ベルノへ帰還してから、数日が過ぎた。
駐屯地では帰還後の諸手続きが続いていたが、必要な報告や装備の返納を済ませると、兵士たちは順次休暇に入っていた。
浸透偵察小隊の再集結は五月に予定されている。
高橋亘一も、久しぶりに何も予定のない日々を過ごしていた。
朝は起床の号令で叩き起こされることもなく、食事の時間を気にする必要もない。
夜中に警戒勤務へ出ることもなければ、敵の砲撃で飛び起きることもなかった。
最初の二、三日は、ほとんど寝て過ごした。
それでも、夜中にふと目が覚めることがあった。
遠くで荷車が石畳を走る音を聞き、思わず身構えてしまう。そんな自分に気づいて、高橋は苦笑するのだった。
戦場から戻ってきた身体は、まだ平和な暮らしに慣れていないらしい。
そんなある日の午後。
高橋はエレナに誘われ、ベルノ市内の喫茶店を訪れていた。
窓際の席には春の日差しが差し込み、通りを歩く人々の姿が見える。
店内には紅茶の香りが漂い、厨房からは焼き菓子を取り出す音が聞こえてきた。
「亘一、少し顔色がよくなったわね」
向かいの席で、エレナが微笑んだ。
「そうですか?」
「ええ。帰ってきた時は、ずいぶん疲れていたもの」
「まあ、久しぶりによく眠れましたから」
「それならよかったわ」
エレナは紅茶を一口飲んだ。
軍服ではなく、春物の私服を着ていた。
戦場では見慣れた軍人の姿とは違い、どこか柔らかな雰囲気がある。
高橋も私服だった。
こうして二人で向かい合っていると、戦場での出来事が遠い昔のように思えた。
「ねえ、亘一」
「はい?」
「休暇の後半なんだけど、何か予定はある?」
「いえ。特には決めてません」
「そう。だったら、ちょうどよかったわ」
エレナは少し嬉しそうに微笑んだ。
「私の実家に来ない?」
「……実家、ですか?」
「ええ。久しぶりに顔を出そうと思っているの。せっかくだから、亘一も一緒にどうかしらって」
高橋は手にしていたカップを止めた。
エレナの実家。
今まで彼女の家族について、詳しく聞いたことはあまりなかった。
「エレナのご家族がいるんですよね?」
「ええ。母と祖母がいるわ。それから、姉もいるの」
「お姉さんもいるんですか?」
「マリアン姉さんっていうの。エルディア大学で助教授をしているわ」
「大学の先生ですか!」
「ええ。ただ、仕事が忙しいから、今回帰っているかどうかは分からないけど」
「そうなんですね」
高橋は少し感心した。
エレナの姉ということは、当然エルフなのだろう。
どんな女性なのか、興味が湧いてきた。
「それで、どう? 一緒に来てくれる?」
エレナが尋ねた。
高橋は少し考えた。
恋人の実家を訪ねる。
日本にいた頃なら、それだけでも相当に緊張する話だった。
こちらの世界では平民に結婚制度がないとはいえ、家族に会うことの意味まで軽くなるわけではない。
「……僕が行っても、いいんですか?」
「あら、どうして?」
「いや、その……ご家族に会うわけですし」
エレナは一瞬きょとんとした顔をした。
それから、楽しそうに笑った。
「亘一ったら。そんなに緊張すること?」
「そりゃあ、しますよ」
「でも、あなたは私の大切な人でしょう? 家族にも、ちゃんと紹介したいのよ」
高橋は少し照れくさくなった。
「……そうですか」
「ええ」
エレナは柔らかく微笑んだ。
「もちろん、無理にとは言わないわ。でも、私は亘一と一緒に行きたいの」
高橋は顔を上げた。
「……分かりました」
「あら、いいの?」
「はい。僕もエレナのご家族に会ってみたいです」
エレナの表情が、ぱっと明るくなった。
「本当?」
「はい」
「よかった!」
彼女は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、休暇の後半は私の実家で過ごしましょう」
高橋もうなずいた。
もっとも、実家に泊まるとなれば話は別だった。
どんな服装で行けばいいのか。
手土産は必要なのか。
そもそも、家族に何を話せばいいのか。
考え始めると、次々と疑問が湧いてくる。
「あの、エレナ」
「なあに?」
「お母さんとお祖母さんって、どんな方なんですか?」
エレナは少し考えた。
「そうねえ……」
そして、悪戯っぽく微笑んだ。
「会ってからのお楽しみにしましょうか」
「ええっ?」
「ふふっ。大丈夫よ。みんな優しい人だから」
「……余計に緊張するんですけど」
「あら、そう?」
エレナは楽しそうに笑った。
「亘一って、戦場ではあんなに落ち着いているのに、こういうことには弱いのね」
「そりゃあ、敵の偵察兵とエレナのお母さんじゃ、話が違いますよ」
その返事に、エレナは声を上げて笑った。
「もう! そんな比較しないでちょうだい!」
高橋もつられて笑った。
窓の外には、春のベルノの街並みが広がっていた。
休暇の後半は、思いがけず賑やかなものになりそうだった。
* * *
休暇も後半に入ったある日の朝。
高橋はベルノ市内の馬車乗り場で、エレナと待ち合わせをしていた。
空はよく晴れていたが、朝の空気にはまだ冷たさが残っている。
乗り場では御者たちが馬に水を飲ませ、荷物を積んだ馬車が次々と出発していた。
高橋が見回していると、一台の幌付き馬車の横からエレナが手を振った。
「おはよう、亘一」
「おはようございます」
エレナは淡い色の外套を羽織り、旅行用の鞄を持っていた。
すでに荷物の大半は馬車に積み込まれている。
「ちゃんと眠れた?」
「はい。でも、ちょっと緊張してます」
「あら、まだ?」
「そりゃあ、しますよ」
「ふふっ。じゃあ、道中で少し気を紛らわせましょう」
エレナは先に乗り込み、高橋を手招きした。
「半日くらいかかるから、退屈するかもしれないわよ」
「そんなに遠いんですか?」
「ええ。ベルノ領の北の方なの。エルディア湖の湖畔よ」
高橋は馬車に乗り込んだ。
向かい合わせの座席には厚い敷物が敷かれており、窓には風よけの覆いが取り付けられていた。
御者が手綱を引くと、馬車はゆっくりと走り出した。
ベルノ市街を抜ける頃には、街道を行き交う荷馬車の数も少なくなっていた。
石造りの建物が途切れ、道の両側には畑や牧草地が広がり始める。
ところどころで農民たちが春の作業を始めていた。
畑を耕す馬。
苗木を運ぶ荷車。
石垣の修理をする男たち。
