いつもの4人で夏祭りに来たようです。
「はい、注目!」
プールからの帰り道、夕焼けに染まる商店街のアーケードでリンが一枚のポスターをびしっと指さした。
『超絶鬼スーパー夏祭り・極みプレミアムW 八月十日 花火大会 十九時半より』
「……聞いたことあるフレーズだね」
レンがぽつりとつぶやいた。
その瞬間、ケイヤの脳裏に崖のような急勾配と係員の「しっかり」がよみがえった。腕の中の感触。至近距離で振り返った顔。耳の奥でざっぱーんと水しぶきの音が鳴る。
「ケイヤ、顔が……」
「……なんでもない」
ケイヤはポスターから全力で目をそらした。この街の人々はとにかく名前を盛りたいらしい。
「とにかく! 来週の夏祭り、四人で行こう!」
「いいね、行きたい!」
ミクがぱっと手を挙げた。プールの疲れなどまるで感じていない顔だ。
「ケイヤ君も行くよね?」
「あ、はい。皆さんが行くなら」
その隣でレンだけが遠い目をしていた。リンの目の奥に次の作戦の炎がめらめらと燃えているのが見えたからである。
*
夏祭りの当日。
ネストの門限は二十一時だが祭りの日は外出届を出せば延長できる。受付には夕方から届けを出すアンドロイドたちの列ができていた。
ネストの一階の和室では職員が少女たちに次々と浴衣を着付けていた。衣装ラックには貸し出し用の浴衣がずらりと並んでいる。
「ミク、どれにする? あたしはこれ! 金魚!」
リンはオレンジの地に金魚が泳ぐ浴衣を迷わず手に取った。
ミクはラックの前で首をかしげていた。赤い椿。紺の花火柄。黄色の向日葵。白地に淡い青緑の朝顔。
「うーん……」
判断回路が柄と髪の色との相性を計算する。どれも悪くない。決め手がない。
「ねえ、リン」
「なに?」
「ケイヤ君はどれがいいと思うかな」
言ってからミクは自分の言葉にきょとんとした。
どうして今、ケイヤ君の名前が出てきたんだろう。浴衣を選ぶのにケイヤ君の好みは計算の条件に入っていなかったはずなのに。
リンの口元がにやーっと緩んだ。
「……へえー。ケイヤ君は、ねえ」
「ち、違うよ? ただ、その、男の子の意見も参考になるかなって」
「はいはい。じゃあ、ケイヤ君が好きそうなのは――これかな」
リンが指さしたのは白地に淡い青緑の朝顔の浴衣だった。
「ミクの髪の色とおそろいみたいでしょ。ケイヤ君こういう清楚な感じ、絶対好きだよ」
「そうなの?」
「あたしの勘」
根拠はリンの勘だけ。それなのにミクはなぜかこれがいいと思えた。
同じころ。音無家のマンション。
ケイヤは自室のクローゼットの奥から紺色の甚平を引っぱり出していた。中学の時に母が買ってくれたものだ。袖を通してみる。少し丈が短いがまだ着られないことはない。
鏡の前に立ってしばらく自分の姿を眺めた。
――これを着ていったら張り切っていると思われるだろうか。
でも、レンはきっと普段着で来る。自分だけ甚平で初音さんに「どうしたの?」と聞かれたら。
ケイヤは甚平をたたみ、いつもの白いシャツに袖を通した。
「……いってきます」
返事のない玄関に向かって言い、ケイヤは家を出た。
*
時計台広場に現れたミクとリンを見て、ケイヤとレンは同時に動きを止めた。
金魚柄のリンと朝顔柄のミク。ミクのツインテールを結ぶリボンも今日は浴衣に合わせた水色だ。
「どうかな? ネストの職員さんが着付けてくれたの」
ミクは袖を広げてくるりと回った。
ケイヤは今度は首を横に向けなかった。首を痛めたくなかったので代わりに空を見上げた。
「……似合ってます。とても」
「ほんと? えへへ、よかった」
「ケイヤ君、なんで空見ながら言うの?」
