第1節 葛藤
翌朝、高橋亘一は鐘の音で目を覚ました。
見慣れない天井に石造りの壁、整然と並んだ寝台。窓から差し込む朝の光は、日本の自分の部屋と変わらないはずなのに、目に映るものは何もかも違っていた。
昨日の出来事は夢ではなかった。
周囲では、同じ学校の生徒たちが起き始めている。寝ぼけた顔で身体を起こす者もいれば、すでに着替えを済ませている者もいた。どこかから小さなあくびが聞こえ、寝台の枠がきしむ音が続いた。
「おい、高橋。朝飯だってよ」
隣の寝台から声がした。
高橋は身体を起こした。昨夜はなかなか眠れなかった。日本にいる家族のことや、昨日聞いた話が何度も頭に浮かんできた。それでも、いつの間にか眠っていたらしい。
支給された服に着替え、ほかの生徒たちと一緒に食堂へ向かった。
食堂にはすでに大勢の生徒が集まっていた。昨日召喚された二百人の高校一年生たちだった。
配膳されたのはパンと温かいスープ、それに卵と野菜の料理だった。湯気の立つスープの匂いが広がり、食器の触れ合う音と日本語の話し声が、広い食堂を満たしていた。
「意外と普通だな」
近くの男子生徒が言った。
「もっと変なものが出ると思ってた」
「パンは硬いけどな」
そんな会話が聞こえてくる。
昨日の混乱に比べれば、食堂の雰囲気はずいぶん落ち着いていた。しかし、話題はどうしても昨日の出来事に戻ってしまう。
「本当に日本に帰れないのかな」
「向こうにはもう一人の自分がいるんだろ?」
「でも、こっちの俺たちはどうなるんだよ」
「軍隊に入るって話、本当なのかな」
高橋は黙ってスープを飲んだ。
味は悪くない。それでも、いつも家で食べていた朝食とはまったく違っていた。
食事を終える頃、石井軍曹が食堂に入ってきた。
「全員、食事が終わったら昨日の兵舎に集まってくれ。今日はこれからの生活について詳しく説明する」
石井はよく通る声で言った。
「昨日はいろいろありすぎたからな。今日は質問にも答える。聞きたいことがあれば遠慮なく聞いてくれ」
*
朝食後、二百人の召喚者は兵舎に集められた。
前には石井、木田、篠沢、高梨、リースたちが並んでいた。
石井が口を開いた。
「今日は帝国軍の軍隊生活について説明する。昨日も話した通り、お前たちは帝国の自由民として受け入れられることになる」
石井は黒板に数字を書いた。
十五年。
「帝国の軍務義務は原則十五年間だ」
生徒たちがざわついた。
「十五年も戦争するんですか?」
一人の男子生徒が質問した。
「十五年間、ずっと前線にいるわけじゃない。歩兵や砲兵のような戦闘部隊もあれば、補給、通信、整備、衛生などの後方部隊もある」
「じゃあ、戦争に行かなくてもいいんですか?」
「そういうわけじゃない」
石井は首を振った。
「新兵は原則として前線勤務を経験することになる。ただし、何年も続けて前線に置かれるわけじゃない」
「どのくらい行くんですか?」
「一度の派遣は、長くても八か月程度だ」
「八か月?」
「ああ。実際にはもっと短いこともある」
その説明に、何人かの生徒が少し安心したような表情を見せた。
「じゃあ、八か月我慢すれば帰ってこられるんですね?」
「無事ならな」
石井は答えた。
「ただし、八か月というのは上限の目安だ。必ず八か月で帰ってくるわけでもないし、短ければ安全だったというわけでもない」
「どういうことですか?」
「部隊が大きな損害を受ければ、途中で撤収することがある。ひどい時には、一か月で帰ってくることもある」
「一か月なら、その方がいいじゃないですか」
男子生徒の一人が言った。
石井はその生徒を見た。
「一か月で撤収するほどの損害って、どういうことかわかるか?」
男子生徒は黙った。
「戦死者や負傷者が大量に出て、部隊として戦闘を続けられなくなったということだ」
石井は静かに続けた。
「十人いた仲間が五人になって帰ってくる。そんなこともある。早く帰ってこられたから運がよかった、とは簡単に言えないんだ」
室内が静かになった。
「じゃあ、俺たちはいつ戦争に行くんですか?」
別の生徒が尋ねた。
「それはまだ決まっていない」
「決まってないんですか?」
