勇者連隊戦記   作:バグスター

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帝国歴232年4月、サラミス


第2節 岡田修平

翌朝、高橋とエレナがホテルの一階に降りると、オリヴィエ大佐とアウレリア大尉はすでに待っていた。

 

 ロビーに隣接した食堂には、朝食を取る宿泊客の姿があった。

 

 白いテーブルクロスが掛けられた卓上には、焼きたてのパンや卵料理、果物などが並んでいる。

 

「おはようございます」

 

 エレナが声をかけると、オリヴィエが顔を上げた。

 

「あら、おはよう。二人とも、よく眠れた?」

 

「はい。おかげさまで」

 

「僕も、ぐっすり眠れました」

 

 高橋が答えると、オリヴィエは満足そうに笑った。

 

「それはよかったわ。あんな戦場から帰ってきたんだもの。しっかり休まないとね」

 

「おはようございます、エレナ、亘一」

 

 アウレリアも微笑んだ。

 

「おはようございます、アウレリア大尉」

 

 高橋は挨拶を返しながら、アウレリアの足元に目を向けた。

 

 椅子の横に、大きな革鞄が置かれていた。

 

 昨日は持っていなかったものだ。

 

 アウレリアが鞄を少し動かそうとすると、思った以上に重いらしく、両手で持ち上げていた。

 

「アウレリア大尉、その鞄、重そうですね」

 

「ええ。少し重いですね」

 

 アウレリアは苦笑した。

 

「何が入っているんですか?」

 

 高橋が尋ねると、オリヴィエが答えた。

 

「勲章よ」

 

「勲章?」

 

「ええ。今日は病院にいるベルノ連隊の負傷兵たちに、帝国戦傷章を授与することになっているの」

 

 高橋は思わずアウレリアの鞄を見た。

 

「あの中に、勲章が入っているんですか?」

 

「そうよ。昨日、軍団司令部から預かってきたの」

 

 オリヴィエはパンを一切れ取った。

 

「今回の戦闘で負傷した兵士たちには、帝国戦傷章の授与が認められているの。せっかく私たちがサラミスにいるんだから、入院している子たちには直接渡してあげたいと思ってね」

 

 アウレリアが説明を補った。

 

「勲章のほかに授与記録も入っています。病院側には、昨日のうちに連絡を済ませてあります」

 

「そうだったんですね」

 

 高橋はうなずいた。

 

 昨日、自分たちは軍団司令官から勲章を授与された。

 

 だが、同じ戦いで負傷した兵士たちにも、こうして戦功を認める制度があるらしい。

 

「負傷した兵士には、みんな授与されるんですか?」

 

「受章資格を満たした兵士にはね。戦闘中に受けた負傷であることなど、記録の確認は必要だけど」

 

 オリヴィエは答えた。

 

「もちろん、勲章をもらったからといって怪我が治るわけじゃない。でも、国がその兵士の負傷と軍務を正式に認めることには意味があるわ」

 

 その口調は、いつもより少し真面目だった。

 

「私としては、勲章より元気な身体を返してあげたいところだけどね」

 

 アウレリアも静かにうなずいた。

 

 高橋は、第2中隊の損害報告を思い出していた。

 

 百三十名もの戦死者と行方不明者。

 

 生き残った兵士たちの中にも、重い傷を負った者が大勢いる。

 

「……そうですね」

 

 高橋は小さく答えた。

 

 エレナが隣から声をかけた。

 

「亘一、朝食を取りましょう。病院へ行く前に、ちゃんと食べておかないと」

 

「あ、はい」

 

 高橋は気持ちを切り替えた。

 

 食堂の従業員が、二人の前に温かな料理を運んできた。

 

 焼きたてのパンと卵料理。香ばしいソーセージに、野菜の付け合わせ。

 

 そして、淹れたてのコーヒー。

 

「おお、コーヒーだ」

 

 高橋が思わず声を漏らした。

 

「ふふっ。亘一は本当にコーヒーが好きね」

 

 エレナが笑う。

 

「前線じゃ、なかなか飲めませんでしたから」

 

「ベルノに帰ったら、ゆっくり飲めるわよ」

 

「そうですね」

 

 高橋はカップを手に取り、香りを楽しんだ。

 

 昨日の豪華な夕食に続き、今朝も温かな食事が用意されている。

 

 戦場では考えられなかった贅沢だった。

 

 四人は食事を取りながら、その日の予定を確認した。

 

「病院までは車で向かうわ。面会と授与を終えたら、駅へ行くことになるわね」

 

 オリヴィエが言った。

 

「浸透偵察小隊が乗っている軍用列車に、サラミス駅から乗車する手配になっております」

 

 アウレリアが続けた。

 

「列車の停車時刻に合わせて駅へ向かいますので、病院ではあまり長く滞在できません」

 

「分かりました」

 

 エレナが答えた。

 

「岡田とリュージュには会えそうですね」

 

 高橋が尋ねた。

 

「ええ。病院には二人の名前も伝えてあるわ」

 

 オリヴィエは微笑んだ。

 

「心配でしょうけど、まずは実際に顔を見てきなさい」

 

「ありがとうございます」

 

 高橋は頭を下げた。

 

 * * *

 

 朝食を終えた四人は、ホテルを出発した。

 

 玄関前には、昨日と同じ軍団司令部の乗用車が待っていた。

 

 アウレリアが革鞄を持ち上げようとすると、高橋が声をかけた。

 

「あの、僕が持ちましょうか?」

 

「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」

 

 アウレリアは微笑んだ。

 

「中には大切なものが入っていますから、私が持ちます」

 

「そうですか」

 

 高橋はうなずいた。

 

 運転兵が荷物を積み込み、四人が乗り込む。

 

 車はゆっくりと走り出した。

 

 朝のサラミスは、すでに活気に満ちていた。

 

 市場へ向かう荷馬車が通りを進み、店先では商人たちが商品を並べている。

 

 学校へ向かう子供たちの姿もあった。

 

 高橋は窓の外を眺めながら、昨日とは少し違う気持ちで街並みを見ていた。

 

 今日は岡田とリュージュに会える。

 

 特にリュージュの生存を知ったことは、大きな喜びだった。

 

 第2中隊が壊滅したと聞いて以来、同期や知り合いの安否が気になっていた。

 

 その中に、生き残った者がいる。

 

 それだけでも、十分に嬉しかった。

 

 やがて車は市街地の一角にある、大きな病院の敷地へと入った。

 

 サラミス陸軍病院。

 

 石造りの本館を中心に、いくつもの病棟が並んでいた。

 

 建物の周囲には、松葉杖をついて歩く兵士や、車椅子に乗った負傷兵の姿が見えた。

 

 看護兵に付き添われて歩行訓練をしている者もいる。

 

 高橋は、その光景を黙って眺めていた。

 

 戦場からは離れていても、ここには戦争の傷跡があった。

 

 * * *

 

 病院の正面玄関では、軍医らしい将校と数名の看護兵が待っていた。

 

 車から降りたオリヴィエに、軍医が敬礼した。

 

「ベルノ伯爵閣下。お待ちしておりました」

 

「お忙しいところ、申し訳ないわね」

 

「いえ。負傷兵たちも、連隊長閣下のお越しを喜ぶと思います」

 

 オリヴィエは小さくうなずいた。

 

「まずは、戦傷章の授与を済ませたいのだけど」

 

「はい。対象となる兵士の病室と容体については確認しております。移動できない者もおりますので、病室を順に回っていただく形になります」

 

「分かったわ。よろしくお願いするわね」

 

 アウレリアが革鞄を持ち直した。

 

 オリヴィエは高橋とエレナに振り返った。

 

「さて、あなたたちは友人のところに行きなさい」

 

「よろしいんですか?」

 

 エレナが尋ねた。

 

「ええ。私たちは戦傷章の授与があるから、しばらく時間がかかるわ。二人はその間に、お見舞いを済ませておくといいわよ」

 

「ありがとうございます」

 

 高橋が答えた。

 

「岡田とリュージュの病室は、受付で確認してあるわ。案内してもらえるように頼んでおいたから」

 