「いい空だなと、思って……」
リンがレンの脇腹を肘でつついた。レンは黙ってうなずいた。
*
神社へと続く参道には屋台がずらりと並んでいた。提灯の明かりが灯り始め、太鼓の音がどこからか響いてくる。
「わあ、すごい! ネギ焼きの屋台ある!」
「ミク、まずそこ!?」
ネギ焼きを頬張って幸せそうな顔をするミク。りんご飴を三本同時に買うリン。それを全部持たされるレン。
射的の屋台の前でケイヤが足を止めた。棚の最上段に見覚えのあるドット絵の騎士のキーホルダーが並んでいる。
「『スターダスト・ナイト』のグッズ……こんなところに」
「狙ってみたら?」
ケイヤはコルク銃を構えた。一発目、二発目と大きく外れる。三発目は、隣に吊るされた小さなネギのマスコットに当たって、それだけがぽとりと落ちた。
「……ゲームなら当たるのに」
屋台のおじさんが落ちた景品を差し出した。ボールチェーン付きのふわふわのネギのマスコットだった。
ケイヤはそれを受け取ると、迷わずミクのほうへ差し出した。
「これ、初音さんに。ネギ、好きですよね」
「えっ、いいの!?」
「狙ったものとは違いますけど……僕が持っているより初音さんのほうが似合うと思うので」
「ネギ! かわいい!」
ミクは顔を輝かせ、さっそく巾着にぶら下げた。
「ありがとう、大事にするね」
それからミクは屋台の棚の最上段を見上げた。騎士のキーホルダーがまだそこで揺れている。
「じゃあ、お返しにわたしがあれを取ってあげる」
「え?」
ミクが銃を構えた。距離、角度、コルクの重さ。判断回路が一瞬で軌道を弾き出す。
ぽん、と軽い音がした。騎士のキーホルダーがころんと棚から落ちた。
「当たった!」
ミクは景品のキーホルダーを受け取ると、そのままケイヤの手のひらに乗せた。
「はい、ケイヤ君の。これでおそろいの交換だね」
「……ありがとうございます」
ケイヤは手のひらの小さな騎士を見下ろした。一発で決めた初音さんと三発外した自分。少しだけ情けない。けれどそれ以上になんだか嬉しかった。
四人でにぎやかに屋台を巡り、三十分ほどが過ぎた頃だった。
「あっ、レン! あっちに、わたあめの限定フレーバーがある!」
「え、どこ……?」
「ほら、早く! 売り切れちゃう!」
リンはレンの腕をがしっとつかむと、人混みの中へ突進していった。
「ちょ、リン!? ミクさんたちは……!」
「すぐ戻るー!」
声だけを残して二人の姿はあっという間に見えなくなった。
残されたミクとケイヤは顔を見合わせた。
「……行っちゃったね」
「行っちゃいましたね」
もちろんリンの作戦である。限定フレーバーなど存在しない。
――ところがその作戦には一つだけ誤算があった。
「ねえリン、ミクさんたち、どこ……?」
「え? あそこの角にいるはず……あれ?」
物陰から見守るつもりが祭りの人出はリンの想像をはるかに超えていた。振り返った時には二人の姿は浴衣の波に紛れて消えていたのである。
「見失った……」
「作戦の意味……」
レンはりんご飴三本を力なく見下ろした。
それから二人は参道を何度も往復した。どこを探しても白い朝顔の浴衣と白いシャツは見当たらない。
「もう、なんでこんなに人がいるの!」
「お祭りだから……」
神社の石段の脇でリンはようやく立ち止まった。ぜえぜえと肩で息をしている。レンはその隣に腰を下ろした。
しばらく二人とも黙っていた。遠くで太鼓の音が鳴り続けている。
「……ねえ、レン」
「なに?」
「あたしさ、ミクが笑ってるの見るの、好きなんだよね」
リンは膝を抱えて提灯の明かりを見上げていた。いつもの騒がしさが嘘のように静かな声だった。