「ああ。前線への派遣命令は中央政府の軍務省が出す。ベルノ伯爵にも事前にはわからない」
「伯爵って、ここの一番偉い人ですよね?」
「そうだ。この地方の領主で、俺たちの連隊長でもある。だが、前線派遣については軍務省の決定に従うことになる」
石井は黒板に『軍務省』と書いた。
「前線の状況や各部隊の損害、補充の必要性なんかを見て、中央で派遣先と時期を決める。俺たちの連隊がいつ、どこへ行くのかは、命令が来るまでわからない」
「じゃあ、来月いきなり戦場に行けって言われることもあるんですか?」
「可能性としてはあるが、普通は訓練を終えてからだ。何も知らない新兵を戦場に送っても、役に立たないからな」
「大体いつ頃になるんですか?」
石井は少し考えた。
「例年の感じだと、年が明けてからじゃないかと思う」
「来年ですか?」
「ああ。帝国歴232年になってからだろうな。ただし、これは俺の予想だ。正式な命令が来たわけじゃない」
「半年ぐらい訓練するってことですか?」
「そうなる可能性が高い。最初は帝国共通語を覚えることから始まるしな」
高梨が横から説明を始めた。
「最初の一か月は、みんな日本人だけで生活することになるわ。帝国共通語を覚えて、基本的な軍隊生活に慣れてもらうためね」
「一か月経ったら?」
「現地の新兵たちと合流するの。人間だけじゃなくて、エルフもいるわよ」
一人の男子生徒が手を上げた。
「昨日、エルフとかドワーフとか獣人がいるって聞いたんですけど、本当にいるんですか?」
木田が笑った。
「ああ、いるぞ。エルフは珍しくないな。ベルノはエルフが多い土地だから」
「じゃあ、ドワーフも?」
「ドワーフか……」
石井が少し考えた。
「俺の知る限り、ここの訓練事務所にいるおばちゃんだけだな」
「おばちゃん?」
「ああ。ドワーフの女の人だ。事務仕事をしてる。背は低いけど、なかなか元気なおばちゃんだぞ」
「本当に背が低いんですか?」
「人間よりずっと低い。見ればわかるさ」
「獣人は?」
「獣人は、この連隊に教官が一人いるぐらいかな。狼族だと言っていたな」
「狼?」
「そうだ。狼族。人間とは顔つきがかなり違うぞ」
「怖いんですか?」
「別に怖くはない。普通に話もする。もっとも、教官としては厳しいかもしれんがな」
木田が横から口を挟んだ。
「そもそも獣人も帝国の国民だからな。軍隊にいても何もおかしくない」
「じゃあ、いろんな種族が一緒に訓練するんですね?」
「そういうことだ。ただ、この辺りはエルフ以外の亜人は少ないな。ドワーフや獣人を大勢見られると思ってたら、期待外れかもしれんぞ」
生徒たちの間に小さな笑いが起こった。
「エルフって、あの黒髪の綺麗な女の人みたいな?」
木田が笑った。
「ああ、アウレリア大尉な。ただし、エルフが全員あんな美人だと思わない方がいいぞ」
「木田、お前、本人の前で言うなよ」
篠沢が横から言った。
再び笑いが起こった。
石井は話を続けた。
「八月からは現地新兵と一緒に訓練する予定だ。午前中は言語能力に合わせて別々の座学になるが、午後は合同訓練だ」
高梨が黒板に訓練内容を書き始めた。
射撃訓練、行軍訓練、塹壕構築、野外宿営、夜間行動、防毒訓練。
どれも、日本の学校では習うことのないものだった。
「朝は何時に起きるんですか?」
「基本的には五時ね」
「五時?」
「起床して点呼。その後、身体を動かして朝食。訓練が始まるわ」
「休みは?」
「訓練中にも休養日はあるけど、日本の学校みたいに毎週土日が休みというわけじゃないわね」
「携帯電話とかは?」
「使えないわ。そもそもここにはないから」
木田が笑いながら言った。
「ゲームもテレビもないぞ。娯楽なんてほとんどないからな」
男子生徒たちの間から不満そうな声が上がった。
高梨は構わず続けた。
「行軍では銃や装備を持って長い距離を歩くことになるわ。装備一式で二十キロを超えることもあるから、最初は相当きついと思う」
「女子もですか?」
「もちろん」
「無理ですよ、そんなの!」
「最初から全員できるとは思ってないわ。だから訓練するのよ」
高梨はあっさり答えた。
石井が補足した。
「戦場では男も女も関係ない。敵の砲弾は男女を区別してくれないからな」
