勇者連隊戦記   作:バグスター

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帝国歴231年7月~10月


第4節 現地新兵合流

帝国歴231年7月~10月

 

訓練が始まってから、一週間が過ぎた。

 

 高橋亘一は、少しずつ帝国軍での生活に慣れ始めていた。

 

 毎朝五時、兵舎に響く鐘の音で起床する。寝台から起き上がると、毛布を畳み、身支度を整えて点呼を受ける。朝食を済ませれば、午前中は帝国共通語の授業、午後は身体訓練という毎日だった。

 

 初めの頃は、起床の鐘が鳴ってもなかなか起きられない生徒がいた。寝坊して点呼に遅れ、教官に叱られる者もいたが、何日か過ぎると、鐘が鳴る前に目を覚ます者も増えてきた。

 

 高橋もその一人だった。

 

 日本にいた頃は、休日になると遅くまで寝ていることもあった。しかし、ここでは休日だからといって自由に寝坊できるわけではない。休養日であっても、起床や食事の時間は決められていた。

 

 もっとも、毎日が苦痛というわけでもなかった。

 

 午前中の帝国共通語は、思っていた以上に面白かった。

 

 初めは文字を書くだけでも苦労していたが、一週間もすると、簡単な挨拶や数字、身の回りにある物の名前を覚えられるようになっていた。

 

 講堂では相変わらず高梨伍長が授業を担当し、第15期と第16期の先輩たちが机の間を回っていた。

 

 高橋は前の方の席で、黒板に書かれた文章をノートに写していた。最初は一文字ずつ形を確かめていたが、今では短い単語なら、それほど時間をかけずに書けるようになっている。

 

「高橋君、そこの文章、読んでみてください」

 

 高梨に指名され、高橋は立ち上がった。

 

 黒板には短い文章が書かれていた。昨日習った単語と、今日覚えたばかりの表現を組み合わせたものだった。

 

 高橋はゆっくりと声に出して読んだ。

 

 途中で一度発音を間違えたが、最後まで読み終えることができた。

 

「はい、よくできました。途中の発音だけ気をつけてくださいね」

 

「はい」

 

 高橋は少し照れながら腰を下ろした。

 

 隣では川崎晴斗が、感心したようにノートを覗き込んでいた。

 

「お前、覚えるの早いな」

 

「そうかな?」

 

「俺なんか、まだ文字を読むだけでも時間かかるぞ」

 

「川崎も最初よりずっと読めるようになってるだろ」

 

「そりゃそうだけどさ」

 

 川崎は自分のノートに目を落とした。

 

 そこには帝国共通語の文字と、日本語で書かれた読み方がびっしりと並んでいる。

 

「これ、日本語で読み方を書いておかないと、後で何の単語かわからなくなるんだよ」

 

「俺も最初はそうしてたよ」

 

「最初は、ってことは、もうやってないのか?」

 

「なるべくこっちの文字だけで読むようにしてる」

 

 川崎は呆れたように高橋を見た。

 

「真面目だねえ」

 

 そう言いながらも、川崎は再び黒板に目を向けた。

 

 後方の席では、相変わらず佐々木グループが小声で話していた。

 

 授業が始まった頃ほど騒がしくはなくなったものの、真面目に勉強する気にはなれないらしい。指名されても答えられず、岩島みゆき上等兵に何度も注意されていた。

 

 それでも、授業中に勝手に席を立つことはなくなった。教官たちが常に講堂の中を巡回しているためだった。

 

 一方、水野香織は生徒たちに混じって熱心に勉強していた。

 

 教師という職業柄なのか、説明を聞きながら要点を整理するのが上手かった。ノートには文法や単語の使い分けが丁寧にまとめられ、授業が終わった後には近くの生徒から質問されることも増えていた。

 

 もっとも、水野自身も帝国共通語を覚えている途中である。発音の難しい単語では、高梨に何度も確認していた。

 

「水野さん、もう少し舌を奥に引いてみてください」

 

「こうですか?」

 

「そうです。それで、最後の音を短く」

 

 高梨の発音を真似した水野が、少し困ったように笑った。

 

「難しいですね。日本語にはない音だから、どうしても違う発音になってしまいます」

 

「最初は皆さんそうですよ。私もずいぶん苦労しました」

 

 高梨は笑いながら答えた。

 

 その様子を見ていた高橋は、日本にいた頃とは立場が逆になっていることに気づいた。

 

 教壇に立って生徒を教えていた水野が、今は自分たちと一緒に机に向かい、わからないことを質問している。

 

 この世界に来てから、そうした光景にも少しずつ慣れてきていた。

 

*

 

 午後の身体訓練も、日を追うごとに内容が増えていった。

 

 最初は柔軟体操や軽い筋力訓練が中心だったが、一週間もすると、走る距離が少しずつ伸び、訓練場を周回する時間も長くなっていた。

 

 夏の日差しが照りつける訓練場では、乾いた土が靴の下で舞い上がった。二百人の生徒が一斉に走ると、列の後方には薄い砂埃が広がり、教官の号令がその中に響いた。

 

 高橋は比較的余裕をもって走っていた。

 

 日本にいた頃から自転車が趣味で、休日には長い距離を走ることも珍しくなかった。ランニングと自転車では使う筋肉が違うとはいえ、持久力についてはほかの生徒より少し自信があった。

 

 ただし、腕立て伏せや上半身の筋力訓練になると話は別だった。腕の力はそれほど強くなく、回数が増えると最後の方では身体を支えるだけでも苦しくなった。

 

「高橋、走るのは平気なくせに腕立ては普通なんだな」

 

 川崎が笑った。

 

「自転車じゃ腕は鍛えられないからね」

 

「そういうもんか」

 

「そういうもんだよ」

 

 そんな会話をしていると、エル・マルカ軍曹が近づいてきた。

 

 灰色の毛に覆われた狼の頭を持つ女性教官だった。身長は百六十センチほどだが、筋肉質な身体は人間の兵士よりもずっと頑丈そうに見える。

 

 軍曹は二人の姿勢を確かめ、帝国共通語で短く指示した。

 

 今度は、高橋にも少しだけ意味がわかった。

 

 腕を伸ばせ。

 

 それだけの簡単な命令だったが、初めて教官の言葉を通訳なしで理解できたことが嬉しかった。

 

 高橋が姿勢を直すと、エル・マルカ軍曹は軽くうなずき、次の生徒のところへ向かっていった。

 

 一方、水野の持久走は相変わらず厳しかった。

 

 最初の数日間は途中で歩いてしまうことが多く、訓練が終わる頃にはすっかり疲れ切っていた。少しぽっちゃりとした体形で、もともと運動をする習慣もなかったため、急に始まった毎日の訓練についていくのが精一杯だった。

 

 それでも、水野は真面目に取り組んでいた。

 

 走れなくなれば歩き、呼吸が落ち着けば再び走る。教官に休むよう指示されれば素直に従ったが、自分から訓練を投げ出そうとはしなかった。

 

*

 

 訓練が始まってから十日ほどが過ぎた。

 

 七月のベルノは、日中こそ強い日差しが照りつけるものの、夕方になると涼しい風が吹くようになっていた。訓練施設の周囲には背の高い木々が植えられ、石造りの建物の間を抜ける風が、その葉を静かに揺らしていた。

 

 その日も第20期の新兵たちは、午前中に帝国共通語の授業を受け、午後には身体訓練を行っていた。

 

 伊藤千尋は、訓練を終えて兵舎へ戻る途中だった。

 

 隣には高橋亘一と川崎晴斗が歩いていた。

 

 川崎は相変わらず疲れた顔をしていたが、最初の頃に比べれば、ずいぶん身体が動くようになっていた。

 

「今日も疲れたなあ」

 

 川崎が大きく息を吐いた。

 

「川崎君、毎日それ言ってるよね」

 

 千尋が笑った。

 

「だって本当に疲れるんだから仕方ないだろ。委員長は平気なのか?」

 

「平気ってわけじゃないけど、最初の頃よりは慣れてきたかな」

 

「みんなすごいよな。高橋なんか、走るの全然苦にしてないし」

 

「腕立て伏せは結構きついよ」

 

 高橋が苦笑した。

 

 三人はそんな話をしながら、兵舎へ続く石畳の道を歩いていた。

 

 周囲には同じように訓練を終えた生徒たちが大勢いた。汗をかいた運動着のまま歩く者もいれば、すでにシャワーを済ませている者もいる。

 

 少し離れた訓練場からは、まだ教官の号令が聞こえていた。

 

 その時だった。

 

「伊藤千尋!」

 

 後ろから名前を呼ばれた。

 

 千尋が振り返ると、石井軍曹が歩いてきた。

 

「はい!」

 

 千尋は慌てて姿勢を正した。

 

 石井は軽く手を上げた。

 

「そんなに緊張しなくていい。ちょっと時間あるか?」

 

「はい。何でしょうか?」

 

 石井は少し笑った。

 

「お姉さんの件だ」

 

 千尋の表情が変わった。

 

「お姉ちゃんの?」

 

「ああ。以前、会えるように手配すると約束しただろう」

 

 石井は兵舎の方を指した。

 

「今日、時間が取れたそうだ。今、訓練施設の応接室に来てもらっている」

 

「……本当ですか?」

 

「ああ。会ってくるといい」

 

 千尋は一瞬、何も言えなくなった。

 

 この世界に召喚されてから、ずっと気になっていた姉のことだった。

 

 第17期召喚者。伊藤和江。第3歩兵中隊の上等兵。

 

 石井から姉が無事だと聞かされた時には、心から安心した。

 

 だが、その姉が妊娠していること、そして子供の父親である南井が戦死していることも知らされていた。

 

 日本にいる姉とは違う三年間を、この世界で生きてきた和江。

 

 その姉に、ようやく会える。

 

「……ありがとうございます!」

 

 千尋は深く頭を下げた。

 

 石井は少し困ったように笑った。

 

「礼はお姉さんに言ってくれ。向こうもずいぶん会いたがっていたからな」

 

 そして高橋と川崎を見た。

 

「二人とも、千尋を少し借りるぞ」

 

「はい」

 

 高橋が答えた。

 

 川崎も笑った。

 

「委員長、よかったな」

 

「うん!」

 

 千尋は大きくうなずいた。

 

 高橋も微笑んだ。

 

「ゆっくり話してきなよ」

 

「ありがとう、高橋君」

 

 千尋は二人と別れ、石井の後を追った。

 

*

 

 応接室は、訓練施設の事務棟にあった。

 

 兵舎から少し離れた二階建ての建物で、普段は教官や将校たちが出入りしている場所だった。

 

 千尋は石井に案内され、石造りの廊下を歩いていた。

 

 窓からは午後の光が差し込み、磨かれた床の上に明るい四角形を作っている。廊下の壁には帝国共通語で書かれた掲示物が並び、時折、書類を抱えた兵士が二人の横を通り過ぎていった。

 

 千尋は少し緊張していた。

 

 日本にいた頃、姉とは毎日のように顔を合わせていた。

 

 朝起きれば家にいて、食事の時には一緒のテーブルを囲む。些細なことで言い合いになることもあったし、買い物に出かけることもあった。

 

 当たり前のようにそばにいる存在だった。

 

 その姉が、今は別の世界で軍人になっている。

 

 しかも、三年間も戦争を経験しているという。

 

 いったい、どんな姿になっているのだろう。

 

 千尋は胸の前で手を握った。

 

 石井が一つの扉の前で立ち止まった。

 

「ここだ」

 

 軽く扉を叩く。

 

 中から女性の声がした。

 

 千尋は、その声を聞いた瞬間に顔を上げた。

 

 聞き慣れた声だった。

 

 少し低く、落ち着いた姉の声。

 

 石井が扉を開いた。

 

「伊藤上等兵。妹さんを連れてきたぞ」

 

 室内には、一人の女性が立っていた。

 

 窓際に置かれた椅子から立ち上がったところらしく、片手を机に添えている。

 

 軍服ではなかった。

 

 淡い色の上着に、ゆったりとしたズボンを身につけていた。妊娠中の身体に合わせた服装なのだろう。

 

 髪は後ろで簡単にまとめられていた。

 

 日本で見慣れていた姉の姿とは少し違っていた。

 

 それでも、見間違えるはずがなかった。

 

「……お姉ちゃん?」

 

 千尋は小さく声を漏らした。

 

 女性が顔を上げた。

 

 伊藤和江だった。

 

「……千尋?」

 

 和江はしばらく、妹の顔を見つめていた。

 

 その目が大きく見開かれる。

 

「千尋……本当に千尋なの?」

 

「お姉ちゃん!」

 

 千尋は駆け出した。

 

 和江も数歩前へ出た。

 

 二人は部屋の中央で抱き合った。

 

「お姉ちゃん……!」

 

 千尋は姉の肩に顔を埋めた。

 

 日本にいた頃と同じ匂いがするような気がした。

 

 しかし、抱きしめた身体は、記憶にある姉のものとは少し違っていた。

 

 和江は千尋の背中に両腕を回し、強く抱きしめた。

 

「千尋……千尋……」

 

 何度も妹の名前を呼んだ。

 

「本当に……本当に来ちゃったのね……」

 

 千尋は何も答えられなかった。

 

 ただ、姉の服を握りしめていた。

 

 しばらくすると、和江が少し身体を離した。

 

 千尋の顔を両手で包み、じっと見つめる。

 

「大きくなったね……」

 

 千尋は涙の浮かんだ目で姉を見た。

 

「何言ってるの。日本では毎日会ってたじゃない」

 

 和江は少し驚いたような顔になった。

 

 そして、ようやく気づいたように笑った。

 

「……そうよね」

 

 その笑顔が、少し寂しそうだった。

 

「私にとっては三年ぶりなんだけど、千尋にとっては違うんだったわね」

 

 千尋はうなずいた。

 

 日本では、姉は今も普通に暮らしている。

 

 千尋が召喚されるまで、何も変わらない日常が続いていた。

 

 だが、目の前の和江は違う。

 

 三年前、高校一年生だった時に召喚され、それからずっとこの世界で生きてきた。

 

 和江にとって、妹と再会するのは本当に三年ぶりなのだ。

 

「……お姉ちゃん、元気だった?」

 

 千尋が尋ねた。

 

 和江は小さく笑った。

 

「うん。元気よ」

 

 それから少し考え、言い直した。

 

「いろいろあったけどね」

 

 千尋は姉の顔を見つめた。

 

 確かに、少し変わったように見えた。

 

