勇者連隊戦記   作:バグスター

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帝国歴232年4月。ベルノ


第3節 帰還の宴

ベルノ駅のホームに、蒸気機関車がゆっくりと滑り込んだ。

 

 車輪が軋み、長い汽笛が響く。

 

 高橋亘一は客車の窓から外を眺めた。

 

 見慣れた駅舎だった。

 

 出発したのは一月末。あれから二か月以上が経っている。

 

 初めての本格的な実戦。敵偵察兵への狙撃。夜間偵察。敵陣地への浸透。そして、魔族の戦車による攻撃。

 

 あまりにも多くのことが起きた。

 

 隣にいたはずのミレーナとアルノーは、もういない。

 

 窓の外では、春物の服を着た市民たちが行き交っていた。荷車を押す男、子供の手を引く母親、旅行鞄を抱えた商人。駅員が大声で何かを案内し、ホームの向こうでは荷役夫たちが貨車から木箱を降ろしている。

 

 どこにでもある、平和な駅の光景だった。

 

「ようやく帰ってきたわね」

 

 向かいの席で、エレナが微笑んだ。

 

「はい。何だか、まだ実感が湧きません」

 

「そうね。でも、これからしばらく休暇よ」

 

 エレナは窓の外へ目を向けた。

 

「亘一、お疲れさま」

 

「エレナ曹長も、お疲れさまでした」

 

 二人は顔を見合わせ、笑った。

 

 列車が完全に停止すると、兵士たちは次々と荷物をまとめ始めた。

 

 通路では背嚢がぶつかり合い、誰かが忘れ物をしたと騒いでいる。小銃の負い革を直す音や、装具の金具が触れ合う音が、狭い車内に響いた。

 

「忘れ物をするなよ! 荷物を持って降りろ!」

 

 ヴァルター少佐の声が車内に響いた。

 

 高橋も背嚢を背負い、小銃を手に取った。

 

 ホームへ降りると、春の空気が頬を撫でた。

 

 石炭の煙に混じって、どこからか焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。

 

 戦場に比べれば、ベルノの春はずっと暖かい。

 

 駅舎の向こうでは、人々が行き交っていた。

 

 沿道には帝国旗とベルノ伯爵家の旗が残り、帰還兵を歓迎する飾り付けがまだ掲げられていた。

 

 先に帰還した各中隊は、市民たちの盛大な歓迎を受けたという。

 

 浸透偵察小隊は軍団司令部での手続きがあったため、少し遅れての帰還となっていた。

 

 高橋は、ホームの端に立つ市民の親子へ目を向けた。

 

 まだ幼い子供が、通りかかった兵士に向かって小さく手を振っている。兵士が笑って応じると、子供は嬉しそうに母親の後ろへ隠れた。

 

 あの子供には、戦場で何が起きたのか分からないだろう。

 

 だが、それでいい。

 

 高橋はそう思った。

 

「高橋!」

 

 聞き覚えのある声がした。

 

 振り向くと、井上翔太と川崎晴斗が手を振っていた。

 

「井上! 川崎!」

 

 高橋は思わず笑顔になった。

 

「お前ら、迎えに来てくれたのか!」

 

「おう! 今日帰ってくるって聞いたからな!」

 

 井上が笑った。

 

 二人とも軍服姿だったが、戦場で見た時よりずっと表情が明るい。

 

 川崎が高橋の肩を軽く叩いた。

 

「無事でよかったよ。お前らだけ帰りが遅かったから、心配してたんだぞ」

 

「悪い悪い。ちょっと軍団司令部で用事があってさ」

 

「軍団司令部?」

 

「ああ。いろいろ手続きがあったんだ」

 

 高橋は曖昧に笑った。

 

 軍団司令部での出来事については、詳しく話さない約束になっていた。

 

 井上もそれ以上は尋ねなかった。

 

「そういえば、岡田のところに行ったんだろ?」

 

 川崎が尋ねた。

 

 その名前が出ると、二人の表情が少し引き締まった。

 

「ああ。サラミスの陸軍病院で会ってきたよ」

 

「どうだった?」

 

 井上が身を乗り出した。

 

「元気だったか?」

 

「うん。足のことは大変だけど、本人は元気だった。それに――」

 

 高橋が続きを話そうとした、その時だった。

 

 鋭い笛の音がホームに響いた。

 

「浸透偵察小隊、集合! 荷物を持って集まれ!」

 

 ヴァルター少佐の声だった。

 

「あっ、まずい!」

 

 高橋は慌てて振り返った。

 

 ホームの先では、隊員たちがすでに集まり始めている。フリーダがこちらを見て、高橋に早く来るよう手招きしていた。

 

「悪い! 続きは今夜の宴会で話すよ!」

 

「おう! 絶対来いよ!」

 

 井上が手を振った。

 

「待ってるからな!」

 

 川崎も笑った。

 

「じゃあ、また後で!」

 

 高橋は二人に手を振り返し、小隊の集合場所へ急いだ。

 

 背後で、再び機関車の汽笛が鳴った。

 

 ベルノに帰ってきた。

 

 仲間たちの顔を見て、ようやくその実感が湧いてきた。

 

* * *

 

 その夜。

 

 ベルノ市内の酒場の一角に、第20期召喚者の日本人たちが集まっていた。

 

 石造りの建物の一階にある酒場は、天井が低く、太い木の梁が剥き出しになっていた。壁には古い絵画や装飾用の盾が掛けられ、いくつものランプが暖かな光を落としている。

 

 店内は夕食を楽しむ客たちで賑わい、焼いた肉や煮込み料理の匂いが漂っていた。

 

 給仕が大皿を抱えて席の間を行き来し、厨房からは鍋をかき混ぜる音が聞こえてくる。

 

 長いテーブルには、井上翔太、川崎晴斗、山田直樹、水野香織、伊藤千尋、仁川守をはじめ、各中隊から集まった十数名の男女が座っていた。

 

 久しぶりに会う同期たちの顔は、どこか以前と違って見えた。

 

 日焼けした者。少し痩せた者。以前より口数が少なくなった者もいた。

 

 それでも、顔を合わせれば自然と日本語が飛び交う。

 

 帝国共通語ではなく、何も考えずに日本語で話せる。それだけで、少し気が楽になった。

 

「おーい、高橋! こっちだ!」

 

 入口から入ってきた高橋に、山田が大きく手を振った。

 

「遅いぞ!」

 

「悪い悪い。兵舎でちょっと手間取ってさ」

 

「お前が来ないと始められないじゃないか!」

 

「だから悪かったって」

 

 高橋が笑いながら近づくと、井上が隣の椅子を引いた。

 

「ほら、座れよ」

 

「ありがと」

 

 椅子に腰を下ろすと、ようやく一息つけた。

 

 目の前には大きなパン籠と、水差し、それに人数分のコップが並んでいる。厨房から運ばれてきたばかりの肉料理には、まだ湯気が立っていた。

 

「高橋君、久しぶりね」

 

 水野が笑顔で声をかけた。

 

「水野先生! ご無事でよかったです」

 

「ありがとう。高橋君も元気そうで安心したわ」

 

「はい。何とか」

 

 水野は高橋の顔をしばらく眺めた。

 

「でも、少し痩せたんじゃない?」

 

「そうですか?」

 

「ええ。戦場では大変だったんでしょう?」

 

「まあ……いろいろありましたから」

 

「そうよね」

 

 水野はそれ以上尋ねず、穏やかに微笑んだ。

 

「今日はしっかり食べなさいね」

 

「はい、先生」

 

 そのやり取りに、隣から声がかかった。

 

「高橋、こっちも久しぶりね」

 

 伊藤千尋だった。

 

「ああ、委員長! 怪我はもう大丈夫なのか?」

 

「うん。もう平気よ。普通に動けるから」

 

 千尋はそう言って、軽く腕を動かしてみせた。

 

「そっか。よかった」

 

