高橋亘一が父親になる。
その噂が第20期召喚者たちの間に広まるまで、半日もかからなかった。
発端は水野香織だった。
高橋が同じ部隊のエルフ女性との間に子供を授かったという話を、かつての教え子たちに伝えたのである。
話は瞬く間に広がった。
もっとも、当の高橋は浸透偵察小隊に所属している。各部隊ではすでに通常の訓練が再開されており、歩兵中隊に所属する仲間たちが気軽に会いに行ける状況ではなかった。
その日の夕食時。
駐屯地の食堂は、訓練を終えた兵士たちで賑わっていた。
食器の触れ合う音、あちこちから聞こえる笑い声。窓の外には五月の夕暮れが広がり、まだ明るさを残した空の下を、訓練帰りの兵士たちが行き交っている。
その一角に、川崎、山田、井上、伊藤千尋の四人が集まっていた。
「なあ、聞いたか? 高橋の話」
川崎が食事の手を止めて口を開いた。
「聞きましたよ。父親になるんですよね」
山田が答える。
「しかも相手がエルフの女性だっていうじゃないか」
井上も頷いた。
「水野先生からの話なんだから、間違いないだろうな」
「いや、ちょっと待てよ」
山田は真剣な表情になった。
「俺たち、まだこっちに来て一年も経ってないんだぞ?」
「そうだな。去年の七月に召喚されたんだからな」
川崎が答える。
「それなのに、あいつ、もう父親になるんだぞ!」
千尋が呆れたように言った。
「だから、そういう話をしてるんでしょ」
「だってよ、去年の今頃は、みんな普通に日本で暮らしてたんだぜ?」
その言葉に、四人は少し黙った。
千尋は手元の食器に目を落とした。
去年の今頃、自分は何をしていただろう。
学校に通い、友人と話し、試験のことや進路のことを考えていた。
それが今では、異世界の軍隊に所属し、実戦まで経験している。
三月には負傷し、病床で過ごすことにもなった。
そして今度は、同期の一人が父親になるというのだ。
「しかし、高橋もやるなあ」
川崎が感心したように言った。
「赤薔薇章をもらって二階級特進。今度は父親か」
「人生の進み方が速すぎるだろ……」
山田が呟いた。
「しかし、相手がエルフの女性っていうのが気になるな」
千尋は山田の顔を見た。
「山田君、あんた何を期待してるの?」
「いや、別に……」
山田は口ごもった。
その様子に川崎が笑った。
千尋も小さく笑ったが、ふと井上が妙に落ち着いていることに気づいた。
他の三人が騒いでいる間も、井上は平然と食事を続けている。
川崎もそれに気づいたらしい。
「おい井上。お前、ずいぶん余裕だな」
「まあな」
井上は何でもないことのように答えた。
すると山田が、にやりと笑った。
「そりゃそうですよ。井上も子作りの真っ最中ですからね」
「えっ!?」
千尋は思わず井上を見た。
「ちょっと待って! 前に言ってたメリーナさん?」
「そうですよ」
山田は当然のように答えた。
「メリーナさんが井上と付き合ってるの、子作りが目的ですからね」
「ちょっと山田! お前、言い方!」
井上が慌てて抗議した。
「でも、本当のことでしょ?」
「いや、そうだけどさ……」
井上は反論しかけて、口を閉じた。
千尋は呆気に取られていた。
四月の宴会で井上に恋人がいると聞いたときは、冗談半分にエア彼女ではないかとからかったものだった。
それが、いつの間にか子供の話にまで進んでいるという。
「え? じゃあ、井上君も近いうちにお父さんになるかもしれないってこと?」
「まあ、そういうことになるな」
井上はあっさり認めた。
「ちょっと! 何、その落ち着きよう!」
「いや、俺だって最初は驚いたよ。でも、もう覚悟は決めてるから」
川崎が感心したように頷いた。
「お前、いつの間にそんなに大人になったんだ?」
「別に大人になったわけじゃないけどな」
山田が横から口を挟んだ。
「ちなみにメリーナさん、ものすごく積極的ですからね。井上の方が押されっぱなしですよ」
「山田! 余計なこと言うな!」
千尋は思わず笑ってしまった。
「何よそれ! 井上君、完全に尻に敷かれてるじゃない!」
「まあ、否定はしない」
井上は苦笑した。
川崎はしばらく井上の顔を眺めていたが、やがて大きくため息をついた。
「くそっ。高橋も井上も、どんどん先に行っちまうなあ」
* * *
千尋は水を一口飲んだ。
高橋が父親になる。
井上も子供を持つことを考えている。
