勇者連隊戦記   作:バグスター

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帝国歴232年3月後半、イジューム戦線 


第14章 戦いの後
第1節 救助


魔族軍の戦車が後退していく。

 

先ほどまでベルノ連隊の陣地を蹂躙していた戦車群は、突然攻撃を中止し、後方へ走り去っていった。

 

随伴していた魔族歩兵も、それに続いて撤退していく。

 

戦場には、動かなくなった戦車と無数の砲弾孔、そして破壊された塹壕が残された。

 

ベルノ連隊の前進指揮所では、将校たちがその光景を呆然と見つめていた。

 

オリヴィエ大佐は双眼鏡を下ろした。

 

「ヴァルター。本当に退いたのね?」

 

「そのようですな。しかし、どうにも妙です。再攻撃の可能性もあります」

 

「わかっているわ。警戒は続けさせて」

 

オリヴィエは周囲の将校たちを振り返った。

 

「全中隊に通達! 敵の再攻撃に備えて警戒を継続。ただし、追撃は禁止!」

 

伝令兵たちが一斉に動き出した。

 

「それから、負傷者の救助を最優先にしなさい。特に第2中隊よ。動ける者はできるだけ救助に回して!」

 

「了解しました!」

 

「アウレリア! 師団司令部に緊急連絡。第2中隊が壊滅的な損害を受けたこと、敵戦車部隊が突然撤退したことを報告して。医師と衛生兵の緊急派遣も要請してちょうだい」

 

「承知しました。増援部隊の派遣も要請いたしますか?」

 

「ええ。第2中隊の正面が空いてしまったわ。早急に防御線を立て直さなければならない」

 

ヴァルターが戦況図を指さした。

 

「お嬢、ここには師団予備を入れてもらわんと危険ですな。敵が再攻撃してくれば、今度こそ防ぎきれませんぞ」

 

「わかってるわ。アウレリア、その点も強調してちょうだい」

 

「はい。直ちに手配いたします」

 

オリヴィエは一度、指揮所の外へ目を向けた。

 

遠くでは、戦車の残骸から黒い煙が立ち上っていた。

 

「それから、各中隊の衛生兵も集めなさい。連隊の衛生所だけでは、とても足りないわ」

 

命令が次々に伝えられていった。

 

前進指揮所は、再び慌ただしく動き始めた。

 

ただし、先ほどまでとは違う。

 

今度は敵を殺すためではなく、味方を一人でも多く生かすための命令だった。

 

* * *

 

第2中隊の陣地は、見る影もなかった。

 

塹壕は砲撃で崩れ、戦車に踏み潰された部分も多い。

 

ところどころに小銃や装具が散乱し、折れた木材や土嚢が通路を塞いでいた。

 

戦闘を生き延びた兵士たちが、呆然と立ち尽くしている。

 

その中を、担架を抱えた兵士たちが走っていた。

 

「衛生兵! こっちだ!」

 

「誰か手を貸してくれ! 下敷きになってる!」

 

「担架が足りない! 早く持ってこい!」

 

負傷者のうめき声と、救助を求める叫びがあちこちから聞こえていた。

 

第1中隊から救助に回された川崎晴斗と井上翔太も、その中にいた。

 

二人は、すでに何人もの負傷兵を救出していた。

 

崩れた塹壕から兵士を引っ張り出し、担架に乗せて後方へ運ぶ。

 

また前線へ戻り、次の負傷者を探す。

 

その繰り返しだった。

 

しかし、捜索を進めるうちに、二人はあることに気づき始めていた。

 

「……おかしくないか?」

 

井上が足を止めた。

 

「何が?」

 

「負傷者が少なすぎる。あれだけ戦闘があったんだぞ」

 

川崎も同じことを考えていた。

 

特に、魔族歩兵に占領された陣地では、生き残った兵士がほとんど見つからなかった。

 

至近距離から撃たれたような遺体や、銃剣で刺された傷を負った遺体が、何人も発見されていた。

 

「魔族の連中……負傷者にも、とどめを刺していったんだろうな」

 

川崎が低い声で言った。

 

井上は答えなかった。

 

魔族が捕虜を取らず、負傷兵を生かしておかないことは、訓練でも繰り返し教えられていた。

 

だが、実際にその痕跡を目にすると、言葉が出なかった。

 

二人は次の塹壕へ向かった。

 

そこは、戦車によって踏み荒らされた陣地の一角だった。

 

塹壕の一部は崩れ、土嚢が散乱している。少し先には機銃陣地があった。

 

「ここもひどいな……」

 

井上がつぶやいた。

 

川崎は機銃陣地に近づいた。

 

機銃は横倒しになり、その周囲には空薬莢が散乱していた。

 

そして、機銃の傍らに一人の兵士が倒れていた。

 

川崎はその顔を見て、思わず声を上げた。

 

「……城島?」

 

井上が駆け寄った。

 

「えっ、城島って……あの城島か?」

 

二人は倒れている兵士を確認した。

 

第20期召喚者の城島だった。

 

城島の身体には、爆発によるものと思われる傷があった。周囲にも手榴弾が炸裂したような跡が残っている。

 

「手榴弾か……」

 

井上がつぶやいた。

 

川崎は城島の首元に指を当てた。

 

反応はなかった。

 

「……駄目だ」

 

井上は唇を噛んだ。

 

つい数か月前まで、同じ訓練を受けていた仲間だった。

 

それが今、目の前で動かなくなっている。

 

「……ほかも探そう」

 

川崎が立ち上がった。

 

塹壕に沿って進むと、今度は別の兵士が倒れていた。

 

井上が先に気づいた。

 

「おい……こっちも知ってる奴だぞ」

 

川崎が振り返る。

 

「広瀬……」

 

広瀬は塹壕の底に仰向けで倒れていた。

 

胸の軍服が血で黒く染まっている。

 

銃弾を受けたようだった。

 

川崎は膝をつき、呼びかけた。

 

「広瀬! おい、広瀬!」

 

返事はなかった。

 

首元に触れた川崎は、ゆっくりと手を離した。

 

「……死んでる」

 

井上は顔を背けた。

 

「城島も広瀬も……同じ20期なのに……」

 

二人は、つい最近になって第2中隊へ補充されたばかりだった。

 

川崎は岡田修平の顔を思い浮かべた。

 

「そういえば、岡田も第2中隊だったよな」

 

「ああ……ここにいるかもしれない」

 

二人は塹壕の奥へ進んだ。

 

少し先に、軍曹の階級章をつけた兵士が倒れていた。

 

軍服には、銃剣で刺されたと思われる傷があった。

 

「軍曹だな……」

 

井上が言った。

 

川崎は遺体の傍らにしゃがんだ。

 

すでに息はなかった。

 

「この人も、銃剣でやられたのか……」

 

それが、この分隊を率いていたナゲフ軍曹であることを、二人は知らなかった。

 

ナゲフは最後までこの陣地で戦い、ここで命を落としていた。

 

川崎は軍曹の遺体を見つめた。

 

「……ここも全滅か」

 

そう言いかけたときだった。

 

「……う……」

 

微かな声が聞こえた。

 

二人は顔を見合わせた。

 

「今、何か聞こえなかったか?」

 

「ああ」

 

川崎は立ち上がった。

 

「おい! 誰かいるのか!」

 

返事はなかった。

 

二人は耳を澄ませた。

 

「……うう……」

 

今度は確かに聞こえた。

 

「生きてる奴がいるぞ!」

 

井上が叫んだ。

 

声のする方向へ走る。

 

崩れた塹壕の曲がり角を越えると、一人の兵士が倒れていた。

 

身体の半分が土砂に埋まり、片脚が不自然な方向へ投げ出されている。

 

川崎が駆け寄った。

 

「おい! 大丈夫か!」

 

兵士は薄く目を開けた。

 

その顔を見た瞬間、川崎は息を呑んだ。

 

「岡田!」

 

井上も駆け寄った。

 

「岡田修平か!?」

 

間違いなかった。

 

顔は泥と血で汚れ、軍服も破れていたが、第20期の同期だった。

 

「岡田! 俺だ、川崎だ! わかるか!」

 

岡田は何か言おうとした。

 

しかし、声にならなかった。

 

「……あ……」

 

「おい、しっかりしろ!」

 

井上が身体を調べた。

 

「川崎! 脚だ! ものすごく血が出てる!」

 

岡田の片脚はひどく損傷していた。

 

軍服のズボンが破れ、血が流れ出している。

 

周囲の土も赤黒く染まっていた。

 

「まずいぞ、これ!」

 

川崎はすぐに救急具を取り出した。

 

「井上、傷を押さえろ!」

 

「わかった!」

 

井上が出血部を圧迫する。

 

川崎は止血帯を取り出した。

 

訓練では何度も練習した処置だった。

 

しかし、実際に大量の血を流している仲間を前にすると、手が震えた。

 

「くそっ……落ち着け……」

 

川崎は自分に言い聞かせながら、岡田の脚に止血帯をかけた。

 

締めつけると、岡田の身体がびくりと動いた。

 

「うあっ……!」

 

「すまん! 我慢してくれ!」

 

川崎は止血の状態を確認した。

 

「井上! 衛生兵を呼んでくれ! 担架もだ!」

 

「わかった!」

 

井上は塹壕から飛び出し、大声で叫んだ。

 

「衛生兵! 衛生兵はいないか! 重傷者だ! 生存者がいるぞ!」

 

川崎は岡田の傍らに残った。

 

岡田は再び目を閉じかけていた。

 

「岡田! 聞こえるか! おい!」

 

薄く目が開いた。

 

「……かわ……さき……?」

 

「そうだ! 川崎だ!」

 

岡田の唇がわずかに動いた。

 

川崎は顔を近づけた。

 

「何だ? どうした?」

 

「……ひろ……せ……」

 

