第1節 新しい命
五月に入り、ベルノの街にもようやく春らしい陽気が訪れていた。
浸透偵察小隊の兵舎。
かつてエレナ班の四人が暮らしていた部屋には、今は二人しかいなかった。
エレナ・ヴァルデン曹長と、高橋亘一兵長。
ミレーナとアルノーが使っていた寝台は、今も空いたままだった。
「……エレナ、大丈夫ですか?」
高橋は、寝台に腰掛けているエレナに声をかけた。
「ええ……ちょっと身体がだるいだけよ」
エレナはそう答えたものの、どうにも顔色がよくない。
朝から食欲もないようだった。
「風邪じゃないですか?」
「そうかもしれないわね。熱はないんだけど……」
エレナは少し考えてから立ち上がった。
「ちょっと医務室に行ってくるわ」
「僕も一緒に行きましょうか?」
「大丈夫よ。亘一は先に食事を済ませておいて」
「分かりました。でも、無理しないでくださいね」
「ふふっ。心配性ね」
エレナは微笑むと、軍服の上着を羽織って部屋を出ていった。
高橋はその後ろ姿を見送った。
いつも元気なエレナが体調を崩すのは珍しい。
戦場から帰還して、緊張が解けたせいだろうか。
高橋自身も、帰還してから妙に疲れが出ることがあった。
そう考えると、あまり不思議なことでもないのかもしれなかった。
* * *
今日は休暇最後の日だった。
明日は浸透偵察小隊の再集結日となっている。
ベルノ連隊の各部隊は、イジューム戦線からの帰還時期がそれぞれ異なっていた。
そのため、再集結日も中隊ごとにずれている。
歩兵中隊などはすでに再集結を終え、通常の勤務に戻っていた。
砲兵中隊は、今日の午後に集結式が予定されているという。
浸透偵察小隊も、明日から本格的に活動を再開することになっていた。
そして、高橋とエレナは、そろってフリーダ班へ編入される予定だった。
エレナは曹長、高橋は兵長。
しかし、浸透偵察小隊では、階級よりも実際の任務経験や班内での役割が重視されることが多い。
今回も班長は引き続きフリーダが務めることになっていた。
もっとも、宿舎は当面そのまま使用する予定である。
フリーダ班の部屋も同じ規格で、寝台を追加する余地はなかったからだ。
小隊食堂へ入ると、フリーダたちが食事をしていた。
「おはようございます」
「おはよう、高橋」
フリーダが顔を上げた。
「エレナは?」
「ちょっと体調が悪いみたいで、医務室に行きました」
「あら、珍しいわね」
リーナが言った。
「風邪かしら?」
「本人もそう言ってました。熱はないみたいですけど」
「疲れが出たのかもしれないわね」
フリーダはそう言って、高橋に隣の席を勧めた。
「まあ、座りなさい。明日からは同じ班なんだから」
「はい。よろしくお願いします」
「今さら何を言ってるのよ」
リーナが笑った。
「もう何度も一緒に仕事してるじゃない」
イルマも短くうなずいた。
「高橋、よろしく」
「こちらこそ」
高橋は笑って席についた。
「休暇最後の日なんだから、少しくらいのんびりしたら?」
ゾフィーがそう言って笑った。
高橋はうなずき、パンを口に運んだ。
戦場にいた頃とは違い、食堂には穏やかな空気が流れていた。
そのときだった。
バタン!
食堂の扉が勢いよく開いた。
「高橋! 高橋はいるか!」
ヴァルター少佐だった。
普段から声の大きい人物だったが、今日はいつにも増して勢いがある。
食堂にいた隊員たちが一斉に振り返った。
「おお! いたいた!」
ヴァルターは高橋を見つけると、大股で近づいてきた。
「え? 少佐?」
高橋が振り返るより早く、
バシン!
