勇者連隊戦記   作:バグスター

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帝国歴232年3月後半 イジューム戦線


第3節 撤収命令

戦死者の埋葬式を終えた翌日、ベルノ連隊司令部では連隊会議が開かれていた。

 

会議室には、各歩兵中隊の指揮官、砲兵中隊長、工兵中隊長のダリオ・ベル大尉、浸透偵察小隊長のヴァルター少佐らが集まっていた。

 

正面の席には連隊長のオリヴィエ大佐、その隣にはアウレリア大尉が座っている。

 

出席者の多くは、数日前の葬送式にも参列していた。

 

とりわけ第2歩兵中隊の損害は大きく、連隊全体に重苦しい空気が漂っていた。

 

オリヴィエは全員が席に着いたことを確認すると、口を開いた。

 

「みんな、集まってくれてありがとう。今日は軍団司令部から届いた命令について話すわ」

 

彼女は机の上の命令書を手に取った。

 

「ベルノ連隊に、現在の戦線からの撤収命令が出ました」

 

会議室に小さなどよめきが起こった。

 

「軍団は、今回の損害によって、我が連隊がこれ以上の戦闘任務を続けることは困難と判断したの。後任の部隊を派遣して、陣地を交代させるそうよ」

 

「では、ベルノへ帰還できるのですか?」

 

歩兵中隊長の一人が尋ねた。

 

「ええ。後任部隊への引き継ぎが終わり次第、ベルノへ帰還するわ」

 

オリヴィエは一同を見渡した。

 

「正直に言えば、私もこの状態で戦闘を続けるのは無理だと思っていたの。特に第2中隊は、もう中隊としての任務を与えられる状態ではないわ」

 

誰も異議を唱えなかった。

 

「ただし、撤収命令が出たからといって、すぐに帰れるわけじゃない。後任部隊に陣地を引き継ぐまでは、私たちがこの正面を守らなければならないの」

 

アウレリアが立ち上がり、机に広げられた地図を指した。

 

「撤収は、後任部隊の到着に合わせて段階的に実施します。軍団からの連絡では、交代開始は四月に入ってからになる見込みです」

 

アウレリアは各中隊長に目を向けた。

 

「まず、第2中隊の残存兵力を優先して後方へ下げます。第2中隊の担当正面については、後任部隊に優先して引き継いでもらうよう調整しています」

 

「それまでの警戒はどうしますか?」

 

「隣接する中隊の支援を受けながら、残存兵力で警戒を維持します。ただし、無理な配置は避けてください」

 

アウレリアは続けた。

 

「各中隊は、撤収開始までに残存する兵員、装備、弾薬の数量を再確認してください。また、後任部隊へ引き継ぐ陣地についても、配置図を更新していただきます」

 

「地雷原の位置も必要ですな」

 

工兵中隊長のダリオ・ベル大尉が口を挟んだ。

 

「はい。特に第2中隊正面に設置した対戦車地雷については、正確な引き継ぎが必要です」

 

「承知しました。工兵の方で確認しておきます」

 

ベル大尉がうなずいた。

 

オリヴィエは砲兵中隊長に顔を向けた。

 

「砲兵の撤収はどうかしら?」

 

「牽引車両に損害はありません。弾薬の整理と牽引準備が整えば、移動は可能です。ただし、八門すべてを一度に引き揚げるわけにはいきません」

 

「そうね。歩兵の陣地交代が終わるまでは、砲兵支援が必要になるもの」

 

「はい。後任部隊の砲兵が配置につくまで、必要な火力を維持します」

 

「お願いね。撤収するからといって、最後に魔族から一発食らうなんて御免だわ」

 

その言葉に、何人かの中隊長が小さく笑った。

 

張り詰めていた会議室の空気が、わずかに和らいだ。

 

オリヴィエは地図に目を戻した。

 

「それで、浸透偵察小隊だけど……」

 

ヴァルター少佐が顔を上げた。

 

「今回も、いつもの手順でよろしいですな?」

 

「ええ。お願いするわ」

 

ベルノ連隊の浸透偵察小隊は、戦線に到着するときは常に先遣部隊として行動していた。

 

本隊に先立って戦域に入り、地形や敵情を確認し、連隊が安全に展開できるよう準備する。

 

そして、撤収するときは最後まで戦場に残る。

 

本隊の移動が完了するまで敵情監視を継続し、最後の部隊が安全に離脱したことを確認してから引き揚げるのである。

 