川崎の動きが止まった。

 

岡田はもう一度、かすれた声を出した。

 

「……じょう……じま……」

 

「……ああ」

 

川崎はそれ以上、何も言えなかった。

 

二人が死んでいることを、今の岡田に伝えることなどできなかった。

 

「大丈夫だ。今は自分のことだけ考えろ」

 

岡田の手を握った。

 

「もう戦闘は終わった。魔族は撤退したんだ」

 

岡田がかすかに目を動かした。

 

「……せん……しゃ……」

 

「戦車? ああ、敵の戦車も退いたよ」

 

川崎は岡田の顔を見つめた。

 

「助けが来るからな。もう少し頑張れ」

 

そのとき、井上が戻ってきた。

 

「川崎! 衛生兵を連れてきたぞ!」

 

担架要員も一緒だった。

 

衛生兵は岡田の脚を見るなり、険しい表情になった。

 

「止血帯をかけたのは誰だ?」

 

「俺です!」

 

「処置した時刻は?」

 

川崎はおおよその時刻を答えた。

 

衛生兵は止血の状態を確認し、ほかの負傷がないか素早く調べ始めた。

 

「かなり出血している。急いで衛生所へ運ぶぞ!」

 

担架が塹壕の底に下ろされた。

 

四人がかりで岡田の身体を慎重に持ち上げる。

 

岡田は痛みに顔を歪めたが、抵抗する力も残っていないようだった。

 

「頭を支えて! ゆっくりだ!」

 

担架に乗せられた岡田は、再び目を閉じた。

 

川崎が声をかける。

 

「岡田! 聞こえるか!」

 

返事はなかった。

 

「おい、岡田!」

 

衛生兵が言った。

 

「呼吸はある! 急ぐぞ!」

 

担架は塹壕から運び出されていった。

 

川崎と井上も後に続いた。

 

背後には、城島と広瀬、そして名前も知らない軍曹の遺体が残されていた。

 

* * *

 

連隊司令部付近の機銃陣地にいた石井軍曹の分隊も、救助に参加していた。

 

機銃陣地には代わりの警戒要員が配置され、石井たちは担架を持って第2中隊の陣地へ向かった。

 

「ロイ、サク! そっちの塹壕を確認しろ! リースは俺と来い!」

 

「了解!」

 

石井たちは崩れた塹壕に沿って進んだ。

 

戦車に踏み潰された陣地には、無残な光景が広がっていた。

 

土嚢は散乱し、塹壕の壁は崩れ落ちている。

 

ところどころには、兵士の遺体が横たわっていた。

 

「軍曹、こちらも駄目です」

 

ロイが報告した。

 

「……そうか」

 

石井は短く答えた。

 

すでに何か所もの陣地を調べていたが、生存者は一人も見つかっていなかった。

 

それだけではなかった。

 

石井は、先ほどから気になっていることがあった。

 

魔族の遺体が、あまりにも少ないのだ。

 

「……妙だな」

 

石井がつぶやいた。

 

「何がですか?」

 

リースが尋ねた。

 

「敵の死体だよ。これだけ激しい戦闘があったにしては、少なすぎる」

 

周囲には味方の兵士の遺体がいくつもあった。

 

一方、魔族の遺体は、ここまで調べた範囲では数えるほどしか見つかっていない。

 

撤退時に回収された可能性もある。しかし、それだけでは説明できないように思えた。

 

石井は崩れた塹壕を見渡した。

 

敵は戦車によって陣地を突破した。

 

だが、戦車がすべてを破壊したわけではない。

 

塹壕の中には、銃撃や銃剣によって倒された兵士が多く残されていた。

 

つまり、敵歩兵が侵入し、陣地を制圧したのだ。

 

しかも、大きな損害を受けた形跡がない。

 

石井はこれまでにも魔族との戦闘を経験していた。

 

魔族歩兵は決して弱い相手ではない。

 

しかし、今回の敵は明らかに違った。

 

戦車の前進と歩兵の突入がよく連携していた。陣地への侵入後も、兵士たちを手際よく排除していたようだった。

 

そして、反撃を受けても大きな損害を出していない。

 

「……こいつら、相当な手練れだぞ」

 

石井が低い声で言った。

 

「戦車が強かっただけじゃないんですか?」

 

リースが尋ねた。

 

「いや、歩兵もだ。今まで俺が戦ってきた魔族とは、まるで違う」

 

石井は足元の遺体を見た。

 

至近距離から撃たれた傷があった。

 

「この陣地の連中だって、黙って殺されたわけじゃない。必死に抵抗したはずだ」

 

石井は周囲を見渡した。

 

「それなのに、敵の死体はほとんどない。……恐ろしく練度の高い部隊だ」

 

リースは黙り込んだ。

 

ベルノの兵士たちにとって、これほど大規模な戦車部隊との直接戦闘は初めてだった。

 

だが、魔族歩兵との戦闘は違う。

 

長い軍歴を持つ石井には、比較できるだけの経験があった。

 

その石井が、これほどの相手は初めてだと感じている。

 

「戦車だけじゃねえ。歩兵までこれほど強いとなると、まともにやり合って勝てる相手じゃないな……」

 

石井はそう言って、再び歩き始めた。

 

「とにかく、生存者を探すぞ」

 

四人は次の陣地へ向かった。

 

そこには、半ば崩落した掩体壕があった。

 

戦車砲の砲撃を受けたらしく、塹壕から掩体壕へ続く連絡通路が、完全に埋まっていた。

 

周囲には、何人もの味方兵士が倒れていた。

 

リースが一人の遺体を確認した。

 

「……この人も、銃剣で刺されています」

 

石井が近づいた。

 

傷の位置を確認すると、顔をしかめた。

 

「……とどめを刺されたんだろうな」

 

「負傷者だったんでしょうか」

 

「ああ。魔族は捕虜を取らん。動けなくなった兵士も、見つかればまず助からん」

 

石井は崩れた通路に目を向けた。

 

「ここも駄目そうだが……念のため調べるぞ」

 

「了解」

 

石井が通路へ近づいた、そのときだった。

 

コン、コン。

 

何かを叩くような音が聞こえた。

 

「……ん?」

 

石井は足を止めた。

 

「おい、静かにしろ」

 

四人が耳を澄ませた。

 

コン、コン、コン。

 

今度は確かに聞こえた。

 

「誰かいるぞ!」

 

石井は崩れた通路に向かって叫んだ。

 

「おい! 聞こえるか! 救助隊だ!」

 

しばらくして、土砂の向こうからかすかな声が返ってきた。

 

「……たす……けて……」

 

「生きてるぞ!」

 

サクが声を上げた。

 

石井はすぐに命じた。

 

「ロイ、崩れた梁を調べろ! サク、ほかの救助隊を呼んでこい! リースは俺と土をかき出すぞ!」

 

「はい!」

 

石井とリースは、崩れた通路の土砂を取り除き始めた。

 

「おい! 中の奴! 聞こえるか!」

 

「……はい!」

 

「今から掘り出す! 下手に動くなよ!」

 

「……わかりました!」

 

通路は戦車砲によって大きく破壊されていたが、幸い奥の掩体壕までは崩れていないようだった。

 

やがて、サクが数人の救助隊員を連れて戻ってきた。

 

上部の木材を支えながら、慎重に土砂を取り除いていく。

 

しばらくすると、人が通れるほどの隙間ができた。

 

「おい! 出られるか!」

 

「……はい! 出られます!」

 

中から、一人の兵士が這い出してきた。

 

若い日本人兵士だった。

 

顔も軍服も泥だらけで、額には小さな傷があった。

 

石井がその肩を支えた。

 

「大丈夫か! どこをやられた?」

 

「……あ、あの……少し擦りむいただけです」

 

「何?」

 

石井は兵士の身体を調べた。

 

額や腕に擦り傷があり、身体のあちこちを打っているようだったが、手足は動いていた。

 

「お前、名前は?」

 

「仁川……仁川二等兵です。第20期です」

 

石井はその名前に聞き覚えがあった。

 

「仁川か。歩けるか?」

 

「はい……歩けます」

 

仁川は立ち上がろうとしたが、ふらついて石井に支えられた。

 

「無理するな。座っていろ」

 

石井は水筒を差し出した。

 

「どうして中にいたんだ?」

 

仁川は震える手で水筒を受け取った。

 

「戦車が来て……砲撃が始まって……掩体壕に避難したんです」

 

「それで?」

 

「ものすごい音がして……入口が崩れて……外に出られなくなったんです」

 

仁川は崩れた通路を指さした。

 

「何度も呼んだんですけど、誰も来なくて……」

 

「そうか……」

 

「外で銃声がしていました。魔族が何か叫んでいて……それから、味方の悲鳴も……」

 

仁川はそこで口を閉じた。

 

「怖くて……ずっと奥に隠れていました」

 

石井は周囲を見渡した。

 

この掩体壕の周囲にいた兵士たちは、ほとんどが死んでいた。

 

敵歩兵はこの陣地にも侵入していたのだろう。

 

だが、仁川は崩落した通路の奥に閉じ込められていた。

 

魔族は掩体壕の中に生存者がいることに気づかず、そのまま通り過ぎたのかもしれない。

 

石井は仁川の肩を軽く叩いた。

 

「……運がよかったな、お前」

 

「え?」

 

「通路が崩れたおかげで、魔族に見つからずに済んだんだ」

 

仁川は呆然とした表情で、崩れた入口を見つめた。

 

「……そうなんですか」

 

「ああ。ほかの連中は、ほとんど助からなかった」

 

仁川は何も言わなかった。

 

やがて、ぽつりとつぶやいた。

 

「……みんな、死んじゃったんですか?」

 

石井はすぐには答えられなかった。

 

「……まだ全員を確認したわけじゃない」

 

それだけ言った。

 

