレーナが叫んだ。

 

斜面の右手に、魔族歩兵が数体見えた。

 

彼らは木々を遮蔽物にしながら、こちらの退路を塞ぐように進んでいる。

 

エレナは咄嗟に小銃を構えた。

 

「ミレーナ、先に下がって!」

 

「分かった!」

 

ミレーナは倒木の陰から身を乗り出し、接近してくる魔族兵へ一発撃ち込んだ。

 

パンッ!

 

魔族兵が木の陰へ身を隠した。

 

ミレーナはその隙に後方へ移動しようとした。

 

その瞬間だった。

 

パンッ!

 

乾いた銃声が響いた。

 

ミレーナの身体が、不意に大きく揺れた。

 

「……あっ」

 

小銃が手から離れ、湿った地面へ落ちた。

 

一歩、二歩。

 

ミレーナは何かにつまずいたようによろめいた。

 

そのまま膝が折れ、倒木の脇へ崩れ落ちた。

 

「ミレーナ!」

 

エレナが叫んだ。

 

だが、ミレーナは動かなかった。

 

少し先まで下がっていたアルノーが、声に反応して振り返った。

 

倒れたミレーナの姿を確認すると、躊躇することなく走り戻ってきた。

 

「ミレーナ!」

 

「アルノー! 危ない!」

 

エレナの制止も聞かず、アルノーは倒れたミレーナのもとへ駆け寄った。

 

銃弾が頭上を飛び交う。

 

アルノーは彼女の脇の下へ腕を差し入れ、必死に身体を引きずった。

 

軍服の裾が地面を擦り、湿った落ち葉を巻き込む。

 

ようやく太い木の陰へ引き込むと、アルノーは膝をついた。

 

高橋は二人を援護するため、林道側へ小銃を向けた。

 

パンッ!

 

魔族兵が木の陰へ身を隠した。

 

その直後、敵の銃弾が高橋の隠れている倒木を叩いた。

 

「くそっ!」

 

高橋は頭を下げた。

 

エレナも一発撃ち返すと、アルノーのいる木の陰へ移動した。

 

「ミレーナ!」

 

エレナは彼女の傍らへ膝をついた。

 

胸のあたりに血が広がっていた。

 

軍服の布地は暗く濡れ、地面に落ちた血が枯れ葉の間へ染み込んでいる。

 

ミレーナの目は半ば開いていた。

 

しかし、エレナが呼びかけても反応がない。

 

「ミレーナ、聞こえる? ミレーナ!」

 

肩に手をかける。

 

返事はなかった。

 

アルノーはミレーナの首元へ指を当て、顔を近づけた。

 

「……ミレーナ」

 

普段は落ち着いているアルノーの声が、震えていた。

 

もう一度、呼吸を確かめる。

 

胸の動きを見つめ、口元へ耳を近づけた。

 

それでも、ミレーナの身体は動かなかった。

 

「……アルノー?」

 

エレナが小さく呼びかけた。

 

アルノーは答えなかった。

 

彼はなおもミレーナの顔を見つめていた。

 

「アルノー……?」

 

もう一度呼ぶと、ようやく顔を上げた。

 

その表情を見て、エレナは言葉を失った。

 

「……駄目だ」

 

アルノーがかすれた声で言った。

 

「息をしていない」

 

エレナはミレーナを見つめた。

 

つい先ほどまで、無線機を操作していた。

 

敵の騎馬隊について報告を試み、通信妨害に気づいたのもミレーナだった。

 

狙撃前の相談では、いつもの調子で高橋に期待をかけていた。

 

そして、敵に見つかったあとも、決められたとおり無線機を放棄し、最後まで周囲を警戒していた。

 

そのミレーナが、目の前で動かなくなっている。

 

「……ミレーナ?」

 

名前を呼んでも、返事はなかった。

 

耳元で銃弾が木を叩いた。

 

エレナは反射的に身をすくめた。

 

しかし、ミレーナの肩に置いた手を離すことができなかった。

 

「エレナさん!」

 

高橋が倒木の陰から叫んだ。

 

「敵が近づいています!」

 

エレナは顔を上げた。

 

高橋は小銃を構え、接近する魔族兵を必死に警戒していた。

 

その向こうでは、敵の影が木々の間を移動している。

 

ここに長く留まることはできない。

 

エレナは震える声で言った。

 

「……アルノー、ミレーナを運ぶわ。亘一に援護させて、三人で――」

 

「無理だ」

 

アルノーが遮った。

 

いつになく低い声だった。

 

「お前たちは逃げろ。ここで食い止める」

 

エレナは顔を上げた。

 

「何を言ってるの! 一緒に撤退するわよ!」

 

「俺はもう走れない」

 

アルノーはそう言うと、背中を木の幹に預けた。

 

その動きが妙にぎこちないことに、エレナは初めて気づいた。

 

視線を下げる。

 

アルノーの左脚が、血で真っ赤に染まっていた。

 

大腿部の軍服が破れ、そこから血が流れ続けている。

 

地面に落ちた血は、枯れ葉の間に広がっていた。

 

「アルノー! あなたも撃たれていたの!?」

 

「ああ……ミレーナを引っ張ったときにな」

 

アルノーは苦笑しようとしたが、顔が引きつった。

 

「さっきから、どうにも足に力が入らん」

 

エレナはすぐに傷口へ手を伸ばした。

 

出血は激しかった。

 

軍服の破れた部分から、次々と血が染み出している。

 

「止血するわ! 亘一、援護をお願い!」

 

「はい!」

 

高橋は倒木の向こうへ小銃を向けた。

 

木々の間に魔族兵が現れる。

 

パンッ!

 

高橋が発砲すると、敵は慌てて木の陰へ身を隠した。

 

その間にエレナは応急処置の道具を取り出し、アルノーの傷を圧迫して止血を試みた。

 

「ぐっ……!」

 

アルノーが苦痛に顔を歪めた。

 

「我慢して!」

 

エレナは手を動かし続けた。

 

だが、包帯はたちまち赤く染まっていった。

 

「……エレナ」

 

アルノーが声をかけた。

 

「何?」

 

「もういい。高橋を連れて行け」

 

「駄目よ! 血が止まれば、きっと――」

 

「俺の足じゃ無理だ」

 

アルノーはエレナの腕をつかんだ。

 

「このまま四人ともやられたら、あの将校を撃ったことも本部に伝えられん。お前たちが帰って報告しろ」

 

エレナは答えられなかった。

 

確かに、無線機は放棄した。

 

高級将校らしい魔族を狙撃したことは、まだ誰にも報告できていない。

 