 オリヴィエは穏やかに微笑んだ。

 

「元気な顔を見せてあげなさい」

 

「はい!」

 

 エレナと高橋は敬礼した。

 

 オリヴィエとアウレリアは軍医の案内で、負傷兵の病棟へと向かっていった。

 

 二人には別の看護兵が付き添った。

 

「リュージュさんと岡田さんですね」

 

「はい」

 

 高橋が答えた。

 

「リュージュさんはこちらの病棟に入院されています。岡田さんは別の病棟になりますので、まずリュージュさんのところへご案内します」

 

「お願いします」

 

 二人は看護兵の後について廊下を歩き始めた。

 

 病院の中には、消毒薬の匂いが漂っていた。

 

 廊下を行き交う看護兵たちは忙しそうで、時折、担架を運ぶ兵士の姿も見えた。

 

 開け放たれた病室の扉からは、寝台に横たわる負傷兵たちの姿が見える。

 

 包帯を巻いた者。

 

 腕を吊っている者。

 

 動くこともできず、天井を見つめている者。

 

 高橋は思わず目を伏せそうになった。

 

 隣を歩くエレナが、小さく声をかけた。

 

「亘一」

 

「はい」

 

「大丈夫?」

 

「……はい」

 

 高橋はうなずいた。

 

 エレナはそれ以上何も言わず、一緒に歩いてくれた。

 

 * * *

 

 看護兵が一つの病室の前で立ち止まった。

 

「こちらです」

 

 扉を軽く叩く。

 

「リュージュさん。お見舞いの方がいらっしゃいましたよ」

 

「はーい!」

 

 中から、明るい女性の声が返ってきた。

 

 高橋は思わず顔を上げた。

 

 聞き覚えのある声だった。

 

 看護兵が扉を開ける。

 

 病室には数台の寝台が並んでいた。

 

 窓際の寝台のそばに、金髪の小柄なエルフの女性が立っていた。

 

 リュージュだった。

 

 病院の患者服を着て、片足をかばうように松葉杖をついている。

 

 だが、その表情は明るかった。

 

「……高橋?」

 

 リュージュが目を丸くした。

 

「リュージュ!」

 

 高橋は思わず声を上げた。

 

「高橋じゃない! どうしたの、こんなところに!」

 

 リュージュの顔が、ぱっと明るくなった。

 

「お見舞いに来たんだよ。昨日、生きてるって聞いて!」

 

「ええっ、わざわざ?」

 

「ああ! よかった……本当に生きてたんだな!」

 

 高橋の顔に、久しぶりに明るい笑顔が浮かんだ。

 

「何よ、それ。勝手に死んだことにしないでよ!」

 

 リュージュが笑う。

 

「いや、だって、第2中隊があんなことになったって聞いたから……」

 

 高橋が言葉を濁すと、リュージュの笑顔が少しだけ曇った。

 

「……そうね」

 

 だが、すぐに表情を戻した。

 

「でも、私はこのとおり。まだ松葉杖が必要だけど、だいぶ歩けるようになったのよ」

 

 そう言って、リュージュは松葉杖を使って数歩移動してみせた。

 

「ほら!」

 

「無理するなよ」

 

「大丈夫、大丈夫!」

 

 リュージュは笑った。

 

 その様子を見て、高橋もようやく安心した。

 

「元気そうでよかった」

 

「ふふっ。ありがと」

 

 リュージュはそこで、エレナに気づいた。

 

「あっ! エレナ伍長!」

 

「こんにちは、リュージュ。新年以来ね」

 

 エレナが微笑んだ。

 

「はい! お久しぶりです!」

 

 リュージュは慌てて姿勢を正そうとしたが、松葉杖が邪魔になって少しよろけた。

 

「あっ」

 

「ほら、無理しないの」

 

 エレナがすぐに手を添えた。

 

「ここは病院なんだから、敬礼なんてしなくていいわよ」

 

「す、すみません」

 

 リュージュは照れくさそうに笑った。

 

「さあ、座りましょう」

 

 エレナに促され、リュージュは寝台に腰を下ろした。

 

 高橋とエレナも、近くに置かれていた椅子に座る。

 

「それにしても、二人とも無事だったんですね」

 

 リュージュが言った。

 

「ええ。私たちの班も大変だったけど、何とか帰ってこられたわ」

 

 エレナが答えた。

 

「そうですか……よかった」

 

 リュージュはほっとしたように息を吐いた。

 

「こっちには、いろんな噂が入ってくるんですよ。ベルノ連隊が大変なことになったとか、魔族の戦車がいっぱい来たとか……」

 

「そうだな。大きな戦闘だったよ」

 

 高橋は静かに答えた。

 

「リュージュは、その前の砲撃で怪我をしたんだよな?」

 

「うん。砲弾が近くに落ちてね。脚をやられちゃったの」

 

 リュージュは松葉杖に目を向けた。

 

「最初はどうなるかと思ったけど、先生が言うには、時間をかければ普通に歩けるようになるだろうって」

 

「それはよかったな!」

 

「うん。でも、しばらくは病院暮らし。退屈で仕方ないわ」

 

 リュージュは少し大げさにため息をついた。

 

 その仕草が、訓練所にいた頃とまったく変わっていなくて、高橋は思わず笑ってしまった。

 

「何よ、高橋。何がおかしいの?」

 

「いや、リュージュらしいなと思って」

 

「あら、そう?」

 

「元気そうで安心したよ」

 

 リュージュは嬉しそうに笑った。

 

「ふふっ。ありがと」

 

 * * *

 

 しばらく訓練所の頃の話や、ベルノでの生活について話しているうちに、高橋はふと思い出した。

 

「あ、そうだ。リュージュ、岡田のこと知ってるか?」

 

「岡田?」

 

「ああ。第2中隊の岡田修平。俺と同じ第20期の」

 

「ああ、岡田ね。知ってるわよ」

 

 リュージュはすぐにうなずいた。

 

「同じ中隊だったし、私が怪我をした時も助けてくれたの」

 

「そうだったのか」

 

「うん。あの時は、本当に助かったわ」

 

 リュージュは少し懐かしそうに言った。

 

「ここに運ばれてからも、何度か顔を見に行ったのよ」

 

 高橋は顔を上げた。

 

「岡田の病室に行ったのか?」

 

「うん。この病院にいるって聞いたから」

 

「それで、岡田はどうだった?」

 

 リュージュは、すぐには答えなかった。

 

 先ほどまでの明るい表情が、少し曇った。

 

「……高橋、まだ聞いてないの?」

 

「え?」

 

 高橋はリュージュを見つめた。

 

「何を?」

 

 リュージュは少し迷ったようだった。

 

 そして、静かに口を開いた。

 

「岡田ね……左足を切断したの」

 

「……え?」

 

 高橋は思わず聞き返した。

 

「左足……切断?」

 

「うん。戦闘でひどい怪我をしたんだって。病院に運ばれてから手術したそうよ」

 

 リュージュは膝の上で両手を重ねた。

 

「命は助かったけど、左足は残せなかったって……」

 

 高橋は何も言えなかった。

 

 岡田修平。

 

 訓練所で同じ時間を過ごし、ベルノ連隊に配属されてからも何度か顔を合わせた同期。

 

 第2中隊のナゲフ分隊に所属し、あの戦闘を生き延びた数少ない日本人の一人だった。

 

 生きていてくれた。

 

 そのことを喜んでいた。

 

 だが、左足を失ったという。

 

「……そうだったのか」

 

 ようやく、それだけ答えた。

 

 エレナも真剣な表情で聞いていた。

 

「岡田さんは、今どんな様子なの?」

 

 リュージュはエレナを見た。

 

「まだ安静にしていないといけないみたいです。でも、意識ははっきりしているし、普通にお話はできますよ」

 

「そう。よかったわ」

 

「何度かお見舞いに行ったんですけど、私の顔を見ると、あいつ、いつも『お前、ちゃんと歩けるようになったのか』って聞くんですよ」

 

 リュージュは少し笑った。

 

「自分の方がずっと大変なのに」

 

 高橋は黙って聞いていた。

 

