イジューム戦線では、ベルノ連隊の撤収が進められていた。
後任として派遣されたのは、第7軍団に所属する中央軍第30歩兵師団の一個連隊だった。
新たに到着した部隊は、ベルノ連隊が守っていた陣地を順次引き継いでいた。
撤収は、歩兵中隊、補給中隊、工兵中隊、砲兵中隊、そして最後に浸透偵察小隊という順序で行われることになっていた。
すでに歩兵中隊、補給中隊、工兵中隊までの帰還は完了していた。
残るのは、砲兵中隊と浸透偵察小隊、そして撤収支援のために残された一部の補給部隊だけだった。
砲兵中隊は後任部隊への火力支援任務の引き継ぎを進めており、浸透偵察小隊は最後まで前線周辺の警戒を続けていた。
ベルノ連隊にとって、戦線に到着したときも、戦線を離れるときも、浸透偵察小隊が最初と最後を受け持つのはいつものことだった。
* * *
その日、フリーダ班は緩衝地帯の哨戒任務についていた。
班には、ミレーナとアルノーが行方不明となったエレナ班の二人、エレナと高橋も加わっていた。
四月に入り、戦場にも春の気配が感じられるようになっていた。
日当たりのよい場所では雪が解け、地面が露出している。一方、森林の奥や日陰にはまだ残雪があり、雪解け水でぬかるんだ場所も多かった。
木々の枝には小さな芽が見られるようになっていたが、森の中を吹き抜ける風はまだ冷たい。
哨戒隊は、木々の間を慎重に進んでいた。
後任部隊との交代が進んでいるとはいえ、魔族軍が完全に撤退したわけではない。
敵の偵察兵が緩衝地帯に入り込んでいる可能性は十分にあった。
先頭を進むフリーダは、時折立ち止まって周囲を確認しながら、部下たちを先導していた。
エレナと高橋も、その後方で警戒を続けていた。
高橋は歩きながら、木々の間や地面の起伏に目を配っていた。
敵の姿を直接探すだけではない。
不自然な影。
周囲と違う色合い。
本来そこにはないはずの形。
これまでの訓練と実戦で、そうしたわずかな違和感を見つけることが、高橋の得意とするところになっていた。
そのときだった。
高橋が突然、異常を知らせる合図を出した。
フリーダ班の全員が足を止め、その場にしゃがみ込んだ。
誰も声を出さなかった。
風が枝を揺らし、どこかで雪解け水の流れる音が聞こえている。
フリーダが振り返り、高橋に視線を向ける。
高橋は小さな声で言った。
「あそこ、何かおかしくないですか?」
「どこ?」
隣にいたエレナが尋ねた。
高橋は、前方の木々の間を指さした。
「あの倒木の向こうです。木の根元のあたり……」
エレナは目を凝らした。
距離があるうえに、木の幹や枝が重なっていて、何があるのかよくわからない。
フリーダが双眼鏡を取り出した。
「ちょっと見せて」
高橋が指した方向に双眼鏡を向ける。
しばらく観察していたフリーダが、小さくうなずいた。
「……なるほどね」
双眼鏡を少し動かし、さらに周囲を確認する。
「敵の偵察兵ね。隠れてるわ」
その言葉に、班員たちの表情が引き締まった。
フリーダは双眼鏡をエレナに渡した。
エレナも同じ場所を確認した。
倒木の向こう側、低い茂みと木の幹の陰に、わずかに動くものがあった。
周囲の地形を利用して、姿を隠している。
「……本当ね」
エレナはしばらく観察を続けた。
「こちらには気がついてないみたい。二体ね」
フリーダは高橋に顔を向けた。
「よく見つけたわね。私も気づかなかった」
「何となく、あそこだけ変に見えたんです」
高橋は小声で答えた。
フリーダは改めて敵のいる方向を見た。
距離はかなりある。
相手は身を隠しており、簡単な標的ではなかった。
だが、高橋の狙撃能力については、フリーダもよく知っていた。
「けっこう距離あるけど、いける?」
エレナは目測で距離を確認した。
「おおよそ三百メートルね」
そして高橋を見た。
「亘一、狙える?」
高橋は敵のいる方向をもう一度確認した。
「はい。狙えます」
エレナはうなずいた。
「排除しましょう」
フリーダも同意した。
「わかったわ。周囲にほかの敵がいないか確認して。高橋は射撃準備」
班員たちは周囲を警戒し、高橋は射撃位置を探した。
少し横に移動すると、倒木の陰にいる敵を見通せる場所があった。
高橋はそこに伏せ、銃を構えた。
エレナも隣に伏せ、双眼鏡を覗いた。
「右側の一体が少し動いているわ。左側は木の根元ね」
「見えています」
高橋は銃床を肩に押し当て、照準器を覗いた。
敵は二体とも、こちらに気づいていない。
一体は倒木の陰から前方を観察しており、もう一体は木の根元に身を寄せていた。
高橋は呼吸を整えた。
照準を合わせる。
引き金に指をかけた。
「撃てます」
エレナは双眼鏡を覗いたまま答えた。
「撃って」
銃声が森に響いた。
一体目の魔族が、倒木の陰に崩れ落ちた。
「命中」
エレナが短く告げた。
もう一体の魔族が驚いたように身を起こした。