ヴァルターの大きな手が、高橋の背中を思いきり叩いた。
「ぐほっ!」
高橋は危うく食べかけのパンを喉に詰まらせるところだった。
「な、何事ですか、少佐!」
慌てて振り返ると、ヴァルターは満面の笑みを浮かべていた。
それも、ただの笑顔ではない。
高橋がこれまで見たこともないほど、嬉しそうな顔だった。
「わっはっは! でかしたぞ、高橋! 大戦果だ!」
「え? なんなんですか、いきなり!」
高橋には、まったく事情が分からなかった。
何か新しい戦果でも確認されたのだろうか。
しかし、戦場から帰ってきてもう何日も経っている。
いったい何の話だ?
ヴァルターは高橋の肩をがっしりと掴んだ。
「お前、父親になるんだぞ! 敵の大将首より大戦果だ!」
「…………は?」
一瞬、食堂が静まり返った。
高橋はぽかんと口を開けたまま、ヴァルターの顔を見つめていた。
「……父親?」
「そうだ!」
「……誰が?」
「お前に決まってるだろうが!」
「少佐! エレナですか!」
真っ先に反応したのはフリーダだった。
「おう! そうだ! エレナが懐妊した!」
「本当ですか!」
「そりゃ、おめでたいわ!」
リーナとゾフィーが歓声を上げた。
イルマも大きくうなずいた。
「高橋、おめでとう」
「あ、ありがとうございます……」
高橋はまだ呆然としていた。
つい先ほどまで、いつもと変わらない朝食を食べていたのだ。
それが突然、父親になると言われたのである。
「ちょっと高橋! 何をぼんやりしてるのよ!」
リーナが笑いながら肩を叩いた。
「お父さんになるんでしょう!」
「いや、その……まだ頭が追いつかなくて……」
「わははは! そりゃそうだろう!」
ヴァルターが豪快に笑った。
その声を聞きつけ、周囲の席からも隊員たちが集まってきた。
「何だ何だ?」
「エレナ曹長が懐妊したんだって!」
「本当か!」
「高橋が父親だとよ!」
「おおっ! そいつはめでたい!」
食堂のあちこちから歓声が上がった。
翌日の再集結を控え、浸透偵察小隊の隊員たちはほとんどが駐屯地へ戻ってきていた。
普段は静かな小隊食堂が、ちょっとした宴会のような騒ぎになっていた。
「高橋! おめでとう!」
「エレナ曹長にもお祝いを言わなきゃな!」
次々と肩を叩かれ、握手を求められる。
高橋はそのたびに頭を下げていた。
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
そんな高橋の様子を見て、フリーダが笑った。
「まったく、先日の哨戒ではあんなに落ち着いていたのにね」
「本当よね!」
リーナも笑った。
「敵を撃つときより、お父さんになる方が緊張するみたいね!」
「そりゃそうだ!」
ヴァルターが大きくうなずいた。
「敵なら撃ち倒せば終わりだが、子供はこれから育てなきゃならんからな!」
周囲からどっと笑い声が上がった。
高橋は苦笑いするしかなかった。
* * *
それからしばらくして、食堂の入り口にエレナが姿を現した。
「あら……?」
いつもより少し顔色は悪かったが、表情は明るかった。
隊員たちに囲まれている高橋と、その隣で大笑いしているヴァルターを見つけると、エレナは小さくため息をついた。
「……やっぱり」
「エレナ! おめでとう!」
フリーダが真っ先に声をかけた。
「ありがとう、フリーダ」
「エレナ曹長、おめでとうございます!」
「ありがとう。みんなも」
あちこちから祝福の声が飛んでくる。
エレナは笑顔でそれに応えながら、高橋のところへ歩いてきた。
「亘一」
「エレナ……」
高橋は立ち上がった。
「本当なんですか?」
「ええ。本当よ」
エレナは嬉しそうに微笑んだ。
「できちゃった」
「……そうなんですか」
まだ実感が湧かない高橋を見て、エレナはくすりと笑った。
そして、隣に立つヴァルターへ視線を向けた。
「もう、少佐ったら」