 千尋が負傷した砲撃では、親友の三上鈴音が戦死している。

 

 高橋も鈴音とは面識があった。

 

 千尋の隣には、以前なら鈴音が座っていたかもしれない。

 

 そんな考えが一瞬よぎったが、高橋は口には出さなかった。

 

「さあ、高橋も座りなさいよ。みんな揃うのを待ってたんだから」

 

「悪い悪い」

 

「まったく。相変わらずね」

 

「お前、まだ委員長やってるのか?」

 

 山田がからかう。

 

「何よ。誰かがちゃんとしないと、まとまらないでしょ」

 

「はいはい、委員長!」

 

「山田君!」

 

 千尋が睨むと、山田はわざと姿勢を正した。

 

 テーブルに笑い声が広がった。

 

「高橋、こっちも久しぶりだな」

 

 テーブルの向こうから声がした。

 

 仁川だった。

 

「ああ、仁川! 無事だったんだな!」

 

「おう。何とかな」

 

 仁川は少し照れくさそうに笑った。

 

 第2歩兵中隊に配属されていた仁川は、壊滅的な戦闘を生き延びた数少ない第20期召喚者の一人だった。

 

 砲撃で軽傷を負ったものの、すでに回復していた。

 

 手元のコップを持つ仁川の指には、まだ小さな傷跡が残っていた。

 

「生きて帰れてよかったな」

 

「ああ。本当にな」

 

 仁川は小さくうなずいた。

 

 その表情には、以前にはなかった陰りが残っていた。

 

「さて!」

 

 井上が立ち上がった。

 

 コップを持ち上げ、皆を見回す。

 

「全員揃ったところで、乾杯しようぜ!」

 

「おう!」

 

 山田が勢いよく立ち上がった。

 

 椅子が床を擦る音がして、ほかの者たちも次々とコップを手に取った。

 

「何に乾杯するんだ?」

 

 川崎が尋ねる。

 

 井上は少し考えた。

 

「……俺たちが生きて帰ってきたことに。それから、帰ってこられなかった仲間たちに」

 

 テーブルが静かになった。

 

 つい先ほどまで笑っていた山田も、黙ってコップを持ち直した。

 

 千尋は目の前のコップを見つめた。

 

「……鈴音にも」

 

 水野が静かにうなずいた。

 

「ええ。鈴音ちゃんにも」

 

 第2中隊に配属された第20期召喚者三十九名のうち、三十六名が戦死、または行方不明になっている。

 

 訓練所で一緒に笑い合っていた仲間たちの多くが、もう帰ってこない。

 

 仁川も黙ってコップを持ち上げた。

 

「……みんなにも」

 

「ああ」

 

 高橋もコップを掲げた。

 

「みんなに、乾杯」

 

「乾杯」

 

 コップが静かに触れ合った。

 

 酒場の別のテーブルでは、誰かが景気よく笑っていた。

 

 厨房から食器の音が聞こえ、扉が開くたびに夜の冷たい空気が入り込んでくる。

 

 それでも、このテーブルでは誰もすぐには飲み干さなかった。

 

 しばらくして、川崎が口を開いた。

 

「……第2中隊だけじゃないんだよな」

 

 皆が川崎を見た。

 

「俺らの中隊でも、予備陣地で砲弾を食らって死んだやつがいる」

 

「……誰?」

 

 千尋が尋ねた。

 

 井上が静かに答えた。

 

「南和夫だよ……」

 

「……え?」

 

 千尋が顔を上げた。

 

「野球部の南君?」

 

「ああ。あいつだ」

 

 井上は小さくうなずいた。

 

「予備陣地にいた時、砲撃を受けたんだ」

 

「……そうだったの」

 

 千尋は目を伏せた。

 

「南君も、帰ってこなかったんだ……」

 

 誰かがコップを置いた。

 

 小さな音だったが、妙にはっきりと聞こえた。

 

 しばらく沈黙が流れた。

 

 井上が手元のコップを見つめながら、ぽつりと言った。

 

「……日本の南は、今でも野球やってるんだよな……」

 

 誰も答えなかった。

 

「……日本の俺、今頃なにしてるんだろう」

 

 井上は小さく笑った。

 

「相変わらず、戦車のことばっかり考えてるのかな……」

 

「……たぶんな」

 

 川崎が静かに答えた。

 

 そして、テーブルの上に視線を落とした。

 

「俺たち、こっちに来てから随分変わっちまったよな」

 

「ああ……」

 

 高橋もうなずいた。

 

 日本にいるオリジナルは、今も学校に通い、以前と変わらない生活を続けているのだろう。

 

 だが、こちらの世界では、同じ顔と名前を持つ仲間が次々と死んでいった。

 

 今回の戦闘で、第20期召喚者の戦死・行方不明者は総計四十二名。

 

 第2歩兵中隊で三十六名。ほかの中隊でも六名が失われていた。

 

 わずか九か月前、日本から召喚された約二百名。

 

 そのうち四十二名が、もう帰ってこない。

 

 千尋が静かにコップを持ち上げた。

 

「……日本の南君は、元気でいてほしいね」

 

「そうだな」

 

 井上もコップを持ち上げた。

 

 窓の外では、荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえていた。

 

 しばらくして、誰かが静かに酒を飲んだ。

 

 それをきっかけに、ほかの者たちも少しずつコップを口に運んだ。

 

 誰も無理に明るい話を始めようとはしなかった。

 

 ただ、そこにいる仲間たちと同じ時間を過ごしていた。

 

* * *

 

 やがて、厨房から大皿の料理が運ばれてきた。

 

 焼いた肉の香ばしい匂いが漂い、熱い煮込み料理からは白い湯気が立っていた。

 

 給仕が皿を並べ終えると、山田が真っ先にパン籠へ手を伸ばした。

 

「お、うまそうだな!」

 

「山田君、少しは遠慮しなさいよ」

 

 千尋が呆れる。

 

「いや、冷めるともったいないだろ!」

 

 山田がそう言ってパンをちぎると、少しずつ周囲にも笑顔が戻ってきた。

 

 高橋も皿を取り、肉料理を自分の前へ引き寄せた。

 

 戦場では温かい食事にありつけない日もあった。

 

 こうして椅子に座り、周囲を警戒することなく食事ができる。

 

 それだけでも、十分に贅沢だった。

 

 水野の所属する砲兵中隊は、幸いにも今回の戦闘で負傷者を出さずに済んでいた。

 

「私たちの陣地からは歩兵中隊の様子がほとんど分からなかったの。戦闘が終わってから被害を聞いて、本当に驚いたわ」

 

 水野が寂しそうに言った。

 

 彼女は手元のパンを小さくちぎりながら、仁川へ視線を向けた。

 

「第2中隊のことは、まだ信じられないよ」

 

 仁川が小さく呟いた。

 

 その横顔には、先ほどの明るさがなかった。

 

 誰もすぐには答えられなかった。

 

 しばらくして、高橋が口を開いた。

 

「そうだ。みんなに話しておきたいことがあるんだ」

 

「何だ?」

 

 井上が顔を上げた。

 

「岡田のことだよ。サラミスの陸軍病院で会ってきたんだ」

 

「岡田!?」

 

 仁川がすぐに反応した。

 

 椅子から少し身を乗り出す。

 

「どうだった? 元気だったか?」

 

 井上と川崎も食事の手を止めた。

 

 駅で話しかけた時から、二人とも岡田の様子が気になっていたのだ。

 

 高橋は、病院で会った岡田の様子を話した。

 

 左足を失ったこと。

 

 それでも前向きに義足で歩くことを目指していること。

 

 そして、第六等薔薇章と帝国戦傷章を授与され、上等兵に昇進したこと。

 

「……左足を切断したのか」

 

 仁川がうつむいた。

 

 井上と川崎も言葉を失っていた。

 

 岡田を後送する時、二人はその負傷が重いことを知っていた。

 