高橋は素早く次弾を装填し、照準を合わせ直した。
二発目の銃声が響く。
魔族はその場に倒れた。
エレナはしばらく双眼鏡で確認を続けた。
「……二体とも動かないわ」
フリーダも双眼鏡を覗いた。
「二体撃破ね。見事なものだわ」
高橋は銃を下ろした。
「ありがとうございます」
「でも、銃声でこちらの位置を知られた可能性があるわ。移動しましょう」
フリーダの指示で、班員たちは素早くその場を離れた。
敵の倒れた場所へ接近することはしなかった。
今回の任務は敵陣への攻撃ではなく、緩衝地帯の哨戒である。
無理に戦果を確認する必要はなかった。
フリーダ班は経路を変更し、周囲への警戒を強めながら哨戒を続けた。
その後、新たな敵との接触はなかった。
* * *
その日の夕方。
フリーダ班は哨戒任務を終え、浸透偵察小隊の宿営地へ戻ってきた。
森林の中に設けられた天幕の周囲では、ほかの班の兵士たちが装備の整備や撤収準備を進めていた。
ベルノへの帰還が近づいているとはいえ、小隊にはまだ前線の警戒任務が残っている。
フリーダは班員たちに声をかけた。
「みんな、お疲れさま。私はヴァルター少佐に報告してくるわ」
そう言うと、小隊本部の天幕へ向かって歩いていった。
イルマが空の容器を手に取った。
「お湯、もらってくる」
そして高橋に顔を向けた。
「高橋、手伝う」
「あ、はい。行きます」
高橋も容器を手に取り、イルマとともに補給所へ向かった。
残されたエレナ、リーナ、ゾフィーの三人は、フリーダ班の天幕へ入った。
「はあ、疲れた」
リーナが腰を下ろした。
四月に入ったとはいえ、森林の中にはまだ雪が残っている。雪解けでぬかるんだ場所も多く、歩くのにも余計な体力を使った。
リーナは靴についた泥を落としながら、エレナに顔を向けた。
「それにしても、高橋がいると楽よね。あんなの、よく見つけたわ」
「そうね。私も最初は何を指しているのかわからなかったもの」
エレナが答えた。
「しかも二体撃破でしょ。射撃、本当に上手いよね」
ゾフィーが感心したように言った。
「三百メートルも離れていたのに、二体とも仕留めちゃうんだから。あれはすごいわ」
「亘一は、もともと射撃が得意だったからね」
エレナはそう言って、装備を脇に置いた。
「でもね、最近ちょっと気になることがあるのよ」
「何?」
リーナが尋ねた。
「この前の戦いから、任務中の集中力がすごくなってるの」
「いいことじゃない?」
「そうなんだけど……」
エレナは少し考え込んだ。
「以前から観察眼はよかったわ。でも、最近は周囲を見ているときの集中の仕方が違うのよ。何というか、ずっと気を張り詰めている感じがするの」
「そうなの?」
「ええ。今日だって、誰よりも早く異変を見つけたでしょう?」
「確かにね」
リーナがうなずいた。
「でも、あれだけの戦いを経験したんだもの。警戒心が強くなるのも当然じゃない?」
「それはそうなんだけどね」
エレナは小さくため息をついた。
「ちょっと心配なのよ。あれだけ集中していると、どこかで反動が来そうで」
ゾフィーは少し表情を曇らせた。
「……ミレーナとアルノーのこともあるしね」
「ええ」
エレナは静かにうなずいた。
「亘一は、あの二人がいなくなってからも、任務中はいつもどおりにしているわ。むしろ前より仕事に集中しているくらい」
「無理してるのかしら?」
「わからないわ。本人は何も言わないし、普段は普通に話しているから」
エレナは天幕の入口に目を向けた。
「でも、あんな戦いを経験して、何ともないはずがないと思うのよね」
リーナは腕を組んだ。
「そうねえ……。高橋って、あまり自分から弱音を吐く感じじゃないものね」
「そうなのよ」
エレナは苦笑した。
「だから、余計に気になるの」
ゾフィーが口を開いた。
「だったら、ベルノに帰ったら、しばらくゆっくり休ませてあげればいいんじゃない?」
「ええ。そのつもりよ」
エレナはうなずいた。
「とにかく、無事にベルノへ帰ることが先ね。軍団司令部への出頭もあるけど、それが終わったら少し休ませたいわ」
「私たちも休みたいわよ」
リーナが笑った。
「本当よ。もう森の中を歩き回るのは、しばらく勘弁してほしいわ」
ゾフィーも笑った。
「あら、まだ撤収まで任務が残っているのよ。そんなこと言ってる場合じゃないでしょう?」
エレナが言うと、リーナは肩をすくめた。
「わかってるわよ。でも、帰ったら何をしようかって考えるくらい、いいじゃない」
「それはそうね」
三人は顔を見合わせて笑った。
そのとき、天幕の外からイルマの声が聞こえた。
「お湯、持ってきた」
続いて高橋が顔を出した。
「エレナさん、お湯を持ってきました」
「ありがとう、亘一」
高橋は容器を置くと、いつものように笑った。
「けっこう熱いので、気をつけてください」
「わかったわ」
リーナが湯の入った容器に手を伸ばした。
