勇者連隊戦記   作:バグスター

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帝国歴231年7月


第3節 訓練開始

召喚されてから三日目の朝。

 

 高橋亘一は、兵舎に響く鐘の音で目を覚ました。

 

 窓の外はすでに明るく、薄い朝日が石造りの壁を照らしていた。昨夜は比較的よく眠れたらしい。高橋は毛布をめくると、寝台の上で大きく伸びをした。

 

 周囲では、同じ学校の生徒たちが次々と起き始めていた。

 

 寝ぼけた顔で天井を見つめている者。すぐに着替えを始める者。隣の寝台に声をかけている者。昨日までとは違い、朝の兵舎には少しだけ日常らしい雰囲気が生まれていた。

 

「おい、高橋。起きてるか?」

 

 隣の寝台から川崎晴斗が顔を出した。

 

「起きてるよ」

 

「今日から訓練だってさ」

 

「知ってるよ。昨日言ってただろ」

 

「いや、そうなんだけどさ。軍隊の訓練って、何するんだろうな」

 

 川崎は寝台に腰掛け、まだ眠そうな顔で頭をかいた。

 

「最初は言葉の勉強だって言ってたじゃないか」

 

「ああ、そうだったな。俺、外国語って苦手なんだよ」

 

「俺も英語はそんなに得意じゃないけど」

 

「じゃあ、一緒だな」

 

 二人は顔を見合わせて笑った。

 

 高橋は支給された服に袖を通しながら、昨日のことを思い出していた。

 

 自由民としての登録書類に署名した。

 

 たった一枚の書類だったが、あれによって自分は正式に帝国軍の新兵となった。

 

 まだ軍服も着ていない。銃にも触ったことがない。帝国共通語に至っては、一言も理解できない。

 

 それでも、今日から兵士になるための訓練が始まる。

 

 高橋は窓の外を見た。

 

 日本にいた頃なら、今頃は学校へ行く準備をしている時間だった。

 

 もう一人の自分は、今日もいつものように学校へ向かっているのだろうか。

 

 そんなことを考えていると、川崎が声をかけてきた。

 

「おい、早く行こうぜ。朝飯なくなるぞ」

 

「そんなに早くなくならないだろ」

 

「わかんないだろ、二百人もいるんだから」

 

 川崎は先に立って歩き始めた。

 

 高橋もその後を追い、廊下へ出た。

 

 石造りの廊下には朝の涼しい空気が流れていた。大勢の生徒たちが食堂へ向かう足音が、壁に反響していた。

 

*

 

 朝食を終えると、第20期の二百人は高梨梓伍長の案内で新兵訓練施設へ移動した。

 

 兵舎を出ると、朝の光が眩しかった。

 

 前日まで降っていた雨の名残で、道の端にはまだ小さな水たまりが残っていた。石畳の道を進むと、訓練施設の建物が見えてきた。

 

 周囲には広い訓練場や倉庫があり、少し離れたところでは帝国軍の兵士たちが整列していた。

 

 聞き慣れない号令が響く。それに合わせて兵士たちが一斉に動いた。

 

 高橋は歩きながら、その様子を眺めていた。

 

 号令の意味はまったくわからないが、兵士たちの動きは揃っている。

 

 これから自分たちも、あのようになるのだろうか。

 

「はい、皆さん。こちらへ入ってください」

 

 高梨が大きな建物の入口で立ち止まった。

 

「今日はここで帝国共通語の授業を始めます。中に入ったら、好きな席に座ってください」

 

 生徒たちはぞろぞろと建物の中へ入っていった。

 

 高橋も川崎と一緒に入口をくぐる。

 

「うわ、広いな」

 

 川崎が声を上げた。

 

 中は大講堂になっていた。

 

 正面には大きな黒板と教壇があり、その前には長机と椅子が何列にも並んでいる。二百人全員が入っても、まだ十分な余裕があった。

 

 高い天井からは明かりが吊るされ、左右の大きな窓から朝日が差し込んでいた。窓際の床には、長い光の帯が伸びている。

 

 日本の大学の講義室を思わせる造りだった。

 

「学校みたいだな」

 

 高橋が言った。

 

「本当だ。もっと軍隊っぽいところでやると思ってた」

 

 川崎は周囲を見渡した。

 

 各席にはノートと筆記具が置かれていた。

 

 高橋は前の方の席を選び、川崎もその隣に腰を下ろした。

 

「ちゃんとノートまで用意してあるんだな」

 

 高橋は机の上のノートを手に取った。

 

 紙の質は日本のものより少し粗かったが、きちんと綴じられている。表紙には帝国共通語らしい文字が印刷されていた。

 

 筆記具は鉛筆に似たものだった。

 

「これ、支給品かな」

 

 川崎が言った。

 

「そうじゃない?」

 

「軍隊って、勉強道具まで支給されるんだな」

 

 そんな話をしている間にも、生徒たちが次々と席に着いていった。

 

 前方には真面目そうな生徒たちが集まり、後方には友人同士で固まって座る者が多かった。

 

 最後列に近い場所には、佐々木健を中心とする四人が陣取っていた。

 

 中村拓也、加藤真由、吉田麻衣。日本の学校でも佐々木と行動を共にすることが多かった生徒たちだった。

 

 佐々木グループは、ほかの生徒たちがノートを開いて授業の準備を始めている間も、椅子に深く腰掛けて雑談を続けていた。

 

「何だよ、結局学校と同じじゃねえか」

 

 佐々木が面倒くさそうに言った。

 

「朝から勉強とか、やってらんねえな」

 

 中村も机に肘をつき、黒板を眺めた。

 

「適当に聞いときゃいいだろ。どうせ日本語で説明してくれるんだし」

 

 加藤がノートを指先でめくりながら言った。

 

「そもそも、何でこんなところまで来て勉強しなきゃならないわけ?」

 

 吉田は周囲の生徒たちを見回した。

 

「でも、ちゃんと聞いてないと怒られるんじゃない?」

 

「大丈夫だって」

 

 佐々木は笑った。

 

「学校と変わんねえよ」

 

 高橋はちらりと後ろを振り返った。

 

 日本にいた頃と何も変わらない光景だった。しかし、ここは学校ではなく帝国軍の訓練施設だ。

 

 同じような態度でいて大丈夫なのだろうか。

 

 高橋は少し気になったが、何も言わず前を向いた。

 

 やがて二百人が席に着き、講堂のざわめきが徐々に収まっていった。

 

 高梨伍長が教壇に立った。

 

「皆さん、おはようございます」

 

「おはようございます」

 

 まばらな返事が返ってきた。

 

「今日から帝国共通語の授業を始めます。最初の一か月は、午前中を中心に言葉の勉強をしてもらいます」

 

 高梨は黒板の前をゆっくりと歩いた。

 

「ただし、私一人では二百人全員を見ることはできません。そこで、第15期と第16期の先輩たちに手伝ってもらうことになりました」

 

 教壇の横に立っていた兵士たちが前へ出た。

 

 その中には石井軍曹の姿もあった。

 

「こちらの八名が、皆さんの語学教育を補助してくれる先輩たちです」

 

 高梨は順番に紹介を始めた。

 

「まず、第15期の石井軍曹」

 

 石井が軽く手を上げた。

 

「昨日まで散々話したから、もう顔は覚えただろう。改めてよろしくな」

 

 生徒たちの間から笑いが起こった。

 

「石井軍曹は第3歩兵中隊の分隊長です」

 

 続いて高梨は、隣に立つ女性兵士を紹介した。

 

「こちらは第16期の岩島みゆき上等兵です」

 

「岩島です。よろしくお願いします」

 

 岩島は明るく挨拶した。

 

 ほかの先輩たちも順番に紹介された。

 