だが、だからといってアルノーを置いていくことなど、簡単に決められるはずがなかった。

 

「……あなたを置いていけないわ」

 

「班長だろ、エレナ」

 

アルノーの声が少しだけ強くなった。

 

「お前が決めるんだ。高橋まで死なせるな」

 

エレナは唇を噛んだ。

 

狙撃前、自分で言った言葉を思い出した。

 

誰かが負傷した場合、全員で撤退できないかもしれない。

 

そのときは自分が判断すると。

 

だが、実際にその場に立たされると、決断は想像していたよりもはるかに重かった。

 

「……アルノー」

 

「大丈夫だ。まだ弾はある」

 

アルノーは地面に置いていた小銃を手に取った。

 

「ここからなら、しばらく敵を足止めできる」

 

エレナの視線が、動かないミレーナへ移った。

 

アルノーもそれに気づいたらしい。

 

彼女の顔を見つめ、静かに言った。

 

「ミレーナは、俺が見てる」

 

その言葉に、エレナは胸を締めつけられた。

 

高橋が再び発砲した。

 

パンッ!

 

「エレナさん! 右側からも来ています!」

 

敵はすでに回り込み始めていた。

 

ここに留まれば、全員が包囲される。

 

エレナはアルノーの傷をもう一度確認し、包帯をしっかり固定した。

 

それから、彼の肩へ手を置いた。

 

「……必ず、助けを呼ぶわ」

 

アルノーは頷いた。

 

「分かった。だから、早く行け」

 

エレナはミレーナの顔を見た。

 

その頬に触れようとして、手を止めた。

 

何か言葉をかけたかった。

 

しかし、何も出てこなかった。

 

最後にもう一度アルノーを見る。

 

彼は小銃を抱え、木の幹へ背中を預けていた。

 

顔色は悪く、額には脂汗が浮かんでいる。

 

それでも、エレナへ向けて小さく笑った。

 

「エレナ。高橋を頼んだぞ」

 

「……ええ」

 

エレナは立ち上がった。

 

「亘一、撤退するわ!」

 

高橋が振り返った。

 

彼の視線が、木の根元に横たわるミレーナと、座り込んだアルノーへ移った。

 

「……アルノーさんは?」

 

「ここで援護してくれる。私たちは先に下がるわ」

 

「でも――」

 

「亘一!」

 

エレナの声が鋭くなった。

 

高橋は言葉を飲み込んだ。

 

銃声の中、アルノーの大きな声が聞こえてきた。

 

「高橋!いい狙撃だった。生き残れよ!」

 

エレナの顔は、今にも泣き出しそうだった。

 

しかし、その目は高橋をまっすぐに見つめていた。

 

「……了解しました」

 

二人は斜面を駆け下りた。

 

背後でアルノーの小銃が火を噴いた。

 

パンッ!

 

続けて、魔族兵の怒鳴り声が響く。

 

エレナは振り返らなかった。

 

振り返れば、足を止めてしまいそうだった。

 

木々の間を走り、倒木を飛び越え、濡れた落ち葉を踏みしめながら斜面を下る。

 

高橋も必死についていった。

 

背負った装備が身体に食い込み、息が荒くなる。

 

それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。

 

背後では、何度も銃声が響いた。

 

パンッ!

 

パンッ! パンッ!

 

一発だけ、少し間を置いて聞こえる銃声。

 

それに続く、複数の小銃の発射音。

 

高橋には、どれがアルノーの銃声なのか分からなかった。

 

やがて、その音も木々の向こうへ遠ざかっていった。

 

* * *

 

エレナと高橋は、森林の中を走り続けていた。

 

最初に予定していた撤退経路は、すでに使えなくなっていた。

 

林道側から回り込んできた魔族歩兵が、斜面の下にも入り込んでいたからだ。

 

二人は沢へ向かう経路を諦め、木々の密集した場所を選んで進んだ。

 

しかし、敵は簡単には追跡をやめなかった。

 

背後から枝を踏み折る音が聞こえてくる。

 

時折、魔族兵の叫び声も響いた。

 

「エレナさん、まだ追ってきています!」

 

高橋が息を切らしながら言った。

 

「分かってる! もう少し先まで行くわ!」

 

エレナは先頭に立ち、地形を確かめながら進んでいた。

 

訓練で何度も経験した森林内の移動だったが、今は状況がまったく違う。

 

敵の位置が分からない。

 

通信機もない。

 

しかも、四人いた班は二人になってしまった。

 

エレナは頭の中で方角を確かめた。

 

このまま進めば味方の陣地に近づくはずだ。

 

だが、敵歩兵も同じ方向へ広がっている可能性がある。

 

「亘一、左の窪地へ!」

 

二人は倒木の陰へ飛び込んだ。

 

直後、銃弾が頭上を通り過ぎた。

 

パンッ! パンッ!

 

枝が折れ、細かな木片が降ってくる。

 

高橋は小銃を構え、追ってきた魔族兵へ一発撃ち返した。

 

相手が木の陰に隠れる。

 

その隙にエレナが高橋の袖を引いた。

 

「行くわよ!」

 

二人は再び走り始めた。

 

すでに脚は重く、息を吸うたびに胸が痛んだ。

 

高橋は何度も転びかけた。

 

濡れた落ち葉の下に隠れた木の根が、足に引っかかる。

 

それでもエレナの背中だけを見つめ、必死についていった。

 

やがて前方の斜面に、別の魔族兵が姿を現した。

 

「……前にも!」

 

高橋が叫んだ。

 

エレナは咄嗟に足を止め、近くの木の陰へ身を寄せた。

 

前方に二体。

 

右手にも何体かいる。

 

背後からは追跡してきた魔族兵が近づいていた。

 

「……囲まれた?」

 

高橋の声が震えた。

 

エレナは答えず、周囲を見回した。

 

まだ完全に包囲されたわけではない。

 

だが、どちらへ進んでも敵に発見される可能性が高かった。

 

小銃を構え直す。

 

高橋の顔を見る。

 

彼はひどく疲れていた。

 

額に汗が浮かび、呼吸も乱れている。

 

このまま走り続けるのは、もう限界に近かった。

 

「亘一、私が合図したら右へ走って」

 

「エレナさんは?」

 

「私も行くわ。いいから、準備して」

 

エレナは前方の魔族兵へ銃口を向けた。

 

一体がこちらへ顔を向ける。

 

まさに引き金を引こうとした、そのときだった。

 

パンッ!

 

別の方向から銃声が響いた。

 

前方の魔族兵が、突然倒れた。

 

「……え?」

 

高橋が顔を上げた。

 

続けて銃声が響く。

 

パンッ! パンッ!