戦場とはまるで違う光景だった。
「そういえば、エレナの実家って何をしているんですか?」
高橋が尋ねた。
「葡萄を作っているのよ」
「葡萄?」
「ええ。家の周りに葡萄畑がたくさんあるの。収穫した葡萄は、ワインにするものが多いわね」
「へえ。ワイン農家なんですね」
「農家というより、地主かしら。この辺りの農地は、うちの家が昔から管理しているのよ」
「地主さんですか」
高橋は少し驚いた。
「エレナって、結構お金持ちだったんですね」
「あら、そう?」
「だって、土地を持っていて、葡萄を作っているんでしょう?」
「まあ、暮らしに困ったことはないわね」
エレナは何でもないことのように答えた。
「でも、土地の管理は母の仕事だから、私はあまり関わっていないの」
「そうなんですか」
「ええ。私は軍人だもの」
エレナは笑った。
「姉さんは、大学の仕事の合間に家のことも手伝っているみたいだけど」
高橋はうなずいた。
広い農地を管理する家に育った二人の姉妹。
一人は大学で教え、もう一人は軍人になった。
同じ家庭で育っても、進む道はずいぶん違うものらしい。
馬車は緩やかな坂を上り、雑木林の間を抜けていった。
木々にはまだ若葉が出始めたばかりで、枝の間から春の光が差し込んでいる。
高橋は窓の外を眺めながら、ふと思い出した。
「エレナのお母さんも、エレナに似ているんですか?」
「そうね。顔立ちは似ているわよ」
「じゃあ、三人並んだら見分けがつかないかもしれませんね」
「さすがにそれはないと思うけど」
エレナは笑った。
「そうでしょうか……」
高橋は少し考えた。
エルフの年齢は、日本人には分かりにくい。
高橋も、初めてエレナやヴァルターたちと出会った頃は、その若々しさに驚いたものだった。
だが、あれから九か月近くが経っている。
エルフの兵士たちと寝食を共にし、訓練や任務で何度も顔を合わせるうちに、少しずつ違いが見えてきた。
同じように若々しい顔立ちでも、目元の細かな皺や、肌の質感、表情の動き方には違いがある。
それに、立ち居振る舞いにも年齢が表れる。
高橋は狙撃手だった。
遠くの人影のわずかな動きから、その人物が何をしているのかを判断する。服装や姿勢、周囲との関係から、兵士の役割を推測する。
そうした観察は、今では自然と身についていた。
エルフの年齢も、同じように注意して観察すれば、ある程度は見当をつけられるのではないか。
最近、高橋はそう考えるようになっていた。
「……何を考えてるの?」
エレナが尋ねた。
「いえ。エルフの年齢って、やっぱり難しいなと思って」
「あら、またその話?」
「でも、最近は少し分かるようになってきた気がするんです」
「本当?」
エレナが興味深そうに顔を近づけた。
「はい。顔だけじゃなくて、細かいところを見ると、何となく年齢の違いが分かるような気がして」
「へえ……」
エレナは少し感心した様子だった。
「亘一らしいわね」
「そうですか?」
「ええ。あなた、細かな違いを見つけるのが得意でしょう?」
高橋は照れくさそうに笑った。
「まあ、仕事では役に立ってますけど」
「ふふっ。それじゃあ、今日は試してみましょうか」
「え?」
「母と祖母を見て、何歳くらいなのか当ててみて」
「いや、それはちょっと……」
「どうして?」
「本人の前で間違えたら失礼じゃないですか」
エレナは声を上げて笑った。
「もう、亘一ったら! 別に本人に言わなくてもいいのよ」
「それなら、まあ……」
「後で私に教えてちょうだい」
エレナは悪戯っぽく微笑んだ。
「楽しみにしてるわ」
高橋は困ったように笑った。
どうやら、今日の訪問には思いがけない課題が一つ増えたらしい。
* * *
昼が近づく頃、街道の向こうに広い水面が見え始めた。
「亘一、見えてきたわよ」
エレナが窓の外を指さした。
「……あれがエルディア湖ですか?」
「ええ。そうよ」
高橋は思わず身を乗り出した。
大きな湖だった。
対岸は遠く、薄青い山並みが霞んで見える。
春の日差しを受けた湖面は穏やかに輝き、風が吹くたびに細かな波が立っていた。
「すごいですね……」
「綺麗でしょう?」
「はい。こんな大きな湖だったんですね」
高橋はしばらく見入っていた。
湖畔には小さな集落が点在し、岸辺には漁船らしい小舟が繋がれている。
水辺では鳥が群れを作っていた。
街道は湖に沿って続いていた。
周囲の地形は緩やかな丘陵になっており、湖へ向かって傾斜した斜面には畑が広がっている。
やがて、高橋はその畑に規則正しく並ぶ木々に気づいた。
「あれ、全部葡萄ですか?」
「ええ。そうよ」
エレナが答えた。
まだ春先のため、葡萄の木にはほとんど葉がついていない。
短く剪定された枝が、支柱に沿って整然と並んでいた。
畑の間には作業道が通り、ところどころに石造りの農業用倉庫が見える。
作業をしている人々の姿もあった。
馬車が通ると、何人かが手を上げた。
エレナも窓から手を振り返した。
「知り合いですか?」
「ええ。昔からこの辺りで働いている人たちよ」
「そうなんですね」
高橋は葡萄畑の向こうに広がる湖を眺めた。
傾斜地に整然と続く畑は、まるで大きな庭園のようだった。
さらに進むと、葡萄畑の向こうに大きな建物が見え始めた。
高橋は最初、それをどこかの公共施設かと思った。
だが、馬車が近づくにつれて、その考えが変わった。
建物は、石造りの巨大な屋敷だった。
二階建てを中心に左右へ長く建物が伸び、屋根にはいくつもの煙突が立っている。
正面には広い庭園があり、その向こうには湖が見えた。
屋敷の周囲には石造りの塀が巡らされ、大きな門が設けられている。
「……え?」
高橋は思わず声を漏らした。
「どうしたの?」
エレナが尋ねた。
「あの……まさか」
「ええ。あれが私の実家よ」
「……あれが!?」
高橋は目を丸くした。
大きい。
とにかく大きかった。
ベルノ市内にあるオリヴィエの領主邸も立派な建物だったが、敷地と建物の大きさだけなら、こちらも負けていないのではないだろうか。
「エレナ……」
「なあに?」
「これ、オリヴィエ大佐のお屋敷と変わらないくらい大きくないですか?」
エレナは笑った。
「そうかしら?」
「いや、そうかしらって……」
「古い建物だから、必要以上に大きいのよ。使っていない部屋もたくさんあるわ」