 だが、切断という結果を改めて聞くと、簡単には言葉が出てこなかった。

 

「でも、ちゃんと笑ってたよ。本人はベルノに戻ってくるつもりらしい」

 

 高橋は、病室で見た岡田の表情を思い出していた。

 

 左足は失った。

 

 それでも、岡田は将来の話をしていた。

 

 そのことが、高橋には嬉しかった。

 

「……そうか」

 

 井上がゆっくりとうなずいた。

 

「それなら、また会えるな」

 

「ああ」

 

 高橋は笑った。

 

「それから、岡田を救助したのは井上と川崎だったんだろ? 二人とも、ありがとうな」

 

「何だよ、急に」

 

 川崎が照れくさそうに笑った。

 

「仲間なんだから、当たり前だろ」

 

 井上もうなずいた。

 

「とにかく助かってよかったよ」

 

 千尋も二人を見て微笑んだ。

 

「本当にありがとう。岡田君も私たちの仲間だものね」

 

「委員長まで。照れるじゃないか」

 

 川崎が笑った。

 

 しばらく岡田の話が続いた。

 

 病院の様子や、義足の見通し、退役した場合の生活についても質問が出た。

 

 高橋は自分の知っている範囲で答えた。

 

 そして、ふと思い出したように言った。

 

「それで、岡田にはもう一つ、いい知らせがあるんだ」

 

「まだあるのか?」

 

 山田が尋ねた。

 

「ああ。リュージュと家族になる約束をしたんだって」

 

「……え?」

 

 井上が目を丸くした。

 

「リュージュって、あの第2中隊の金髪のエルフの子か?」

 

「そう。リュージュも怪我をして、同じ病院にいるんだ」

 

「おいおい!」

 

 山田が身を乗り出した。

 

「岡田のやつ、いつの間にそんなことになってたんだ!」

 

 山田の大きな声に、近くの席にいた女子たちもこちらを向いた。

 

 その時だった。

 

「ええっ!? 岡田君、もう相手がいるの!? ちょっと高橋君、もっと詳しく!」

 

 テーブルの向こうから、女子の一人が身を乗り出してきた。

 

 その勢いに、高橋は思わず背もたれへ身を引いた。

 

「詳しくって言っても、俺そんなに知らないし……同じ病院だったからじゃないか?」

 

 高橋が困ったように答えると、仁川が口を開いた。

 

「ああ、でも、あの二人、前から結構仲よかったぞ」

 

「えっ、そうなの!?」

 

 女子たちの視線が一斉に仁川へ向いた。

 

 仁川は突然注目され、少し驚いた様子だった。

 

「同じ第2中隊だったからな。岡田とリュージュがよく話してるのは見てたよ」

 

「ちょっと! それ、初耳なんだけど!」

 

「いや、俺だって、付き合ってるとまでは思ってなかったよ」

 

 仁川は苦笑した。

 

 その顔に、久しぶりに明るい笑みが浮かんだ。

 

「でも、そうか。家族になるのか……。ははは! そういうことだったんだな!」

 

 仁川が嬉しそうに笑う一方で、女子たちからは失望の声が上がった。

 

「嘘でしょ……ちょっと狙ってたのに」

 

「私もよ。休暇になったら誘おうと思ってたのに……」

 

「何よ、先を越されちゃったじゃない!」

 

 あちこちからため息が漏れた。

 

 高橋はその反応に驚かなかった。

 

 岡田が女子に人気があることは、以前から知っていたからだ。

 

 ところが、その中の一人が突然、勢いよく立ち上がった。

 

 椅子が大きな音を立てた。

 

「あきらめるのは早いわ! こっちじゃ平民に結婚制度はないから、二号さんになればいいのよ!」

 

「ええっ!?」

 

 今度は周囲の女子たちが驚いた。

 

「ちょっと! そこまでするつもりなの!?」

 

「何よ! 結婚制度がないなら、まだ可能性はあるじゃない! 私はあきらめないわ!」

 

 女子は拳を握り締め、真剣な顔で言い切った。

 

 その勢いに、隣に座っていた男子が思わず身を引いた。

 

「いや、そういう問題じゃないでしょ!」

 

 千尋が思わず口を挟んだ。

 

「岡田君本人の気持ちはどうなるのよ!」

 

「それはこれから確かめるの!」

 

「本気なの!?」

 

 千尋が呆然とした顔をすると、テーブルにどっと笑い声が広がった。

 

 高橋は女子たちの勢いに苦笑した。

 

「……ああ、やっぱりな。岡田、ベルノに帰ってきたら大変だな」

 

 岡田は顔もよく、運動もできて、誰にでも親切だった。

 

 密かに好意を寄せていた女子が何人もいたとしても、不思議ではない。

 

 だが、ここまで積極的な者がいるとは思わなかった。

 

「何よ、高橋君。そんな他人事みたいに!」

 

 先ほどの女子が高橋を睨んだ。

 

「いや、俺に言われても困るって。岡田のことは岡田に聞いてくれよ」

 

「もちろん、そのつもりよ!」

 

「……本気なんだな」

 

 高橋が呆れると、川崎が隣でため息をついた。

 

「同じ第20期なのに、この差は何なんだ……」

 

 川崎は自分のコップを見下ろし、何とも言えない顔をした。

 

 すると、井上が余裕の笑みを浮かべた。

 

「まあ、川崎もそのうちいい相手が見つかるって」

 

「何だよ、その上から目線!」

 

「ははは! 人生、何があるか分からないからな!」

 

「……何でお前がそんなこと言うんだよ」

 

 川崎は不満そうに言ったが、井上は得意そうに笑うだけだった。

 

 高橋はその様子を見て、首をかしげた。

 

 以前なら、井上も一緒になって岡田を羨ましがっていたはずだ。

 

 だが、今日の井上は妙に余裕がある。

 

 その理由は、まだ高橋には分からなかった。

 

 水野が微笑んだ。

 

「でも、岡田君が元気になって、幸せになれるなら、それが一番よね」

 

「……そうですね」

 

 先ほどまで失望していた女子たちもうなずいた。

 

「残念だけど、おめでとうって言わないとね」

 

「うん。岡田君には幸せになってほしいもの」

 

 もっとも、先ほど立ち上がった女子だけは、まだ納得していない様子だった。

 

 腕を組み、何やら考え込んでいる。

 

 千尋はそんな彼女を見て、苦笑した。

 

「まあ、岡田君が帰ってきたら、まずはゆっくり休ませてあげなさいよ」

 

「それはもちろんよ!」

 

 即答する彼女に、周囲がまた笑った。

 

 仁川がコップを持ち上げた。

 

「岡田が帰ってきたら、みんなで会いに行こうぜ」

 

「そうだな!」

 

 井上が笑った。

 

「今度はあいつの快気祝いだ!」

 

 テーブルに明るい声が戻ってきた。

 

 仁川も嬉しそうにコップを口に運んだ。

 

 壊滅した第2中隊のことを思えば、何もかもが元通りになるわけではない。

 

 それでも、岡田には帰る場所があり、待っている仲間がいる。

 

 その事実が、仁川には何より嬉しかった。

 

 山田は、少し羨ましそうに呟いた。

 

「それにしても、エルフの女の子と家族になるのか……」

 

「何だよ、山田。お前も頑張ればいいだろ」

 

 川崎がからかった。

 

「そう簡単に言うなよ!」

 

 山田が言い返すと、テーブルに笑い声が広がった。

 

* * *

 

 給仕が新しい酒瓶を運んできた。

 

 井上は空になりかけたコップへ酒を注ぎ足し、機嫌よく周囲を見回した。

 

 どうやら、先ほどから何か言いたくて仕方がない様子だった。

 

「そういえば、俺にも彼女ができたんだぜ!」

 

 井上が得意そうに胸を張った。

 

「えっ、本当か?」

 

 高橋が驚くと、井上は満足そうにうなずいた。

 

「おう! すっげえ美人なんだぞ!」

 

