第1節 赤薔薇章
汽笛が長く響き、蒸気機関車がゆっくりとサラミス駅のホームに滑り込んだ。
列車が完全に停止すると、乗客たちが次々と降り始めた。
その中に、ベルノ連隊長オリヴィエ大佐、アウレリア大尉、エレナ伍長、そして高橋亘一二等兵の四人の姿があった。
戦線から撤収したベルノ連隊は、すでに帰還の途についている。だが、この四人だけは第7軍団司令部からの出頭要請を受け、サラミスで列車を降りることになっていた。
ホームには軍服姿の兵士が目立った。負傷兵らしい一団や、前線へ向かう補充兵の姿もある。
改札を抜けて駅前に出ると、一台の乗用車が停まっていた。
黒く塗装された車体に、丸い前照灯。長いボンネットの下には大きなエンジンが収まっているらしい。
車の脇に立っていた軍服姿の運転兵が、オリヴィエを認めて姿勢を正した。
「ベルノ伯爵閣下でいらっしゃいますか」
「ええ、そうよ」
「第7軍団司令部より、お迎えに参りました」
運転兵が敬礼する。
「ご苦労さま。四人だけど、乗れるかしら?」
「はい。問題ございません」
運転兵が後部座席の扉を開いた。
高橋はその様子を、少し離れたところから興味深そうに眺めていた。
「どうしたの、亘一?」
エレナが尋ねた。
「いえ……こちらの世界の自動車に乗るのは、初めてです」
「あら、そうだったの?」
「軍用トラックや牽引車は見ていますけど、乗用車は初めてですね」
高橋は車体を眺めながら答えた。
日本では自動車など珍しくもなかった。だが、この世界では事情が違う。
街道を行き交うのは馬車が中心で、自動車は軍の司令部や一部の富裕層が使用する程度だった。
鉄道はそれなりに発達しているのに、自動車は驚くほど少ない。
「日本では、そんなに自動車が多いのですか?」
アウレリアが興味深そうに尋ねた。
「はい。普通の家庭でも持っています。僕のいたところでは、道路を走っているのはほとんど自動車でした」
「まあ……それほど普及しているのですね」
アウレリアは感心したように車を見た。
「だったら、高橋は前に乗りなさい」
オリヴィエが言った。
「え?」
「せっかく初めて乗るんでしょう? 前の席の方が景色がよく見えるわ」
「よろしいんですか?」
「構わないわよ。私たちは後ろに座るから」
高橋は礼を言って助手席に乗り込んだ。
座席は革張りで、思っていたより柔らかい。目の前には丸い計器がいくつか並び、運転席には大きなハンドルが取り付けられていた。
現代日本の自動車とは、ずいぶん違う。
オリヴィエ、アウレリア、エレナの三人が後部座席に収まると、運転兵が運転席に乗り込んだ。
「それでは出発いたします」
運転兵が何やら操作すると、車体が小刻みに震え始めた。
ブルルルル……。
低く不規則なエンジン音が響く。
車がゆっくりと走り出した。
「おお……」
思わず高橋の口から声が漏れた。
エレナが後ろから笑いかける。
「亘一、そんなに珍しい?」
「いや、なんというか……古い映画に出てくる車に乗っているみたいで」
「映画?」
「日本にあった、動く絵のようなものです」
「ああ、前に話してくれたものね」
高橋は窓の外に目を向けた。
駅前の石畳を抜けると、車は広い通りに出た。
行き交う馬車の間を縫うように進んでいく。
速度はそれほど出ていない。路面の継ぎ目を越えるたびに車体が揺れ、車内にはエンジンの振動が伝わってくる。
それでも、徒歩や馬車とは違う感覚だった。
「日本の自動車は、もっと速いの?」
エレナが尋ねた。
「ずっと速いですよ。それに、もっと静かです」
「へえ。乗ってみたいわね」
「日本では、どこにでも走っていましたからね。僕もよく乗っていました」
「そうなの。ちょっと想像できないわね」
「……エレナにも、一度見せてあげたかったです」
高橋は窓の外に目を向けた。
もう二度と見ることのできない日本の街並み。
当たり前のように走っていた自動車も、信号機も、夜の街を照らす明かりも。
こちらの世界に来るまでは、そんなものを懐かしく思う日が来るとは考えもしなかった。
後部座席のエレナは、しばらく黙っていた。
「……そうね。私も見てみたかったわ」
エレナは静かに答えた。
車は軍団司令部へと向かっていく。
高橋はまだ知らなかった。
この日の軍団司令部への出頭が、自分とエレナの軍歴を大きく変えることになるとは。
* * *
乗用車は軍団司令部の正門へと差しかかった。
門の両側には歩哨が立ち、銃を肩にかけた兵士たちが車を確認していた。
運転兵が身分証を提示すると、歩哨は車内を一瞥し、すぐに敬礼した。
「お通りください」
車は門をくぐり、敷地内へと進んだ。
第7軍団司令部は、サラミス市内でもひときわ大きな石造りの建物だった。正面には帝国旗が掲げられ、玄関前には軍用車両が数台停まっている。
建物の周囲では、伝令兵や将校たちが忙しそうに行き交っていた。
「ずいぶん立派な建物ですね」
高橋が窓の外を見ながら言った。
「ここは第7軍団の司令部だからね。前線の連隊本部とは規模が違うわ」
エレナが答えた。
「まあ、建物が立派だからといって、仕事ができるとは限らないけど」
オリヴィエが何気なく付け加えた。
「オリヴィエ大佐」
アウレリアが小さくたしなめる。
「冗談よ、冗談」
オリヴィエは悪びれもせず笑った。
車が玄関前に停まると、待機していた将校が近づいてきた。
「ベルノ伯爵閣下、お待ちしておりました」
将校はオリヴィエに敬礼した。
「第7軍団司令部参謀部の者です。ライゼン大将閣下より、皆様を直接お通しするよう申しつかっております」
「あら、直接?」
「はい。大将閣下は執務室でお待ちです」
オリヴィエは少し意外そうな表情を見せた。
「そう。では案内してちょうだい」
「はっ。こちらへどうぞ」
四人は将校の案内で建物の中へ入った。
司令部の内部は、前線の連隊本部とはまるで違っていた。
磨かれた石の床。高い天井。壁には軍団の歴代司令官の肖像画が並び、廊下のあちこちには大きな作戦地図が掲げられている。
行き交う軍人も、将校が多かった。
高橋は思わず自分の軍服に目を落とした。
二等兵。
周囲を歩いている軍人たちの中では、間違いなく最下級の階級だった。
しかも、これから会う相手は軍団司令官の大将である。
日本にいた頃なら、映画やニュースの中でしか見たことのないような人物だ。
「緊張してる?」
隣を歩くエレナが小声で尋ねた。
「そりゃあ、しますよ。大将ですよ?」
「大丈夫よ。何も悪いことをしたわけじゃないんだから」
「それはそうですけど……」
エレナは小さく笑った。
「いつもどおりにしていればいいの」
その言葉に、高橋は少しだけ気持ちが楽になった。
廊下を進み、階段を上がる。
やがて案内の将校は、重厚な木製の扉の前で立ち止まった。
「こちらがライゼン大将閣下の執務室です」
将校が扉を軽く叩いた。
「ベルノ伯爵閣下と、ご同行の三名をお連れしました」
「入れ」
扉の向こうから、低い声が返ってきた。
* * *
執務室は広かった。
大きな窓から午後の日差しが差し込み、壁には帝国全土の地図と、第7軍団の担当戦域を示す作戦地図が掲げられている。
中央には大きな執務机が置かれ、その上には書類が整然と積まれていた。
机の向こうに立っていたのが、第7軍団司令官ライゼン大将だった。
ライゼンは四人が入室すると、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「よく来てくれた、オリヴィエ大佐」
「お招きいただき、ありがとうございます。ライゼン大将閣下」
オリヴィエが敬礼する。
アウレリア、エレナ、高橋もそれに続いた。
「アウレリア大尉もご苦労だった。それから……」
ライゼンの視線が、エレナと高橋に向けられた。
「エレナ伍長。そして、高橋二等兵だな」
「はっ!」
二人が姿勢を正した。
「報告書は読ませてもらった。二人とも、よく生きて帰ってきた」
その言葉に、高橋は一瞬、返事に詰まった。
ライゼンはそれ以上追及せず、四人に席を勧めた。