 

右側の魔族兵が木の陰へ飛び込んだ。

 

背後から追ってきた魔族兵も、突然の銃撃に驚いたらしく足を止めた。

 

エレナは銃声の方角へ目を向けた。

 

自分たちの右前方。

 

やや高い場所からの射撃だった。

 

その方向の木々の間に、人影が見えた。

 

一人ではない。

 

複数の兵士が、木の陰から魔族歩兵へ向けて発砲している。

 

「エレナ!」

 

聞き覚えのある女性の声が響いた。

 

「こっちよ!」

 

エレナは目を見開いた。

 

「……フリーダ!?」

 

「早く! 援護するわ!」

 

フリーダ班だった。

 

さらに、左手の斜面からも銃声が響いた。

 

そちらではゲルフ班が魔族歩兵を牽制していた。

 

二つの班が、エレナたちを追う敵の左右へ射撃を加えていたのだ。

 

「エレナ、高橋! 走れ!」

 

ゲルフの声が響いた。

 

高橋は一瞬、呆然とした。

 

だが、エレナが腕をつかんだ。

 

「亘一、行くわよ!」

 

「はい!」

 

二人は倒木の陰から飛び出した。

 

フリーダ班の兵士たちが、次々と小銃を発砲する。

 

魔族歩兵は突然の側面攻撃に対応できず、木々の陰へ身を隠していた。

 

エレナと高橋は、その隙を利用して斜面を駆け上がった。

 

「もう少し!」

 

フリーダが手を伸ばした。

 

エレナはその手をつかみ、最後の段差を登った。

 

続いて高橋も、フリーダ班の兵士に引き上げられた。

 

「……助かった」

 

高橋は膝をつき、荒い息を繰り返した。

 

胸が焼けるように痛かった。

 

エレナも木の幹に手をつき、呼吸を整えていた。

 

フリーダが二人の姿を確かめた。

 

「よかった……。無線が通じなくなったって聞いて、嫌な予感がしたのよ」

 

エレナは何か言おうとした。

 

しかし、言葉が出てこなかった。

 

フリーダはその表情に気づいた。

 

「……エレナ?」

 

エレナの顔は青ざめていた。

 

軍服には血がつき、手にも乾きかけた血が残っている。

 

フリーダは周囲を見回した。

 

「アルノーとミレーナは?」

 

その問いに、エレナは目を伏せた。

 

「……後ろに残してきたわ」

 

「何ですって?」

 

「ミレーナが撃たれたの。胸を……。アルノーも左脚を撃たれて、動けなくなった」

 

フリーダの表情が強張った。

 

「二人とも?」

 

エレナは頷いた。

 

「ミレーナは……呼吸がなかった。アルノーは、私たちを逃がすために残ったの」

 

フリーダは一瞬、言葉を失った。

 

だが、すぐに周囲を確認した。

 

敵の銃声はまだ聞こえている。

 

ここで足を止めれば、再び包囲される可能性があった。

 

「……分かったわ。今は戻りましょう」

 

エレナが顔を上げた。

 

「でも、アルノーが――」

 

「分かってる。必ずヴァルターに報告するわ。だけど、今ここから引き返したら、助けに行く兵士まで失うかもしれない」

 

フリーダの声は落ち着いていた。

 

エレナは唇を噛み、ゆっくりと頷いた。

 

「……ええ」

 

ゲルフが木々の向こうから戻ってきた。

 

「フリーダ、敵は一旦下がった。ただ、まだ近くにいる。今のうちに移動した方がいい」

 

「分かったわ」

 

フリーダはエレナの肩へ手を置いた。

 

「歩ける?」

 

「……ええ。大丈夫」

 

高橋も立ち上がった。

 

「僕も行けます」

 

ゲルフが二人を見た。

 

「よし。ここからは俺たちが前を行く。高橋、エレナから離れるなよ」

 

「了解しました」

 

フリーダ班とゲルフ班は周囲を警戒しながら隊列を組み直した。

 

高橋とエレナは、その中央に入った。

 

帰る方向には、まだ長い森林が続いている。

 

高橋は一度だけ、来た道を振り返った。

 

木々の向こうに、アルノーとミレーナを残してきた。

 

あの場所からは、もう銃声が聞こえてこなかった。

 

それが何を意味するのか、高橋には分からなかった。

 

エレナも振り返っていた。

 

だが、二人は何も言わなかった。

 

フリーダに促され、再び歩き始める。

 

湿った落ち葉を踏む足音が、静かな森林の中へ消えていった。

 

* * *

 

同じ頃。

 

第2中隊後方、ベルノ連隊前進指揮所。

 

オリヴィエ大佐は、掩蔽された指揮所の入口に立ち、双眼鏡を構えていた。

 

前方には、砲撃によって荒れ果てた第2中隊の陣地が広がっている。

 

かつて塹壕の線を示していた土嚢や胸壁は、ところどころが崩れ、砲弾の炸裂によって大きく抉られていた。

 

白煙はまだ戦場の一部を覆っている。

 

その向こうで、魔族軍の戦車が砲撃を続けていた。

 

第2中隊の主陣地を突破した戦車は、九両。

 

すでに一両を対戦車砲によって撃破したものの、残る九両は健在だった。

 

黒い煤と泥に覆われた車体が横に広がり、予備陣地へ向けて砲撃を加えている。

 

ドンッ!

 

一両の戦車が主砲を発射した。

 

砲弾は予備陣地の前方へ着弾し、土砂を高く噴き上げた。地面を伝わってきた振動が、指揮所の足元を揺らす。

 

オリヴィエは双眼鏡を下ろし、地図の置かれた机へ戻った。

 

「……砲兵中隊は?」

 

「射撃を継続中です。ただし、敵戦車が味方陣地に接近しているため、射撃目標を制限しています」

 

通信士官の返答を聞き、オリヴィエは小さく頷いた。

 

第2中隊の主陣地は突破された。

 

中隊本部との通信は途絶し、二門の対戦車砲も沈黙している。30ミリ機関砲も射撃不能となった。

 

予備陣地には歩兵が残っているが、その装備で敵戦車九両を食い止めるのは、あまりにも厳しかった。

 

しかも、森林内にはさらに六両の戦車が待機しているという。

 

「……このままじゃ、本当に持たないわね」

 

オリヴィエは地図を見つめた。

 

そして顔を上げた。

 

「第1中隊と第4中隊に増援を頼んで。動かせる兵力があれば、こちらへ回してほしいの」

 

「了解しました!」

 

通信士官が直ちに各中隊を呼び出した。

 