 いずれも日本から召喚され、すでに何年も帝国軍で生活している兵士たちだった。

 

 高橋は一人一人の顔を眺めた。

 

 先輩たちは皆、帝国軍の制服を着ている。階級章もそれぞれ違っていた。

 

 しかし、日本語を話している姿を見ると、普通の日本人と変わらなかった。

 

 自分たちと同じように、この世界へ突然やってきた人たちなのだ。

 

「この八名には、授業中に皆さんの質問に答えたり、発音を直したりしてもらいます」

 

 高梨は生徒たちを見渡した。

 

「昨日、石井軍曹が言っていたように、言葉がわからないと軍隊生活はできません。命令が理解できなければ、訓練にも参加できないからです」

 

 そこで一度言葉を切った。

 

「でも、最初から難しいことはしません。まずは簡単な挨拶から覚えましょう」

 

*

 

 高梨は黒板の中央に、見慣れない文字を書いた。

 

 曲線と直線が組み合わさった文字だった。日本語とも英語とも違う。

 

 高橋は思わず身を乗り出した。

 

「これが帝国共通語の文字です。まず、簡単な挨拶から始めます」

 

 高梨は黒板に書いた文字を指し、帝国共通語で短い言葉を発音した。

 

 昨日アウレリアが話していたのと同じ言葉だった。

 

「今のが『おはようございます』です。では、皆さんも言ってみてください」

 

 二百人が一斉に真似をした。

 

 しかし、講堂に響いたのは、まるで統一感のない声だった。

 

 高梨が笑った。

 

「はい、もう一度。慌てなくていいですよ」

 

 今度は一つ一つの音を区切り、ゆっくりと発音する。

 

 生徒たちも続いた。

 

 高橋は口の中で何度か繰り返してみた。日本語にはない音が混じっている。舌の動かし方が少し難しかった。

 

「そうです。今度はだいぶよくなりました」

 

 高梨は黒板に向き直り、文字の書き方を説明し始めた。

 

 高橋はノートを開いた。

 

 最初の文字を書いてみる。

 

 しかし、思ったような形にならない。

 

 黒板に書かれた文字と見比べ、もう一度書いた。少しは近づいた気がした。

 

「難しいな、これ」

 

 川崎が隣でつぶやいた。

 

「でも、面白いじゃん」

 

「面白いか?」

 

「うん。英語とも全然違うし」

 

「お前、こういうの好きなんだな」

 

 川崎は苦笑しながら、ぎこちない文字をノートに書いた。

 

 講堂の中には、筆記具が紙をこする音が広がっていた。

 

 時折、高梨の発音に合わせて二百人の声が一斉に響く。その後、再び静かになり、筆記具の音だけが続く。

 

 学校の授業に似ているが、習っているのは見知らぬ世界の言葉だった。

 

 高橋は、不思議な気分になっていた。

 

 昨日まで、帝国共通語は意味のわからない音の集まりでしかなかった。

 

 しかし、今はその音に意味があることを知っている。さらに、その音を文字として書き表すこともできる。

 

 知らない世界を、少しずつ理解していくような感覚だった。

 

 教壇では、高梨が次の言葉を教えていた。

 

 挨拶、返事、肯定と否定、簡単な自己紹介。

 

 まずは日常生活で使う短い言葉からだった。

 

 しばらくすると、先輩たちが講堂の中を歩き始めた。

 

 机の間を巡り、生徒たちのノートを確認していく。

 

「高橋、ちょっと見せてみろ」

 

 石井が高橋の横で立ち止まった。

 

 高橋はノートを差し出した。

 

「おお、ちゃんと書いてるな」

 

「これで合ってますか?」

 

「だいたい合ってる。ただ、ここの線が反対だ」

 

 石井は文字の一部を指した。

 

「こう書くんだ。似た文字があるから気をつけろよ」

 

「ああ、そうなんですか」

 

 高橋は説明された通りに書き直した。

 

「そうそう。それでいい」

 

 石井はノートを返した。

 

「それにしても、ずいぶん熱心だな」

 

「面白いですから」

 

 石井は少し意外そうな顔をした。

 

「面白いか?」

 

「はい。知らない言葉を覚えるのって、結構面白いと思います」

 

「そうか。じゃあ、頑張れよ」

 

 石井は笑って次の席へ向かった。

 

 その隣では、川崎が文字と格闘していた。

 

「石井さん、こっちもお願いします」

 

 石井が川崎のノートを覗き込む。

 

「お前はもう少し丁寧に書け」

 

「ちゃんと書いてますよ!」

 

「これじゃ俺にも読めんぞ」

 

 高橋は思わず笑った。

 

「笑うなよ、高橋」

 

「いや、だって……」

 

 二人が笑っていると、石井が黒板を指した。

 

「ほら、授業を聞け。次に進むぞ」

 

 高橋は慌てて筆記具を持ち直した。

 

*

 

 講堂の後方では、相変わらず佐々木グループが騒いでいた。

 

 高梨が新しい単語を教えている間も、佐々木と中村の私語が止まらない。

 

「なあ、昼飯何だと思う?」

 

 中村が佐々木に話しかけた。

 

「知るかよ」

 

「昨日の肉、結構うまかったよな」

 

「それより街に出たいんだけど」

 

 加藤が退屈そうに窓の外を眺めた。

 

「外出禁止だってよ」

 

「何だよ、それ。刑務所じゃねえんだから」

 

 佐々木は椅子の背にもたれ、退屈そうに天井を見上げた。

 

 机の上のノートは最初のページを開いたままで、何も書かれていない。中村は筆記具を指で回して遊んでいた。

 

 高梨が注意した。

 

「後ろの皆さん、私語はやめてください」

 

「はーい」

 

 佐々木は気のない返事をした。

 

 しかし、高梨が黒板に向き直ると、すぐに中村と話し始めた。

 

 そのうち、加藤が椅子にもたれて居眠りを始めた。

 

 岩島上等兵が近づいてきた。

 

「あなたたち、ちゃんと授業を聞きなさい」

 

「聞いてますよ」

 

 佐々木が答えた。

 

「だったら、今教えた言葉を言ってみて」

 

「……」

 

「ほら、聞いていなかったでしょう」

 

「だって、全然わかんねえんだもん」

 

「わからないから勉強してるんでしょう」

 

「日本語で話せばいいじゃないですか」

 

 中村が口を挟んだ。

 

 岩島は呆れたようにため息をついた。

 

「ここで日本語が通じるのは、私たちがいるからよ。現地の教官は日本語なんて話せないんだから」

 

「だったら、ずっと通訳してくれればいいじゃん」

 

「いつまでも通訳がついてくれるわけじゃないの」

 

「はいはい」

 

 佐々木が面倒くさそうに答えた。

 

「返事は一回」

 

 岩島が少し強く言った。

 

 佐々木は口を閉じたが、反省しているようには見えなかった。

 

 岩島が離れると、中村が小声で笑った。

 

「怒られちゃったな」

 

「うるせえな。軍隊って面倒くせえ」

 

 高橋は後方の様子をちらりと見た。

 

 学校にいた頃と何も変わらない。先生に注意されても、その場だけ静かになる。

 

 だが、ここは学校ではない。

 

 帝国共通語がわからなければ、教官の命令も理解できない。それが戦場でどういう意味を持つのか、佐々木たちはまだ考えていないようだった。

 

 高橋は再び黒板に目を向けた。

 

 今度は数字の読み方が始まっていた。

 

 一から十まで。高梨が一つずつ発音する。

 

 高橋はそれをノートに書き留めていった。

 

 覚えることは多かったが、不思議と退屈しなかった。

 

 ここに来てから初めて、何か新しいことを自分から学んでいるという感覚があった。

 