「まあ、掛けてくれ。今日はそれほど堅苦しい場にするつもりはない」
高橋は室内を見回した。
広い執務室にいるのは、ライゼン大将と、その側近らしい将校が二人だけだった。
軍団司令部の参謀たちが大勢並んでいるものだと想像していた高橋には、少し意外だった。
ライゼンはその視線に気づいたようだった。
「本来なら参謀長や関係部署の将校も同席させるところだが、今回は私の側近だけにした」
そう言って、オリヴィエに目を向けた。
「今回の件は、あまり大勢の人間に聞かせる話でもあるまい」
「ご配慮、感謝いたします」
オリヴィエは静かに答えた。
「ベルノ連隊は大きな損害を受けた。君たちも疲れているだろう。余計な詮索をする者まで呼ぶ必要はない」
ライゼンは椅子に腰を下ろした。
「それに、私自身が直接話を聞きたかったのだ」
室内に、わずかな沈黙が流れた。
「まずはオリヴィエ大佐」
「はい」
「ベルノ連隊の戦いについては、軍団としても詳細な報告を受けている。特に第2歩兵中隊の損害は痛ましいものだった」
ライゼンの表情が厳しくなった。
「百三十名もの戦死者、行方不明者を出したと聞いている」
「はい」
オリヴィエの返事は短かった。
「しかし、あの状況で敵の攻撃を食い止め、連隊の全滅を免れたことは評価しなければならん」
ライゼンは一度言葉を切った。
「そして、敵軍が突然撤退した理由についても、な」
その視線が、高橋へと向けられた。
高橋は思わず背筋を伸ばした。
「高橋二等兵。君には、ぜひ聞いておきたいことがある」
「はっ!」
高橋は椅子から立ち上がろうとした。
「いや、座ったままでいい。ここは尋問室ではないからな」
ライゼンは軽く手を上げて制した。
「君が狙撃した敵将校についてだ。報告書には三百メートルほどの距離から狙撃したとあるが、間違いないか?」
「はい。およそ三百メートルです」
「その人物が敵の高級将校だと、どうして判断した?」
高橋は少し考えてから答えた。
「服装がほかの魔族と違っていました。それに、周囲の魔族がその人物の指示に従っているように見えました」
「なるほど。では、最初からその人物を狙っていたのか?」
「いえ。最初は敵の動きを観察していました。指揮官らしい人物を発見したので、エレナ伍長に報告しました」
ライゼンはエレナに視線を移した。
「エレナ伍長。狙撃の判断は君が下したのか?」
「はい。敵の高級将校である可能性が高いと判断し、射撃を許可しました」
「命中は確認したのか?」
「はい。命中後、目標が倒れるのを確認しました。ただし、その場で死亡を確認することはできませんでした」
「そうか……」
ライゼンは腕を組んだ。
「その後、敵軍が突然撤退した。君たちは、その理由をどう考えている?」
エレナは一瞬、オリヴィエの方を見た。
「狙撃によって敵の指揮系統に混乱が生じた可能性はあると考えています。ただ、敵軍全体の状況までは把握できておりません」
「慎重な答えだな」
ライゼンは小さくうなずいた。
「その判断は正しい。戦場で見えたものと、推測したことは分けて報告しなければならん」
ライゼンは側近の将校に目を向けた。
「例の資料を」
「はっ」
将校は執務机の上から書類を取り、ライゼンの前に置いた。
「これは敵軍の通信を傍受した記録だ」
ライゼンは書類を開いた。
「我が軍は敵の通信を完全に解読できているわけではない。だが、繰り返し現れる単語や固有名詞については、ある程度の判別が可能だ」
そして、四人の顔を順番に見た。
「今回の戦闘の前後、敵の通信には『グリモフ』という名前が頻繁に現れている」
オリヴィエの表情が引き締まった。
「グリモフ……やはり、あの魔族ですか」
「まだ断定はできん。だが、戦闘後の通信では、その名前とともに『死亡』を意味すると考えられる単語が何度も確認されている」
ライゼンは書類を閉じた。
「つまり、君たちが狙撃した人物がグリモフ本人であり、死亡した可能性があるということだ」
高橋は黙って聞いていた。
グリモフ。
名前は聞いていたが、その人物がどれほど重要なのか、まだ十分には理解していなかった。
「高橋二等兵」
「はい」
「君は、グリモフという名前を知っていたか?」
「いえ。戦闘の前には知りませんでした」
「そうだろうな」
ライゼンは苦笑した。
「グリモフは、我が軍が長年警戒してきた敵の最高幹部の一角だ。七年前の大攻勢にも関わったと考えられている」
その言葉に、エレナの表情がわずかに変わった。
七年前。
ベルノ連隊が壊滅的な損害を受けた戦いだった。
「その人物が今回の戦場に姿を現し、しかも狙撃された。もし本人であれば、我々が考えている以上に大きな戦果だ」
ライゼンはそこで言葉を切った。
「もう一つ、確認してもらいたいものがある」
* * *
側近の将校が、執務室の隅に置かれていた木箱を運んできた。
箱の蓋が開かれる。
中には、血の付着した軍帽が収められていた。
高橋は息をのんだ。
見覚えがあった。
自分が狙撃した魔族がかぶっていた帽子だった。
「これは戦闘後、ベルノ連隊が回収したものだな」
「はい」
オリヴィエが答えた。
「ヴァルター少佐の部隊が発見しました」
「軍団の専門部署で調べさせた。材質、縫製、徽章、どれを取っても通常の将校が使用するものではない」
ライゼンは帽子を指さした。
「特にこの徽章だ。これまでに回収された魔族軍の軍装品と比較した結果、極めて高い地位にある者のものと判断されている」
アウレリアが静かに尋ねた。
「グリモフ本人のものと確認できたのでしょうか?」
「いや、そこまでは確認できていない。だが、敵の通信記録と合わせれば、可能性は高い」
ライゼンは高橋を見た。
「高橋二等兵。この軍帽に間違いはないか?」
「はい。僕が狙撃した魔族がかぶっていたものです」
「確かか?」
「はい。間違いありません」
ライゼンは深くうなずいた。
「よろしい」
そしてオリヴィエに向き直った。
「この軍帽は、軍団司令部から帝都へ送るつもりだ。最終的には皇帝陛下への献上品としたい」
オリヴィエはしばらく軍帽を見つめていた。
「陛下への献上品、ですか」
「そうだ。グリモフ本人のものと確認されれば、帝国にとって極めて重要な戦利品となる」
「それについては異存ありません」
オリヴィエは静かに答えた。
「ただし、一つお願いがあります」
「聞こう」
「高橋二等兵とエレナ伍長の名前を、軍の宣伝に利用しないでいただきたいのです」
ライゼンは黙ってオリヴィエを見た。
「今回の戦闘でベルノ連隊は多くの兵士を失いました。特に第2歩兵中隊の損害は甚大です。その一方で、敵の最高幹部を討ち取ったかもしれないという話だけが大きく取り上げられることを、私は望みません」
オリヴィエの声は穏やかだったが、その口調には明確な意思があった。
「それに、この二人はまだ若い兵士です。必要以上に注目を浴びさせたくありません」
ライゼンは腕を組んだ。
「軍の士気を高めるには、格好の材料だがな」
「承知しています」
「敵の最高幹部を討ち取った英雄として紹介すれば、帝国全土で話題になるだろう」
「だからこそです」
オリヴィエは即座に答えた。
「彼らには、まだ長い軍務が残されています。今後も普通の兵士として勤務させたいのです」
ライゼンはしばらく考え込んでいた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……なるほど。君らしい考えだ」
ライゼンは高橋とエレナに視線を向けた。
「二人はどう思う?」
エレナが先に答えた。
「オリヴィエ大佐のお考えに賛成です。私たちは任務を果たしただけです」
「高橋二等兵は?」
「はい。僕も、あまり騒がれるのは……」
高橋は少し言葉に詰まった。
「それに、僕一人でやったことではありません。エレナ伍長が判断してくれましたし、ミレーナとアルノーも一緒にいました」
その二人の名前が出ると、エレナは静かに目を伏せた。
ライゼンも表情を改めた。
「報告は受けている。二人は行方不明のままなのだな」
