アウレリアは、机の上にカバンを置いた。
石井たち先輩兵士が一斉に姿勢を正した。石井が敬礼すると、アウレリアも軽く答礼し、カバンの留め具を外した。
中から分厚い書類の束が取り出された。
アウレリアは石井に何かを話しかけた。高橋には言葉がわからなかった。昨日から何度も聞いている帝国共通語だったが、まだ一言も理解できない。
石井がうなずき、書類を受け取った。
「さて、みんな。いよいよ決めてもらうことになる」
石井は書類の束を掲げた。
「これは自由民として帝国に登録し、軍務に就くことを承諾するための書類だ」
兵舎の中が静かになった。
「昨日から説明してきた通り、自由民には権利がある。その代わり、軍務義務を果たさなければならない」
石井は木田と篠沢に書類を渡した。
「全員に一枚ずつ配ってくれ」
二人が列の間を歩き、書類を配り始めた。リースと高梨も手伝っている。
高橋のところにも一枚の紙が回ってきた。
紙には見慣れない文字が整然と並んでいた。当然ながら、何が書いてあるのかわからない。
高橋は隣の生徒と顔を見合わせた。
「読めないな」
「当たり前だろ。こっちの言葉なんだから」
書類を眺めていると、石井が再び口を開いた。
「書類は帝国共通語で書かれている。内容は、今まで説明してきた自由民としての登録と軍務義務に関するものだ」
石井は黒板に向き直った。
「自由民を選ぶ者は署名してくれ。署名は日本語で構わない。漢字でも平仮名でもいい」
一人の男子生徒が手を上げた。
「名前だけでいいんですか?」
「ああ。指定された欄に自分の名前を書けばいい」
「この書類って、契約書みたいなものですか?」
「そう考えてもらっていい。署名すれば、自由民として登録され、軍務に就くことになる」
「書かなかったら?」
「国家奴隷になる道を選ぶということだ」
石井の答えに、室内が再び静かになった。
午前中から何度も聞かされた言葉だった。
国家奴隷。
額に入れ墨をされ、自由を失い、一生を国家の管理下で過ごす。
その実態を聞いた今、積極的に選ぼうと考える者はほとんどいないようだった。
それでも、軍隊に入りたいわけではない。戦場へ行きたいわけでもない。
石井は全員を見渡した。
「十五分待つ。その間に考えて、署名してくれ」
そして、少し間を置いて付け加えた。
「俺たちは自由民になることを勧める。だが、最後に決めるのはお前たちだ」
*
高橋は机の上に置いた書類を見つめた。
帝国共通語で書かれた文章は、まったく読めなかった。署名欄だけが、石井の説明でわかった。
ここに自分の名前を書けばいい。
たったそれだけのことだった。
しかし、その名前を書くことで、これから十五年間の人生が決まる。
高橋は鉛筆を手に取った。
戦争。銃。塹壕。そして、死。
午前中の説明が頭の中を巡っていた。
一度の前線派遣は最長八か月程度。だが、大きな損害を受ければ一か月で撤収することもある。
石井は十人いた仲間が五人になって帰ってくることもあると言っていた。
自分は生き残れるのだろうか。
そもそも、人を撃つことができるのだろうか。
高橋は顔を上げた。
周囲の生徒たちも、書類を前にして黙り込んでいた。
すでに名前を書き始めている者もいる。反対に、鉛筆を持ったまま動かない者もいた。
「……どうする?」
近くの男子生徒が隣に尋ねた。
「どうするって、書くしかないだろ」
「でも、軍隊だぞ」
「奴隷になるよりはいいだろ」
「そりゃそうだけど……」
会話はそこで途切れた。
女子生徒たちの方からも、小さな声が聞こえてくる。
「私、戦争なんて嫌だよ」
「私だって嫌だよ」
「でも、奴隷になるのはもっと嫌……」
「十五年も軍隊なんて……」
すすり泣く声がした。
高橋は視線を落とした。
昨日まで、自分は普通の高校一年生だった。
朝起きて学校へ行き、授業を受け、友達と話し、家に帰る。そんな生活が当たり前だと思っていた。
日本には、もう一人の自分がいる。