 その言葉に、隣の川崎が何とも言えない顔をした。

 

 しかし、井上は気づいていない。

 

「へえ、井上君に彼女?」

 

 千尋が口元を押さえて笑った。

 

「それって、エア彼女じゃないでしょうね?」

 

「おい! 何だよ、エア彼女って!」

 

「だって、そんな自慢するんだもの。ちょっと怪しいじゃない」

 

 千尋は楽しそうだった。

 

 井上が女の子の話をすること自体、以前の彼を知る者には珍しかった。

 

「本当だって! メリーナさんっていうんだよ!」

 

「あら、名前まで設定してあるのね」

 

「だから、実在するって!」

 

 井上がむきになって言い返した。

 

 すると、周囲の男子たちまで面白がり始めた。

 

「おい、井上のやつ、砲撃で幻覚を見るようになったんじゃないか?」

 

「いや、何か変な薬でもやってるんじゃないのか?」

 

「お前ら、ひどすぎるだろ!」

 

 井上が抗議すると、テーブルに笑い声が広がった。

 

 川崎は何か言いかけたが、井上があまりにも必死なので、面白くなって黙っていた。

 

「だって井上君、今まで女の人に興味なかったでしょ?」

 

 千尋まで笑いながら言った。

 

「委員長まで何言ってるんだよ! 本当なんだって!」

 

 井上がコップを置くと、勢い余って少し酒がこぼれた。

 

 慌てて布巾で拭いている姿が、ますます周囲の笑いを誘った。

 

 すると、一人の男子が妙に真剣な顔で口を開いた。

 

「……なあ、これ、一度病院に連れていった方がいいんじゃないか?」

 

「そうだな。戦場から帰ってきて、急におかしくなったし……」

 

「おい! お前ら、本気で心配してるだろ!」

 

 井上が声を上げた。

 

「いや、心配にもなるだろ。お前、今まで戦車と大砲の話しかしてなかったじゃないか」

 

「俺だって女の人くらい好きになるわ!」

 

 テーブルにどっと笑い声が広がった。

 

 ところが、水野だけは少し心配そうな顔をしていた。

 

 彼女は井上の様子をじっと見つめ、それから遠慮がちに声をかけた。

 

「……井上君」

 

「はい、先生?」

 

「戦場から帰ってきて、ちゃんと眠れてる?」

 

「……はい?」

 

 井上が不思議そうに瞬きをした。

 

「何か変なものが見えたり、聞こえたりすることはない?」

 

「先生まで何言ってるんですか!?」

 

「だって、急にそんな話をするから……。先生、ちょっと心配になっちゃって」

 

 水野は本当に心配している様子だった。

 

 元教師として、かつての生徒の変化を見過ごせないのだろう。

 

「本当なんですって! 彼女ができたんですよ!」

 

「そう……。でも、一度軍医さんに相談してみた方がいいんじゃないかしら」

 

「先生まで病院に連れていこうとしないでくださいよ!」

 

 とうとう高橋まで吹き出した。

 

「井上、お前、そこまで信用されてなかったのか!」

 

「お前も笑うな!」

 

 井上は頭を抱えた。

 

「もう誰か助けてくれよ……」

 

 その様子を眺めていた川崎が、とうとう笑いをこらえきれなくなった。

 

「……いや、メリーナさんなら実在するぞ」

 

「えっ?」

 

 千尋が川崎を見た。

 

「川崎君、知ってるの?」

 

「ああ。見たことある」

 

「本当!?」

 

「うん。井上がナンパして、そのまま二人で店を出ていったところまで見てる」

 

「……ええっ!?」

 

 千尋が驚いた。

 

 周囲の同期たちも、次々と川崎に顔を向けた。

 

「ちょっと待って! 井上君がナンパしたの!?」

 

「そうなんだよ」

 

 川崎は苦笑した。

 

 コップを置き、当時のことを思い出すように話し始めた。

 

「山田と永野先輩も一緒だったんだけど、酒場で女の人に声をかけようって話になってさ」

 

「それで?」

 

「誰が最初に行くか、じゃんけんで決めたんだ」

 

 川崎は井上を指差した。

 

「負けたのがこいつ」

 

「おい! 余計なこと言うなよ!」

 

 井上が慌てて口を挟んだ。

 

「ええっ!? じゃんけんで負けたからナンパしたの!?」

 

 千尋が笑い出した。

 

「何よ、それ!」

 

「いや、そういう流れだったんだって!」

 

 井上が弁解した。

 

 川崎は構わず続けた。

 

「で、井上が店の奥にいた女の人に声をかけたんだけど……」

 

「どんな人?」

 

 女子の一人が興味津々で尋ねた。

 

「黒髪で、すごく綺麗な人だったよ。淡い色のワンピースを着てて、何ていうか……どこかのお嬢様みたいな雰囲気だった」

 

 川崎はその時の光景を思い出していた。

 

 酒場の片隅に座る、上品な服装の女性。

 

 周囲の騒がしさとは無縁のような落ち着いた佇まいで、静かに酒を楽しんでいた。

 

 少なくとも、じゃんけんに負けた井上が気軽に声をかけられるような相手には見えなかった。

 

「へえ……」

 

 女子たちが感心したように声を上げた。

 

「正直、俺は無理だと思ってたんだよ。どう見ても井上とは釣り合わない感じだったし」

 

「お前なあ!」

 

 井上が抗議した。

 

「ところが、井上が話しかけたら、あっさり笑顔になってさ」

 

 川崎は当時を思い出したらしく、少し笑った。

 

「しばらくしたら、二人で店を出ていっちゃったんだ」

 

「ええっ!?」

 

「本当に!?」

 

 テーブルが騒がしくなった。

 

「すごいじゃない、井上君!」

 

「だろ!?」

 

 井上が胸を張った。

 

 先ほどまで自分を疑っていた同期たちを見回し、勝ち誇ったような顔をする。

 

 しかし、川崎は首をかしげていた。

 

「でも、井上。お前、あの後も続いてたのか?」

 

「当たり前だろ!」

 

「……そうかあ」

 

 川崎はしみじみと言った。

 

「いや、そこが一番驚いた」

 

「何でだよ!」

 

「だって、あんなお嬢様みたいな美人だぞ? あの日はたまたまうまくいっただけだと思ってたんだよ」

 

「失礼なやつだな!」

 

「いや、俺も本当にびっくりしたんだって!」

 

 川崎は笑いながら続けた。

 

「しかも、今も続いてるんだろ? 正直、いまだに信じられないよ」

 

 川崎はメリーナが実在することを疑っていない。

 

 あの夜の出来事も、自分の目で見ている。

 

 ただ、あんなお嬢様のような女性と井上が交際を始め、しかも今も続いているという事実が、どうにも不思議でならないのだった。

 

「お前、友達ならもう少し祝福しろよ!」

 

「祝福はしてるよ。ただ、不思議なんだ」

 

「だから何でだよ!」

 

 井上が頭を抱えると、また笑い声が上がった。

 

 その時、それまで黙って麦酒を飲んでいた山田が口を開いた。

 

「委員長、そのメリーナさん、うちの分隊の古参兵なんですよ」

 

「……え?」

 

 千尋が目を丸くした。

 

「軍人なの?」

 

「はい。第4中隊のメリーナ上等兵です」

 

「ええっ! あのお嬢様みたいな人が?」

 

 川崎も改めて驚いたように言った。

 

「そうですよ。川崎もあの後、説明したじゃないですか」

 

「ああ、そうだった。でも、何度聞いても軍人には見えないよな」

 

「まあ、確かにそうですね」

 

 山田は笑った。

 

「メリーナさん、分隊でもあんな感じですから」

 

 山田の脳裏に、いつもの穏やかな笑顔が浮かんだ。

 

 黒髪を整え、上品な口調で話すメリーナ。

 

 その姿だけ見れば、良家の令嬢と言われても誰も疑わないだろう。

 