「はい」
エレナが答えた。
「最後まで任務を果たしてくれました」
「そうか……」
ライゼンは短くうなずいた。
「分かった。君たちの希望は尊重しよう」
そして側近の将校に向き直った。
「今回の戦果について、軍団からの公式発表では個人名を伏せる。具体的な狙撃の経緯も公表しない。軍帽の鑑定結果については、帝都への正式報告にとどめる」
「承知しました」
将校が手帳に書き留めた。
ライゼンは再びオリヴィエを見た。
「ただし、皇帝陛下への報告まで省略するわけにはいかんぞ」
「もちろんです」
「それと、軍内部での正式な戦功評価も別だ。そこまで遠慮されては困る」
オリヴィエは微笑んだ。
「それは、むしろお願いしたいところです」
「そうだろうな」
ライゼンも笑った。
* * *
側近の将校が軍帽の入った箱を片付けると、ライゼンは別の書類を手に取った。
「さて、ここからは君たちの戦功についての話だ」
その言葉に、エレナと高橋が姿勢を正した。
「今回の戦闘におけるベルノ連隊の働きは、軍団として高く評価している。多数の敵戦車を相手に陣地を守り、敵の攻勢を食い止めたこと。そして、敵高級将校に対する狙撃が成功したことだ」
ライゼンは書類に目を落とした。
「また、エレナ班については、今回の対戦車戦闘に先立つ浸透偵察任務での功績も、改めて評価の対象となっている」
エレナは少し意外そうな顔をした。
「先日の敵砲兵陣地への浸透偵察でしょうか?」
「そうだ。それについては後ほど詳しく説明しよう」
ライゼンは書類を一枚めくった。
「軍団から帝都へ上申した戦功については、すでに回答が届いている」
オリヴィエがわずかに眉を上げた。
「ずいぶん早いのですね」
「今回は特別だ。私も急がせた」
ライゼンは口元に笑みを浮かべた。
「オリヴィエ大佐。君にも関係する話だぞ」
「私にも、ですか?」
「もちろんだ。連隊長を除外するわけにはいくまい」
ライゼンは書類を机に置いた。
「まず、ベルノ連隊の戦功に対する帝室薔薇勲章の授与が正式に認められた」
高橋は、その言葉を聞いても、すぐには意味が理解できなかった。
勲章。
日本にいた頃は、歴史の教科書やニュースでしか見たことのないものだった。
それが、いま自分たちの話として目の前に出てきている。
ライゼンは高橋の表情を見て、少し笑った。
「どうやら、高橋二等兵には説明が必要なようだな」
そして、ゆっくりと言った。
「心配するな。悪い知らせではない」
ライゼンは説明を続けた。
「帝室薔薇勲章は、帝国に対して顕著な功績を挙げた者に授与される勲章だ。第一等から第八等までの八等級に分かれている」
「はあ……」
高橋は曖昧な返事をした。
日本にいた頃、勲章など自分には縁のないものだと思っていた。
ましてや、異世界に来て一年も経たないうちに、そのような話を聞くことになるとは想像もしていなかった。
ライゼンはそんな高橋の反応を面白そうに眺めていた。
「まあ、実物を見た方が早いだろう」
ライゼンが合図すると、側近の将校が執務机の脇から二つの箱を運んできた。
一つは大きな黒い箱。もう一つは、それより小さな箱だった。
ライゼンはまず、大きな箱を開いた。
中には、白い薔薇をかたどった美しい勲章が収められていた。
銀色の装飾に囲まれた白い薔薇。その花弁は精巧に作られ、中央には帝室の紋章が刻まれている。
「第二等白薔薇章だ」
ライゼンはオリヴィエを見た。
「オリヴィエ大佐。今回の戦闘における指揮の功績を認め、皇帝陛下より第二等白薔薇章の授与が認められた」
オリヴィエは驚いたように目を見開いた。
「私に、第二等ですか?」
「そうだ」
「しかし……」
オリヴィエは言葉を止めた。
ライゼンはその理由を察したようだった。
「第2歩兵中隊の損害を気にしているのだろう?」
「はい。百三十名もの戦死者、行方不明者を出しました。連隊長として、その責任は私にあります」
ライゼンは静かにうなずいた。
「その責任を忘れないことは大切だ。だが、それと戦功の評価は別だ」
ライゼンは机の上の書類に手を置いた。
「敵の機甲部隊による大規模な攻勢を受けながら、ベルノ連隊は防御陣地を維持した。事前に対戦車兵器を集中配置し、地雷を敷設し、敵の進撃方向を予測して防御準備を整えていたことも評価されている」
オリヴィエは黙って聞いていた。
「敵の戦車によって陣地の一部は突破された。だが、連隊全体が崩壊することはなかった。そして最終的に敵を撤退させた」
ライゼンは言葉を続けた。
「もしベルノ連隊が崩壊していれば、敵は後方の街道へ進出していた可能性が高い。そうなれば、軍団全体の防衛計画にも重大な影響を及ぼしていただろう」
「……はい」
「君の指揮が、その事態を防いだのだ」
ライゼンは少し声を和らげた。
「兵士を失ったことを悔やむのは構わん。しかし、生き残った兵士たちが何を守ったのかまで忘れてはいかんぞ」
オリヴィエはしばらく黙っていた。
やがて、静かに立ち上がった。
「ありがたく、お受けいたします」
ライゼンも立ち上がり、側近から勲章を受け取った。
オリヴィエが姿勢を正す。
ライゼンは、その胸に第二等白薔薇章を取り付けた。
「オリヴィエ大佐。帝国への忠勤と、今回の戦闘における優れた指揮を称える」
「光栄に存じます」
オリヴィエが敬礼した。
ライゼンは答礼すると、微笑んだ。
「おめでとう、オリヴィエ」
「ありがとうございます、閣下」
アウレリアは隣で、どこか誇らしそうに微笑んでいた。
* * *
「さて、次は君たちだ」
ライゼンの視線が、エレナと高橋に向けられた。
側近の将校が、もう一つの箱を開いた。
中には赤い薔薇をかたどった勲章が並んでいた。
「第三等赤薔薇章だ」
ライゼンは一つを手に取った。
深い赤色の花弁を銀色の装飾が取り囲んでいる。先ほどの白薔薇章と比べれば小ぶりだったが、それでも十分に立派なものだった。
「今回、エレナ班には第三等赤薔薇章の授与が認められた。これはグリモフと思われる敵高級将校への狙撃だけでなく、イジューム戦線における一連の偵察任務の功績を総合的に評価したものだ」
ライゼンは書類を広げた。
「まず、敵主陣地への浸透偵察だ。君たちは敵の防御線を突破し、後方にあった砲兵陣地二か所、計八門を発見した。そして、味方砲兵による攻撃の着弾を観測し、その撃滅に貢献している」
「はい」
エレナが答えた。
「あの作戦は、君たちが敵の主陣地を突破して砲兵の位置を確認できなければ成立しなかった。敵の砲兵戦力を一挙に八門も失わせた功績は大きい」
ライゼンは一度言葉を切った。
「だが、軍団司令部がそれ以上に注目したものがある」
エレナが顔を上げた。
「何でしょうか?」
「君たちが敵後方で撮影したアンテナの写真だ」
「……あのアンテナですか?」
「そうだ」
ライゼンは側近の将校に合図した。
将校は書類の間から数枚の写真を取り出し、机の上に並べた。
それはエレナ班が敵後方で撮影し、持ち帰った写真だった。
「この写真は軍団の通信担当部署で詳しく調査させた。さらに帝都の専門部署にも送って分析を依頼している」
ライゼンは写真の一枚を指さした。
「その結果、このアンテナは我が軍の無線通信を傍受するための設備であると判断された」
エレナは驚いたように写真へ目を向けた。
「無線傍受用、ですか?」
「そうだ。魔族が我々の無線通信を傍受している可能性は、以前から指摘されていた。通信の内容を敵に知られているのではないかと疑われる事例もあったそうだ」
ライゼンは椅子の背にもたれた。
「だが、これまでは確かな証拠がなかった。敵が通信を傍受しているのか、それとも別の手段で情報を得ているのか、判断できなかったのだ」
アウレリアが静かに尋ねた。
「では、今回の写真によって、それが確認されたということでしょうか?」
「少なくとも、魔族軍が我が軍の通信を傍受するための設備を保有し、実際に設置していることが確認された。これが初めての具体的な証拠になる」
ライゼンは深くうなずいた。
「参謀本部も、この件を非常に重視している」