高橋は再び屋敷を見上げた。
古いというのは分かる。
石材には長い年月を経た色合いがあり、装飾の様式も、ベルノで見かける帝国風の建物とは少し違っていた。
「……何だか、お城みたいですね」
「お城じゃないわよ。普通の家よ」
「いや、これを普通の家って言うのは無理がありますよ……」
エレナは楽しそうに笑っていた。
馬車は大きな門をくぐり、屋敷の正面玄関へと向かっていった。
* * *
馬車が玄関前に停まると、一人の使用人が出迎えに現れた。
「エレナ様。お帰りなさいませ」
「ただいま。久しぶりね」
「はい。ご無事にお戻りになられて、何よりでございます」
使用人は嬉しそうに頭を下げた。
「お母様も、お祖母様も、お待ちでございます」
「そう。ありがとう」
エレナは馬車を降りると、高橋を振り返った。
「亘一、降りて」
「はい」
高橋が降りると、使用人が丁寧に一礼した。
「ようこそ、ヴァルデン家へ」
「あ、どうも。高橋亘一と申します」
高橋は慌てて頭を下げた。
使用人は柔らかく微笑んだ。
「お話は伺っております。どうぞ、お入りください」
高橋は思わずエレナを見た。
「……話してあるんですか?」
「もちろんよ」
エレナは何でもないことのように答えた。
「亘一を連れて帰るって、手紙に書いておいたもの」
「そ、そうですか……」
高橋は急に緊張してきた。
玄関を入ると、広いホールがあった。
磨かれた石の床。高い天井。奥へ続く大階段。
壁には古い絵画や装飾品が飾られている。
正面の窓から入る光が床に反射し、屋敷の奥まで明るく照らしていた。
高橋は壁に掛けられた絵画へ目を向けた。
湖を背景にした古い建物や、華やかな衣装をまとったエルフたちが描かれている。
この屋敷が、長い歴史を持つ家であることは間違いなさそうだった。
「……すごいですね」
高橋が小声で言うと、エレナは笑った。
「ふふっ。そんなに驚かなくてもいいのに」
「いや、驚きますよ」
その時だった。
「エレナ!」
ホールの奥から女性の声がした。
高橋が顔を上げると、一人のエルフの女性が歩いてきた。
高橋は思わず目を見開いた。
エレナにそっくりだった。
整った顔立ち。
目元や鼻筋、口元の形までよく似ている。
ただし、髪は肩にかからないほど短く切り揃えられていた。
「マリアン姉さん!」
エレナが嬉しそうに声を上げた。
二人は歩み寄ると、笑顔で抱き合った。
「お帰りなさい、エレナ!」
「ただいま、姉さん!」
「もう、心配したのよ! 戦線で大きな戦闘があったって聞いていたから」
「大丈夫よ。こうして無事に帰ってきたでしょう?」
「ええ。本当によかった」
マリアンは妹の顔を両手で挟み、じっと見つめた。
「……少し痩せたんじゃない?」
「そうかしら?」
「そうよ。ちゃんと食べていたの?」
「もう、姉さんったら。私は子供じゃないんだから」
二人は笑った。
高橋は、その様子を少し離れたところから眺めていた。
似ている。
本当に、よく似ている。
だが、注意して観察すると違いもあった。
マリアンの方が、目元の表情にわずかな落ち着きがある。笑った時に現れる口元の細かな変化も、エレナとは少し違っていた。
もちろん、正確に何歳違うのかまでは分からない。
それでも、姉妹の年齢差がまったく見当もつかないというほどではなかった。
「……あら?」
マリアンが高橋に気づいた。
「あなたが、高橋さん?」
「は、はい!」
高橋は慌てて姿勢を正した。
「高橋亘一です。初めまして!」
マリアンは楽しそうに微笑んだ。
「初めまして。マリアン・ヴァルデンです。エレナの姉よ」
「よろしくお願いします!」
「ふふっ。そんなに緊張しなくてもいいのよ」
その口調まで、少しエレナに似ていた。
「エレナから手紙をもらってね。あなたを連れて帰るって書いてあったから、私も都合をつけて戻ってきたの」
「そうだったんですか」
「ええ。妹の顔も見たかったし、あなたにも会ってみたかったから」
マリアンは笑顔で高橋を見た。
高橋はまた少し緊張したが、彼女の親しみやすい態度に安心した。
「姉さん、大学のお仕事は大丈夫なの?」
エレナが尋ねた。
「ええ。必要な仕事は片付けてきたから、何日かはゆっくりできるわ」
「それならよかった」
姉妹が並ぶと、顔立ちの似ていることが一層よく分かる。
高橋は思わず二人を見比べた。
「亘一、どうしたの?」
エレナが笑った。
「いや……本当にそっくりだなと思って」
「あら、そう?」
マリアンも楽しそうに笑った。
「昔からよく言われるわ」
「姉さんが髪を切ったから、今は分かりやすいでしょう?」
「そうですね。でも、よく見ると少し違うところもありますね」
「あら?」
エレナが興味深そうに高橋を見た。
「分かるの?」
「何となくですけど。マリアンさんの方が、少し年上らしい感じがします」
マリアンが目を細めた。
「まあ! 嬉しいことを言ってくれるのね」
「亘一、ちゃんと観察してるのね」
エレナも感心した様子だった。
高橋は照れくさそうに笑った。
「いや、そんな大したことじゃないですよ」
* * *
「エレナ、お帰りなさい」
今度は、奥の廊下から別の女性の声が聞こえてきた。
高橋が振り返ると、長い髪を後ろでまとめたエルフの女性が現れた。
落ち着いた雰囲気の、美しい女性だった。
顔立ちはエレナやマリアンによく似ている。
見た目は人間の四十代前半くらいだろうか。
若々しく、品のある女性だった。
だが、高橋は近づいてくる女性を注意深く観察した。
目尻に刻まれた細かな皺。
微笑んだ時に現れる口元の変化。
そして、手の甲にもわずかな年齢の痕跡があった。
歩き方や姿勢にも、エレナやマリアンとは違う落ち着きがある。
――見た目より、もう少し年上だな。
高橋は考えた。
人間なら五十代くらいに相当するのではないだろうか。
エルフの年齢に換算すれば、おそらく百歳は超えている。
もちろん、正確な年齢までは分からない。
だが、これまで多くのエルフと接してきた経験から、そのくらいではないかと推測した。
――ということは、この人が……。
「母さん!」
エレナが嬉しそうに声を上げた。
――やっぱり。
高橋は心の中でうなずいた。
見た目の若さに惑わされず、年齢の違いを捉えられたことが少し嬉しかった。
「お帰りなさい、エレナ」