 だが、彼女はれっきとした帝国軍の古参兵だった。

 

 格闘訓練でも、山田は何度となく彼女に手玉に取られている。

 

 その実力と、普段の優しげな外見との落差は、今でも少々納得し難いものがあった。

 

「へえ……」

 

 千尋が興味深そうに身を乗り出した。

 

「じゃあ、山田君はその人のこと、よく知ってるの?」

 

「ええ。同じ分隊ですから」

 

「どういう人なの?」

 

「そうですね……」

 

 山田は少し考えた。

 

「普段は優しくて、仕事もきっちりする人ですよ。滅多に怒らないし、誰に対しても丁寧です」

 

「いい人じゃない!」

 

「ええ。いい人ですよ」

 

 山田はうなずいた。

 

「ただ、ちょっと独特なところもありますけど」

 

「独特?」

 

「まあ、いろいろと……」

 

 山田は言葉を濁した。

 

 メリーナの男性に対する考え方を、ここで詳しく説明する気にはなれなかった。

 

 そもそも、どう説明したらよいものか。

 

 山田は、初めて井上がメリーナを誘った夜のことを思い出していた。

 

 あの時、井上は自分がナンパに成功したと思っていた。

 

 だが、メリーナは山田たちが同じ店にいることに気づいていたのだ。

 

 あの上品な微笑み。

 

 そして、いつもの穏やかな口調。

 

 ――あの人、本当に井上のことを気に入ったんだな。

 

 山田は少し感心していた。

 

「とにかく、メリーナさんは間違いなく実在しますよ」

 

「ほら! 山田も認めた!」

 

 井上が得意そうに言った。

 

「しかも、メリーナさんは俺と長く付き合いたいって言ってくれたんだぞ!」

 

「……長く?」

 

 山田が思わず聞き返した。

 

「おう!」

 

 井上は嬉しそうに笑った。

 

「本当か?」

 

「本当だって!」

 

 山田は井上をしばらく眺めた。

 

 井上は背が低めで、少し太めの体格だった。

 

 日本にいた頃から軍事の話ばかりしていて、女子に人気があったとは言い難い。

 

 その井上が、メリーナから長く付き合いたいと言われたという。

 

 なるほど。

 

 そういうことなら話は分かる。

 

「……それはよかったですね」

 

 山田は笑った。

 

「何だよ、その微妙な反応!」

 

「いや、本当によかったと思ってますよ」

 

「じゃあ、もっと祝福してくれよ!」

 

 山田は少し困ったように笑い、麦酒を口に運んだ。

 

 メリーナがどんな女性なのか、山田はよく知っている。

 

 あの穏やかな笑顔の裏に、どれほど強い意志が隠されているかも。

 

 だが、井上がこれほど嬉しそうにしているなら、今は余計なことを言う必要もないだろう。

 

「じゃあ、山田君」

 

 千尋が尋ねた。

 

「二人が付き合ってるのも本当なの?」

 

「いや、そこまでは知りませんよ」

 

「おい!」

 

 井上が叫んだ。

 

「俺たちが付き合ってるってことだよ!」

 

「いや、僕は二人が一緒にいるところを見ただけですから。交際の確認までしてませんよ」

 

「お前なあ!」

 

 井上が頭を抱えると、テーブルにどっと笑い声が広がった。

 

 千尋も笑いながら杯を持ち上げた。

 

「まあ、メリーナさんが実在するのは分かったわ。おめでとう、井上君!」

 

「だから最初からそう言ってるだろ!」

 

 井上が言い返すと、またひとしきり笑い声が上がった。

 

 水野もようやく安心したように微笑んだ。

 

「よかったわね、井上君。先生、本当に心配したのよ」

 

「先生、もう勘弁してくださいよ……」

 

 井上はがっくりと肩を落とした。

 

 その隣で、川崎がまだ首をかしげていた。

 

「しかし……あのメリーナさんがなあ……」

 

 遠い目をして、何やら考え込んでいる。

 

「川崎! お前はいつまで言ってるんだよ!」

 

 井上の抗議に、また笑い声が広がった。

 

* * *

 

 時間が経つにつれ、酒場の中はますます賑やかになっていった。

 

 店の奥からは楽器の音が聞こえ、どこかのテーブルでは兵士たちが歌い始めていた。

 

 給仕が新しい皿を運び、空になった酒瓶が次々と片付けられていく。

 

 宴会の話題も、少しずつ戦場から離れていった。

 

 ベルノに帰ってきたら何を食べたいか。

 

 休暇をどう過ごすか。

 

 久しぶりに街へ買い物に出かけたいという話や、ただ寝ていたいという話も出た。

 

「俺はとにかく、しばらく何もしないぞ!」

 

 山田が宣言した。

 

 パンを片手に、妙に真剣な顔をしている。

 

「朝寝坊して、うまいもの食って、昼寝する!」

 

「普段とあんまり変わらないだろ」

 

 川崎が笑った。

 

「全然違うって! 敵の砲撃を気にしなくていいんだぞ!」

 

「それは確かにそうだな」

 

 井上が笑った。

 

 高橋も思わずうなずいた。

 

 何もしなくてよい一日というものが、今ではどれほど貴重なものか、よく分かる。

 

「俺はメリーナさんと過ごす予定だ。せっかくの休暇だからな」

 

 井上が嬉しそうに言った。

 

「……またメリーナさんかよ」

 

 川崎が呆れた。

 

「お前、最近そればっかりだな」

 

「いいだろ、別に!」

 

 井上は少しも悪びれなかった。

 

 むしろ、自慢できることが嬉しくて仕方がない様子だった。

 

「お前、戦車はどうしたんだよ?」

 

 山田が尋ねた。

 

「戦車?」

 

 井上は不思議そうな顔をした。

 

「戦車は逃げないだろ。でも、メリーナさんとの時間は大切にしないとな!」

 

 川崎はしばらく井上の顔を眺めた。

 

「……お前、本当に変わったな」

 

 山田も深くうなずいた。

 

「まさか井上が、戦車より女の人を優先する日が来るとは……」

 

「お前ら、いつまでその話をするんだよ!」

 

 井上が言い返すと、また笑い声が広がった。

 

 高橋も苦笑した。

 

 日本にいた頃の井上を知っているだけに、その変化は意外だった。

 

 以前なら、休暇があれば軍の装備を見に行きたいと言い出したかもしれない。

 

 だが、今の井上にとっては、メリーナと過ごす時間の方がずっと大切らしい。

 

「それで、川崎はどうするんだ?」

 

 高橋が尋ねた。

 

「俺か? 俺も街に出たり、のんびりしたりかな」

 

 川崎は肩をすくめた。

 

「まあ、井上みたいに彼女と過ごす予定はないけどな」

 

「ははは! そのうちできるって!」

 

 井上が笑った。

 

「だから、その上から目線をやめろ!」

 

 川崎が言い返すと、再び笑い声が上がった。

 

「仁川はどうするんだ?」

 

 高橋が尋ねた。

 

「俺か?」

 

「ああ。休暇の予定」

 

「そうだな……」

 

 仁川は少し考えた。

 

 手元のコップに視線を落とし、ゆっくりと答えた。

 

「最初の何日かは、寝て過ごそうと思ってる」

 

「それがいいな」

 

「でも、落ち着いたら街に出たいな。久しぶりに普通の飯を食いたい」

 

 仁川は笑った。

 

 もっとも、その笑顔はどこか疲れていた。

 

 第2中隊で経験した戦闘は、簡単に忘れられるものではないだろう。

 

「あと、岡田に手紙でも書こうかな」

 

「いいんじゃないか」

 

「同じ中隊で生き残ったんだ。これからも付き合いは続けたいしな」

 

 高橋はうなずいた。

 

「きっと喜ぶよ」

 

「そうだといいな」

 

 仁川は微笑んだ。

 

 その表情を見て、高橋は少し安心した。

 

 失われたものは大きい。

 