「何だ?」
「医務室の前でお話しした途端、年甲斐もなく走って小隊に戻ってしまうんですもの」
「わははは! こんなめでたい話を聞いて、じっとしていられるか!」
ヴァルターはまったく悪びれない。
エレナは呆れたように首を振った。
「私から亘一に言いたかったんだけどね」
「あ……」
高橋はようやく気づいた。
本当なら、エレナから直接聞くはずだった知らせなのだ。
「すみません、エレナ」
「あら、亘一が謝ることじゃないわよ」
エレナは笑った。
「悪いのは、こちらの少佐なんだから」
「何を言う! 俺は嬉しかっただけだ!」
ヴァルターが胸を張った。
その様子に、周囲からまた笑い声が上がった。
エレナもつられて笑った。
そして、高橋の手をそっと握った。
「亘一」
「はい」
「お父さんになるのよ」
高橋は、握られた手を見つめた。
それから、エレナの顔を見た。
「……はい」
ようやく、自然に笑みがこぼれた。
「嬉しいです」
「私もよ」
エレナは幸せそうに微笑んだ。
「それにしても、みんないきなり大騒ぎだからね。ちゃんと報告もできなかったんですよ」
エレナはそう言って、高橋に向き直った。
「亘一、もう三か月くらいになるんですって」
「……三か月?」
「ええ。お医者様がそうおっしゃってたわ」
「そうなんですか……」
高橋は思わずエレナのお腹に目を向けた。
まだ、見た目には何の変化もない。
だが、その中には自分たちの子供がいるのだ。
「何っ! 三か月だと!」
ヴァルターが聞き逃すはずがなかった。
「おい、高橋!」
「は、はい?」
バシン!
「ぐほっ!」
またしても、高橋の背中に強烈な一撃が入った。
「すごいなお前! 初弾命中だぞ!」
一瞬の沈黙。
そして、
「ぶはっ!」
フリーダが吹き出した。
「あはははは!」
リーナもゾフィーも腹を抱えて笑い始めた。
「少佐! 何言ってるんですか!」
高橋は顔を真っ赤にした。
「わっはっは! 狙撃手としては申し分ない腕前だな!」
「そういう話じゃないでしょう!」
エレナまで笑い始めた。
「もう、少佐ったら! そんなことまで戦果にしないでください!」
「何を言う! これ以上の戦果があるか!」
ヴァルターは上機嫌で胸を張った。
高橋はもう、何も言い返せなかった。
* * *
「よし! 今日は祝いだ!」
ヴァルターが突然、大声を上げた。
「イリス! イリスはいるか!」
「は、はい!」
食堂の奥から慌てた声が返ってきた。
小隊支援班のイリス兵長だった。
何事かと駆け寄ってきたイリスに、ヴァルターは勢いよく命じた。
「祝いの準備をしろ!」
「えっ? 祝いですか?」
「そうだ! エレナが懐妊したんだ! 盛大に祝うぞ!」
「は、はい! おめでとうございます!」
イリスはエレナに向かって頭を下げた。
「ありがとう、イリス」
「よし、まずは酒だ! 酒を買ってこい!」
ヴァルターは懐から財布を取り出すと、そのままイリスに押しつけた。
「これを使え! 足りなかったら言え!」
「えっ! 少佐、財布ごとですか!?」
「構わん! 今日は俺のおごりだ!」
イリスは財布を手にしたまま、目を丸くしていた。
「少佐、本当にいいんですか?」
「いいと言ってるだろう! 遠慮するな!」
その様子を見ていたリーナが立ち上がった。
「イリス、私も手伝うわ」
「あっ、ありがとうございます!」
「人数も多いし、酒だけじゃ足りないでしょう。食べ物も用意しないとね」
「そうですね。支援班の人たちも呼んできます!」
イリスは急いで支援班の隊員たちに声をかけた。
事情を聞いた隊員たちも、すぐに準備を始めた。
* * *
リーナとイリス、それに小隊支援班の隊員たちが、ぞろぞろと兵舎から出てきた。
「さて、まずはお酒ね。あとは食べ物も買わないと」
「はい。人数が多いですから、結構な量になりますね」
イリスはヴァルターから預かった財布を見つめた。