「ただし、両中隊とも自分たちの防衛正面は維持させて。第2中隊を助けようとして、ほかの陣地まで突破されたら元も子もないわ」

 

オリヴィエは地図上の予備陣地を指さした。

 

「増援が到着したら、ミラ中尉の部隊と合流させて。敵がさらに突破してきた場合に備えるのよ」

 

「了解しました!」

 

隣に立っていたヴァルター少佐が、腕を組んだ。

 

「お嬢、増援が来るまで持ちこたえられりゃいいんですがね」

 

「分かってるわよ」

 

オリヴィエは少し苛立った声で答えた。

 

分かっているからこそ、腹が立つのだ。

 

第2中隊は精一杯戦った。

 

地雷を敷設し、対戦車砲を配置し、歩兵にもG13を持たせていた。それでも敵戦車は主陣地を突破し、予備陣地にまで迫っている。

 

砲兵中隊の八門の120ミリ榴弾砲も、敵が味方の陣地に入り込んでしまえば、自由に撃つことなどできない。

 

増援を呼んだところで、戦車を撃破できる兵器が増えるわけでもなかった。

 

それでも、兵力があれば予備陣地の防御を厚くできる。

 

少なくとも敵歩兵の突破を防ぎ、負傷者を後送する余裕が生まれるかもしれない。

 

そのとき、通信士官が慌ただしく近づいてきた。

 

「大佐、連隊司令部から緊急連絡です!」

 

オリヴィエは顔を上げた。

 

「何?」

 

「浸透偵察小隊との無線通信が途絶したそうです。強い雑音が入り、呼びかけても応答がないとのことです」

 

ヴァルターの表情が変わった。

 

「おいおい、そりゃどういうことだ?」

 

「通信機の故障ではなく、敵による通信妨害の可能性が高いと報告されています」

 

ヴァルターは眉をひそめた。

 

「通信妨害か……厄介なことになったな」

 

オリヴィエも表情を曇らせた。

 

「浸透偵察小隊は、まだ敵の後方にいるのよね?」

 

「ああ。エレナたちは第3陣を監視しているはずだ。ほかの班も森林内に展開している」

 

「連絡が取れないとなると、撤退命令も伝えられないじゃない」

 

「そういうことだな」

 

ヴァルターは地図に目を落とし、エレナ班の最後に報告された位置を確かめた。

 

「まあ、あいつらも素人じゃありません。危なくなれば自分たちで引き揚げるでしょう。ただ、何が起きているのか分からんのは困りますな」

 

オリヴィエはしばらく地図を見つめていた。

 

敵の第3陣には、まだ六両の戦車が待機している。

 

その近くで、エレナたちは監視を続けているはずだった。

 

「通信が回復したら、すぐに知らせてちょうだい。それから、ほかの部隊の無線にも異常がないか確認して」

 

「了解しました!」

 

通信士官が持ち場へ戻っていった。

 

オリヴィエは小さく息を吐いた。

 

「……次から次へと、本当に嫌になるわね」

 

ヴァルターが苦笑した。

 

「まったくですな。せめて一つくらい、いい知らせが欲しいもんです」

 

「そうね……」

 

オリヴィエは再び双眼鏡を構えた。

 

前方では、魔族軍の攻撃が続いていた。

 

九両の戦車が第2中隊の主陣地を越え、予備陣地へ向けて砲撃を加えている。主砲が発射されるたびに土砂が噴き上がり、塹壕の一部が崩れていく様子が見えた。

 

ドンッ!

 

ひときわ大きな爆発が起きた。

 

予備陣地の一角から黒煙が立ち上る。

 

「……今のは?」

 

オリヴィエが尋ねるより早く、観測兵が声を上げた。

 

「敵戦車の砲弾が、予備部隊の陣地に直撃した模様です!」

 

オリヴィエは双眼鏡を動かした。

 

黒煙の中から数人の兵士が姿を現した。

 

二人が一人の負傷兵を抱え、後方へ向かっている。そのすぐ近くに、再び砲弾が着弾した。

 

土砂が高く舞い上がり、兵士たちの姿が見えなくなった。

 

「……くそっ!」

 

オリヴィエは思わず悪態をついた。

 

「ミラ中尉に連絡! 砲撃を受けている陣地から、動ける兵士は後方の掩体壕へ退避させて!」

 

「了解しました!」

 

通信士官が送話器を取った。

 

ヴァルターは双眼鏡を覗いたまま、低い声で言った。

 

「お嬢、敵の歩兵も動き始めましたぜ」

 

オリヴィエは視線を第2中隊の主陣地へ戻した。

 

白煙の薄くなった場所から、魔族歩兵が次々と姿を現していた。

 

彼らは占領した塹壕から飛び出し、戦車の後方に続いて前進している。数体ずつまとまって移動し、途中で伏せては周囲を警戒していた。

 

戦車が砲撃を加え、歩兵がその隙に前進する。

 

これまでと同じ、統制の取れた攻撃だった。

 

「……まだ攻めてくるのね」

 

「ええ。どうやら、予備陣地まで一気に潰すつもりでしょうな」

 

オリヴィエは地図へ目を落とした。

 

第2中隊の主陣地はすでに突破され、中隊本部との通信も途絶えている。予備陣地は数か所に分散しているが、相互の連絡も十分ではなかった。

 

その後方にはミラ中尉の率いる予備部隊がいる。

 

しかし、敵戦車を正面から食い止められる火力は、ほとんど残っていない。

 

「……第1中隊と第4中隊からは?」

 

通信士官が顔を上げた。

 

「両中隊とも増援を準備中です。ただし、それぞれの防衛正面を維持する必要があり、派遣できる兵力は限られるとのことです」

 

「分かったわ。無理に急がせないで。ただ、少しでも早く来てほしいと伝えて」

 

「了解しました!」

 

オリヴィエは再び双眼鏡を構えた。

 

一両の魔族戦車が、ゆっくりと前進していた。

 

その前方には、ベルノ連隊の予備陣地がある。

 

塹壕から帝国軍兵士が何人か顔を出し、小銃を構えているのが見えた。

 

しかし、相手は戦車だった。

 

小銃弾では、厚い装甲を貫くことなどできない。

 

「……下がりなさいよ」

 

オリヴィエは思わずつぶやいた。

 

戦車の砲塔がゆっくりと回る。

 

砲身が塹壕の方向を向いた。

 

「下がって!」

 

声が届くはずもなかった。

 

ドンッ!

 

主砲が火を噴いた。

 

次の瞬間、塹壕の一角が土砂とともに吹き飛んだ。

 

オリヴィエは双眼鏡を握りしめた。

 

そのとき、予備陣地の別の一角で、小さな発射炎が閃いた。

 

ダンッ!