 それでも、こうして先のことを話せるようになったのは、よいことだと思った。

 

「委員長はどうするんだ?」

 

 高橋が尋ねた。

 

「私? まずは姉さんのところへ行こうと思ってるの」

 

「和江さんのところか?」

 

「うん。それでね、みんなに報告があるの」

 

 千尋は少し嬉しそうに頬を緩めた。

 

 何かいいことがあったのだろう。

 

 その表情に、周囲の者たちも自然と顔を向けた。

 

「姉さん、赤ちゃんを産んだの。母子ともに元気だって!」

 

「えっ、本当か!」

 

 高橋は思わず声を上げた。

 

「おめでとう、委員長!」

 

「ありがとう!」

 

「和江さんが出産か。よかったなあ」

 

 井上も笑顔で応じた。

 

 テーブルのあちこちから祝福の言葉が上がった。

 

 千尋は少し照れくさそうに笑いながら、何度も礼を言った。

 

 伊藤和江は千尋の姉で、第17期召喚者だった。以前は軍務に就いていたが、妊娠のために前線を離れている。

 

「連絡が来たのは、私がベルノに戻ってからなの。早く会いに行きたいんだけど、姉さんも赤ちゃんもまだ見てないのよ」

 

「そりゃ、すぐにでも会いたいよな」

 

 川崎がうなずいた。

 

「しかし、委員長もとうとうおばさんかあ」

 

 山田がしみじみと言った。

 

 千尋の顔から笑みが消えた。

 

「ちょっと、山田君! その呼び方、何とかならないの?」

 

「いや、間違ってないだろ?」

 

「間違ってないから腹が立つのよ!」

 

 千尋が睨むと、山田は肩をすくめた。

 

 周囲に笑い声が広がった。

 

 その中で、水野が嬉しそうに身を乗り出した。

 

「ねえ、千尋ちゃん。今度、見に行っていい? 私、赤ちゃん大好きなのよ」

 

「もちろんです、先生! 姉さんにも伝えておきます」

 

「ありがとう。生まれたばかりの赤ちゃんなんでしょう? 楽しみだわ」

 

 水野は目を細めた。

 

 先ほどまで戦場の話をしていた時とは、まるで違う表情だった。

 

「お姉さんも、今は何かと大変でしょうね。私で手伝えることがあったら言ってね」

 

「はい。ありがとうございます」

 

 千尋は丁寧に頭を下げた。

 

「姉さん、ずっと一人で頑張ってきたから……私も、できるだけ力になりたいんです」

 

 赤ん坊の父親である南井は、すでに戦死していた。

 

 千尋はそれ以上は語らなかったが、その表情には姉を気遣う思いが滲んでいた。

 

 水野もその事情を知っている。

 

 だからこそ、余計なことは尋ねず、ただ微笑んだ。

 

「大丈夫。きっと元気な子に育つわ」

 

「ええ。早く抱っこしてみたいです」

 

 千尋は笑った。

 

 戦場から帰ってきたばかりの彼らには、失った仲間の話題がどうしても多くなる。

 

 それだけに、新しい命が生まれたという知らせは、皆の心を明るくした。

 

 テーブルの上には、すでに食べ終わった皿がいくつも重なっていた。

 

 給仕が新しい水差しを置き、窓の外を通る馬車の音が聞こえてくる。

 

 夜は少しずつ更けていたが、話は尽きなかった。

 

「じゃあ、先生。今度、姉さんのところへ行った帰りに買い物もしませんか?」

 

「あら、いいわね。久しぶりに街をゆっくり歩きたいわ」

 

「はい。訓練と軍務ばかりでしたから」

 

 千尋は嬉しそうに笑った。

 

 だが、ふと、その笑顔が少し寂しそうなものに変わった。

 

「……鈴音とも、また買い物に行きたかったな」

 

 その一言に、水野は静かに千尋を見た。

 

 新年に三人で出かけた旧王宮広場。

 

 あの時は、春になればまた一緒に街を歩けると思っていた。

 

 千尋は指先でコップの縁をなぞった。

 

 何かを思い出すように、しばらく黙っていた。

 

「……そうね」

 

 水野が答えた。

 

「鈴音ちゃん、あの時は本当に楽しそうだったものね」

 

「うん」

 

 千尋は小さくうなずいた。

 

「私、まだ時々、鈴音が隣にいるような気がするんです」

 

 しばらく沈黙が流れた。

 

 酒場の奥からは、相変わらず誰かの笑い声が聞こえてくる。

 

 高橋も、あの高地陣地で見た鈴音の顔を思い出していた。

 

 千尋は少しうつむいた。

 

 だが、やがて顔を上げた。

 

「……ごめんね。せっかくの宴会なのに」

 

「謝ることないよ」

 

 高橋が答えた。

 

「そうだぞ」

 

 井上もうなずいた。

 

「今日は、帰ってこられなかった連中のことも思い出すために集まったんだから」

 

 千尋は二人を見た。

 

 そして、少しだけ笑った。

 

「……ありがとう」

 

 水野が千尋の肩にそっと手を置いた。

 

「今度、一緒に旧王宮広場へ行きましょう」

 

「……はい」

 

 千尋は静かにうなずいた。

 

 しばらくの間、皆は黙って酒を飲んだ。

 

 それは気まずい沈黙ではなかった。

 

 同じ戦場を経験し、仲間を失った者たちだからこそ、言葉にしなくても分かるものがあった。

 

 やがて山田が、少し遠慮がちに口を開いた。

 

「……あのさ」

 

「何よ?」

 

 千尋が顔を上げる。

 

「買い物に行くなら、俺にも何かうまいもの買ってきてくれよ」

 

 千尋は一瞬、呆気に取られた。

 

 そして、眉を吊り上げた。

 

「何で山田君の分まで買わなきゃいけないのよ!」

 

「いや、ついでにさ!」

 

「自分で買いなさい!」

 

 その返事に、井上が吹き出した。

 

 川崎も笑い始める。

 

 千尋は呆れたように山田を見ていたが、やがて自分も笑ってしまった。

 

 水野も笑った。

 

 仁川もコップを片手に笑っていた。

 

 テーブルには、再び明るい声が戻ってきた。

 

* * *

 

 宴会は夜遅くまで続いた。

 

 途中で料理が追加され、酒瓶も何本か空になった。

 

 店内の客が少しずつ入れ替わっても、第20期のテーブルだけは賑やかなままだった。

 

 久しぶりの日本語での会話だった。

 

 各中隊に分かれてからは、日本人の同期とゆっくり話す機会も少なくなっていた。

 

 特に高橋が所属する浸透偵察小隊は、普段からほかの兵科とは別に行動している。

 

 訓練も任務も特殊で、宿営地まで離れていた。

 

 日本人の同期と顔を合わせることさえ、そう多くはなかった。

 

 水野のように小隊の隊員たちと交流のある者は、むしろ例外だった。

 

 それだけに、今夜のような時間は貴重だった。

 

 戦場で経験したこと。

 

 失った仲間たち。

 

 これからの軍務。

 

 そして、休暇の楽しみ。

 

 話題は尽きなかった。

 

 高橋は、笑い合う仲間たちの顔を見回した。

 

 井上は相変わらず何かを熱心に語っていたが、最近は話題の中心が戦車からメリーナへ変わったらしい。

 

 川崎はその隣で呆れた顔をしている。

 

 山田は大皿に残っていた肉を見つけ、千尋に何か言われながら自分の皿へ移していた。

 

 水野はそんな彼らを微笑ましそうに見守り、仁川も時折会話に加わって笑っている。

 

 召喚されたばかりの頃、誰もが不安を抱えていた。

 

 言葉も通じず、帝国軍の制度も知らず、これからどうなるのかも分からなかった。

 

 それでも、同じ日本から来た仲間がいるというだけで、心強かった。

 

 あれから九か月。

 

 今では全員が帝国軍の兵士だった。

 