 顔立ちそのものは日本で知っている和江と変わらない。

 

 だが、表情が違っていた。

 

 以前より落ち着いていて、どこか大人びている。

 

 目の前にいるのは確かに姉だった。

 

 しかし、自分の知らない三年間を生きた姉でもあった。

 

*

 

 石井は少し離れた場所で、姉妹の様子を見守っていた。

 

 二人が落ち着くのを待ってから声をかけた。

 

「伊藤上等兵、今日はしばらく時間を取ってある。ゆっくり話してくれ」

 

 和江は石井に顔を向けた。

 

「ありがとうございます、石井軍曹」

 

「気にするな。同じ連隊なんだから、こういう時くらい融通を利かせないとな」

 

 石井は笑った。

 

「それと、無理はするなよ。身体の方が大事だからな」

 

「はい」

 

 和江はうなずいた。

 

 石井は千尋にも声をかけた。

 

「夕食までには兵舎へ戻ってくれ。それまでは自由にしていていい」

 

「ありがとうございます!」

 

 千尋はもう一度頭を下げた。

 

 石井は軽く手を振ると、部屋を出ていった。

 

 扉が静かに閉まった。

 

 部屋には姉妹だけが残された。

 

 窓の外では木々が揺れ、遠くから訓練場の号令が聞こえてきた。

 

 和江は千尋の手を取った。

 

「座ろうか」

 

「うん」

 

 二人は窓際の椅子に腰を下ろした。

 

 テーブルには、茶器と小さな菓子が用意されていた。

 

 和江が千尋の前へ茶を差し出した。

 

「こっちのお茶だけど、結構おいしいのよ」

 

「ありがとう」

 

 千尋は湯気の立つ茶を見つめた。

 

 少し独特な香りがした。

 

 和江も向かい側に腰を下ろした。

 

 しかし、すぐには茶に手を伸ばさなかった。

 

 ただ、千尋の顔を眺めていた。

 

「……本当に大きくなったね」

 

「だから、毎日会ってたってば」

 

 千尋が笑った。

 

「そうなんだけど……」

 

 和江は少し困ったような顔をした。

 

「私が最後に覚えている千尋は、まだもっと小さかったから」

 

 千尋は姉の手を握った。

 

「お姉ちゃんがいなくなったわけじゃないんだよ」

 

「うん。わかってる」

 

 和江はうなずいた。

 

「日本には、私もまだいるんだものね」

 

 その言葉を口にすると、和江は少し考え込んだ。

 

「ねえ、千尋」

 

「何?」

 

「日本の私は、どうしてる?」

 

 千尋は姉を見た。

 

「元気だよ。普通に暮らしてる」

 

「そっか……」

 

 和江は小さく笑った。

 

「よかった」

 

 そして、窓の外へ視線を向けた。

 

「変な感じね。私はこっちで三年も生きてきたのに、日本の私は何も知らないんだから」

 

「私も、最初は信じられなかった」

 

 千尋はうなずいた。

 

「石井さんから説明された時、何のことかわからなかったもん」

 

「私も最初はそうだったわ」

 

 和江は茶を一口飲んだ。

 

「先輩たちに説明されても、なかなか納得できなかった。でも、こうして千尋が目の前にいると、本当にそうなんだって思う」

 

「お姉ちゃんは、三年前の私しか覚えてないんだよね」

 

「そうよ」

 

「私は、今の日本のお姉ちゃんも知ってる」

 

「そうね」

 

 和江は少し笑った。

 

「何だか、千尋の方がお姉ちゃんみたいね」

 

「そんなことないよ」

 

 二人は顔を見合わせて笑った。

 

 その笑い声が消えると、しばらく静かな時間が流れた。

 

 窓から入る風が、机の上の紙をわずかに揺らしていた。

 

*

 

 千尋は、姉の服装へ視線を落とした。

 

 軍服ではなく、ゆったりとした私服だった。

 

 石井から妊娠していると聞いていた。

 

 だが、実際にその姿を見るまでは、どこか現実のこととして考えられなかった。

 

「……お姉ちゃん」

 

「何?」

 

「赤ちゃんがいるんだよね?」

 

 和江は千尋の顔を見た。

 

 それから、自分のお腹へそっと手を添えた。

 

「うん」

 

 千尋はその手を見つめた。

 

「本当なんだ……」

 

「本当よ」

 

 和江は静かに笑った。

 

「連隊が帰還してから、妊娠していることがわかったの」

 

「五月頃?」

 

「そう。帰ってきて、しばらくしてからね」

 

 和江は少し間を置いた。

 

「今は軍務を外れて、休ませてもらってる」

 

「身体は大丈夫なの?」

 

「大丈夫よ。軍の医師にも診てもらってるし、今のところ問題ないって」

 

 千尋は少し安心した。

 

 ただ、次に何を尋ねればいいのかわからなかった。

 

 石井から聞かされた、もう一つの話が頭から離れなかった。

 

 南井。

 

 姉の恋人だった人。

 

 日本では中学校の頃から付き合っていたが、高校一年生の冬には別れていたはずだった。

 

 しかし、この世界では違った。

 

 二人は別れず、そのまま交際を続けていたという。

 

 そして、南井は三か月前の魔族の大攻勢で戦死した。

 

 千尋は姉の顔を見つめた。

 

「……南井さんのこと、石井さんから聞いたよ」

 

 和江の表情が少し変わった。

 

「そっか」

 

 短く答えた。

 

 千尋は言葉を探した。

 

「……ごめんね」

 

 和江は首を振った。

 

「どうして千尋が謝るの?」

 

「だって……」

 

「千尋は何も悪くないでしょう」

 

 和江は静かに答えた。

 

 しばらくして、少し寂しそうに笑った。

 

「日本では、私たち別れたんだってね」

 

 千尋は驚いた。

 

「知ってるの?」

 

「石井軍曹から聞いたわ」

 

 和江は自分のお腹へ目を落とした。

 

「こっちでは、別れなかったの」

 

 千尋は黙って聞いていた。

 

「召喚された時は、お互いに何が何だかわからなかった。日本へ帰ることばかり考えてたし、軍隊に入るのも嫌だった」

 

 和江はゆっくりと続けた。

 

「でも、南井がいてくれたから、何とかやってこられたのよ」

 

 窓の外から、遠くの鐘の音が聞こえてきた。

 

「同じ連隊だったから、顔を合わせる機会もあったしね。前線に行く時は怖かったけど、帰ったらまた会えるって思ってた」

 

 和江はそこで言葉を切った。

 

 千尋は姉の手を握った。

 

「……お姉ちゃん」

 

「うん」

 

 和江は小さくうなずいた。

 

「三か月前の戦闘で、死んじゃった」

 

 その声は落ち着いていた。

 

 だが、千尋には姉が無理に感情を抑えていることがわかった。

 

 和江は少しの間、窓の外を見つめていた。

 

「その時は、赤ちゃんがいるなんて知らなかったのよ」

 

 静かな声だった。

 

「帰ってきてから、わかったの」

 

 千尋は何も言えなかった。

 

「だから、南井には知らせられなかった」

 

 和江はお腹に添えた手を見つめた。

 

「……知ったら、きっと喜んだと思うんだけどね」

 

 千尋は姉の隣へ椅子を寄せた。

 

 そして、その手を両手で包んだ。

 

「お姉ちゃん……」

 

 和江は千尋を見た。

 

「そんな顔しないで」

 

 少し笑った。

 

「私は大丈夫よ」

 

 千尋は首を振った。

 

「大丈夫じゃないでしょう」

 

 和江は答えなかった。

 

「お姉ちゃん、昔からそうだったよね。何でも大丈夫って言うんだから」

 

 千尋の声が少し震えていた。

 

 和江は妹の顔を見つめた。

 

 そして、ふっと表情を緩めた。

 

「……そうね」

 

 千尋は姉の手を握り直した。

 

「私には、無理して大丈夫って言わなくていいよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、和江の目に涙が浮かんだ。

 

 和江は何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。

 

 千尋はそっと姉を抱きしめた。

 

 今度は、和江が千尋の肩に顔を埋めた。

 

 しばらく、二人は何も話さなかった。

 

 窓の外では風が木々を揺らし、廊下の向こうから兵士たちの足音がかすかに聞こえていた。

 

 和江が泣き止むまで、千尋はずっと姉の背中をさすっていた。

 

*

 

 やがて、和江は顔を上げた。

 

「ごめんね、千尋」

 

「謝らないでよ」

 

 千尋は笑った。

 

「姉妹なんだから」

 

「……そうね」

 

 和江も笑った。

 

 目元にはまだ涙が残っていたが、先ほどより表情は柔らかくなっていた。

 

 千尋は少し迷ってから尋ねた。

 

「赤ちゃん、産むんだよね?」

 

「もちろん」

 

 和江は迷わず答えた。

 

「南井が残してくれた子供だからね」

 

 その言葉には、はっきりとした意志が感じられた。

 

 千尋はうなずいた。

 

「私、叔母さんになるんだ」

 

 和江は少し驚いた顔をした。

 

 それから、声を出して笑った。

 

「そうね。千尋も叔母さんになるのね」

 

「何だか変な感じ」

 

「私だって、まだ母親になる実感があまりないもの」

 

 和江はお腹へ目を向けた。

 

「でも、少しずつ考えるようになったわ。この子が生まれたら、どんな生活になるんだろうって」

 

「お姉ちゃん、軍隊はどうするの?」

 

「今は休んでるけど、所属は第3歩兵中隊のままよ。出産後のことは、身体の様子を見ながら決めることになると思う」

 

「また戦場へ行くの?」

 

 千尋が不安そうに尋ねた。

 

 和江は少し考えた。

 

「いずれはね。まだ軍務期間も残っているし」

 

「……そっか」

 

「でも、すぐに前線へ戻るわけじゃないわ。帝国って子供の保護はすごく充実してるのよ。駐屯地の門の前には軍の託児所もあるからね。しばらくは子供のことを優先できるようになるみたい」

 

 千尋はうなずいた。

 

 姉の言葉を聞きながら、改めて自分たちが日本とは違う世界にいることを感じていた。

 

 妊娠していても、和江は帝国軍の兵士なのだ。

 

 日本なら、姉が銃を持って戦場へ行くことなど考えられなかった。

 

 それがこの世界では、三年間も軍務を続けてきたという。

 

「……お姉ちゃん、すごいね」

 

 千尋がつぶやいた。

 

「何が?」

 

「だって、三年間も軍隊で頑張ってきたんでしょう」

 

 和江は少し困ったように笑った。

 

「そんなに立派なものじゃないわよ。怖いこともあったし、嫌になったことも何度もあるから」

 

 それから、千尋の顔を見た。

 

「千尋だって、もう訓練を受けてるんでしょう?」

 

「うん。毎日、帝国共通語と身体訓練」

 

「大変でしょう」

 

「結構きついよ」

 

 千尋は笑った。

 

「でも、何とかやってる」

 

「そっか」

 

 和江は嬉しそうにうなずいた。

 

「千尋は昔から真面目だったものね」

 

「お姉ちゃんまで、そんなこと言う」

 

「だって本当でしょう」

 

 二人は顔を見合わせて笑った。

 

*

 

 その後も、姉妹の話は尽きなかった。

 

 和江はベルノでの生活について話した。

 

 最初は帝国共通語がまったく理解できなかったこと。現地の兵士たちと一緒に暮らし始めた頃、習慣の違いに驚いたこと。訓練が厳しく、何度も弱音を吐いたこと。

 

 千尋も、この十日ほどの出来事を話した。

 

 狼族のエル・マルカ軍曹のこと。

 

 男女混合の兵舎や共用シャワーに、みんなが驚いたこと。

 

 水野先生が持久走で苦労していること。

 

 高橋が自転車のおかげで、比較的余裕をもって走っていること。

 

 そんな話を聞いて、和江は楽しそうに笑った。

 

「そうそう。最初はみんな同じなのよね」

 

「お姉ちゃんも?」

 

「もちろん。私だって最初は大騒ぎしたわよ」

 

 和江は笑いながら茶を飲んだ。

 

「でも、不思議と慣れていくのよ。生活しているうちに、それが当たり前になってくるから」

 

「リースさんも同じこと言ってた」

 

「ああ、リースね。第19期の子でしょう?」

 

「知ってるの?」

 

「同じ連隊だもの。顔くらいは知ってるわ」

 

 和江は少し考えた。

 

「石井軍曹はどう?」

 

「優しい人だよ」

 

「そうでしょう」

 

 和江はうなずいた。

 

「石井軍曹には私も何度かお世話になってるの。面倒見がいい人だから、困ったことがあれば相談するといいわ」

 

「うん」

 

 千尋は茶を一口飲んだ。

 

 最初は少し変わった味だと思ったが、話しているうちに気にならなくなっていた。

 

 窓の外には夕方の光が差し込み始めていた。

 

 和江は時計を見た。

 

「そろそろ戻る時間かな」

 

 千尋も顔を上げた。

 

 思っていた以上に長い時間が過ぎていた。

 

「……もう?」

 

「また会えるわよ」

 

 和江は笑った。

 

「同じベルノにいるんだから」

 

 千尋は少し考えた。

 

「お姉ちゃん、また会いに来てもいい?」

 

「もちろん」

 

 和江はうなずいた。

 

「ただ、千尋は今、訓練中だからね。外出や面会には許可が必要でしょう。石井軍曹や教官に相談してみて」

 

「うん」

 

「私の方も、身体の調子がよければ会いに来られるから」

 

 千尋は安心したように笑った。

 

「よかった」

 

 和江は席を立った。

 

 千尋も立ち上がった。

 

 二人は、もう一度抱き合った。

 

「千尋」

 

「何?」

 

「来てくれて、ありがとう」

 

 千尋は姉の背中に腕を回した。

 

「私の方こそ、会えてよかった」

 

 和江は少しだけ強く妹を抱きしめた。

 

「……元気でいてね」

 

「お姉ちゃんも」

 

「訓練、頑張るのよ」

 

「うん」

 

 千尋はうなずいた。

 

「お姉ちゃんも、身体に気をつけてね」

 

「わかってる」

 

 二人は身体を離した。

 

 和江は千尋の髪を軽く撫でた。

 

 日本にいた頃と同じ仕草だった。

 

 千尋は少し照れたように笑った。

 

「もう子供じゃないんだから」

 

「私にとっては、いつまでも妹よ」

 

 和江も笑った。

 

*

 

 兵舎へ戻る頃には、夕食の時間が近づいていた。

 