「だから私も、『ちゃんと歩けるようになるわよ。あんたこそ早く元気になりなさい』って言ってやったの」

 

 リュージュは明るく言おうとした。

 

 だが、その声には少しだけ寂しさが混じっていた。

 

「……岡田、元気だったか?」

 

 高橋が尋ねた。

 

「うん。元気っていうのとは、ちょっと違うかもしれないけど……」

 

 リュージュは言葉を選んだ。

 

「ちゃんと話せるし、私が行くといろいろ聞いてくるわ。ベルノのこととか、ほかの兵士のこととか」

 

「そうか……」

 

「まだ傷が治っていないから、あんまり長く話すのはよくないみたいだけどね」

 

 リュージュは高橋を見た。

 

「会いに行くんでしょう?」

 

「ああ。そのつもりだ」

 

「だったら、きっと喜ぶわよ」

 

 リュージュは微笑んだ。

 

「高橋のことも知ってるし、同じ日本人でしょう?」

 

「ああ」

 

「行ってあげて。ここにいると、本当に退屈なのよ」

 

 高橋はうなずいた。

 

「……分かった」

 

 エレナが静かに声をかけた。

 

「亘一。岡田さんのところへ行きましょうか」

 

「はい」

 

 高橋は立ち上がった。

 

 そして、リュージュに向き直った。

 

「リュージュ。元気な顔が見られて、本当によかったよ」

 

「ふふっ。ありがとう、高橋」

 

「早くよくなってくれよ」

 

「もちろんよ。次に会う時は、松葉杖なしで歩いてみせるから」

 

「楽しみにしてる」

 

 リュージュは笑顔で手を振った。

 

「岡田にもよろしくね!」

 

「ああ!」

 

 高橋も笑って手を振り返した。

 

 エレナが一礼し、二人は病室を出た。

 

 廊下に出ると、病院の静けさが戻ってきた。

 

 高橋はしばらく何も言わずに歩いていた。

 

 エレナも、急かすことなく隣を歩いていた。

 

「……左足、切断ですか」

 

 高橋がぽつりと言った。

 

「ええ……」

 

「生きてるって聞いて、安心してたんですけど……」

 

 高橋は言葉を止めた。

 

 エレナは静かに答えた。

 

「生きて帰れたことは、もちろん大切よ。でも、無事だったわけじゃないものね」

 

「……はい」

 

 廊下の向こうでは、看護兵が車椅子を押していた。

 

 高橋はその姿を見送り、ゆっくりと息を吐いた。

 

「岡田に会ってきます」

 

「ええ。一緒に行きましょう」

 

 二人は、岡田のいる病棟へ向かった。

 

 * * *

 

 岡田が入院している病棟は、リュージュの病室から少し離れた場所にあった。

 

 高橋とエレナは看護兵に案内され、長い廊下を歩いていた。

 

 先ほどの病棟とは、雰囲気が少し違っていた。

 

 廊下を行き交う患者の姿は少なく、病室の扉もほとんど閉まっている。

 

 重傷者を収容している病棟なのだろう。

 

「こちらです」

 

 看護兵が一つの病室の前で立ち止まった。

 

「岡田さんは、まだ寝台から起き上がれません。お話はできますが、あまり長時間にならないようお願いします」

 

「分かりました」

 

 高橋が答えた。

 

「では、どうぞ」

 

 看護兵が扉を軽く叩き、ゆっくりと開いた。

 

「岡田さん。お見舞いの方ですよ」

 

 病室には四台の寝台が並んでいた。

 

 窓際の一台に、岡田修平が横たわっていた。

 

 上半身を少し起こせるよう、背中には枕が重ねられている。

 

 顔色はあまりよくなかった。以前よりも頬がこけ、身体も痩せたように見える。

 

 毛布の下では、左足があるはずの部分が途中から平らになっていた。

 

 高橋は一瞬、足を止めた。

 

 リュージュから話は聞いていた。

 

 それでも、実際に目の当たりにすると、胸が締めつけられた。

 

「……岡田」

 

 高橋が声をかけた。

 

 岡田がゆっくりと顔を向けた。

 

「……ん?」

 

 その目が、高橋の顔を捉える。

 

 一瞬、驚いたように目を見開いた。

 

「……高橋?」

 

「ああ。俺だよ」

 

「おい……高橋じゃねえか!」

 

 岡田の顔に、ぱっと笑顔が広がった。

 

「お前、生きてたのか!」

 

「そりゃ、こっちの台詞だよ!」

 

 高橋も思わず笑った。

 

「よかった……本当によかった!」

 

「ははっ……なんだよ、お前。こんなところまで来たのかよ」

 

「サラミスの軍団司令部に用事があったんだ。それで、岡田がここにいるって聞いて」

 

「そうか……」

 

 岡田は嬉しそうに笑った。

 

「いやあ、驚いた。まさかお前が来るとは思わなかったぜ」

 

 高橋は寝台のそばに歩み寄った。

 

「身体、大丈夫か?」

 

「見てのとおり、まだ寝たきりだ」

 

 岡田は苦笑した。

 

「でも、だいぶよくなったんだぜ。最初の頃なんか、起きてるのか寝てるのかも分からなかったからな」

 

「そうだったのか……」

 

「まあ、こうして喋れるようになったんだから、大したもんだろ」

 

 岡田は笑った。

 

 その笑い方は、訓練所にいた頃と変わらなかった。

 

 高橋は少しだけ安心した。

 

「岡田さん、お久しぶりです」

 

 エレナが声をかけた。

 

 岡田はそこで、ようやくエレナに気づいた。

 

「あっ、エレナ伍長!」

 

 慌てて身体を起こそうとする。

 

「お、おい……!」

 

「岡田さん、そのままでいいわ」

 

 エレナがすぐに制した。

 

「ここは病院よ。無理して敬礼なんてしなくていいから」

 

「す、すみません」

 

 岡田は苦笑しながら枕に頭を戻した。

 

「エレナ伍長も、ご無事だったんですね」

 

「ええ。私も亘一も、こうして帰ってこられたわ」

 

「そうですか……よかった」

 

 岡田はほっとしたように息を吐いた。

 

「浸透偵察小隊も大変だったって聞いてましたから」

 

「そうね。いろいろあったわ」

 

 エレナは穏やかに答えた。

 

 高橋は寝台のそばに置かれていた椅子を引き寄せた。

 

「座っていいか?」

 

「おう。座れ座れ」

 

 高橋が椅子に腰掛けると、岡田は改めてその顔を眺めた。

 

「……なんか、お前、ちょっと変わったな」

 

「そうか?」

 

「ああ。前より兵隊らしい顔になったっていうか」

 

「岡田だって、そうだよ」

 

「俺は病人の顔になっただけだろ」

 

 岡田は笑った。

 

 高橋もつられて笑ったが、すぐに表情を引き締めた。

 

「……リュージュから聞いたよ」

 

 岡田は高橋を見た。

 

「左足のことか?」

 

「ああ」

 

「そうか。あいつ、喋ったんだな」

 

 岡田は特に驚いた様子もなく答えた。

 

「まあ、隠したって仕方ねえしな」

 

 そう言って、自分の左足の方に目を向けた。

 

「膝より上からなくなっちまった」

 

 高橋は何も言えなかった。

 

「戦車が来た時、陣地でやられてな。気がついたら病院だった」

 

 岡田は淡々と話した。

 

「医者には、命が助かっただけでも運がよかったって言われたよ」

 

「……そうか」

 

「まあ、片足で済んだって考えるしかねえな」

 

 岡田は笑おうとした。

 

 だが、その笑顔は少しぎこちなかった。

 

 高橋は、どう返事をしてよいのか分からなかった。

 

 無理に励ます言葉も、軽々しく慰める言葉も、今の岡田にはふさわしくない気がした。

 

 しばらく沈黙が続いた。

 

 やがて岡田が口を開いた。

 

「……なあ、高橋」

 

「ん?」

 

「第2中隊、どうなった?」

 

 高橋は岡田を見た。

 

「俺、こっちに運ばれてから、詳しいことをほとんど聞いてねえんだ」

 