その言葉に、何人かの女子生徒が黙り込んだ。
*
やがて、一人の女子生徒が手を上げた。
「あの、女の人も男の人と一緒に軍隊生活をするんですか?」
高梨が答えた。
「そうよ」
「訓練だけですか?」
「生活も一緒ね」
「生活って?」
「兵舎での生活よ」
女子生徒は少し考えた。
「それって、男女別の部屋ですよね?」
「いいえ。男女混合よ」
一瞬、室内が静かになった。
「……え?」
「だから、同じ兵舎で寝起きするの」
「男の人と女の人が?」
「そうよ」
「同じ部屋で?」
「そう」
高梨は平然と答えた。
「帝国軍では普通のことだけど?」
女子生徒たちが一斉に騒ぎ始めた。
「ちょっと待ってください!」
「男女同じ部屋って、どういうことですか?」
「仕切りはないんですか?」
「寝台は別々よ。でも、一人ずつ個室があるわけじゃないわ」
「着替えは?」
「同じ部屋でするわね」
「ええっ!」
驚きの声が上がった。
男子生徒たちも顔を見合わせている。
高梨は首をかしげた。
「そんなに驚くこと?」
「当たり前じゃないですか!」
女子生徒の一人が声を上げた。
「男の人がいるところで着替えるなんて!」
「別に誰も気にしなくなるわよ」
「気にします!」
高梨は困ったように笑った。
そこでリースが口を開いた。
「最初は私もそうだったわ」
リースは生徒たちを見渡した。
「私も日本から来た時は驚いたもの。石井軍曹と同じ分隊で生活しているけど、今じゃ何とも思わないわ」
「石井さんと同じ部屋で寝てるんですか?」
「そうよ。分隊の仲間だからね。ほとんど一緒に生活してるわ」
「恥ずかしくないんですか?」
「最初は恥ずかしかったわよ。でも、すぐ慣れるから」
リースは笑った。
「みんなも一か月もすれば平気になると思うわ」
しかし、生徒たちの表情は晴れなかった。
別の女子生徒が恐る恐る質問した。
「あの、お風呂はどうなるんですか?」
高梨が答えた。
「シャワー設備があるわ」
「男女別ですよね?」
「いいえ。共用よ」
再び室内が静まり返った。
「……共用?」
「そう。男女一緒に使うの」
「えええっ!」
今度は男子生徒たちからも大きな声が上がった。
「仕切りとかは?」
「ないわよ」
高梨は平然と答えた。
「軍の施設だからね。大勢の兵士が短時間で身体を洗えるようになってるの」
「絶対無理!」
「私も無理!」
「そんなのありえない!」
女子生徒たちの反発は激しかった。男子生徒たちも戸惑っている。
高橋も思わず顔を上げた。
同じ兵舎で暮らすだけでも想像がつかないのに、シャワーまで一緒だという。日本では考えられない生活だった。
「トイレは?」
別の生徒が尋ねた。
「トイレも共用よ。もちろん個室には扉があるけど、男女別に施設があるわけじゃないわ」
「そんな……」
「帝国軍では男女で施設を分けないの?」
水野が質問した。
高梨はうなずいた。
「基本的にはね。もちろん、医療施設など必要に応じて区分けする場所もあるけど、一般の兵舎では男女で分けないのが普通よ」
水野は困惑した表情を浮かべた。
「文化が違うとは思っていましたけど、そこまでとは……」
リースが笑った。
「水野先生、大丈夫ですよ。私も最初はすごく恥ずかしかったですから」
「本当に慣れるものなの?」
「慣れますよ。毎日一緒に生活していると、いちいち気にしていられませんから」
リースは石井の方を見た。
「ね、石井軍曹」
石井は苦笑した。
「俺に聞くなよ」
「だって、最初の頃の私を知ってるでしょ?」
「ああ。確かに大騒ぎしてたな」
「今じゃ平気ですけどね」
リースはあっけらかんと言った。
高梨が付け加えた。
「勘違いしないでね。男女混合だからって、何をしてもいいわけじゃないわ。嫌がる相手に無理なことをすれば、当然処罰される。そこは軍紀で厳しく決まっているから」
「でも、男と女がずっと一緒にいたら……」
男子生徒の一人が言いかけた。
木田が笑った。
「そりゃ、付き合う男女もいるさ」
「いいんですか?」
「軍務に支障がなければ、基本的には問題ない」
「じゃあ、結婚とかも?」
「いや、平民に結婚制度はないぞ。昨日説明しただろう」