 もちろん、軍隊に入ったことへの不安が消えたわけではない。

 

 しかし、何もわからなかった昨日までとは違う。

 

 少なくとも、今は目の前に覚えるべきことがある。

 

 高橋は、それが少し嬉しかった。

 

*

 

 昼の鐘が鳴った。

 

 高梨は黒板に書いていた文字を消し、教壇に向き直った。

 

「はい、午前中の授業はここまでです」

 

 生徒たちが一斉に息を吐いた。

 

 椅子のきしむ音が講堂のあちこちで響く。長時間座っていたためか、大きく伸びをする者もいた。

 

「午後は身体訓練になります。昼食を済ませたら、指定された場所に集合してください」

 

 高梨は笑った。

 

「それから、今日習った言葉は忘れないようにね。明日も使いますから」

 

 授業が終わると、講堂は一気に騒がしくなった。

 

 生徒たちが席を立ち、出口へ向かって動き始める。

 

「全然わかんねえ」

 

「文字が難しすぎる」

 

「英語の方がまだましだよ」

 

「明日もこれやるのか……」

 

 高橋はノートを閉じた。

 

 午前中だけで、かなりのページを使っていた。

 

 川崎がそれを見て驚いた。

 

「お前、ずいぶん書いたな」

 

「そうかな?」

 

「俺なんか、まだ三ページだぞ」

 

「書き方がわからなくなるから、なるべく残しておこうと思って」

 

「真面目だねえ」

 

 川崎は笑った。

 

 二人が講堂を出ると、入口のところで井上翔太と山田直樹が待っていた。

 

 井上は軍事や兵器に詳しい、いわゆる軍オタだった。山田はアニメ好きで、井上とは親友同士だった。

 

「おう、高橋、川崎。飯行こうぜ」

 

 井上が声をかけた。

 

「いいよ」

 

 四人は一緒に食堂へ向かった。

 

 昼の日差しは朝よりも強くなっていた。建物の間を抜ける風は涼しかったが、石畳には熱がこもり始めている。

 

 遠くの訓練場から、兵士たちの号令が聞こえてきた。

 

 高橋はそちらを眺めながら歩いた。

 

 制服を着た兵士たちが隊列を組み、教官の指示に従って動いている。

 

 自分たちも、いずれあのように訓練することになるのだろう。

 

 食堂では、すでに大勢の生徒たちが昼食を取っていた。食器の触れ合う音と話し声が入り混じり、朝よりも賑やかだった。

 

 四人は料理を受け取り、窓際の空いているテーブルに腰を下ろした。

 

「いやあ、思ったより普通の授業だったな」

 

 井上が言った。

 

「何が?」

 

 川崎が尋ねた。

 

「軍隊だから、もっと教官が怒鳴ったりするのかと思ってた」

 

「昨日も説明してただろ。最初は言葉を覚えるって」

 

「そうなんだけどさ。軍隊の訓練って、もっと厳しいものを想像してたんだよ」

 

 山田が口を挟んだ。

 

「俺は結構面白かったけどな。異世界の文字なんて、普通は見られないだろ」

 

「お前は何でも異世界なら面白いんだろ」

 

 井上が呆れたように言った。

 

「そりゃそうだろ。実際に異世界に来ちゃったんだから」

 

 川崎が苦笑した。

 

「でも、戦争する世界だぞ」

 

「それはわかってるって」

 

 山田はスープを飲んだ。

 

「たださ、昨日までは何が何だかわからなかったけど、今日から本当にこの世界で生活するんだなって感じがしてきた」

 

 高橋もうなずいた。

 

「俺もそう思う」

 

 窓の外では、帝国軍の兵士たちが食堂の前を通り過ぎていった。

 

 日本人ではない。制服も自分たちのものとは違っていた。

 

 高橋はその姿を目で追った。

 

 この食堂で自分たちが日本語を話しているように、彼らも帝国共通語で日常の会話をしているのだろう。

 

 いつか、その会話を理解できる日が来るのだろうか。

 

「高橋は授業どうだった?」

 

 山田が尋ねた。

 

「面白かったよ」

 

「やっぱりな。ずっとノート取ってたもんな」

 

「文字が全然違うのが面白いんだよ。発音も日本語にはない音があるし」

 

 井上が首をかしげた。

 

「でも、あれを全部覚えるんだろ? 大変じゃないか?」

 

「まあ、大変だろうけど」

 

 高橋は少し考えた。

 

「言葉がわかるようになれば、アウレリア大尉が何を話してるのかもわかるだろ」

 

「それは確かに」

 

 山田が大きくうなずいた。

 

「俺もアウレリア大尉と話してみたい!」

 

「お前、それが目的かよ」

 

 川崎が突っ込んだ。

 

「だって、あんな綺麗なエルフ、初めて見たんだぞ」

 

「普通はエルフ自体、初めて見るだろ」

 

 井上が言うと、四人は笑った。

 

 しばらくの間、昨日見たアウレリアの話が続いた。

 

 山田は長い黒髪と赤い瞳がいかにも異世界のエルフらしいと興奮していたが、井上はむしろ帝国軍の制服や階級章の方にも興味があるらしかった。

 

「あの大尉の制服、将校用なんだろうな。石井さんたちのとは細かいところが違ってた」

 

「お前、そんなところまで見てたのか?」

 

 川崎が呆れた。

 

「当たり前だろ。軍隊なんだから」

 

 井上は得意そうに答えた。

 

 山田が笑った。

 

「俺は顔しか見てなかった」

 

「お前はそうだろうな」

 

 再び笑いが起こった。

 

 井上はパンを口に運んでから、話題を変えた。

 

「それより、午後は身体訓練なんだよな」

 

「そう言ってたな」

 

「射撃訓練とかはまだやらないのかな」

 

「昨日の説明だと、もっと先じゃないか?」

 

 高橋が答えた。

 

「そうか。銃を見るのは楽しみなんだけどな」

 

 川崎が呆れたように言った。

 

「お前、軍隊に来て喜んでるのか?」

 

「いや、喜んでるわけじゃないけどさ。こっちの銃がどんなものなのか気になるだろ」

 

「俺は撃ちたくないけどな」

 

「実戦は俺だって嫌だよ。銃そのものに興味があるんだ」

 

 山田が笑った。

 

「軍オタって、やっぱりそういうところがあるんだな」

 

「お前に言われたくない」

 

 井上が言い返した。

 

 四人はまた笑った。

 

 高橋はパンを口に運んだ。

 

 昨日までは、食事中にも日本へ帰る方法や、これからどうなるのかという話ばかりだった。

 

 今日は少し違った。

 

 授業のこと。これから始まる訓練のこと。そして、この世界の言葉や道具のこと。

 

 不安が消えたわけではない。

 

 だが、こうして友人たちと話していると、少しだけ気持ちが軽くなった。

 

*

 

 午後になると、生徒たちは訓練施設の別の建物へ案内された。

 

 そこで運動着が支給された。

 

 上着とズボン、それに運動用の靴だった。衣服は丈夫な布で作られており、飾り気のない実用本位のものだった。日本の学校で使っていたジャージとは少し違っていたが、動きやすそうではあった。

 

「午後の身体訓練では、こちらを着用してください」

 

 高梨が説明した。

 

「今後、運動着も各自で管理することになります。なくさないようにしてください」

 

 生徒たちは着替えを済ませ、広い訓練場へ移動した。

 

 建物の外に出ると、昼の日差しが強く感じられた。

 

 訓練場は、校庭よりもはるかに広かった。地面は固く踏み締められ、周囲には木製の柵が設けられている。

 

 端には鉄棒に似た器具や、丸太を組み合わせた障害物が並んでいた。遠くには射撃場らしい施設も見えた。

 

 井上は早速そちらに目を向けていた。

 