 岡田の声が少し低くなった。

 

「ナゲフの連中は……どうなった?」

 

 高橋はすぐには答えられなかった。

 

 第2中隊の陣地。

 

 戦闘後に見つかった、無数の遺体。

 

 そして、戦死者と行方不明者の名前が並ぶ報告書。

 

 高橋はゆっくりと息を吸った。

 

「……第2中隊は、大きな損害を受けた」

 

 岡田は黙って聞いていた。

 

「百三十名が戦死、または行方不明だ」

 

「……百三十」

 

 岡田は小さく繰り返した。

 

 そして、天井を見上げた。

 

「……そうか」

 

 その声は、ひどく静かだった。

 

 しばらくして、岡田が目を閉じた。

 

「……城島は?」

 

 高橋は唇を結んだ。

 

「……戦死した」

 

「……そうか」

 

「広瀬も、戦死してる」

 

 岡田は何も言わなかった。

 

 天井を見つめたまま、長い時間が過ぎた。

 

 やがて、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……あいつら、来たばっかりだったのにな」

 

 高橋はうなずいた。

 

「ああ……」

 

 岡田は右手で顔を覆った。

 

「くそっ……」

 

 それきり、しばらく言葉が途切れた。

 

 エレナも何も言わなかった。

 

 ただ、寝台のそばで静かに立っていた。

 

 やがて岡田は手を下ろし、高橋を見た。

 

「……悪いな。せっかく来てくれたのに」

 

「いや……」

 

 高橋は首を振った。

 

「俺も、何て言ったらいいのか分からなくて」

 

「そうだよな」

 

 岡田は力なく笑った。

 

「……でも、来てくれて嬉しかったぜ」

 

 高橋は顔を上げた。

 

「俺さ、こっちに運ばれてから、ずっと考えてたんだ」

 

 岡田は窓の外に目を向けた。

 

「もう誰とも会えねえんじゃないかって」

 

「……岡田」

 

「だから、お前が入ってきた時、本当に嬉しかった」

 

 岡田は高橋に向き直った。

 

「ありがとうな、高橋」

 

 高橋は静かにうなずいた。

 

「……また会えて、よかったよ」

 

 岡田は笑った。

 

「おう。俺もだ」

 

 窓から差し込む春の日差しが、二人の間を静かに照らしていた。

 

 * * *

 

 その時、病室の扉が軽く叩かれた。

 

「失礼するわよ」

 

 聞き覚えのある女性の声がした。

 

 高橋とエレナが振り返ると、扉のところにオリヴィエ大佐とアウレリア大尉が立っていた。

 

「あっ、オリヴィエ大佐!」

 

 高橋が立ち上がった。

 

 エレナも姿勢を正す。

 

 岡田は驚いたように目を見開いた。

 

「れ、連隊長閣下!」

 

 慌てて身体を起こそうとしたが、すぐにオリヴィエが手で制した。

 

「そのままでいいわ。無理に起きなくていいのよ」

 

「は、はい!」

 

 岡田は枕に頭を戻した。

 

 オリヴィエは寝台のそばまで歩み寄ると、岡田の顔を見つめた。

 

「岡田一等兵ね。具合はどう?」

 

「はい。だいぶよくなりました。まだ寝台から起きられませんが……」

 

「そう。顔色は悪くないわね」

 

 オリヴィエは微笑んだ。

 

「大変だったわね。よく生きて帰ってきてくれたわ」

 

「……ありがとうございます」

 

 岡田は少し照れたように答えた。

 

 アウレリアも寝台のそばに来た。今朝持っていた大きな革鞄を抱えている。

 

「岡田一等兵。今日はあなたにお渡しするものがあります」

 

「自分に、ですか?」

 

「はい」

 

 アウレリアは近くのテーブルに鞄を置き、中から二つの小箱と書類を取り出した。

 

 岡田は不思議そうに眺めていた。

 

 オリヴィエが口を開いた。

 

「岡田一等兵。あなたには今回の戦闘における功績と負傷に対して、帝国戦傷章、そして第六等薔薇章の授与が認められたわ」

 

「……え?」

 

 岡田は目を丸くした。

 

「勲章、ですか?」

 

「そうよ」

 

 オリヴィエは小さくうなずいた。

 

「あなたは第2歩兵中隊の防御戦闘で、敵戦車一両の撃破に貢献した。その功績が正式に認められたの」

 

 岡田はしばらく黙っていた。

 

「……でも、自分は最後まで戦えませんでした」

 

「最後まで戦えなかったのは、負傷したからでしょう?」

 

「……はい」

 

「あなたは自分の任務を果たしたわ。それを評価するのが今回の勲章よ」

 

 オリヴィエの声は穏やかだった。

 

「胸を張って受け取りなさい」

 

 岡田は天井を見上げ、それからゆっくりとうなずいた。

 

「……ありがとうございます」

 

 アウレリアが小箱を開いた。

 

 一つには帝国戦傷章、もう一つには第六等薔薇章が収められていた。

 

 オリヴィエはその二つを手に取った。

 

「本来なら起立して受け取ってもらうところだけど、今日はこのままでいいわ」

 

「はい」

 

 オリヴィエは寝台に横たわる岡田の胸元へ、二つの勲章を順に取り付けた。

 

「岡田修平一等兵。今回の戦闘における勇敢な行動と、帝国への忠勤を称えるわ」

 

「光栄に存じます!」

 

 岡田は横になったまま、できる限り姿勢を正して答えた。

 

 オリヴィエは微笑んだ。

 

「おめでとう、岡田」

 

「ありがとうございます、連隊長閣下!」

 

 高橋は、岡田の胸に並んだ二つの勲章を見つめていた。

 

 昨日、自分も勲章を授与されたばかりだった。

 

 だが、岡田の胸に輝く戦傷章には、失われた左足という重い代償が伴っていた。

 

 * * *

 

「それから、もう一つあるわ」

 

 オリヴィエが続けた。

 

「第六等薔薇章の受章に伴い、あなたは一階級昇進することになったの」

 

「……昇進ですか?」

 

「ええ。一等兵から上等兵よ」

 

 岡田は驚いた顔でオリヴィエを見た。

 

「自分が、上等兵に?」

 

「そうよ。正式な辞令は後日交付されるけど、昇進は決まっているわ」

 

 オリヴィエは笑った。

 

「おめでとう。岡田上等兵」

 

 岡田は少し困ったように笑った。

 

「ありがとうございます。でも……もう、前線には戻れないですよね」

 

 病室が静かになった。

 

 オリヴィエは岡田の表情を見つめた。

 

「そうね。少なくとも、以前と同じ歩兵の任務に戻ることは難しいでしょう」

 

「……はい」

 

「でも、あなたの今後については、選択肢があるの」

 

 岡田は顔を上げた。

 

「選択肢、ですか?」

 

「ええ。今回の負傷については、軍務中の戦傷として正式に認定されているわ」

 

 オリヴィエは落ち着いた声で説明した。

 

「治療が終わり、身体の状態が落ち着いたところで、あなたは戦傷による退役を選ぶことができる。残りの軍務年限を務める必要はなくなるわ」

 

 岡田は驚いたように目を見開いた。

 

「退役……できるんですか?」

 

「ええ。もちろん、本人が望めばね」

 

 オリヴィエは続けた。

 

「もう一つは、軍務を続ける道よ。前線勤務は無理でも、後方での仕事ならできるでしょう。書類仕事や物資の管理、記録の整理なんかね」

 

「事務仕事、ですか」

 

「そう。あなたが希望するなら、ベルノ連隊か領内の軍務機関で受け入れ先を考えるわ」

 

 岡田は自分の左足があった場所に目を向けた。

 

「……片足でも、軍に残れるんですか?」

 

「もちろんよ。歩兵として戦えなくなったからといって、何もできなくなったわけじゃないでしょう?」

 

 オリヴィエは微笑んだ。

 

「あなたは日本から来た召喚者だし、読み書きも計算もできる。後方で働いてもらうなら、十分に役に立つわ」

 

 岡田はしばらく黙っていた。

 