「今回も、我々が最後まで残ります。後任部隊の偵察要員との引き継ぎも、こちらで手配しましょう」

 

ヴァルターが答えた。

 

「ありがとう。ただし、無理はしないでね。エレナの班も二人欠けているんだから」

 

「心得ております。敵陣への浸透は行いません。味方陣地周辺の監視に専念します」

 

「それでいいわ」

 

オリヴィエはうなずいた。

 

「各中隊とも、撤収準備を始めてちょうだい。正式な交代日程が決まり次第、改めて命令を出します」

 

各中隊長たちは命令の内容を確認し、それぞれの部隊で必要となる準備を報告した。

 

帰還に使用する輸送車両の手配、負傷者の移送、陣地設備の引き継ぎ、撤収時の警戒態勢。

 

戦線から一個連隊を引き揚げさせるには、数多くの調整が必要だった。

 

会議はしばらく続き、ようやく終了した。

 

各中隊長たちが席を立ち、それぞれの部隊へ戻っていく。

 

やがて会議室には、オリヴィエ、アウレリア、ヴァルターの三人だけが残った。

 

「ヴァルター、ちょっといいかしら」

 

帰り支度を始めていたヴァルターが振り返った。

 

「何ですかな、お嬢」

 

「軍団司令部から、もう一つ連絡が来ているの」

 

オリヴィエは机の上から別の書類を取り上げた。

 

「エレナの班を、軍団司令部に出頭させてほしいそうよ」

 

ヴァルターの眉がわずかに動いた。

 

「……例の狙撃の件ですな」

 

「ええ。敵の高級将校を狙撃したときの状況について、直接話を聞きたいそうよ」

 

「なるほど」

 

ヴァルターは腕を組んだ。

 

「軍団の情報部あたりが、何かつかんだのでしょうな」

 

「かもしれないわね。詳しい理由は書かれていないけれど、ライゼン大将からの要請よ」

 

「大将閣下が直々に、ですか」

 

「ええ。ただし、急ぐ必要はないそうよ。連隊の撤収を優先して、落ち着いてから来てくれればいいって」

 

ヴァルターは小さくうなずいた。

 

「それなら、こちらとしてもありがたい話ですな」

 

オリヴィエは書類を置いた。

 

「安心して。私も一緒に軍団司令部へ行くわ。一応、エレナたちにも確認してね」

 

ヴァルターは口元を緩めた。

 

「プロパガンダの駒にされたいか、ですな。まあ、聞くまでもないと思いますがね」

 

オリヴィエは苦笑した。

 

「そうでしょうね」

 

「エレナも高橋も、そういうことを喜ぶ連中ではありませんからな」

 

「わかってるわ。でも、軍団司令部が何を考えているのか、私にもまだわからないのよ」

 

オリヴィエは椅子の背にもたれた。

 

「もし本当に戦果の確認だけなら、それでいいわ。だけど、あの子たちを英雄に仕立て上げて、宣伝に使おうとしているなら話は別よ」

 

「軍としては、格好の材料でしょうな。魔族の高級将校を狙撃した勇者連隊の兵士。しかも、召喚者の狙撃手とくれば……」

 

「そうなのよねえ」

 

オリヴィエはため息をついた。

 

「勇者連隊なんて名前だから、余計に面倒なのよ」

 

ヴァルターは小さく笑った。

 

「それにしても、お嬢が一緒に行くとなれば、軍団司令部もそう無茶なことは言えますまい」

 

「そのつもりよ」

 

オリヴィエはきっぱりと答えた。

 

「そもそも、エレナの班は四人で任務に出たのよ。帰ってきたのは二人だけ。そんな子たちに、勝利の英雄として笑顔で振る舞えなんて、私は言いたくないわ」

 

ヴァルターの表情から笑みが消えた。

 

「……そうですな」

 

「だから、本人たちの気持ちは確認しておいて。軍団司令部への報告は軍務だけど、それ以上のことを引き受ける必要はないわ」

 

「承知しました」

 

ヴァルターは立ち上がった。

 

「エレナには、俺から話しておきます」

 

「お願いね」

 

ヴァルターは一礼すると、会議室を出ていった。

 

残されたオリヴィエは、机の上の軍団司令部からの連絡書をもう一度眺めた。

 

敵の高級将校を狙撃した、ベルノ連隊の浸透偵察班。

 

軍団司令部が何を知り、何を確かめようとしているのか。

 

その詳細は、まだオリヴィエにも伝えられていなかった。

 