 

戦車砲よりも甲高い砲声だった。

 

「……あれは?」

 

オリヴィエは双眼鏡を向けた。

 

土嚢を積み上げた砲座に、一門の45ミリ速射砲が据えられていた。

 

第2中隊の予備陣地に残っていた中隊砲だった。

 

砲口から白煙が流れる。

 

その先で、前進中の魔族戦車の車体正面に火花が散った。

 

「当たった!」

 

オリヴィエは思わず声を上げた。

 

しかし、戦車は止まらなかった。

 

砲弾が命中した場所には痕が残ったように見えたものの、車体はそのまま前進を続けている。

 

「……弾かれた?」

 

ヴァルターが双眼鏡を覗きながら頷いた。

 

「ああ。正面装甲に弾かれましたな」

 

速射砲が再び発砲した。

 

ダンッ!

 

二発目は戦車の砲塔前面に命中した。

 

今度も火花が散り、砲弾が跳ね返された。

 

三発目。

 

車体正面の傾斜装甲に命中したが、砲弾は斜め上へ弾き飛ばされた。

 

四発目は砲塔の脇をかすめ、その後方へ飛んでいった。

 

それでも砲兵たちは撃ち続けた。

 

砲尾が開き、空薬莢が排出される。装填手が次の砲弾を押し込み、閉鎖機が閉じられる。

 

砲手が照準を修正し、再び発砲した。

 

ダンッ!

 

また命中した。

 

しかし、戦車は止まらなかった。

 

「……なんでよ」

 

オリヴィエは双眼鏡を握りしめた。

 

「ちゃんと当たってるじゃない!」

 

ヴァルターは答えなかった。

 

45ミリ砲の砲弾は、確かに敵戦車へ命中している。

 

しかし、厚く傾斜した正面装甲を貫通できないのだ。

 

戦車は砲撃を受けていることなど気にも留めない様子で、ゆっくりと前進を続けていた。

 

やがて、その砲塔が動いた。

 

太い砲身が、45ミリ速射砲の陣地へ向けられる。

 

「……まずい!」

 

ヴァルターが声を上げた。

 

速射砲が再び発砲した。

 

ダンッ!

 

砲弾は戦車の車体下部に命中したらしく、土煙と火花が同時に上がった。

 

だが、履帯は回り続けている。

 

戦車の前進は止まらなかった。

 

次の瞬間、戦車の主砲が火を噴いた。

 

ドンッ!

 

予備陣地の砲座が土煙に包まれた。

 

土嚢が吹き飛び、砲の周囲に土砂が降り注ぐ。

 

オリヴィエは双眼鏡から目を離さなかった。

 

煙の中から、二人の兵士が這い出してくる。

 

一人は立ち上がろうとして倒れ、もう一人が腕をつかんで後方へ引きずり始めた。

 

45ミリ速射砲は、もう発砲しなかった。

 

「……ヴァルター」

 

「見えてますよ、お嬢」

 

「どうすればいいの?」

 

オリヴィエは双眼鏡を下ろした。

 

「対戦車砲はやられた。45ミリ砲も効かない。G13だって、あんな距離じゃ使えないじゃない」

 

ヴァルターは黙っていた。

 

前方では別の魔族戦車が主砲を発射し、予備陣地の一角を吹き飛ばした。

 

「120ミリ砲なら、直撃すれば倒せるかもしれない。でも、敵はもう味方の陣地に入り込んでるのよ。下手に撃てば、こっちの兵士まで殺してしまうわ」

 

オリヴィエは地図へ目を向けた。

 

第1中隊と第4中隊には増援を要請している。

 

だが、歩兵をいくら集めたところで、戦車の正面装甲を撃ち抜けるようになるわけではない。

 

「……歩兵に戦車を止めろって言うの?」

 

誰に尋ねたわけでもなかった。

 

その言葉に答えられる者もいなかった。

 

オリヴィエはもう一度、双眼鏡を構えた。

 

45ミリ速射砲があった陣地から、まだ煙が立ち上っていた。

 

その脇を、魔族戦車がゆっくりと通過していく。

 

まるで、そこに砲があったことさえ忘れたかのようだった。

 

そのときだった。

 

ダダダダダダッ!

 

前進中の戦車から、激しい機銃音が響いた。

 

車体前方から連続した発射炎が閃き、銃弾が予備陣地の土嚢を叩いた。

 

続いて別の戦車も機銃掃射を始めた。

 

ダダダダッ! ダダダダダダッ!

 

予備陣地のあちこちに土煙が上がった。

 

塹壕から応射していた帝国軍兵士たちは、次々と頭を引っ込めた。

 

一人の兵士が小銃を構えようと身を乗り出したが、すぐ近くの土嚢に何発もの銃弾が命中し、慌てて塹壕の底へ飛び込んだ。

 

「……これじゃ、歩兵も撃てないじゃない!」

 

オリヴィエは双眼鏡を覗いたまま叫んだ。

 

魔族戦車は主砲による砲撃だけでなく、機銃によって予備陣地の歩兵を制圧し始めていた。

 

帝国軍兵士が頭を上げられなくなると、その隙を利用して魔族歩兵が前進する。

 

一部の戦車はさらに距離を詰め、予備陣地の後方にまで射線を通そうとしていた。

 

「お嬢、ちょいと下がった方が――」

 

ヴァルターが言いかけた、その瞬間だった。

 

ダダダダダッ!

 

突然、指揮所の前方で土砂が跳ね上がった。

 

続けて、鋭い音が頭上を通り過ぎた。

 

ババババッ!

 

入口を覆う土嚢に、銃弾が立て続けに命中した。

 

「お嬢、伏せろ!」

 

ヴァルターがオリヴィエの肩をつかみ、強引に頭を押し下げた。

 

「きゃっ!」

 

オリヴィエは体勢を崩し、そのまま指揮所の床へ膝をついた。

 

直後、頭を出していた場所のすぐ上で土嚢が弾け、砂が降り注いだ。

 

「な、何するのよ!」

 

「馬鹿野郎! 頭を撃ち抜かれたいのか!」

 

ヴァルターはオリヴィエを低い姿勢に押さえたまま、入口の外へ目を向けた。

 

再び機銃音が響く。

 

ダダダダダダッ!