「それにしても、少佐、本当に財布ごと渡しちゃうなんて……」
「まあ、今日はよっぽど嬉しいんでしょうね」
リーナが笑った。
そのとき、駐屯地内の道を歩いてくる女性に気づいた。
「あら? 水野じゃない!」
丸眼鏡をかけたその女性は、砲兵中隊の水野香織だった。
「あっ、リーナさん。こんにちは!」
「ちょうどいいところに来たわね!」
「え?」
リーナは水野の腕を掴んだ。
「ちょっと来なさい!」
「えっ? ちょっと、どこへ?」
「いいから、いいから!」
水野は訳も分からないまま、兵舎の方へ引っ張られていった。
「イリス! 買い物は任せたわ! 私はこっちの準備を手伝うから!」
「はーい!」
イリスは支援班の隊員たちを連れ、そのまま買い出しへ向かった。
* * *
「少佐! 水野を捕まえてきました!」
リーナが食堂に戻るなり声を上げた。
「おお! 水野か!」
ヴァルターは嬉しそうに振り返った。
「ちょうどいい! 水野、お前は今日はこっちに参加だ!」
「えっ? 何にですか?」
「祝いだ! 今日は盛大にやるぞ!」
「あの……私、今日の午後から砲兵中隊の再集結なんですけど……」
「何? そうだったな」
ヴァルターは一瞬考えた。
「よし! ちょっと待ってろ! 話をつけてやる!」
「えっ? 少佐?」
ヴァルターはさっさと食堂を出て、小隊本部へ向かった。
どうやら砲兵中隊へ電話をかけるつもりらしい。
水野は呆然とその背中を見送った。
「……あの、何があったんですか?」
まったく状況が呑み込めない。
リーナは笑っているし、周囲の隊員たちもやけに嬉しそうだった。
そこへイルマが近づいてきた。
「水野」
「はい?」
「エレナ、懐妊した」
「えっ!」
水野は目を丸くした。
「本当ですか!」
食堂の奥にいたエレナを見つけると、慌てて駆け寄った。
「エレナさん! おめでとうございます!」
「ありがとう、水野」
エレナは嬉しそうに微笑んだ。
「今朝、医務室で分かったのよ」
「そうだったんですか! それは本当におめでたいですね!」
水野も満面の笑みになった。
そして、ふと首を傾げた。
「ところで、エレナさん」
「なあに?」
「お父さんは誰なんですか?」
一瞬、食堂が静まり返った。
次の瞬間。
「ぶっ!」
リーナが吹き出した。
「あはははは!」
フリーダもゾフィーも笑い始めた。
周囲の隊員たちまで大笑いになった。
「えっ? えっ?」
水野は慌てて周囲を見回した。
「私、何か変なこと聞きました?」
「水野……知らないの?」
フリーダが笑いをこらえながら尋ねた。
「何をですか?」
イルマが高橋を指さした。
「高橋」
「……はい?」
水野が振り返った。
そこには、何とも気まずそうな顔をした高橋が立っていた。
「高橋君?」
「……はい、水野先生」
「……え?」
水野は高橋を見た。
それからエレナを見た。
もう一度、高橋を見た。
「…………え?」
数秒の沈黙。
「ええええええっ!?」
今度は水野の叫び声が食堂中に響き渡った。
「高橋君!? あなたが!?」
「……はい」
「エレナさんの!?」
「……はい」
「赤ちゃんのお父さん!?」
「……そういうことになります」
水野は両手で頭を抱えた。
「ちょ、ちょっと待って! えっ? いつから!?」
周囲からまた笑い声が上がった。
「水野、本当に知らなかったのね!」
リーナが目尻の涙を拭いながら言った。
「だ、だって! そんな話、一度も聞いてませんよ!」
水野は必死だった。
「高橋君! あなた、エレナさんとそんな関係だったの!?」
「ええ、まあ……」
「ええ、まあ、じゃないでしょう!」
完全に教師の口調に戻っていた。
「先生! 落ち着いてください!」
「落ち着けるわけないでしょう!」
水野は再びエレナに向き直った。
「あの……本当に、高橋君なんですか?」
「ええ。亘一よ」