「ありがとう、高橋。ちょうど温かいものが欲しかったのよ」
「いえ」
「それにしても、今日は助かったわ。あの魔族、私たちだけだったら見落としていたかもしれないもの」
「たまたま見つけただけですよ」
高橋は少し照れたように笑った。
「またまた、謙遜しちゃって」
ゾフィーが笑う。
「二体とも仕留めたんだから、もっと自慢したっていいのに」
「いや、そんな……」
高橋は困ったように頭をかいた。
普段の高橋は、以前と何も変わっていないように見えた。
冗談を言われれば笑い、褒められれば照れる。
しかし、今日の哨戒中の姿を思い出すと、エレナはどうしても気になってしまう。
異常を発見した瞬間の鋭い視線。
狙撃を命じたときの落ち着き。
そして、二体の魔族を撃ち倒したあとの、あまりにも普段どおりの様子。
以前の高橋なら、もう少し興奮していたように思う。
戦場に慣れたということなのだろうか。
それとも、何かを押し殺しているのだろうか。
エレナには、まだわからなかった。
「エレナさん?」
高橋が声をかけた。
「どうかしました?」
「あ、ううん。何でもないわ」
エレナは微笑んだ。
「亘一も座って。温かいものでも飲みましょう」
「はい」
高橋はエレナの隣に腰を下ろした。
天幕の中では、リーナとゾフィーがベルノに帰ってからの休暇について話し始めていた。
イルマは黙って湯を注いでいる。
いつもの、何気ない光景だった。
エレナは隣に座る高橋をちらりと見た。
(……無理していなければいいんだけど)
そう思いながら、温かい飲み物の入ったカップを手に取った。
* * *
しばらくすると、天幕の外から女性の声がした。
「すみませーん。高橋君、いますか?」
高橋は顔を上げた。
「……あれ? 水野さん?」
入口から顔をのぞかせたのは、水野香織だった。
「いたいた! よかった、見つかった!」
「どうしたんですか、こんなところまで?」
「明日、移動することになったの。それで、帰る前に高橋君に会っておこうと思って」
水野は笑顔で答えた。
「小隊長に許可をもらって来たんだけど、ここの宿営地、見つけるのに苦労しちゃった」
「そうだったんですか。どうぞ、入ってください」
高橋が場所を空けると、水野は天幕の中へ入った。
「お邪魔しまーす」
「あら、香織じゃない」
エレナが声をかけた。
「エレナさん、お久しぶりです!」
「久しぶりね。元気そうでよかったわ」
「はい。おかげさまで」
水野は周囲を見回した。
「高橋君、今はこちらの班にいるんですね?」
「ええ。しばらくフリーダ班に入ってもらっているの」
エレナが答えた。
リーナが水野に腰掛ける場所を勧めた。
「せっかくだから、少し休んでいったら?」
「ありがとうございます。でも、暗くなる前に戻らないといけないので」
「じゃあ、温かいものくらい飲んでいきなさいよ」
エレナがカップを差し出した。
「ありがとうございます!」
水野は嬉しそうに受け取った。
「それで、香織。明日移動するって?」
「はい。砲兵中隊は明日、この陣地を離れることになりました。砲も弾薬も、もうほとんど移動準備が終わってます」
「そう。いよいよ帰れるのね」
「はい! もう嬉しくて!」
水野は笑った。
「二か月しかいなかったんですけど、すごく長かった気がします」
「そうでしょうね」
「ベルノに帰ったら、まずお風呂に入りたいです。それから、ちゃんとしたベッドで寝たい!」
その言葉に、リーナとゾフィーが笑った。
「みんな考えることは一緒ね」
「本当ですよ。もう泥だらけの陣地生活は十分です」
水野は笑っていたが、ふと表情を曇らせた。
「……でも、歩兵の人たちは大変だったんですよね」
天幕の中が少し静かになった。
「私たち、砲兵陣地にいたから、戦闘中は何も見えなかったんです。あとになって、どれだけ大勢の人が亡くなったのか知って……」
水野はカップを見つめた。
「城島君も亡くなったし、岡田君も重傷だって……」
「……そうですね」
高橋が小さく答えた。
「高橋君も、ずいぶん大変だったんでしょう?」
「はい。まあ……」
高橋は少し言葉を探した。
「でも、自分はこうして無事ですから」
「うん。それが何よりよ」
水野は高橋の顔を見た。
「本当に、無事でよかった」
いつもの明るい声とは少し違っていた。
高橋は照れたように笑った。
「水野さんも、無事でよかったです」
「ありがとう」
水野は微笑んだ。
しばらくして、話題は再びベルノへの帰還に戻った。
「ところで、高橋君たちはいつ帰るの?」
「自分たちは最後です。砲兵中隊が撤収してからですね」
「そっか。偵察小隊は最後まで残るんだ」
「ええ。いつものことよ」
エレナが答えた。
「でも、もう少しだから。無理をしないで帰るつもり」
「そうしてくださいね。本当に」
水野は高橋に向き直った。