その自分は何も知らず、今まで通り生活を続けているという。
だが、ここにいる自分は違う。
日本へ帰る方法もわからない。この世界で生きていくしかない。
高橋は鉛筆を動かした。
高橋亘一。
自分の名前を書き終えると、鉛筆を机に置いた。
たった四文字だった。
それでも、書き終えた瞬間、何かが大きく変わってしまったように感じた。
*
水野香織も、書類を前にして考え込んでいた。
昨日まで、彼女は教師だった。
生徒たちに勉強を教え、学校生活を指導する立場にいた。
それが今では、生徒たちと同じように一枚の書類を渡され、軍務に就くかどうかを決めなければならない。
水野は顔を上げた。
教室なら、こんな時に生徒を安心させる言葉をかけられたかもしれない。
だが、今は自分自身が不安だった。
十五年間の軍務。しかも、いずれは前線へ派遣される。
教師である自分が、銃を持って戦争をする。
想像もできなかった。
それでも、国家奴隷になるという選択はなかった。
水野は鉛筆を持ち直した。
そして、署名欄に自分の名前を書いた。
水野香織。
書き終えると、小さく息を吐いた。
ふと隣を見ると、まだ書類を見つめている女子生徒がいた。
「先生……」
水野は顔を向けた。
「どうしたの?」
「私、怖いです」
「うん」
「戦争に行きたくないです」
「そうね。私もよ」
女子生徒は水野を見た。
「先生も怖いんですか?」
「もちろん。先生だって怖いわ」
水野は無理に笑おうとはしなかった。
「でも、これから何ができるのか、一緒に考えていきましょう」
女子生徒は黙ってうなずいた。
しばらくして、彼女も鉛筆を手に取った。
*
十五分が過ぎた。
石井が時計を確認した。
「時間だ。書類を回収する」
木田、篠沢、リースたちが列の間を歩き始めた。
高橋も自分の書類を差し出した。
木田が受け取る。
「書いたか?」
「はい」
「よし」
木田は短く答え、次の生徒のところへ向かった。
集められた書類は石井の前に積み上げられていく。石井はそれを一枚ずつ確認した。
名前が書かれているか。署名漏れはないか。
高梨も横で確認を手伝っていた。
何枚かの書類を確認した石井が顔を上げた。
「署名していない者はいるか?」
返事はなかった。
「自由民を選ばなかった者がいれば、今のうちに申し出てくれ」
誰も手を上げなかった。
石井は木田と篠沢に確認した。
「全部あるな?」
「はい。こちらは全員分あります」
「こっちも大丈夫です」
リースも書類の束を差し出した。
「全部そろいました」
石井はうなずいた。
最後に人数を確認する。
二百名。
署名のない書類は一枚もなかった。
第20期召喚者、二百名全員。
全員が自由民として軍務に就くことを選択した。
石井は書類を整えると、アウレリアの前へ進み出た。
姿勢を正し、敬礼する。
「アウレリア大尉。第20期は全員署名しました」
アウレリアは石井の報告を聞くと、微笑んだ。
そして、流れるような帝国共通語で何かを告げた。
高梨がその言葉を通訳した。
「皆さん、ようこそベルノ連隊へ」
*
アウレリアは第20期の生徒たちを見渡した。
その赤い瞳が、一人一人を確かめるように動いた。
彼女は穏やかな笑みを浮かべ、さらに言葉を続けた。
高橋には意味がわからなかった。
だが、その声が美しいことだけはわかった。
澄んだ、よく通る声だった。
昨日も思ったが、目の前にいる女性は、とても現実の人間とは思えなかった。
腰まで届く黒髪。すらりとした長身。整った顔立ち。長く尖った耳。そして、赤い瞳。
日本で見たことのある誰とも違っていた。
高橋の近くにいた井上翔太が、小さな声でつぶやいた。
「……すげえな」
「何が?」
「あの大尉だよ。モデルか女優にしか見えん」
井上は軍事関係に詳しく、昨日から帝国軍の制服や階級章に興味を示していたが、今は軍服よりもアウレリア本人に目を奪われているようだった。
「それに、あの制服も似合いすぎだろ」