「……正直、まだ何も考えられません」

 

「それでいいのよ」

 

 オリヴィエはすぐに答えた。

 

「今ここで決める必要はないわ。まずは傷を治すこと。それから、ゆっくり考えなさい」

 

「……はい」

 

「退役して民間で暮らすのも、軍に残るのも、あなたが決めていいの」

 

 岡田は深く息を吐いた。

 

「ありがとうございます」

 

 その顔には、先ほどまでとは少し違う表情が浮かんでいた。

 

 左足を失った自分が、この先どうなるのか。

 

 その不安が、すべて消えたわけではない。

 

 だが、これからの生き方を自分で選べると知ったことは、岡田にとって大きな救いだった。

 

 高橋も、ほっとしたように息を吐いた。

 

「よかったな、岡田」

 

「……ああ」

 

 岡田は小さく笑った。

 

「まさか、こんな話が聞けるとは思ってなかったぜ」

 

 * * *

 

「それと、これは伯爵領から」

 

 オリヴィエはそう言うと、アウレリアから一枚の書類を受け取った。

 

「岡田、これも受け取ってちょうだい」

 

 岡田は差し出された紙を見た。

 

「……何ですか、これ?」

 

「明細書よ。勲章授与によるものと、ベルノ伯爵領からあなたに支給する報奨金のね」

 

「報奨金?」

 

 岡田はますます不思議そうな顔になった。

 

 オリヴィエは楽しそうに笑った。

 

「あの戦車、ベルノの鹵獲品になったのよ。条件付きで軍団へ譲渡したけどね」

 

「……え?」

 

 岡田は目を丸くした。

 

「戦車って……あの時の魔族の戦車ですか?」

 

「そうよ。今回の戦闘では三両の戦車が残されたけど、そのうちあなたが撃破に貢献した一両も、ベルノ連隊の鹵獲品として認められたの」

 

 高橋も驚いた顔で聞いていた。

 

「鹵獲品って、連隊のものになるんですか?」

 

「地方軍が戦場で鹵獲したものは、原則としてその地方軍の所有になるのよ」

 

 オリヴィエが答えた。

 

「もちろん、魔族の戦車なんてベルノに持ち帰っても、簡単には使えないでしょう? だから軍団に譲渡することにしたの」

 

 オリヴィエは岡田に向き直った。

 

「それで、今回の鹵獲に功績のあった兵士には、伯爵領から報奨金を出すことにしたのよ」

 

 岡田は明細書を見下ろした。

 

 そこには、報奨金の支給理由と金額が記されていた。

 

「……これ、自分がもらっていいんですか?」

 

「もちろんよ。あなたの功績なんだから」

 

「でも、自分一人で戦車を倒したわけじゃ……」

 

「分かっているわ」

 

 オリヴィエはうなずいた。

 

「戦車一両を撃破するために、何人もの兵士が戦ったことは承知している。ほかの功績者についても、記録に基づいて扱うつもりよ」

 

 そして、少し声を和らげた。

 

「少ないけど、受け取って」

 

 岡田は書類を見つめていた。

 

 やがて、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……ありがとうございます」

 

「ベルノに戻ってからでも受け取れるようにしてあるわ。今すぐ使い道を考える必要はないからね」

 

「はい」

 

 岡田は明細書を大切そうに手元へ置いた。

 

「……連隊長閣下」

 

「なあに?」

 

「自分、あの戦車を撃った時は、まさかこんなことになるなんて思ってませんでした」

 

「そうでしょうね」

 

「ただ、目の前に戦車が来たから……何とかしなきゃと思って」

 

 岡田は苦笑した。

 

「正直、怖かったです」

 

 オリヴィエは静かにうなずいた。

 

「ええ。怖かったでしょうね」

 

「……はい」

 

「でも、あなたは逃げずに戦った。その結果、敵戦車を止めることができたのよ」

 

 オリヴィエは岡田の胸に並ぶ勲章を見た。

 

「そのことは、誇りに思っていいわ」

 

 岡田はしばらく黙っていた。

 

 そして、少し照れくさそうに笑った。

 

「……ありがとうございます」

 

 * * *

 

 アウレリアが書類を整理し、革鞄に戻し始めた。

 

「オリヴィエ大佐。そろそろ次の病室へ参りませんと」

 

「あら、もうそんな時間?」

 

「はい。まだ授与を予定している兵士が何名もおりますので」

 

「そうね」

 

 オリヴィエは岡田に向き直った。

 

「岡田、今日は会えてよかったわ」

 

「自分もです。ありがとうございました」

 

「まずは治療に専念してちょうだい。今後のことは、身体がよくなってから考えればいいのよ」

 

「はい!」

 

「それから、上等兵への昇進、おめでとう」

 

「ありがとうございます!」

 

 岡田は寝台の上で、できる限り姿勢を正した。

 

 オリヴィエは微笑んだ。

 

「では、お大事に」

 

 アウレリアも丁寧に一礼した。

 

「岡田上等兵。どうぞお身体を大切になさってください」

 

「ありがとうございます、アウレリア大尉!」

 

 二人が病室を出ようとしたところで、オリヴィエがふと振り返った。

 

「ああ、そうだ。高橋」

 

「はい?」

 

「あなたたちは、もう少しここにいてもいいわよ。私たちは授与を続けるから」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、列車の時間があるからね。病院を出る時には迎えに来るわ」

 

「分かりました」

 

 オリヴィエは軽く手を振ると、アウレリアとともに病室を出ていった。

 

 扉が閉まる。

 

 病室には、再び三人だけが残された。

 

 岡田はしばらく扉の方を眺めていた。

 

「……なあ、高橋」

 

「何だ?」

 

「俺、何だかすげえことになっちまったな」

 

 岡田は自分の胸元を見た。

 

 二つの勲章。

 

 上等兵への昇進。

 

 そして、退役するか軍務を続けるかを選べるという知らせ。

 

「そうだな」

 

 高橋は笑った。

 

「おめでとう、岡田上等兵」

 

「おい、やめろよ」

 

 岡田が苦笑した。

 

「まだ慣れねえんだから」

 

「俺だって、昨日兵長になったばかりだよ」

 

「……は?」

 

 岡田の動きが止まった。

 

「ちょっと待て。お前、今なんて言った?」

 

「昨日、兵長になったんだ」

 

「兵長!?」

 

 岡田は目を丸くした。

 

「お前、俺より偉くなってんじゃねえか!」

 

 高橋は思わず笑った。

 

「そういうことになるな」

 

「何だよ、それ! 俺が病院で寝てる間に、何があったんだよ!」

 

 岡田の声が、久しぶりに病室へ明るく響いた。

 

 エレナも隣で笑っていた。

 

「ふふっ。実は私も曹長になったのよ」

 

「……曹長!?」

 

 岡田は二人の顔を交互に見た。

 

「おいおい……お前ら、本当に何をやってきたんだよ!」

 

「まあ、いろいろあったんだよ」

 

「いろいろって何だよ。二等兵だったお前が、いきなり兵長だぞ?」

 

「勲章をもらったんだ。第三等赤薔薇章ってやつ」

 

「第三等!?」

 

 岡田は目を丸くした。

 

「おいおい、どんな手柄を立てたらそんな勲章がもらえるんだよ」

 

「……ちょっと大きな戦果があってな」

 

 高橋は言葉を濁した。

 

 グリモフ狙撃の詳細については、軍団司令部で公表しないことが決まっている。

 

 ここで詳しく話すわけにはいかなかった。

 

「何だよ、秘密か?」

 

「まあ、そんなところだ」

 

「ちぇっ。偉くなると秘密が増えるんだな」

 

「そういうわけじゃないって」

 

 二人は笑った。

 

 会話は帝国共通語だった。

 

 日本人同士なら日本語を使う方が楽だったが、エレナも一緒にいる。高橋も岡田も、自然と帝国共通語で話していた。

 

「それにしても、エレナ伍長まで曹長になったのか」

 

 岡田が言った。

 

「ええ。私も驚いたわ」

 

 エレナは笑った。

 

「高橋ともども、今まで以上にしっかり働かないとね」

 