 そして、初めての本格的な戦闘を経験した。

 

 もう、召喚された頃の自分たちには戻れないのだろう。

 

 千尋は鈴音を失った。

 

 仁川は、同じ中隊の仲間たちのほとんどを失った。

 

 岡田は左足を失い、それでも新しい人生を歩み始めようとしている。

 

 誰もが、何かを失っていた。

 

 それでも、こうして笑い合える仲間がいる。

 

 高橋は、そのことが嬉しかった。

 

 戦争は、まだ終わっていない。

 

 自分たちの軍務も、これから長く続いていく。

 

 だが、今夜だけは、同じ日本から来た仲間たちと過ごす時間を大切にしたかった。

 

 高橋はコップを口に運び、ゆっくりと飲み干した。

 

* * *

 

 一次会がお開きになった頃には、通りもすっかり暗くなっていた。

 

 店の外へ出ると、酒場の熱気とは対照的に、春の夜風が少し冷たかった。

 

 石畳の通りには街灯がぽつぽつと灯り、酔った兵士たちが肩を組んで歩いていた。

 

 千尋たちは明日の予定があると言って先に帰っていった。

 

 水野も皆に別れを告げ、駐屯地へ戻っていった。

 

 残ったのは、高橋、井上、川崎、山田の四人だった。

 

「高橋、もう一軒行かないか?」

 

 川崎が声をかけた。

 

「いいけど、もう結構遅いぞ」

 

「大丈夫だって。せっかく帰ってきたんだからさ」

 

 川崎は上機嫌だった。

 

 戦場から戻ってきた開放感もあるのだろう。

 

「俺も行く!」

 

 山田が手を挙げた。

 

「井上は?」

 

 川崎が尋ねると、井上は少し考えた。

 

「まあ、いいか。メリーナさんとは明日も会えるしな」

 

「お前、今夜も会うつもりだったのか?」

 

「いや、別にそういうわけじゃないけど……」

 

 井上が照れくさそうに笑った。

 

 川崎は呆れたように首を振った。

 

「本当に、メリーナさんのことばっかりだな」

 

「いいだろ、別に!」

 

「はいはい。分かったよ」

 

 川崎が肩をすくめた。

 

「まあ、今日はお前らに付き合ってやるよ!」

 

 井上が胸を張った。

 

「何でそんなに偉そうなんだよ!」

 

 川崎が呆れた。

 

 結局、四人で別の酒場へ移ることになった。

 

 ベルノの夜はまだ賑やかだった。

 

 帰還兵たちの姿があちこちに見られ、酒場の前では酔った兵士たちが大声で歌っている。

 

 通りの角では、屋台の主人が炭火で串焼きを焼いていた。

 

 香ばしい匂いが夜風に乗って漂ってくる。

 

「うまそうだな……」

 

 山田が足を止めた。

 

「お前、さっきあれだけ食っただろ」

 

 川崎が呆れた。

 

「いや、ああいうのは別腹なんだよ!」

 

「そんなこと言ってるから太るんだぞ」

 

「何だよ、お前まで!」

 

 山田が抗議する。

 

 井上は笑いながら先を歩いていた。

 

 高橋も二人のやり取りを聞きながら、のんびりと後に続いた。

 

 戦場では、夜にこうして気軽に歩くことなどできなかった。

 

 周囲に気を配り、物音に耳を澄ませ、常に敵の存在を意識していた。

 

 それが今は、酔った仲間たちとくだらない話をしながら街を歩いている。

 

 高橋は夜空を見上げた。

 

 建物の間から、いくつかの星が見えていた。

 

 四人は通りを曲がり、少し奥まった場所にある酒場へ入った。

 

 入口の扉を開けると、暖かな空気と麦酒の匂いが流れ出してきた。

 

 二軒目の店は、最初の酒場よりも少し古びていた。

 

 石造りの壁には古い武具や絵画が飾られ、暖炉の近くでは兵士らしい客たちが麦酒の杯を傾けている。

 

「へえ、いい店じゃないか」

 

 高橋が店内を見回した、その時だった。

 

「おい! 高橋じゃないか!」

 

 奥のテーブルから、聞き覚えのある声が飛んできた。

 

「石井軍曹!」

 

 高橋が顔を向けると、石井が片手を上げていた。

 

 その周囲にはロイ、リース、サクの姿もある。石井分隊の面々だった。

 

「井上も川崎も、山田までいるのか。何だ、お前ら、揃って飲みに来たのか?」

 

「はい。第20期で集まってたんですけど、今は二次会です」

 

 井上が答えた。

 

「そうか。だったら一緒に飲もうぜ。こっち、席が空いてるぞ」

 

「ありがとうございます」

 

 四人は椅子を引き寄せて石井たちのテーブルに加わった。

 

 石井は高橋の肩を軽く叩いた。

 

「ようやく帰ってきたな。お前らが遅れてるって聞いてたから、どうしてるのかと思ってたぞ」

 

「軍団司令部に寄ってたんです。少し手続きがありまして」

 

「そうか。まあ、無事なら何よりだ」

 

 石井はそれ以上尋ねなかった。

 

 高橋も詳しい事情には触れず、ほっとしたように笑った。

 

「高橋!」

 

 サクが嬉しそうに声を上げた。

 

「おお、サク。久しぶりだな」

 

 高橋も笑った。

 

 サクは帝国の現地出身者で、高橋とは新兵訓練時代からの友人だった。召喚者と現地出身者という違いはあったが、共に基礎訓練を受けるうちに親しくなった仲だ。

 

「無事でよかったっすね!」

 

「そっちこそ。元気そうじゃないか」

 

「もちろんっす!」

 

 サクは嬉しそうに杯を掲げた。

 

 その隣で、ロイが小さくため息をついた。

 

「こいつ、もう結構飲んでるからな」

 

「まだまだ大丈夫っすよ!」

 

 サクは元気よく答えた。

 

 ロイは苦笑するだけだった。

 

 リースも高橋に手を振った。

 

「久しぶりね、高橋」

 

「ああ。リースも無事でよかった」

 

「ええ。何とかね」

 

 第19期召喚者のリースは、アメリカ出身の女性だった。召喚当時は留学中で、現在は石井分隊の機銃手として軍務に就いている。

 

 戦場ではG12機銃を扱い、石井たちと共に戦っていた。

 

 今夜は肩の力が抜けた様子で、楽しそうに麦酒を飲んでいる。

 

 石井分隊の面々が加わったところで、会話も日本語から帝国共通語に切り替わった。

 

 ロイやサクは現地人であり、リースも日本人ではない。全員が同じ話に加わるには、その方が都合がよかった。

 

「まあ、みんな生きて帰ってこられてよかったな」

 

 石井が杯を持ち上げた。

 

「乾杯!」

 

「乾杯!」

 

 コップがぶつかり合った。

 

 麦酒の泡が少しこぼれ、テーブルに小さな染みを作った。

 

 石井は豪快に酒を飲み干し、ロイはゆっくりとコップを傾けた。

 

 サクは早くも次の一杯を注文していた。

 

* * *

 

 しばらくは、それぞれの近況を話し合った。

 

 石井は第3中隊の話をし、井上はベルノへ戻ってからの出来事を楽しそうに語った。

 

 話題がメリーナに及ぶと、川崎がまた首をかしげる。

 

「だから、まだ信じられないんだよなあ……」

 

「お前、さっきからそればっかりじゃないか!」

 

 井上が言い返した。

 

 山田は相変わらず訓練中の出来事を大げさに話し、皆を笑わせていた。

 

 高橋も、小隊の宿営生活や、戦場での食事の苦労などを話した。

 

 もっとも、軍団司令部での出来事や、作戦の詳細については触れなかった。

 

 石井たちも、そのあたりを無理に聞こうとはしない。

 

 戦場から戻った兵士には、話せることと話せないことがある。

 

 皆、それくらいは承知していた。

 