女性はエレナを優しく抱き締めた。
「無事に戻ってきてくれて、本当によかったわ」
「ただいま、母さん。心配かけたわね」
「本当よ。戦線で大きな戦闘があったって聞いて、どれほど心配したことか」
女性は娘の顔を見つめた。
その手がエレナの頬へ伸び、そっと触れた。
「でも、こうして元気な顔を見られたんだから、それで十分ね」
エレナは嬉しそうに笑った。
やがて母親の手を取って、高橋の方へ向き直った。
「母さん、紹介するわね。こちらが高橋亘一。私の大切な人よ」
高橋は慌てて頭を下げた。
「は、初めまして! 高橋亘一と申します!」
女性は柔らかく微笑んだ。
「初めまして。セリア・ヴァルデンです。エレナの母です」
「よろしくお願いします!」
「こちらこそ。遠いところをよくいらしてくださいました」
セリアは高橋の顔を穏やかに見つめた。
「エレナから手紙で、あなたのことは聞いていますよ」
「そうなんですか……」
「ええ。娘がお世話になっているそうですね」
「い、いえ! こちらこそ、いつもエレナに助けられています!」
高橋が慌てて答えると、セリアは楽しそうに笑った。
「あらあら。そんなに緊張なさらなくてもいいのに」
その笑い方は、どこかエレナに似ていた。
高橋は改めてセリアを見た。
こうして近くで話していると、初めに感じ取った年齢の違いが、よりはっきりしてくる。
それでも、外見だけを頼りにすれば、親子にはとても見えないだろう。
「……亘一?」
エレナが小声で話しかけてきた。
「はい?」
「母さんをじっと見て、どうしたの?」
「あ、いや……」
高橋は慌てて視線を戻した。
「すみません。ちょっと考え事をしてました」
「あら、何かしら?」
セリアも興味深そうに尋ねた。
「いえ、その……エレナとよく似ていらっしゃるなと思って」
セリアは嬉しそうに微笑んだ。
「あら、そう? ありがとうございます」
高橋はほっとした。
年齢を推測していたなどと正直に話せば、かえって失礼になるかもしれない。
馬車の中でエレナが言っていた通り、答え合わせは後ですればいい。
* * *
「さて、エレナ」
セリアが口を開いた。
「お祖母様もお待ちですよ」
「あっ、そうだったわ」
エレナは高橋を振り返った。
「亘一、今度は祖母を紹介するわね」
「はい」
高橋は姿勢を正した。
すでに母親と姉に会った。
次は祖母である。
セリアの年齢については、おおよその見当をつけることができた。
ならば、エレナの祖母はどうだろう。
高橋は少し興味が湧いてきた。
エレナたちに続いて廊下を歩く。
磨かれた床には厚い絨毯が敷かれ、窓の外には広い庭園が見えた。
壁に掛けられた古い肖像画には、エルフの男女が何人も描かれている。
屋敷には長い年月を経てきた独特の静けさがあった。
案内されたのは、湖に面した大きな居間だった。
高い窓からはエルディア湖が見え、室内には古い家具や絵画が並んでいる。
窓際には、一人のエルフの女性が座っていた。
明るい色の長い髪。
整った顔立ち。
背筋を伸ばして座る姿は、気品のある貴婦人といった印象だった。
高橋は思わず目を見開いた。
――この人が、お祖母さん?
見た目は、人間の五十代くらいだろうか。
セリアよりも年長であることは、高橋にも分かった。
だが、それだけではない。
高橋は、女性の顔を注意深く観察した。
目元に刻まれた細かな皺。
微笑んだ時に現れる口元や頬の変化。
膝の上に重ねられた手の甲には、セリアよりもはっきりとした皺が見えた。
そして何より、その雰囲気が違っていた。
ゆったりとした所作。
穏やかな表情。
部屋に入ってきた者を、静かに迎える落ち着いた態度。
高橋は、一つ一つの特徴を拾い上げていた。
――見た目は五十代。でも、実際はもっと上だな。
人間なら六十代。あるいは七十代くらいだろうか。
エルフの年齢に換算すれば……。
――ひょっとしたら、百四十歳以上かもしれない。
高橋はそう推測した。
もちろん、確信があるわけではない。
だが、これまで観察してきた年長のエルフたちと比べても、女性には一層深い落ち着きが感じられた。
「お祖母様!」
エレナが嬉しそうに声を上げた。
女性はゆっくりと立ち上がった。
「お帰りなさい、エレナ」
「ただいま戻りました!」
エレナが歩み寄ると、女性は優しく抱き締めた。
「無事で何よりです」
「心配をおかけしました」
「ええ。でも、こうして帰ってきてくれたのですから」
女性は微笑んだ。
エレナは祖母の両手を取り、しばらく何かを話していた。
戦場で見せるきびきびとした姿とは違う。
祖母に再会したエレナは、まるで少女のように嬉しそうだった。
「それで……」
女性の視線が高橋に向けられた。
「こちらが、あなたのお連れの方ですね?」
「はい!」
エレナは高橋を手招きした。
「亘一、紹介するわ。私の祖母よ」
高橋は一歩前に出た。
「初めまして! 高橋亘一と申します!」
女性は穏やかに微笑んだ。
「初めまして。ニケと申します。エレナの祖母です」
「よろしくお願いします!」
高橋は深く頭を下げた。
ニケはそんな高橋の様子を見て、小さく笑った。
「そんなに畏まらなくても結構ですよ。どうぞ楽になさってくださいね」
「は、はい」
エレナが隣で笑っていた。
「お祖母様、亘一は朝からずっと緊張しているんです」
「あら、そうなの?」
「ええ。家族に会うのが初めてだからって」
ニケは微笑んだ。
「それは無理もありませんね」
そして、高橋に優しく声をかけた。
「遠いところを、よくいらしてくださいました。どうぞ、自分の家だと思ってくつろいでくださいね」
「ありがとうございます」
高橋はようやく少しだけ肩の力を抜いた。
その時、ニケが何かに気づいたように高橋を見た。
「あら、高橋さん」
「はい?」
「先ほどから、ずいぶん熱心にこちらをご覧になっていらっしゃいましたね」
「えっ?」
高橋は少し慌てた。
どうやら、観察していたことに気づかれていたらしい。
「す、すみません!」
「いいえ、構いませんよ」
ニケは楽しそうに微笑んだ。
「何か気になることでも?」
「いえ、その……」
高橋は言葉に詰まった。
まさか、顔や手の皺を観察して年齢を推測していたとは言えない。
その様子を見て、エレナが笑った。
「お祖母様、亘一は観察するのが得意なのよ」