「高橋、ちゃんとエレナ曹長の言うこと聞けよ」

 

「今までも聞いてるだろ」

 

「どうだかなあ」

 

 岡田は楽しそうに笑った。

 

 * * *

 

 やがて、その笑顔が少し穏やかなものになった。

 

「……なあ、高橋」

 

「ん?」

 

「今日は来てくれて、ありがとうな」

 

 高橋は岡田を見た。

 

「何だよ、急に」

 

「いや、本当に嬉しかったんだ」

 

 岡田は窓の外に目を向けた。

 

「ここに運ばれてから、ずっと寝たきりだっただろ。最初は痛みがひどくて、何も考えられなかったんだけどさ」

 

 岡田は毛布の上に置いた自分の手を見つめた。

 

「少し楽になってきたら、今度は余計なことばっかり考えるようになったんだよ」

 

「……そうか」

 

「足もなくなったし、これからどうなるんだろうってな」

 

 岡田は少し笑った。

 

「正直、落ち込んだよ。もう歩けねえのかなとか、軍にもいられなくなるのかなとか」

 

 高橋は黙って聞いていた。

 

「でも、リュージュが来てくれてさ。それで今日はお前まで来てくれた」

 

 岡田は高橋に顔を向けた。

 

「おまけに連隊長から勲章までいただいて、これからどうするか自分で選んでいいって言われた」

 

 岡田はゆっくりと息を吐いた。

 

「……何だか、生きる希望が湧いてきたよ」

 

「岡田……」

 

「足を失ったのは残念だけどさ、生きてるだけでもうけもんだよ」

 

 岡田は明るく笑った。

 

「城島も広瀬も、もう帰ってこられないんだろ。だったら、生き残った俺がいつまでも落ち込んでちゃ、あいつらに申し訳ねえよ」

 

 高橋は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

 岡田は、やはりいいやつだった。

 

 自分だって、あれほどの負傷をしている。

 

 それでも、亡くなった仲間たちのことを思い、生き残ったことを前向きに受け止めようとしている。

 

「……そうだな」

 

 高橋は静かに答えた。

 

「生きててくれて、本当によかったよ」

 

「おう。俺も、お前にまた会えてよかった」

 

 岡田は笑った。

 

 その笑顔は、訓練所にいた頃と変わらなかった。

 

「それにさ、こっちは長く戦争してるだろう?」

 

 岡田が話を続けた。

 

「ん?」

 

「義足だよ。結構いいやつがあるらしいぜ」

 

「義足?」

 

「ああ。医者が言ってたんだ。戦争で足を失った兵士は昔からいるから、義足もずいぶん発達してるんだってさ」

 

 岡田は自分の左足があった場所に目を向けた。

 

「傷が治って、身体の状態が落ち着いたら、義足を作ってもらえるらしい」

 

「へえ、そうなのか」

 

「もちろん、元どおりってわけにはいかないらしいけどな。でも、訓練すれば杖を使って歩けるようになる人も多いんだって」

 

「それはよかったな!」

 

「だろ?」

 

 岡田は嬉しそうに笑った。

 

「走り回るのは無理かもしれないけど、歩けるようになれば、できることも増えるだろ」

 

「そうだな」

 

「だから、俺はまず歩けるようになるのが目標だ」

 

 高橋はうなずいた。

 

「岡田なら、きっとできるよ」

 

「おう。頑張るさ」

 

 エレナも微笑んだ。

 

「いい目標ね。焦らず、少しずつ頑張ってちょうだい」

 

「はい!」

 

 岡田は元気よく答えた。

 

 * * *

 

 そして、何かを思い出したように笑った。

 

「それに、俺にはもう一つ、頑張る理由ができたんだ」

 

「何だ?」

 

「……リュージュだよ」

 

「リュージュ?」

 

 高橋が聞き返した。

 

 岡田は少し照れくさそうに頬をかいた。

 

「あいつとさ、家族になる約束をしたんだ」

 

「……え?」

 

 高橋は一瞬、言葉の意味が分からなかった。

 

「家族って……リュージュと?」

 

「おう」

 

「ええっ!?」

 

 高橋は思わず声を上げた。

 

「ちょっと待てよ! いつの間にそんな話になったんだ?」

 

「声がでけえよ。ここ病院だぞ」

 

「あ、悪い」

 

 高橋は慌てて声を落とした。

 

 エレナが隣で笑っていた。

 

「あら、素敵な話じゃない」

 

「ありがとうございます」

 

 岡田は少し照れながら答えた。

 

「リュージュが、ここに入院してから何度も見舞いに来てくれてるんです」

 

「そうみたいね。さっき、リュージュから聞いたわ」

 

「最初は俺の怪我をすごく心配してくれてたんですけど、だんだん将来の話もするようになって……」

 

 岡田は高橋に向き直った。

 

「それでさ、俺が歩けるようになったら、一緒に暮らそうって話になったんだ」

 

「……そうだったのか」

 

「おう。あいつ、俺が足を失ったことなんか、全然気にしないって言うんだよ」

 

 岡田は嬉しそうに笑った。

 

「『だったら私が手伝ってあげる』ってさ。あいつらしいだろ?」

 

「ははっ。確かにリュージュらしいな」

 

 高橋も笑った。

 

 先ほどの病室で見た、明るく元気なリュージュの姿が思い浮かんだ。

 

「でも、驚いたな。二人がそんな仲になってたなんて」

 

「俺も驚いてるよ」

 

 岡田は照れくさそうに笑った。

 

「正直、こんな身体になった俺と一緒にいてくれるなんて、思ってもみなかったからな」

 

 エレナが静かに言った。

 

「リュージュは、あなたの身体だけを見ているわけじゃないんでしょうね」

 

 岡田はエレナを見た。

 

「え?」

 

「あなた自身を好きになったんでしょう。だから、一緒に暮らしたいと思ったんじゃないかしら」

 

 岡田は一瞬黙った。

 

 そして、嬉しそうに笑った。

 

「……そうだといいですね」

 

「きっとそうよ」

 

 エレナも微笑んだ。

 

 高橋はそんな二人の会話を聞きながら、ふと悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「でも岡田、これは第20期の女子が黙ってないな」

 

「……は?」

 

「お前、結構人気あったからな」

 

「何だよ、それ」

 

「知らなかったのか?」

 

 高橋は笑った。

 

「訓練所の頃から、お前のこと気にしてる女子、結構いたぞ」

 

「おいおい、初耳だぞ」

 

「そりゃ本人には言わないだろ」

 

 岡田は困ったように笑った。

 

「まいったな。そんなこと、もっと早く教えてくれよ」

 

「今さら遅いだろ。もうリュージュと家族になる約束したんだから」

 

「まあな」

 

 岡田はあっさりとうなずいた。

 

「俺はリュージュがいいよ」

 

 その言い方があまりにも自然で、高橋は思わず笑ってしまった。

 

「ははっ。そうか」

 

「おう」

 

 岡田も笑った。

 

 エレナは二人のやり取りを、楽しそうに眺めていた。

 

「ふふっ。リュージュに会ったら、お祝いを言わないとね」

 

「お願いします。でも、あんまりからかわないでやってくださいよ」

 

「あら、どうして?」

 

「あいつ、照れるとエルフ語で一気に喋り始めるんですよ」

 

「ああ、それは亘一も経験してるわね」

 

「ええ。何を言ってるのか全然分からなくなるんです」

 

 高橋が答えると、三人は声を上げて笑った。

 

 * * *

 

 ひとしきり笑ったあと、岡田は再び高橋を見た。

 

「……なあ、高橋」

 

「何だ?」

 

「俺、退役するか軍に残るか、まだ決められないけどさ」

 

「うん」

 

「どっちにしても、ベルノには戻りたいと思ってる」

 

 高橋はうなずいた。

 

「そうか」

 

「リュージュとも、ベルノで一緒に暮らせたらいいなって話してるんだ」

 

「いいじゃないか」

 

「だろ?」

 

 岡田は笑った。

 

「だから、まずはちゃんと治さないとな」

 

「そうだな」

 