 石畳の道には長い影が伸び、訓練を終えた兵士たちが食堂へ向かって歩いていた。

 

 千尋は一人で兵舎の廊下を進んだ。

 

 心の中には、さまざまな感情が残っていた。

 

 姉に会えた嬉しさ。この世界で姉が三年間も生きていたという不思議な感覚。南井の戦死を聞いた時の悲しさ。そして、生まれてくる子供への期待。

 

 どれも、簡単には整理できなかった。

 

 それでも、召喚されてからずっと胸の奥にあった不安は、少し軽くなっていた。

 

 兵舎の扉を開くと、高橋と川崎が荷物を整理していた。

 

 水野も自分の寝台に腰を下ろしていた。

 

 千尋の姿を見ると、最初に水野が顔を上げた。

 

「千尋さん、お帰りなさい」

 

「ただいま戻りました」

 

 水野は柔らかく微笑んだ。

 

「お姉さんには会えた?」

 

「はい!」

 

 千尋は大きくうなずいた。

 

「会えました。元気でした」

 

「それはよかったわね」

 

 水野は安心したように笑った。

 

 高橋も顔を上げた。

 

「委員長、よかったな」

 

「うん。ありがとう」

 

 川崎が尋ねた。

 

「お姉さん、軍人なんだよな?」

 

「うん。第3歩兵中隊の上等兵だって」

 

「すごいな。もう三年もこっちにいるんだろ?」

 

「そうだね」

 

 千尋は少し笑った。

 

「いろいろ話を聞かせてもらったよ」

 

 水野は千尋の表情を見ていた。

 

 再会できた喜びだけではない、複雑なものがそこにあることに気づいていた。

 

 しかし、あえて詳しく尋ねることはしなかった。

 

「千尋さん、夕食まではまだ少し時間があるわ。疲れていたら休んでもいいのよ」

 

「ありがとうございます」

 

 千尋はうなずいた。

 

「でも、大丈夫です」

 

 そして、自分の寝台へ向かった。

 

 上段に腰を下ろし、窓の外を眺めた。

 

 夕暮れのベルノの空は、日本で見ていた空と変わらない色をしていた。

 

 その下に、姉が暮らしている。

 

 これまで知らなかった三年間を生き、戦争を経験し、大切な人を失い、それでも子供を産んで育てようとしている。

 

 日本には、何も知らずに暮らしているもう一人の姉がいる。

 

 だが、今日会った和江も、間違いなく自分の姉だった。

 

 千尋は小さく息を吐いた。

 

 自分も、ここで生きていかなければならない。

 

 姉と同じように。

 

 これから何が起こるのかはわからない。

 

 いずれ戦場へ行くことになるかもしれない。

 

 それでも、今は少なくとも、この世界に家族がいる。

 

 そのことが、千尋には何よりも心強かった。

 

 窓の外から夕食を知らせる鐘の音が響いた。

 

 千尋は立ち上がった。

 

「みんな、食堂へ行こう」

 

 いつもの委員長らしい声だった。

 

 高橋が顔を上げ、川崎も寝台から立ち上がった。

 

 水野はそんな千尋の姿を見て、静かに微笑んでいた。

 

*

 

 訓練開始から二週間ほどが過ぎた頃、水野の持久走にも少しずつ変化が現れ始めた。

 

 最初の数日は途中で歩いてしまうことが多かったが、少しずつ走れる距離が伸びてきたのだ。その日の夕方、訓練を終えた水野が兵舎へ戻ってきた時、高橋は自分の寝台で帝国共通語のノートを見直していた。

 

「……高橋君、元気ねえ」

 

 水野はそう言いながら、向かい側の寝台に腰を下ろした。

 

 額にはまだ汗が残り、丸眼鏡が少しずり落ちていた。

 

「先生、今日も疲れました?」

 

「もう、脚が重くて……」

 

 水野は苦笑した。

 

「でも、今日は最後まで走れたのよ」

 

「見てました。すごいじゃないですか」

 

「ありがとう。でも、高橋君はまだ余裕がありそうだったわね」

 

「走る方は何とか。でも、腕立て伏せはきつかったですよ」

 

 その会話を聞いていた川崎が、上段の寝台から顔を出した。

 

「先生、高橋は自転車で鍛えてますから。俺なんか、毎日筋肉痛ですよ」

 

 高橋の上段からは伊藤千尋も顔を出した。

 

「川崎君、最初の日からずっと同じこと言ってるよね」

 

「だって、ずっと筋肉痛なんだからしょうがないだろ」

 

 千尋は呆れたように笑った。

 

 水野も笑おうとしたが、疲れていたのか、そのまま寝台へ横になってしまった。

 

「先生、今日はもう寝ます?」

 

 千尋が心配そうに尋ねた。

 

「夕食まで、ちょっと休ませてもらうわね」

 

 水野は毛布を枕代わりにして目を閉じた。

 

 高橋はその姿を見ながら、少しずつ変わっていく自分たちの生活を感じていた。

 

 最初は男女混合の兵舎に驚き、共用のシャワーに大騒ぎしていた。

 

 今でも抵抗がなくなったわけではない。

 

 だが、毎日が忙しく、訓練を終えて戻ってくれば誰もが疲れている。ほかの生徒が何をしているかなど、いちいち気にしている余裕もなくなってきていた。

 

 リースが言っていた「慣れる」というのは、こういうことなのかもしれない。

 

*

 

 七月も終わりに近づいた頃、帝国共通語の授業で簡単な試験が行われた。

 

 これまで習った文字の読み書きと、短い文章の理解、それに教官との簡単な会話を確認するものだった。

 

 高橋は思っていた以上によくできた。

 

 黒板に書かれた文章を読み、教官の質問に帝国共通語で答える。発音を直されることはあったが、質問の意味はほとんど理解できた。

 

 水野も成績はよかった。さすがに元教師だけあって、単語を覚えるだけでなく、文章の構造を理解するのが早かったらしい。

 

 試験の結果が返された日の午後、高梨は講堂の前で生徒たちを見渡した。

 

「皆さん、一か月間お疲れさまでした。最初は文字も読めなかったのに、今では簡単な会話ができる人も増えてきました」

 

 高梨の横には石井軍曹が立っていた。石井は生徒たちの成績表に目を通していたが、何人かの名前を確認すると、満足そうにうなずいた。

 

「高橋と水野先生は、かなり成績がいいな」

 

「ありがとうございます」

 

 高橋が答えると、石井は笑った。

 

「まあ、まだ一か月だからな。現地の兵士と普通に会話するには、もっと勉強しないといけないぞ」

 

「はい」

 

「それと、言葉を覚えるのが遅いからといって心配する必要はない。大事なのは、毎日少しずつ覚えることだ」

 

 石井はそう言ってから、後方の席へ視線を向けた。

 

「ただし、授業を聞いていなかった連中は別だぞ」

 

 佐々木グループの四人が、気まずそうに顔を背けた。

 

 この一か月、彼らはまともに授業を受けようとしなかった。ノートを取らず、指名されても答えられず、何度も教官に注意されていた。当然ながら、今回の試験結果も芳しくなかった。

 

 石井は成績表を机に置いた。

 

「八月からは現地の新兵と一緒に訓練する。今までのように何でも日本語で説明してもらえると思うなよ」

 

 後方の席では、佐々木が不満そうに腕を組んでいた。

 

 試験が終わって講堂を出ると、高橋は川崎と一緒に食堂へ向かった。

 

 昼の日差しが石畳を照らし、建物の間には虫の声が響いていた。訓練場の方からは、午後の準備をしている兵士たちの号令が聞こえてくる。

 

「高橋、結構いい点だったな」

 

 川崎が言った。

 

「水野先生の方がよかったよ」

 

「先生は元々勉強を教える人だからな。でも、お前も相当できてるだろ」

 

 高橋は苦笑した。

 

「まだ簡単なことしか話せないよ」

 

 そんな話をしていると、後ろから声がした。

 

「おい、高橋」

 

 振り返ると、佐々木健が立っていた。

 

 その隣には中村拓也がおり、少し後ろに加藤真由と吉田麻衣が並んでいる。

 

 佐々木グループの四人だった。

 

 佐々木は両手をズボンのポケットに入れ、面白くなさそうな顔で高橋を見ていた。

 

「お前、ずいぶん勉強頑張ってるじゃねえか」

 

「……まあ、言葉がわからないと困るから」

 

「先生に褒められて嬉しいか?」

 

 佐々木が薄く笑った。

 

 中村も横から口を挟んだ。

 

「高橋って、昔からそうだよな。先生の言うことは真面目に聞いて、言われたことは全部やってさ」

 

 加藤が腕を組み、少し馬鹿にしたような口調で言った。

 

「こっちに来てまで優等生やってるんだ」

 

 高橋は返事に困った。

 

 学校にいた頃から、佐々木グループはこうして気に入らない相手に絡むことがあった。何か言い返せば、かえって面倒になるのはわかっている。

 

「別に、そういうわけじゃないけど」

 

「へえ。じゃあ、何でそんなに頑張ってんだよ」

 

 佐々木は一歩近づいた。

 

「俺たち、勝手にこんな世界に連れてこられたんだぞ。何で軍隊の連中の言うことを、そんなに真面目に聞かなきゃなんねえんだよ」

 

 その言葉に、高橋は少し考えた。

 

「……でも、言葉がわからないと、訓練だってできないだろ」

 

「だから?」

 

「これからここで生活するんだから、覚えた方がいいと思うけど」

 

 佐々木は鼻で笑った。

 

「本当にいい子ちゃんだな、お前」

 

 中村も笑った。

 

「そのうち教官に気に入られて、偉くなっちゃうんじゃねえの?」

 

 加藤が面白がるように続けた。

 

「高橋なら、軍隊でも真面目にやっていけそうだよね」

 

 吉田は黙って三人の話を聞いていたが、周囲を通り過ぎる生徒たちの視線が気になるのか、何度か廊下を見回していた。

 

 高橋は視線を落とした。

 

 別に、軍隊に入りたかったわけではない。戦争へ行きたいわけでもない。ただ、ここで生活していくために、できることをやっているだけだった。

 

「もういいだろ、佐々木」

 

 川崎が一歩前に出た。

 

「高橋がちゃんと授業受けてただけじゃないか。何が気に入らないんだよ」

 

 佐々木が川崎に顔を向けた。

 

「お前には聞いてねえよ」

 

「俺は隣に座ってたんだから、関係あるだろ」

 

 中村が笑った。

 

「何だよ。川崎まで優等生の味方か?」

 

「そういう話じゃないだろ」

 

 川崎は顔をしかめた。

 

 周囲の空気が少し険しくなった。

 

 高橋は、できればこれ以上騒ぎを大きくしたくなかった。ここは日本の学校ではない。軍の訓練施設で、教官たちも近くにいる。

 

 その時だった。

 

「そこ、何をしているんですか?」

 

 背後から高梨の声がした。

 

 佐々木たちが振り返る。

 

 高梨伍長は数歩離れたところに立っていた。その後ろには、巡回中の現地教官の姿もあった。

 

「別に。ちょっと話してただけですよ」

 

 佐々木が答えた。

 

 高梨は四人を順番に見た。

 

「佐々木君、中村君、加藤さん、吉田さん。午後の集合時間は覚えていますね?」

 

「はい」

 

 吉田が先に答えた。

 

 中村は面倒くさそうにうなずき、加藤も腕を組んだまま返事をした。

 

「それなら、早く食堂へ行きなさい。午後の訓練に遅れますよ」

 

 佐々木は舌打ちした。

 

「わかりましたよ」

 

 四人は高橋たちに背を向け、廊下を歩いていった。

 

 高梨はその後ろ姿を見送り、完全に離れたことを確かめてから高橋と川崎に顔を向けた。

 

「大丈夫ですか?」

 

「はい」

 

 高橋が答えた。

 

「何かあったら、すぐ教官に言ってくださいね。ここは学校ではありませんから」

 

「わかりました」

 

 高梨はうなずき、巡回を続けていった。

 

 川崎は佐々木グループが歩いていった方向を見た。

 

「あいつら、まだ学校にいるつもりなんだな」

 

「そうかもしれない」

 

 高橋は小さく息を吐いた。

 

 訓練施設には教官や当直兵が頻繁に行き来している。日本の学校にいた頃のように、気に入らない相手を人目のつかない場所へ呼び出すことは難しい。

 

 暴力沙汰になれば、今度は学校の先生ではなく、軍の教官が相手になる。

 

 佐々木たちも、そのことだけは理解しているようだった。

 

*

 

 八月になると、訓練施設の雰囲気が大きく変わった。

 

 現地住民の新兵が合流してきたのである。

 

 朝の訓練場には、日本人とは違う顔立ちの若者たちが集まっていた。人間族の男女に混じり、長く尖った耳を持つエルフの姿も見える。

 

 高橋は少し離れたところから、その集団を眺めていた。

 

 アウレリア大尉や訓練施設にいるエルフの兵士たちとは何度か顔を合わせていたが、自分たちと同じ新兵として並んでいるエルフを見るのは初めてだった。

 

 服装は高橋たちと同じ、支給された訓練用の衣服だった。

 

 体格もさまざまで、背の高い者もいれば小柄な者もいる。緊張している者も多く、中には高橋たち日本人を珍しそうに眺めている者もいた。

 

「向こうも俺たちのこと見てるな」

 

 川崎が小声で言った。

 

「そうだね」

 

「日本人って、珍しいのかな」

 

「そりゃ珍しいだろ。毎年突然現れるんだから」

 

 近くにいた山田直樹は、現地新兵の中にいるエルフたちを熱心に観察していた。

 

「本当にいろんな人がいるんだな」

 

 井上翔太がうなずいた。

 

「帝国は人間だけの国じゃないって聞いてたけど、こうして見ると実感するな」

 

 やがて高梨が前に出た。

 

「皆さん、今日から現地の新兵と一緒に訓練を受けてもらいます」

 

 その声に、第20期の生徒たちが静かになった。

 

「午前中は今まで通り、皆さんは帝国共通語の勉強です。現地の新兵たちは数学や理科などの座学を受けます。午後からは全員一緒に身体訓練や軍事訓練を行います」

 

 高梨は現地教官と短く言葉を交わした。

 

 その間、高橋は隣に並んでいる現地新兵の会話を聞こうとしていた。

 

 何かを話していることはわかる。聞き覚えのある単語も、時々混じっていた。

 

 しかし、話す速度が速く、ほとんど理解できなかった。

 

 この一か月、毎日勉強してきたつもりだった。

 