「高橋君、ベルノに帰ったら、またみんなで集まりましょうよ」
「いいですね」
「今度はゆっくりご飯でも食べましょう。川崎君や井上君たちも呼んで」
「はい。ぜひ」
「約束ね!」
水野は笑顔で言った。
やがて、天幕の外が少し暗くなり始めた。
「あ、そろそろ戻らないと」
水野は立ち上がった。
「お邪魔しました。皆さん、ありがとうございました」
「気をつけて帰ってね」
リーナが答えた。
「亘一、送っていってあげて」
エレナが言った。
「はい」
高橋は水野と一緒に天幕を出た。
森の中には夕暮れの光が差し込んでいた。
二人は補給所へ続く道を並んで歩いた。
「高橋君」
「はい?」
「本当に、あと少しだからね」
「……はい」
「絶対に無事に帰ってきてよ」
水野は足を止めた。
「もう、同期が死んだって話は聞きたくないの」
高橋も立ち止まった。
水野の顔には、先ほどまでの笑顔はなかった。
「……わかりました。必ず帰ります」
「うん」
水野は小さくうなずいた。
それから、いつもの明るい表情に戻った。
「じゃあ、ベルノで待ってるから!」
「はい。気をつけて帰ってください」
水野は大きく手を振ると、補給所の方へ歩いていった。
高橋は、その後ろ姿をしばらく見送っていた。
砲兵中隊も、明日には戦線を離れる。
ベルノへの帰還は、もう目の前だった。
しかし、高橋は今日の哨戒で発見した二体の魔族を思い出していた。
敵は、まだすぐ近くにいる。
帰還命令が出たからといって、安全になったわけではない。
(……あと少しだ)
高橋はそう自分に言い聞かせると、天幕へ戻っていった。
* * *
翌日の午後。
ベルノ連隊の砲兵中隊は、八門の120ミリ榴弾砲と牽引車両を率いて、イジューム戦線を離れた。
砲を牽引する車両が、まだ雪解け水の残る道をゆっくりと進んでいく。車輪が泥を跳ね上げ、荷台に積まれた弾薬箱や装備品が揺れるたび、金具の触れ合う音が響いた。
見送りに出た兵士たちは、列をなして遠ざかっていく砲兵中隊を眺めていた。
やがて最後の車両が林道の向こうに姿を消すと、周囲は急に静かになった。
これで、ベルノ連隊の主力部隊はすべて撤収したことになる。
戦線に残されているのは、一部の補給部隊と浸透偵察小隊だけとなった。
浸透偵察小隊は、いつものように最後まで戦線に残り、後任部隊への引き継ぎと警戒任務を続けていた。
森林内の宿営地でも、撤収準備が進んでいる。
空になった木箱が積み重ねられ、不要になった天幕が畳まれていた。補給兵たちは残された資材を整理し、帰還に必要な物資を積み直している。
その一方で、浸透偵察小隊の兵士たちは普段と変わらず武器を携え、哨戒に出入りしていた。
帰還する最後の瞬間まで、戦場であることに変わりはなかった。
その日の夕方、連隊司令部の引き継ぎも完了した。
ベルノ連隊が使用していた司令部は、中央軍第30歩兵師団から派遣された後任連隊へ明け渡された。
司令部の建物からベルノ連隊の標識が取り外され、後任連隊の兵士たちが通信設備や備品を確認している。
その光景を最後まで見届けたオリヴィエ大佐とアウレリア大尉は、わずかな身の回り品を持って建物を後にした。
二人が浸透偵察小隊の宿営地に姿を現したのは、日が暮れる少し前だった。
森林の中では、夕暮れが早い。
梢の向こうに残っていた薄い日差しも弱まり、天幕の間では兵士たちがランプを灯し始めていた。
ヴァルター少佐は、小隊本部の前で二人を出迎えた。
「ヴァルター、悪いんだけど、今夜はこっちで寝かせてもらうわ」
オリヴィエが、肩にかけていた鞄を持ち直しながら言った。
「司令部はもう明け渡しちゃったし、今さら別の宿営地を用意するのも面倒なのよ」
ヴァルターは、オリヴィエの足元に置かれた小さな荷物を見て笑った。
「そりゃ構いませんが、お嬢。こんな天幕でよろしいんですか?」
「いいわよ。今さら野営が嫌だなんて言わないわ」
オリヴィエはあっさりと答えた。
その横では、アウレリアが静かに周囲を見回していた。
連隊司令部と違い、ここには建物らしい建物もない。木々の間に天幕が並び、地面には兵士たちが何度も行き来した足跡が残っている。
ヴァルターは少し考えてから、近くの天幕を指した。
「それなら、エレナ班のところが空いてます。使ってください」
ちょうど隣の天幕の前で装備を整理していたエレナが、声を聞いて振り返った。
「エレナ、いいな?」
「わかりました」
エレナはすぐに答えた。
「オリヴィエ大佐、アウレリア大尉、どうぞお使いください」
「ありがとう、エレナ。助かるわ」
「じゃあ、決まりですな」
ヴァルターは補給所の方へ視線を向けた。
「補給の連中に言って、寝台を二つ運ばせましょう」
「いえいえ。最後くらい、ゆっくり休んでください」
「そうしたいところだけど、明日も仕事なのよねえ」
オリヴィエは肩をすくめた。
その様子を見て、ヴァルターが愉快そうに笑った。