「なあ、あっち射撃場じゃないか?」

 

 山田が肩をすくめた。

 

「お前、本当に銃が好きだな」

 

「いや、気になるだろ」

 

 井上はなおも遠くを眺めていたが、高梨の集合の声を聞いて慌てて列に戻った。

 

 訓練場の中央には、数名の帝国軍教官が待っていた。

 

 いずれも現地の兵士たちだった。

 

 その中に、一際目を引く姿があった。

 

 高橋は思わず足を止めた。

 

 狼だった。

 

 正確には、狼の頭を持った人間のような姿だった。

 

 灰色の毛に覆われた頭部。長く突き出した鼻先。頭の上には尖った耳があり、周囲の音に反応するように時折動いている。

 

 首から下は人間とよく似た体形だったが、肩幅が広く、腕も太い。

 

 身長は百六十センチほどだろう。

 

 それほど大柄ではないものの、全身が筋肉質で、鍛え上げられていることがわかった。

 

「……本当に狼だ」

 

 川崎が小声で言った。

 

「昨日、石井さんが言ってた教官かな」

 

「たぶん」

 

 高橋も目を離せなかった。

 

 昨日見たアウレリアも、長く尖った耳と赤い瞳を持つエルフだった。しかし、基本的には人間とよく似ていた。

 

 目の前にいる獣人は違う。顔そのものが狼なのだ。

 

「あれ、着ぐるみじゃないよな?」

 

 近くの男子生徒がつぶやいた。

 

「耳、動いてるぞ」

 

「すげえ……」

 

 山田も興奮した様子だった。

 

「本物の獣人だ……」

 

 隣の井上は、獣人の教官の体格を観察していた。

 

「見ろよ、腕。めちゃくちゃ太いぞ」

 

「確かに」

 

「人間より力が強いのかな」

 

 そんな話をしていると、高梨が大きな声で整列を指示した。

 

 二百人の生徒たちが動き始める。

 

 しかし、初めての整列は簡単にはいかなかった。

 

 前に並ぶ者もいれば、後ろで友人と話し続ける者もいる。列の間隔もばらばらだった。

 

「はい、そこ。もう少し右へ寄ってください」

 

「そちらは人数が多すぎます」

 

「列を真っ直ぐにしてください」

 

 高梨が何度も指示した。

 

 佐々木グループは相変わらず集団で固まっていた。

 

「面倒くせえな」

 

「どこに並んだって同じだろ」

 

 佐々木と中村は笑いながら、なかなか列に加わろうとしない。

 

 高梨が近づいてきた。

 

「佐々木君たち、早く整列してください」

 

「はいはい」

 

「返事だけじゃなくて、ちゃんと動いてください」

 

 佐々木は面倒くさそうに立ち上がり、ようやく列に加わった。

 

 整列するだけで、ずいぶん時間がかかっていた。

 

 全員が並び終えると、狼の頭を持つ教官が前へ出た。

 

 鋭い声で何かを言った。

 

 生徒たちが一斉に静かになった。

 

 高梨が前へ出た。

 

「紹介します。こちらはエル・マルカ軍曹です。狼族の女性で、この連隊の訓練教官を務めています」

 

「女性?」

 

 川崎が思わず聞き返した。

 

「そうよ。女性の教官です」

 

 高梨は何でもないことのように答えた。

 

 エル・マルカ軍曹はもう一度短く何かを言った。

 

 高梨が通訳した。

 

「皆さん、今日からよろしくお願いします、とのことです」

 

 高橋は改めて軍曹を見た。

 

 狼の顔からは表情が読み取りにくかった。しかし、堂々とした立ち姿からは、教官としての自信が感じられた。

 

 その軍曹が再び号令をかけた。

 

 いよいよ身体訓練が始まった。

 

*

 

 最初は柔軟体操だった。

 

 教官たちが前に並び、見本を示した。

 

 腕を回し、肩をほぐす。腰を曲げ、足を伸ばす。

 

 日本の学校でも行っていたような準備運動だった。

 

 高橋は少し安心した。

 

 言葉はわからなくても、教官の動きを見れば何をすればいいのか理解できる。

 

 エル・マルカ軍曹は一つ一つの動作を大きく示し、生徒たちが同じように動いているかを確認していた。

 

 その後、筋力訓練が始まった。

 

 腕立て伏せ、腹筋、スクワット。

 

 地面に両手をつき、号令に合わせて身体を上下させる。

 

 高橋も教官の動きを真似した。

 

 最初は簡単だった。しかし、何度も繰り返すうちに腕が重くなってきた。

 

 手のひらには固い地面の感触が伝わり、額から落ちた汗が土に小さな染みを作っていた。

 

「きっつ……」

 

 隣から川崎の声がした。

 

「まだやるのかよ……」

 

 高橋も息が上がっていた。

 

 自転車で長距離を走ることには慣れていたが、腕立て伏せは別だった。脚や持久力には自信があっても、腕の力はそれほど強くない。

 

 エル・マルカ軍曹が近づいてきた。

 

 高橋の姿勢を見て、何かを言った。

 

「え?」

 

 高橋が顔を上げると、軍曹は自分の背中を指し、腕立て伏せの姿勢を示した。

 

 高橋は意味を理解した。

 

「あ、背中を真っ直ぐにするんですね」

 

 姿勢を直すと、軍曹はうなずいた。それから次の生徒のところへ向かった。

 

「怖そうだけど、ちゃんと教えてくれるんだな」

 

 川崎が小声で言った。

 

「うん」

 

 高橋はうなずいた。

 

 エル・マルカ軍曹は生徒たちの間を歩きながら、姿勢の悪い者には身振りを交えて指導していた。

 

 できない者を怒鳴りつけることはなかった。むしろ、無理をしている生徒には休むよう指示している。

 

 しかし、真面目に取り組んでいない者には厳しかった。

 

 その代表が佐々木グループだった。

 

 腕立て伏せを数回行っただけで、中村が地面に座り込んでいる。

 

「もう無理。腕が痛え」

 

「俺も」

 

 佐々木も動きを止め、中村と笑っていた。

 

 教官が近づいてくると慌てて身体を動かすが、通り過ぎるとすぐにやめてしまう。

 

 スクワットも、腰を少し落とすだけだった。

 

 エル・マルカ軍曹が立ち止まった。

 

 佐々木たちを見下ろし、短く何かを言った。

 

「何だよ?」

 

 佐々木が顔を上げた。

 

 軍曹は腕立て伏せの姿勢を示した。

 

「もうやったって」

 

 佐々木は面倒くさそうに答えた。

 

 もちろん、言葉は通じていない。

 

 高梨が近づいてきた。

 

「佐々木君、教官はまだ訓練が終わっていないと言っています」

 

「疲れたんですよ」

 

「それは皆さん同じです」

 

「でも、俺、運動苦手なんで」

 

 佐々木は笑った。

 

 エル・マルカ軍曹は高梨に何かを話した。

 

 高梨が通訳した。

 

「できないことを責めているのではありません。できることを真面目にやりなさい、とのことです」

 

 佐々木は面倒くさそうに身体を起こした。

 

「わかりましたよ」

 

 しかし、軍曹が離れると、また中村と顔を見合わせて笑っていた。

 

 高橋はその様子を見ていた。

 

 学校にいた頃と何も変わらない。

 

 彼らには、まだ軍隊に入ったという実感がないのかもしれなかった。

 

*

 

 筋力訓練の途中、教官たちが訓練用の器具を運んできた。

 

 鉄の棒の両端に重りがついた、バーベルのようなものだった。

 

 井上がすぐに反応した。

 

「お、筋力測定でもするのかな」

 

 エル・マルカ軍曹がその器具の前に立った。

 