「ミクってネストに来たばっかりの頃、笑い方が教科書通りだったでしょ。あたしそれがずっと気になってて」
「……うん。覚えてる」
「でも最近のミク、なんか違うんだよ。ケイヤ君の話してる時とか、特に。ほんとに楽しそうに笑うの」
リンは少しだけ口をとがらせた。
「だから確かめたかったの。面白半分なのも、まあ、ちょっとはあるけど。……ミクがあんなふうに笑えるなら、それってすごくいいことじゃん」
レンは隣の姉の横顔を見た。
わがままで騒がしいリン。けれど誰よりも先にミクの変化に気づいていたのもリンだった。
レンは手に持っていたりんご飴を一本、黙ってリンに差し出した。
「……なに?」
「リンが買ったやつ。一本くらい自分で食べなよ」
リンは目をぱちくりさせて、それからふっと笑った。
「……レンのくせに、生意気」
りんご飴をかじる音がぱりっと響いた。
*
一方、ミクとケイヤはリンたちの消えた方向へと人混みをかき分けていた。
「鏡音さん、どこまで行ったんでしょう」
「メッセージ送ったけど、まだ既読つかないや」
花火の打ち上げが近づくにつれて参道の人出は目に見えて増えていった。肩と肩がぶつかり合い、前に進むのもひと苦労になる。
その時、前方から団体客らしき人の波がどっと押し寄せてきた。
「わっ――」
ミクの小さな体が人の流れに押されてケイヤから引き離されそうになった。
考えるより先にケイヤの手が伸びていた。
ミクの手首――ではなく手のひらをしっかりとつかむ。
ぐい、と引き寄せる。人の波が二人の横を通り過ぎていった。
「……大丈夫ですか」
「う、うん。ありがとう」
息をついてケイヤは自分の右手を見下ろした。
そこにミクの左手が収まっていた。
小さくて、少しひんやりしていて、柔らかい手。
「――っ、ご、ごめんなさい!」
ケイヤはまるで火傷でもしたかのようにぱっと手を離した。
「えっ」
「その、とっさに……すみません」
「ううん、大丈夫だよ。助けてくれたんだもん」
ミクはにこりと笑ってみせた。
けれど手が離れたその瞬間、ミクの中で何かが小さく欠けたような感覚が走っていた。
*
少し歩くと、参道を外れた細い脇道に出た。ここまで来ると人はまばらになる。屋台の喧騒が少し遠くに聞こえた。
二人は並んでゆっくりと歩いた。
手はつないでいない。
ケイヤはさっきの自分の行動を思い出しては何度も頭の中で謝っていた。とっさとはいえ、女の子の手を勝手につかんでしまった。初音さんは嫌じゃなかっただろうか。
隣を歩くミクは黙って何かを考え込んでいた。
――さっきのあの感覚はなんだったんだろう。
手をつかまれた時、ミクの処理は一瞬、完全に止まった。驚いた、のとは少し違う。けれど、嫌だった、のとはもっと違う。
そして手が離れた時。
何かが欠けたような、物足りないような感覚。分類できない数値がログの上で点滅している。
プールの時、ぐったりしたケイヤの手を引いて立ち上がらせた。あの時は何も感じなかった。同じケイヤの手なのに。
――わからない。わからないけど。
ミクは自分の左手をそっと握ったり開いたりしてみた。
「花火、そろそろですね」
ケイヤの声で、ミクは顔を上げた。
脇道の先に花火の観覧場所になっている河川敷が見えていた。そして、そこへ向かう人の波がまたしても大きく膨れ上がっている。参道の比ではない混雑だった。
「……すごい人ですね。はぐれないように気をつけないと」
ケイヤが少し不安そうにつぶやいた。
ミクは目の前の人波を見つめた。
判断回路がいくつもの選択肢を検討する。
服の袖をつかむ。
後ろをぴったりついて歩く。