 それでも、実際の会話となるとまだまだ難しいらしい。

 

 高橋は、自分の帝国共通語がようやく出発点に立った程度なのだと感じた。

 

 その日の午後から、合同訓練が始まった。

 

 整列、行進、基本的な身体訓練。

 

 内容はそれまでと大きく変わらなかったが、現地新兵たちが加わったことで、教官の指示は原則として帝国共通語になった。

 

 高梨は必要に応じて通訳したが、簡単な号令については、まず教官の言葉だけで動くよう求められた。

 

 高橋は現地新兵たちの動きを見ながら、何とかついていった。

 

 右向け右。左向け左。整列。休め。

 

 初めは間違える者も多かったが、何度も繰り返すうちに、短い号令なら理解できるようになっていった。

 

*

 

 現地新兵の合流に合わせて、兵舎の寝台配置も変更された。

 

 これまで高橋の上段を使っていた伊藤千尋は、別の寝台へ移ることになった。川崎も同様だったが、二人とも同じ兵舎内にいるため、顔を合わせる機会が減るわけではなかった。

 

 高橋は相変わらず下段の寝台だった。

 

 その上段に、新しい名前札が取り付けられていた。

 

 帝国共通語で書かれた文字だったが、高橋は一か月の勉強のおかげで、何とか読むことができた。

 

「……サク?」

 

 声に出して読むと、後ろから返事があった。

 

 振り返ると、ひょろりとした若い男性が立っていた。

 

 人間族だった。身長は百六十五センチほど。細身の身体に、黒髪と褐色の肌。高橋と同じ訓練用の衣服を着て、荷物を抱えている。

 

 その男性が自分を指差した。

 

「サク」

 

 高橋はうなずいた。

 

「サク。僕は高橋」

 

 覚えたばかりの帝国共通語を使い、ゆっくりと自己紹介した。

 

 サクは高橋の発音を聞いて、少し笑った。

 

 そして、高橋の名前を繰り返した。

 

「タカハシ」

 

「そう。高橋」

 

 二人は顔を見合わせて笑った。

 

 サクは荷物を上段へ置くと、高橋に何かを尋ねた。

 

 高橋は首をかしげた。

 

 聞き取れない。

 

 サクはもう一度、今度は少しゆっくりと話した。

 

 それでも意味はわからなかった。

 

「ごめん。まだ言葉、少ししかわからない」

 

 高橋は知っている単語を並べて答えた。

 

 サクはしばらく考えてから、手に持っていた荷物を指差し、寝台の上を示した。

 

 どうやら、荷物を置く場所について尋ねていたらしい。

 

「ああ、荷物?」

 

 高橋も寝台の下を指差した。

 

 サクは納得したようにうなずいた。

 

 言葉が十分に通じなくても、身振りを交えれば何とかなることもあるらしい。

 

 高橋は少し安心した。

 

 一方、向かい側の寝台では、水野が新しい同室者と話していた。

 

 水野の上段に入ったのは、リュージュという女性のエルフだった。

 

 金髪で身長百五十五センチほどの小柄な女性だった。長く尖った耳を持っていたが、表情や仕草は日本の若い女性と変わらなかった。

 

 リュージュは水野の荷物を見て、何かを尋ねていた。

 

「ええと……これは、私の荷物です」

 

 水野は覚えた帝国共通語を使い、ゆっくりと答えた。

 

 リュージュはうなずき、今度は上段を指差した。

 

「あ、あなたが上ですね」

 

 水野も寝台を指差した。

 

「私は下。あなたは上」

 

 リュージュは水野の発音を聞いて、柔らかく笑った。

 

 そして、同じ言葉をゆっくりと繰り返した。

 

 水野は何度かその発音を真似した。

 

「……難しいですね」

 

 思わず日本語が出た。

 

 リュージュには意味がわからなかったが、水野が困った顔をしているのを見て、楽しそうに笑った。

 

 高橋はその様子を眺めながら、自分の寝台に腰を下ろした。

 

 これまでは周囲にいるのが日本人ばかりだったため、わからないことがあればすぐ日本語で聞くことができた。

 

 これからは違う。

 

 隣で暮らす相手が、日本語を一言も理解できないのだ。

 

 高橋は上段で荷物を整理しているサクを見上げた。

 

 少しずつでも、言葉を覚えなければならない。そうしなければ、同じ部屋で暮らしていても会話ができないのだから。

 

 その晩、兵舎では日本語と帝国共通語が入り混じっていた。

 

 日本人同士では日本語で話し、現地新兵が加われば片言の帝国共通語になる。単語がわからなくなると身振り手振りになり、それでも伝わらなければ、互いに困ったような顔をして笑った。

 

 高橋は自分の寝台に横になり、頭上から聞こえてくるサクの話し声を聞いていた。

 

 同じ部屋にいるのに、言葉がわからない。

 

 だが、そのことが以前ほど怖くはなかった。

 

 むしろ、明日になればもう少し話せるようになるかもしれないと思っていた。

 

*

 

 現地新兵との合同訓練が始まって数日が過ぎた。

 

 訓練施設では、それまで日本語で行われていた説明が次第に少なくなり、帝国共通語による指示が中心になり始めていた。高梨伍長は必要に応じて通訳してくれたが、簡単な号令については、できるだけ自分で理解するよう求められていた。

 

 その日の午後も、訓練場では整列と行進の訓練が行われていた。

 

 八月の日差しはまだ強く、固く踏み締められた地面からは熱気が立ち上っていた。風が吹くたびに細かな砂埃が舞い、訓練場の端に並ぶ木々の葉が乾いた音を立てていた。

 

 教官の号令が響く。

 

 高橋亘一は、その言葉に合わせて足を動かした。

 

 右向け右。左向け左。前進。停止。

 

 七月には何を言われているのかさっぱりわからなかったが、今では繰り返し使われる号令なら、ほとんど理解できるようになっていた。

 

 隣にはサクがいた。

 

 八月から同じ兵舎で生活することになった現地新兵で、黒髪に褐色の肌を持つ細身の青年だった。最初は言葉が通じず、お互いに身振り手振りで会話していたが、数日もすると短い言葉を交わせるようになっていた。

 

 高橋が動作を間違えると、サクが小声で教えてくれることもあった。その反対に、高橋が日本人の新兵に教官の号令を説明することも増えていた。

 

 もっとも、すべての生徒が順調に訓練についていけているわけではなかった。

 

 少し離れた列では、佐々木健たちが教官に注意されていた。

 

「何だよ、またかよ……」

 

 佐々木は面倒くさそうに顔をしかめた。

 

 隣には中村拓也がおり、その後ろには加藤真由と吉田麻衣が並んでいる。

 

 四人とも帝国共通語の習得が遅れていた。七月の授業中から私語や居眠りが多く、まともにノートを取っていなかったため、教官の簡単な指示さえ理解できないことがあった。

 

 現地教官が佐々木に何かを言った。

 

「……何だって?」

 

 佐々木が中村を見た。

 

「知らねえよ」

 

 中村も首をかしげた。

 

 教官はもう一度号令を繰り返した。

 

 しかし、佐々木たちは動かなかった。

 

 とうとう教官が自分で動作を示し、やり直させることになった。

 

「最初からそうやりゃいいんだよ」

 

 佐々木は小さく舌打ちした。

 

 教官には日本語がわからない。それをいいことに、四人は時折こうして不満を口にしていた。

 

 高橋は少し離れたところからその様子を見ていたが、何も言わなかった。

 

 学校にいた頃から、佐々木グループとはあまり関わらないようにしていた。わざわざ声をかけて、面倒なことになる必要もないと思っていた。

 

*

 

 訓練が終わると、新兵たちは訓練場の端にある給水設備へ向かった。

 

 石造りの低い建物の横に大きな水槽が設けられ、いくつもの蛇口が並んでいる。訓練を終えた新兵たちは順番に水を飲み、水筒を満たしていた。

 

 水場の周囲には小さな木立があり、午後の強い日差しを遮っていた。

 

 高橋も川崎とサクと一緒に、水場へ向かった。

 

 川崎は水筒を持ったまま、大きく息を吐いた。

 

「いやあ、疲れた。行進だけでも結構疲れるんだな」

 

「ずっと足を揃えて歩くからね」

 

 高橋が答えた。

 

「それに、止まったり向きを変えたりするのが面倒なんだよ。普通に歩かせてくれればいいのに」

 

 川崎が水を飲んでいると、サクが帝国共通語で何かを尋ねた。

 

 高橋は少し考えた。

 

 どうやら、川崎が何を話しているのか気になったらしい。

 

「川崎は、行進の訓練が疲れると言っている」

 

 高橋は覚えた単語を組み合わせ、ゆっくりと説明した。

 

 サクは笑った。

 

「みんな疲れている」

 

「そうだね」

 

 高橋もうなずいた。

 

 短い会話だったが、自分の言いたいことが伝わったのが嬉しかった。

 

 それを見た川崎が感心したように言った。

 

「お前、もう結構話せるんだな」

 

「まだ簡単なことだけだよ」

 

「俺なんか、言われたことを聞き取るだけでも大変なのに」

 

 川崎は苦笑しながら水筒の蓋を閉めた。

 

 その時、背後から声がした。

 

「おい、高橋」

 

 聞き覚えのある声だった。

 

 振り返ると、佐々木健が立っていた。

 

 その後ろには中村拓也と加藤、吉田もいた。四人とも訓練を終えたばかりで、汗をかいた運動着を着ていた。

 

 佐々木は高橋とサクを交互に見た。

 

「お前、ずいぶん楽しそうじゃねえか」

 

「……何が?」

 

 高橋が答えた。

 

「さっきから、そいつと何を話してたんだよ」

 

「別に、普通に話してただけだけど」

 

「へえ。もうこっちの奴らと仲良くなったのか」

 

 佐々木は薄く笑った。

 

 中村も横から口を挟んだ。

 

「高橋って、こういうの得意だよな。先生とか教官とかに気に入られるの」

 

 高橋は何も答えなかった。

 

 七月の語学試験でも、似たようなことを言われた。

 

 どうやら佐々木たちは、高橋が授業でよい成績を取っていることを面白く思っていないらしい。

 

「別に、気に入られようとしてるわけじゃないよ」

 

 高橋は静かに答えた。

 

「言葉がわからないと困るから、勉強してるだけだし」

 

「だから、そういうところが気に入らねえんだよ」

 

 佐々木は一歩近づいた。

 

「学校にいた頃からそうだったよな。いつも真面目な顔して、先生の言うことばっかり聞いてよ」

 

 高橋は少し視線を落とした。

 

 学校にいた頃から、佐々木は何かにつけて絡んできた。

 

 高橋が特別に優等生だったわけではない。授業を真面目に受け、できるだけ面倒事を避けていただけだった。

 

 だが、佐々木にとっては、そうした態度自体が気に入らないらしかった。

 

「こっちに来てまで、いい子ちゃんやってんのか?」

 

 佐々木が続けた。

 

 加藤も不満そうに腕を組んだ。

 

「本当にさ、何でみんなあんなに真面目にやってんの? 勝手にこんな世界に来たのに」

 

 吉田は何も言わず、加藤の隣に立っていた。

 

「俺たちが頼んで軍隊に入ったわけじゃねえだろ」

 

 中村が言った。

 

「それなのに、毎日朝早く起こされて、勉強だの訓練だのって。馬鹿らしくならねえのか?」

 

 高橋は少し考えた。

 

「……嫌だとは思うよ」

 

 その答えに、佐々木が眉を上げた。

 

「だったら何で真面目にやってんだよ」

 

「やらないと、言葉も覚えられないし……」

 

 高橋は言葉を探した。

 

「それに、戦場に行くことになるんだったら、何も知らないままじゃ困るだろ」

 

 佐々木は鼻で笑った。

 

「お前、本当に兵隊になるつもりなんだな」

 

「なるつもりって……もう軍隊に入ってるじゃないか」

 

「それが気に入らねえって言ってんだよ」

 

 佐々木の声が少し大きくなった。

 

 周囲にいた新兵たちが、こちらを振り返った。

 

 高橋は困った。

 

 ただでさえ日本語で話しているため、現地新兵たちには何を言っているのかわからない。

 

 こんなところで騒ぎを起こせば、教官に注意されるだろう。

 

「佐々木、もういいだろ」

 

 川崎が口を挟んだ。

 

「高橋が何を勉強しようが、別にいいじゃないか」

 

「お前には関係ねえだろ」

 

 佐々木が川崎を睨んだ。

 

「いつも高橋と一緒にいるからって、いちいち口出すなよ」

 

 川崎は顔をしかめた。

 

 しかし、言い返そうとしたところで、高橋が小さく首を振った。

 

 これ以上揉めたくなかった。

 

*

 

 その時、サクが高橋の肩に軽く手を置いた。

 

 高橋が顔を向ける。

 

 サクは佐々木たちを見ていた。

 

 日本語がわからないため、何を話しているのかは理解できていないはずだった。

 

 しかし、佐々木の険しい表情や、高橋が困っている様子から、普通の会話ではないことに気づいたらしい。

 

 サクが帝国共通語で尋ねた。

 

「何か問題か?」

 

 高橋は少し迷った。

 

「……大丈夫」

 

 そう答えたが、サクは納得していないようだった。

 

 佐々木が顔をしかめた。

 

「何だよ、こいつ。何て言った?」

 

 高橋が説明しようとすると、中村が横から笑った。

 

「ほら、また通訳かよ。高橋様は偉いねえ」

 

 佐々木はサクの方を向いた。

 

「お前、関係ねえだろ」

 

 もちろん、日本語は通じなかった。

 

 サクは佐々木の顔を見ていた。

 

 細身ではあったが、佐々木が近づいても怯む様子はなかった。ただ、何か言い返したり、威嚇したりもしなかった。

 

 高橋は慌てて帝国共通語で説明した。

 

「彼らは、日本で同じ学校にいた人たちだ」

 

 サクがうなずいた。

 

「友人か?」

 

 高橋は返事に困った。

 

 同じ学校だったことは間違いない。

 

 だが、友人というわけではなかった。

 

「……あまり仲はよくない」

 

 正直に答えた。

 

 サクは高橋の表情を確かめるように見た。そして、佐々木たちへ視線を戻した。

 

 その間も、佐々木は不機嫌そうだった。

 

「おい、高橋。今、何て言った?」

 

「同じ学校だったって説明しただけだよ」

 

「それだけか?」

 

「うん」

 

「本当かよ」

 