二人の話を聞いているうちに、どうしても気になることがあった。
「でも、ちょっと早すぎない?」
「何が?」
川崎が尋ねた。
「子供のことよ。私たち、まだこっちに来て一年も経ってないのよ。日本にいたらまだ高校二年生よ。ちょっと早くない?」
「まあ、日本じゃまだ高校生だもんな」
川崎が頷いた。
「そうよ。普通なら高校を卒業して、仕事をして、生活が安定してから考えることでしょ?」
千尋は井上に顔を向けた。
「井上君も、ちゃんと子供を育てていけるの?」
「えっ? 俺?」
「そうよ。子供ができたら、ちゃんと責任取らなきゃいけないんだからね」
千尋の口調は、自然と少し厳しくなっていた。
日本にいた頃、同級生が子供を作ると言い出したら、きっと同じことを言っただろう。
「そりゃ、わかってるよ」
井上は少し困ったように答えた。
「俺だって最初は早いと思ったさ。でも、メリーナさんが子供を欲しがってるし、俺もちゃんと考えたんだよ」
「でも、軍人でしょ? いつ戦場に行くかわからないじゃない」
「それはそうだけど……」
井上は少し考えてから続けた。
「でも、こっちじゃ軍務が十五年もあるんだぞ。それが終わるまで待ってたら、いつになるかわからないだろ?」
「それはそうだけど……」
千尋は言葉に詰まった。
確かに十五年は長い。
軍務を終えるまで待つという考え方が、必ずしも現実的でないことは理解できる。
だが、だからといって、今すぐ子供を作るという考えには簡単に賛成できなかった。
「何だか、日本にいた頃の常識が通じないのね」
千尋は小さくため息をついた。
「そういえば」
山田がふと思い出したように口を開いた。
「メリーナさんもそうですけど、うちの分隊のリリアさんも子供を欲しがってるんですよね」
「え? そうなの?」
千尋が顔を上げた。
「ええ。リリアさんもエルフなんですけど、子供が欲しいって話はしてますね」
「へえ……」
「まあ、理由は結構現実的みたいですけどね」
「どういうこと?」
「こっちの軍隊って、妊娠中も出産後の育児期間も軍務年限に数えられるじゃないですか。だから、その間は戦場に行かなくても済むんですよ」
川崎が目を丸くした。
「えっ? それって、子供を育ててる間も軍務を果たしてる扱いになるのか?」
「そうですよ。だからリリアさん、軍務期間中に子供を作るのは悪くないって考えてるみたいです」
井上が頷いた。
「なるほどな。軍務年限は減るし、子供も育てられる。確かに合理的だな」
「何というか……たくましいわね」
千尋が苦笑した。
日本では、出産や育児は仕事を続けるうえで大きな問題になると聞いていた。
ところが、この国では妊娠も育児も軍務年限に算入される。
考えてみれば、軍務中に子供を持つ方が有利なのかもしれない。
「でも、子供を作る理由がそれっていうのも、何だかねえ……」
「まあ、リリアさんもそれだけが理由じゃないと思いますけど」
山田が答えた。
「それに、こっちじゃ珍しい話でもないみたいですよ」
「そうなの?」
「ええ。子供ができたからって、特別騒ぐようなことでもないみたいです」
千尋は腕を組んだ。
「うーん……やっぱり、現地の女性とは考え方が違うのかな」
そのとき、背後から柔らかな女性の声がした。
「こんばんは、井上さん」
井上が振り向いた。
「あっ、メリーナさん!」
* * *
千尋も声のした方を見た。
そこには、食事の盆を持った黒髪の美しい女性兵士が立っていた。
「お友達ですか?」
「は、はい! 日本から一緒に来た同期の連中……いえ、皆さんです!」
井上は慌てて言葉を直した。
その様子を見て、千尋は思わず笑いそうになった。
いつもの井上とは、明らかに様子が違う。
「あら、山田さんもいらしたんですね」
「メリーナさん、お疲れ様です」
山田が答えた。
「こちら、よろしいですか?」
「あっ、はい! どうぞ!」
井上はすぐに立ち上がり、隣の椅子を引いた。
「ありがとうございます、井上さん」
メリーナはにっこり笑って腰を下ろした。
川崎はその姿を見て、目を見張っていた。
どうやら以前に見かけたことがあるらしい。
千尋も驚きを隠せなかった。
艶のある黒髪に整った顔立ち。背筋を伸ばした姿勢と、落ち着いた身のこなし。
軍服を着ているにもかかわらず、どこか良家の令嬢のような雰囲気が漂っていた。
(……この人が、井上君の彼女?)