「ああ、そうでしたね……」
リースが笑いながら口を挟んだ。
「それに、戦線にいる期間が長いと、帰還してから妊娠がわかる人も多いのよ。みんな、やることはやってるわ」
「リース、お前な……」
石井が苦笑した。
「本当のことじゃないですか」
リースは平然としていた。
女子生徒たちが顔を見合わせた。
高梨が話を戻した。
「とにかく、恋愛は自由でも軍隊だからね。任務に支障が出れば処罰されるから、その点は覚えておいて」
しかし、生徒たちの衝撃は簡単には収まらなかった。
男子も女子も同じ兵舎。同じ場所で着替え、同じシャワーを使う。しかも、一か月後には見ず知らずの現地新兵たちと一緒に生活することになる。
「……なんか、もう嫌になってきた」
女子生徒の一人が小さくつぶやいた。
高橋には、その気持ちがよくわかった。
*
昼食後も説明は続いた。
今度は軍隊の規則や、兵士に課せられる義務についてだった。
石井は黒板の前に立った。
「軍隊では命令が絶対だ。もちろん、違法な命令にまで従う必要はないが、正当な命令を拒否すれば処罰される」
「処罰って、どんな?」
「軽いものなら懲罰や拘禁だ。だが、戦場での命令拒否や脱走は重罪になる」
「逃げたらどうなるんですか?」
「帝国法で裁かれる。重い場合は死刑か国家奴隷だ」
生徒たちの顔色が変わった。
「死刑って……」
「戦場で仲間を見捨てて逃げれば、ほかの兵士まで死ぬことになる。だから厳しいんだ」
石井は淡々と説明した。
「お前たちも、いずれ前線に派遣される。その時には実際に敵と戦うことになる」
「人を殺すんですか?」
「敵を撃つことになる」
「俺たち、まだ高校一年生なんですよ!」
一人の男子生徒が声を上げた。
「そんなことできるわけないじゃないですか!」
「そうだな」
石井はうなずいた。
「俺も最初はそう思った」
「だったら!」
「だが、ここでは日本の高校生という身分は通用しない。帝国では、お前たちは成人として扱われる」
「そんなの勝手じゃないですか!」
石井はしばらく黙っていた。
「帝国が勝手に決めたことだと言うなら、その通りかもしれん。だが、帝国の人間も同じ年齢で軍務に就いている」
高梨が補足した。
「私たちだけが特別に戦争へ行かされるわけじゃないのよ」
それでも、生徒たちは納得できなかった。
昨日まで普通の高校生だった。授業を受け、部活動をして、家に帰れば家族がいる。そんな日常から、突然、銃を持って戦争をする世界に放り込まれたのだ。
しかも十五年間。
高橋は黒板に書かれた数字を見つめていた。
十五年。
日本にいれば三十歳を過ぎる頃まで軍隊にいることになる。そして、その前に戦場で死ぬかもしれない。
石井は一度の前線派遣は八か月程度だと言っていた。だが、それは八か月で軍務が終わるという意味ではない。
後方に戻り、部隊を再編し、また命令が下れば戦場へ向かう。
十五年の間に、何度繰り返すことになるのだろう。
考えれば考えるほど、気が重くなった。
その時、一人の男子生徒が手を上げた。
「あの、帝国から出ることはできないんですか?」
石井が顔を向けた。
「帝国から?」
「はい。別に帝国の国民にならなくても、ほかの国へ行けばいいんじゃないですか?」
何人かの生徒が顔を上げた。
「そうだよ。ほかの国へ行けば軍隊に入らなくて済むんじゃないの?」
「どこか戦争してない国とかないんですか?」
石井は少し考えた後、答えた。
「帝国から出ること自体は禁止されていないぞ」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、軍務に就いた後で勝手に出ていけば脱走になるがな」
「だったら!」
「どこへ行くつもりだ?」
男子生徒は言葉に詰まった。
「どこって……ほかの国とか」
「ほかの国か」
石井は少し笑った。
「残念ながら、この星には人類の国は帝国しかない」
「え?」
「昨日、この世界の地図を見ただろう。人類が住んでいるのは中央大陸の西側だ。そこを帝国が治めている」
「じゃあ、東側は?」
「魔族の領域だ」
「魔族の国ですか?」
「そうだな。魔族にも支配地域がある。だが、人間が行って歓迎してもらえるような場所じゃないぞ」