駆けつけた衛生兵が仁川の身体を調べた。

 

「大きな外傷はありませんね。打撲と擦過傷が中心のようです。ただ、念のため衛生所で診察を受けてください」

 

「……はい」

 

仁川は立ち上がった。

 

足元は少しふらついていたが、自力で歩くことができた。

 

リースが声をかけた。

 

「衛生兵について行って。大丈夫、もう安全だから」

 

「ありがとうございます……」

 

仁川は何度も頭を下げ、衛生兵に付き添われて後方へ歩いていった。

 

その背中を見送りながら、サクがつぶやいた。

 

「……奇跡みたいですね」

 

石井は崩れた掩体壕を見つめていた。

 

「ああ。戦車砲で通路を吹き飛ばされたことが、かえって命を救ったんだな」

 

ロイが周囲の塹壕に目を向けた。

 

「軍曹、次はどこを調べますか?」

 

「……向こうの機銃陣地だ。まだ確認していない」

 

「了解」

 

四人は再び歩き始めた。

 

しかし、その先でも生存者は見つからなかった。

 

塹壕の底に横たわる兵士たちを、一人ずつ確認していく。

 

呼びかけても、反応はない。

 

途中、魔族の遺体が二体見つかった。

 

だが、それだけだった。

 

周囲には、何倍もの数の味方兵士が倒れていた。

 

石井はその光景を見渡した。

 

戦車の突破力。

 

歩兵の練度。

 

陣地を制圧する手際のよさ。

 

今回の敵は、これまで自分が経験した魔族軍とは明らかに違っていた。

 

「……こんな連中が、また来たら……」

 

思わず口に出しかけ、石井は言葉を止めた。

 

仁川の姿が頭に浮かんだ。

 

戦車砲によって通路が崩れ、外へ出られなくなったこと。

 

本来なら、それは不運な出来事だったはずだ。

 

しかし、今回ばかりは違った。

 

外に出られなかったからこそ、生き残ることができたのだ。

 

石井は周囲に横たわる兵士たちを見渡した。

 

「……ひでえ戦場だな」

 

誰も答えなかった。

 

遠くでは、別の救助隊が負傷者を探して叫んでいた。

 

石井は担架を持ち直した。

 

「行くぞ。まだ探すところは残っている」

 

四人は、再び破壊された塹壕の中へ入っていった。

 

* * *

 

連隊の野戦衛生所は、すでに負傷者であふれていた。

 

第2中隊だけでなく、砲撃を受けた他の中隊からも負傷者が運ばれてくる。

 

衛生所の天幕には入りきらず、周囲に毛布を敷いて負傷者を寝かせていた。

 

「この兵士は腹部に負傷! すぐに手術が必要です!」

 

「こっちは大量出血だ! 先に処置する!」

 

「担架を戻せ! まだ負傷者が残っている!」

 

医師たちは負傷者の状態を確認しながら、処置の優先順位を決めていた。

 

応急処置を終えた者から、後方の野戦病院へ搬送する。

 

しかし、搬送用の馬車も担架も足りない。

 

各中隊から集められた衛生兵たちが、次々に到着する負傷者の処置に追われていた。

 

第4中隊から派遣された宍戸亜美兵長も、その一人だった。

 

「はい、次! そこの人、傷を押さえて!」

 

いつもの軽い口調は消えていた。

 

「大丈夫、ちゃんと処置するから。動かないで!」

 

彼女は負傷兵の腕に包帯を巻きながら、隣にいた兵士に声をかけた。

 

「そこのあんた! この人の意識と呼吸を確認して! 変化があったら、すぐ知らせて!」

 

「わ、わかりました!」

 

亜美はすぐに次の負傷者へ向かった。

 

軍服の袖には、血が何か所も付着していた。

 

そこへ、第2中隊から新たな担架が運び込まれた。

 

「重傷者です! 脚から大量出血!」

 

「こちらへ!」

 

担架に乗っていたのは岡田修平だった。

 

衛生兵が医師に状況を説明する。

 

「発見時、かなり出血していました。救助した兵士が止血帯を使用しています」

 

医師は岡田の脚を確認した。

 

「すぐに処置する。こちらへ運んでくれ!」

 

川崎と井上は、担架が天幕の奥へ運ばれていくのを見送った。

 

「……助かるかな」

 

井上がつぶやいた。

 

川崎は答えられなかった。

 

やがて、二人に再び救助隊への合流命令が伝えられた。

 

「行こう、井上」

 

「ああ」

 

二人は空になった担架を持ち、再び第2中隊の陣地へ向かった。

 

* * *

 

その日のうちに、師団からの増援部隊も到着し始めた。

 

第121師団司令部は、隣接する連隊に対して緊急の医療支援を命じていた。

 

医師、衛生兵、担架要員、搬送用馬車が次々に集められ、ベルノ連隊の後方へ送り込まれた。

 

同時に、師団予備部隊にも出動命令が下っていた。

 

第2中隊が守っていた正面を、早急に補強しなければならない。

 

敵がなぜ撤退したのかは、まだわからない。

 

戦車部隊が再び攻撃してくる可能性は十分にあった。

 

到着した増援部隊は、第2中隊の陣地後方に新しい防御線を構築するよう命じられた。

 

工兵たちが塹壕を掘り始める。

 

対戦車兵器の配置も見直され、砲兵中隊には敵の再進撃に備えるよう指示が出された。

 

一方、他の連隊から派遣された医師たちは、到着するなり野戦衛生所に入った。

 

「こちらの負傷者を引き受けます!」

 

「手術できる場所を確保してください!」

 

「搬送可能な者は後方へ! ここで処置が必要な者を優先します!」

 

衛生兵たちも担架を持ち、前線へ向かっていった。

 

救助活動は、ようやく組織的に進み始めていた。

 

しかし、すでに戦闘が終わってから何時間も経過している。

 

助けを待ちながら息絶えた兵士も、少なくなかった。

 

* * *

 

前進指揮所では、オリヴィエが各中隊から届く報告に目を通していた。

 

その傍らでは、アウレリアが救助活動の状況を整理していた。

 

「オリヴィエ様、第2中隊の救助状況について、ご報告します」

 

「どう? 生存者は見つかっている?」

 

「はい。しかし……予想以上に少ない状況です」

 

オリヴィエは顔を上げた。

 

「少ない?」

 

「第2中隊の陣地は、広い範囲で魔族歩兵に占領されました。特に敵が侵入した区域では、生存者がほとんど見つかっていません」

 

「……そう」

 

「遺体の状況から判断すると、魔族は負傷して動けなくなった兵士にも、とどめを刺して回ったようです」

 

オリヴィエは眉をひそめた。

 

「……それはわかっているわ。魔族は負傷兵を生かしておかないもの。でも、あれだけの短時間で、そこまで徹底していたというの?」

 

「はい。至近距離から撃たれた遺体や、銃剣による刺傷のある遺体が多数確認されています」

 

アウレリアは報告書を一枚めくった。

 

「それから、現場の古参兵からも気になる報告が上がっています。今回の魔族歩兵は、これまで経験した敵とは明らかに練度が違っていたようです」

 

ヴァルターがうなずいた。

 

「戦車が防御線を破り、歩兵がその後に続いて陣地を制圧した。しかも、短時間で負傷兵の掃討まで済ませています。よほど訓練された部隊でしょうな」

 

「……そうね」

 

オリヴィエは腕を組んだ。

 

「そもそも、私たちがこれほど大規模な戦車部隊と戦うのは初めてだったわ。あれほど厄介な兵器だとは思わなかった」

 

ベルノ連隊は、前身のベルノ旅団時代も含め、これほど大規模な戦車部隊と直接交戦した経験がなかった。

 

七年前の壊滅も、グリモフの戦車部隊が帝国軍の防衛線を突破したことに端を発していたが、ベルノ旅団そのものが大規模な対戦車戦を行ったわけではない。

 

あのときは戦線の崩壊によって取り残され、包囲されたのだ。

 

今回、ベルノ連隊は初めて、戦車部隊の集中攻撃を真正面から受けた。

 

「戦車の脅威については、これで嫌というほど思い知らされましたな」

 

ヴァルターが言った。

 

「ええ。でも、歩兵戦なら何度も経験しているわ。その古参兵たちが口を揃えて、今回の敵は違うと言っているのね」

 

「はい。それに、味方の損害に比べて、発見された魔族の遺体が驚くほど少ないのです」

 

アウレリアが報告書を差し出した。

 

「撤退時に回収された可能性もありますが、現場を確認した石井軍曹からも、敵歩兵の練度が非常に高かったとの報告が上がっています」

 

オリヴィエは戦況図を見つめた。

 

「……戦車だけでも初めて経験する脅威だったのに、随伴する歩兵まで精鋭だったというわけね」

 

「そのようですな」

 

ヴァルターが答えた。

 

「歩兵の動きにも無駄がなかったのでしょう。抵抗を排除して陣地を掃討するまでが、あまりにも速い」

 

「……相当な部隊を投入してきたのね」

 

オリヴィエは小さく息を吐いた。

 

「それで、救助活動はどこまで進んでいるの?」

 

アウレリアが答えた。

 

「主要な塹壕はおおむね捜索を終えています。ただし、崩落した掩体壕や戦車に踏み潰された陣地には、まだ確認できていない場所があります」

 

「生存者がいる可能性は?」

 

「あります。実際、土砂の下から救出された兵士もいます」

 

「なら、捜索を続けなさい」

 

オリヴィエは即座に命じた。

 

「各中隊からの応援もそのまま続行。師団から来た衛生兵と担架隊も、順次前線へ投入して」

 

「承知しました」

 

「それから、遺体の収容は後回しで構わないわ。まずは生きている兵士を探しなさい。まだ助かる者を見捨てるわけにはいかない」

 