 

今度は指揮所の手前にある盛り土が削られ、土砂がぱらぱらと降ってきた。

 

通信士官たちも一斉に身を伏せていた。

 

地図の上には細かな砂が散らばり、机の端に置かれていた書類が床へ落ちた。

 

「……ここまで届いているの?」

 

オリヴィエはようやく状況を理解した。

 

予備陣地を撃っていた敵戦車の機銃弾が、さらに後方の前進指揮所にまで飛んできたのだ。

 

直接ここを狙っているのか、予備陣地を掃射した弾丸が飛び込んできたのかは分からない。

 

しかし、指揮所の入口付近に立つことが危険なのは明らかだった。

 

ヴァルターはようやくオリヴィエの肩から手を離した。

 

「まったく……もう少しで頭に穴が開くところだったぞ」

 

「……分かったわよ。助かったわ」

 

オリヴィエは床に片膝をついたまま、乱れた髪をかき上げた。

 

ヴァルターは外を警戒しながら言った。

 

「お嬢、もう入口には近づくな。あんたがここで倒れたら、誰が連隊を指揮するんだ?」

 

「分かってるってば!」

 

そう答えたものの、オリヴィエの顔色は青ざめていた。

 

これまで何度も戦場を経験してきた。

 

だが、指揮所にいてさえ敵の機銃弾が飛んでくる状況は、決して慣れるものではなかった。

 

まして、前方では自分の兵士たちが、その機銃掃射をまともに浴びている。

 

オリヴィエは低い姿勢のまま地図へ目を向けた。

 

「……通信は生きてる?」

 

「はい! 各中隊との連絡は可能です!」

 

通信士官が答えた。

 

「ミラ中尉に伝えて。兵士たちは無理に頭を出さないこと。敵歩兵が近づくまでは遮蔽物を利用して、できる限り損害を抑えてちょうだい」

 

「了解しました!」

 

「それから、第1中隊と第4中隊の増援は?」

 

「現在、派遣可能な兵力を集結中です!」

 

「急いでほしいけど……」

 

オリヴィエは言葉を切った。

 

増援が到着したところで、あの戦車をどう止めればよいのか。

 

45ミリ速射砲の砲弾は、何発命中しても装甲に弾かれた。

 

対戦車砲はすでに失われ、G13は敵が至近距離まで接近しなければ使えない。

 

歩兵を増やせば、敵歩兵の突破を防ぐことはできるかもしれない。

 

しかし、戦車そのものを止める方法が見つからなかった。

 

ヴァルターも黙っていた。

 

通信妨害の報告を受けてから、すでに十分以上が経過していた。

 

その間、魔族軍は一度も攻撃の手を緩めていない。

 

ドンッ!

 

指揮所の外で、再び戦車砲が轟いた。

 

足元へ鈍い振動が伝わってきた。

 

オリヴィエは地図に両手をついた。

 

「……どうしたらいいのよ」

 

誰に向けたわけでもない、小さなつぶやきだった。

 

ヴァルターはその言葉を聞いていたが、すぐには答えなかった。

 

しばらく地図を見つめ、次いで指揮所の入口へ視線を移す。

 

外では、魔族戦車がさらに前進していた。

 

予備陣地の一部は黒煙に包まれ、塹壕からの応射も少なくなっている。

 

第1中隊と第4中隊の増援は、まだ到着していない。

 

そして、敵戦車を止められる兵器も、もはやほとんど残っていなかった。

 

ヴァルターは双眼鏡を下ろした。

 

「お嬢、これは無理だ」

 

その声には、いつもの軽さがなかった。

 

オリヴィエが顔を上げる。

 

「……何が?」

 

「もう持たん。敵戦車を止める手段がない。予備陣地を抜かれたら、ここまで一気に来るぞ」

 

「そんなこと、分かってるわよ!」

 

「だったら、さっさと決断しろ」

 

ヴァルターは低い声で言った。

 

「お嬢、司令部に下がってアウレリアと逃げろ。ここは俺が受け持つ」

 

オリヴィエは目を見開いた。

 

「……何ですって?」

 

「聞こえただろう。俺がここに残る。お嬢は後ろへ下がれ」

 

「馬鹿なこと言わないで! 連隊長の私が逃げてどうするのよ!」

 

「連隊長だから逃げろって言ってるんだ!」

 

ヴァルターの怒鳴り声が、指揮所に響いた。

 

通信士官たちが思わず顔を上げた。

 

普段、オリヴィエに軽口を叩くことはあっても、ヴァルターがこれほど強い口調で彼女を叱りつけることは滅多になかった。

 

「ここでお嬢まで死んだら、ベルノ連隊はどうなる? 伯爵領は誰が守る? あんたには、まだやらなきゃならんことが山ほどあるだろうが!」

 

「でも、兵士たちは今も戦ってるのよ!」

 

「分かってる!」

 

ヴァルターは地図を指さした。

 

「だから俺が残る。第1中隊と第4中隊の増援が来るまで、ここで指揮を執る。駄目なら残った兵を下げる。それが俺の仕事だ」

 

オリヴィエは唇を噛んだ。

 

ヴァルターが冗談を言っているわけではないことは、その表情を見れば分かった。

 

彼は本気で、自分を逃がすつもりなのだ。

 

「……あなたはどうするのよ」

 

「俺のことは心配するな」

 

「心配するに決まってるでしょう!」

 

思わず声が大きくなった。

 

「あなたまで死んだら、私はどうすればいいのよ!」

 

ヴァルターは一瞬、言葉に詰まった。

 

だが、すぐに首を振った。

 

「お嬢。俺はもう六十六だ。あんたより長く生きてるし、戦場もずいぶん見てきた」

 

「エルフの六十六なんて、まだ若いじゃない!」

 

「年の話をしてるんじゃねえよ」

 

ヴァルターは苦笑しかけたが、すぐに真顔へ戻った。

 

「俺とあんたじゃ、背負ってるもんが違うんだ。分かるだろ?」

 

オリヴィエは答えなかった。

 

外で再び戦車砲が轟いた。

 

ドンッ!

 

指揮所の天井から土が落ちてきた。

 

ヴァルターは入口を一瞥すると、再びオリヴィエへ向き直った。

 

「アウレリアにも伝えろ。伯爵を連れて、ベルノへ帰れってな」

 

「……ヴァルター」

 

「ここで二人とも失うわけにはいかん」

 

オリヴィエは地図へ目を落とした。

 

前方では、第2中隊の生き残りが戦っている。

 

ミラ中尉の予備部隊も、砲撃を受けながら陣地を守っていた。

 

第1中隊と第4中隊からの増援は、まだ到着していない。

 

そして敵戦車は、なおも前進していた。

 

オリヴィエは両手を握りしめた。

 

「……まだよ」

 

ヴァルターが眉をひそめる。

 

「お嬢」

 

「まだ、撤退命令は出さないわ」

 

オリヴィエは顔を上げた。

 

「でも、あなたの言うことも分かる。これ以上は危険だってことも」

 

彼女は通信士官へ向き直った。

 

「司令部へ連絡。前進指揮所が敵の機銃射撃を受けていることを伝えて。それから、重要書類と通信設備は、いつでも移動できるよう準備してちょうだい」

 

「了解しました!」

 

ヴァルターは何か言いかけた。

 

だが、オリヴィエが先に口を開いた。

 

「あと少しだけ。第1中隊と第4中隊の増援がどうなるか、それを確認するまではここにいるわ」

 

「……まったく、頑固なお嬢だ」

 

ヴァルターは吐き捨てるように言った。

 

それでも、これ以上は言い争わなかった。

 

オリヴィエは低い姿勢のまま、指揮所の入口へ目を向けた。

 

前方では、魔族戦車の機銃がまだ撃ち続けていた。

 

ダダダダダッ!