「じゃあ、別の大陸は?」
「南方大陸がある」
「そこに行けばいいんじゃないですか?」
石井は首を振った。
「ほぼ無人の土地だ。地球の南極大陸と考えていい」
「南極?」
「ああ。氷と雪に覆われた寒い大陸だ。まともに人間が生活できる場所じゃない」
何人かの生徒が顔を見合わせた。
「じゃあ、ほかには?」
「海だな」
「海?」
「そう。帝国を出て、船に乗って海の上で暮らすという手もあるな」
石井は真顔で答えた。
木田が横から笑った。
「船も食料も燃料も必要ですけどね」
「そういうことだ」
石井は生徒たちを見渡した。
「帝国の外へ出ることはできる。だが、この星で人間がまともに暮らせる場所は、基本的には帝国しかないんだ」
「魔族の領域なら、住める場所はあるんですよね?」
一人の男子生徒が尋ねた。
「あるだろうな」
「だったら、そこに逃げれば……」
「魔族のところへか?」
石井は少し呆れたような顔をした。
「止めはしないが、すぐ食われると思うぞ」
「食われる?」
「そうだ。魔族は俺たちと千年以上も戦争している相手だ。人間が一人で向こうへ行って、無事に生活できるとは思えんな」
「本当に食べるんですか?」
「そういう話もある。少なくとも、俺は試してみる気にはならんな」
木田がうなずいた。
「戦場でも魔族に捕まるくらいなら死んだ方がましだって言う兵士はいるからな」
「……そんなにひどいんですか?」
「敵だからな。向こうが俺たちをどう扱うかなんて、保証はどこにもない」
石井は黒板に簡単な地図を描いた。
中央大陸の西側に帝国、東側に魔族の領域。そして、海を隔てた南方大陸。
「こういうことだ。帝国から出る自由はある。だが、出た先に人間の国があるわけじゃない」
石井はチョークを置いた。
「少なくとも、俺は帝国から出ようとは思わん。ここには食べ物も住む場所もあるし、法律もある。軍務は厳しいが、それでも人間として生活できるからな」
誰も反論しなかった。
日本なら、嫌になれば別の街へ行くこともできる。外国へ移住するという選択もある。
だが、この世界では違う。
人類の暮らす土地そのものが、帝国の内側にしかない。
国境を越えることはできても、その先に逃げ込める社会はなかった。
高橋は黒板の地図を見つめた。
この星は地球と同じくらい大きいという。それなのに、自分たちが生きていける場所は、ほんの一部しかないのだ。
*
しばらくして、一人の男子生徒が手を上げた。
「あの、昨日、軍隊に入らない選択もあるって言ってましたよね?」
石井が顔を向けた。
「ああ」
「国家奴隷になるってやつですよね?」
「そうだ」
「国家奴隷になったら、戦争には行かなくていいんですよね?」
石井は少し表情を変えた。
「基本的にはそうだ」
その答えに、周囲の生徒たちが反応した。
「え、そうなの?」
「戦争に行かなくていいの?」
「だったら……」
小さな声があちこちから聞こえてきた。
男子生徒は続けた。
「国家奴隷って、働かされるだけなんですよね?」
「基本的には労働だ」
「だったら、そっちの方がよくないですか?」
石井は答えなかった。
「だって、戦争に行ったら死ぬかもしれないんですよね? 十五年間も軍隊にいなきゃいけないし、男も女も一緒に生活するんでしょう?」
男子生徒は周囲を見渡した。
「奴隷になれば、畑仕事とかするだけで済むんじゃないですか?」
何人かがうなずいた。
「私も、そっちの方がいいかもしれない……」
女子生徒の一人が言った。
「戦争で人を殺すなんて絶対嫌だし、男の人と一緒にお風呂に入るのも嫌だし……」
「俺もそう思う」
「農場で働くなら、命までは取られないんじゃないの?」
先ほどまで沈んでいた生徒たちの間に、別の期待が広がり始めた。
国家奴隷。
その言葉には嫌な響きがあった。しかし、戦場で死ぬよりはましではないか。農場で働くだけなら、何とかなるのではないか。
十五年間も軍隊にいるくらいなら、奴隷として暮らした方が安全なのではないか。
そんな考えが、少しずつ広がっていった。
水野が手を上げた。
「石井さん。国家奴隷というのは、具体的にはどういう生活をするんですか?」