「あら、そうなの?」
「ええ。ちょっとした違いによく気づくの」
ニケは興味深そうに高橋を見た。
「まあ。それは素敵な特技ですね」
「い、いえ。そんな大したことでは……」
高橋は照れくさそうに笑った。
ニケはそれ以上追及せず、穏やかにうなずいた。
「さて、皆さん」
セリアが声をかけた。
「まずはお茶にしましょう。長旅でお疲れでしょうから」
「そうね。亘一も座りましょう」
エレナが高橋の腕を取った。
高橋は促されるまま、窓際の椅子に腰を下ろした。
目の前には、春の日差しを受けて輝くエルディア湖が広がっていた。
大きな屋敷。
広大な葡萄畑。
そして、驚くほど若々しいエレナの家族たち。
高橋は、改めて思った。
――エレナの実家って、いったいどんな家なんだろう。
その疑問は、まだ解けていなかった。
だが、少なくとも一つだけ分かったことがある。
エレナがこの家で大切に育てられてきたのだということだった。
家族と再会したエレナは、戦場では見たことがないほど嬉しそうに笑っていた。
高橋はその横顔を見つめながら、ここへ来てよかったと思った。
* * *
エルディア湖を望む居間には、温かな紅茶の香りが漂っていた。
窓の外には午後の光を受けた湖面が広がり、ときおり風に揺れる木々の影が床へ落ちていた。
高橋はエレナの隣に座り、勧められた焼き菓子を口に運んだ。
「おいしいですね、これ」
「あら、よかった。葡萄を使ったお菓子なんですよ」
ニケが穏やかに微笑んだ。
「干し葡萄ですか?」
「ええ。去年収穫したものです。この辺りでは昔からよく作るんですよ」
高橋はもう一口食べた。
甘酸っぱい葡萄の風味が、焼き菓子によく合っていた。
「日本にも干し葡萄はありましたよ。パンに入れたり、お菓子に使ったりします」
「まあ。遠い世界でも、同じような食べ方をするのですね」
ニケは感心した様子だった。
その時、居間の扉が軽く叩かれた。
入ってきたのは、家令らしい年配の男性だった。
「奥様。少々よろしいでしょうか」
セリアが顔を上げた。
「何かありましたか?」
「北側の葡萄畑について、管理人がご相談したいことがあるそうです」
「ああ、あちらの畑ね。分かりました」
セリアは立ち上がった。
「ごめんなさいね、エレナ。少し仕事を片付けてきます」
「いいわよ、母さん。忙しいんでしょう?」
「ええ。春は畑の仕事が多いものですから」
セリアは高橋に向き直った。
「高橋さん、ゆっくりしていってくださいね」
「はい。ありがとうございます」
セリアは微笑むと、家令とともに部屋を出ていった。
高橋はその後ろ姿を見送った。
使用人への指示も自然で、家の仕事を取り仕切ることに慣れている様子だった。
「お母さん、お忙しいんですね」
「ええ。母さんが今の家の仕事をほとんど取り仕切っているのよ」
エレナが答えた。
「葡萄畑も広いし、働いている人たちも多いから、何かと大変なの」
マリアンもうなずいた。
「春先は特に忙しいわね。今年の栽培の準備もあるし、管理人たちとの打ち合わせも多いから」
「そうなんですね」
高橋は感心した。
これほど大きな屋敷と広大な農地を管理するのだから、確かに仕事は多いだろう。
やがてマリアンも、自分の荷物を整理すると言って席を立った。
居間には高橋とエレナ、ニケの三人が残された。
* * *
「高橋さん」
ニケが穏やかに声をかけた。
「はい」
「エレナから、あなたはエルフ語を勉強していると聞きましたよ」
「あ、はい。まだ上手ではありませんけど」
「そうなのですか。少しお話ししてみませんか?」
ニケはそこで、ゆっくりとエルフ語に切り替えた。
高橋は一瞬、言葉を聞き取ろうと集中した。
だが、すぐに意味が分かった。
「……はい。少しなら、話せます」
高橋もエルフ語で答えた。
ニケの顔が明るくなった。
「あら。上手ですね」
「いえ、まだ……難しい言葉は、分かりません」
「それなら、ゆっくりお話ししましょう」
ニケは微笑んだ。
エレナは二人の様子を、楽しそうに眺めていた。
高橋がエルフ語を勉強し始めてから、すでに半年以上が過ぎている。
最初は挨拶程度しか分からなかった。
それが今では、ゆっくり話してもらえれば、日常的な会話はかなり理解できるようになっていた。
もちろん、ヴァルターやフリーダたちが普段の速度で話し始めると、まだ聞き取れないことも多い。
それでも、以前とは比べものにならない進歩だった。
「高橋さんは、葡萄畑をご覧になりましたか?」
ニケがゆっくりと尋ねた。
「はい。馬車から見ました。とても広いですね」
「そうでしょう。昔から、この辺りでは葡萄を作っているのですよ」
「この湖の近くは、葡萄にいいんですか?」
高橋は窓の外へ目を向けた。
丘の斜面に沿って、幾筋もの葡萄畑が広がっている。
「ええ。とてもいい環境なんですよ」
ニケも湖を眺めた。
「この湖は大きいでしょう? 冬でもめったに凍ることはありません」
「そうなんですか」
「ええ。湖の近くでは寒さが和らぐんです。内陸の方へ行けば、冬はずっと寒くなりますし、雪もたくさん積もりますけれど、この辺りは雪も少ないんですよ」
ニケは穏やかに微笑んだ。
「春先の冷え込みも、ほかの土地より穏やかです。葡萄は冬の厳しい寒さや、春の遅い霜が苦手ですからね」
「なるほど……」
高橋は感心した。
大きな湖の水は、周囲の空気に比べて温まりにくく、冷めにくい。
湖が近くにあることで気温の変化が和らぐという話は、日本でも聞いたことがあった。
「だから、この辺りでは葡萄作りが盛んなんですね」
「ええ。昔から、この土地では葡萄を大切に育ててきたんですよ」
ニケは窓の向こうに目を細めた。
「春になれば畑の手入れが始まり、夏には枝いっぱいに葉が茂ります。秋の収穫になると、屋敷も畑も大忙しです」
「秋は賑やかそうですね」
「ええ。とても賑やかですよ。高橋さんにも、いつか収穫の季節を見ていただきたいですね」
「ぜひ、見てみたいです」
高橋が答えると、ニケは満足そうにうなずいた。
エレナは二人のやり取りを聞きながら、焼き菓子を口に運んでいた。
「日本にも葡萄畑はあるんでしょう?」
ニケが尋ねた。
「はい。寒い地方でも作っています。でも、僕は葡萄を育てたことはありません」
「あら、それは残念ですね」
ニケは笑った。