 佐々木は高橋に近づき、肩を小突いた。

 

「お前、俺たちの悪口でも言ってんじゃねえだろうな」

 

「そんなこと言ってないよ」

 

 高橋は一歩下がった。

 

 その動きを見て、サクが水筒を置いた。

 

 そして、高橋と佐々木の間に立った。

 

 何かを怒鳴るわけでもなく、ただ二人の間に入っただけだった。

 

 しかし、その態度は明確だった。

 

 佐々木はサクを見た。

 

「……何だよ」

 

 サクは落ち着いた声で何かを言った。

 

 高橋には、その意味が理解できた。

 

「ここでは喧嘩をするな」

 

 短い言葉だった。

 

 高橋は少し驚いた。

 

 サクは高橋を守ろうとしたというより、目の前で起きそうになっている揉め事を止めようとしているようだった。

 

 それでも、高橋にはありがたかった。

 

 佐々木はサクの顔を睨んだ。

 

「何言ってんだ、こいつ」

 

 中村が肩をすくめた。

 

「知らねえよ。ほっとこうぜ」

 

 加藤も周囲を見回していた。

 

 少し離れた場所では、現地教官が新兵たちを監督している。こちらを見ている兵士も何人かいた。

 

「健、もう行こうよ」

 

 吉田が小声で言った。

 

「教官に見つかったら面倒だし」

 

 佐々木はしばらく黙っていた。

 

 やがて高橋へ視線を戻した。

 

「……お前、こっちに来てから調子乗ってんじゃねえぞ」

 

 そう言い捨てると、水筒を手に取った。

 

「行くぞ」

 

 中村がその後に続き、加藤と吉田も離れていった。

 

 高橋は四人の後ろ姿を見送った。

 

 ようやく終わったらしい。

 

 隣で川崎が大きく息を吐いた。

 

「……まったく、何なんだよ、あいつら」

 

 高橋は答えなかった。

 

 学校にいた頃から、何度も似たようなことがあった。

 

 しかし、ここは日本の学校ではない。

 

 佐々木たちも、まだその違いを十分に理解していないようだった。

 

*

 

 サクが高橋に顔を向けた。

 

「大丈夫か?」

 

 高橋はうなずいた。

 

「ありがとう。大丈夫」

 

 サクは少し考えてから、もう一度尋ねた。

 

「同じ学校だったのに、友人ではないのか?」

 

 高橋は苦笑した。

 

 どう説明したものだろう。

 

 日本語なら、佐々木たちがどういう連中なのか簡単に話せる。しかし、帝国共通語ではまだ言葉が足りなかった。

 

「同じ学校。でも、仲はよくない」

 

 高橋はゆっくり答えた。

 

「前から、時々ああいうことがあった」

 

 サクはうなずいた。

 

 それから、少し不思議そうに言った。

 

「それでも、今は同じ軍隊の新兵だ」

 

「うん」

 

「同じ隊列で訓練している」

 

 高橋はその言葉を聞いて、少し考えた。

 

 確かにそうだった。

 

 日本にいた頃なら、学校が終われば佐々木たちと顔を合わせずに済んだ。しかし、ここでは違う。

 

 同じ兵舎で生活し、同じ訓練場で身体を動かし、やがて同じ連隊の兵士になる。

 

 配属先が同じになるかどうかは、まだわからない。それでも、少なくとも今は同じ新兵だった。

 

「……そうだね」

 

 高橋はうなずいた。

 

 サクは高橋の様子を確かめると、足元に置いた水筒を拾い上げた。

 

「戻ろう。もうすぐ集合だ」

 

「うん」

 

 高橋も水筒の蓋を閉めた。

 

 川崎が隣に並んだ。

 

「なあ、高橋」

 

「何?」

 

「サクって、いい奴だな」

 

「うん。そう思う」

 

 高橋は笑った。

 

 川崎はサクの背中を眺めながら、少し羨ましそうに言った。

 

「俺も、もっと帝国共通語を勉強しないとな」

 

「どうしたの、急に」

 

「いや、せっかく一緒に訓練してるんだから、ちゃんと話せた方がいいだろ」

 

 高橋はうなずいた。

 

 サクは少し先を歩いていたが、二人がついてきていることを確かめると、速度を落とした。

 

 三人は並んで訓練場へ戻っていった。

 

 背後では、まだ大勢の新兵たちが水場に集まっていた。

 

 日本語と帝国共通語が入り混じり、あちこちから笑い声や話し声が聞こえてくる。

 

 高橋は振り返らなかった。

 

 佐々木たちが何を考えているのかは、わからない。ただ、七月に比べれば、彼らの苛立ちは明らかに強くなっているようだった。

 

 高橋は歩きながら、隣のサクを見た。

 

 ほんの数日前まで、まともに会話することさえできなかった相手だった。それが今では、こうして一緒に歩いている。

 

 同じ学校に通っていたからといって、仲間になれるとは限らない。

 

 反対に、言葉も育った場所も違う相手と、親しくなれることもある。

 

 高橋は、そんな当たり前のことを、この世界に来て初めて実感していた。

 

*

 

 現地新兵が合流して間もない八月のある朝、いつもより早い時間に集合命令が出された。

 

 高橋たちが兵舎の外へ出ると、訓練場の様子が普段と違っていた。

 

 普段は身体訓練に使っている広場に、何列もの隊列が作られていた。整った制服を着た兵士たちが次々と集まり、各部隊の指揮官が人数を確認している。

 

 兵舎の前には、磨かれた軍靴を履いた将校たちの姿もあった。

 

 高橋は川崎と一緒に、第20期の集合場所へ向かった。

 

「何だろうな、今日は」

 

 川崎が周囲を見渡した。

 

「全員集まってるみたいだね」

 

「訓練じゃなさそうだな」

 

 普段とは違う緊張感が漂っていた。

 

 遠くでは砲兵中隊の兵士たちが整列していた。歩兵たちとは装備が少し違い、列の後方には砲兵用の車両も見えた。

 

 さらに別の場所では、補給や整備などの後方部隊と思われる兵士たちが集まっている。

 

 高橋は、ベルノ連隊にこれほど多くの兵士がいることに驚いた。

 

 普段、自分たちが接するのは訓練教官や日本人の先輩たちが中心だった。連隊全体が一堂に会すると、その規模の大きさがよくわかった。

 

 しばらくすると、石井軍曹が第20期の列の近くへやってきた。

 

 石井はいつもの訓練用の服ではなく、きちんと整えられた軍服を着ていた。

 

「お前たち、今日は連隊長の就任挨拶がある」

 

「連隊長?」

 

 川崎が尋ねた。

 

「ああ。ベルノ伯爵だ」

 

 その名前を聞いて、高橋はアウレリア大尉を思い出した。

 

「アウレリア大尉も伯爵家の人なんですよね?」

 

「そうだ。ただし、今日挨拶するのはオリヴィエ・フォン・ベルノ大佐だ。ベルノ伯爵家の新しい当主で、この連隊の連隊長でもある」

 

「伯爵が連隊長なんですか?」

 

 井上が興味を示した。

 

「そうだ。この地方の領主であり、連隊を指揮する立場でもある」

 

 井上は整列している兵士たちを見渡した。

 

「じゃあ、あの人たち全部を指揮してるんですね」

 

「そういうことだな」

 

 石井はうなずいた。

 

 そこで山田が口を開いた。

 

「前の伯爵はどうしたんですか?」

 

 石井は少し表情を変えた。

 

「前伯爵か……」

 

 その声には、どこか懐かしむような響きがあった。

 

「今は隠居されているよ」

 

「引退したんですか?」

 

「ああ。命は助かったんだが、身体が元通りにはならなかった。今は車椅子での生活だ」

 

 高橋は顔を上げた。

 

「怪我をされたんですか?」

 

「そうだ。連隊長としての仕事を続けられる状態ではなくなった。それで、オリヴィエ大佐が伯爵家と連隊を引き継ぐことになったんだ」

 

「そうだったんですか……」

 

 川崎が小さくつぶやいた。

 

 石井は遠くに並んでいる兵士たちへ目を向けた。

 

「前伯爵は、立派な軍人だったぞ」

 

「厳しい人だったんですか?」

 

 高橋が尋ねた。

 

「厳しかったな。でも、公平な人だった」

 

 石井は少し懐かしそうに笑った。

 

「兵士が失敗しても、理由があれば頭ごなしに叱るような人じゃなかった。何が原因だったのか、どうすれば改善できるのかをきちんと考える人だったよ」

 

 少し間を置いて続けた。

 

「部下の面倒見もよかった。負傷した兵士のこともよく気にかけていたし、現場の事情を知らずに無理な命令を出すような人でもなかった」

 

「いい人だったんですね」

 

 川崎が言った。

 

「ああ。部下からの信頼は厚かった」

 

 石井はうなずいた。

 

「ただし、軍紀違反だけは絶対に許さなかった」

 

 その言葉に、高橋たちは顔を上げた。

 

「軍紀違反?」

 

「命令違反や脱走だ。特に、仲間を危険にさらすような行為には容赦がなかった」

 

 石井の表情が少し硬くなった。

 

「以前、新兵が脱走したことがあった。逃げた兵士は捕まったんだが、前伯爵はその兵士の処刑を命じた」

 

「処刑……」

 

 川崎が小さくつぶやいた。

 

「しかも、銃殺を担当させたのは、その新兵と同期の兵士だった」

 

 高橋は思わず石井を見た。

 

「同期の兵士に撃たせたんですか?」

 

「ああ」

 

 石井は静かに答えた。

 

「同じ時期に軍隊へ入った仲間だ。そんな相手に銃を向けさせたんだ」

 

 川崎が顔をしかめた。

 

「それは……ひどくないですか?」

 

「そう思うだろうな」

 

 石井は否定しなかった。

 

「俺も、厳しすぎると思うことはあったよ。だが、前伯爵は軍紀を守ることについては一切妥協しなかった。脱走すれば、残された仲間が危険にさらされる。だから、絶対に許さないという考えだったんだ」

 

 石井はしばらく黙っていた。

 

 遠くでは隊列を整える号令が響いていた。軍靴の音が一斉に揃い、広場の空気が引き締まっていく。

 

「公平で、部下の面倒見がいい。だが、軍紀違反には極めて苛烈だった。その両方を持っている人だったな」

 

 石井はそう締めくくった。

 

 高梨も少し離れたところに立っていたが、この話には加わらなかった。

 

 普段なら生徒たちの質問に積極的に答える高梨が、黙って前方を見つめていた。

 

 高橋は一瞬その横顔を見たものの、特に気に留めなかった。

 

 石井が姿勢を正した。

 

「そろそろ始まるぞ。全員、前を向け」

 

*

 

 広場に号令が響いた。

 

 各部隊の兵士たちが一斉に姿勢を正した。

 

 高橋たち第20期の新兵も、教官の指示に従って整列し直した。

 

 先ほどまで聞こえていた私語はなくなり、広場には風の音だけが残った。

 

 やがて連隊本部の建物から、数名の将校が姿を現した。

 

 先頭を歩いていたのは、一人の女性だった。

 

 高橋は少し驚いた。

 

 連隊長というから、もっと年配の男性を想像していたのだ。

 

 女性は身長百六十五センチほどで、特別大柄というわけではなかった。柔らかく波打つピンクブロンドの髪が背中へ流れ、緑色の瞳が穏やかな印象を与えている。

 

 整った顔立ちではあったが、アウレリア大尉のような鋭い美しさとは違っていた。

 

 少し垂れ気味の目元には、どこか親しみやすさが感じられた。

 

 しかし、その立ち姿には隙がなかった。

 

 大佐の階級章をつけた軍服はきちんと整えられ、歩く速度も一定だった。将校たちの敬礼を受けながら、落ち着いた様子で演壇へ向かっていく。

 

 その後ろには、アウレリア大尉が付き従っていた。

 

 アウレリアは長い黒髪を背中に流し、いつもの軍服を着ていた。身長はオリヴィエより十センチほど高く、二人が並ぶと、その違いがよくわかった。

 

「……あの人が伯爵?」

 

 川崎が小さくつぶやいた。

 

「そうみたいだね」

 

 高橋も演壇を見つめていた。

 

 隣では山田が、目を輝かせていた。

 

「すごいな……今度はピンクブロンドだ」

 

「お前、またそこかよ」

 

 井上が小声で言った。

 

「だって、あんな髪の色、日本じゃ見ないだろ」

 

「静かにしろよ。始まるぞ」

 

 川崎が注意した。

 

 オリヴィエが演壇の中央に立った。

 

 アウレリアはその少し後方に控え、ほかの将校たちも所定の位置についた。

 

 号令が響き、全将兵が敬礼した。

 

 高橋たちも、教えられたばかりの動作で敬礼する。

 

 オリヴィエは一同に答礼すると、演壇の前へ進んだ。

 

 そして、帝国共通語で話し始めた。

 

 高橋はその声を聞いて、少し意外に思った。

 

 外見から受ける印象と同じく、柔らかく穏やかな声だった。しかし、広い訓練場の後方まで、言葉がはっきり届いている。

 

 高梨が第20期の近くで、短く区切られる挨拶を日本語に通訳し始めた。

 

「本日より、私がベルノ伯爵家の当主として、そしてベルノ連隊の連隊長として、この任を引き継ぎます」

 

 高橋は演壇を見つめた。

 

 オリヴィエは、集まった将兵をゆっくりと見渡していた。その視線は特定の部隊だけに向けられることなく、広場全体へ向けられている。

 

「我が連隊は、これまでも長い戦争の中で任務を果たしてきました。多くの兵士が戦場へ向かい、任務を終えて帰還しています。しかし、その全員が戻ってこられたわけではありません」

 

 穏やかだった声が、少しだけ低くなった。

 

「私は、皆さんに必ず生きて帰れると約束することはできません。戦場で何が起こるかを、完全に予測することもできません」

 

 広場は静まり返っていた。

 

「ですが、必要な訓練を施し、装備と補給を整え、無駄な犠牲を出さないよう努めることはできます。それは連隊長である私の責任です」

 

 高橋は、オリヴィエの言葉を聞きながら石井の話を思い出していた。

 

 前伯爵も、部下の面倒見がよかったという。新しい伯爵もまた、兵士たちの命を軽く扱うつもりはないらしい。

 

 しかし、オリヴィエの話はそこで終わらなかった。

 

「同時に、皆さんにも責任があります。与えられた任務を果たし、命令を守り、仲間を危険にさらさないことです」

 

 オリヴィエは少し間を置いた。

 