石井は水野を見た。それから木田とリースに目を向けた。
「……そうだな。そこは詳しく説明しておこう」
*
石井は黒板に『国家奴隷』と書いた。
「まず、国家奴隷というのは、国家が所有して管理する人間だ。農場や鉱山、工場などで働かされる。個人が奴隷を売り買いする制度とは違う」
「でも、食事とかはもらえるんですよね?」
「もちろんだ。住む場所も与えられるし、病気になれば治療も受けられる」
「だったら……」
「ただし、自由はないぞ。住む場所も仕事も自分では決められない。一度国家奴隷になれば、原則として一生そのままだ」
「一生?」
「ああ。十五年働けば自由になれる、という制度じゃない」
石井は木田に顔を向けた。
「木田、農場の話をしてやれ」
木田が前に出た。
「俺と石井軍曹、それにリースは、以前、国家奴隷が働く農場を見学させられたことがあるんだ」
「見学ですか?」
「ああ。実際に働いているところを見た。意外かもしれんが、理由もなく殴ったり蹴ったりするようなことはなかったな」
リースがうなずいた。
「食事も与えられるし、医療施設もあったわ。私たちも最初は思っていたより普通だと感じたもの」
「じゃあ、そんなに悪くないんじゃ……」
「ただし、働けなくなったら処分される」
石井が言った。
「処分?」
「病気や怪我で回復する見込みがなくなり、労働力として使えなくなれば殺されるということだ」
室内が静かになった。
「それから、国家奴隷は自由民と区別するために、額に入れ墨をされる」
「額に?」
「ああ。俺たちが見た奴隷にも、みんな入れ墨があった。逃げてもすぐにわかるようになっている」
木田が腕を組んだ。
「あれは家畜だよ。人間を管理しているというより、家畜を飼育している感じだったな」
「家畜って……」
「日本の刑務所みたいに、罪を償わせて社会に戻すという考え方はないみたいだ。反省とか懺悔とか、そういうものも特になかった」
水野が尋ねた。
「それでは、犯罪者を更生させるという目的はないんですか?」
「少なくとも俺たちが見た限りでは、なかったですね」
石井が答えた。
「国家にとっては労働力なんです。罪を償って自由民に戻すという制度ではないようです」
木田が続けた。
「それと、男の国家奴隷は去勢される」
「え?」
男子生徒たちが顔を上げた。
「去勢って……?」
「外性器を切除されるんだ」
「本当ですか?」
「ああ。俺たちも農場の医療施設で、男性奴隷の裸を偶然見たことがある。処置そのものを見たわけじゃないが、実際に切除されていた」
石井もうなずいた。
「俺も見た。木田の言う通りだ」
男子生徒たちの顔色が変わった。
「そんなの……」
「冗談じゃない……」
水野が質問した。
「女性の場合はどうなるんですか?」
石井は答えた。
「女性は国家の管理下で妊娠と出産をさせられる。本人の意思とは関係なく、器具を使った人工的な方法で妊娠させられるそうです」
「子供を産まされるんですか?」
女子生徒の一人が聞き返した。
「そうだ。生まれた子供は国家育成院に引き取られる。子供は奴隷ではなく、自由民として育てられる」
「母親は?」
「奴隷のままだ」
「子供と一緒に暮らせないんですか?」
「基本的にはな」
女子生徒たちが黙り込んだ。
木田が口を開いた。
「だから俺は、人間生産牧場だと思ったんだ」
「人間生産牧場……」
「ああ。国家奴隷は労働力として使われ、女は子供も産まされる。生まれた子供は国家が引き取って自由民として育てる。奴隷本人は死ぬまで奴隷だ」
木田は肩をすくめた。
「家畜だから、日本の懲役刑みたいに罪を反省させる必要もないんだろうな」
水野が小さく首を振った。
「ひどい制度ですね……」
リースが静かに言った。
「私たちも農場を見学した後は、しばらく何も話せなかったわ」
そして、生徒たちを見渡した。
「戦場へ行かなくて済むからって、国家奴隷になれば安全に暮らせるというわけじゃないのよ」
その言葉が、兵舎の中に重く響いた。
*
しばらく沈黙が続いた。
やがて、先ほど国家奴隷の方がいいと言っていた男子生徒が口を開いた。
「……じゃあ、どうすればいいんですか?」