アウレリアはうなずいた。

 

「そのように指示いたします」

 

オリヴィエは椅子に深く腰を下ろした。

 

「……第2中隊、いったい何人残っているのかしら」

 

ヴァルターが静かに答えた。

 

「まだ全容はわかりませんな。後方へ脱出した者もいるでしょうし、救助された者もおります」

 

「そうね……」

 

オリヴィエは再び戦況図を見た。

 

「せめて、もう少し早く敵が撤退してくれていれば……」

 

その言葉に、ヴァルターは答えなかった。

 

戦車を伴った魔族軍の攻撃は、あまりにも激しかった。

 

そして、敵がなぜ突然撤退したのかも、まだ判明していなかった。

 

オリヴィエは机の上の報告書を手に取った。

 

「……被害報告は、全員の確認が終わってからでいいわ」

 

彼女は小さく息を吐いた。

 

「今は一人でも多く、連れ戻してちょうだい」

 

そのとき、伝令兵が指揮所へ入ってきた。

 

「ヴァルター少佐! 浸透偵察小隊から連絡です!」

 

「何だ?」

 

「エレナ班、フリーダ班、ゲルフ班が帰還しました。現在、小隊本部にいるとのことです!」

 

ヴァルターは顔を上げた。

 

「エレナたちが戻ったのか!」

 

「はい!」

 

「負傷者は? 全員無事なのか?」

 

「申し訳ありません。詳しい状況までは報告されておりません」

 

「そうか……」

 

ヴァルターは腕を組んだ。

 

エレナ班とは、敵戦車部隊の後方へ浸透して以来、連絡が途絶えていた。

 

通信が途絶してからは、状況を確認する手段もなかった。

 

戦場では魔族軍が突然撤退した。

 

そして今、エレナたちが戻ってきたという。

 

「お嬢、ちょっと小隊本部へ行ってきます」

 

オリヴィエが顔を上げた。

 

「エレナたちが戻ったの?」

 

「ええ。フリーダとゲルフの班も帰還したそうです」

 

「よかった……」

 

オリヴィエは安堵の表情を見せた。

 

「でも、何があったのかしら。敵が突然逃げ出した理由も、まだわからないのよ」

 

「そのあたりも含めて、話を聞いてきます」

 

「お願い。負傷者がいるなら、すぐに手当てさせて。それから、できるだけ早く報告をちょうだい」

 

「承知しました」

 

ヴァルターは敬礼すると、前進指揮所を出た。

 

* * *

 

浸透偵察小隊の本部は、連隊司令部に近い森林の中に置かれていた。

 

ヴァルターは早足で森の中を進んだ。

 

小隊の宿営地に近づくと、フリーダが歩み寄ってきた。

 

「ヴァルター!」

 

「戻っていたのか。無事で何よりだ」

 

「ええ。ゲルフたちも戻っているわ」

 

「エレナは?」

 

「本部の天幕よ。高橋も一緒にいるわ」

 

「そうか」

 

ヴァルターはほっと息を吐いた。

 

だが、フリーダの表情は暗かった。

 

「……何かあったのか?」

 

「中で聞いて」

 

ヴァルターは黙って天幕へ向かった。

 

中にはエレナと高橋がいた。

 

二人とも泥に汚れ、ひどく疲れた様子だった。

 

「ヴァルター……」

 

エレナが立ち上がろうとした。

 

「そのままでいい。よく戻ったな」

 

ヴァルターは天幕の中を見渡した。

 

四人いるはずのエレナ班が、二人しかいない。

 

「……アルノーとミレーナはどうした?」

 

エレナはうつむいた。

 

「ミレーナは戦死しました。アルノーも左脚を撃たれて……敵地に残してきました」

 

ヴァルターの表情が険しくなった。

 

「そうか……」

 

エレナは、敵に発見されてからの経緯を説明した。

 

ミレーナが胸を撃たれたこと。アルノーが負傷し、追撃する敵を食い止めるために残ったこと。そして、エレナが高橋に撤退を命じたこと。

 

「私が判断しました。アルノーを連れて帰ることはできないと……」

 

「……わかった」

 

高橋が顔を上げた。

 

「ヴァルター少佐。俺も残るべきだったと思います」

 

「お前が残って、アルノーを助けられたのか?」

 

「……わかりません」

 

「そうだろうな。負傷者を抱えて敵の追撃から逃れるのは、簡単なことじゃない」

 

ヴァルターは二人を見た。

 

「エレナの判断は間違っていない。今はそう考えろ」

 

エレナは小さくうなずいた。

 

「明日の朝、捜索隊を出そう。アルノーを最後に見た場所を地図に記しておいてくれ」

 

「ありがとうございます」

 

「それから、敵が突然撤退した件だ。何か見なかったか?」

 

エレナは高橋に目を向けた。

 

「それについて、ご報告があります」

 

エレナは、敵後方で高橋が騎馬八騎の一団を発見し、その中央にいた高級将校と思われる魔族を狙撃したことを報告した。

 

赤い裏地のマントと勲章を身につけた将校だったという。

 

「三百メートルから一発、頭部に命中しました」

 

高橋が補足した。

 

「……ほう」

 

ヴァルターは腕を組んだ。

 

「その直後、周囲の魔族たちが混乱し始めました」

 

エレナが続けた。

 

「……なるほどな」

 

ヴァルターは考え込んだ。

 

「こちらでも、ほぼ同じ頃に敵の撤退を確認している」

 

「そうなんですか?」

 

「ああ。ひょっとすると関係があるのかもしれん」

 

ヴァルターは立ち上がった。

 

「これは、お嬢にも報告する必要があるな」

 

そして二人に言った。

 

「今日はもう休め。アルノーの件はこちらで手配する」

 

* * *

 

前進指揮所に戻ったヴァルターは、オリヴィエとアウレリアにエレナ班の帰還を報告した。

 

「エレナ班は四人のうち二人だけが戻りました。ミレーナは戦死、アルノーは負傷して敵地に残されています」

 

「……そう。残念だわ」

 

オリヴィエは目を伏せた。

 

「明朝、エレナ班を除く全班で捜索する予定です」

 

「お願い。できることなら連れ戻してあげて」

 

「承知しました」

 

ヴァルターは続けた。

 

「それから、お嬢。敵が突然撤退した理由について、手がかりが見つかりました」

 

「何かわかったの?」

 

「高橋が敵後方で高級将校と思われる魔族を狙撃したそうです。その直後から敵に混乱が広がっています」

 

オリヴィエは顔を上げた。

 

「……高橋が?」

 

「ええ。以前にも狙撃で戦果を挙げた、あの日本人二等兵です」

 

「敵の将校を撃ったのね……」

 

オリヴィエは少し考え込んだ。

 

「それで、敵が撤退したというの?」

 

「まだ関係はわかりません。ただ、時刻はほぼ一致します」

 

アウレリアが口を開いた。

 

「オリヴィエ様。敵の指揮官が倒れたのであれば、撤退との関連は考えられます。ただし、将校の身元は不明です」

 

「そうね……」

 

オリヴィエは椅子から立ち上がった。

 

「ヴァルター。エレナと高橋に会いに行くわ」

 

「今からですか?」

 

「ええ。直接二人の話を聞きたいの」

 

アウレリアも立ち上がった。

 

「私もご一緒いたします」

 

三人は前進指揮所を出た。

 

* * *

 

森林の宿営地は、普段より静かだった。

 

戦闘から戻った隊員たちは、それぞれの天幕で休息を取っていた。

 

ヴァルターに案内され、オリヴィエとアウレリアは小隊本部の天幕へ入った。

 

エレナと高橋が慌てて立ち上がった。

 

「大佐!」

 

「高橋亘一二等兵です!」

 

オリヴィエは高橋の顔を見た。

 

「あなたが高橋ね。名前は前から聞いているわ。直接会うのは初めてね」

 

「はい!」

 

「それより、二人とも座ってちょうだい。ずいぶん疲れているでしょう」

 

二人が腰を下ろすと、オリヴィエも向かいに座った。

 

「エレナ。班員のことはヴァルターから聞いたわ」

 

「……はい」

 

「亡くなったのはミレーナ、敵地に残されたのはアルノーね?」

 

「そうです」

 

「アルノーは、まだ生死がわからないのね?」

 

「はい。私たちが離れたときには、まだ生きていました」

 

エレナはうつむいた。

 

「……連れて帰ることができませんでした」

 

「そう……」

 

オリヴィエは少し間を置いた。

 

「明日、ヴァルターが捜索に出るわ。今はそれを待ちましょう」

 

「ありがとうございます」

 

オリヴィエは高橋に向き直った。

 

「それから高橋。あなたの狙撃のことも聞いたわ」

 

「はい」

 

「敵の高級将校を倒したのね」

 

「……そうだと思います」

 

「その魔族が何者だったのか、あなたにはわからないのよね?」

 

「はい。偉い将校だとは思いましたけど……」

 

「そう……」

 

オリヴィエは黙り込んだ。

 

七年前。

 

ベルノ旅団を壊滅に追い込んだ敵将グリモフ。

 

今回の攻撃は、あのときの戦いを思い出させた。

 

戦車によって戦線を突破し、後続の歩兵を送り込む。

 

七年前、ベルノ旅団はその戦線崩壊に巻き込まれ、包囲された。

 

そして今回、ベルノ連隊は初めて戦車部隊の集中攻撃を正面から受けた。

 

その敵軍が、あと少しで連隊を壊滅させるところまで攻め込んでいた。

 

それなのに、敵将校への狙撃とほぼ同じ時刻に突然撤退した。

 

――グリモフだ。

 

オリヴィエには、そう思えてならなかった。

 

だが、目の前の若い二等兵は、自分が何をしたのか理解していないようだった。

 

第2中隊は壊滅し、防御線は突破される寸前だった。

 