エレナはにこにこと笑っていた。
「……そうなんですか」
水野はしばらく黙っていた。
自分の教え子だった高橋亘一。
日本にいた頃は、教室で数学を教えていた少年だった。
それが今では兵長になり、勲章まで授与され、ついには父親になるという。
頭の中で、どうにも話がつながらなかった。
「……高橋君が、お父さん……」
水野は呆然と呟いた。
イルマが横から一言。
「うん。お父さん」
「それは分かりました!」
また食堂が笑いに包まれた。
そのとき、廊下からヴァルターの大声が聞こえてきた。
「おーい! 水野!」
電話を終えたらしい。
ヴァルターが食堂に戻ってきた。
「砲兵中隊には俺から話をつけたぞ! 今日の集結式は欠席して構わんそうだ。必要な連絡は後で受け取れ!」
「えっ? あ、ありがとうございます……」
水野はまだ高橋を見つめていた。
「……高橋君が、お父さん……」
「おい、水野! 聞いてるか?」
「……えっ? あ、はい!」
ヴァルターは不思議そうに水野を見た。
「何だ? どうした?」
リーナが笑いながら答えた。
「少佐! 水野、今まで高橋がエレナの相手だって知らなかったんです!」
「何だと?」
ヴァルターは一瞬目を丸くした。
そして。
「わっはっはっは!」
食堂に、また豪快な笑い声が響き渡った。
* * *
そのとき、食堂の入り口から女性の声がした。
「……いったい、何なんですか、この騒ぎは?」
アウレリア大尉だった。
手には何枚かの書類を抱えている。
どうやら浸透偵察小隊に用事があって来たらしい。
普段は比較的静かな小隊食堂が、まるで宴会場のようになっている。
アウレリアは不思議そうに室内を見回した。
「ヴァルター少佐。何かあったのですか?」
「おお! アウレリア! いいところに来た!」
ヴァルターは嬉しそうに振り返った。
「お嬢も呼んでこい!」
「……はい?」
アウレリアは目を瞬かせた。
「オリヴィエ大佐を、ですか?」
「そうだ! 今日は祝いだ! お嬢も参加させるぞ!」
「お祝い……ですか?」
「エレナが懐妊したんだ! 高橋が父親になる!」
「……まあ!」
アウレリアは驚いてエレナを見た。
「エレナ、本当なのですか?」
「はい。今朝、医務室で分かりました」
エレナが嬉しそうに微笑んだ。
「それはおめでとうございます!」
アウレリアの顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます、アウレリア大尉」
「高橋兵長も、おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます!」
アウレリアは二人を交互に見つめた。
イジューム戦線から撤収する直前の夜、オリヴィエとともにエレナ班の天幕で過ごしたときのことを思い出していた。
あの夜、エレナから二人の馴れ初めを詳しく聞いたのだった。
帝都での出来事を、エレナは少しも恥ずかしがらずに話していた。
一方の高橋は、顔を真っ赤にしていた。
そして今日も、まったく同じである。
アウレリアは思わず微笑んだ。
「ふふっ。本当によかったですね」
「そういうことだ!」
ヴァルターが胸を張った。
「だから、お嬢も呼んでこい! あいつも喜ぶぞ!」
「分かりました。ですが、オリヴィエ大佐にもご予定がありますから、まずは確認してまいります」
「おう! 頼んだぞ!」
アウレリアは苦笑した。
「まったく、少佐はこういうことになると、すぐに大騒ぎなさるんですから」
「めでたいことは盛大に祝う! それでいいだろう!」
「ふふっ。そうですね」
アウレリアは持ってきた書類を小隊本部に届けると、もう一度エレナと高橋に微笑みかけた。
「それでは、オリヴィエ大佐にお伝えしてまいります」
そう言って、食堂を後にした。
その背中を見送りながら、高橋は思った。
――これ、連隊長まで来るのか……?