* * *

 

ベルノ連隊に撤収命令が出たという話は、ほどなく各部隊の兵士たちにも広まった。

 

第2歩兵中隊の後方予備陣地。

 

石井軍曹のG12機銃分隊でも、撤収の話題が持ち上がっていた。

 

機銃の整備を終えた石井は、弾薬箱に腰を下ろしていた。

 

その周りには、ロイ、サク、リースの三人がいた。

 

「今回は二か月か。早かったわね」

 

リースがつぶやいた。

 

ベルノ連隊がイジューム戦線に到着したのは、二月の初めだった。

 

当初はもっと長い期間、この戦線を守るものと思っていた。

 

「あれだけの損害だからな」

 

石井が答えた。

 

「特に第2中隊は、もう中隊として機能してない。ほかの中隊だって、かなりやられてるんだ。これ以上戦わせるわけにはいかんだろう」

 

「ああ、あのまま敵が攻めてきたら、俺たちは誰一人帰れなかったかもな」

 

ロイが言った。

 

誰も否定しなかった。

 

あの戦闘では、魔族軍の戦車が第2中隊の陣地を突破し、後方にまで敵の歩兵が侵入していた。

 

石井たちの機銃陣地も、決して安全な場所ではなかった。

 

敵が撤退せず、そのまま攻撃を続けていたらどうなっていたか。

 

考えたくもないことだった。

 

「第二中隊の陣地、ひどかったっすね。ショックっす」

 

サクが口を開いた。

 

「あんなに死んでるとは思わなかったっすよ。塹壕も掩体壕もめちゃくちゃで……」

 

「そうだな」

 

石井は短く答えた。

 

戦闘が終わってから、石井も第2中隊の陣地を見ていた。

 

砲弾で崩れた塹壕。

 

戦車の履帯に踏み荒らされた陣地。

 

そして、収容を待つ兵士たちの遺体。

 

あの光景は、簡単に忘れられるものではなかった。

 

「そういえば」

 

リースが顔を上げた。

 

「あのリュージュっていうエルフも第2中隊でしょう? 無事だったの?」

 

「ああ、リュージュなら、あの戦いの前に負傷離脱したっすよ」

 

サクが答えた。

 

「砲撃で重傷を負って、後方の病院に運ばれたっす」

 

「そうだったの……」

 

リースは少し考え込んだ。

 

「それじゃ、今回の戦闘には巻き込まれなかったのね」

 

「そうっすね。ただ、怪我がひどかったみたいっすから、その後どうなったかは知らないっす」

 

「無事に回復してくれるといいわね」

 

「ああ、そうだな」

 

石井がうなずいた。

 

「それにしても、第2中隊は災難続きだな……」

 

「そうっすね……」

 

しばらく沈黙が続いた。

 

遠くでは、工兵たちが陣地の補修を続けていた。

 

撤収命令が出たとはいえ、まだ後任の部隊が到着したわけではない。

 

いつまた魔族軍が攻撃してくるかわからない以上、警戒を怠ることはできなかった。

 

「軍曹」

 

ロイが口を開いた。

 

「ベルノに帰ったら、しばらく休めるんですかね?」

 

「さあな。帰ってみなきゃわからん」

 

石井は肩をすくめた。

 

「だが、連隊は再編成になるだろうな。補充兵も必要だし、装備の補充もある。元どおりになるまで、かなり時間がかかると思うぞ」

 

「そうっすよね……」

 

サクは機銃の方に目を向けた。

 

「また新しい連中が来るんすね」

 

「ああ」

 

石井は短く答えた。

 

第3中隊にいたころ、同じ陣地で戦っていた三上鈴音のことを思い出した。

 

そして今回も、多くの若い兵士たちが命を落とした。

 

彼らが抜けた穴を埋めるように、また新しい兵士が補充される。

 

戦争が続く限り、それは繰り返されるのだろう。

 

「……とにかく、今は生きて帰ることだ」

 

石井は立ち上がった。

 

「まだ撤収が終わったわけじゃない。最後まで気を抜くなよ」

 

「了解」

 

「はい」

 

「了解っす!」

 

三人がそれぞれ答えた。

 

石井は機銃の方へ歩いていった。

 

ベルノへ帰れる。

 

その知らせは、兵士たちにとって何よりもうれしいものだった。

 

しかし、今回の遠征では、帰還を喜ぶことのできない仲間があまりにも多かった。

 

* * *

 