オリヴィエの表情が引き締まった。
「それほど重要なものだったのですね」
「うむ。敵砲兵八門の撃滅も立派な戦果だ。だが、あのアンテナの発見は、一つの戦場にとどまる問題ではない」
ライゼンは机の上の写真を見つめた。
「我々の通信が敵に聞かれている可能性を、今後は単なる疑いとして扱うことができなくなった。軍団だけでなく、帝国軍全体で通信の運用を見直す必要があるだろう」
アウレリアがうなずいた。
「確かに、通信の内容が敵に知られているのであれば、作戦にも重大な影響が出ます」
「その通りだ。もっとも、敵がどこまで通信内容を理解できているかは、まだ分からん。傍受できることと、暗号を解読できることは別だからな」
ライゼンはエレナに目を向けた。
「だが、こうした情報は、実際の設備を確認しなければ得られない。敵の後方深くへ侵入し、写真という形で証拠を持ち帰った君たちの功績は大きい」
「ありがとうございます」
エレナは姿勢を正した。
高橋も机の上の写真を見ていた。
あのときは、敵の通信設備らしいものを発見したから記録した。
重要な情報かもしれないとは思っていたが、これほど大きな意味があったとは考えていなかった。
敵砲兵陣地の観測と、アンテナの写真撮影。
あの危険な浸透偵察で持ち帰った情報が、思いがけない形で評価されていた。
ライゼンは写真を将校に戻した。
「そして最後に、今回の敵高級将校に対する狙撃だ。グリモフ本人であった可能性が高く、敵の攻勢を頓挫させたと考えられる。これらの功績を総合して、帝国はエレナ班に第三等赤薔薇章を授与することを決定した」
ライゼンは書類を置いた。
「この叙勲については、エレナ班四名全員の功績と認められた」
エレナの表情が変わった。
「四名全員、ですか?」
「そうだ。エレナ伍長、高橋二等兵、そして行方不明となっているミレーナとアルノーの二名だ」
ライゼンは書類を見ながら続けた。
「敵陣地への浸透、砲兵陣地の観測、情報の収集、そして敵高級将校の狙撃。どの任務も班全体の協力がなければ成し遂げられなかった。誰か一人の功績ではない」
エレナは唇を結んだ。
「……ありがとうございます」
「君たちの報告書は読ませてもらった。二名が最後まで任務を遂行したことも承知している」
ライゼンは穏やかな声で言った。
「行方不明であることを理由に、その功績を消すつもりはない」
エレナは深く頭を下げた。
「ありがとうございます、閣下」
その声は、少し震えていた。
高橋も胸の奥が熱くなるのを感じていた。
ミレーナとアルノー。
最後に二人の姿を見た時の光景が、今でも頭から離れなかった。
もし二人が無事に戻ってきていれば、この場に一緒に立っていただろう。
きっとアルノーは、立派な勲章を見て何か冗談を言ったに違いない。
ミレーナも、呆れた顔をしながら笑っていたかもしれない。
「二人の勲章は、ベルノ連隊で預かっていただけるかな?」
ライゼンがオリヴィエに尋ねた。
「はい。責任を持って保管いたします」
「頼む」
ライゼンはうなずいた。
「では、エレナ伍長。前へ」
「はっ!」
エレナが立ち上がり、ライゼンの前に進んだ。
ライゼンは勲章を手に取った。
「エレナ伍長。敵陣地への浸透、敵砲兵の観測、重要な軍事情報の収集、そして敵高級将校の発見と狙撃の指揮。いずれも極めて困難な任務だった」
「はい」
「君の冷静な判断が、一連の作戦の成功につながった。帝国はその功績を高く評価する」
ライゼンはエレナの胸に赤薔薇章を取り付けた。
「第三等赤薔薇章を授与する」
「光栄に存じます!」
エレナは姿勢を正し、敬礼した。
続いてライゼンが高橋を呼んだ。
「高橋二等兵」
「はっ!」
高橋は立ち上がった。
緊張のあまり、少し動作がぎこちなくなった。
ライゼンは微笑んだ。
「そう緊張するな」
「はい!」
「君の狙撃は見事だった。三百メートルという距離もさることながら、混乱した戦場で敵指揮官を見極め、確実に命中させたことを評価している」
高橋は何と答えてよいのか分からなかった。
「それに、君たちは狙撃以外にも重要な任務を果たしている。敵砲兵陣地の観測も、アンテナの写真撮影も、軍団が高く評価している功績だ」
ライゼンは言葉を続けた。
「しかし、何より重要なのは、君が与えられた任務を最後まで遂行したことだ」
ライゼンは赤薔薇章を手に取った。
「高橋亘一二等兵。帝国への顕著な軍功を称え、第三等赤薔薇章を授与する」
ライゼンが高橋の胸に勲章を取り付けた。
「ありがとうございます!」
高橋は敬礼した。
胸元で赤い薔薇が輝いていた。
日本から召喚され、何も分からないまま兵士になった。
訓練を受け、戦場へ送られ、魔族と戦った。
仲間も失った。
そして今、帝国の軍団司令官から勲章を授与されている。
何とも不思議な気分だった。
* * *
「さて、もう一つ話がある」
ライゼンが席に戻ると、側近の将校が新しい書類を差し出した。
「第三等赤薔薇章には、一般兵士と下士官に対する特別な待遇が定められている」
高橋は顔を上げた。
「待遇、ですか?」
「そうだ。二階級特進だ」
「二階級?」
高橋は思わず聞き返した。
ライゼンはうなずいた。
「エレナ伍長。君は今回の叙勲に伴い、二階級特進となる」
「はっ!」
「伍長から軍曹を経て、曹長だ」
エレナは目を見開いた。
「曹長……ですか?」
「そうだ。正式な昇進だ」
エレナは一瞬、言葉を失った。
曹長といえば、下士官の中でも相当に高い階級である。
小隊内では古参の班長や経験豊富な下士官が就いている階級だった。
「ありがとうございます。ですが、私はまだ……」
「経験が足りない、とでも言うつもりか?」
ライゼンが笑った。
「君の勤務記録も確認している。年齢、軍歴、これまでの任務実績を考えれば、何ら不自然ではない」
オリヴィエが横から口を挟んだ。
「エレナ。素直に受け取りなさい。あなたには、それだけの仕事をしてもらっているわ」
「……はい。ありがとうございます」
エレナは深く頭を下げた。
「そして、高橋二等兵」
「はい!」
「君については、少し手続きが異なる」
ライゼンは書類に目を落とした。
「本来、君はベルノに帰還してから一等兵へ昇進する予定だったそうだな」
「はい。そう聞いています」
「今回の戦功を考えれば、その昇進を待つ必要はない。まず、通常の昇進を前倒しして一等兵とする」
「はい」
「そのうえで、第三等赤薔薇章による二階級特進を適用する。一等兵から上等兵、そして兵長だ」
高橋は一瞬、意味が分からなかった。
「……兵長、ですか?」
「そうだ。正式な階級としての兵長だ」
高橋は思わずエレナの方を見た。
エレナも少し驚いた顔をしていたが、やがて嬉しそうに微笑んだ。
「よかったじゃない、亘一」
「いや、でも……」
「何だ。不満かね?」
ライゼンが尋ねた。
「いえ! そういうわけではありません!」
高橋は慌てて姿勢を正した。
ライゼンは声を上げて笑った。
「そうか。それならよろしい」
オリヴィエも笑っていた。
「高橋、あなたは本当に出世に興味がないのね」
「そんなことは……」
「普通なら大喜びするところよ」
アウレリアも微笑んだ。
「高橋兵長、おめでとうございます」
そう言われて、高橋はようやく実感が湧いてきた。
兵長。
ついこの間まで二等兵だった自分が、兵長になる。
もっとも、何をすればよいのかは、今までとそれほど変わらないような気もした。
「ありがとうございます」
高橋は改めて頭を下げた。
ライゼンは満足そうにうなずいた。
「正式な辞令は追って交付する。階級章の交換などは、ベルノに戻ってからでも構わん」
「はっ!」
「それと、もう一つあったな」
ライゼンは側近の将校に目を向けた。
「例の明細を」
「はっ」
将校が数枚の書類を差し出した。
ライゼンはそれを受け取ると、エレナと高橋の前に置いた。
「あと、こちらの明細も確認してくれたまえ」
「明細、ですか?」
エレナが書類を手に取った。
高橋も横から覗き込む。
そこには、報奨金支給明細と記されていた。