「お嬢は、どこへ行っても仕事から逃げられませんな」
「まったく、そのとおりよ」
オリヴィエは大きくため息をついた。
* * *
エレナ班の天幕は、もともと四人用だった。
かつては、エレナ、アルノー、ミレーナ、高橋の四人が寝起きしていた場所である。
しかし、あの戦闘以来、使っているのはエレナと高橋の二人だけになっていた。
エレナと高橋は現在、フリーダ班に一時的に編入されている。
だが、フリーダ班の天幕も四人用であり、もともとの班員だけでいっぱいだったため、二人は引き続き元の天幕で寝起きしていた。
天幕の奥には、エレナと高橋の寝台が並んでいる。
その横には、以前ならアルノーとミレーナの寝台があった。
今はぽっかりと空いた場所になっている。
エレナはそこへ視線を向けた。
二人がいなくなってから、もう何日も経っている。
だが、四人で使っていた頃のことは、つい昨日のように思い出せた。
アルノーが装備を放り出してエレナに注意されたこと。
ミレーナが寝台に腰掛けて、電信機の調整をしていたこと。
高橋がエルフ語の勉強をしている横で、二人が楽しそうに話していたこと。
エレナは小さく息を吐くと、空いた場所に置いていた荷物を片づけ始めた。
しばらくすると、補給部隊の兵士たちが仮設寝台を二つ運び込んできた。
「こちらでよろしいでしょうか?」
「ええ。ありがとう」
エレナが答えた。
兵士たちは、狭い天幕の中で寝台の向きを何度か変え、ようやく四つを並べた。
床に置かれた鞄や靴を動かし、寝台の間に人一人が通れる程度の隙間を作る。
作業が終わる頃には、天幕の中はすっかり手狭になっていた。
「ずいぶん賑やかになったわね」
オリヴィエが楽しそうに言った。
彼女は入口から中を覗き込み、四つの寝台を見渡した。
「申し訳ありません。少し狭いですが……」
エレナが言うと、オリヴィエは笑って手を振った。
「いいのよ。こういうのも久しぶりだわ」
アウレリアも荷物を寝台の脇に置いた。
「私も野営は久しぶりですね。懐かしいです」
彼女は天幕の天井を見上げた。
布地を支える支柱には、濡れた外套を吊るすための紐が渡されている。入口の脇には小銃と装備品が整然と置かれ、床には泥を持ち込まないよう厚手の敷物が敷かれていた。
質素ではあるが、長く野営を続けてきた兵士たちの工夫が感じられる。
「あなた、昔はよく一緒に野営したものね」
オリヴィエが言った。
「はい。あの頃は、もう少し粗末な天幕でしたけれど」
アウレリアは懐かしそうに微笑んだ。
「そうだったわね。雨が降ると、あちこちから水が漏れてきたもの」
「オリヴィエ様が、一番乾いている場所を探して移動していらっしゃいましたね」
「あら、覚えてるの?」
「もちろんです」
二人は顔を見合わせて笑った。
高橋は、その様子を少し離れたところから眺めていた。
連隊長と大尉が、自分たちの天幕に泊まる。
頭では理解しているのだが、どうにも落ち着かない。
目の前にいるのは、ベルノ伯爵であり連隊長でもあるオリヴィエ大佐だ。
普段なら、直接話す機会さえほとんどない相手だった。
「あら、高橋」
オリヴィエが高橋の表情に気づいた。
「そんなに緊張しなくてもいいわよ」
「あ、はい」
「今日はもう仕事は終わり。ここでは普通にしてちょうだい」
「は、はい」
高橋は反射的に背筋を伸ばした。
その様子に、オリヴィエが笑った。
「まったく、真面目ねえ」
エレナも苦笑した。
「亘一、そんなにかしこまらなくても大丈夫よ」
「そう言われても……」
高橋が困ったように答えると、アウレリアも微笑んだ。
「まあ、無理もありませんね。連隊長が突然泊まりに来たのですから」
こうしてエレナ班の天幕は、久しぶりに四人で夜を過ごすことになった。
* * *
夕食を終えると、四人は天幕の中で温かい飲み物を囲んでいた。
ランプの明かりが布地の内側を淡く照らしている。
外では風が木々の枝を揺らし、ときおり天幕の布が小さく鳴った。
四月に入ったとはいえ、夜の冷え込みはまだ厳しい。
高橋はカップを両手で包むように持っていた。
湯気の向こうでは、オリヴィエが寝台に腰掛け、靴を脱いで足を楽にしている。
昼間まで連隊司令部で命令を出していた人物とは思えないほど、くつろいだ姿だった。
「それにしても、やっと帰れるのねえ」
オリヴィエがカップを手に取った。
「たった二か月なのに、ずいぶん長く感じたわ」
「そうですね」
向かいに座るアウレリアが答えた。
「ベルノに戻ったら、しばらくは連隊の再編成で忙しくなりそうです」
「そうなのよ。それを考えると、ちょっと気が重いわね」
オリヴィエはカップを持ったまま、天幕の天井を見上げた。
あの戦闘で失った兵士の数を考えれば、ベルノに帰ったあとも楽にはならない。
補充兵の確保、負傷者への対応、装備の補充、部隊の再編成。