あと少し攻撃が続いていれば、ベルノ連隊は七年前よりも、さらにひどいことになっていたかもしれない。

 

自分自身、撤退を考えていた。

 

それほど追い詰められていたのだ。

 

そして今、自分は生きている。

 

オリヴィエは椅子から立ち上がった。

 

「……高橋」

 

「はい、大佐」

 

高橋に歩み寄ると、突然その身体を抱きしめた。

 

「えっ!?」

 

高橋は驚いて身体を硬くした。

 

エレナも目を丸くした。

 

ヴァルターとアウレリアも、突然の行動に驚いた様子だった。

 

しかし、オリヴィエは離れなかった。

 

「……ありがとう」

 

その声は、かすかに震えていた。

 

「あなたのおかげで、私は生きてるわ」

 

高橋は何も言えなかった。

 

「いいえ……ベルノ連隊の多くの命が助かったの」

 

オリヴィエはさらに強く高橋を抱きしめた。

 

「本当にありがとう……」

 

「大佐……俺は、ただ……」

 

「わかってる。わかってるわ……」

 

オリヴィエの声が詰まった。

 

「もう駄目だと思ったの。あのまま敵が攻めてきたら、私たちは……」

 

最後まで言葉にならなかった。

 

高橋はようやく気づいた。

 

オリヴィエが泣いていた。

 

ベルノ連隊の連隊長。

 

伯爵として領地を治め、戦場では多くの兵士を指揮する人物が、自分を抱きしめながら泣いている。

 

「……ありがとう……」

 

高橋はどうしていいかわからず、ただ黙って立っていた。

 

アウレリアは静かに二人を見つめていた。

 

オリヴィエがどれほど追い詰められていたか、彼女はよく知っていた。

 

ヴァルターも何も言わなかった。

 

エレナは高橋の困り果てた表情を見て、一瞬だけ微笑んだ。

 

しかし、すぐに目を伏せた。

 

ミレーナとアルノーのことが頭をよぎったのだった。

 

しばらくして、オリヴィエは高橋から離れた。

 

目元を指で拭う。

 

「……ごめんなさい。初めて会ったのに、驚かせちゃったわね」

 

「い、いえ……」

 

「今日はもう休みなさい。エレナもよ」

 

「はい」

 

オリヴィエは最後にもう一度、高橋を見た。

 

「……ありがとう、高橋」

 

今度は穏やかな声だった。

 

* * *

 

天幕を出ると、夕方の冷たい風が吹いていた。

 

オリヴィエはしばらく無言で歩いていた。

 

ヴァルターが口を開いた。

 

「お嬢、何か心当たりがあるんですか?」

 

オリヴィエは足を止めた。

 

「……グリモフよ」

 

ヴァルターの表情が変わった。

 

「グリモフ?」

 

「ええ。高橋が撃ったのは、グリモフだと思うわ」

 

アウレリアも驚いた表情を見せた。

 

「オリヴィエ様、確かに今回の攻撃は七年前と似ています。しかし、現時点では確かな証拠がありません」

 

「わかってるわ。証拠はないの」

 

オリヴィエは二人を振り返った。

 

「でも、あれだけの戦車を投入して……いえ、戦車だけではないわ。あの練度よ」

 

オリヴィエは一度言葉を切った。

 

「戦力、作戦、練度。すべて相手がはるかに上回っていたわ。あと一歩で防御線を突破できるところまで来ていたのよ。それが突然、逃げるように撤退した」

 

ヴァルターは黙って聞いていた。

 

「それも、敵の高級将校が狙撃された直後にね」

 

「……確かに、説明はつきますな」

 

「私はグリモフだと思う」

 

オリヴィエははっきりと言った。

 

「七年前、ベルノ旅団を壊滅させたあの魔族を、高橋が撃ったのよ」

 

ヴァルターはしばらく考え込んだ。

 

「もしそうなら、とんでもない戦果ですな」

 

「ええ……」

 

オリヴィエは小さくうなずいた。

 

「でも、正式な報告では断定しないわ。あくまで敵の高級将校を狙撃したという事実だけにして」

 

アウレリアが答えた。

 

「承知しました。狙撃の時刻と敵軍が撤退を開始した時刻も照合して、報告書にまとめておきます」

 

「お願い」

 

オリヴィエは再び歩き始めた。

 

しばらくして、何かを思い出したように口を開いた。

 

「……ヴァルター」

 

「何ですかな?」

 

「エレナと高橋のことなんだけど」

 

「はい」

 

「今後、あの二人に何か不利益になるようなことがあったら、必ず私に知らせてちょうだい。私が全力で阻止するから」

 

ヴァルターは少し考え、うなずいた。

 

「……狙撃の件ですな」

 

「ええ」

 

「もし本当にグリモフだったとすれば、軍団どころか帝都まで大騒ぎになるでしょう。高橋が宣伝に利用される可能性もありますな」

 

「そうよ。七年前の敗戦を知っている者なら、グリモフの名前がどれほど大きいかわかっているはずだわ」

 

オリヴィエは眉をひそめた。

 

「高橋を英雄に仕立て上げて、あちこちに引っ張り回すようなことになったら、たまったものじゃないわ」

 

ヴァルターは黙って聞いていた。

 

「もちろん、高橋二等兵が自分から英雄になりたいと言うなら別よ。でも、本人の意思を無視して利用することは許さないわ」

 

「それはないでしょうな」

 

ヴァルターは即座に答えた。

 

「高橋が英雄になりたがるとは思えません。あいつはそういう奴じゃありませんから」

 

「そうなの?」

 

「ええ。腕は確かですが、目立ちたがる性格ではありません。むしろ、今回のことで自分がどれほどの戦果を挙げたのかも、まだわかっておらんでしょうな」

 

オリヴィエは先ほどの高橋の様子を思い出した。

 

突然抱きしめられ、困り果てた顔をしていた若い日本人兵士。

 

「……確かに、そんな感じだったわね」

 

ヴァルターが小さく笑った。

 

「お嬢に抱きつかれて、どうしていいかわからんという顔でしたな」

 

「もう! その話はいいの!」

 

オリヴィエは少し赤くなった目元を拭った。

 

アウレリアが小さく微笑んだ。

 

「オリヴィエ様。私も、お二人の意思は尊重されるべきだと思います。軍団から何らかの要請があれば、まず内容を確認してご報告いたします」

 

「お願いね」

 

オリヴィエは再び真剣な表情に戻った。

 

「エレナは大切な部下だし、高橋もベルノ連隊の兵士よ。二人を守るのは私の仕事だわ」

 

「承知しました、お嬢」

 

ヴァルターはうなずいた。

 

「そのときは、遠慮なく頼らせてもらいますよ」

 

「そうしてちょうだい」

 

オリヴィエは前方に目を向けた。

 

「さあ、戻りましょう。まだ救助は終わっていないもの」

 

三人が歩き始めたところで、ヴァルターがふと思い出したように口を開いた。

 

「そうそう、お嬢。一つ言い忘れておりました」

 

「何よ、まだ何かあるの?」

 

ヴァルターは、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

 

「あいつ、エレナの男ですよ」

 

「……え?」

 

オリヴィエが足を止めた。

 

だが、それ以上に驚いたのはアウレリアだった。

 

「ええっ!? エレナがですか!?」

 

思わず大きな声を上げてしまった。

 

「ちょっと、アウレリア。あなたの方が驚いてどうするのよ」

 

「い、いえ、申し訳ありません。でも……あのエレナが?」

 

アウレリアは信じられないという表情でヴァルターを見た。

 

「本当なのですか?」

 

「ええ。間違いありませんよ」

 

ヴァルターは愉快そうに笑った。

 

アウレリアはしばらく考え込んでいた。

 

エレナとは、はとこの関係にある。

 

もっとも、普段から頻繁に話す間柄ではなかった。

 

それでも、アウレリアはエレナのことを、物事を慎重に考えて行動する性格だと思っていた。

 

それが、まだ連隊に入って半年余りの日本人二等兵。

 

先ほど初めて会った高橋は、狙撃の腕前こそ大したものだったが、見た目にはどこか頼りなさの残る若者だった。

 

「……驚きました。エレナはもっと慎重な子だと思っていたのですが」

 

アウレリアは少し首をかしげた。

 

「高橋二等兵は、まだ入隊して間もない日本人でしょう? エレナとは年齢も軍歴も随分違いますし……」

 

ヴァルターが口を開いた。

 

「いや、アウレリア。エレナも高橋も慎重な方だぞ。無理なことは絶対にしない。あの狙撃だって、連隊が危機に陥っていなければ、やらなかったと思うぜ」

 

「そうなのですか?」

 

「ああ。高橋は狙撃の腕も大したものだが、観察眼がかなりいい。周囲をよく見て、いろんなことに気がつく。そういう兵隊は生き残るんだよ」

 

ヴァルターは少し笑った。

 

「エレナも同じだ。慎重な者同士、案外気が合うんだろうな」

 

アウレリアは考え込んだ。

 

「……なるほど。私が思っていたより、ずっと似た者同士なのかもしれませんね」

 

「まあ、恋愛の方はどうかわからんがな」

 

ヴァルターがにやりと笑った。

 

「それにしても、エレナの方からなのでしょうか?」

 

アウレリアが尋ねた。

 

「さあ、そこまでは知らんな。今度、本人に聞いてみたらどうだ?」

 

「そんなこと、いきなり聞けません!」

 

真顔で答えたアウレリアに、オリヴィエが吹き出した。

 

「ふふっ。あなたも案外、こういう話には弱いのね」

 

「オリヴィエ様まで……」

 

そこでオリヴィエは、ふと先ほどの出来事を思い出した。

 

「……あら。私、エレナの目の前で高橋に抱きついちゃったわね」

 