どうやら騒ぎは、まだまだ大きくなりそうだった。
* * *
「……エレナ」
高橋は困ったようにエレナを見た。
「なあに?」
「なんだか、すごいことになってませんか?」
「そうですね……私もびっくりしました」
隣にいた水野も苦笑した。
「ヴァルター少佐なんて、連隊長まで呼ぼうとしてますし……」
エレナは二人の顔を見比べると、くすりと笑った。
「そうね。日本人の二人には、ちょっと分かりにくいかもしれないわね」
「どういうことですか?」
「私たちエルフにとって、子供を授かるというのは、この上ない慶事なのよ」
エレナは穏やかに説明を始めた。
「エルフは人間よりずっと長生きするけれど、子供はそれほど多く生まれないの。だから、新しい命を授かることは、家族だけじゃなくて、周りのみんなにとっても大きな喜びなのよ」
「そうだったんですか……」
水野が感心したようにうなずいた。
「だから、少佐もあんなに喜んでるんですね」
「ええ。同じ小隊の仲間のこととなると、少佐もああいう人だから」
エレナは嬉しそうに笑った。
「でも、さすがにあそこまで大騒ぎするとは思わなかったわ」
「そうですよね……」
高橋も苦笑するしかなかった。
水野がふと尋ねた。
「じゃあ、エレナさんのご家族も、きっと大喜びでしょうね」
「ええ。母も祖母も、姉もきっと喜んでくれるわ」
エレナは微笑んだ。
「早く知らせてあげたいわね」
「そうですね!」
水野も嬉しそうに笑った。
そのとき、フリーダが会話に加わった。
「まあ、エルフに限らず、子供が生まれるのは嬉しいことだけどね」
「そうね」
エレナがうなずいた。
「でも、今回ばかりは少佐も特別みたいね」
フリーダは笑いながらヴァルターの方を見た。
相変わらず大きな声で、隊員たちと祝いの準備について話している。
「……あれ、まだ準備も始まったばかりなのよね?」
「ええ」
エレナがため息交じりに答えた。
「この調子だと、どうなっちゃうのかしら」
水野が笑った。
「でも、いいじゃないですか。みんながこんなに喜んでくれるんですから」
「そうね」
エレナは高橋の手を取った。
「亘一、私たちの子供、みんなに祝福されてるわね」
「……はい」
高橋はエレナの手を握り返した。
まだ父親になるという実感は、十分には湧いていなかった。
だが、エレナの嬉しそうな顔を見ていると、自分まで幸せな気持ちになってくる。
つい先月まで、命のやり取りをしていた仲間たち。
その仲間たちが今、新しく生まれてくる命を、こんなにも喜んでくれている。
高橋は改めて、エレナのお腹に目を向けた。
そこには、まだ見ぬ自分たちの子供がいる。
そう思うと、自然に笑みがこぼれた。
* * *
それからしばらくして、兵舎の外が騒がしくなった。
「戻りましたー!」
イリスの元気な声が響いた。
食堂の扉が開き、イリスと支援班の隊員たちがぞろぞろと入ってきた。
両手には酒瓶や食料の入った袋を抱えている。
「少佐! 買ってきました!」
「おお! ご苦労!」
ヴァルターが満足そうにうなずいた。
「酒は十分あるか?」
「はい! かなり買い込みました!」
「よし! さっそく準備だ!」
イリスたちは手際よくテーブルを動かし、料理や酒瓶を並べ始めた。
リーナも一緒になって手伝っている。
そこへ、再び食堂の扉が開いた。
「……ずいぶん賑やかね」
オリヴィエ大佐だった。
その後ろにはアウレリア大尉が続いている。
「おお! お嬢! 来たか!」
ヴァルターが嬉しそうに声を上げた。
「ヴァルター、アウレリアから話は聞いたわよ」
オリヴィエは食堂を見回し、苦笑した。
「まったく、あなたは相変わらずね」
「めでたいことだからな!」
「ええ。そうね」
オリヴィエはエレナと高橋に歩み寄った。
「エレナ、高橋兵長。おめでとう」