別の歩兵陣地では、井上翔太が小銃の手入れをしていた。

 

今回の戦闘が終わってからも、前線の警戒は続いている。

 

魔族軍が再び攻撃してこないという保証は、どこにもなかった。

 

そこへ、同じ第20期召喚者の川崎晴斗がやってきた。

 

「おい、井上。聞いたか? 撤収命令だってよ」

 

井上は顔を上げた。

 

「撤収?」

 

「ああ。軍団から命令が出たらしい。俺たち、ベルノに帰れるんだってさ」

 

「……ベルノに帰れるのか」

 

井上は手にしていた銃の部品を置いた。

 

「……俺たち、生き残ったんだな」

 

「おいおい、まだ帰ってないぞ」

 

川崎は苦笑した。

 

「実際の撤収は四月になるみたいだ。それまで死なないようにしないとな」

 

「……そうだな」

 

井上も小さく笑った。

 

ベルノを出発するとき、井上は初めての実戦に、多少の期待を抱いていた。

 

軍事オタクだった彼にとって、実際の軍隊で兵器を扱い、戦場へ向かうことには、どこか特別なものがあった。

 

だが、現実の戦場は想像していたものとはまるで違っていた。

 

敵の砲弾が飛んでくる恐怖。

 

いつ攻撃されるかわからない緊張。

 

そして、次々と伝わってくる戦死者の知らせ。

 

第2中隊が壊滅したと聞いたときには、背筋が寒くなった。

 

自分たちの陣地が攻撃されていたら、同じことになっていたかもしれないのだ。

 

かつてG13の講習を受けたとき、井上は魔族の戦車を相手にすることの恐ろしさを思い知らされた。

 

そして今回、その戦車によって第2中隊が壊滅した。

 

訓練で抱いた恐怖が、現実のものになったのである。

 

「なあ、川崎」

 

「何だ?」

 

「俺、ベルノに帰ったら、とりあえず何日か寝ていたいよ」

 

「ははっ、お前らしくないな。新しい兵器を見たいとか言うと思ったぞ」

 

「もう十分見たよ。しばらくは勘弁してほしい」

 

「そうか」

 

川崎は笑ったが、すぐに真顔に戻った。

 

「まあ、俺も同じだ。温かい飯を食って、風呂に入って、まともなベッドで寝たいな」

 

「まったくだ」

 

二人は顔を見合わせて笑った。

 

自分たちは生き残った。

 

だが、同期の仲間が大勢死んだ。

 

第2中隊の連中だって、まさか自分たちがあんな目に遭うとは思っていなかっただろう。

 

「……四月か」

 

井上はつぶやいた。

 

「ああ、もう少しだ」

 

川崎は立ち上がった。

 

「それまで頑張ろうぜ。二人とも生きて帰ろう」

 

「そうだな。絶対に帰ろう」

 

井上は再び小銃を手に取った。

 

撤収命令が出たからといって、戦争が終わったわけではない。

 

後任部隊が到着し、陣地を引き渡すまでは、彼らも前線の兵士だった。

 

それでも、ベルノへ帰れるという知らせは、二人にとって久しぶりの明るい話題だった。

 

* * *

 

その日の夕方。

 

浸透偵察小隊の宿営地では、撤収に備えた装備の点検が始まっていた。

 

森の中に設けられた天幕の一つでは、エレナと高橋が荷物の整理をしていた。

 

かつて四人で使っていた天幕には、今は二人しかいない。

 

ミレーナとアルノーの寝床は片づけられ、そこには二人の荷物も残っていなかった。

 

「亘一、その弾薬箱はまだ片づけなくていいわ。撤収まで何があるかわからないから」

 

「はい、わかりました」

 

高橋が箱を元の場所に戻したとき、天幕の外から声がした。

 

「エレナ、いるか?」

 

ヴァルター少佐だった。

 

「いるわよ。入って」

 

ヴァルターが天幕に入ってきた。

 

「二人とも、撤収の話は聞いているな?」

 

「ええ。四月にはベルノへ帰れるんでしょう?」

 

「ああ。後任部隊が到着すれば、順次交代していくことになる。我々は今回も最後だがな」

 

「いつものことね」

 

エレナは肩をすくめた。

 

「それで、何か用事?」

 

「ああ。お前たち二人に、軍団司令部から出頭要請が来ている」

 

「軍団司令部?」

 

エレナが手を止めた。

 

高橋も顔を上げた。

 

「私たちに?」

 