ヴァルターが声を上げて笑った。

 

「はっはっは! そうですな!」

 

「もう! あんた、そういうことは先に言いなさいよ!」

 

久しぶりに、三人の間に笑い声が上がった。

 

つい先ほどまで、誰もが連隊の壊滅を覚悟していた。

 

多くの兵士が命を落とし、救助活動もまだ終わっていない。

 

それでも、ほんのひとときだけ、いつもの三人に戻ることができた。

 

三人は再び、連隊前進指揮所へ向かって歩き始めた。

 

* * *

 

オリヴィエたちが去った後も、高橋はしばらく椅子に座ったままだった。

 

連隊長に突然抱きしめられ、泣きながら感謝された。

 

自分の撃った魔族が、よほど重要な将校だったらしいことはわかった。

 

だが、そんなことを言われても、どう受け止めればよいのかわからなかった。

 

高橋の頭から離れないのは、別のことだった。

 

ミレーナが撃たれた瞬間。

 

アルノーが負傷した脚を引きずりながら、それでも銃を構えていた姿。

 

そして、二人を置いて逃げたこと。

 

「……亘一」

 

エレナが声をかけた。

 

「はい……」

 

「少し休みましょう。ここでは落ち着かないでしょう?」

 

高橋は黙ってうなずいた。

 

二人は小隊本部を出て、自分たちの天幕へ戻った。

 

天幕には、四人分の寝台が並んでいた。

 

ミレーナの寝台には、畳まれた毛布が置かれている。

 

アルノーの寝台には、読みかけの本が残されていた。

 

いつもなら、帰ってくると誰かが何かを話していた。

 

ミレーナがその日の出来事を話し、アルノーが冗談を言う。エレナがそれをたしなめ、高橋が笑う。

 

そんな日常が、当たり前のように続いていた。

 

だが、今日は違った。

 

高橋はアルノーの寝台を見つめた。

 

「……アルノーさん、本を置いたままですね」

 

「ええ」

 

エレナは静かに答えた。

 

「帰ったら続きを読むつもりだったんでしょうね」

 

高橋はその本に手を伸ばしかけ、やめた。

 

そして、自分の寝台に腰を下ろした。

 

「……俺、何もできませんでした」

 

エレナは隣に座った。

 

「何が?」

 

「ミレーナさんが撃たれたときも、アルノーさんが撃たれたときも……」

 

高橋はうつむいた。

 

「俺、狙撃手なのに……敵を見つけることも、撃つこともできなかった」

 

「亘一……」

 

「今まで、いろんなことを教えてもらったんです」

 

高橋はぽつりぽつりと話し始めた。

 

「最初の頃は、歩くことさえ下手で……」

 

エレナは黙って聞いていた。

 

「アルノーさんには、森の中で音を立てない歩き方とか、周囲の警戒の仕方とか、何度も教えてもらいました」

 

高橋は少し笑った。

 

「よく注意されました。俺が一つの方向ばかり見ていると、ほかにも目を向けろって」

 

「そうね。アルノーは周囲をよく見ていたから」

 

「ミレーナさんにも、ずいぶん助けてもらいました。電信機のことも、偵察中の細かい決まりも……俺がわからないことを聞くと、いつも教えてくれました」

 

高橋は言葉を切った。

 

「二人とも、俺よりずっと経験があって……」

 

その声が震えた。

 

「……俺、何も返せてないんです」

 

エレナはすぐには答えなかった。

 

高橋は両手を握りしめた。

 

「それなのに、俺だけ……」

 

「亘一」

 

「俺たちだけ、帰ってきちゃったんです」

 

高橋は顔を伏せた。

 

「さっき大佐に、ありがとうって言われました。でも……」

 

声が詰まった。

 

「……何が、ありがとうなんですか。ミレーナさんは死んで、アルノーさんも……」

 

高橋の目から涙が落ちた。

 

「俺があの将校を撃たなければ、あんなことにはならなかったんじゃないかって……」

 

「亘一」

 

エレナは静かに呼びかけた。

 

高橋は顔を上げなかった。

 

「俺が撃ったせいで、敵に見つかって……」

 

「違うわ」

 

エレナの声は穏やかだったが、はっきりしていた。

 

「あの狙撃に関しては、みんなで決めたの」

 

高橋が顔を上げた。

 

「……でも、撃ったのは俺です」

 

「そうよ。でも、撃つと決めたのは、あなただけじゃない」

 

エレナは高橋の目を見た。

 

「私も、ミレーナも、アルノーも。四人で決めたことでしょう?」

 

高橋は黙っていた。

 

「あのまま敵の増援が進めば、連隊は壊滅するかもしれなかった。だから、危険を承知で狙撃することにしたの」

 

「……はい」

 

「ミレーナもアルノーも、危険だとわかっていたわ。それでも反対しなかった」

 

エレナは少し間を置いた。

 

「状況がちょっと変わってたら、死んでたのは私たちよ」

 

高橋はエレナを見つめた。

 

「敵が少し違う方向から来ていたら、撃たれたのは私だったかもしれない。あなたが先に見つかっていたかもしれない」

 

エレナは静かに続けた。

 

「誰が生き残るかなんて、あのときには誰にもわからなかったの」

 

「……」

 

「それに、私たちは偵察兵よ。敵を見つけ、情報を持ち帰るのが仕事。必要なら戦うこともある。でも、必ず全員が無事に帰れるとは限らない」

 

高橋はうつむいた。

 

「……わかっています」

 

「頭ではわかっていても、つらいわよね」

 

エレナの声が少し柔らかくなった。

 

「私もよ」

 

高橋が顔を上げた。

 

エレナはミレーナの寝台を見つめていた。

 

「ミレーナとは、長い付き合いだったの。アルノーともね」

 

彼女は小さく息を吐いた。

 

「二人がいなくなったなんて、まだ信じられないわ」

 

その目には涙が浮かんでいた。

 

「私だって、何度も考えてしまう。もっと早く撤退していれば、別の道を選んでいれば……二人を連れて帰れたんじゃないかって」

 

「エレナさん……」

 

「でも、あのときは、あのときにわかっていたことだけで判断するしかなかった」

 

エレナは高橋に向き直った。

 

「私は班長よ。最後に撤退を命じたのも私。だから、あなた一人に責任を背負わせるつもりはないわ」

 

高橋は何も言えなかった。

 

エレナはアルノーの寝台に目を向けた。

 

「……アルノーのことだけど」

 

「はい」

 

「明日、ヴァルターたちが捜索に出てくれるわ」

 

「……助かっているでしょうか」

 

エレナはすぐには答えなかった。

 

アルノーが撃たれたときの光景が、脳裏によみがえった。

 

左脚から流れ出していた大量の血。

 

応急処置はした。しかし、すでに相当な血液を失っていた。

 

長年戦場で負傷兵を見てきたエレナには、わかっていた。

 

あれほど出血した兵士が、医師の手当ても受けず、長く生き延びられるとは思えなかった。

 

それでも、最後に見たアルノーは銃を構え、敵に向かって撃ち続けていた。

 

「……正直に言うわね、亘一」

 

エレナは静かに口を開いた。

 

「あの出血量では、助かるのは難しいと思う」

 

高橋はうつむいた。

 

「……そうですか」

 

「でも、まだ確認できたわけじゃない。だから、明日はできる限り探してもらうつもりよ」

 

エレナはアルノーの寝台を見つめた。

 

「ミレーナも、アルノーも……せめて連れて帰ってあげたいわ」

 

高橋は小さくうなずいた。

 

「……はい」

 

しばらく、二人とも何も言わなかった。

 

やがて高橋が、涙を拭いながら口を開いた。

 

「……俺、もっと強くなりたいです」

 

「うん」

 

「もっと周りを見られるようになって……誰かが危ないときに、助けられるように……」

 

「そうね」

 

「アルノーさんとミレーナさんに教えてもらったこと、絶対に忘れません」

 

エレナは高橋の肩を抱き、そっと引き寄せた。

 

「それでいいと思うわ」

 

「……はい」

 

「でも、亘一。一つだけ約束して」

 

高橋が顔を上げた。

 

「何ですか?」

 

「二人の分まで頑張ろうとして、無理をしないこと」

 

エレナはまっすぐに高橋を見た。

 

「あなたまで失いたくないの」

 

高橋はしばらく彼女を見つめていた。

 

「……はい。約束します」

 

エレナは小さくうなずいた。

 

「私も、あなたを連れて帰れるように、できる限りのことをするわ」

 

高橋は再び彼女の肩に顔を寄せた。

 

二人はしばらく、そのまま動かなかった。

 

天幕の外からは、救助隊の行き交う足音が聞こえていた。

 

やがて高橋が顔を上げた。

 

「……エレナさん」

 

「何?」

 

「明日、二人とも見つかるといいですね」

 

「……ええ」

 

エレナは静かに答えた。

 

「帰してあげたいわね。二人とも」

 

高橋はアルノーの寝台に目を向けた。

 

読みかけの本は、まだそこに置かれていた。

 

その隣には、ミレーナの寝台もある。

 

昨日までは四人で使っていた天幕だった。

 

今夜は、二人しかいなかった。

 

* * *

 

翌朝、ヴァルター少佐は浸透偵察小隊の班長たちを集めた。

 

ただし、エレナ班の姿はなかった。

 

前日の戦闘で疲弊したエレナと高橋には、休養を命じていた。

 

「昨日、エレナから聞いた話は伝えたな」

 

ヴァルターは集まった班長たちを見渡した。

 

「ミレーナは戦死。アルノーは左脚を負傷して、敵地に残された。だが、二人ともまだ発見されていない」

 

フリーダがうなずいた。

 

「二人とも探すのね?」

 

「ああ。エレナ班を除く全九班で捜索する。敵は撤退したが、残敵がいないとは限らん。警戒は怠るなよ」

 