連隊長として処理しなければならないことは山ほどあった。
「オリヴィエ様は、書類がだいぶたまっていると思いますよ」
アウレリアが穏やかな声で言った。
「……やっぱり?」
「はい。クララからも、いくつか確認の必要な書類が届いていましたから」
「もう、聞きたくないわ」
オリヴィエは大げさにため息をついた。
その仕草がおかしくて、エレナが小さく笑った。
「でも、ベルノに帰れば、少なくとも暖かい部屋で眠れますね」
「それはそうね。まともなお風呂にも入れるし」
オリヴィエはそう言いながら、自分の髪を指でつまんだ。
「もう、髪もひどいことになってるのよ。帰ったら真っ先に洗いたいわ」
「私もです」
アウレリアが微笑んだ。
「それから、しばらくゆっくり休みたいですね」
「あなたはいいわよ。私は書類が待ってるんだから」
「私もお手伝いしますよ」
「そうしてちょうだい」
エレナは二人のやり取りを聞きながら、カップを膝の上に置いた。
「私、帰ったら食べたいものがあるんです」
「何かしら?」
オリヴィエが興味を示した。
「市場の近くにあるお店の、果物のパイです。焼きたてが本当においしいんですよ」
「あら、どこのお店?」
「中央市場から南へ少し行ったところです。小さなお店なんですけど」
「もしかして、角に赤い看板があるところ?」
「そうです!」
エレナの顔がぱっと明るくなった。
「知ってるわ。あそこのパイ、おいしいわよね!」
オリヴィエが嬉しそうに身を乗り出した。
「私、あそこの焼き菓子も好きなのよ」
「ええ、私もです」
アウレリアも会話に加わった。
「果物のパイもおいしいですが、私は木の実を使ったものが好きですね」
「そうそう、あれもおいしいのよ!」
オリヴィエが指を鳴らした。
いつの間にか、話題はベルノの菓子店や市場の食べ物に移っていた。
エレナが別の店の焼き菓子を勧め、アウレリアが昔から通っている店の話をする。
オリヴィエも、領主とは思えないほど詳しく市場の店を知っていた。
高橋はそんな三人の話を聞きながら、時折カップに口をつけていた。
戦場の天幕の中で、三人の女性が菓子店の話に夢中になっている。
つい数日前まで、多くの兵士が死んだ場所にいるとは思えないほど、穏やかな時間だった。
外からは遠くの歩哨の足音が聞こえてくる。
それを聞くたびに、ここがまだ戦場であることを思い出した。
しばらくして、オリヴィエが思い出したように言った。
「そうそう。明日の予定も確認しておきましょう」
彼女はカップを脇に置き、少しだけ姿勢を正した。
その声に、三人が顔を上げる。
「私たちは、浸透偵察小隊より一日早く出発するわ」
オリヴィエはエレナと高橋を見た。
「あなたたち二人も一緒よ。まず軍団司令部へ寄って、ライゼン大将に報告することになっているの」
「はい。ヴァルター少佐から聞いています」
エレナが答えた。
「軍団司令部での用事が終わったら、向こうで一泊する予定よ。その翌日、サラミスの駅で浸透偵察小隊と合流するわ」
「承知しました」
「高橋もいいわね?」
「はい」
オリヴィエはうなずいた。
「それで、宿泊するホテルなんだけど……」
彼女は一度言葉を切った。
そして、ふと思いついたように、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「あなたたち、部屋は一緒でよかったわよね?」
「はい、構いません」
エレナがあっさり答えた。
高橋は一瞬、返事に詰まった。
「えっ?」
オリヴィエは、その小さな反応を見逃さなかった。
「あら、何よ。その顔」
「い、いえ、別に……」
高橋は慌ててカップを置いた。
オリヴィエは楽しそうに首をかしげた。
「恋人同士って聞いてるわよ?」
高橋の顔が赤くなった。
「は、はい……」
「ふふっ。やっぱりそうなのね」
オリヴィエは満足そうに笑った。
アウレリアも微笑んでいる。
エレナだけは平然としていた。
「ええ。亘一とはお付き合いしています」
「あらあら。堂々としてるわねえ」
「隠すようなことでもありませんから」
エレナは何でもないことのように答えた。
その落ち着きぶりが、かえってオリヴィエの興味を引いたらしい。
彼女は寝台の上で座り直し、エレナの方へ体を向けた。
「それもそうね。ところで、エレナ」
「はい?」
「あなたたち、どういうきっかけで付き合うようになったの?」
高橋は嫌な予感がした。
「えっ、あの……」
しかし、エレナは楽しそうに笑った。
「そうですねえ。帝都で一泊したときの話になるんですけど……」
「あら! 聞きたいわ!」
オリヴィエが身を乗り出した。
アウレリアもカップを置いた。
「私も興味があります」
先ほどまでベルノの書類の話をしていた二人が、すっかり別人のような表情になっている。
「エ、エレナさん……」
高橋が小さく声をかけた。
だが、エレナは気にする様子もなかった。