「でも、見ているだけでも面白いものですよ。葡萄の木は、季節ごとにずいぶん姿が変わりますから」
「そうなんですね」
高橋はもう一度、窓の外の枝を眺めた。
今はまだ葉の少ない葡萄の木が、夏には緑に覆われ、秋には実をつける。
その光景を想像すると、少し楽しみになった。
* * *
それから高橋は、ニケとさまざまな話をした。
湖の魚。
春先に吹く冷たい風。
夏には水辺で遊ぶ子供たちのこと。
ニケは、高橋が言葉に詰まると、少し簡単な表現に言い換えてくれた。
話す速度もゆっくりだった。
高橋にとっては、非常に話しやすい相手だった。
「日本も、冬は雪が降るのですか?」
ニケが尋ねた。
「はい。寒い地方では、たくさん降ります」
「まあ。では、寒さには慣れているのですね」
「ある程度は。でも、冬の夜の偵察は寒かったです」
その言葉に、ニケは少し心配そうな顔をした。
「そうでしょうね。エレナも昔から寒さには強い子でしたけれど、戦場の夜は大変だったでしょう」
「はい。でも、エレナがいろいろ教えてくれました」
高橋は答えた。
ニケは嬉しそうにエレナを見た。
「そうですか。エレナはちゃんとお世話していたのですね」
「お祖母様、私、一応班長なんですけど」
エレナが苦笑した。
「あら、そうでしたね」
ニケは穏やかに笑った。
高橋も笑った。
軍務中のエレナなら、もっと厳しい口調で指示を出すこともある。
だが、祖母の前では、どこか年下の娘らしい表情を見せていた。
「エレナは小さい頃から、よく外で遊ぶ子でしたよ」
ニケが懐かしそうに言った。
「そうなんですか?」
「ええ。湖へ行ったり、林の中を走り回ったり。家に戻ってきたと思ったら、また出かけてしまうんです」
「お祖母様ったら。そんな昔のことまで話さなくても」
エレナが少し照れくさそうに笑った。
「ふふっ。高橋さんには、子供の頃のエレナも知っていただかないと」
高橋は笑った。
目の前のエレナが、この湖畔を走り回っていた姿を想像してみる。
軍服を着て小銃を担ぐエレナとは、ずいぶん違う光景だった。
「何となく、想像できます」
「あら、そう?」
エレナが首をかしげた。
「はい。エレナ、今でも山の中を歩くのが好きですから」
「まあ、それは昔から変わりませんね」
ニケは嬉しそうに笑った。
高橋も、つられて笑った。
戦場では小隊の隊員たちを率いるエレナが、この家では祖母に昔話をされて照れている。
そんな姿を見るのは、何とも新鮮だった。
* * *
「ところで、高橋さん」
ニケが紅茶を一口飲んだ。
「日本のお話も聞かせていただけませんか?」
「日本の話ですか?」
「ええ。エレナから、少しだけ聞いているのですけれど」
ニケは興味深そうに身を乗り出した。
「こちらとは、ずいぶん違う国なのでしょう?」
「はい。かなり違いますね」
「どんなところなのですか?」
高橋は少し考えた。
日本の何を話せばいいのだろう。
電気。
自動車。
高い建物。
鉄道。
電話。
説明したいものは、いくらでもある。
だが、それをエルフ語で説明するのは、なかなか難しかった。
「ええと……日本は、電気をたくさん使う国です」
「電気?」
「はい。明かりや、機械を動かすのに使います」
ニケは興味深そうにうなずいた。
「こちらにも電気を使うものはありますが、それほどたくさん使うのですか?」
「はい。家にも、街にも、たくさんあります」
「まあ……」
ニケは目を丸くした。
高橋は言葉を探しながら続けた。
「夜でも、街が明るいです。道にも明かりがあります」
「夜でも?」
「はい。夜でも、お店が開いています」
「それは便利ですね」
ニケは感心したように言った。
「でも、夜は暗くないと、星が見えにくいでしょう?」
高橋は少し驚いた。
「……そうですね」
確かに、日本の都市では星が見えにくかった。
こちらの世界に来てから、夜空の星の多さに驚いたことを思い出した。
「日本では、星を見るために、街から離れた場所へ行くこともあります」
「あらまあ」
ニケは笑った。
「便利なことばかりではないのですね」
「はい」
高橋も笑った。
それから、自動車や鉄道の話になった。
ニケは日本の自動車の多さに驚き、一般家庭にも自動車があると聞いて、何度も感心していた。
高橋は難しい言葉を使わず、知っているエルフ語を組み合わせて説明した。
時にはエレナが助け舟を出した。
「亘一、それはこう言うのよ」
「ああ、なるほど」
エレナが教えてくれた単語を使うと、ニケが嬉しそうにうなずいた。
「分かりました。面白いですね」
話は次第に、日本の食べ物や暮らしのことへ移っていった。
高橋が日本では米をよく食べると説明すると、ニケはその調理法に興味を示した。
パンではなく米を主食にする生活。
魚を焼いたり、煮たりする料理。
箸という二本の細い棒で食事をする習慣。
ニケは一つ一つ、楽しそうに質問した。
高橋も、できる限りエルフ語で答えた。
途中、どうしても単語が出てこないことがあった。
高橋が困ってエレナを見ると、彼女は笑いながら言葉を教えてくれた。
ニケは急かすことなく、高橋が話し始めるまで待っていた。
間違った言葉を使っても、すぐには訂正しない。
まず最後まで聞き、それから自然な言い方を教えてくれる。
そのため、高橋も次第に間違いを気にせず話せるようになっていた。
気づけば、最初に感じていた緊張はすっかり消えていた。
* * *
いつの間にか、午後の日差しが少し傾き始めていた。
高橋とニケは、窓際の席でまだ話を続けていた。
エレナは少し離れたところから、その様子を眺めていた。
ニケが何かを尋ねる。
高橋が少し考え、ゆっくりと答える。
ニケが笑う。
高橋も笑う。
その繰り返しだった。
やがてエレナが近づいてきた。
「あらあら。すっかり仲良くなったわね」
高橋が顔を上げた。
「あ、エレナ」
「お祖母様と、そんなに話が合うとは思わなかったわ」
エレナは嬉しそうに微笑んだ。
ニケも笑った。
「高橋さんのお話が面白くてね。つい長話をしてしまいました」
「亘一、エルフ語の練習にもなったでしょう?」
「はい。ニケさんがゆっくり話してくれるので、すごく分かりやすいです」
「そうでしょう?」
エレナは笑った。
「お祖母様は、昔から人に何かを教えるのが上手なのよ」
「あら、エレナったら」