四月の宴会で話を聞いたときは、正直なところ半信半疑だった。
だが、目の前の女性は想像していた以上の美人だった。
メリーナが三人に微笑んだ。
「初めまして。メリーナと申します。井上さんとは親しくさせていただいています」
千尋は慌てて挨拶した。
「伊藤千尋です。井上君とは日本にいた頃からの知り合いです」
「まあ、そうなんですね。よろしくお願いします、伊藤さん」
「こちらこそ」
丁寧な言葉遣いだった。
千尋は、ますます不思議な気分になった。
どうして、この人が井上君と。
そんなことを考えてしまい、慌てて打ち消した。
「……井上君」
「何だよ?」
「この前はエア彼女なんて言って、ごめんね」
「だから本当だって言っただろ!」
川崎が笑い出した。
「いやあ、俺もまだ信じられないよ。あのとき見た美人が、井上の彼女なんだからな」
「お前ら、いい加減にしろよ!」
井上が抗議した。
メリーナは不思議そうに首を傾げた。
「井上さん、何かあったんですか?」
「い、いえ! 何でもないです!」
山田は笑いをこらえている。
千尋も、つられて笑ってしまった。
井上はメリーナに話しかけるたび、無理に丁寧な言葉を使おうとしている。
それでも時々、普段の口調が混じってしまう。
(……井上君、頑張ってるわね)
千尋は少し微笑ましくなった。
* * *
メリーナが食事を始めると、しばらく他愛のない話が続いた。
食堂の中では、夕食を終えた兵士たちが席を立ち始めていた。空いた食器を運ぶ音が響き、窓の外も少しずつ夕闇が濃くなっている。
千尋は目の前のメリーナを眺めた。
上品な話し方をする人だった。
先ほど山田から聞いた、子供を作るために井上と付き合っているという話が、どうにも結びつかない。
せっかく本人と話す機会ができたのだ。
千尋は思い切って尋ねてみることにした。
「あの、メリーナさん。少し変なことを聞いてもいいですか?」
「はい。何でしょう?」
「メリーナさんは、子供が欲しいって考えてるんですよね?」
井上がぎょっとした。
「い、委員長!?」
しかし、メリーナは少しも動じなかった。
「ええ。欲しいですよ。できれば何人か欲しいと思っています」
あまりにも自然な返事だった。
千尋は一瞬、言葉に詰まった。
「……そうなんですか」
「伊藤さんは、子供は欲しくないんですか?」
「欲しくないわけじゃないんですけど……日本にいた頃は、まだずっと先の話だと思ってました」
「そうなんですね」
「学校を卒業して、仕事をして、生活が安定してからっていうのが普通だったので」
メリーナは頷いた。
「なるほど。日本ではそういう考え方なんですね」
「ええ。日本にいたら、私たちはまだ高校二年生なんです」
千尋は少し言いにくそうに続けた。
「正直に言うと、井上君も高橋君も、ちょっと早すぎるんじゃないかって思ってしまうんです」
メリーナは驚いた様子もなく、静かに聞いていた。
「でも、私たちは軍人ですからね」
「……そうですね」
「いつまで生きていられるかわかりませんし、軍務が終わるまで待っていたら、いつになるかわかりません。それなら、子供を持てるときに持ちたいんです」
千尋は黙っていた。
先ほど井上が言ったことと、ほとんど同じだった。
だが、メリーナが落ち着いた口調で話すと、不思議と違った響きがあった。
「でも、子供ができたら生活も大変になりますよね?」
「もちろんです。子供を育てるのは簡単なことではありませんから」
メリーナは頷いた。
「でも、軍務中でも給料はありますし、妊娠中や育児期間も軍務年限に算入されますから、その点では助かります」
「あ、それは山田君から聞きました」
「ふふっ。そうでしたか」
メリーナは楽しそうに微笑んだ。
千尋は少し考えた。
なるほど、制度としては理解できる。
だが、子供を持つことは、そんなに簡単に決めてよいものなのだろうか。
「でも……」
千尋は少し迷ってから続けた。
「子供を作るために相手を探すって、何だかすごいですね」
「そうでしょうか?」
メリーナは不思議そうに首を傾げた。
「もちろん、誰でもいいわけではありませんよ」