 

その音に重なるように、戦車砲が轟く。

 

ドンッ!

 

「……お願いだから」

 

オリヴィエは小さくつぶやいた。

 

「もう少しだけ、持ちこたえて」

 

そのときだった。

 

機銃音が、一つ止まった。

 

オリヴィエは顔を上げた。

 

先ほどまで予備陣地を掃射していた戦車の一両が、砲撃をやめていた。

 

「……あら?」

 

戦車の砲塔が、ゆっくりと回る。

 

続いて、車体が向きを変え始めた。

 

初めは、別の射撃位置へ移動するのだと思った。

 

敵は先ほどから巧みに位置を変え、こちらの陣地へ砲撃を加えていたからだ。

 

ところが、その戦車は予備陣地とは反対の方向へ動き始めた。

 

「……何をしているの?」

 

オリヴィエは思わずつぶやいた。

 

さらに別の戦車も砲撃をやめた。

 

その車体も、ゆっくりと向きを変えている。

 

三両目。

 

四両目。

 

先頭の戦車が速度を上げ、第2中隊の主陣地がある方向へ戻っていく。

 

その後を、別の戦車が追い始めた。

 

「ヴァルター、あれを見て!」

 

呼びかけられたヴァルターが、双眼鏡を構えた。

 

「何だ?」

 

「戦車が……後退している?」

 

ヴァルターはしばらく前方を見つめていたが、やがて眉をひそめた。

 

「……本当だ。おいおい、こりゃどういうことだ?」

 

さらに二両の戦車が向きを変えた。

 

それまで横に広がっていた隊形が、ゆっくりと崩れ始める。

 

敵戦車の砲声も、次第に少なくなっていった。

 

「敵戦車、後退を開始! 複数の車両が第2中隊陣地方向へ移動しています!」

 

観測兵の報告が飛んだ。

 

「見えているわ!」

 

オリヴィエは答えながら、双眼鏡を動かした。

 

最初に後退した戦車は、すでに白煙の残る第2中隊陣地へ近づいていた。

 

その後ろを、ほかの戦車が追っていく。

 

「……どういうこと?」

 

オリヴィエは目を疑った。

 

敵は明らかに優勢だった。

 

こちらの主陣地を突破し、対戦車砲を沈黙させ、予備陣地にまで迫っていた。

 

後続部隊も控えている。

 

撤退する理由など、どこにも見当たらなかった。

 

「罠かしら……?」

 

「さあ……。だが、どうにも妙だな」

 

ヴァルターも困惑した様子だった。

 

通常、部隊が後退するならば、一定の隊形を保って移動するものだ。

 

しかし、目の前の戦車は違った。

 

各車両が次々と向きを変え、後方へ走り始めている。先頭を走る戦車の後ろへ別の戦車が割り込み、互いに進路を譲り合うような動きさえ見えた。

 

「……何かあったの?」

 

オリヴィエが首を傾げた、その直後だった。

 

「大佐! 敵歩兵にも動きがあります!」

 

観測兵の声に、オリヴィエは双眼鏡を第2中隊主陣地へ向けた。

 

先ほどまで濃い白煙に覆われ、何が起きているのか分からなかった場所だった。

 

その煙が少しずつ薄くなり、塹壕の一部が見え始めている。

 

崩れた土嚢。

 

砲撃で抉られた胸壁。

 

土煙の中に、倒れた兵士らしい姿も見えた。

 

そして、塹壕から何かが這い出してきた。

 

「……え?」

 

魔族歩兵だった。

 

一体、二体。

 

続いて、別の場所からも姿を現した。

 

魔族兵たちは塹壕の縁を乗り越えると、小銃を抱えたまま後方へ走り出した。

 

最初は、別の陣地へ移動しているのかと思った。

 

しかし、その動きには何の統制も感じられなかった。

 

一体が走り出すと、その後ろから数体が続く。

 

別の塹壕でも同じことが起きていた。

 

やがて、あちこちの塹壕から魔族兵が次々と這い出し、森林へ向かって走り始めた。

 

「……何をしているの?」

 

オリヴィエは双眼鏡を覗いたまま、呆然とつぶやいた。

 

魔族歩兵はベルノ連隊の予備陣地とは反対の方向へ走っていた。

 

森林の方角だった。

 

中には、後ろを振り返りながら走る兵士もいる。

 

何体かは途中で転び、慌てて立ち上がって再び走り出した。

 

一体の魔族兵が、塹壕の中へ向かって何かを叫んでいた。

 

しかし、そこから出てきた兵士たちは、その声に耳を貸す様子もなく走り去っていく。

 

別の魔族兵は、小銃まで投げ捨てた。

 

両腕を振りながら、必死に森林へ向かって走っている。

 

「……ヴァルター」

 

オリヴィエが呼びかけた。

 

「見えてるよ、お嬢」

 

ヴァルターも双眼鏡を覗いていた。

 

しばらく敵の動きを観察したあと、低い声で言った。

 

「……こいつは逃げてるな。間違いない」

 

オリヴィエは別の塹壕へ双眼鏡を向けた。

 

そこでも、魔族兵が次々と姿を現していた。

 

占領したばかりの陣地を捨て、森林へ向かって走っている。

 

「……逃げてる」

 

オリヴィエはつぶやいた。

 

「本当に、逃げているわ」

 

第2中隊を突破した魔族軍。

 

あれほど巧みに戦車と歩兵を連携させ、煙幕を使って塹壕へ突入してきた部隊だった。

 

その兵士たちが、今度は占領した陣地を捨てて逃げ始めている。

 

戦車も後退している。

 

しかも、その動きに統一性が感じられなかった。

 

ヴァルターは双眼鏡を下ろした。

 

「お嬢、こりゃ……」

 

「ええ」

 

オリヴィエも頷いた。

 