「ありがとうございます、オリヴィエ大佐」
「ありがとうございます!」
「二人とも、よかったわね」
オリヴィエは穏やかに微笑んだ。
そして、少し悪戯っぽい表情を浮かべた。
「そういえば、あの天幕で聞いたお話が、こんなに早くおめでたい知らせにつながるとは思わなかったわ」
「ふふっ。そうですね」
アウレリアも笑った。
高橋は嫌な予感がした。
「……あの、連隊長?」
「何?」
「その話は、もう……」
「あら、何も言ってないでしょう?」
オリヴィエは楽しそうに微笑んだ。
アウレリアも笑いをこらえている。
二人とも、イジューム戦線から撤収する直前の夜に、エレナから事情を聞いていたのである。
エレナだけは、まったく気にした様子がなかった。
「ありがとうございます。私も嬉しいです」
その様子を見て、オリヴィエはもう一度笑った。
「ふふっ。本当に、エレナは変わらないわね」
* * *
やがて、食堂はすっかり祝いの席になった。
あちこちから笑い声が上がり、隊員たちが次々とエレナと高橋に声をかけてくる。
ただ、水野には少し困ったことがあった。
周囲では帝国共通語とエルフ語が入り交じっていたのである。
帝国共通語なら、だいたい理解できる。
しかし、エルフ語になると、何を話しているのかまったく分からない。
会話の半分ほどしか理解できず、水野は少々置いてきぼりになっていた。
「……リーナさん、今、何て言ってたんですか?」
「ああ、エレナと高橋の話よ」
「そうなんですか」
「みんな、二人のことは前から知ってたからね」
「えっ? そうなんですか?」
「そうよ。小隊じゃ公然の秘密だったもの」
リーナは笑った。
水野は驚いた。
どうやら、自分だけが何も知らなかったらしい。
しばらくすると、周囲のエルフたちが何やら楽しそうに話し始めた。
その中で、水野にも聞き取れる言葉があった。
「……帝都の夜?」
その言葉が、何度も出てくる。
エルフ語の会話の合間に、帝国共通語で「帝都の夜」という言葉が繰り返されていた。
「リーナさん、帝都の夜って何ですか?」
「え?」
リーナは一瞬きょとんとした後、吹き出した。
「あはは! ああ、その話ね!」
「何かあったんですか?」
「まあ、いろいろあったのよ」
リーナは意味ありげに笑った。
水野は首を傾げた。
そのとき、高橋の方から大きな笑い声が聞こえてきた。
「わっはっは!」
ヴァルターが高橋の肩を叩いている。
「おい高橋! やっぱりお前、大したもんだ!」
「少佐! もうその話は勘弁してください!」
高橋は顔を真っ赤にしていた。
周囲の隊員たちは、ますます面白がっている。
「……何の話なんでしょう?」
水野はますます分からなくなった。
そこへ、アウレリアが近づいてきた。
「水野一等兵、どうかなさいましたか?」
「あ、アウレリア大尉。実は、さっきから皆さんが『帝都の夜』って何度も言ってるんですけど、意味が分からなくて……」
「……ああ」
アウレリアは納得したようにうなずいた。
「そうでした。水野一等兵は、第20期召喚者の中で唯一、先生をされていた方でしたね」
「はい。日本では数学を教えていました」
「高橋兵長も、あなたの教え子だったそうですね」
「そうなんです。だから、突然お父さんになるなんて聞いて、私もびっくりしてしまって……」
アウレリアはくすりと笑った。
「そうでしたか。では、なおさら驚かれるでしょうね」
「え?」
「少し、お耳を貸してください」
「はい?」
アウレリアは水野の耳元に顔を寄せた。
「……エレナが、高橋兵長の童貞を食べちゃった日だそうです」
「…………え?」
水野は固まった。
「……ええっ!?」
思わず大声を上げかけ、慌てて口を押さえた。
アウレリアはくすくす笑っている。