「それはそうですよね」
「一緒にいて楽しいことも大切ですし、相性だってありますから」
そう言って、隣の井上に微笑みかけた。
「井上さんは、私のことをきちんと受け入れてくださるんです。私の希望も真剣に考えてくださいますし」
「い、いや、そんな……」
井上は顔を赤くした。
「だから、井上さんとの子供が欲しいと思っているんですよ」
「メリーナさん! 皆さんの前でそんな……!」
「本当のことですもの」
メリーナは涼しい顔だった。
川崎は呆然としている。
山田はそんな川崎の表情を見て、笑いをこらえていた。
千尋は改めて井上を見た。
普段はどこか頼りないところもある井上が、メリーナの前では妙に真剣な顔をしている。
慣れない丁寧語で話そうとしているのも、彼女を大切に思っているからなのだろう。
少なくとも、子供を持つことを軽く考えているわけではなさそうだった。
(……井上君も、ちゃんと考えてるのね)
千尋は少しだけ、見方を改めた。
それでも、もう一つ気になることがあった。
「でも、怖くないですか?」
「何がでしょう?」
「子供ができても、どちらかが戦死するかもしれないじゃないですか。子供を残して死んじゃうかもしれないんですよ?」
その言葉に、井上も真顔になった。
千尋の脳裏に、三月の戦闘が蘇った。
負傷したときの痛み。
病床で過ごした日々。
そして、帰ってこなかった仲間たち。
子供を残して戦死する。
それは決して、あり得ない話ではなかった。
メリーナは少し考えてから答えた。
「もちろん、怖いですよ」
意外なほど素直な返事だった。
「でも、それを考え始めたら、何もできなくなってしまいますから」
「……そうですね」
「それに、いつ死ぬかわからないからこそ、やりたいことを先延ばしにしたくないんです」
千尋は黙った。
自分はこれまで、子供を育てられるようになってから産むべきだと考えていた。
だが、この世界には十五年という軍務がある。
その間に何度戦場へ行くことになるのか、誰にもわからない。
三月の戦闘で命を落とした同期たちも、まさか自分が死ぬとは思っていなかっただろう。
日本にいた頃のように、将来は当然やってくるものだと考えていてよいのだろうか。
「……私も、自分の人生設計をちゃんと考えないといけないのかもしれませんね」
千尋が呟いた。
「そうですね。でも、焦る必要はないと思いますよ」
メリーナは穏やかに微笑んだ。
「大切なのは、ご自分がどうしたいかですから」
千尋は頷いた。
もっとも、まだ納得できたわけではなかった。
まだ高校生だったはずの自分たちが、子供を持つという考えには、やはり抵抗がある。
だが、メリーナの言葉を頭から否定することもできなかった。
そのとき、川崎が身を乗り出した。
「委員長! 俺なんかどう? 俺、やっぱり日本人がいい!」
「なんで私が川崎君と! ありえないでしょ!」
千尋が即答すると、山田が吹き出した。
メリーナは二人を交互に眺めた。
「伊藤さん、川崎さんとはお付き合いされないんですか?」
「えっ?」
千尋は面食らった。
「いや、その……川崎君とは同期ですし、そういう目で見たことがなくて」
「そうなんですね」
メリーナはにっこり微笑んだ。
「でも、お付き合いしてみたら、また違う面が見えるかもしれませんよ。体の相性も大切です」
さらりと言ってのけた。
「えっ!?」
千尋と川崎が同時に声を上げた。
二人とも顔を真っ赤にしている。
「か、体の相性って……!」
千尋が言葉に詰まった。
川崎も、さすがに返事ができない。
メリーナは不思議そうに首を傾げた。
「大切なことだと思いますけど?」
あまりにも平然とした返事だった。
千尋は返す言葉が見つからなかった。
目の前の女性は、まるで食事の好みでも話すかのように、男女の関係を口にしている。
山田が吹き出した。
「川崎、さっきまでの勢いはどうしたんだよ!」
「う、うるせえ!」
千尋も真っ赤な顔でメリーナを見た。
(……この人、本当にすごいわね)
井上は隣で苦笑していた。
どうやら、こういう発言には少し慣れているらしかった。
「ふふっ。川崎さん、とても積極的な方なんですね」