「潰走しているように見えるわね」

 

前進指揮所には、次々と報告が飛び込んできた。

 

「敵戦車、後退を継続しています!」

 

「第2中隊主陣地からも、敵歩兵が多数離脱中!」

 

通信士官たちは、各観測所から届く報告を整理し、次々と地図へ書き込んでいた。

 

指揮所の中には、つい先ほどまでとは異なる緊張が漂っていた。

 

敵の攻撃が止まったという安堵よりも、何が起きたのか分からない困惑の方が大きかった。

 

オリヴィエは地図の前へ戻った。

 

「待って。まず状況を整理しましょう」

 

彼女は通信士官へ向き直った。

 

「敵の後退は、第2中隊正面だけ?」

 

「現在、各観測所へ確認中です!」

 

「分かったわ。すぐ調べてちょうだい」

 

地図上には、敵戦車が突破した経路が記されている。

 

もし敵が意図的に後退しているのなら、こちらの部隊を誘い出して再び攻撃するつもりかもしれない。

 

オリヴィエはそう考え、ミラ中尉への命令を伝えさせた。

 

「予備部隊には陣地を維持するよう伝えて。敵が逃げているからといって、追いかけては駄目よ」

 

「了解しました!」

 

ヴァルターも頷いた。

 

「そうだな。あれだけの戦車がまだ残ってる。ここで追いかけたら、何を食らうか分かったもんじゃない」

 

「ええ。敵戦車はまだ九両もいるのよ。向きを変えて戻ってこられたら、こちらはどうにもならないわ」

 

オリヴィエは第2中隊の主陣地を指さした。

 

そこには、まだ多くの味方兵士が倒れているはずだった。

 

生き残った兵士が塹壕の中に潜んでいる可能性もある。

 

「それに、味方の生存者がどこにいるのかも分からない。下手に撃てば、こちらの兵士まで巻き込むわ」

 

通信士官が命令を伝え始めた。

 

前方では、敵戦車の後退が続いている。

 

白煙が薄くなったことで、荒れ果てた地面の様子が少しずつ見え始めていた。

 

砲撃で掘り返された土の中に、破損した車両や放棄された装備が散らばっている。

 

魔族歩兵は、それらを避けながら森林へ向かって走っていた。

 

「敵戦車、戦闘継続可能な九両すべてが後方へ移動中!」

 

観測兵の報告が響いた。

 

オリヴィエは双眼鏡を下ろした。

 

九両すべてが後退している。

 

しかも、第2中隊の陣地を占領した魔族歩兵まで逃げ始めている。

 

これほど大規模な後退が、単なる偶然で起きるはずはなかった。

 

何かがあったのだ。

 

敵軍の中で、何か重大なことが起きた。

 

「……あれほど統制が取れていたのに」

 

オリヴィエは小さく首を振った。

 

「いったい、何があったの?」

 

ヴァルターは前方を見つめたまま答えた。

 

「指揮系統に何かあったのかもしれんな。あの逃げっぷりは尋常じゃない」

 

オリヴィエも同じことを考えていた。

 

整然とした撤退ならば、歩兵があのように塹壕から飛び出す必要はないはずだった。

 

戦車も歩兵も、命令に従っているというより、我先に後方へ向かっているように見える。

 

「……敵の司令部で何かあったのかしら」

 

「さあな。何かあったのは間違いなさそうだが、それ以上は分からん」

 

ヴァルターはそう答えたが、それ以上は何も言わなかった。

 

推測できることはあっても、確かな情報はない。

 

敵の指揮官が負傷したのか。

 

命令が混乱したのか。

 

それとも、まったく別の理由があるのか。

 

二人には、まだ何も分からなかった。

 

オリヴィエは再び地図へ目を落とした。

 

そのとき、ふと一つのことを思い出した。

 

「……そういえば、エレナたちからは?」

 

通信士官が顔を上げた。

 

「依然として連絡がありません。小隊本部からも呼びかけを続けていますが、応答がないとのことです」

 

「……そう」

 

オリヴィエは表情を曇らせた。

 

ヴァルターも、わずかに眉をひそめた。

 

浸透偵察小隊の班が、敵陣の後方で消息を絶つことは珍しくない。

 

通信機の故障もあれば、敵の接近によって連絡を控えることもある。

 

だが、今回は状況が違っていた。

 

敵の戦車部隊は大規模な攻撃を行い、森林内にも多くの歩兵を展開している。

 

そこに潜伏していたエレナ班が、何らかの危険に遭遇したとしても不思議ではなかった。

 

「……エレナ、無事でいてちょうだいよ」

 

オリヴィエは小さくつぶやいた。

 

ヴァルターは何も答えなかった。

 

ただ、エレナ班の位置が記された地図の一点を見つめていた。

 

そのとき、前方から新しい報告が入った。

 

「大佐! 敵歩兵の後退はなおも続いています! 第2中隊主陣地の一部では、敵の姿が見えなくなりました!」

 

オリヴィエは顔を上げた。

 

「分かったわ。引き続き監視して。第2中隊の残存兵が確認できたら、すぐに報告をお願い」

 

「了解しました!」

 

オリヴィエは地図へ目を落とした。

 

つい先ほどまで、ベルノ連隊は壊滅寸前だった。

 

対戦車火力を失い、主陣地を突破され、予備陣地も敵戦車の攻撃に晒されていた。

 

前進指揮所にまで機銃弾が飛び込み、ヴァルターからは撤退を進言された。

 

それが今、敵は攻撃をやめて後退している。

 

オリヴィエは深く息を吐いた。

 

「……何が起きたのか知らないけど」

 

そして、指揮所の入口から前方を見つめた。

 

「今は、この幸運を逃すわけにはいかないわね」

 

しかし、敵を追撃する命令は出さなかった。

 

魔族軍が本当に崩壊したのか、それとも一時的な混乱に過ぎないのか。

 

判断を下すには、まだ情報が足りなかった。

 

オリヴィエは通信士官へ向き直った。

 

「師団本部へ報告。敵戦車および歩兵が一斉に後退を開始。敵歩兵には潰走の兆候あり。ただし、原因は不明――そう伝えてちょうだい」

 

「了解しました!」

 

前方では、魔族軍の戦車が次々と森林の方角へ姿を消していた。

 

その後を追うように、魔族歩兵が走っていく。

 

ほんの数分前まで、ベルノ連隊を壊滅寸前まで追い詰めていた軍勢だった。

 

オリヴィエもヴァルターも、まだ知らなかった。

 

その混乱の始まりが、三百メートル先から高橋亘一の放った、たった一発の銃弾だったことを。

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