「訓練で失敗することはあります。知らないこと、できないことがあるのも当然です。しかし、怠慢によって仲間を危険にさらすことは許されません」

 

 その言葉には、先ほどまでの柔らかさとは違う厳しさがあった。

 

 高橋は演壇の女性を見つめ直した。

 

 見た目は優しそうだった。だが、決して甘い人物ではないのだろう。

 

「ベルノ連隊に所属するすべての兵士が、その責務を理解し、互いに信頼できる部隊となることを期待しています」

 

 最後にオリヴィエは、新兵たちへ視線を向けた。

 

「新たに軍務に就く皆さんも、今日から同じ連隊の一員です。出身や種族の違いに関係なく、皆さんには同じ任務が与えられます。十分に学び、訓練を積み、無事に任務を果たせる兵士となってください」

 

 高梨の通訳が終わると、オリヴィエは一歩下がった。

 

 再び号令が響く。

 

 全将兵が一斉に敬礼した。

 

 高橋も慌てて敬礼した。

 

 オリヴィエは答礼し、演壇を降りた。その後ろをアウレリアが歩いていく。

 

 二人の姿が連隊本部の建物へ戻っていくまで、広場には整然とした隊列が保たれていた。

 

 高橋は、その後ろ姿を見送った。

 

 優しそうな女性だった。

 

 しかし、連隊長として戦場へ兵士を送り出し、命令を出す立場にいる。

 

 そのことが、何となく不思議だった。

 

 川崎が小声で言った。

 

「思ってたより、ずっと優しそうな人だったな」

 

「うん」

 

 高橋はうなずいた。

 

 井上が演壇を見ながら言った。

 

「でも、話してる内容は結構厳しかったぞ」

 

「そうだな」

 

 高橋は、もう一度オリヴィエの姿が消えた建物へ目を向けた。

 

 先ほど石井が話していた前伯爵と、新しい伯爵。

 

 二人は違う人物なのだろう。

 

 だが、兵士を守ることと、軍紀を守ることの両方を重視しているという点では、共通するところがあるように思えた。

 

*

 

 八月の後半になると、合同訓練は本格的な軍事訓練へ移っていった。

 

 それまでの身体訓練に加え、銃器の取り扱いや射撃姿勢、塹壕の構築などを学ぶようになった。

 

 高橋が初めて帝国主力小銃G11を手にしたのも、この頃だった。

 

 武器庫から運ばれてきた銃が、訓練場の机に並べられていた。

 

 木製の銃床と金属製の銃身を持つ、軍用の小銃だった。訓練場には金属と油の匂いが漂い、教官たちが新兵の列を確認している。

 

 高橋は教官から銃を受け取った。

 

 思っていたより重い。

 

 両手で持つと、金属の冷たい感触が伝わってきた。

 

 井上が隣で興味深そうに眺めていた。

 

「これが帝国軍の小銃か……」

 

「知ってる銃なの?」

 

 高橋が尋ねた。

 

「いや、見たことない型だな。でも、構造は何となくわかる」

 

 井上は教官の方へ目を向けた。

 

 教官が帝国共通語で説明を始めた。

 

 高梨も近くにいたが、すぐには通訳しなかった。まず教官の動きを見て理解するよう指示されていたためだった。

 

 教官は銃を持ち、構え方と安全確認の手順を示した。

 

 高橋たちはその動きを繰り返した。

 

 最初は弾薬を使わない訓練だった。

 

 銃口を人へ向けないこと。指示があるまで引き金に指をかけないこと。装填や安全確認の手順を守ること。

 

 どれも繰り返し教えられた。

 

 井上は興味をもって取り組んでいたが、それでも教官の指示から外れることはなかった。

 

 実際に銃を持つと、模型や写真を眺めるのとは違うらしい。

 

「思ったより重いな」

 

 井上が言った。

 

「うん。ずっと持ってたら腕が疲れそう」

 

「これを持って何時間も歩くんだろ。結構大変だぞ」

 

 井上はそう言いながら、銃を構え直した。

 

 高橋も教官の見本に合わせて銃を肩へ当てた。

 

 頬に木製の銃床が触れ、照準器の向こうに訓練場の標的が見えた。

 

 初めて銃を構えるというのに、標的は不思議なほどはっきり見えた。

 

 身体検査の時、石井から目がいいと言われたことを思い出した。

 

 高橋は銃を下ろした。

 

 実際に弾を撃つのは、もう少し先だという。

 

 その日から、銃を持った姿勢の訓練が繰り返された。

 

 最初は銃を構えるだけで腕が疲れた。しかし、何度も練習するうちに、少しずつ無理のない姿勢がわかるようになってきた。

 

*

 

 初めての実弾射撃の日、射撃場には朝から緊張した空気が漂っていた。

 

 訓練場の奥にある射撃場は、土を高く盛り上げた弾止めに囲まれていた。その手前には、一定の間隔で標的が並んでいる。

 

 新兵たちは順番に射撃位置へ入り、教官の指示を待っていた。

 

 遠くで別の組が射撃を始めると、乾いた大きな銃声が響いた。

 

 高橋は思わず肩をすくめた。

 

 想像していたよりもずっと大きな音だった。

 

 井上は興味深そうに射撃場を見渡していたが、普段より口数が少なかった。

 

 山田も、銃声が響くたびに顔をしかめていた。

 

「……本物って、こんな音がするんだな」

 

 山田が小さくつぶやいた。

 

「そりゃそうだろ」

 

 井上が答えた。

 

 やがて高橋たちの順番が来た。

 

 高橋は教官の指示に従い、射撃位置へ入った。

 

 銃を構える。

 

 肩に銃床を当て、標的へ視線を向けた。

 

 照準器の向こうにある標的は、思っていた以上にはっきり見えた。

 

 高橋は教官の合図を待った。

 

 やがて射撃の号令が響いた。

 

 引き金を引く。

 

 鋭い銃声とともに、銃が肩へ強く押しつけられた。

 

 高橋は少し驚いたが、すぐに姿勢を整えた。

 

 教官に教えられたことを思い出しながら、次の射撃を行う。

 

 何度か撃つうちに、銃声や反動にも少しずつ慣れてきた。

 

 射撃が終わると、教官たちは標的を確認した。

 

 高橋も自分の標的を見た。

 

 弾痕が中心付近に集まっていた。

 

 最初は狙った場所から少し外れているものもあったが、大きく外れた弾はほとんどなかった。

 

 高橋は少し安心した。

 

 少なくとも、標的には当てられたらしい。

 

 ところが、標的を確認していた教官が何かを言い、別の教官を呼んだ。

 

 二人は標的を見比べながら短く話していた。

 

 高橋は不安になった。

 

 何か間違えたのだろうか。

 

 しばらくして高梨がやってきた。

 

「高橋君、かなりいい成績ですよ」

 

「え?」

 

「最初の実弾射撃で、これだけまとまって当てられる人は多くありません」

 

 高橋は改めて標的を見た。

 

「そうなんですか?」

 

「ええ。教官たちも驚いています」

 

 高橋は少し照れた。

 

 自分では、教わった通りに撃ったつもりだった。特別なことをした覚えはない。

 

 近くにいた井上が標的を覗き込んだ。

 

「おい、高橋。すごいじゃないか」

 

「そんなに?」

 

「かなりまとまってるぞ。俺なんか、もっと散らばってた」

 

 井上は自分の標的と見比べていた。

 

 軍事や銃器に詳しいだけに、結果の違いが気になるらしい。

 

「お前、射撃の経験あるのか?」

 

「ないよ」

 

「エアガンとかも?」

 

「特には」

 

「それでこれか……」

 

 井上は感心したように腕を組んだ。

 

 川崎もやってきた。

 

「何だ、高橋。射撃も得意なのか?」

 

「まだ一回目だよ」

 

「一回目で教官に褒められてるじゃないか」

 

 高橋は苦笑した。

 

 その日は、それ以上特別なことはなかった。

 

 教官から姿勢についていくつか注意を受け、次の組と交代した。

 

 しかし、射撃訓練が進むにつれ、高橋の成績はさらによくなっていった。

 

*

 

 九月になると、高橋の射撃成績は新兵たちの間でも目立つようになっていた。

 

 訓練場では、射撃のたびに標的の確認が行われ、教官が記録をつけていた。

 

 高橋はほかの新兵たちと同じように教官の指示に従い、射撃を繰り返した。

 

 特別に射撃経験があるわけではなかった。しかし、標的を捉えることには苦労しなかった。

 

 遠くにある標的でも輪郭がはっきり見え、照準を合わせることができた。

 

 教官に教わった姿勢を守り、落ち着いて撃つ。

 

 それだけで、弾は標的の中心近くへ集まっていった。

 

 もちろん、毎回すべてが狙った場所へ当たるわけではない。姿勢が崩れたり、引き金を引く時に力が入ったりすれば、弾は外れた。

 

 だが、高橋は教官から注意されたことをよく覚えていた。

 

 次の射撃では、その点を修正する。

 

 そうしているうちに、成績が安定していった。

 

 ある日の射撃訓練では、教官が高橋の標的を確認した後、しばらく記録表を眺めていた。

 

 高橋は少し離れた場所で待っていた。

 

 教官が何かを話しかけてきた。

 

 以前なら意味がわからなかっただろう。しかし、今では簡単な質問なら理解できる。

 

「以前に射撃をしたことがあるのか?」

 

 そう尋ねられたのだとわかった。

 

「ありません」

 

 高橋は帝国共通語で答えた。

 

「日本では、銃を撃ったことがありません」

 

 教官は少し意外そうな顔をした。

 

 そして、高橋の記録表をもう一度見た。

 

 その日の射撃訓練が終わると、石井軍曹が射撃場へやってきた。

 

 高橋たちの成績を確認するためらしかった。

 

「高橋、ちょっと来い」

 

「はい」

 

 高橋は石井のところへ向かった。

 

 石井は手にした記録表を見ていた。

 

「お前、射撃の成績がかなりいいな」

 

「そうなんですか?」

 

「そうなんですか、じゃないだろ」

 

 石井は笑った。

 

「新兵の中でも、かなり上の方だぞ。教官からも報告が来てる」

 

 高橋は少し驚いた。

 

 褒められていることはわかっていたが、そこまで成績がいいとは思っていなかった。

 

「何かやってたのか?」

 

「いえ、特には……」

 

 高橋は首を振った。

 

「教わった通りに撃ってるだけです」

 

「そうか」

 

 石井は記録表を見直した。

 

「身体検査の時も思ったが、お前は目がいいんだな」

 

「それは、よく言われます」

 

「射撃には有利だ。ただし、目がいいだけで当たるわけじゃない。姿勢や銃の扱い方も、ちゃんと身についてきてるみたいだな」

 

 石井は記録表を閉じた。

 

「この調子で頑張れ」

 

「はい」

 

 石井が歩き去ると、近くで待っていた井上が声をかけてきた。

 

「お前、石井さんにまで褒められてたな」

 

「うん」

 

「完全に射撃が得意なやつになってるじゃないか」

 

 高橋は苦笑した。

 

「そんなつもりはないんだけど」

 

「でも、実際に当ててるだろ」

 

 井上は少し羨ましそうだった。

 

 軍事や兵器については井上の方がはるかに詳しい。しかし、実際に小銃を撃つとなると、高橋の方が成績がよかった。

 

「井上の方が銃について詳しいじゃないか」

 

「知識と射撃は別だよ」

 

 井上はあっさりと答えた。

 

「俺は銃の構造とか性能には詳しいけど、それで射撃が上手くなるわけじゃないからな」

 

「そういうものなの?」

 

「そういうものだよ。だから、お前の成績は普通にすごいと思うぞ」

 

 高橋は少し照れた。

 

 自分にそんな才能があるとは、考えたこともなかった。

 

 日本にいた頃は、ただの高校生だった。

 

 特別に運動が得意というわけでもなく、学校の成績も飛び抜けてよかったわけではない。

 

 自転車に乗ることが好きで、休日には少し遠くまで出かける。

 

 そんな、ごく普通の生活を送っていた。

 

 それがこの世界へ来て、銃を撃つことだけは人より上手いらしい。

 

 高橋には、まだ不思議な感じがしていた。

 

 そして、手放しで喜ぶ気持ちにもなれなかった。

 

 今は紙の標的を撃っている。

 

 しかし、いつかは本物の敵に向けて銃を構えることになるのかもしれない。

 

 そう考えると、標的の中心に集まった弾痕が、急に重い意味を持つように感じられた。

 

*

 

 九月になると、朝夕の空気が少しずつ冷たくなってきた。

 

 訓練場の周囲にある木々も、葉の色を変え始めていた。

 

 日本にいた頃なら、夏休みが終わって学校へ戻る時期だった。しかし、高橋たちの生活に夏休みはなかった。

 

 毎朝決まった時間に起床し、午前中は帝国共通語、午後は合同訓練という日々が続いていた。

 

 午後の訓練内容も、次第に厳しくなっていた。

 

 小銃を持った行進。装備を身につけた長距離歩行。塹壕の構築。野外での行動訓練。

 

 特に塹壕を掘る作業は、想像以上に重労働だった。

 

 固い地面にスコップを突き立て、土を掘り起こす。掘った土は決められた場所へ積み上げ、崩れないよう形を整えていく。

 

 最初のうちは、ただ穴を掘ればいいのだと思っていた。しかし、実際には深さや幅、土を積み上げる位置まで細かく指示された。

 

 教官は、塹壕の形が悪ければやり直させた。

 

 高橋は汗を拭いながら、スコップを地面へ突き立てた。

 

 自転車で長い距離を走ることには慣れていたが、土を掘る作業はまったく別だった。

 

 腕と背中が痛くなる。しばらくすると、手のひらにも痛みを感じ始めた。

 

 隣ではサクが黙々と土を掘っていた。

 

 細身ではあるが、スコップを使う動作は手慣れていた。高橋の作業が遅れているのを見ると、何かを話しかけてきた。

 

 今度は、その意味が理解できた。

 

「疲れたか?」

 

 高橋は帝国共通語で答えた。

 

「少し。でも、大丈夫」

 

 サクは笑い、自分のスコップを持ち直した。

 

「もう少しだ」

 

「うん」

 

 二人は再び作業を始めた。

 

 一か月前なら、こうした簡単な会話さえできなかった。

 

 高橋は土を掘りながら、自分の帝国共通語が少しずつ上達していることを感じていた。

 