メリーナが微笑んだ。
「い、いや、その……」
先ほどまでの勢いはどこへやら、川崎はすっかりしどろもどろになっていた。
山田はそれがおかしくて仕方がなかった。
「川崎、せっかくメリーナさんが応援してくれてるんだから、頑張れよ」
「お前、絶対面白がってるだろ!」
「もちろん」
「否定しろよ!」
千尋は呆れたようにため息をついた。
「まったく……何の話をしてたのかわからなくなっちゃったじゃない」
メリーナだけが、楽しそうに微笑んでいた。
* * *
やがて、メリーナが食事を終えた。
周囲では、夕食を終えた兵士たちが次々と食堂を出ていく。
「それでは、私たちはそろそろ失礼しますね」
「あっ、はい! 皆さん、それじゃあまた!」
井上も慌てて立ち上がった。
「井上さん、行きましょうか」
「は、はい! メリーナさん!」
二人は並んで食堂の出口へ向かった。
井上が何やら話しかけると、メリーナが楽しそうに微笑む。
その姿を、千尋はしばらく目で追っていた。
井上があんな表情をするところを、今まで見たことがなかった。
どこか気恥ずかしそうで、それでいて嬉しそうだった。
(……本当に好きなのね)
千尋は少し微笑んだ。
そして、ふと思い出したように呟いた。
「……相原さんのこと、笑ってられないわね」
「ああ、岡田の件か」
川崎が頷いた。
「相原さん、性格変わりましたよね」
山田が言った。
「そうよね。日本にいた頃は、あんなに積極的な子じゃなかったと思うんだけど」
「みんなの前で二号宣言だもんな」
川崎が苦笑した。
「普通、あんなこと言えないよな」
千尋は頷いた。
相原菜月の変わりようには、正直なところ驚いていた。
日本にいた頃は、あんなに大胆なことを言うような子ではなかった。
それが今では、岡田の二号になると大勢の前で宣言してしまったのだ。
「私も最初はびっくりしたわ。そこまでする必要があるのかなって」
千尋は少し考えた。
「でも、岡田君、あんな大怪我をしたでしょ。相原さんも、いろいろ考えたんでしょうね」
岡田は三月の戦闘で左足を失った。
一歩間違えば、命も失っていただろう。
相原も、そのことを理解しているはずだった。
「そうでしょうね」
山田が頷いた。
「いつ死ぬかわからないんだもの。好きな人がいるなら、遠慮してる場合じゃないのかもしれないわね」
口にしてから、千尋は自分でも少し驚いた。
先ほどまで、子供を持つのは早すぎると言っていた自分が、今度は相原の積極性を理解しようとしている。
メリーナの話を聞いたせいだろうか。
「それにしても、相原さん、きれいになったわよね」
千尋が話題を変えた。
「こっちに来たときは、ちょっとぽっちゃりしてたけど」
「ああ、いい体つきになってるよな」
川崎が即座に答えた。
千尋がじろりと睨んだ。
「……やらしいわよ、川崎君」
「何でだよ! 褒めてるだけだろ!」
「その言い方がやらしいの!」
山田が笑い出した。
「川崎、少しは言葉を選べよ」
「お前にだけは言われたくねえ!」
千尋は呆れたようにため息をついた。
周囲では兵士たちの笑い声が響いている。
こうして同期の仲間たちと話していると、日本にいた頃の教室を思い出すことがあった。
だが、話している内容はまるで違う。
恋人、子供、戦死。
去年の今頃なら、こんな話を真剣にすることなどなかっただろう。
* * *
川崎がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、お前ら転属希望は出したのか?」
「僕は出してませんよ」
山田が答えた。
「へえ、意外だな。お前、今の分隊が気に入ってるのか?」
「まあ、悪くないですからね」
山田は何でもないように答えた。
「委員長は?」
川崎が千尋に尋ねた。
「私は衛生兵への希望を出したわ」
「衛生兵?」
「ええ。今年はたぶん、歩兵部隊から他の部隊への転属は無理じゃないかって話だし。せめて衛生兵になれればと思って」
千尋は自分の手元に目を落とした。
三月の戦闘で負傷してから、衛生兵の仕事について考えるようになっていた。
自分も負傷者を助ける側に回れるかもしれない。