「……報奨金?」
高橋が思わず声を漏らした。
「そうだ。帝室薔薇勲章の受章者には、その等級に応じた報奨金が支給される。今回の二階級特進とは別の褒賞だ」
ライゼンは説明を続けた。
「第三等赤薔薇章についても、帝国が定めた金額が支給されることになっている」
エレナは明細に目を落とした。
そこには受章した勲章の等級と、報奨金の支給額が記されていた。
「……ずいぶんな金額ですね」
エレナが驚いたように言った。
「第三等だからな。一般の兵士や下士官が受章する勲章としては最高位にあたる。当然、報奨金もそれに見合ったものになる」
ライゼンは笑った。
高橋も明細を見ていた。
普段の俸給とは桁の違う金額だった。
「あの、これ、本当に僕たちがいただけるんですか?」
「もちろんだ。帝国が定めた正式な報奨金だぞ」
「はあ……」
高橋は何とも間の抜けた返事をした。
ライゼンは面白そうに笑った。
「勲章や昇進よりも、報奨金の方が驚いたようだな」
「い、いえ、そんなことは……」
高橋は慌てた。
オリヴィエが横から笑いながら言った。
「いいじゃない。高橋、遠慮しないでもらっておきなさい。命がけで働いたんだから」
「はい。ありがとうございます」
エレナは明細をもう一度確認した。
そして、ふと思い出したように顔を上げた。
「閣下。ミレーナとアルノーの分は、どうなるのでしょうか?」
ライゼンの表情が少し真面目になった。
「二人についても第三等赤薔薇章の授与が認められている。当然、報奨金も同額だ」
ライゼンは書類に目を落とした。
「ただし、二人は現在行方不明者として扱われている。そのため、報奨金は当面、軍が保管することになる」
「そうですか……」
「帝国軍では、行方不明となってから一年が経過しても生存が確認できない場合、死亡したものとして扱う規定になっている」
ライゼンは説明を続けた。
「その場合、二人の報奨金は遺族へ支給されることになる」
エレナは静かにうなずいた。
「分かりました。ありがとうございます」
「無論、一年以内に生存が確認されれば、本人に支給される。まだ二人の死亡が確認されたわけではないからな」
「はい……」
エレナは短く答えた。
あの戦場から、すでに何日も経っている。
魔族に連れ去られた可能性が高いことは分かっていた。それでも、二人がどこかで生きているかもしれないという希望を、完全に捨てることはできなかった。
ライゼンは少し声を和らげた。
「勲章も報奨金も、二人の功績が正式に認められた証だ。生死が確認できていないからといって、その評価が変わることはない」
「ありがとうございます、閣下」
エレナは深く頭を下げた。
ライゼンは静かにうなずいた。
それから、ふと思い出したように高橋へ視線を向けた。
「ところで、高橋兵長」
「はい!」
「君はこの二か月の戦闘で、魔族を何体倒したのかね?」
「え、と……」
高橋は返答に詰まった。
何度も狙撃を行ったことは覚えている。しかし、正確な数を聞かれるとは思っていなかった。
少し困ったようにエレナを見る。
その様子を見て、エレナが代わりに答えた。
「確認された撃破数は六体です」
「六体か」
ライゼンは興味深そうに高橋を見た。
「どうやら、あまり数にはこだわっていないようだね」
「はい。あまり意識していませんでした」
「まあ、その方がいいかもしれんな。敵を何体倒したかよりも、任務を確実に果たすことの方が大切だ」
ライゼンは少し考えるような表情を見せた。
「実はな、高橋兵長。君には私から渡したいものがある」
「えっ?」
「本当は今日、ここで渡したかったのだが、あいにく間に合わなくてね」
ライゼンは笑った。
「私個人からの贈り物なんだが、ベルノに送らせてもらうことにする」
「はあ……ありがとうございます」
高橋は戸惑いながら頭を下げた。
「あの、何をいただけるのでしょうか?」
「それは秘密だ」
ライゼンは愉快そうに笑った。
「届いてからのお楽しみということにしてくれたまえ」
「は、はい」
高橋はますます困惑した。
軍団司令官から個人的な贈り物。
勲章に昇進、報奨金だけでも驚いているというのに、今度はいったい何なのだろう。
隣のエレナも、不思議そうな顔をしていた。
オリヴィエが笑いながら言った。
「高橋、よかったじゃない。大将閣下からの贈り物なんて、なかなかいただけるものじゃないわよ」
「そうですね……」
高橋は曖昧にうなずいた。
ライゼンは満足そうに笑った。
「まあ、楽しみにしていてくれ」
そして、今度はエレナに目を向けた。
「それと、エレナ曹長」
「はい」
「今後も高橋兵長をしっかり指導してやってくれ」
その言葉に、エレナは少し笑った。
「もちろんです、閣下」
「頼もしいな」
ライゼンは笑いながらオリヴィエに目を向けた。
「ところで、オリヴィエ大佐。この二人は普段から同じ班で行動しているのだな?」
「ええ。エレナの班に高橋を配属しています」
「なるほど。今回の功績を見る限り、なかなかよい組み合わせのようだ」
オリヴィエは口元に笑みを浮かべた。
「ええ。私もそう思っています」
エレナは何となく嫌な予感がした。
オリヴィエが、こういう顔をする時は大抵ろくなことを言わない。
「仕事の上でも、私生活でも、とても仲がいいんですよ」
「オリヴィエ大佐!」
エレナが思わず声を上げた。
ライゼンは一瞬きょとんとしたあと、愉快そうに笑った。
「ほう。そういうことか」
「い、いえ、その……」
エレナが珍しく言葉に詰まっている。
高橋は隣で顔を赤くしていた。
アウレリアは困ったように微笑んだ。
「オリヴィエ大佐。高橋兵長が困っていますよ」
「あら、そう?」
オリヴィエは楽しそうに笑っていた。
ライゼンも声を上げて笑った。
「ははは。結構なことじゃないか。戦場で命を預け合う仲間が、それほど信頼し合っているのなら、何よりだ」
エレナは小さくため息をついた。
高橋は、黙ってうつむくしかなかった。
* * *
笑いが収まると、ライゼンは改めて四人を見渡した。
「さて、今日の用件はこれで終わりだ」
そして、少し真面目な表情になった。
「オリヴィエ大佐。ベルノ連隊は大きな損害を受けた。再編には相当な時間が必要だろう」
「はい。承知しております」
「軍団としても、補充兵や装備の手配について可能な限り支援するつもりだ。ただし、当面は十分な休養と部隊の立て直しを優先してほしい」
「ありがとうございます」
「君たちはよく戦った。しばらくはベルノで身体を休めるといい」
ライゼンはエレナと高橋に目を向けた。
「二人もだ。勲章をもらったからといって、すぐに次の戦場へ行く必要はない」
「はっ!」
二人が答えた。
ライゼンはゆっくりとうなずいた。
「生きて帰ることも、兵士の大切な仕事だ。忘れるなよ」
その言葉に、高橋は胸の赤薔薇章を見下ろした。
ミレーナとアルノー。
第2中隊の兵士たち。
そして、名前を知ることもなかった多くの戦死者たち。
この勲章は、自分一人の力で手に入れたものではなかった。
「はい。忘れません」
高橋は静かに答えた。
ライゼンは満足そうに微笑んだ。
「よろしい。では、ベルノへの帰還を許可する」
四人は立ち上がり、姿勢を正した。
ライゼン大将に敬礼する。
軍団司令官は、その敬礼にゆっくりと答えた。
こうして、サラミスでの軍団司令部への出頭は終わった。
* * *
ライゼン大将の執務室を退出した四人は、案内の将校に従って廊下を歩いていた。
高橋は何度か自分の胸元に目を落とした。
そこには、先ほど授与されたばかりの第三等赤薔薇章が輝いていた。
勲章をもらったことも驚きだったが、兵長への昇進はもっと意外だった。
まだ二等兵の階級章をつけているというのに、正式な辞令が交付されれば兵長になるという。
「どうしたの、亘一。さっきから勲章ばかり見てるわね」
隣を歩くエレナが笑った。
「いや、なんだか実感がなくて……」
「私だってそうよ。まさか曹長になるなんて思ってなかったわ」
「エレナは似合うと思いますけど」