誰も答えなかった。
「戦争に行ったら死ぬかもしれない。軍隊に入らなかったら奴隷になる。そんなの、選べって言われても……」
声が震えていた。
「俺たち、何も悪いことしてないじゃないですか!」
石井は黙って聞いていた。
「勝手にこんな世界に来て、何で戦争しなきゃいけないんですか!」
「そうだよ!」
「日本に帰してよ!」
「こんなの嫌だ!」
あちこちから声が上がった。
女子生徒の中には泣き出す者もいた。
高梨が落ち着かせようとしたが、なかなか収まらなかった。
石井はしばらく待ってから口を開いた。
「お前たちの言っていることはわかる」
生徒たちが石井を見た。
「俺も最初はそう思った。何も知らない場所に突然現れて、軍隊に入れと言われたんだからな」
石井はゆっくりと続けた。
「だが、帝国が俺たちを意図的に召喚したわけじゃないことは、昨日説明した通りだ」
誰も反論しなかった。
「帝国は、突然現れた俺たちを自由民として受け入れようとしている。現地の人間と同じ権利を与え、同じ義務を負わせる。そういう考え方なんだ」
水野が尋ねた。
「でも、軍隊以外の道はないんですか?」
「大学に進学するなど、軍務を免除される制度はある。ただし、今のお前たちは帝国共通語さえ話せない。現実的には難しい」
「十五年間……」
水野は小さくつぶやいた。
石井はうなずいた。
「長いと思う。だが、十五年という期限はある。国家奴隷にはそれすらない」
木田が口を開いた。
「俺たちだって、お前たちに戦争へ行ってほしいわけじゃないさ。でも、国家奴隷になるのだけは勧めない」
リースも言った。
「私は軍隊に入ってよかったと思ってる。もちろん最初は大変だったけど、仲間もできたし、今は自分の生活があるから」
リースは少し笑った。
「男女混合の兵舎だって、慣れてしまえばどうってことないわよ」
しかし、今度は誰も笑わなかった。
先ほどまで大騒ぎしていた男女混合の生活が、急に小さな問題に思えてきた。
男も女も同じ部屋で寝る。同じ場所で着替える。同じシャワーを使う。それだけでも耐えられないと思っていた。
だが、国家奴隷になれば、自分の身体についてさえ決めることができなくなる。
額に入れ墨をされ、一生自由を奪われる。働けなくなれば処分される。
高橋はその違いを考えていた。
戦場へ行くことは怖い。人を撃つことも怖い。死ぬことはもっと怖い。
しかし、国家奴隷になるという選択は、もはや考えられなかった。
帝国から出ていくという選択肢もあった。だが、その先にあるのは氷に覆われた無人の大陸か、果てしない海か、魔族の支配する土地だけだった。
自由に出ていってもいいと言われても、行く場所がなかった。
周囲の生徒たちも同じだった。
誰もが、逃げ道を探していた。
だが、説明を聞けば聞くほど、その逃げ道は塞がれていった。
*
午後の説明が終わる頃には、兵舎の中はすっかり静かになっていた。
石井は黒板の前に立った。
「最後に一つだけ言っておく」
生徒たちが顔を上げた。
「俺たちは、お前たちに自由民として軍隊に入ることを勧める。国家奴隷になることだけは勧めない」
石井は全員を見渡した。
「ただし、決めるのはお前たち自身だ。俺たちが代わりに決めることはできない」
一人の女子生徒が小さな声で尋ねた。
「……本当に、ほかに方法はないんですか?」
石井は首を振った。
「今のところ、俺たちが知っている方法はない」
誰も何も言わなかった。
昨日まで、日本の高校で普通に生活していた。朝起きて学校へ行き、授業を受け、友人と話し、家に帰る。そんな当たり前の日常が、もう戻ってこない。
そして、これから自分たちは何かを選ばなければならない。
高橋は窓の外を見た。
夕方の光が兵舎の床に差し込んでいる。日本でも、そろそろ学校が終わる時間だろうか。
向こうにいるもう一人の自分は、今頃何をしているのだろう。
そんなことを考えた。
その時、入口の扉が開いた。
兵舎に入ってきたのは、長い黒髪を背中に流した、背の高いエルフの女性だった。
アウレリア・アル・エルディア大尉。
昨日、帝国の受け入れ方針を説明した女性だった。
その手には、大きな革製のカバンがあった。