 軽く腰を落とし、両手で棒を握る。

 

 そして、ひょいと持ち上げた。

 

 ほとんど力を入れているようには見えなかった。

 

 そのまま胸の高さまで持ち上げ、ゆっくりと下ろす。

 

「おおっ!」

 

 男子生徒たちから声が上がった。

 

「すげえ!」

 

「軽そうに持ったぞ!」

 

「結構重そうなのに……」

 

 井上は目を輝かせていた。

 

「やっぱり人間とは筋力が違うのかな」

 

 山田もうなずいた。

 

「すごいな、狼族って」

 

 エル・マルカ軍曹は何事もなかったように器具を地面へ戻した。

 

 高梨が笑いながら説明した。

 

「狼族は人間とは身体のつくりが違います。エル・マルカ軍曹は特に力が強い方ですから、皆さんは真似しないでくださいね」

 

 軍曹は再び号令をかけた。

 

 今度は軽い器具を使った運動だった。

 

 高橋は教官の動きを見ながら思った。

 

 日本にいた頃なら、狼の顔をした人間がバーベルを持ち上げる光景など、映画か漫画の中でしか見られなかっただろう。

 

 しかし、この世界ではそれが普通の軍隊の訓練風景なのだ。

 

 高橋は妙に感心してしまった。

 

*

 

 休憩の後、持久走が始まった。

 

 訓練場の周囲をゆっくりと走る。

 

 地面には小石が混じり、乾いた土が靴の下で細かく崩れた。走るたびに軽い砂埃が舞い、後方の生徒たちの足元に薄く広がっていく。

 

 最初は全員がまとまっていた。

 

 しかし、しばらくすると少しずつ差が開いていった。

 

 運動部の生徒たちは余裕をもって走っている。一方、普段あまり身体を動かしていなかった生徒たちは、早くも呼吸が荒くなっていた。

 

 高橋は、それほど苦しくなかった。

 

 日本にいた頃、自転車に乗ることが趣味だった。休日には自転車で出かけ、長い距離を走ることもあった。

 

 走るのと自転車では使う筋肉も違うが、長時間身体を動かすことには慣れていた。

 

 高橋は無理に速度を上げず、一定のペースを保って走っていた。

 

 川崎が隣を走っている。

 

「高橋、結構余裕あるな」

 

「そうかな?」

 

「俺、もう息が上がってきたぞ」

 

「最初から飛ばしすぎたんじゃないか?」

 

「そうかもしれん」

 

 二人は少し速度を落とした。

 

「お前、そんなに体力あったっけ?」

 

「自転車に乗ってたからじゃない?」

 

「ああ、そうか。お前、よく自転車で出かけてたもんな」

 

「うん。長い距離を走るのは割と好きだし」

 

「走るのが好きなんて、俺には理解できん」

 

「自転車とランニングは違うけどね」

 

 高橋は笑った。

 

 ただ、腕立て伏せではかなり疲れた。

 

 腕力については、それほど自信がない。自転車で鍛えられるのは、主に脚と持久力だった。

 

 その頃、後方では水野香織が苦戦していた。

 

「はあ……はあ……」

 

 呼吸が荒くなっている。

 

 水野は現在、少しぽっちゃりとした体形をしていた。

 

 教師になってからは運動する機会も少なく、体力にはあまり自信がなかった。

 

 走り始めて間もない頃は、ほかの生徒たちについていこうとしていた。しかし、次第に速度が落ち、とうとう歩き始めてしまった。

 

 顔は赤く、額には汗が浮かんでいる。眼鏡も少しずり落ちていた。

 

「……ちょっと、無理……」

 

 水野は立ち止まり、膝に手をついた。

 

 近くにいた女子生徒が心配そうに声をかけた。

 

「水野先生、大丈夫ですか?」

 

「ええ……ちょっと……息が……」

 

 水野は何とか返事をした。

 

 そこへエル・マルカ軍曹が駆け寄ってきた。

 

 水野の様子を確認すると、何かを話しかけた。

 

 高梨もすぐにやってきた。

 

「水野さん、無理しないでください。軍曹が少し休むように言っています」

 

「はい……すみません……」

 

「謝る必要はありませんよ。今日は体力を見るための訓練ですから」

 

 水野はゆっくりと歩き、訓練場の端で休むことになった。

 

 水を飲み、呼吸を整える。しばらくして、ようやく落ち着いてきた。

 

 水野は走っている生徒たちを眺めた。

 

 その中に、高橋の姿があった。

 

 川崎と話しながら、まだ余裕をもって走っている。

 

「……高橋君、元気ねえ」

 

 水野は小さくつぶやいた。

 

 若さの違いだろうか。

 

 いや、それだけではない。自分が運動不足なのだろう。

 

 水野は自分の身体を見下ろした。

 

 教師になってから、少しずつ体重が増えていた。以前はもう少し動けたはずなのに。

 

「……少し痩せないと駄目ね」

 

 ため息が出た。

 

 一方、佐々木グループも途中から歩き始めていた。

 

 ただし、水野とは事情が違っていた。

 

 まだ十分に走れそうなのに、最初から真面目に走るつもりがないらしい。

 

「もういいだろ」

 

「どうせ今日は体力測定みたいなもんだろ」

 

「適当にやっとけばいいって」

 

 佐々木と中村は話しながら、訓練場を歩いている。

 

 そのうち、中村が勝手に近道をしようとした。

 

 すぐに現地教官が気づき、呼び止めた。

 

 何かを強い口調で注意している。

 

 だが、佐々木たちには意味がわからない。

 

「何言ってんだ、こいつ」

 

「知らねえよ」

 

 高梨が近づいてきた。

 

「決められたコースを走ってください。勝手に短縮してはいけません」

 

「疲れたんですよ」

 

「それなら、教官に申し出て休んでください。勝手に訓練を省略しないでください」

 

「はいはい」

 

 佐々木は気のない返事をした。

 

 高梨は少し表情を厳しくした。

 

「佐々木君。午前中から何度も注意されていますよね」

 

「だから、わかりましたって」

 

 佐々木は中村と顔を見合わせた。

 

 高梨はそれ以上言わなかった。

 

 だが、近くにいたエル・マルカ軍曹は、その様子をじっと見ていた。

 

*

 

 持久走が終わる頃には、ほとんどの生徒が疲れ切っていた。

 

 高橋も汗をかき、脚に少し疲労を感じていたが、まだ余裕があった。

 

 川崎はその場にしゃがみ込んだ。

 

「……疲れた」

 

「大丈夫か?」

 

「大丈夫じゃない」

 

 川崎は顔を上げた。

 

「お前、何でそんなに平気なんだよ」

 

「平気ってほどじゃないけど」

 

「絶対、俺より余裕あるだろ」

 

「自転車のおかげかもしれないな」

 

「俺も日本にいた時、もっと運動しとけばよかった」

 

 川崎は大きく息を吐いた。

 

 高橋は周囲を見渡した。

 

 少し離れたところに、水野が座っていた。まだ疲れた様子で、水を飲んでいる。

 

「先生、大丈夫かな」

 

 高橋が言った。

 

 川崎もそちらを見た。

 

「ああ、途中で休んでたな」

 

「かなり苦しそうだった」

 

「先生、あんまり運動得意じゃなさそうだもんな」

 

 二人が話していると、水野がこちらに気づいた。

 

 高橋が軽く手を上げる。

 

 水野も力なく手を振り返した。

 

 その様子に、川崎が少し笑った。

 

「先生、完全に疲れ切ってるな」

 

「笑うなよ」

 

「いや、心配してるんだって」

 

 高橋は苦笑した。

 

 そこへエル・マルカ軍曹が近づいてきた。

 

 何かを話しかけられたが、高橋には理解できなかった。

 