はぐれた場合の待ち合わせ場所を決めておく。
それぞれの成功率と所要時間を比較する。
そして結論が出た。
「ねえ、ケイヤ君」
「はい」
ミクはケイヤに向かって左手をまっすぐに差し出した。
「この人混みだとはぐれたら合流するのに時間がかかるから。手をつなぐのが最適だと思う」
「……え」
ケイヤは差し出された手とミクの顔とを何度も見比べた。
ミクの表情はいたって真面目だった。数学の問題の答えを言うのと同じ顔をしている。
「さ、最適、ですか」
「うん。袖をつかむより確実だし、合流場所を決めるより時間のロスがないの。計算したから間違いないよ」
「計算……」
ケイヤは思わず小さく吹き出した。
――初音さんらしい。
さっきまであれほど気にしていたのに。この人の前では悩んでいたのが馬鹿らしくなる。
「……わかりました。最適、なら」
ケイヤは差し出されたミクの手をそっと握った。
今度はとっさにではなく、自分の意思で。
その瞬間だった。
ミクの処理が、また止まった。
計算は正しかったはずだ。手をつなぐのははぐれないための最適解。合理的な判断。それ以上の意味はない。
それなのに。
手のひらから伝わってくるケイヤの体温に思考がまったく追いつかない。頭部の温度がぐんぐん上がっていく。冷却用の人工汗が額ににじむ。プールの時よりもずっと速く。
――あれ? あれ?
自分で言い出したことなのに。理屈ではちゃんとわかっているのに。
ミクはつないだ手を見下ろしたまま、何も言えなくなった。
「……初音さん?」
「な、なんでもない! い、行こう!」
ミクはぎこちなく前を向いた。ケイヤはミクの横顔がほんのりと赤く染まっていることに気づいたのか、気づかなかったのか。何も言わずにミクの手を引いて歩き出した。
*
河川敷の土手に二人はなんとか座る場所を見つけた。
手はまだつないだままだった。座ったのだからもうはぐれる心配はない。離すのが最適なはずだった。
けれどどちらも離そうとはしなかった。
ひゅるるる――と、夜空に一筋の光が昇っていく。
どん、と腹の底に響く音とともに大きな光の花が開いた。
「わあ……!」
赤、黄、緑。次々と打ち上がる花火が川面に映ってきらきらと揺れる。歓声が河川敷のあちこちから上がった。
ミクは夜空を見上げていた。
ケイヤも夜空を見上げていた。
――正確に言えば、二人とも夜空を見上げるふりをしていた。
ケイヤの意識は花火ではなく、ほとんどすべてが右手に集まっていた。
手のひらに収まったミクの手。指の細さ。爪の小さな硬さ。思っていたよりずっと華奢だ。握り方はこれで合っているのだろうか。強すぎないだろうか。それとも弱すぎて頼りなく思われていないだろうか。
何より困ったのは手のひらが汗ばんできたことだった。
――まずい。手汗、絶対ばれてる。
拭きたい。けれど拭くためには一度手を離さなければならない。離したらもう一度つなぐきっかけなんて、二度と来ない気がする。ケイヤは花火の音に合わせてひたすら息を整えるふりをした。
一方のミクも気が気ではなかった。
頭部の冷却がまったく追いつかない。額からにじんだ人工汗がこめかみを伝っていく。暗くて本当によかった。明るい場所だったら顔の温度まで見抜かれてしまいそうだ。
――わたしの手、熱くなってないかな。
つないだ手のひらに自分の汗がにじんでいるのか、ケイヤの汗なのか、もうわからない。
ふと、ケイヤの親指がほんのわずかに動いた。手の甲をそっとかすめるように。
ミクの肩がびくっと跳ねた。
「ご、ごめんなさい。今のは、その、わざとじゃ……」
「う、ううん! だ、大丈夫……!」
二人の声が同時に裏返った。