 暖炉では薪がぱちぱちと音を立て、給仕が新しい酒瓶を運んでくる。

 

 窓の外はすっかり暗くなっていたが、酒場の中は暖かかった。

 

 高橋は椅子の背にもたれ、大きく息をついた。

 

 久しぶりに心からくつろいでいた。

 

 そんな中、ふと隣の席が空いていることに気づいた。

 

「あれ? サクは?」

 

 先ほどまで楽しそうに杯を掲げていたはずなのに、いつの間にか姿がない。

 

 リースが、店の隅を指さした。

 

「……え?」

 

 高橋がそちらを見る。

 

 壁際には、昔の甲冑を着た騎士の石像が飾られていた。

 

 剣を帯び、胸を張って立つ、いかにも古い時代の騎士らしい像だった。

 

 長年ここに置かれていたためか、石の表面は少しくすみ、肩の一部が欠けている。

 

 その前に椅子を持ってきて、サクが座っていた。

 

 しかも、何やら熱心に話しかけている。

 

「……いや、そういうことじゃないと思うっすよ。俺だって、いろいろ考えてるんすから」

 

 騎士像は、もちろん何も答えない。

 

 ところがサクは、しばらく黙って相手の返事を聞いているかのように頷いた。

 

「……なるほど。確かに、それはそうっすね」

 

 高橋は目を丸くした。

 

「……なにやってるんですか?」

 

 ロイは一度だけそちらを見て、ため息をついた。

 

「こいつ、酔うといつもこれだ。人生相談始めるんだよ」

 

「人生相談って……相手、石像ですよ?」

 

「見れば分かる」

 

 ロイは平然と麦酒を飲んだ。

 

「新年にも置物相手にやってたんだ。あの時は驚いたが、もう慣れた」

 

「帰りの列車では背嚢としゃべってたわ」

 

 リースが付け加えた。

 

「……背嚢?」

 

「そう。自分の背嚢を隣に置いて、ずっと話してたのよ。時々、考え込んだり、反論したりしてね」

 

 リースは笑いながらコップを傾けた。

 

 高橋はもう一度サクを見た。

 

 新兵訓練の頃から付き合いのある友人だった。

 

 真面目なところも、少し調子のいいところも知っている。

 

 だが、こんな酒癖があるとは知らなかった。

 

 サクは石像の前で身を乗り出し、何度もうなずいている。

 

 まるで、人生経験の豊富な年長者から助言を受けているようだった。

 

「……止めなくていいんですか?」

 

「ほっといていいから。次の日どうせ覚えてないし」

 

 リースはあっさり答えた。

 

「そういうことだ。誰かに絡むわけでもないしな」

 

 ロイも同意した。

 

 二人は本当に気にしていないらしい。

 

 サクの方を振り返ることもなく、料理を取り分け始めている。

 

 石井も苦笑しながら、その様子を眺めていた。

 

 その時だった。

 

「いや! それは違うと思うっす!」

 

 サクが突然声を上げた。

 

 高橋たちが振り返る。

 

「先輩の言うことも分かるっすよ! でも、俺にだって考えがあるっす!」

 

 サクは騎士像を真剣な顔で見上げていた。

 

 その声に、近くのテーブルにいた客まで何事かと振り向いた。

 

 だが、サクはまったく気にしていない。

 

 騎士像の前で腕を組み、難しい顔で考え込んでいる。

 

 しばらく沈黙が流れた。

 

 やがて、サクは何度もうなずいた。

 

「……なるほど。そういう考え方もあるんすね。勉強になったっす」

 

「……今、石像に言い負かされませんでした?」

 

 高橋が呟くと、石井が吹き出した。

 

「はははっ! そう見えたな!」

 

「高橋、お前、サクとは新兵訓練で一緒だったんだろ?」

 

 井上が笑いながら聞いた。

 

「ああ。でも、こんなの初めて見たよ……」

 

「本当に会話してるつもりなのかよ!」

 

 山田は腹を抱えて笑っている。

 

 川崎も耐えきれずに笑い出した。

 

「それにしても、石像に人生相談って、いったい何を相談してるんだ?」

 

「さあな。聞くだけ無駄だ」

 

 ロイは肩をすくめた。

 

 その間も、リースは平然と料理を食べていた。

 

「ねえ、放っておきましょうよ。どうせしばらくしたら戻ってくるわ」

 

「……慣れてるんですね」

 

 高橋が言うと、リースは笑った。

 

「そりゃあね。帰りの列車でもずっとあれだったもの」

 

 高橋は呆れ半分、可笑しさ半分で友人の背中を眺めた。

 

 サクは再び騎士像に向かって頭を下げた。

 

「いやあ、今日は本当に勉強になったっす。やっぱり人生の先輩は違うっすね!」

 

「……相手は石像なのにな」

 

 井上が呟くと、また笑い声が上がった。

 

 サクは満足そうな顔で、騎士像に向かって杯を掲げた。

 

 どうやら、人生相談は無事に終わったらしい。

 

 高橋は思わず笑ってしまった。

 

 戦場では、こんな光景を目にする余裕などなかった。

 

 砲撃の音も、敵の気配もない。

 

 あるのは暖炉の火と、酒の匂いと、仲間たちの笑い声だけだった。

 

「……こういうの、久しぶりですね」

 

 高橋が言った。

 

「ああ。帰ってきたって気がするな」

 

 石井が杯を持ち上げた。

 

 その表情には、どこか安堵したようなものがあった。

 

 石井もまた、戦場で多くの仲間を失っている。

 

 高橋はあの高地陣地のことを思い出した。

 

 三上鈴音の姿も。

 

 あの時、誰もが必死だった。

 

 生き残るために戦い、負傷者を助け、次々と運び込まれる戦友たちを見送った。

 

 それが今は、こうして酒場で笑っている。

 

 失った仲間は戻ってこない。

 

 だが、生き残った者たちには、まだこうして笑い合える時間が残されていた。

 

「せっかくの休暇だ。今夜くらい、楽しく飲もうぜ」

 

 石井が笑った。

 

「はい!」

 

 高橋も杯を掲げた。

 

 その時、サクが席へ戻ってきた。

 

「いやあ、いい話が聞けたっす!」

 

 満足そうに椅子へ腰を下ろす。

 

 ロイが呆れた顔で尋ねた。

 

「話は終わったのか?」

 

「はい! すごく勉強になったっす!」

 

「そりゃよかったな」

 

 ロイは素っ気なく答えた。

 

 リースも笑いながらコップを持ち上げた。

 

「じゃあ、サクの人生の先輩に乾杯しましょうか」

 

「おお! いいっすね!」

 

 サクが嬉しそうに応じた。

 

「乾杯!」

 

 再びコップが触れ合った。

 

 高橋も笑いながらコップを持ち上げた。

 

 外では、春の夜風がベルノの街を吹き抜けていた。

 

 酒場の窓からは暖かな明かりが漏れ、通りを行き交う人々の笑い声が聞こえてくる。

 

 戦場から帰ってきた兵士たちは、それぞれの夜を過ごしていた。

 

 家族のもとへ帰った者。

 

 恋人と再会した者。

 

 仲間と酒を酌み交わす者。

 

 そして、帰ってこられなかった者たちのことを思い出す者。

 

 高橋は、もう一度コップを口に運んだ。

 

 いつかまた、戦場へ戻る日が来る。

 

 だが、それは今夜考えることではなかった。

 

 暖炉の薪が小さく爆ぜた。

 

 石井が酒を注ぎ、井上と川崎がまた何かを言い合っている。

 

 山田は残っていた料理に手を伸ばし、リースが笑いながらそれを見ていた。

 

 サクはしばらく騎士像を眺めていたが、やがて満足したようにうなずいた。

 

 ロイはもう見向きもしなかった。

 

 高橋はそんな仲間たちの姿を眺め、静かに笑った。

 

 ベルノの夜は、しばらく賑やかに続いた。 

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