 高橋が困っていると、高梨が通訳した。

 

「水分を取って、少し休みなさいとのことです」

 

「あ、はい」

 

 高橋は慌てて返事をした。

 

 軍曹はうなずき、次の生徒のところへ向かった。

 

 高橋はその背中を見送った。

 

 今、何を言われたのかさえわからなかった。授業で習った言葉も、実際の会話になると聞き取れない。

 

 これでは、確かに軍隊生活どころではない。

 

 高橋は午前中の授業を思い出した。

 

 まず言葉を覚えなければならない。

 

 石井が何度も繰り返していた理由が、少しわかった気がした。

 

*

 

 身体訓練の最後には、再び柔軟体操が行われた。

 

 疲れた筋肉をほぐすように、ゆっくりと身体を動かす。

 

 すでに日差しは傾き始めていた。午前中は涼しかった風も、今は温かい空気を運んでくる。遠くの建物の影が、訓練場の端まで伸びていた。

 

 高橋は腕を伸ばしながら周囲を見渡した。

 

 疲れて地面に座り込んでいる生徒もいれば、まだ余裕のある者もいた。最初は一斉に動いていた二百人だったが、体力にはずいぶん差があるらしい。

 

 水野は相変わらず疲れ切っていた。柔軟体操をする動作も、ほかの生徒たちよりゆっくりだった。

 

 高梨は教官たちと短い会話を交わしていた。

 

 帝国共通語だった。

 

 高橋には何を話しているのかわからなかったが、高梨はごく自然に受け答えしている。

 

 昨日、石井は日本人の中で高梨が一番帝国共通語が上手いと言っていた。

 

 今の会話を聞いていると、それも納得できた。

 

 高梨は生徒たちに向き直った。

 

「はい、今日の訓練はこれで終了です」

 

 あちこちから安堵の声が上がった。

 

「お疲れさまでした。今日は皆さんの体力を見ることが目的でした。明日からも少しずつ訓練を続けていきます」

 

 一人の男子生徒が尋ねた。

 

「明日も走るんですか?」

 

「もちろんですよ」

 

 高梨は笑った。

 

「今のうちに基礎体力をつけておきましょう」

 

 高梨は少し表情を改めた。

 

「皆さんは、いずれ銃や装備を持って長い距離を歩くことになります。今のような運動ができなければ、そうした訓練にも参加できませんからね」

 

 生徒たちは黙って聞いていた。

 

「それでは、これからシャワーを浴びてもらいます。教官の指示に従って移動してください」

 

 その言葉に、何人かの女子生徒が顔を見合わせた。

 

 昨日、聞いた話を思い出したのだろう。

 

 帝国軍のシャワーは男女共用。しかも、仕切りがないという。

 

 高橋も思わず川崎を見た。

 

「……本当に一緒なのかな」

 

 川崎が小声で言った。

 

「昨日、そう言ってたけど」

 

「いや、でもさ。実際にやるとなると……」

 

 高橋も返事に困った。

 

*

 

 シャワー施設は訓練場に隣接した大きな建物だった。

 

 入口には脱衣のための場所があり、その奥に洗い場が続いていた。

 

 床は水が流れやすいようにわずかに傾斜しており、端には排水溝が設けられている。天井近くには太い配管が通っていた。

 

 洗い場にはシャワーがずらりと並び、大勢の兵士が短時間で利用できるようになっているらしい。

 

 しかし、高橋たちが驚いたのは、その広さではなかった。

 

 仕切りがない。

 

 男子用と女子用に分かれた入口もない。

 

 全員が同じ設備を使うようになっていた。

 

「……本当に一緒なんだ」

 

 誰かがつぶやいた。

 

 女子生徒たちの間から声が上がった。

 

「ちょっと待って!」

 

「本当にここで着替えるの?」

 

「私、無理なんだけど!」

 

 男子生徒たちも戸惑っていた。

 

「いや、さすがにこれは……」

 

「男女で時間を分けたりしないのか?」

 

「どうすんだよ、これ」

 

 誰もが顔を見合わせ、なかなか先へ進もうとしなかった。

 

 先頭にいた生徒たちが立ち止まったため、後ろから入ってきた者たちも動けなくなった。

 

 施設の入口付近に人が溜まり、あちこちから不満の声が上がり始めた。

 

 佐々木グループも騒いでいた。

 

「何だよ、ここ。マジで男女一緒かよ」

 

「すげえな、この世界」

 

 佐々木と中村は笑っている。真面目に教官の指示を聞こうとする様子はなかった。

 

 その時だった。

 

 鋭い号令が施設内に響いた。

 

 エル・マルカ軍曹だった。

 

 狼の頭を持つ軍曹が入口のところで生徒たちを見渡している。その声は驚くほどよく通った。

 

 何を言ったのかはわからない。

 

 だが、叱られていることだけは誰にでも理解できた。

 

 生徒たちが静まり返った。

 

 高梨が前に出た。

 

「皆さん、静かにしてください。ここは軍の施設です。教官の指示に従ってください」

 

 一人の女子生徒が手を上げた。

 

「でも、男女一緒なんて聞いてはいましたけど、やっぱり無理です!」

 

「私もです!」

 

「せめて時間を分けてください!」

 

 高梨は困ったような顔をした。

 

「気持ちはわかりますけど、帝国軍ではこれが普通なんです」

 

「普通って言われても……」

 

 その時、石井が入ってきた。

 

「何だ、ずいぶん騒がしいな」

 

「石井軍曹、皆さんが共用シャワーに抵抗していて……」

 

 高梨が事情を説明した。

 

 石井は生徒たちを見渡した。

 

「ああ、そうか。昨日説明したんだったな」

 

「石井さん、本当に男女一緒なんですか?」

 

 川崎が尋ねた。

 

「そうだ」

 

「仕切りもないんですけど……」

 

「見ればわかるだろ」

 

 石井はあっさり答えた。

 

「いや、でも……」

 

「慣れろ」

 

 石井の返事は短かった。

 

「慣れろって……」

 

「俺たちだって最初は驚いたさ。でも、ここじゃこれが普通なんだ」

 

 石井は少し笑った。

 

「前線へ行けば、もっと不便な場所で生活することになる。今のうちに慣れておけ」

 

 生徒たちは黙り込んだ。

 

「それから、余計なことをするなよ。男女混合だからといって、何をしてもいいわけじゃない。軍紀違反は厳しく処罰されるからな」

 

 高梨もうなずいた。

 

「そういうことです。皆さん、順番に利用してください」

 

 エル・マルカ軍曹が再び号令をかけた。

 

 今度は生徒たちも、渋々ながら指示に従い始めた。

 

 高橋は川崎と顔を見合わせた。

 

「……すごいところに来ちゃったな」

 

 川崎がつぶやいた。

 

「本当だな」

 

 高橋も苦笑した。

 

 昨日、リースはすぐ慣れると言っていた。

 

 だが、高橋には、とてもそうは思えなかった。

 

*

 

 シャワーを終えた後、生徒たちは夕食を取った。

 

 身体訓練で疲れていたためか、食堂では普段よりも静かだった。

 

 高橋も空腹だった。昼食の時にはそれほど食べなかったパンも、今はおいしく感じられる。

 

 川崎は隣で黙々と食べていた。

 

「疲れたな」

 

 高橋が言った。

 

「もう何もしたくない」

 

 川崎はパンを口に運んだ。

 

「明日も同じことやるんだろ?」

 

「そうみたいだな」

 

「俺、軍隊向いてないかもしれん」

 

「まだ初日だよ」

 

「初日でこれだぞ」

 

 高橋は笑った。

 

 食堂の窓からは、夕暮れの光が差し込んでいた。

 