「了解」

 

「それから、敵の高級将校が狙撃された場所も確認する。何か手がかりが残っているかもしれん」

 

ゲルフが口を開いた。

 

「敵の遺体も探すわけだな」

 

「そうだ。身元がわかれば、撤退の理由も見えてくるかもしれん」

 

ヴァルターは地図を広げた。

 

「エレナが記した場所は二か所だ。まずアルノーとミレーナが倒れた場所を捜索する。その後、将校の狙撃地点を調べる。各班とも、勝手な行動はするなよ」

 

班長たちがうなずいた。

 

「よし。出発するぞ」

 

ヴァルターは九班の隊員たちを率いて、森林へ向かった。

 

* * *

 

ヴァルターが出発して間もなく、ベルノ連隊の前進指揮所に第121師団長が到着した。

 

前日の戦闘で第2中隊が壊滅的な損害を受けたとの報告を受け、師団長自ら状況を確認するために訪れたのだった。

 

「師団長閣下!」

 

オリヴィエ大佐が敬礼した。

 

「ご苦労、大佐。状況を聞かせてもらおう」

 

「はい。こちらへどうぞ」

 

オリヴィエは師団長を戦況図の前へ案内した。

 

アウレリアも報告書を持って同席していた。

 

「昨日、魔族軍は戦車を先頭に大規模な攻撃を仕掛けてきました。主攻撃は我が連隊の第2中隊正面に集中しました」

 

彼女は地図上の第2中隊陣地を指さした。

 

「敵戦車は歩兵の抵抗を排除しながら前進し、複数の地点で陣地への侵入に成功しました。第2中隊は各所で孤立し、組織的な抵抗が困難になりました」

 

「対戦車兵器はどうした?」

 

「G13で応戦しました。しかし、正面からの攻撃では敵戦車の装甲を貫通できず、十分な効果を上げられませんでした」

 

「やはり、あの兵器では難しいか」

 

「はい。ただし、戦車の履帯を破壊したとの報告もあります。現在、確認を進めています」

 

師団長は腕を組んだ。

 

「砲兵は?」

 

「我が連隊の120ミリ榴弾砲八門で支援しましたが、敵の前進を完全に阻止することはできませんでした」

 

オリヴィエは地図の中央を指した。

 

「この時点で第2中隊はほぼ壊滅状態に陥り、連隊の防御線が突破される寸前でした」

 

「それで、敵はなぜ撤退した?」

 

「原因はまだ判明しておりません。敵の高級将校が狙撃されたとの報告があり、関連を調査しております」

 

「そうか……」

 

師団長は戦況図を見つめた。

 

「それで、現在の損害は?」

 

オリヴィエの表情が曇った。

 

「第2中隊の損害は、まだ集計できておりません。昨日から救助を続けていますが、生存者が非常に少ない状況です」

 

「少ない?」

 

「魔族が占領した区域では、負傷兵の掃討まで行われたようです。短時間でそこまで徹底されたため、救助できる兵士がほとんど残されていません」

 

「……そうか」

 

アウレリアが別の報告書を差し出した。

 

「それから、敵歩兵についても気になる報告があります」

 

「何だ?」

 

「救助に入った古参の下士官から、これまで経験した魔族歩兵とは練度が違うとの報告が上がっています。戦車と歩兵の連携も巧みで、陣地の制圧が非常に速かったようです」

 

オリヴィエが続けた。

 

「それに、味方の損害に比べて、発見された魔族の遺体が驚くほど少ないのです」

 

「敵が撤退時に回収した可能性は?」

 

「もちろんあります。ただ、現場の兵士たちは、敵歩兵そのものが非常に強かったと感じています」

 

師団長は腕を組んだ。

 

「……戦車だけではなかったということか」

 

「はい。相当な精鋭部隊だったと考えています」

 

師団長はしばらく考え込んだ。

 

「ベルノ連隊にとっては、今回が初めての大規模な対戦車戦だったな」

 

「はい。旅団時代を含めても、これほどの規模の戦車部隊と直接交戦した経験はありません」

 

「七年前の戦いとは、状況が違ったわけか」

 

「ええ。あのときは帝国軍の戦線が突破され、ベルノ旅団は包囲されました。今回は、我々自身が戦車部隊の集中攻撃を受けたのです」

 

オリヴィエは地図上の第2中隊正面を見つめた。

 

「戦車に対する備えが、まったく足りませんでした」

 

師団長はうなずいた。

 

「今回の戦闘記録は、ほかの部隊にとっても重要になるだろう。詳しい報告をまとめてくれ」

 

「承知しました」

 

「救助の進捗は?」

 

「崩落した塹壕や掩体壕の捜索がまだ終わっておりません。現在、各中隊から集めた兵士と、師団から派遣していただいた衛生兵、医師が救助に当たっています」

 

「医療支援は追加で必要か?」

 

「はい。特に外科処置のできる医師と、後方への搬送手段が不足しています」

 

「わかった。追加派遣を手配しよう」

 

「ありがとうございます」

 

師団長は再び地図に目を向けた。

 

「第2中隊正面の防御はどうなっている?」

 

アウレリアが答えた。

 

「師団から派遣された増援部隊が、昨日から展開を始めています。現在、工兵と協力して防御陣地を構築中です。ただし、まだ十分な防御力は確保できておりません」

 

「敵が再攻撃してきた場合は?」

 

「現状では、再び突破される危険があります」

 

オリヴィエが続けた。

 

「増援の継続をお願いいたします」

 

師団長はうなずいた。

 

「よかろう。第2中隊の正面は、当面、師団予備部隊で補強する。貴官の連隊は部隊の再編成と負傷者の救助を優先しろ」

 

「了解しました!」

 

「それから、戦場を見たい。案内してくれ」

 

* * *

 

師団長とオリヴィエは護衛の兵士を伴い、第2中隊の陣地へ向かった。

 

戦闘から一夜が明けていたが、戦場にはまだ硝煙と焼け焦げた臭いが漂っていた。

 

砲弾孔が地面をえぐり、塹壕は何か所も崩れている。

 

戦車の履帯によって踏み潰された陣地では、土嚢や木材が無残に散乱していた。

 

救助隊は今も捜索を続けていた。

 

「……ひどい有様だな」

 

師団長がつぶやいた。

 

オリヴィエは黙ってうなずいた。

 

少し進むと、前方に黒々とした巨大な車体が見えてきた。

 

魔族軍の戦車だった。

 

「閣下、こちらです」

 

オリヴィエが指さした。

 

「昨日の戦闘で、敵戦車三両が戦場に残されました」

 

「三両か」

 

「はい。現在、いずれも動いておりません」

 

師団長は足を止めた。

 

厚い傾斜装甲に、大きな砲塔。

 

その巨体は、塹壕のすぐそばに鎮座していた。

 

「これが、魔族の戦車か……」

 

「はい」

 

師団長は車体を見上げた。

 

「ずいぶん大きいな」

 

「兵士たちの報告では、小銃や機銃ではまったく歯が立たなかったそうです」

 

「当然だろうな」

 

師団長は周囲を見渡した。

 

少し離れた場所に、もう一両の戦車が見えた。

 

さらにその先にも、三両目が残されている。

 

「三両とも調査は済んでいるのか?」

 

「いいえ。まだ詳しい調査は行っておりません。救助活動を優先していますので」

 

「それでよい。まずは兵士の救助だ」

 

師団長は戦車に目を戻した。

 

「だが、これは貴重な鹵獲品になるぞ。軍団司令部も関心を持つだろう」

 

「ええ。私もそう考えています」

 

オリヴィエは少し微笑んだ。

 

「条件次第では、第7軍団へ譲渡してもよいと考えています」

 

師団長が振り返った。

 

「ほう。条件付きか?」

 

「当然ですわ。地方軍の鹵獲品は、その地方軍の所有物ですから」

 

「それはそうだが、三両とも譲渡するつもりなのか?」

 

「ええ。ベルノ連隊では戦車を運用する予定もありませんし、研究設備もありません。軍団に引き渡した方が有効に利用できるでしょう」

 

「なるほど。それで、何を要求するつもりだ?」

 

「まずは、戦車の調査結果をベルノ連隊にも提供していただきたいと思っています。装甲の弱点や機関部の構造など、今後の対戦車戦闘に役立つ情報です」

 

「それは当然だろうな」

 

「それから……」

 

オリヴィエは破壊された第2中隊の陣地を見渡した。

 

「ご覧のとおり、我が連隊は甚大な被害を受けました。特に、現在の対戦車装備では魔族戦車を十分に阻止できません」

 

師団長は黙って聞いていた。

 

「ですから、軍団には対戦車装備の優先配備をお願いしたいと考えています。三両の戦車と引き換えなら、悪い条件ではないと思いますけれど」

 

師団長は苦笑した。

 

「なるほど。なかなか抜け目がないな、ベルノ伯爵」

 

「領主ですから。兵士を失ったうえに、貴重な鹵獲品まで無償で差し出すわけにはいきませんわ」

 

「確かにな」

 

師団長は再び戦車を見た。

 

「わかった。第7軍団司令部には、貴官の意向を伝えておこう。ただし、装備の配備については軍団司令部の判断になるぞ」

 

「承知しております。正式な条件は、軍団司令部と相談させていただきます」

 

「よかろう。それまでは、三両とも貴官の責任で管理してくれ」

 

「はい」

 

師団長は戦車から視線を外し、救助活動の続く塹壕を見つめた。

 

その傍らでは、数人の兵士が崩れた掩体壕から仲間を運び出していた。

 

担架に乗せられた兵士は動いていなかった。

 

救助隊員の一人が、静かに首を振った。

 

オリヴィエはその光景を見つめた。

 

師団長が口を開いた。

 

「大佐」

 

「はい」

 