「あら、そう?」
「はい。もう班長をずっとやってますし」
「ふふっ。ありがとう」
その後ろを歩いていたオリヴィエが口を挟んだ。
「あなたたち、まだ階級章を替えていないんだから、あまり偉そうにしないでちょうだいね」
「オリヴィエ大佐、そんなことしませんよ」
エレナが苦笑した。
「冗談よ。二人とも、おめでとう」
オリヴィエは柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます」
二人は揃って答えた。
司令部の玄関を出ると、先ほどの乗用車が待っていた。
運転兵が四人の姿を認め、車の扉を開く。
「さて、これからの予定ですが」
アウレリアが手帳を取り出した。
「本日はサラミス市内のホテルに一泊します。明日は午前中に陸軍病院を訪問する予定です」
「病院?」
高橋が顔を上げた。
「はい。今回の戦闘で負傷し、サラミスへ後送されたベルノ連隊の兵士たちが入院しています。オリヴィエ大佐が直接お見舞いになる予定です」
オリヴィエがうなずいた。
「本当なら全員に会いたいところだけど、ほかの病院に送られた兵士もいるからね。今回はサラミスにいる子たちだけになるわ」
アウレリアが続けた。
「病院への訪問を終えた後、午後に出発します。浸透偵察小隊との合流は夕方になる見込みです」
「ヴァルター少佐たちは、もう移動しているんですか?」
エレナが尋ねた。
「はい。小隊は予定どおり帰還の途についています。私たちは途中で合流することになります」
「そうですか」
エレナはうなずいた。
オリヴィエは二人に目を向けた。
「ところで、エレナ。あなたたちはどうする?」
「と、おっしゃいますと?」
「明日のことよ。私たちと一緒に病院へ行ってもいいし、ホテルで休んでいても構わないわ。せっかくの機会だから、市内を見て回ってもいいのよ」
エレナは高橋を見た。
「亘一、どうする?」
高橋は少し考えてから答えた。
「あの、僕も病院へ行きたいです」
「あら、そう?」
「はい。第2中隊の岡田が、サラミスの病院に入院していると聞いていますので」
オリヴィエの表情が少し真面目になった。
「岡田……ああ、ナゲフ陣地で負傷した兵士ね」
「はい。第20期の同期なんです」
高橋は続けた。
「重傷だったと聞いていますけど、その後どうなったのか分からなくて……。できれば顔を見ておきたいんです」
オリヴィエは静かにうなずいた。
「そうね。心配でしょう」
「はい」
「アウレリア、岡田の入院先は分かる?」
「サラミス陸軍病院へ後送された記録があります。ただ、現在の病状については、まだ詳しい報告を受けておりません」
「では、明日確認しましょう」
オリヴィエは高橋に向き直った。
「高橋、あなたも一緒に来なさい。同期の顔を見てあげるといいわ」
「ありがとうございます!」
高橋は頭を下げた。
「エレナは?」
「私も一緒に行きます」
「そう。じゃあ、四人で行きましょう」
アウレリアが手帳を閉じた。
「では、明日は四人で病院へ向かうことにいたしましょう」
* * *
乗用車が司令部を出発した。
午後の日差しが傾き始めたサラミスの街を、車はゆっくりと走っていく。
高橋は助手席から街並みを眺めていた。
石造りの建物が並ぶ大通りには、商店や食堂が軒を連ねている。買い物袋を下げた女性たちや、学校帰りらしい子供たちの姿もあった。
戦場からそれほど遠く離れていない街だというのに、人々の日常は変わらず続いていた。
その様子を見ていると、ほんの数日前まで砲弾の飛び交う陣地にいたことが、遠い昔の出来事のように感じられた。
「岡田、元気だといいんですけど……」
高橋がぽつりと言った。
後部座席のエレナが答えた。
「重傷だったんでしょう? すぐに元気になるのは難しいかもしれないわね」
「そうですね」
「でも、生きているんだから。会えるうちに会っておいた方がいいわ」
「はい」
高橋は静かにうなずいた。
第2中隊の損害は、あまりにも大きかった。
同期の召喚者たちも、三十九名のうち三十六名が戦死または行方不明になっている。
岡田は、その数少ない生存者の一人だった。
高橋は胸元の赤薔薇章に手を触れた。
今日、自分は勲章をもらい、兵長への昇進まで決まった。
だが、同じ戦場にいた同期たちの多くは、もう帰ってこない。
そのことを考えると、嬉しい気持ちだけではいられなかった。
「亘一」
エレナが声をかけた。
「はい?」
「明日は岡田さんに、いろいろ話してあげなさい。ベルノに帰ったらどうするかとか、そんな話でいいのよ」
「……はい」
「病院にいると、外のことが分からなくなるものだから」
エレナは穏やかに言った。
「あなたが元気な顔を見せるだけでも、きっと喜んでくれるわ」
高橋は振り返り、小さく笑った。
「そうですね」
オリヴィエは二人の会話を黙って聞いていた。
やがて窓の外へ目を向けると、小さく息を吐いた。
「……本当に、みんなよく頑張ったわ」
誰に聞かせるでもない、その一言だった。
アウレリアだけが、静かにうなずいた。
* * *
乗用車はサラミス市街の中心部へと入っていった。
大通りには商店や飲食店が立ち並び、夕方が近づいたこともあって、行き交う人々の姿が増えていた。
やがて車は、大きな石造りの建物の前で速度を落とした。
「到着いたしました」
運転兵がそう告げると、車は立派な玄関の前に停車した。
高橋は窓の外を見上げた。
「……え?」
目の前には、五階建ての大きな建物がそびえていた。
白い石材で飾られた外壁には彫刻が施され、正面玄関には大きな屋根が張り出している。入口の両側には装飾された柱が立ち、磨き上げられたガラス扉の向こうには、豪華な照明が見えた。
玄関前には数台の馬車が停まり、立派な服装の紳士や婦人たちが出入りしている。
「……ここですか?」
高橋が思わず尋ねた。
「そうよ。今夜はここに泊まるの」
オリヴィエが何でもないことのように答えた。
「ずいぶん立派なホテルですね……」
エレナも驚いた様子で建物を見上げていた。
「普通は兵舎ですから、軍務でホテルに泊まるのは初めてです」
オリヴィエは笑った。
「英雄を兵舎に泊まらせないわよ。軍団の手配だから、遠慮はいらないわ」
「英雄だなんて……」
エレナは少し困ったように笑った。
高橋はもう一度建物を見上げた。
日本でも、こんなホテルには泊まったことがない。
「なんだか、場違いな気がします」
高橋が呟くと、エレナも小さくうなずいた。
「私もよ」
その二人の様子を見て、オリヴィエが楽しそうに笑った。
「何を言っているの。二人とも、今日勲章をもらったばかりじゃない」
「それとこれとは別ですよ」
エレナが苦笑した。
「ふふっ。まあ、いいから入りましょう」
車を降りると、ホテルの従業員がすぐに近づいてきた。
「ようこそお越しくださいました」
揃いの制服を着た従業員が、丁寧に頭を下げた。
「ベルノ伯爵閣下でいらっしゃいますね。お待ちしておりました」
「ええ。お世話になるわ」
「お荷物をお預かりいたします」
高橋は反射的に自分の鞄を抱え直した。
「あ、いえ。自分で持てますので」
従業員は一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。
「かしこまりました」
そのやり取りを見ていたエレナが、小声で言った。
「亘一、こういうところでは預けていいのよ」
「いや、なんか慣れなくて……」
「私も慣れてないけど」
二人は顔を見合わせて笑った。
玄関を入ったところで、高橋は再び足を止めた。
広いロビーには、磨き上げられた大理石の床が広がっていた。
天井からは大きなシャンデリアが下がり、壁には金色の装飾が施されている。奥には絨毯の敷かれた大階段があり、その脇にはゆったりとした椅子やソファが並んでいた。
大きな花瓶には色鮮やかな花が飾られ、どこからか静かなピアノの音が聞こえてくる。
「……すごいですね」
高橋が呟いた。
「本当に……」
エレナもロビーを見回していた。
つい数日前まで、二人は森の中の天幕で寝起きしていた。