「そうだ。エレナ班に直接話を聞きたいそうだ」

 

「何の話?」

 

「例の狙撃だよ。敵の高級将校を撃ったときの状況を確認したいらしい」

 

エレナは高橋を見た。

 

「……あのときのことね」

 

「はい」

 

高橋は短く答えた。

 

あの戦闘で、高橋は三百メートル先にいた魔族軍の高級将校らしい人物を狙撃した。

 

その直後、敵軍の動きが急変し、やがて撤退が始まった。

 

だが、撃った相手が何者だったのか、正確なことはまだ知らなかった。

 

「それで、いつ行けばいいの?」

 

エレナが尋ねた。

 

「急がなくていいそうだ。ライゼン大将からの要請だが、連隊の撤収を優先して構わないとのことだ」

 

「大将閣下が?」

 

「ああ。直接話を聞きたいらしい」

 

ヴァルターは二人の顔を見比べた。

 

「それから、オリヴィエ大佐も一緒に軍団司令部へ行くそうだ。お前たちだけで行かせるつもりはないとおっしゃっていた」

 

「オリヴィエ大佐が?」

 

エレナは少し不思議そうな顔をした。

 

「何か心配しているのかしら?」

 

「まあ、いろいろとな」

 

ヴァルターは苦笑した。

 

「軍団が何を考えているか、まだわからんからな。単なる戦闘報告ならいいが、場合によってはお前たちを英雄として宣伝に使いたがるかもしれん」

 

「……冗談じゃないわ」

 

エレナは即座に答えた。

 

「そんなこと、お断りよ」

 

「だろうな」

 

ヴァルターは笑った。

 

「オリヴィエ大佐も、お前ならそう言うだろうとお考えだ」

 

エレナは不機嫌そうに腕を組んだ。

 

「私たちは四人で任務に出たのよ。帰ってきたのは二人だけ。それなのに英雄だなんて、笑わせないでほしいわ」

 

「……そうだな」

 

ヴァルターの表情が少し曇った。

 

「まあ、今のところ宣伝に使うという話が来ているわけじゃない。軍団司令部への出頭は正式な命令だ。そこは応じてもらう」

 

「それはわかってるわ」

 

「ただし、それ以上のことを頼まれた場合は、本人たちの意向を確認してほしいと、オリヴィエ大佐から言われている」

 

ヴァルターは高橋に顔を向けた。

 

「高橋、お前はどうだ?」

 

「自分も、そういうのは遠慮したいです」

 

「そうか」

 

「ただ、狙撃について聞かれるなら、ちゃんと報告します」

 

「うむ。それでいい」

 

ヴァルターは満足そうにうなずいた。

 

「高級将校を狙撃したとなれば、軍団としても詳しく調べたいだろう。お前が何を見て、どこを狙って撃ったのか。そのへんは正確に報告してくれ」

 

「はい」

 

「それに、敵があれほど急に撤退した理由も、まだはっきりしていないからな」

 

エレナが口を挟んだ。

 

「そういえば、あの魔族、結局何者だったのかしら?」

 

ヴァルターは少し考えてから答えた。

 

「まだ確定したわけじゃないがな。グリモフだった可能性がある」

 

「……グリモフ?」

 

エレナの表情が変わった。

 

高橋は二人を交互に見た。

 

「誰なんですか、そのグリモフって?」

 

「七年前、ベルノ旅団を壊滅させた魔族軍の指揮官だ」

 

ヴァルターは静かに答えた。

 

「帝国歴225年の戦いだ。魔族軍に防衛線を突破され、ベルノ旅団は敵中に取り残された。三昼夜かけて脱出を試みたが、ほとんどの兵士が帰ってこなかった」

 

「……そんなことが」

 

「俺もあの戦いでは、多くの仲間を失った」

 

ヴァルターは腕を組んだ。

 

「グリモフは、帝国軍にとっても因縁の深い敵将だ。もし本当にお前が撃った相手がグリモフなら、とんでもない戦果だぞ、高橋」

 

「……自分が、ですか?」

 

「ああ。もっとも、まだ確認が取れたわけじゃないがな」

 

エレナが口を開いた。

 

「私、あの頃はまだ新兵だったのよね。あの戦闘には参加していなかったけど、そのあとのことはよく覚えているわ」

 

「そうだったな」

 

「人が足りなくて、装備も足りなくて……。部隊を立て直すのに、ずいぶん苦労したわよね」

 

「ああ。何もかも足りなかった」

 