 外では訓練を終えた兵士たちが兵舎へ戻っていく。その足取りは、高橋たちよりもずっと落ち着いて見えた。

 

 彼らにとっては、今日もいつも通りの一日だったのだろう。

 

 高橋はスープを飲みながら考えた。

 

 今日一日で、ずいぶん多くのことを経験した。

 

 帝国共通語の授業。狼族の教官。身体訓練。そして、男女共用のシャワー。

 

 日本にいた頃なら、一つだけでも大騒ぎになりそうな出来事ばかりだった。それが、たった一日の間に起きたのだ。

 

 食事を終えると、生徒たちは兵舎へ戻ることになった。

 

 今夜からは、正式に割り当てられた寝台を使うという。

 

*

 

 案内された兵舎は、これまで寝泊まりしていた大きな部屋とは違っていた。

 

 室内には二段ベッドが整然と並んでいた。二十台ほどあるだろうか。

 

 約四十人が寝起きするための部屋だった。

 

 もちろん、男女混合だった。

 

 高い位置にある窓から夕方の光が差し込み、寝台の金属製の枠を鈍く照らしている。

 

 部屋には木と布、そして洗濯したばかりの衣類の匂いが混じっていた。

 

 壁際には収納用の棚が並び、寝台の下には荷物を置けるようになっている。

 

 男子生徒も女子生徒も、割り当てられた寝台を探して歩いていた。

 

「名前が書いてあるぞ」

 

 川崎が言った。

 

 各寝台の端には、名前の書かれた札が取り付けられていた。日本語と帝国共通語の二種類だった。

 

 高橋は自分の名前を探した。

 

「あ、あった」

 

 下段の寝台に『高橋亘一』と書かれている。

 

 その下には、帝国共通語の文字が並んでいた。

 

 高橋はその文字を眺めた。自分の名前なのだろう。しかし、まだ読むことはできなかった。

 

「へえ、日本語も書いてくれてるんだな」

 

 川崎が言った。

 

「こっちの文字だけじゃわからないもんな」

 

「確かに」

 

 高橋は自分の寝台に荷物を置いた。

 

 すると、後ろから声がした。

 

「あ、高橋君。ここだったんだ」

 

 振り返ると、伊藤千尋が立っていた。

 

 クラスでは委員長を務めていた女子生徒だった。

 

 千尋は高橋の寝台の上段を指した。

 

「私、ここみたい」

 

「委員長?」

 

「うん。よろしくね」

 

「こちらこそ」

 

 千尋は名前札を確認すると、手際よく荷物を整理し始めた。

 

 その向かい側では、川崎が寝台を確認していた。

 

「あ、俺こっちだ」

 

 川崎の名前は上段にあった。

 

 その下段には、見覚えのある名前が書かれている。

 

『水野香織』

 

「……水野先生?」

 

 川崎が思わず声を上げた。

 

「どうしたの?」

 

 後ろから声がした。

 

 振り返ると、水野香織が立っていた。

 

 ただし、ひどく疲れた顔をしている。歩く足取りも重かった。

 

「先生、ここです」

 

 川崎は下段の名前札を指した。

 

 水野はそれを確認した。

 

「あら……本当ね……」

 

「俺、先生の上なんですけど」

 

「そう……みたいね……」

 

 水野は小さく笑った。

 

 しかし、どうにも元気がない。

 

 高橋も顔を出した。

 

「先生、大丈夫ですか?」

 

「ええ……何とか……」

 

「かなり疲れてますよね」

 

「もう、脚がね……」

 

 水野は自分の寝台に荷物を置くと、そのまま腰を下ろした。

 

「はあ……やっと座れた……」

 

 大きく息を吐いた。

 

 千尋も上段から顔を出した。

 

「水野先生、大丈夫ですか?」

 

「千尋さん、ありがとう。ちょっと疲れただけよ」

 

 水野は笑おうとした。

 

「でも、今日の持久走は本当にきつかったわ……」

 

「先生、途中で休んでましたよね」

 

 川崎が言った。

 

「ええ。あれ以上は走れなかったわ」

 

「明日も走るらしいですよ」

 

「……そうなのよね」

 

 水野は肩を落とした。

 

「どうしましょう……」

 

 その様子に、高橋たちは思わず笑ってしまった。

 

*

 

 室内では、生徒たちが荷物を整理していた。

 

 衣類を畳む音や、寝台の枠がきしむ音があちこちから聞こえてくる。誰かが上段へ登ると、金属製の梯子が軽く鳴った。

 

 窓際では、数人の女子生徒が寝台の配置について話していた。

 

 まだ男女混合の兵舎に慣れない生徒たちが多かった。

 

 高橋も支給された衣類を畳み、収納場所へ収めた。

 

 荷物はそれほど多くない。

 

 日本から持ってきたものはほとんどなく、この世界で支給されたものばかりだった。そのことを考えると、少し寂しい気分になった。

 

 荷物の整理を終えて振り返ると、水野はすでに寝台に横になっていた。

 

「先生、もう寝るんですか?」

 

「……ちょっと横になってるだけ……」

 

 返事にも力がなかった。

 

 川崎が上段から顔を出した。

 

「先生、完全にぐったりしてますね」

 

「そうなのよ……」

 

 水野は天井を見つめた。

 

「こんなに体力が落ちていたなんて思わなかったわ」

 

 千尋が上段から顔を出した。

 

「でも、先生、最後まで頑張ってましたよね」

 

「途中で歩いちゃったけどね」

 

「無理しない方がいいですよ」

 

「そうね。明日はもう少し頑張りたいけど……」

 

 水野は身体を起こそうとした。

 

 しかし、すぐに諦めて再び横になった。

 

「……やっぱり、少し休むわ」

 

 高橋は苦笑した。

 

「先生、無理しないでください」

 

「ありがとう、高橋君」

 

 川崎が言った。

 

「でも、高橋は結構余裕あったよな」

 

 水野が顔を向けた。

 

「そうなの?」

 

「はい。あんまり疲れてなさそうでした」

 

「自転車が趣味だったんで、持久力は少しあるみたいです」

 

 高橋が答えた。

 

「自転車?」

 

「はい。日本にいた頃、よく乗ってたんです」

 

「そうだったのね」

 

 水野は小さく笑った。

 

「羨ましいわ。先生も運動しておけばよかった」

 

 千尋が上段から言った。

 

「水野先生、これから毎日運動するんですから、きっと体力つきますよ」

 

「そうね……」

 

 水野は少し考えた。

 

「でも、しばらくは大変そうね……」

 

 川崎が笑った。

 

「先生、俺も一緒です。明日、絶対筋肉痛ですよ」

 

「川崎君も?」

 

「はい。脚がもう痛いです」

 

「それなら、明日は二人で頑張りましょうか」

 

「いや、できれば走りたくないんですけど」

 

 高橋と千尋が笑った。

 

「川崎、まだ初日だぞ」

 

「だから嫌なんだって」

 

 川崎はため息をついた。

 

 窓の外は、少しずつ暗くなっていた。

 

 遠くから鐘の音が聞こえ、兵舎の廊下を当直の兵士が歩いていった。

 

 部屋の中でも、荷物の整理を終えた生徒たちが寝台に腰を下ろし始めていた。

 

 高橋は自分の寝台に横になった。

 

 思っていたより寝心地は悪くなかった。

 

 頭上では千尋がまだ何かを整理している音がした。向かい側では、川崎が上段から顔を出していた。

 

「なあ、高橋」

 

「何?」

 

「今日の狼の教官、すごかったな」

 

「ああ、エル・マルカ軍曹?」

 

「そうそう。あのバーベル、軽々持ち上げてたじゃん」

 

「すごい力だったな」

 

「俺、あれ見た時、本当に人間とは違うんだなって思った」

 