 高橋は寝台のそばに少し身を乗り出した。

 

「岡田。ベルノに戻ってきたら、またみんなで飯でも食おうぜ」

 

「おう。いいな、それ」

 

「リュージュも一緒にな」

 

「もちろんだ」

 

 岡田は嬉しそうに笑った。

 

「約束だぞ、高橋」

 

「ああ。約束だ」

 

 二人は笑顔を交わした。

 

 戦場で失われたものは、あまりにも多かった。

 

 岡田の左足も、亡くなった仲間たちも、もう戻ってこない。

 

 それでも、生き残った者には、これからの人生がある。

 

 その人生をどう生きるのか。

 

 岡田は、すでに自分なりの答えを見つけ始めているようだった。

 

 高橋は、友人の明るい表情を見ながら、心から嬉しく思った。

 

 岡田はきっと、大丈夫だ。

 

 そう思えた。

 

 * * *

 

 午後、サラミス駅の軍用ホームには、長い軍用列車が停車していた。

 

 先頭の蒸気機関車からは白い煙が立ち上り、機関士や鉄道兵たちが出発の準備を進めている。

 

 列車には兵員輸送用の客車が何両も連結され、その後ろには装備や物資を積んだ貨車が続いていた。

 

 高橋とエレナは、オリヴィエ大佐、アウレリア大尉とともにホームを歩いていた。

 

「浸透偵察小隊は、前から三両目の客車に乗っているそうです」

 

 アウレリアが手帳を確認しながら言った。

 

「そう。じゃあ、早く合流しましょう」

 

 オリヴィエは足を速めた。

 

 高橋は肩に掛けた鞄を持ち直した。

 

 今朝は病院で、いろいろなことがあった。

 

 リュージュは松葉杖を使いながらも元気そうだった。

 

 岡田は左足を失っていたが、生きる希望を取り戻しつつあった。

 

 しかも、リュージュと家族になる約束までしていた。

 

 あの二人がベルノで一緒に暮らす姿を想像すると、自然と笑みが浮かんでくる。

 

「亘一、どうしたの?」

 

 隣を歩くエレナが尋ねた。

 

「いや、岡田のことを考えてました」

 

「ふふっ。リュージュとのこと?」

 

「はい。まさか、あの二人がそんな仲になってるとは思わなくて」

 

「私も驚いたわ。でも、よかったじゃない」

 

「そうですね」

 

 高橋はうなずいた。

 

「ベルノに戻ってきたら、二人に会いに行きたいです」

 

「ええ。そうしましょう」

 

 そんな話をしているうちに、目的の客車が見えてきた。

 

 扉の近くには、見覚えのあるエルフの将校が立っていた。

 

「おっ、お嬢!」

 

 ヴァルター少佐だった。

 

 片手に煙草を持ち、いかにも機嫌がよさそうな顔をしている。

 

「ヴァルター、待たせたわね」

 

「いや、こっちも今しがた落ち着いたところだ」

 

 ヴァルターは煙草を口から離した。

 

「軍団司令部はどうだった?」

 

「いろいろあったわ。乗ってから話しましょう」

 

「そうか」

 

 ヴァルターはエレナと高橋に目を向けた。

 

「おつかれさん。いい話あったか?」

 

「はい。思っていた以上に」

 

 エレナが答えた。

 

「ほう。そいつは楽しみだな」

 

 ヴァルターはにやりと笑った。

 

「ま、とりあえず乗れ。みんな待ってるぞ」

 

 高橋は客車の階段に足を掛けた。

 

 その時だった。

 

「わはははは!」

 

 車内の奥から、盛大な笑い声が聞こえてきた。

 

 続いて、誰かが大声で歌い始める。

 

 それを別の誰かが笑いながら止めていた。

 

「……何ですか、これ?」

 

 高橋が振り返ると、ヴァルターは平然と答えた。

 

「宴会だ」

 

「宴会?」

 

「おう。帰還祝いだな」

 

 ヴァルターは当然のことのように言った。

 

「もう戦場は離れたんだ。少しくらい飲んだって構わんだろ」

 

 高橋はエレナを見た。

 

 エレナも呆れたように笑っていた。

 

「……もう始めちゃったのね」

 

「おう。お前たちが遅いからな」

 

 ヴァルターは愉快そうに笑った。

 

 * * *

 

 客車の中に足を踏み入れた高橋は、思わず立ち止まった。

 

 車内には浸透偵察小隊の隊員たちが集まっていた。

 

 向かい合わせの座席には酒瓶やコップが並び、卓上には干し肉やパン、チーズなどが置かれている。

 

 あちこちで笑い声が上がっていた。

 

 すでに顔を赤くしている者もいる。

 

 どうやら、宴会が始まってから相当な時間が経っているらしい。

 

「おおっ! エレナが帰ってきたぞ!」

 

 最初に気づいたのはゲルフだった。

 

「高橋もいるじゃないか!」

 

 別の隊員が声を上げる。

 

「おかえりー!」

 

「無事だったか!」

 

 あちこちから声が飛んできた。

 

 エレナは笑いながら片手を上げた。

 

「ただいま。みんな、ずいぶん楽しそうね」

 

「そりゃそうよ!」

 

 ローラがコップを掲げた。

 

「ようやくベルノに帰れるんだもの!」

 

 その頬は、すでにほんのり赤くなっていた。

 

 フリーダも席から立ち上がった。

 

「あら、エレナ。おかえりなさい!」

 

「ただいま、フリーダ」

 

「軍団司令部はどうだった? 何か面白いことでもあった?」

 

「ええ。ちょっと驚くことがあったわ」

 

「何よ、気になるじゃない!」

 

 フリーダは楽しそうに笑った。

 

 高橋は車内を見回した。

 

 いつもは静かで、任務中にはほとんど無駄話もしない隊員たちが、今は別人のように騒いでいる。

 

 もっとも、全員が騒いでいるわけではなかった。

 

 窓際の席に、イルマが座っていた。

 

 片手にコップを持ち、黙々と酒を飲んでいる。

 

 周囲の騒ぎなど、まったく気にしていないようだった。

 

「……イルマ?」

 

 高橋が声をかけた。

 

 イルマは顔を上げた。

 

「高橋。おかえり」

 

「ただいま。……ずいぶん飲んでるな」

 

「うん」

 

 イルマは短く答えた。

 

 そして、またコップを口に運んだ。

 

 高橋は少し呆れた。

 

「大丈夫なのか?」

 

「大丈夫」

 

「本当に?」

 

「うん。まだ飲める」

 

 そう言って、イルマは空になったコップに酒を注いだ。

 

 隣に座っていたリーナが笑った。

 

「イルマ、さっきからずっとこの調子なのよ」

 

 ゾフィーも苦笑する。

 

「全然喋らないのに、お酒だけは減っていくんだから」

 

 高橋は改めてイルマを見た。

 

「……すごいな」

 

 イルマは何も答えず、また一口飲んだ。

 

 その様子があまりにも普段どおりで、高橋は思わず笑ってしまった。

 

 * * *

 

「さて、諸君!」

 

 突然、ヴァルターの大きな声が車内に響いた。

 

 隊員たちが振り返る。

 

「我らが連隊長のお帰りだ。少し静かにしろ!」

 

 その言葉に、ようやく車内の騒ぎが収まった。

 

 オリヴィエが通路に立っていた。

 

 隣にはアウレリアがいる。

 

「みんな、元気そうね」

 

 オリヴィエは車内を見渡して笑った。

 

「というか、ずいぶん出来上がってるじゃない」

 

「ははは。こいつら、朝から帰還祝いを楽しみにしてましてね」

 

 ヴァルターが答えた。

 

「ヴァルター、あなたも相当飲んでるんじゃないの?」

 

「いやいや、私はまだ序の口ですよ」

 

「本当かしら?」

 

 オリヴィエは呆れたように笑った。

 

 そして、隊員たちに向き直った。

 

「みんな、ご苦労さま。今回の遠征では、本当によく働いてくれたわ」

 

 隊員たちの表情が少し引き締まった。

 