「この戦闘で、貴官の連隊は相当な損害を受けた。しかし、敵は撤退し、防御線も完全には失われていない」

 

「……はい」

 

「今は負傷者の救助と部隊の立て直しに専念しろ。師団としても必要な支援を行う」

 

「ありがとうございます、閣下」

 

オリヴィエは深く頭を下げた。

 

師団長はもう一度、魔族の戦車を見た。

 

「それにしても……これほどの戦車を投入しておきながら、なぜ敵は退いたのだろうな」

 

オリヴィエも戦車を見つめた。

 

「……心当たりはあります。ただ、まだ確証がありません」

 

「ならば、詳しい報告を待とう」

 

三両の戦車は、何も答えなかった。

 

ただ、破壊された陣地の中に、巨大な車体をさらしていた。

 

* * *

 

同じ頃、ヴァルターたちの捜索は続いていた。

 

森林の中には、前日の戦闘の跡が生々しく残されていた。

 

折れた枝、踏み荒らされた下草、銃弾を受けた木の幹。

 

ところどころには血痕もあった。

 

ヴァルターたちはエレナから聞き取った経路をたどり、敵の後方へ進んでいった。

 

先行する班が周囲を警戒し、後続の班が地面の痕跡を調べる。

 

「ヴァルター、ここよ」

 

フリーダが立ち止まった。

 

「昨日、私たちがエレナと高橋を援護した場所は、この先になるわ」

 

「そうか。では、そこから逆にたどってみよう」

 

ゲルフが周囲を見渡した。

 

「敵も相当慌てて撤退したようだな。装備がいくつも落ちている」

 

実際、森の中には魔族の弾薬や装具が散乱していた。

 

しかし、敵兵の姿はなかった。

 

捜索は慎重に進められた。

 

やがて、先行していたローラ班から連絡が入った。

 

「ヴァルター! こちらへ来て!」

 

ヴァルターが駆けつけると、ローラが地面を指さした。

 

「エレナが話していた場所は、このあたりのはずよ」

 

そこには、激しい銃撃戦の痕跡が残っていた。

 

木々には弾痕があり、地面には血痕が点々と続いていた。

 

ヴァルターはしゃがみ込んだ。

 

「……ここでアルノーが撃たれたのか」

 

周囲を調べていた隊員が声を上げた。

 

「少佐! こちらに何かを引きずった跡があります!」

 

ヴァルターが近づいた。

 

地面には、何か重いものを引きずったような跡が残されていた。

 

その周囲には複数の足跡がある。

 

「人を引きずった跡だな」

 

ゲルフが言った。

 

「ああ。血痕もある」

 

さらに周囲を調べると、別の場所にも同じような痕跡が見つかった。

 

しかし、肝心の二人の姿はなかった。

 

「ミレーナもアルノーも……いないわね」

 

フリーダがつぶやいた。

 

ヴァルターは立ち上がった。

 

「敵が運んでいった可能性があるな」

 

「……食料として?」

 

「ああ。奴らは捕虜を取らん。遺体を食料として運ぶことはある」

 

フリーダは唇を噛んだ。

 

「……ひどい話ね」

 

ゲルフが静かに言った。

 

「だが、この跡が二人のものとは限らない。まだ何とも言えんぞ」

 

ヴァルターもうなずいた。

 

「そうだ。痕跡を追えるところまで追おう」

 

捜索隊は引きずった跡をたどった。

 

しかし、やがてその跡は、多数の足跡が重なる幅広い林道へ出たところで判別できなくなった。

 

そこには車両の轍も残されていた。

 

「ここから先は無理だな」

 

ゲルフが言った。

 

ヴァルターもうなずいた。

 

「そうだな。ひとまず場所を記録しておけ」

 

結局、ミレーナとアルノーは発見できなかった。

 

* * *

 

続いて、ヴァルターたちは敵の高級将校が狙撃された地点へ向かった。

 

エレナから聞いた位置と、地形を照合しながら進む。

 

やがて、騎馬の一団がいたと思われる場所に到着した。

 

地面には多数の馬の蹄跡が残されていた。

 

「ここか……」

 

ヴァルターは周囲を見渡した。

 

高橋が狙撃した場所は、ここから約三百メートル離れている。

 

「敵が将校の遺体を回収したなら、何か痕跡が残っているはずだ」

 

隊員たちは周囲に散った。

 

しばらくして、一人が声を上げた。

 

「少佐! こちらに軍帽があります!」

 

ヴァルターが駆け寄った。

 

落ち葉の間に、一つの軍帽が落ちていた。

 

普通の魔族兵が着用するものとは、明らかに違っていた。

 

上質な布地に、丁寧な仕立て。

 

縁には金糸の装飾が施され、正面には見慣れない徽章が付いている。

 

「……ほう」

 

ヴァルターは軍帽を拾い上げた。

 

内側には、乾いた血が付着していた。

 

「こいつは、ただの将校の帽子じゃなさそうだな」

 

フリーダが横からのぞき込んだ。

 

「ずいぶん立派ね。将官かしら?」

 

「可能性はあるな」

 

ゲルフが周囲を見渡した。

 

「高橋が撃った将校のものだと思うか?」

 

「場所は一致している。それに血も付いている。可能性は高いだろう」

 

ヴァルターは軍帽を裏返し、徽章を確かめた。

 

「しかし、俺には魔族の階級章の細かい違いまではわからん」

 

「司令部で調べてもらう?」

 

「ああ。敵の装備に詳しい者がいるかもしれん」

 

ヴァルターは軍帽を布で包み、部下に渡した。

 

「大切に持って帰れ。これが、昨日の戦闘を解く手がかりになるかもしれん」

 

「了解しました」

 

さらに周囲を捜索したが、将校の遺体は見つからなかった。

 

ただ、騎馬の一団がいた場所には、多数の魔族が慌ただしく動いたような足跡が残されていた。

 

ヴァルターは再び軍帽に目を向けた。

 

立派な装飾に、見慣れない徽章。

 

これほどの軍帽を着用する魔族が、ただの将校であるはずがなかった。

 

オリヴィエの言葉が頭をよぎった。

 

「……やはりグリモフか?」

 

ヴァルターは小さくつぶやいた。

 

「だとしたら、とんでもねえな……」

 

七年前、ベルノ旅団を壊滅に追い込んだ敵将。

 

その魔族を、あの若い二等兵が仕留めたというのか。

 

ヴァルターは軍帽を包んだ布を見つめた。

 

「……高橋の奴、とんでもないことをやってくれたぜ」

 

* * *

 

午後遅く、浸透偵察小隊は全班が帰還した。

 

ヴァルターは捜索結果をまとめると、軍帽を持って連隊司令部へ向かった。

 

「お嬢、戻りました」

 

オリヴィエが顔を上げた。

 

「どうだった?」

 

「ミレーナもアルノーも見つかりませんでした。二人が倒れたと思われる場所には、何者かを引きずって運んだ跡がありましたが、林道で見失いました」

 

オリヴィエの表情が曇った。

 

「……そう」

 

「それから、もう一つ」

 

ヴァルターは布に包んだ軍帽を机の上に置いた。

 

「敵の高級将校がいた場所で、これを発見しました」

 

オリヴィエは軍帽を手に取った。

 

「……立派な軍帽ね」

 

「ええ。普通の将校のものではなさそうです。内側には血も付いています」

 

「持ち主は?」

 

「わかりません。遺体も見つかりませんでした」

 

オリヴィエは軍帽の徽章を見つめた。

 

「軍団司令部なら、何かわかるかもしれないわね」

 

「私もそう思います」

 

オリヴィエは傍らのアウレリアに軍帽を渡した。

 

「捜索報告書と一緒に、師団司令部を通して第7軍団へ送ってちょうだい」

 

「承知しました。発見場所と状況も詳しく記録しておきます」

 

「お願い」

 

ヴァルターは、オリヴィエの表情を見た。

 

「お嬢、例の考えは変わっておりませんか?」

 

「ええ。グリモフだと思っているわ」

 

「そうですか……」

 

「でも、まだ証拠がないもの。軍団の調査結果を待ちましょう」

 

オリヴィエは机の上に広げられた戦況図に目を向けた。

 

第2中隊の陣地は、赤鉛筆で大きく書き直されていた。

 

救助活動は、二日目になっても終わっていない。

 

戦死者の確認も、まだ続いている。

 

「……ヴァルター」

 

「はい」

 

「エレナたちには、二人とも見つからなかったと伝えてちょうだい」

 

「承知しました」

 

「それと、明日も捜索を続けられるかしら?」

 

ヴァルターは少し考えた。

 

「同じ場所をもう一度調べることはできます。しかし、痕跡は林道で途切れています。そこから先は難しいでしょうな」

 

「そう……」

 

オリヴィエは小さく息を吐いた。

 

「せめて、帰してあげたかったわね」

 

ヴァルターは黙ってうなずいた。

 

机の上には、血の付着した軍帽が残されていた。

 

昨日まで、誰もその存在を知らなかった。

 

それが今、連隊長の机の上に置かれている。

 

しかし、どれほど重要な軍帽であろうと、それがミレーナとアルノーの代わりになるわけではなかった。

 

オリヴィエはアウレリアに向き直った。

 

「軍帽の発送はお願いね。それから、第2中隊の救助状況について、もう一度報告をまとめてちょうだい」

 

「承知しました、オリヴィエ様」

 

オリヴィエはうなずいた。

 

「……まだ、終わっていないもの」

 

指揮所の外では、負傷者を乗せた馬車が後方へ向かっていた。

 

その反対側からは、空の担架を担いだ兵士たちが、再び第2中隊の陣地へ向かっていく。

 

ベルノ連隊の戦闘は終わった。

 

だが、戦場に残された者たちの仕事は、まだ終わっていなかった。

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