 千尋が上から口を挟んだ。

 

「私も驚いた。顔も本当に狼だったしね」

 

「でも、ちゃんと教えてくれたよ」

 

 高橋が言った。

 

「腕立て伏せの姿勢も直してくれたし」

 

「怖そうだけど、悪い人じゃなさそうね」

 

 水野が小さな声で答えた。

 

 疲れているのか、目を閉じたままだった。

 

「それにしても、みんな元気ね……」

 

「先生、もう寝ます?」

 

 千尋が尋ねた。

 

「まだ大丈夫よ……」

 

 そう答えたものの、水野はほとんど動かなかった。

 

 高橋は少し笑った。

 

「先生、無理して話さなくてもいいですよ」

 

「そうね……ありがとう……」

 

 しばらくして、水野が思い出したように口を開いた。

 

「そういえば、千尋さん。午前中の授業はどうだった?」

 

「難しかったです。でも、結構面白かったですよ」

 

「そう。よかったわ」

 

 千尋は上段から顔を出した。

 

「高橋君もすごく真面目にノート取ってましたよ」

 

「そうなの?」

 

 水野が目を開いた。

 

「高橋君、勉強は好き?」

 

「嫌いじゃないです。今日の授業は面白かったです」

 

「そう……」

 

 水野は小さくうなずいた。

 

「私も、言葉は早く覚えたいわね……」

 

 川崎が口を挟んだ。

 

「先生ならすぐ覚えますよ」

 

「どうして?」

 

「先生ですから」

 

「それ、理由になってないわよ……」

 

 四人は笑った。

 

 水野も笑っていたが、そのまま大きく息を吐いた。

 

「はあ……でも、本当に疲れた……」

 

 高橋は水野の様子を見た。

 

 日本では、教壇に立って授業をしていた先生だった。

 

 それが今では、生徒たちと同じように訓練を受け、疲れ切って寝台に横になっている。

 

 何とも不思議な光景だった。

 

 千尋が言った。

 

「先生、今日は早く寝た方がいいですよ」

 

「そうね……千尋さんの言う通りだわ」

 

 水野は毛布を引き寄せた。

 

「お先に休ませてもらうわね」

 

「おやすみなさい、先生」

 

 高橋が言った。

 

「おやすみなさい」

 

 水野は静かに目を閉じた。

 

*

 

 水野が眠った後も、高橋たちは小さな声で話していた。

 

 兵舎のあちこちからも、まだ話し声が聞こえてくる。時折、寝台のきしむ音や、誰かが寝返りを打つ音が混じっていた。

 

「それにしても、シャワーは参ったな」

 

 川崎が言った。

 

「またその話?」

 

 千尋が呆れたように答えた。

 

「いや、だってさ。まさか本当に男女一緒だとは思わなかったし」

 

「昨日から説明されてたでしょう」

 

「聞いてはいたけど、実際に見ると違うだろ」

 

 高橋も苦笑した。

 

「俺も驚いたよ」

 

 川崎が天井を見上げた。

 

「石井さんなんか、一言だったからな。慣れろって」

 

「五年もこっちで生活してるんだろ?」

 

 高橋が言った。

 

「そう考えると、すごいよな」

 

 千尋も小さくうなずいた。

 

「でも、私たちもこれからずっとここで生活するんだよね」

 

「ああ」

 

 川崎が答えた。

 

「十五年か……長いよな」

 

 少しの間、誰も話さなかった。

 

 高橋は天井を見つめた。

 

 日本にいた頃なら、今頃は自分の部屋にいたはずだった。学校から帰って、好きなことをして、家族と食事をする。

 

 明日のことなど、せいぜい授業や宿題の心配をするくらいだった。

 

 今は違う。

 

 目の前には、見知らぬ世界での十五年間が広がっている。

 

 しかも、その途中には戦争がある。

 

 高橋は小さく息を吐いた。

 

 やがて千尋が口を開いた。

 

「ねえ、高橋君」

 

「何?」

 

「私たちも、五年経ったら石井さんたちみたいになってるのかな」

 

「どうだろう」

 

 高橋は考えた。

 

「少なくとも、帝国共通語は話せるようになってると思うけど」

 

「そうだね」

 

「それに、五年もあれば、今よりずっといろんなことができるようになってるんじゃない?」

 

「そうだといいね」

 

 千尋は小さく笑った。

 

 川崎が言った。

 

「でも、その前に戦場に行くんだろ」

 

 高橋は黙った。

 

 昨日、石井から聞いた話を思い出した。

 

 前線への派遣は、年明け頃になるのではないかという。

 

 あと半年ほど。

 

 それまでに、自分たちは兵士として戦えるようにならなければならない。

 

 今日、初めて帝国共通語を習った。午後には基本的な身体訓練をした。

 

 しかし、まだ銃も持っていない。教官の言葉すら理解できない。

 

 そんな自分たちが、半年後には戦場へ行くかもしれないのだ。

 

 千尋が静かに言った。

 

「今は、できることをやるしかないよね」

 

「そうだな」

 

 高橋はうなずいた。

 

「まずは言葉を覚えないと」

 

「そうそう。それが先だよ」

 

 川崎が言った。

 

「俺はその前に、明日の筋肉痛が心配だけどな」

 

「川崎、またそれかよ」

 

 高橋が笑った。

 

 千尋も笑った。

 

「川崎君、明日も頑張ろうね」

 

「委員長、簡単に言うなよ」

 

「だって、やるしかないでしょう」

 

「それはそうだけどさ……」

 

 川崎はため息をついた。

 

 その時、向かい側の下段から小さな声がした。

 

「……みんな、そろそろ寝なさい……」

 

 水野だった。

 

 三人は一斉に黙った。

 

「先生、起きてたんですか?」

 

 川崎が尋ねた。

 

「……声は聞こえてたわよ……」

 

 水野は目を閉じたまま答えた。

 

「明日も早いんだから……早く寝なさい……」

 

「はーい」

 

 川崎が返事をした。

 

 高橋と千尋は小さく笑った。

 

「おやすみなさい、先生」

 

「……おやすみ……」

 

 水野の声は、ほとんど寝言のようだった。

 

 それから間もなく、静かな寝息が聞こえ始めた。

 

「先生、本当に疲れてたんだな」

 

 川崎が小声で言った。

 

「そうだね」

 

 高橋もうなずいた。

 

 その時、兵舎の入口が開いた。

 

 当直の兵士が顔を出し、帝国共通語で何かを告げた。

 

 高橋には言葉がわからなかった。

 

 しかし、すぐに室内の照明が落とされた。

 

 消灯だった。

 

「おやすみ、高橋」

 

 向かい側の上段から川崎の声がした。

 

「おやすみ」

 

「高橋君、おやすみ」

 

 頭上から千尋の声がした。

 

「おやすみ、委員長」

 

 やがて室内は静かになった。

 

 約四十人の男女が同じ部屋で眠る。

 

 日本では想像もしなかった生活だった。

 

 高橋は目を閉じた。

 

 身体は少し疲れていたが、まだそれほど眠くはなかった。

 

 午後の持久走も、思ったほどきつくはなかった。自転車に乗っていたことが、こんなところで役に立つとは思わなかった。

 

 その一方で、水野はすっかり疲れ切っていた。

 

 日本では先生と生徒だった二人が、今では同じ兵舎で眠り、同じ訓練を受けている。

 

 不思議なものだと思った。

 

 明日も午前中は帝国共通語。午後は身体訓練。

 

 そんな毎日が、これから続いていく。

 

 まだ銃も持っていない。軍服も着ていない。教官の命令さえ理解できない。

 

 それでも今日から、兵士になるための訓練が始まった。

 

 高橋亘一の軍隊生活は、まだ始まったばかりだった。

 

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