「帝都に着いた日、買い物に出たんです。そのあと、亘一と二人で話す時間があって……」
「へえ、二人きり?」
「ええ」
エレナは、そのときのことを思い出すように微笑んだ。
ランプの明かりに照らされた横顔は、普段の任務中とは違って、どこか柔らかい。
「亘一、戦場に行くのが怖いって、正直に話してくれたんです」
「そうだったの……」
オリヴィエの表情が少し柔らかくなった。
「初めての実戦ですものね。怖くて当然だわ」
「はい。それで、私もいろいろ話しているうちに、この子のことがかわいくなっちゃって」
「なるほどねえ」
「一緒にいると落ち着くんですよ。私も、亘一と話していると楽しくて」
エレナは照れることもなく話していた。
高橋は黙ってカップを見つめていた。
自分の恋愛事情を、よりによって連隊長と大尉の前で説明されているのである。
それも、当のエレナは少しも恥ずかしがっていない。
「それで、その夜に?」
オリヴィエが尋ねた。
その声には、隠しきれない好奇心がにじんでいた。
「ええ。まあ、そんな感じです」
エレナはにっこり笑った。
アウレリアは高橋をちらりと見た。
その顔が真っ赤になっていることに気づき、口元をほころばせた。
「もしかして……」
「はい?」
アウレリアは少しだけ身を乗り出した。
「童貞、食べちゃったんですか?」
「食べちゃいました」
エレナは即答した。
「ぶっ!」
高橋は飲みかけていたお茶を吹きそうになった。
慌ててカップを口から離し、咳き込む。
「エ、エレナさん!」
オリヴィエが声を上げて笑った。
「あははは! ちょっと、アウレリア! あなた、何を聞いてるのよ!」
「だって、気になったんですもの」
アウレリアは涼しい顔で答えた。
何事もなかったようにカップを持ち直す姿が、かえっておかしかった。
「それに、エレナがこんなに楽しそうに話すなんて、珍しいですから」
「もう……」
高橋は両手で顔を覆いたくなった。
しかし、目の前には連隊長と大尉がいる。
逃げるわけにもいかない。
エレナはそんな高橋を見て、くすくす笑っていた。
「あら、亘一。そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃない」
「いや、恥ずかしいですよ!」
「ふふっ。かわいいわねえ」
「エレナさんまで……」
高橋の抗議は、三人の笑い声にかき消された。
オリヴィエは笑いながら、寝台の上で足を組み直した。
「いいわねえ、若いって」
「オリヴィエ様も、まだお若いではありませんか」
アウレリアが言った。
「そういう意味じゃないのよ」
オリヴィエはため息をついた。
そして、何の前触れもなく言った。
「私も男が欲しいわ」
今度はエレナが吹き出した。
「オリヴィエ大佐、それは……」
「何よ。私だって恋愛くらいしたいわよ。いっそ体の関係だけでもいいわ」
「オリヴィエ様!」
アウレリアが思わず声を上げた。
持っていたカップを慌てて膝の上に置き、隣のオリヴィエを振り返る。
「何よ、アウレリア。そんなに驚かなくてもいいじゃない」
「仮にも伯爵様が、何をおっしゃっているんですか!」
「だって、そうでしょう? 伯爵になってからというもの、朝から晩まで仕事ばっかり。連隊長まで兼ねてるんだから、男の人と知り合う機会なんてないのよ」
オリヴィエは不満そうに頬を膨らませた。
「そのうえ、伯爵家の跡継ぎだの結婚だの、周りはうるさいし。たまには何も考えずに男の人と遊んでみたいわ」
アウレリアは困ったように額に手を当てた。
「だからといって、そのようなことを……」
その姿がおかしくて、エレナは笑いをこらえきれなかった。
「ふふっ、オリヴィエ大佐も大変なんですね」
「そうなのよ! エレナ、あなたならわかってくれるでしょう?」
オリヴィエは、ようやく味方が見つかったとばかりに身を乗り出した。
「ええ、まあ。恋人がいるのは楽しいですから」
「ほら! アウレリア、聞いた?」
「エレナ、あなたまで……」
アウレリアは呆れた顔をした。
しかし、その口元には笑みが浮かんでいた。
長年付き合ってきたオリヴィエが、こういう話を始めると止まらなくなることを、よく知っているのだろう。
オリヴィエはふと思いついたように、アウレリアへ顔を向けた。
「そういうアウレリアはどうなのよ?」
「私ですか?」
「ああ、聞くだけ野暮だったわ。ユルク一筋だもんね」
アウレリアがカップを持つ手を止めた。
一瞬、その表情が固まる。
「オリヴィエ様……」
エレナは不思議そうに首をかしげた。
「ユルクって誰ですか?」
「あら、知らなかったの?」
オリヴィエは楽しそうに笑った。
「私の弟よ。アウレリアはお母さんみたいなもんね」
「オリヴィエ様! なんてこと言うんですか!」
アウレリアが珍しく声を上げた。
その反応がよほど面白かったらしく、オリヴィエの目が輝いた。