隣にいた山田直樹が興奮した様子で言った。
「いや、すごいって! 本物のエルフだぞ! 耳もちゃんと尖ってるし、しかも黒髪で赤い目とか!」
「お前、昨日からそればっかりだな」
「だって、異世界に来たんだぞ! こんなのアニメでしか見たことないって!」
「声もすごく綺麗だよな」
「ああ、声優みたいだ」
その会話に、近くの女子生徒たちも小さく笑った。
だが、彼女たちもアウレリアから目を離せないでいた。
「本当に綺麗な人……」
「背も高いし、スタイルいいよね」
「髪もすごく綺麗」
「なんか、お姫様みたい」
水野も思わず見とれていた。
日本であれば、間違いなく人目を引く女性だろう。それが、この世界では軍の大尉として、自分たちの前に立っている。
アウレリアは生徒たちの反応に気づいたのか、少し首をかしげた。
そして、柔らかく微笑んだ。
その瞬間、男女を問わず何人もの生徒が息をのんだ。
石井が軽く咳払いした。
「おい、お前ら。大尉の話を聞け」
慌てて生徒たちが姿勢を正した。
高梨が笑いをこらえながら通訳を続けた。
「アウレリア大尉は、皆さんが自由民としてベルノ連隊に加わることを歓迎するとおっしゃっています」
高梨は一度アウレリアの方を向いた。
アウレリアが短く言葉を続ける。
「これからの訓練は厳しいものになりますが、皆さんが無事に訓練を修了し、立派な帝国軍人となることを期待しています、とのことです」
アウレリアは静かに一礼した。
高梨が通訳を終えると、生徒たちの間から自然に拍手が起こった。
最初はまばらだった拍手が、やがて兵舎全体に広がった。
アウレリアは少し驚いたような表情を見せたが、再び微笑んだ。
石井はその様子を見ながら、苦笑していた。
つい先ほどまで泣きそうになっていた生徒たちが、今はアウレリアに見とれている。
現金なものだと思った。
だが、少しでも気持ちが明るくなるなら、それでいいのかもしれなかった。
*
アウレリアは集められた書類をカバンへ収めると、もう一度生徒たちに言葉をかけ、兵舎を出ていった。
高梨が最後の通訳を終える。
扉が閉まると、木田が大きく息を吐いた。
「さて、これで正式にお前らもベルノ連隊の新兵だな」
生徒たちが木田を見た。
「明日からはいよいよ軍隊生活が始まるわけだ。まあ、最初は言葉を覚えるところからだけどな」
木田は笑った。
「それと、ひとつ知らせておくことがある」
石井が木田にうなずいた。
「第18期と第19期の召喚者は、今日で原隊に復帰することになっている」
高橋は顔を上げた。
原隊。
聞き慣れない言葉だった。
すると、川崎が手を上げた。
「木田さん、原隊復帰ってどういうことですか?」
木田は川崎を見た。
「俺たちが元々所属している部隊に戻るってことだ」
「じゃあ、木田さんたちはいなくなるんですか?」
「ああ。俺たち第18期と第19期は、お前らの受け入れを手伝うために、一時的に集められていただけだからな」
「じゃあ、明日からは誰が教えてくれるんですか?」
「石井軍曹や高梨さんたちがいるだろ。それに、これからは本職の教官もつく」
木田は笑った。
「俺たちはお前らの先輩だけど、訓練教官じゃないからな」
川崎は少し残念そうな顔をした。
「そうなんですか……」
「何だよ。寂しいのか?」
「いや、そういうわけじゃないですけど」
「遠慮するなよ」
木田がからかうと、周囲の生徒たちが笑った。
石井が説明を引き継いだ。
「それと、第15期と第16期の先輩たちが新たに合流することになっている。主に帝国共通語の教育を手伝ってもらう予定だ」
「日本人の先輩がまた来るんですか?」
「ああ。俺たちと同じように、何年もこちらで生活している先輩たちだ。言葉は十分に話せるから安心していい」
高梨が付け加えた。
「最初は日本語で説明するけど、少しずつ帝国共通語だけで授業を進めるようになるからね」
「覚えられるかな……」
「大丈夫よ。私たちだって最初は一言もわからなかったんだから」