食事は野戦炊事場から運ばれてくるものだったし、風呂に入れる日も限られていた。
それが今は、大理石の床にシャンデリアである。
あまりの落差に、何だか落ち着かなかった。
「エレナ、亘一。そんなところに立っていないで、こっちへいらっしゃい」
オリヴィエが受付の方から声をかけた。
「はい!」
二人は慌てて後を追った。
受付では、アウレリアが宿泊の手続きを進めていた。
ホテルの支配人らしい男性が現れ、オリヴィエに深々と頭を下げる。
「ベルノ伯爵閣下。このたびは当ホテルをご利用いただき、誠にありがとうございます」
「こちらこそ、お世話になるわ」
「お部屋はすべて準備が整っております。お食事につきましても、ご希望のお時間にご用意いたします」
「ありがとう。夕食は少し遅めでお願いできるかしら」
「かしこまりました」
高橋はそのやり取りを、少し離れたところから眺めていた。
オリヴィエは普段、連隊長として兵士たちと気さくに話している。
しかし、こうして見ると、やはり伯爵なのだと実感する。
「ねえ、亘一」
エレナが小声で話しかけてきた。
「はい?」
「私たち、本当にここに泊まっていいのかしら」
「……僕に聞かれても」
高橋は困ったように笑った。
* * *
手続きを終えると、従業員が四人を客室へと案内した。
階段には厚い絨毯が敷かれ、廊下の壁には風景画が飾られている。
足音さえ、ほとんど響かなかった。
案内された客室の前で従業員が扉を開けると、高橋はまた驚いた。
部屋には大きな寝台があり、清潔な白いシーツがきれいに整えられていた。
窓際には小さなテーブルと椅子が置かれ、壁には鏡付きの洗面台が備え付けられている。
さらに奥には浴室まであった。
「……風呂まである」
高橋が思わず声を漏らした。
従業員が丁寧に説明する。
「お湯はいつでもお使いいただけます。何かございましたら、係の者にお申しつけください」
「あ、ありがとうございます」
従業員が一礼して退出すると、高橋は部屋の中を見回した。
エレナも興味深そうに浴室を覗いている。
「すごいわね。部屋にお風呂があるなんて」
「本当ですね」
「しかも、こんなに大きな寝台まで」
エレナは寝台の端を軽く押してみた。
「柔らかい……」
高橋も触ってみた。
確かに柔らかかった。
森の中で使っていた簡易寝台とは、比べものにならない。
「なんだか、別の世界に来たみたいですね」
高橋が言った。
エレナは笑った。
「亘一は、もう別の世界に来ているじゃない」
「あ、そうでした」
二人は顔を見合わせて笑った。
しばらくして、廊下からオリヴィエの声が聞こえてきた。
「二人とも、部屋はどう?」
「すごく立派です!」
高橋が答えると、オリヴィエが笑った。
「気に入ったならよかったわ。明日は九時集合でいいわね。朝食は一階のロビーだから、ここで落ち合いましょう」
「分かりました」
エレナが答えた。
「それじゃあ、お二人さん、ごゆっくり」
オリヴィエは微笑むと、自分の部屋へ戻っていった。
エレナは窓際へ歩み寄り、カーテンを開いた。
窓の外には、夕暮れのサラミスの街並みが広がっていた。
遠くには駅の屋根が見え、その向こうでは蒸気機関車が白い煙を上げている。
「きれいな街ね」
「そうですね」
高橋も隣に立った。
しばらく二人は、窓の外を眺めていた。
「……なんだか、急に平和な場所に戻ってきた気がします」
高橋が言った。
「そうね」
エレナは静かに答えた。
「でも、まだ戦争は終わっていないわ」
「はい」
「明日は病院へ行きましょう。岡田さんにも会えるといいわね」
「そうですね」
高橋はうなずいた。
豪華なホテルの窓の向こうでは、街の人々がいつもどおりの夕方を過ごしていた。
その光景は、ほんの数日前まで戦場にいた二人には、少しまぶしく感じられた。
* * *
夕暮れが過ぎ、窓の外にはサラミスの街の明かりが灯り始めていた。
エレナと高橋は、部屋のソファに腰掛けてくつろいでいた。
戦場にいたことが嘘のような、静かな時間だった。
その時、扉を叩く音がした。
「お夕食をお持ちいたしました」
エレナが扉を開けると、白い上着を着た従業員が、料理を載せたワゴンを押して入ってきた。
「こちらへご用意してもよろしいでしょうか?」
「ええ、お願いします」
従業員は窓際のテーブルに白い布を掛け、手際よく食器を並べ始めた。
銀色の蓋が一つずつ外されると、温かな料理の香りが部屋いっぱいに広がった。
焼きたてのパンに、野菜のスープ。香草を添えた肉料理、色鮮やかな温野菜。そして、小さな焼き菓子まで用意されていた。
食器は白い磁器で統一され、磨かれた銀色のナイフとフォークが並べられる。
高橋は、その様子を目を丸くして眺めていた。
「……すごいですね」
従業員が一礼して退出すると、高橋は改めてテーブルを見た。
「部屋食って、初めてですよ」
エレナも料理を眺めながら笑った。
「私もよ」
「エレナも初めてなんですか?」
「ええ。軍務中は兵舎か天幕でしょ。食事も食堂か野戦炊事場だもの。こんなふうに部屋まで運んでもらったことなんてないわ」
「そうですよね」
高橋は椅子に腰掛けた。
「なんだか、貴族になったみたいですね」
「ふふっ。オリヴィエ大佐なら、こういうのも慣れているんでしょうね」
「でしょうね。伯爵ですから」
エレナも向かいの椅子に座った。
「それにしても、ずいぶん豪華ね」
「はい。前線の食事とは大違いです」
「前線の食事だって、補給が届いている間は悪くなかったわよ」
「それはそうですけど……」
高橋は目の前の肉料理を見た。
「でも、こんなのは出ませんでしたよ」
「それは確かにそうね」
二人は笑った。
「いただきます」
高橋が手を合わせると、エレナもそれに倣った。
「いただきます」
ナイフを入れると、肉は驚くほど柔らかかった。
口に運ぶと、香草の香りと肉汁が広がる。
「……おいしい」
高橋は思わず声を漏らした。
「本当ね。こんなに柔らかいお肉、久しぶりだわ」
エレナも満足そうに微笑んだ。
しばらく二人は、料理を楽しんだ。
「それにしても、今日は驚くことばかりでしたね」
高橋が言った。
「そうね。軍団司令部に呼ばれたと思ったら、勲章をもらって、昇進まで決まって……」
「それで、こんなホテルですからね」
「ふふっ。本当にね」
エレナはワイングラスを手に取った。
「でも、たまにはこんな日があってもいいんじゃない?」
「そうですね」
高橋はうなずいた。
数日前まで、二人は敵の砲撃を警戒しながら森の中で寝起きしていた。
今は柔らかな椅子に座り、温かい料理を食べている。
その落差は、あまりにも大きかった。
食事が半分ほど進んだ頃、エレナがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば亘一。第2中隊の生存者名簿を見たんだけど、リュージュって子もサラミスの病院にいるらしいわよ。新年に会った子ね。あなたと知り合いでしょう?」
「リュージュが生きてるんですか!」
高橋は思わず顔を上げた。
「ええ。負傷して後送されたみたいだけど、生存者名簿に名前があったわ」
「よかった……本当によかったです!」
高橋の顔に、久しぶりに明るい笑顔が浮かんだ。
「訓練所の頃からの知り合いなんです。寝台も近くて、水野先生やサクと一緒によく話してました」
「そうだったのね。新年の時も、ずいぶん楽しそうに話していたわ」
「はい。あの時も元気いっぱいでしたから」
高橋は嬉しそうに笑った。
「第2中隊があんなことになって、リュージュもどうなったのか心配だったんです」
「そうよね。あれだけの損害だったもの」
「でも、生きていてくれたんですね……」
高橋はほっとしたように息を吐いた。
新年の酒場で、楽しそうに笑っていた金髪のエルフの女性。
あの明るい笑顔を、もう一度見られるかもしれない。
「それで、怪我はひどいんですか?」
「砲撃で負傷したそうだけど、詳しい容体までは分からなかったわ」
「そうですか……」