 もちろん、難しい話はまだ理解できない。だが、訓練中の短い指示や、兵舎での日常会話なら、何とか通じるようになってきた。

 

 サクとも、以前よりずっと多くのことを話せるようになっていた。

 

 夜になると、サクは高橋に帝国共通語を教え、高橋は日本の話をすることもあった。

 

 日本について説明しようとすると、どうしても語彙が足りなくなる。それでも、サクは面白がって聞いてくれた。

 

 向かい側の寝台では、水野とリュージュもよく会話していた。

 

 水野は語学の成績がよかったため、今ではリュージュとかなり自然に話せるようになっていた。

 

 リュージュも水野の発音を直したり、知らない単語を教えたりしている。

 

 その代わり、水野は日本の話や、学校で教えていた勉強の話をすることがあった。

 

 数学教師だった水野にとって、数字や計算は得意分野だった。

 

 現地新兵たちは午前中に数学や理科などの授業を受けているため、水野とリュージュの会話が、いつの間にか勉強の話になることもあった。

 

 高橋はそんな二人の様子を眺めながら、少し不思議に思っていた。

 

 水野は日本にいた頃、教壇に立って生徒を教えていた。

 

 今は帝国軍の新兵として訓練を受けている。

 

 しかし、勉強の話になると、やはり教師らしい表情になるのだった。

 

*

 

 九月も半ばになると、ベルノの夏の暑さは少しずつ和らいできた。

 

 訓練場を吹き抜ける風には秋の気配が混じり、周囲の木々にも黄色く色づき始めた葉が見られるようになっていた。夏の間は乾いた砂埃が舞っていた地面も、前夜の雨でほどよく湿っている。

 

 午後の持久走は、すでに日課の一つになっていた。

 

 訓練開始当初は短い距離を走るだけだったが、今では走る時間も距離も大幅に増えている。それでも、二か月以上続けてきた成果なのか、途中で歩き始める新兵は少なくなっていた。

 

 高橋亘一は、いつものように一定のペースで走っていた。

 

 その隣には岡田修平がいた。

 

 岡田は日本でサッカー部に所属していた、運動能力の高い男子生徒だった。整った顔立ちと爽やかな性格で女子生徒からの人気もあり、勉強も運動もそつなくこなす。持久走も得意で、訓練が始まった頃からほとんど苦労していなかった。

 

「高橋、お前って意外と走れるよな」

 

 岡田が横を向いた。

 

「意外って何だよ」

 

「いや、そんなに運動する方じゃなかっただろ?」

 

「自転車にはよく乗ってたからね」

 

「ああ、そうだったな」

 

 岡田は笑った。

 

「自転車って、そんなに体力つくのか?」

 

「長い距離を走るから、持久力はつくんじゃないかな。でも、腕立て伏せとかは全然駄目だけど」

 

「まあ、使う筋肉が違うからな」

 

 岡田は軽くうなずいた。

 

 二人は会話を続けながら、無理のない速度で走っていた。

 

 岡田にとっては余裕のあるペースで、高橋も呼吸を乱すことなくついていけた。周囲には現地新兵たちも走っており、訓練場には大勢の足音と、時折教官の発する号令が響いていた。

 

 その時、後ろから声がした。

 

「高橋君、岡田君」

 

 二人が振り返ると、水野香織が走ってきた。

 

 額には汗が浮かんでいたが、呼吸は比較的落ち着いている。訓練を始めたばかりの頃に比べれば、身体も少し引き締まっていた。

 

「あ、先生」

 

 高橋が声をかけた。

 

「二人とも、ずいぶん余裕があるのね」

 

「岡田はサッカー部でしたから」

 

「高橋だって、普通についてきてるだろ」

 

 岡田が笑った。

 

 水野は二人の横へ並んだ。

 

「私も、今日は一緒に走ってみようかしら」

 

 高橋は少し驚いた。

 

「大丈夫ですか?」

 

「ええ。最近はずいぶん楽になってきたから」

 

 水野はそう答えると、二人のペースに合わせて走り始めた。

 

 高橋の右側に岡田、左側に水野。

 

 三人が並ぶ形になった。

 

 岡田は少しだけ速度を確かめるように水野を見たが、無理をしている様子がないことを確認すると、いつもの調子で話し始めた。

 

「先生、すごいですね。最初の頃は途中で休んでたのに」

 

「そうなのよ。自分でも驚いているわ」

 

 水野は少し照れたように笑った。

 

「最初の日なんて、もう二度と走りたくないと思ったもの」

 

「ああ、覚えてます」

 

 高橋が言った。

 

「兵舎に帰ってから、ずっと寝台でぐったりしてましたよね」

 

「高橋君、よく覚えてるわね……」

 

「そりゃ覚えてますよ」

 

 岡田も笑った。

 

 水野は苦笑しながらも、しっかりと足を動かしていた。

 

 会話をする余裕もある。

 

 高橋は少し感心した。

 

 最初の頃の水野なら、自分たちに追いつくことさえ難しかったはずだった。それが今では、こうして並んで走っている。

 

*

 

 少し後方では、伊藤千尋と川崎晴斗が走っていた。

 

 千尋は一定のペースを保っていたが、川崎は少し呼吸が荒くなっていた。

 

「なあ、委員長」

 

「何?」

 

「あれ、水野先生だよな?」

 

 川崎が前方を指した。

 

 千尋が顔を上げる。

 

 少し先を、三人が並んで走っていた。

 

 右に岡田修平、中央に高橋亘一、そして左側に水野香織。

 

 しかも、三人とも会話をしながら走っている。

 

「……え?」

 

 千尋は思わず目を見張った。

 

「水野先生?」

 

「だよな?」

 

 川崎が驚いたように言った。

 

「岡田と高橋について走ってるぞ」

 

 千尋も前方を見つめていた。

 

 岡田はサッカー部出身で、運動能力が高い。高橋も自転車が趣味だったため、持久走では最初から比較的余裕があった。

 

 その二人に、水野が遅れずについていっている。

 

 しかも、かなり自然に。

 

「すごい……」

 

 千尋がつぶやいた。

 

「先生、あんなに走れるようになったんだ」

 

「いや、すごいっていうか……」

 

 川崎は呆れたような顔になった。

 

「俺たちより前を走ってるじゃないか」

 

「本当だね」

 

 千尋は少し嬉しそうに笑った。

 

「先生、毎日頑張ってたものね」

 

「それはそうだけどさ……」

 

 川崎は前方の三人を見つめた。

 

 最初の頃、水野は持久走になるとすぐに息が上がり、途中で休んでしまうことが多かった。

 

 訓練を終えて兵舎へ戻ると、寝台に倒れ込んでいた姿も覚えている。

 

 それが今では、岡田や高橋と一緒に走っている。

 

「……人間って、変わるもんだな」

 

 川崎が感心したように言った。

 

 千尋が横を向いた。

 

「川崎君も頑張れば、あのくらい走れるようになるんじゃない?」

 

「俺だって頑張ってるよ」

 

「じゃあ、少し速度を上げてみる?」

 

「いや、それはちょっと……」

 

 千尋は笑った。

 

「ほら、二人に追いつこうよ」

 

「委員長、勘弁してくれよ」

 

 そう言いながらも、川崎は少しだけ足を速めた。

 

*

 

 持久走が終わる頃には、訓練場を照らす日差しも傾き始めていた。

 

 高橋と岡田、それに水野は、ほぼ同時に走り終えた。

 

 岡田は軽く息を整えただけだったが、水野は腰に手を当て、大きく呼吸を繰り返していた。

 

「はあ……疲れた……」

 

 しかし、その顔には満足そうな笑みが浮かんでいた。

 

「先生、最後まで走れましたね」

 

 高橋が声をかけた。

 

「ええ。二人についていけたわ」

 

 水野は額の汗を拭った。

 

「正直、自分でもびっくりしてる」

 

 岡田が笑った。

 

「先生、すごいですよ。俺たちとずっと同じペースでしたから」

 

「ありがとう、岡田君」

 

 水野は少し照れたように笑った。

 

 そこへ千尋と川崎がやってきた。

 

「水野先生!」

 

 千尋が声をかけた。

 

「千尋さん、お疲れさま」

 

「先生、すごいです! 岡田君と高橋君に並んで走ってましたよね!」

 

 水野は少し驚いた顔をした。

 

「あら、見てたの?」

 

「はい。びっくりしました」

 

 川崎もうなずいた。

 

「俺なんか、最初は別人かと思いましたよ」

 

「川崎君、それはどういう意味かしら?」

 

 水野が苦笑した。

 

「いや、いい意味ですよ! 最初の頃なんて、すぐに休んでたじゃないですか」

 

「……それは言わなくてもいいでしょう」

 

 水野は困ったように笑った。

 

 高橋と岡田も笑った。

 

 千尋は水野の姿を改めて眺めた。

 

 訓練を始めた頃より、少し身体が引き締まっている。何より、走り終わった後の表情がまったく違っていた。

 

 以前なら、今頃は地面に座り込んでいたはずだった。

 

「でも、本当にすごいと思います」

 

 千尋が言った。

 

「先生、毎日頑張ってましたから」

 

 水野は少し照れたように笑った。

 

「ありがとう、千尋さん」

 

 そして、高橋と岡田を見た。

 

「二人とも、今日はありがとう。また一緒に走ってもいいかしら?」

 

「もちろんです」

 

 高橋が答えた。

 

 岡田も笑顔でうなずいた。

 

「いいですよ。先生、次はもう少し速く走れるかもしれませんね」

 

「それはまだ勘弁してほしいわ」

 

 水野が笑った。

 

 川崎が横から口を挟んだ。

 

「先生、俺と走ればもっと楽ですよ」

 

「川崎君、それは自分が楽をしたいだけじゃない?」

 

 千尋が言った。

 

「……ばれたか」

 

 五人の笑い声が、夕方の訓練場に広がった。

 

 少し離れたところでは、エル・マルカ軍曹が新兵たちの様子を確認していた。狼の頭を持つ女性教官は、走り終えた生徒たちを眺めながら、手元の記録表に何かを書き込んでいる。

 

 高橋は何気なくその姿を見た。

 

 あの軍曹に初めて会ったのは、七月のことだった。

 

 それから二か月以上。

 

 水野は、見違えるほど体力をつけた。

 

 もちろん、高橋自身も以前とは違っていた。だが、最初の頃にあれほど苦しんでいた水野が、今では岡田と自分に並んで走れる。

 

 その変化は、高橋にも少し誇らしく感じられた。

 

*

 

 訓練が進むにつれ、新兵たちの間にも差が出始めていた。

 

 高橋は帝国共通語の成績がよく、持久力も比較的あった。射撃訓練では、教官たちから特に注目されるほどの成績を残していた。

 

 ただし、筋力訓練や塹壕構築では、ほかの生徒たちと同じように苦労することも多かった。

 

 川崎は相変わらず訓練のたびに疲れたと言っていたが、最初の頃に比べれば、ずいぶん身体が動くようになっていた。

 

 井上は銃器や軍事訓練に強い関心を持ち、教官の説明を熱心に聞いていた。

 

 山田も、最初は異世界そのものに興味を示していたが、今では訓練に真面目に取り組むようになっていた。

 

 岡田は持ち前の運動能力を発揮し、身体訓練では常に安定した成績を残していた。

 

 そして、水野にも目に見える変化が現れていた。

 

 最初の頃は持久走の途中で何度も休んでいたが、今ではほかの生徒たちと一緒に走り続けられる日が増えている。毎日の運動で少しずつ体重も減り、以前より身体が軽く感じられるようになっていた。

 

 もっとも、急に運動が得意になったわけではない。

 

 走り終えれば相変わらず息が上がるし、筋力訓練では苦労していた。

 

 それでも、最初の日とは明らかに違っていた。

 

 持久走で岡田と高橋に並んで走った日、水野は兵舎へ戻ってからも、何度か嬉しそうにその話をしていた。

 

 上段にいるリュージュも、帝国共通語で水野の努力を褒めていた。

 

 高橋はそんな二人の会話を聞きながら、少しずつ変わっていく自分たちの生活を感じていた。

 

 一方、佐々木グループは、相変わらず教官たちを悩ませていた。

 

 語学の成績はほかの生徒たちより遅れ気味で、訓練中にも手を抜こうとすることがあった。

 

 現地新兵との合同訓練が始まってからは、日本語だけで文句を言っていても教官には通じなくなった。そのため、教官の指示を理解できず、何度も動作をやり直させられることが増えていた。

 

 もっとも、佐々木たちもまったく何も覚えないわけではなかった。

 

 毎日繰り返される号令や、訓練に必要な短い言葉については、少しずつ理解できるようになっていた。

 

 ただ、真面目に取り組む生徒たちとの差は、なかなか縮まらなかった。

 

 教官たちは、できないこと自体を責めることはなかった。

 

 しかし、故意に訓練を怠った場合には厳しく注意した。

 

 日本の学校であれば、教師に反抗して授業を抜け出すこともできたかもしれない。

 

 だが、ここではそうはいかなかった。

 

 訓練施設には常に教官や当直兵がおり、無断で施設を離れることは許されなかった。

 

 佐々木たちは相変わらず不満を口にしていたが、少なくとも公然と訓練を放棄することは難しくなっていた。

 

*

 

 十月になると、ベルノの朝はかなり冷え込むようになった。

 

 兵舎の窓から見える木々は色づき、朝の点呼では白い息が見える日もあった。

 

 夏の間は汗をかきながら走っていた訓練場にも、冷たい風が吹き抜けるようになっていた。

 

 高橋たちは、すでに三か月近く訓練を続けていた。

 

 最初は帝国共通語の文字さえ読めなかったが、今では教官の簡単な指示なら、ほとんど通訳なしで理解できるようになっていた。

 

 兵舎でも、現地新兵たちと普通に会話する機会が増えていた。

 

 もちろん、難しい話になれば言葉に詰まる。それでも、日常生活で困ることは以前よりずっと少なくなっていた。

 

 軍事訓練も本格化していた。

 

 小銃を持って行進し、装備を背負って長い距離を歩く。射撃場では実弾射撃を繰り返し、塹壕では掘削や陣地構築の訓練を行った。

 

 夜間訓練も始まっていた。

 

 暗くなった訓練場を移動し、教官の指示に従って所定の場所へ集合する。

 

 昼間なら簡単に見つけられる目標も、暗闇の中では見つけにくかった。

 

 高橋は何度か道を間違えそうになり、サクに助けられたこともあった。

 

 また、防毒面の装着訓練も行われた。

 