もちろん、衛生兵だからといって安全なわけではない。
それでも、今の自分にできることを考えた結果だった。
「なるほどな……」
川崎が頷いた。
三月の戦闘で、歩兵部隊は大きな損害を受けている。
ただでさえ人員が不足している状況で、他の部隊への転属が簡単に認められるとは思えなかった。
「川崎君は?」
「俺も後方勤務の希望を出したんだけど……」
川崎はため息をついた。
「まあ、無理だよな……」
「そうでしょうね。今の状況じゃ」
千尋が答えた。
「くそっ。せっかく生き残ったんだから、もう少し安全なところで働きたいんだけどなあ」
「それはみんな同じよ」
「わかってるよ」
川崎は肩をすくめた。
千尋は川崎の顔を見た。
いつも軽口ばかり叩いているが、彼も三月の戦闘を経験している。
後方勤務を希望する気持ちは、十分に理解できた。
戦場で死にたくない。
それは決して恥ずかしいことではないだろう。
「それにしても、高橋はいいよな。赤薔薇章もらって、昇進して、子供までできて」
川崎が言った。
「でも、あの浸透偵察小隊でしょ?」
千尋が答えた。
「……そうなんだよな」
川崎は少し考えてから首を振った。
「やっぱり俺には無理だ。あんなところで働くくらいなら、今の歩兵中隊の方がまだましだよ」
「軍功は立てやすい部署なんでしょうけど、命の方が惜しいですね」
山田が頷いた。
千尋は、ふと以前の光景を思い出した。
「私、一度、高橋君が偵察から帰ってきたところを見たことがあるのよ」
二人が千尋を見た。
「顔は真っ黒だし、軍服もひどく汚れてて。ずいぶん疲れた様子だったわ。大変なところみたいね」
今でも、その姿は印象に残っている。
普段の高橋からは想像できないほど、疲れ切った様子だった。
山田も頷いた。
「僕も高橋が偵察から帰ってきたところを、三上陣地で見ましたよ。顔に迷彩を塗ってたから、最初は高橋だってわからなかったくらいです」
「そんなにか?」
川崎が尋ねた。
「ええ。何日も敵の後方で活動するんですからね。大変な任務だと思いますよ」
「それで今回、赤薔薇章だろ?」
川崎が言った。
「考えてみれば、よく生きて帰ってきたよな……」
千尋は小さく頷いた。
「そうね……」
食堂の中では、まだ兵士たちの話し声が続いていた。
だが、三人の間にはしばらく沈黙が流れた。
三月の戦闘で帰ってこなかった仲間たち。
今でも、その顔を思い出すことがある。
高橋も、運が悪ければその一人になっていたかもしれない。
千尋は、先ほどのメリーナの言葉を思い返した。
いつ死ぬかわからないからこそ、やりたいことを先延ばしにしたくない。
日本にいた頃なら、子供を持つのはもっと先のことだと考えていた。
今でも、こんなに早く子供を持つのは早すぎると思う。
子供を育てるなら、まず生活を安定させるべきだという考えも変わっていない。
けれど、この世界では十五年もの軍務があり、その間、何度戦場に出ることになるかわからない。
軍務が終わるまで待つことが、必ずしも正しいとは限らないのかもしれない。
千尋は小さく息を吐いた。
「……高橋君、父親になるんだもの。これからも無事に帰ってきてほしいわね」
「そうだな」
川崎が頷いた。
山田も静かに頷いた。
千尋は食堂の窓の外に目を向けた。
五月の夕暮れは、まだわずかに明るさを残していた。
召喚されて、まだ一年も経っていない。
それでも、同期たちはそれぞれの未来を考え始めている。
高橋は父親になろうとしており、井上はメリーナとの家庭を考えている。相原菜月もまた、自分の気持ちに従って行動を起こした。
そして自分も、衛生兵への転属を希望した。
日本にいた頃なら、将来のことはもっとゆっくり考えればよかった。
高校を卒業し、進学するか就職するかを決め、その先に結婚や出産がある。
それが当たり前だと思っていた。
今でも、その考えが間違っているとは思わない。
けれど、この世界では、同じ人生を歩めるわけではない。
千尋は、窓の外を行き交う兵士たちを眺めた。
自分はこれから、どんな人生を歩むのだろう。
その答えは、まだ見つからなかった。