「明日、会いに行きましょう」
「はい! 岡田とリュージュ、二人ともお見舞いしたいです」
「ええ、そうしましょう」
エレナは嬉しそうな高橋を見て、柔らかく微笑んだ。
「さあ、食べましょう。せっかくのお料理が冷めちゃうわ」
「そうですね!」
高橋は再びフォークを手に取った。
第2中隊の同期たちの多くは、もう帰ってこない。
それでも、岡田とリュージュは生きていた。
そのことが、今の高橋には何より嬉しかった。
* * *
夕食を終え、従業員が食器を片付けていくと、部屋には再び静けさが戻った。
エレナは椅子から立ち上がり、浴室の扉を開けた。
「亘一、ちょっと来て」
「はい?」
高橋が覗き込むと、そこには白い陶器製の大きな浴槽が据え付けられていた。
壁には鏡が取り付けられ、洗面台の横には清潔なタオルが何枚も用意されている。
「すごいですね。ちゃんと浴槽がある」
「本当ね。シャワーだけじゃないのね」
エレナは浴槽の縁に手を置いた。
「ようやく人並みの生活ね」
その言葉に、高橋は思わず笑った。
「確かに。前線じゃ、お湯が使えるだけでもありがたかったですからね」
「それに、ちゃんとお風呂に入れるなんて。髪もゆっくり洗えるわ」
エレナは自分の長い髪を指先ですくった。
前線では湯を使える時間が限られていた。髪を洗うにも手早く済ませなければならず、落ち着いて身体を温める余裕などなかった。
「よし、決めたわ。一緒に入りましょう」
「えっ?」
「何よ。今さら遠慮することないでしょう?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「ふふっ。じゃあ、お湯を張りましょう」
エレナは楽しそうに笑った。
* * *
しばらくして、浴室には温かな湯気が満ちていた。
二人で浴槽に身体を沈めると、高橋は思わず長いため息をついた。
「はあぁ……」
「ふふっ。ずいぶん気持ちよさそうね」
「いや、本当に……生き返る感じがします」
「私もよ」
エレナは浴槽の縁に頭を預け、目を閉じた。
「こんなにゆっくりお湯につかるの、いつ以来かしら」
「ベルノにいた頃以来じゃないですか?」
「そうかもしれないわね」
浴室には、時折お湯の揺れる音だけが響いていた。
高橋も目を閉じた。
温かい。
ただ、それだけのことが、こんなにもありがたかった。
前線では常に寒さと隣り合わせだった。夜間の警戒、雪の残る森林での偵察、敵陣地への浸透。
身体のどこかに、いつも力が入っていたような気がする。
それが今、少しずつ抜けていく。
「亘一」
「はい?」
「背中、洗ってあげる」
「あ、ありがとうございます」
エレナは石鹸を泡立て、高橋の背中をゆっくり洗い始めた。
「……ずいぶん肩が固くなってるわね」
「そうですか?」
「ええ。ずっと緊張していたんでしょうね」
エレナの手が、高橋の肩を優しくほぐした。
「エレナだって、疲れてるでしょう」
「もちろんよ。でも、今はこうして休めているから」
高橋は少し振り返った。
「じゃあ、僕も髪を洗いますよ」
「あら、お願いしていい?」
「はい。今日は時間もありますし」
エレナは嬉しそうに笑った。
高橋は彼女の長い髪を丁寧に濡らし、石鹸を泡立てた。
指先で髪を洗っていくと、エレナが気持ちよさそうに目を閉じる。
「……ああ、気持ちいい」
「力加減、大丈夫ですか?」
「ええ。ちょうどいいわ」
エレナは小さく息を吐いた。
「やっぱり、長い髪は手入れが大変なのよね。前線だとなかなか洗えないし」
「短くしようとは思わないんですか?」
「思わないわ。せっかく伸ばしたんだもの」
「そうですよね」
「それに、亘一も気に入ってくれているでしょう?」
「はい。綺麗だと思います」
「ふふっ。ありがとう」
エレナは満足そうに微笑んだ。
* * *
髪と身体を洗い終え、二人はもう一度浴槽につかった。
高橋は湯に肩まで沈み、天井を見上げた。
「……なんだか、ようやく帰ってきた気がします」
「ベルノには、まだ着いていないわよ」
「そうですけど……」
「ふふっ。言いたいことは分かるわ」
エレナは高橋の隣に身体を寄せた。
「ねえ、亘一。こうやって二人っきりでゆっくりするのって、帝都の夜以来だわね」
「そうですね。あれから、ずっと戦場でしたから」
「本当に長かったわね……」
エレナは高橋の肩に頭を預けた。
湯気に包まれた浴室には、二人のほかには誰もいない。
濡れた長い髪を肩に流し、頬をほんのり赤く染めたエレナが、すぐ隣にいる。
高橋は思わず見とれてしまった。
普段の軍服姿とは違う、柔らかな表情。
いつも綺麗だとは思っていたが、今夜のエレナは妙に色っぽく見えた。
それだけではなかった。
戦場にいる間、高橋は何度も死を覚悟した。
敵の監視をかいくぐり、息を潜めて進む夜の森林。
もし発見されれば、敵に追われ、逃げ道を失うかもしれない。味方の陣地まで戻れる保証など、どこにもなかった。
そんな日々が終わり、ようやく二人きりになれた。
エレナが生きている。
自分も生きている。
そして今、彼女がすぐ隣にいる。
そう思うと、胸の奥から抑えきれない感情が湧き上がってきた。
「……亘一?」
「は、はい?」
「何をそんなに見ているの?」
「いや、その……エレナが綺麗で」
エレナは一瞬目を丸くした。
そして嬉しそうに笑った。
「あら。今日はずいぶん素直なのね」
「本当にそう思ったんです」
「ふふっ。ありがとう」
エレナは高橋の頬にそっと手を添えた。
「ねえ、亘一。キスして」
「……はい」
高橋は顔を近づけ、エレナの唇に軽くキスをした。
唇が離れると、エレナは少し不満そうに高橋を見つめた。
「……それだけ?」
「え?」
「もっと長いやつがいいわ」
エレナは悪戯っぽく微笑んだ。
高橋はその笑顔を見つめた。
「……僕も、そのつもりでした」
「あら?」
今度は高橋の方から、エレナをしっかりと抱き寄せた。
「亘一……?」
少し驚いたエレナの唇に、高橋はもう一度口づけた。
先ほどとは違う、長く情熱的な口づけだった。
エレナも高橋の背中に腕を回し、抱き締め返した。
しばらくして唇が離れると、エレナは高橋の顔を見上げた。
「……ふふっ。今日は積極的ね」
「すみません。なんだか、我慢できなくて」
「謝らなくていいわよ」
エレナは嬉しそうに笑った。
「私だって、ずっとこうしたかったんだから」
高橋は彼女を抱き締めたまま、静かに言った。
「戦場にいる時、何度も考えたんです」
「何を?」
「もう一度、エレナとこうして過ごしたいって」
エレナの表情が柔らかくなった。
「……私もよ」
「だから、今日は離したくないです」
高橋がそう言うと、エレナは少し驚いたように目を見開いた。
そして、幸せそうに微笑んだ。
「……もう。そんなこと言われたら、私だって離れられなくなるじゃない」
今度はエレナの方から、高橋に口づけた。
二人はもう一度、強く抱き合った。
どちらからともなく唇を重ね、互いのぬくもりを確かめ合う。
戦場では決して許されなかった、何も警戒しなくてよい時間。
高橋はエレナを抱き締めながら、ようやく自分が戦場から帰ってきたのだと実感していた。
やがてエレナが、少し息を弾ませながら笑った。
「……亘一」
「はい?」
「今日は、戦場のことは忘れましょう」
「はい」
「私たち、ちゃんと生きて帰ってこられたんだから」
エレナは高橋の頬を優しく撫でた。
「今夜くらい、二人で幸せな気分になってもいいでしょう?」
高橋は彼女を見つめた。
「……今夜だけじゃなくて、これからもずっと、こうしていたいです」
エレナは一瞬黙った。
そして、高橋の胸に顔を寄せた。
「……嬉しいこと言ってくれるわね」
高橋は彼女の濡れた髪を優しく撫でた。
「エレナ」
「なあに?」
「大好きです」
エレナが顔を上げた。
「……私もよ、亘一」
二人はもう一度、長いキスを交わした。
銃声も砲声も聞こえない。
誰かが敵襲を知らせることもない。
ただ、温かな湯と、愛する人のぬくもりだけがあった。
サラミスの夜は、静かに更けていった。