リースが笑った。
「私も最初は苦労したわ。でも、毎日使っていれば自然に覚えるものよ」
そして、生徒たちへ顔を向けた。
「私も自分の部隊に戻るわ。みんな、頑張ってね」
「リースさんも?」
「そうよ。また会う機会はあると思うけどね」
女子生徒の一人が尋ねた。
「連隊の中にいるんですよね?」
「もちろん。ベルノ連隊の所属だから」
「じゃあ、会いに行ってもいいですか?」
「訓練の邪魔にならなければね」
リースは笑った。
「ただし、私を見つけても、いきなり日本語で話しかけないでね。周りの兵士には何を話しているのかわからないから」
「あ、そうか……」
「まずは帝国共通語を覚えることね」
そう言って、リースは軽く手を振った。
篠沢も生徒たちを見渡した。
「まあ、頑張れよ。俺たちだって最初は何もわからなかったんだから」
その言葉に、高橋は篠沢を見た。
日本では、すでに亡くなったはずの先輩。だが、この世界では生きている。
しかも、帝国軍の兵士として生活している。
昨日初めてその姿を見た時は、信じられなかった。今では、こうして普通に会話している。
この世界に来てから、まだ一日しか経っていない。
それなのに、もう何年も経ったような気がした。
*
石井が前に出た。
「さて、第20期の諸君」
その呼びかけに、生徒たちが顔を上げた。
「今日からお前たちは正式にベルノ連隊の新兵になった」
石井は二百人を見渡した。
「明日から訓練を始める。最初の一か月は帝国共通語の習得が中心だ。軍隊生活の基本も少しずつ覚えてもらう」
何人かの生徒がうなずいた。
「八月からは現地の新兵たちと合流する予定だ。それまでに最低限の言葉を覚えておかなければならない」
石井は高梨の方を見た。
「それにしても、高梨さんにはずいぶん助けられてるな」
「そんなことないですよ」
高梨は笑った。
「俺たちだって、最初は何もわからなかった。今でも言葉には苦労することがあるからな」
石井は改めて生徒たちを見渡した。
「今、日本人の中では高梨が一番帝国共通語が上手いからな。しっかり学べ」
「石井さん、そんなに期待されても困りますよ」
高梨が苦笑した。
生徒たちの間から小さな笑いが起こった。
石井も笑った。
「まあ、最初から完璧に話せるとは思ってない。焦らず覚えていけばいい」
そう言って、石井は説明を締めくくった。
「それから、ひとつ覚えておいてほしい」
兵舎の中が静かになった。
「お前たちは今日、自分で書類に署名した。自由民になることを選んだんだ」
石井はゆっくりと言った。
「その選択を後悔しないように、俺たちもできる限りのことはする」
高橋は机の上に視線を落とした。
先ほどまで、そこには自分の署名した書類があった。
もう書類はない。アウレリアが持ち帰ったのだ。
自分の名前を書いただけだった。しかし、その一枚の書類によって、自分は帝国軍の兵士になった。
昨日まで高校一年生だった自分が。
高橋は顔を上げた。
目の前には石井が立っている。その隣には高梨。そして、今日で元の部隊へ戻る木田、篠沢、リースたち。
彼らも、かつては自分たちと同じように、この世界へ突然やってきた日本人だった。
それでも、今はこの世界で生きている。
軍服を着て、帝国の言葉を話し、兵士として働いている。
自分たちも、いずれそうなるのだろうか。
高橋には、まだ想像できなかった。
石井が最後に言った。
「今日はこれで終わりだ。夕食までは自由にしていていい。ただし、兵舎の外へ勝手に出ないように」
生徒たちが少しずつ立ち上がった。
木田や篠沢の周りには、別れの挨拶をしようとする生徒たちが集まっていた。リースも女子生徒たちに囲まれている。
高橋はその様子を眺めていた。
昨日、この世界に来た。
今日、帝国軍の兵士になった。
そして明日からは訓練が始まる。
日本では高校一年生だった。
だが、ここでは帝国軍の新兵だった。
高橋亘一の軍隊生活が、いよいよ始まろうとしていた。