「残念ながら、全員で帰ることはできなかったけれど……」

 

 オリヴィエは一度言葉を切った。

 

 ミレーナとアルノー。

 

 二人の名前を、口にする必要はなかった。

 

 エレナ班の仲間が帰ってこなかったことは、小隊の誰もが知っていた。

 

「それでも、あなたたちは任務を果たして、ここまで戻ってきた。今はそのことを喜びましょう」

 

 オリヴィエは微笑んだ。

 

「ベルノに着いたら、しばらく休ませてあげるからね」

 

「おおっ!」

 

 隊員たちから歓声が上がった。

 

「やった!」

 

「休暇だ!」

 

「伯爵閣下、ありがとうございます!」

 

 たちまち車内が賑やかになった。

 

 オリヴィエは笑いながら手を振った。

 

「ただし、列車の中で飲みすぎて、ベルノに着いた時に歩けなくなっていたら承知しないわよ!」

 

「はーい!」

 

 隊員たちは声を揃えて答えた。

 

 その返事を聞いて、ヴァルターが豪快に笑った。

 

「ははは! 心配するな、お嬢。こいつら、酒には慣れてる!」

 

「あなたが一番心配なのよ!」

 

 オリヴィエが即座に言い返すと、車内は再び笑いに包まれた。

 

 * * *

 

「ところで、ヴァルター」

 

 オリヴィエが声をかけた。

 

「何だ?」

 

「エレナと高橋から、報告があるのよ」

 

「ほう?」

 

 ヴァルターは二人を見た。

 

「さっき言ってた、いい話ってやつか?」

 

「ええ」

 

 オリヴィエは楽しそうに微笑んだ。

 

「二人とも、勲章をもらったわ」

 

 一瞬、車内が静かになった。

 

「……勲章?」

 

 フリーダが聞き返した。

 

「第三等赤薔薇章よ」

 

「第三等だと!?」

 

 ヴァルターが目を見開いた。

 

 フリーダも驚いた顔でエレナを見た。

 

「ちょっと、エレナ! それじゃあ、あなた曹長じゃない!」

 

「ええ。そういうことになったわ」

 

 エレナは少し照れくさそうに笑った。

 

「おいおい、こいつは大したもんだ!」

 

 ゲルフが声を上げた。

 

「第三等なんて、そうそうお目にかかれる勲章じゃないぞ!」

 

 ヴァルターは愉快そうに笑った。

 

「伍長から一気に曹長か! ははは、やるじゃねえか、エレナ!」

 

「ありがとうございます、少佐」

 

「それで、高橋はどうなった?」

 

 ヴァルターが尋ねた。

 

「高橋も同じ第三等よ」

 

「ほう。じゃあ、上等兵か?」

 

「いえ、兵長です」

 

 高橋が答えた。

 

「……兵長?」

 

 ヴァルターが眉を上げた。

 

「お前、まだ二等兵だったろう?」

 

「はい。本来ベルノで一等兵になる予定だったんですが、その昇進を前倒ししてもらいました」

 

「ああ、なるほどな」

 

 ヴァルターはすぐに理解した。

 

「一等兵になってから二階級特進か。それで兵長ってわけだな」

 

「はい」

 

「ははは! そいつは大したもんだ!」

 

 ヴァルターは豪快に笑った。

 

「高橋、お前もずいぶん出世したじゃねえか!」

 

 フリーダも笑った。

 

「本当ね。ついこの間まで新兵だったのに、もう兵長なのね」

 

「本人が一番驚いてますよ」

 

 高橋が答えると、周囲から笑い声が上がった。

 

 オリヴィエは、そこで少し表情を改めた。

 

「それから、第三等赤薔薇章は二人だけじゃないの」

 

 ヴァルターが顔を上げた。

 

「……どういうことだ?」

 

「ミレーナとアルノーにも授与されたわ。エレナ班四名全員の功績として認められたの」

 

 車内の空気が静かになった。

 

 ヴァルターはしばらく黙っていた。

 

「……そうか。あいつらにも、か」

 

「ええ。二人の勲章は連隊で預かることになっています」

 

 エレナが答えた。

 

 ヴァルターはゆっくりとうなずいた。

 

「……よかったな、あいつら」

 

 フリーダも静かにうなずいた。

 

「ええ。本当によかったわ」

 

 ヴァルターは手元のコップを持ち上げた。

 

「ミレーナとアルノーに」

 

 隊員たちも、それぞれコップを掲げた。

 

 イルマも黙ってコップを持ち上げた。

 

 そして、静かに一口飲んだ。

 

 しばらくの間、誰も大きな声を出さなかった。

 

 やがて、ヴァルターはエレナと高橋を見た。

 

「お前たちも、よくやった」

 

「ありがとうございます」

 

 エレナが答えた。

 

 高橋も頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

 * * *

 

「さあ、湿っぽいのはここまでだ!」

 

 ヴァルターが声を上げた。

 

「エレナと高橋の昇進祝いもしなきゃならん!」

 

「そうね!」

 

 ローラがコップを掲げた。

 

「エレナ曹長と高橋兵長に、乾杯!」

 

「乾杯!」

 

 あちこちでコップが掲げられた。

 

 高橋は思わずエレナを見た。

 

「……僕たち、何だかすごいことになってますね」

 

「ふふっ。本当にね」

 

 エレナは嬉しそうに笑った。

 

 その時、イルマが高橋の方を向いた。

 

「高橋」

 

「何だ?」

 

「おめでとう」

 

「あ、ありがとう」

 

 イルマは短くうなずいた。

 

 そして、コップを一口。

 

 それきり何も言わなかった。

 

 リーナが笑った。

 

「イルマ、もう少し何か言ってあげたら?」

 

「言った」

 

「それだけ?」

 

「うん」

 

 高橋は思わず吹き出した。

 

 フリーダも声を上げて笑った。

 

「もう、イルマったら!」

 

 イルマは不思議そうに周囲を見回した。

 

 そして、また黙々と酒を飲み始めた。

 

 * * *

 

 やがて、ホームに出発を知らせる鐘が鳴った。

 

 車外から鉄道兵の声が響く。

 

「発車準備! 扉を閉めろ!」

 

 ヴァルターが立ち上がった。

 

「よし、全員乗ってるな!」

 

 隊員たちから返事が上がる。

 

「荷物は確認したか!」

 

「大丈夫です!」

 

「誰かホームに置いてきた奴はいないだろうな!」

 

「いませーん!」

 

 酔った隊員たちの返事に、ヴァルターは苦笑した。

 

「まったく。元気だけはあるな」

 

 オリヴィエとアウレリアも席に腰を下ろした。

 

 高橋は窓際の空いている席に座り、エレナがその隣に腰掛けた。

 

 車外では蒸気機関車が大きく汽笛を鳴らしていた。

 

 やがて、列車がゆっくりと動き始めた。

 

 ガタン。

 

 客車が一度大きく揺れる。

 

 窓の外のホームが、少しずつ後ろへ流れていく。

 

 高橋は窓の外を眺めた。

 

 サラミス駅。

 

 昨日、この駅に降り立った時には、軍団司令部で何が待っているのか分からなかった。

 

 勲章をもらい、昇進まで決まった。

 

 ホテルでエレナとゆっくり過ごし、今日はリュージュと岡田にも会えた。

 

 そして今、ようやく仲間たちと合流してベルノへ帰ろうとしている。

 

「亘一」

 

 隣のエレナが声をかけた。

 

「はい?」

 

「やっと帰れるわね」

 

「……はい」

 

 高橋は笑った。

 

「やっと、ベルノに帰れますね」

 

 エレナも微笑んだ。

 

 車内では、すでに次の酒瓶が開けられていた。

 

 ヴァルターの笑い声が響き、フリーダとローラが何やら楽しそうに話している。

 

 イルマは相変わらず、窓際で黙々と酒を飲んでいた。

 

 高橋はその光景を見回した。

 

 誰もが疲れ、誰もが何かを失っていた。

 

 それでも、こうして笑い合える仲間たちがいる。

 

 列車はサラミス駅を離れ、ベルノへと続く線路を走り始めた。

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