ヴァルターは苦笑した。

 

「浸透偵察小隊が作られたのも、あの戦いのあとだったな」

 

「ええ。最初は何をする部隊なのか、よくわからなかったわ」

 

「ははっ、そうだったな」

 

ヴァルターは少し笑った。

 

「今回は浸透偵察小隊のおかげで、司令部が敵の動きを把握できた。前方に潜伏した班から報告が入り、敵の戦車や歩兵の動きをつかめたんだ」

 

ヴァルターは高橋にも目を向けた。

 

「七年前は違った。敵に突破され、何が起きているのかもわからないまま、次々と部隊が孤立した」

 

その声には、苦いものが混じっていた。

 

「今回は俺たち自身の目で敵を見て、司令部に知らせることができた。自前で目を持つ意味を、今回ほど痛感させられたことはなかったぜ」

 

エレナは静かにうなずいた。

 

「……そうね」

 

「もちろん、それでも第2中隊は壊滅した。こちらも二人を失っている。偵察ができれば何もかもうまくいく、なんて話じゃない」

 

ヴァルターはそこで言葉を切った。

 

「だが、何も見えずにやられるのと、敵の動きを知ったうえで戦うのとでは、まるで違う」

 

「ええ。それは私も感じたわ」

 

エレナは高橋を見た。

 

「あのとき亘一が敵将を見つけなかったら、どうなっていたかわからないものね」

 

「……はい」

 

高橋は小さくうなずいた。

 

「まさか、あんなところに敵の偉い人がいるとは思いませんでした」

 

「俺だって驚いているさ」

 

ヴァルターは笑った。

 

「七年前にベルノ旅団を壊滅させたグリモフが、今度はベルノ連隊の狙撃手に撃たれたかもしれんのだからな。皮肉な話だ」

 

エレナは少し考え込んだ。

 

「でも、グリモフが死んだからって、戦争が終わるわけじゃないのよね」

 

「ああ。残念ながらな」

 

ヴァルターはうなずいた。

 

「だからこそ、今は無事にベルノへ帰ることを考えよう。軍団司令部への出頭は、そのあとだ」

 

「わかったわ」

 

「高橋、お前もいいな?」

 

「はい」

 

ヴァルターは立ち上がりかけたが、もう一度エレナに顔を向けた。

 

「それと、エレナ。しばらくは二人ともフリーダ班に入ってくれ」

 

「フリーダのところね。わかったわ」

 

「二人だけでは、これまでどおりの任務は難しいからな。撤収までの間は、フリーダの指揮下で行動してもらう」

 

「了解」

 

エレナは素直にうなずいた。

 

フリーダは小隊の中でも経験豊富な班長だった。

 

エレナとも長い付き合いであり、気心の知れた仲だった。

 

「高橋、お前もいいな?」

 

「はい、了解しました」

 

「よし。明日からフリーダ班に合流してくれ。撤収まで気を抜くなよ」

 

ヴァルターは二人に軽く手を上げ、天幕を出ていった。

 

* * *

 

ヴァルターが去ったあと、高橋は途中になっていた荷物の整理を再開した。

 

エレナはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

 

「ねえ、亘一」

 

「はい」

 

「グリモフって、本当にあなたが撃ったあの魔族なのかしらね」

 

「どうでしょう……」

 

高橋は少し考えた。

 

「正直、あのときは階級なんて考えていませんでした。エレナさんに指示されて、狙って撃っただけです」

 

「そうよね」

 

エレナは小さく笑った。

 

「私だって、あんなところにグリモフがいるなんて思わなかったもの」

 

そして、二人分だけになった天幕の中を見回した。

 

「……四人とも無事に帰ってこられたら、よかったんだけどね」

 

高橋は手を止めた。

 

「……はい」

 

しばらく、二人とも何も言わなかった。

 

やがてエレナが、いつもの調子で声をかけた。

 

「さあ、亘一。片づけを続けましょう。明日からフリーダのところに行かなきゃならないんだから」

 

「はい、エレナさん」

 

高橋は再び荷物に手を伸ばした。

 

軍団司令部からの出頭要請。

 

敵将グリモフの名前。

 

そして、フリーダ班への一時的な編入。

 

戦闘が終わってからも、身の回りではさまざまなことが変わり続けていた。

 

しかし、今の二人にとって、何よりも大切なことは一つだけだった。

 

無事にベルノへ帰ること。

 

そのためには、まだしばらく、この戦場に残らなければならなかった。

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