ニケは少し照れたように笑った。
「高橋さんも、とても熱心に話を聞いてくださるから、私も楽しいのですよ」
「ありがとうございます」
高橋は頭を下げた。
ニケは高橋の顔をしばらく眺め、それからエレナに向き直った。
「エレナ、いい人を見つけたわね」
「あら、お祖母様」
エレナは少し照れくさそうに笑った。
「ふふっ。話していて、とても楽しい方だわ。それに、こちらの話も一生懸命聞いてくださるし」
ニケは高橋に向き直った。
「高橋さん。軍隊を辞めたら、こちらで働きませんか?」
「……え?」
高橋は思わず聞き返した。
「葡萄畑の仕事でも、屋敷の仕事でも構いませんよ。働き口はいくらでもありますから」
ニケはにこにこと笑った。
「お待ちしてますわ」
「あ、ありがとうございます。でも、僕はまだ軍務がずいぶん残ってますから……」
「ええ、存じていますよ。ですから、軍務を終えてからのお話です」
高橋は少し困ったように笑った。
召喚された平民に課せられる軍務は十五年。
まだ一年にも満たない高橋にとって、その終わりはあまりにも遠かった。
「そうですね。その時は、よろしくお願いします」
「あら、約束ですよ」
ニケは嬉しそうに笑った。
「お祖母様ったら。亘一にはまだ長い軍務が残っているのよ」
エレナが口を挟んだ。
「ふふっ。別に急いでいませんよ」
ニケは穏やかに答えた。
「軍務を終えたら、またここへいらしてくださいな」
「はい。ありがとうございます」
高橋が笑顔で答えると、ニケは何かを思いついたように手を合わせた。
「ああ、それと高橋さん」
「はい?」
「私と文通しません?」
「……文通ですか?」
「ええ。エレナの様子も知りたいですし、それに日本のお話も、もっと聞いてみたいわ」
ニケは楽しそうに微笑んだ。
「こうしてお話しするのも楽しいですけれど、手紙なら離れていてもお話ができますでしょう?」
高橋は少し考えた。
「でも、僕、エルフ語はまだあまり書けないんです。読むのも、時間がかかりますし……」
「あら、それなら、なおさらいいじゃありませんか」
ニケは嬉しそうに答えた。
「私も、なるべく分かりやすい言葉で書きますわ。高橋さんも、難しく考えずに書いてくださればいいんですよ」
「そうですね……」
「間違えても構いません。少しずつ覚えていけばいいんですから」
ニケはにこにこと笑った。
「それに、私も楽しみが増えますもの」
高橋は思わず笑顔になった。
「分かりました。ぜひ、お願いします」
「あら、嬉しい!」
ニケは満足そうにうなずいた。
「では、約束ですね。最初のお手紙は私から出しますわ」
「はい。頑張って返事を書きます」
エレナは二人のやり取りを、楽しそうに眺めていた。
「お祖母様ったら。とうとう亘一と文通友達になっちゃったのね」
「ふふっ。いけませんか?」
「いいえ。とってもいいことだと思うわ」
エレナは高橋を見た。
「亘一、よかったじゃない。エルフ語の読み書きの練習にもなるわよ」
「そうですね。でも、最初は辞書とにらめっこになりそうです」
「あら、それも勉強よ」
ニケが笑った。
「お返事は急がなくても結構ですからね」
「ありがとうございます」
「それに、エレナのことも教えてくださいな。軍務の差し支えのない範囲で結構ですから」
「はい。分かりました」
高橋が答えると、エレナが少し笑った。
「何だか、私の知らないところで二人にいろいろ報告されそうね」
「あら、エレナ。知られて困ることでもあるの?」
ニケが楽しそうに尋ねた。
「そういうわけじゃないけど……」
「ふふっ。それならいいでしょう?」
エレナは二人を見比べて、笑い出した。
「もう。本当に、すっかり仲良くなったわね」
高橋もニケも笑った。
こうして高橋は、エレナの祖母ニケと文通する約束を交わした。
最初の頃は、短い手紙を書くにも辞書を引き、何度も文章を直さなければならなかった。
それでも、ニケから届く湖畔の便りを読み、返事を書くことが、やがて高橋の楽しみの一つになっていく。
後年、高橋がエルフ語の文章を不自由なく扱えるようになった背景には、この時始まった文通があった。
* * *
夕方が近づいた頃、エレナと高橋は屋敷の庭を散歩していた。
屋敷の裏手には、湖へ向かって緩やかに下る小道があった。
道の両側には低い石垣が続き、春の草花が小さな花を咲かせている。
その向こうには葡萄畑が広がり、さらに先にはエルディア湖が見えた。
湖面には、傾き始めた日差しが反射している。
「いいところですね」
高橋が言った。
「ええ。私も、この景色が好きなの」
エレナは湖を眺めながら答えた。
「子供の頃は、よくここで遊んだわ」
「エレナにも子供の頃があったんですね」
「あら、失礼ね。私だって子供だったのよ」
エレナが笑った。
「ふふっ。まあ、亘一から見れば、想像できないかもしれないけど」
「いや、そういう意味じゃないですよ」
高橋は慌てて答えた。
二人は笑いながら庭を歩いた。
石垣の上には、まだ葉の少ない葡萄の枝が見えた。
遠くでは農作業を終えた人々が道具を片付けている。
静かな夕暮れだった。
「あ、そうだ。亘一」
エレナが何かを思い出したように声をかけた。
「はい?」
「今朝の約束、覚えてる?」
「約束?」
「母と祖母の年齢よ」
「ああ……」
高橋は思い出した。
馬車の中で、エルフの年齢をどのくらい見分けられるようになったのか、試してみようという話になっていた。
「どうだった? 分かった?」
エレナが興味深そうに尋ねた。
「正確には分かりませんけど、だいたいの見当はつきました」
「あら、本当?」
エレナが嬉しそうに顔を向けた。
「まず、セリアさんですけど、見た目は四十代前半くらいですよね」
「ええ」
「でも、顔や手をよく見ると、人間の五十代くらいに相当するんじゃないでしょうか」
「ふうん……」
「エルフなら、百歳以上ですかね」
エレナは少し驚いたように高橋を見た。
「それで、お祖母様は?」
「ニケさんは、見た目だと五十代くらいでしょうか」
「ええ」
「でも、実際には人間の六十代から七十代くらいの雰囲気がありますね」
高橋は先ほどのニケの姿を思い出した。
「特に目元と手の甲ですね。それに、話し方や仕草にも、セリアさんとは違う落ち着きがありました」
「なるほどね」