「何よ。間違ってないでしょう? あんた、赤ん坊だったユルクに、出もしないお乳を吸わせてたでしょう。知ってるんだから」
「オリヴィエ様!!」
アウレリアの顔が真っ赤になった。
先ほどまでの落ち着いた態度はどこへやら、すっかり取り乱している。
「あら、事実じゃない」
「どうしてそんな昔のことを、今ここでお話しになるんですか!」
「面白いからにきまってるじゃない。ユルクが泣き止まないからって、あんたが抱っこして……」
オリヴィエは身振りまで交えて話そうとした。
「もう! やめてください!」
アウレリアは両手で顔を覆った。
エレナは目を丸くしたまま二人を見比べていたが、やがて口元を押さえた。
普段のアウレリアからは想像もできない姿だった。
高橋はというと、完全に言葉を失っていた。
連隊長が、旧王族の大尉の昔の恥ずかしい話を暴露している。
それも、自分が聞いてよいのかどうか、判断に困るような内容である。
しばらく迷った末、高橋はおずおずと口を開いた。
「あの……僕が聞いていい話なんでしょうか……」
一瞬、天幕の中が静かになった。
三人の視線が、高橋に集まった。
そして。
「あはははは!」
オリヴィエが腹を抱えて笑い出した。
寝台の上で体を折り曲げ、片手で膝を叩いている。
エレナもたまらず吹き出した。
「ふふっ! 亘一、今さら何を言ってるのよ!」
アウレリアまで、顔を赤くしたまま笑い始めた。
「ふふふ……高橋さん、確かにそうですね。あなたには少々刺激が強いお話だったかもしれません」
「いや、そういう意味じゃ……」
高橋はますます困ってしまった。
「いいのよ、高橋!」
オリヴィエは目尻の涙を拭いながら言った。
「今夜は無礼講なんだから! 聞かなかったことにしてちょうだい!」
「は、はい!」
高橋は、どう答えていいのかわからず、カップを両手で持ち直した。
目の前にいるのは、ベルノ伯爵であるオリヴィエ大佐。
旧エルディア王国の王族であるアウレリア大尉。
そして、歴戦のエルフ兵士であり、自分の恋人でもあるエレナ伍長。
考えてみれば、とんでもない顔ぶれだった。
それなのに、今は三人とも、恋愛話で盛り上がる普通の女性にしか見えなかった。
(……女の人って、すごいな)
高橋は妙なところで感心していた。
外では、夜の森に風が吹いていた。
木々の間を抜けた風が天幕の布を揺らし、入口の隙間から冷たい空気が入り込んでくる。
遠くで見張りの兵士が交代する声が聞こえた。
昼間は撤収作業で騒がしかった宿営地も、すっかり静かになっていた。
ランプの炎が小さく揺れた。
高橋はふと、向かい側に置かれた二つの寝台を見た。
つい先日まで、ここにはミレーナとアルノーがいた。
ミレーナはよく、寝る前に翌日の通信器材の確認をしていた。
アルノーはそんな彼女に軽口を叩き、エレナに注意されることもあった。
四人で過ごした夜のことを、高橋はまだよく覚えていた。
今夜、その二人の代わりにいるのは、オリヴィエとアウレリアだった。
四つの寝台が並び、四人分の声が響いている。
もちろん、以前と同じではない。
あの二人が戻ってくるわけではなかった。
それでも、誰かと笑い合える夜が戻ってきたことは、高橋にとってうれしいことだった。
「ねえ、高橋」
オリヴィエが声をかけた。
高橋は顔を上げた。
「はい?」
オリヴィエは、先ほどまでとは少し違う穏やかな表情で、二人を眺めていた。
「ベルノに帰ったら、エレナを大事にしてあげなさいよ」
高橋は一瞬驚いたが、すぐに姿勢を正した。
「はい。もちろんです」
その返事に、エレナが微笑んだ。
「ありがとう、亘一」
エレナは高橋の腕にそっと手を添えた。
アウレリアも静かにうなずいた。
「お二人とも、末永く仲良くしてくださいね」
「はい」
高橋は少し照れながら答えた。
しばらくの間、四人の間に穏やかな沈黙が流れた。
ランプの芯が小さな音を立てている。
外の冷たい空気とは対照的に、天幕の中には温かい飲み物の湯気が残っていた。
明日、四人はこの戦線を離れる。
軍団司令部への出頭が終われば、サラミスの駅で浸透偵察小隊と合流し、いよいよベルノへの帰還だった。
あれほど多くの仲間を失った戦場から、ようやく帰ることができる。
戦死した者たちも、行方不明のまま戻らない者たちもいる。
その事実が変わるわけではなかった。
それでも、生き残った者たちには、これからの日々がある。
ベルノの市場で食べる焼きたてのパイ。
暖かな部屋と、久しぶりの風呂。
仕事に追われる伯爵と、そんな彼女を支える軍事補佐官。
そして、帰還したら恋人とゆっくり過ごしたいと願う若い兵士。
今夜だけは、戦争も階級も、難しい仕事のことも忘れていたかった。
オリヴィエは、寄り添うエレナと高橋をしばらく眺めていた。
そして、深いため息とともにつぶやいた。
「……やっぱり男ほしいわね」