 帝国軍では毒ガスが使われる戦場もあるため、防毒面を素早く装着できることが重要だと説明された。

 

 初めて防毒面をつけた時、高橋は息苦しさに驚いた。

 

 視界も狭くなり、周囲の音が聞き取りにくい。その状態で歩いたり、教官の指示に従って動いたりするのは、思っていたより難しかった。

 

 それでも、何度も繰り返すうちに少しずつ慣れていった。

 

 射撃の成績は、相変わらずよかった。

 

 教官たちが記録を確認するたびに、高橋の名前が上位にあった。

 

 最初は偶然かもしれないと思っていた高橋自身も、何度もよい成績が続くうちに、どうやら自分は射撃が得意らしいと認めざるを得なくなっていた。

 

 ただ、銃に詳しいわけではなかった。銃器の構造や性能については、今でも井上の方がよく知っている。

 

 高橋は、教官の指示通りに銃を扱い、標的をよく見て、落ち着いて撃つ。

 

 それが自分には合っているのだろうと思っていた。

 

 石井からは何度か射撃成績について声をかけられた。教官たちも、高橋の記録を確認しているらしい。

 

 しかし、高橋はそのことを深く考えなかった。

 

 訓練で標的に当てられることと、戦場で生き残れることが同じだとは思えなかったからだ。

 

*

 

 十月も終わりに近づいた頃、訓練施設では部隊配属の準備が始まった。

 

 高橋たちは、これまでの訓練結果や成績が記録され、各部隊への配属を決める資料になると説明された。

 

 ある日の午後、石井軍曹が講堂にやってきた。

 

 高梨伍長も一緒だった。

 

 石井は黒板の前に立つと、チョークを手に取った。

 

「さて、そろそろお前たちの配属先について説明しておこう」

 

 生徒たちが顔を上げた。

 

 これまでの訓練中にも、配属についての話は何度か聞いていた。しかし、具体的な説明を受けるのは初めてだった。

 

「最初に言っておくが、お前たちの配属先は、ほぼ基幹中隊になる」

 

「基幹中隊?」

 

 川崎が尋ねた。

 

「そうだ。連隊の戦闘力の中心になる部隊だな」

 

 石井は黒板に文字を書き始めた。

 

 第1歩兵中隊。

 

 第2歩兵中隊。

 

 第3歩兵中隊。

 

 第4歩兵中隊。

 

 砲兵中隊。

 

「今のベルノ連隊には、四つの歩兵中隊と一つの砲兵中隊がある。この五つが基幹中隊だ」

 

 石井は黒板を指した。

 

「新兵は基本的に、まずこの五つの中隊へ配属されることになる」

 

「じゃあ、全員が歩兵か砲兵になるんですか?」

 

 井上が尋ねた。

 

「ほとんどはそうなるな。もちろん、特別な技能がある者や、連隊側の事情によっては別の部署へ回る場合もある。だが、今のお前たちは、まず基幹中隊へ入ると考えておけばいい」

 

「補給とか整備とかは?」

 

 別の男子生徒が尋ねた。

 

「そういう仕事もある。ただ、新兵を最初から後方部門に大量に配属するわけじゃない。軍隊生活の基本を覚え、兵士として経験を積んでから転属することもある」

 

 石井は少し間を置いた。

 

「俺は第3歩兵中隊の分隊長だ。だから、お前たちの中にも、俺の中隊へ来る者がいるかもしれんな」

 

 その言葉に、生徒たちの間から声が上がった。

 

「石井さんと一緒の部隊になる可能性があるんですか?」

 

「ああ。もちろん、誰がどこへ配属されるかはまだ決まっていないがな」

 

 川崎が手を上げた。

 

「歩兵と砲兵って、どっちが危険なんですか?」

 

 石井は少し考えた。

 

「どちらも危険だ」

 

「そうなんですか?」

 

「歩兵は敵に近い場所で戦うことが多い。砲兵は比較的後方に配置されることもあるが、敵の砲撃を受けることもある。どちらが安全だとは簡単には言えないな」

 

 井上が口を開いた。

 

「砲兵中隊の主力は、120ミリ砲ですよね?」

 

「そうだ。よく知ってるな」

 

「訓練場の近くで見ました」

 

 井上は少し嬉しそうだった。

 

「砲兵も面白そうだな……」

 

 その隣で山田が呆れた顔をした。

 

「お前、兵器があればどこでもいいのか?」

 

「そんなことないって」

 

 井上が笑った。

 

 そのやり取りを聞いて、近くの生徒たちも笑った。

 

 しかし、高橋は黒板に書かれた五つの中隊名を見つめていた。

 

 歩兵。

 

 砲兵。

 

 これまで何度も聞いてきた名前だった。

 

 だが、実際に自分がその中のどこかへ配属されると考えると、急に現実味が増してきた。

 

 石井は黒板を指した。

 

「配属先は、これまでの訓練成績や適性、それから各中隊の人員の状況を見て決められる。希望は聞かれることもあるが、必ず通るわけじゃない」

 

「じゃあ、射撃が上手い人は歩兵になるんですか?」

 

 誰かが質問した。

 

「そうとも限らん。砲兵でも小銃を使うし、適性は射撃だけで決まるものじゃないからな」

 

 石井はそう答えた後、ちらりと高橋を見た。

 

 高橋はその視線に気づいた。

 

 しかし、石井は何も言わなかった。

 

「とにかく、まだ配属先は決まっていない。決まるまでは、今まで通り訓練を続けてくれ」

 

 石井はチョークを置いた。

 

「それと、配属されたからといって訓練が終わるわけじゃないぞ。むしろ、そこからが本格的な部隊訓練だ」

 

 生徒たちの間に小さなどよめきが広がった。

 

「まだ訓練するんですか?」

 

 川崎が思わず声を上げた。

 

「当たり前だろ」

 

 石井は笑った。

 

「今のお前たちは、ようやく兵士としての基本を覚え始めたところだ。実際に部隊の一員として戦えるようになるには、まだまだ訓練が必要なんだよ」

 

 川崎は肩を落とした。

 

 高橋は少し笑った。

 

 しかし、石井の言っていることはよくわかった。

 

 三か月前に比べれば、できることは確かに増えた。だが、それで戦場に立てるとは思えなかった。

 

 これから、それぞれの中隊でさらに訓練を受けるのだろう。

 

*

 

 その日の夕方、高橋は兵舎の寝台に腰を下ろし、帝国共通語のノートを開いていた。

 

 最初のページには、七月に習った簡単な挨拶の文字が書かれている。

 

 今見ると、ずいぶん不格好だった。

 

 線の向きが間違っている文字もある。

 

 高橋は思わず笑った。

 

 三か月前には、こんな簡単な文字を書くことさえ難しかった。

 

 それが今では、現地の兵士と日常会話をすることもできる。

 

 高橋はノートを閉じた。

 

 上段ではサクが荷物を整理していた。

 

 向かい側の寝台では、水野とリュージュが何かを話している。

 

 水野の帝国共通語は、以前よりずっと自然になっていた。リュージュも水野の話を聞きながら、ときどき楽しそうに笑っていた。

 

 高橋はその様子を眺めていた。

 

 最初の日、水野は持久走で倒れそうになっていた。夜には寝台に横になり、ぐったりしていた。

 

 今でも訓練の後は疲れているが、以前ほどではない。

 

 体形も少し引き締まり、歩く姿にも以前より軽さが感じられるようになっていた。

 

 何より、今では岡田や自分と一緒に走れる。

 

 高橋自身も、この三か月で少し変わった気がしていた。

 

 筋力がつき、長い距離を歩くことにも慣れた。銃を持って行進することも、以前ほど苦にならなくなった。

 

 射撃では、思いがけず高い成績を残している。

 

 そして、帝国共通語が少しずつ理解できるようになった。

 

 その時、兵舎の入口から川崎が顔を出した。

 

「おい、高橋」

 

「何?」

 

「明日も訓練だってさ」

 

「そうだろうね」

 

「いつまで続くんだろうな」

 

 川崎は高橋の隣に腰を下ろした。

 

 少し離れた寝台から千尋もやってきた。

 

「配属が決まるまでは続くんじゃない?」

 

「そうなのかな」

 

 川崎はため息をついた。

 

「もう十分訓練した気がするんだけど」

 

「まだ三か月だよ」

 

 千尋が言った。

 

「でも、日本の学校だったら夏休みが終わって、二学期が始まってる頃だぞ」

 

「そうだね」

 

 高橋はうなずいた。

 

 川崎は窓の外を眺めた。

 

「日本じゃ今頃、何してるんだろうな」

 

 その言葉に、高橋は少し考え込んだ。

 

 日本には、もう一人の自分がいる。

 

 その自分は、きっと何も知らずに学校へ通っているのだろう。

 

 授業を受け、友人たちと話し、家に帰っている。こちらの世界で自分が軍事訓練を受けていることなど、知るはずもない。

 

 高橋は窓の外を見た。

 

 夕暮れのベルノの街が見えていた。石造りの建物の屋根が、傾いた日差しを受けて赤く染まっている。

 

 遠くからは鐘の音が聞こえ、連隊の兵士たちが訓練を終えて兵舎へ戻っていく姿が見えた。

 

 三か月前には、何も知らない街だった。

 

 今では、少しだけ見慣れた風景になっていた。

 

「配属、どこになるんだろうな」

 

 川崎がつぶやいた。

 

「わからないよ」

 

 高橋は答えた。

 

「第1から第4までの歩兵中隊か、砲兵中隊のどこかだろうね」

 

「できれば楽なところがいいなあ」

 

 川崎はそう言って笑った。

 

 千尋が呆れたように言った。

 

「川崎君、またそんなこと言ってる」

 

「だって、誰だってそう思うだろ」

 

 高橋も笑った。

 

 その時、水野がこちらへ顔を向けた。

 

「みんな、配属の話?」

 

「はい」

 

 高橋が答えた。

 

 水野は少し考えた後、静かに言った。

 

「私も、どこになるのか気になるわね」

 

「先生は頭いいから、砲兵とか向いてるんじゃないですか?」

 

 川崎が言った。

 

「どうかしら。数学なら得意だけど、軍隊の仕事はまだわからないことばかりだから」

 

 水野は苦笑した。

 

「それに、配属先を自分で決められるわけじゃないものね」

 

 高橋はうなずいた。

 

 石井は、ほとんどの新兵が基幹中隊へ配属されると言っていた。

 

 四つの歩兵中隊と、一つの砲兵中隊。

 

 どこへ行っても、いずれ前線に立つ可能性がある。

 

 そのことは変わらなかった。

 

 しかし、水野は少し明るい表情になった。

 

「でも、最初の頃よりは、ずっとできることが増えたと思うわ」

 

「そうですね」

 

 高橋も笑った。

 

「先生なんか、もう俺や岡田と一緒に走れますからね」

 

「そうなのよ」

 

 水野は嬉しそうに答えた。

 

「最初の頃は、高橋君がずいぶん先に行ってしまって、ついていけなかったのに」

 

「今度は先生に追い抜かれるかもしれませんね」

 

「それはまだ無理だと思うわ」

 

 水野が笑った。

 

 川崎が横から口を挟んだ。

 

「先生、俺なら追い抜けますよ」

 

「そうかしら?」

 

「いや、たぶん追い抜かれてるかも……」

 

 川崎は少し考えてから、苦笑した。

 

 千尋が笑った。

 

「川崎君も頑張らないとね」

 

「委員長、厳しいなあ」

 

 四人の笑い声が、兵舎の中に小さく響いた。

 

 その会話を聞いていたサクが、高橋に何かを尋ねてきた。

 

 高橋は帝国共通語で簡単に説明した。

 

 今度はサクも笑った。

 

 高橋は、そのことが少し嬉しかった。

 

 三か月前なら、日本語で話している自分たちの会話を、現地新兵に説明することなどできなかった。

 

 今では、簡単な冗談くらいなら伝えられる。

 

 こうして少しずつ、自分たちもこの世界の一員になっていくのだろう。

 

*

 

 夜が更けると、兵舎の中は少しずつ静かになっていった。

 

 窓の外では冷たい風が木々を揺らし、乾いた葉が石畳を転がる音が聞こえていた。

 

 高橋は自分の寝台に戻り、毛布を引き寄せた。

 

 上段ではサクがすでに横になっている。

 

 向かい側では、水野とリュージュが翌日の準備を終えたところだった。

 

 川崎と千尋も、それぞれの寝台へ戻っていった。

 

 やがて消灯の鐘が鳴った。

 

 兵舎の照明が落とされ、室内が静かになっていく。

 

 高橋は毛布の中で目を閉じた。

 

 七月、突然この世界に現れた。

 

 帝国の自由民となり、軍務に就くことを選んだ。

 

 それから三か月。

 

 帝国共通語を覚え、身体を鍛え、銃を扱うことも学んだ。

 

 まだ一人前の兵士とはいえない。だが、最初の頃とは明らかに違っていた。

 

 今では教官の言葉を理解し、現地新兵たちと会話もできる。

 

 持久走では余裕をもって走れるようになり、射撃では教官から高い評価を受けるようになった。

 

 水野も、最初の頃とは見違えるほど体力がついた。川崎や井上、山田たちも、それぞれの得意不得意を抱えながら訓練を続けている。

 

 そして、サクやリュージュたち現地新兵とも、同じ兵舎で生活する仲間になった。

 

 高橋は、今日石井が黒板に書いた五つの中隊名を思い出した。

 

 第1歩兵中隊。

 

 第2歩兵中隊。

 

 第3歩兵中隊。

 

 第4歩兵中隊。

 

 そして、砲兵中隊。

 

 間もなく、自分たちはそのどこかへ配属される。

 

 配属されれば、今度はそれぞれの部隊で本格的な訓練を受けることになる。

 

 その先には、戦場が待っているのかもしれない。

 

 石井は、年が明けた頃に前線へ派遣されるのではないかと言っていた。

 

 まだ正式な命令は出ていない。

 

 それでも、その日は少しずつ近づいていた。

 

 高橋は静かに息を吐いた。

 

 日本にいた頃の自分なら、こんな生活を想像することさえできなかっただろう。

 

 知らない言葉を覚え、見知らぬ人々と暮らし、銃を持って訓練する。

 

 今では、それが毎日の生活になっている。

 

 窓の外では、秋の冷たい風が木々を揺らしていた。

 

 高橋亘一たち第20期召喚者の基礎訓練は、終わりに近づいていた。

 

 次に待っているのは、それぞれの部隊への配属だった。

 

 

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