「だから……エルフなら、ひょっとしたら百四十歳以上じゃないかと思ったんですけど」
エレナは足を止めた。
そして、高橋の顔をじっと見つめた。
「……亘一」
「はい?」
「すごいわね」
「え?」
エレナは感心したように笑った。
「だいたい合ってるわよ」
「本当ですか?」
「ええ。現地のヒト族なら、そのくらい見分けられる人もいるけど……」
エレナは少し首をかしげた。
「日本人は、私たちエルフの年齢をほとんど見分けられないって聞いているのに」
高橋は少し照れくさそうに笑った。
「毎日エルフの人たちと一緒にいますからね」
「それにしたって、たいしたものよ」
エレナは微笑んだ。
「普通、そこまで細かく見ないでしょう?」
「エレナに鍛えられました」
高橋が笑って答えた。
「ふふっ。そうね」
エレナも嬉しそうに笑った。
「亘一って、本当に観察眼が鋭くなったわよね」
「そうですか?」
「ええ。最初に会った頃とは大違いよ」
高橋は少し照れくさそうに笑った。
「でも、正確な年齢までは分かりませんよ」
「それは私たちだって同じよ。見ただけで何歳何か月まで分かるわけじゃないもの」
「そうなんですね」
「ええ。でも、亘一はずいぶん上達したわ」
エレナは高橋の腕に自分の腕を絡めた。
高橋はその手に軽く触れた。
戦場では、わずかな違いを見逃せば命に関わることもある。
だが、今はその観察眼が、恋人の家族を知るために役立っている。
何だか不思議な気分だった。
* * *
しばらく歩いたところで、高橋はふと、もう一つ気になっていたことを思い出した。
「そういえば、エレナ」
「なあに?」
「お父さんは、今いらっしゃらないんですか?」
「ああ、父さん?」
エレナは何でもないことのように答えた。
「父さんは考古学者なのよ」
「考古学者?」
「ええ。帝国内のいろいろな場所を回って、古い遺跡や遺物を調べているの」
「へえ……」
高橋は感心した。
「じゃあ、今もどこかへ調査に行っているんですか?」
「そうよ。どこにいるのかしらね」
「……え?」
高橋は思わずエレナを見た。
「どこにいるのか、分からないんですか?」
「ええ。連絡が来ることもあるけど、移動が多いから」
エレナは笑った。
「五年に一度帰ってくれば、いい方じゃないかしら」
「……五年!?」
高橋は思わず声を上げた。
「そんなに帰ってこないんですか?」
「ええ。昔からそうなのよ」
エレナはまったく気にしていない様子だった。
「遺跡の調査が始まると、何年もその地方に滞在することがあるみたい」
「それは……すごいですね」
高橋は驚いた。
日本なら、五年も家に帰ってこない父親など、相当に珍しいだろう。
「お母さんは寂しくないんですか?」
「どうかしら。もう慣れているんじゃない?」
エレナは少し考えた。
「母さんは家の仕事が忙しいし、父さんは研究が好きだし。それぞれ好きなことをしているのよ」
「なるほど……」
「もちろん、仲が悪いわけじゃないわよ」
エレナは笑った。
「父さんが帰ってきたら、母さんはいつも喜んでいるもの」
「そうなんですね」
「でも、しばらくすると父さんはまた出かけちゃうの」
エレナは肩をすくめた。
「昔からそういう人なのよ」
高橋は湖の向こうを眺めた。
考古学者の父。
広大な葡萄畑を管理する母。
大学で教えている姉。
穏やかで、話好きな祖母。
そして、軍人として働いてきたエレナ。
何とも個性的な家族だった。
「エレナの家族って、みんなすごいですね」
高橋が言った。
「そう?」
「はい。何というか……みんな、それぞれ自分の仕事を持っていて」
エレナは少し考えた。
「そうね。そう言われれば、そうかもしれないわ」
そして、高橋を見て微笑んだ。
「でも、亘一だってそうでしょう?」
「僕ですか?」
「ええ。今は立派な狙撃手じゃない」
「いや、まだまだですよ」
「ふふっ。そんなことないわ」
エレナは高橋の腕に自分の腕を絡め直した。
「少なくとも、私はそう思っているわ」
「……ありがとうございます」
二人はそのまま、湖を眺めながらゆっくりと歩いた。
風が葡萄畑の間を吹き抜け、枝先を小さく揺らしていた。
遠くでは、農作業を終えた人々が屋敷へ戻ってくる姿が見える。
戦場とはまるで違う、穏やかな夕暮れだった。
高橋はふと、先ほどニケから言われたことを思い出した。
軍務を終えたら、ここで働かないか。
何年も先の話だった。
まだ、考えたこともないほど遠い未来のことだった。
だが、この湖のほとりで葡萄畑を眺めながら暮らす自分を想像すると、不思議と悪い気はしなかった。
「……どうしたの、亘一?」
エレナが尋ねた。
「いえ。ニケさんの話を思い出してました」
「ああ、軍務を終えたら働きに来ないかって?」
「はい」
エレナは楽しそうに笑った。
「お祖母様、本気で言ってると思うわよ」
「そうなんですか?」
「ええ。気に入った人には、結構積極的なの」
「そうなんですね……」
高橋は改めて屋敷の方を見た。
大きな石造りの建物。
その向こうに広がる葡萄畑。
そして、穏やかな湖。
「……いつか、そんな暮らしもいいかもしれませんね」
高橋が小さく言うと、エレナは少し驚いたように顔を上げた。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「ええ。そうね」
二人はしばらく、何も言わずに湖を眺めていた。
高橋には、まだ長い軍務が残されている。
五月になれば、再び浸透偵察小隊での生活が始まる。
これからどんな任務に就くのか、どんな戦場へ行くことになるのかも分からない。
それでも、いつか軍務を終える日が来る。
その先の人生について、今まで真剣に考えたことはなかった。
だが、ここには自分を温かく迎えてくれる人たちがいた。
そして、遠く離れていても、手紙を送れば返事をくれる人が一人増えた。
高橋はエレナの横顔を見つめた。
彼女が生まれ、育った場所。
その家族と暮らした時間。
自分の知らなかったエレナの一面を、少しずつ知ることができた気がした。
「エレナ」
「なあに?」
「連れてきてくれて、ありがとうございました」
エレナは少し驚いたような顔をした。
そして、柔らかく微笑んだ。
「こちらこそ。来てくれてありがとう、亘一」
高橋も笑った。
二人は腕を組んだまま、湖畔の小道をゆっくりと歩き続けた。