「イジューム戦線から撤収する直前に、エレナ本人から聞きました」
「そ、そんなことまで……」
「ええ。私が尋ねたら、あっさり答えてくれましたよ」
水野は高橋を見た。
真っ赤になっている高橋。
大笑いしているヴァルター。
そして、楽しそうに微笑んでいるエレナ。
「……あっ!」
水野はようやく理解した。
帝国歴232年1月末。
帝都での夜。
そして、今は五月初旬。
受胎からおよそ三か月。
ヴァルター少佐の言った言葉。
――初弾命中。
「…………そういう意味だったんですか!」
水野は両手で顔を覆った。
「もう! 少佐ったら! 何てこと言ってるんですか!」
アウレリアは楽しそうに微笑んだ。
「でも、なかなか見事なものですね」
「アウレリア大尉まで!」
水野はますます混乱した。
日本にいた頃、自分の教室で数学を教えていた高橋亘一。
その高橋が、いつの間にかエレナとそんな関係になっていて、しかも父親になるという。
水野には、まだどうにも信じられなかった。
その向こうで、ヴァルターがまた豪快に笑った。
「わっはっは! 高橋! お前、やっぱり大した狙撃手だ!」
「少佐! お願いですから、もうやめてください!」
高橋の悲鳴にも似た声が、賑やかな食堂に響き渡った。
* * *
やがて、イリスたちが酒を全員に配り始めた。
エレナの前には、酒の代わりに果実水が用意されている。
「少佐! 全員に行き渡りました!」
「おう! ご苦労!」
ヴァルターは酒杯を手に立ち上がった。
「よし! みんな、聞いてくれ!」
その大声に、食堂のざわめきが次第に収まっていった。
ヴァルターは周囲を見回した。
「今日は、実にめでたい日だ!」
隊員たちが笑顔でうなずく。
「我が浸透偵察小隊のエレナ曹長が、めでたく懐妊した!」
食堂から大きな拍手が起こった。
エレナは少し照れながら、頭を下げた。
「先の戦闘では、俺たちも大切な仲間を失った。まだ帰ってこない者もいる」
ヴァルターの声が、少しだけ静かになった。
「だが、こうして新しい命が生まれようとしている。これほど嬉しいことはない!」
隊員たちは静かに聞いていた。
「そして、その父親が高橋だ!」
再び拍手と歓声が起こった。
「こいつは先の戦いで、敵の大将首を撃ち抜いて、赤薔薇章まで貰った男だ! だが、今日ばかりは、そっちの戦果よりよっぽどめでたい!」
「少佐!」
高橋が思わず声を上げると、周囲から笑い声が上がった。
「わっはっは! まあ、そう照れるな!」
ヴァルターは酒杯を高く掲げた。
「エレナと高橋、そしてこれから生まれてくる子供の幸せを願って!」
隊員たちも一斉に酒杯を掲げた。
ヴァルターは満面の笑みを浮かべ、最後に大声で叫んだ。
「帝都の夜に!」
「乾杯!」
食堂中に、威勢のよい声が響き渡った。
酒杯が打ち鳴らされ、拍手と笑い声が広がった。
「もう! 少佐ったら!」
エレナは顔を赤らめながら笑った。
一方、高橋は耳まで真っ赤になっていた。
「……なんで最後がそれなんですか……」
隣にいた水野も、さすがに苦笑していた。
「高橋君……もう、諦めなさい」
「先生まで……」
フリーダもリーナも、腹を抱えて笑っていた。
その様子を見ながら、オリヴィエはアウレリアに小声で話しかけた。
「……まったく、ヴァルターらしい祝辞ね」
「ふふっ。そうですね」
アウレリアも微笑んだ。
「でも、皆さん本当に嬉しそうです」
「ええ。久しぶりに、いい知らせだもの」
オリヴィエは酒杯を傾けながら、笑い合う隊員たちを眺めていた。
ほんの少し前まで、彼らは厳しい戦場にいた。
その戦いで失った仲間たちは、もう戻ってこない。
だが、今ここには新しい命の誕生を喜ぶ声が満ちていた。
こうして、浸透偵察小隊の思いがけない祝いの席は、ますます賑やかになっていった。