それきり、また黙り込む。
ケイヤは顔を夜空に向けたまま動かせなかった。ミクもケイヤのほうを一度も見ることができなかった。目が合ったら何かが壊れてしまいそうで。
どん、どん、と花火が上がる。その音の合間に自分の鼓動まで聞こえてしまいそうで、二人とも身じろぎ一つできなかった。
恥ずかしい。
ミクはその言葉の意味を知識としては知っていた。けれどこんなにも体じゅうが熱くなって、逃げ出したいのに逃げ出したくない、矛盾した状態のことだとは知らなかった。
それでもつないだ手を離そうとはどちらも言い出さなかった。
ミクはこの夜のことをログに記録した。
花火、たくさん。とてもきれい。
それから分類できない数値が一つ。勉強会の最終日の夜よりも、図書室の前で空いた席を見た時よりも、スライダーの後よりも、ずっとずっと大きな数値。
その数値にはまだ名前がない。
けれどなぜだろう。その数値を消してしまいたいとは少しも思わなかった。
*
そのころ、河川敷の反対側の端で。
「どこにもいないーっ!」
リンが、空を見上げる人々の間で頭を抱えていた。
「メッセージ、ミクさんから来てたよ。『はぐれちゃった。ケイヤ君と花火見てるね』だって」
「どこで!? どこで見てるの!? 何してるの!?」
「花火を見てるんだと思う……」
レンはりんご飴の最後の一本をかじりながら、ぽつりと言った。
「リン。せっかくだしぼくたちも花火見ようよ」
「うう……あたしの作戦がぁ……」
リンはしぶしぶ土手に腰を下ろした。
頭上でひときわ大きな花火が開いた。その光の下のどこかで二人が何をしているのか。リンには知るよしもなかった。
*
最後の大きな花火が夜空いっぱいに枝垂れて消えていった。
河川敷のあちこちから拍手が起こり、人々がゆっくりと立ち上がり始める。
ミクとケイヤも土手から腰を上げた。
手はまだつないでいた。
「……終わっちゃいましたね」
「うん。終わっちゃったね」
帰りの人の流れは来た時ほどの勢いはない。もうはぐれる心配はなさそうだった。
つまり、手をつないでいる理由はもうない。
二人はほとんど同時にそのことに気づいた。
「あ、あの、そろそろ……」
「う、うん。そ、そうだね」
ケイヤが指の力をゆるめる。ミクもそっと手を引いた。
するり、と手のひらが離れる。夜風が汗ばんだ手のひらを冷やしていった。
さっき参道で手が離れた時と同じ感覚がした。何かが小さく欠けたような。けれど今度はその欠けた形をミクははっきりと覚えていた。
ケイヤの手の大きさ。指の長さ。あたたかさ。
「ミクー! ケイヤくーん!」
人混みの向こうから聞き慣れた声が飛んできた。りんご飴の棒を三本握ったレンを引きずるようにしてリンが駆けてくる。
「やっと見つけた! もう、どこにいたの!?」
「リンたちこそどこ行ってたの? わたあめは?」
「わ、わたあめは、その……売り切れてた!」
「残念だったね」
リンはミクとケイヤの顔を交互に見比べた。
「で、二人は何してたの?」
「花火見てたよ。すっごくきれいだった!」
「……それだけ?」
「それだけだよ?」
嘘ではない。ただ、手のことはなぜか言わなかった。判断回路がそう答えたわけではない。なんとなくあの時間は自分とケイヤだけのものにしておきたかった。
隣でケイヤが小さく咳払いをした。その手の中に騎士のキーホルダーがしっかりと握られていた。
*
その夜。
ケイヤは誰もいないマンションに帰ってきた。
自室の机に向かって座り、しばらく自分の右手を眺めていた。
まだ、感触が残っていた。
小さくて、少しひんやりしていて、それなのにだんだん温かくなっていった手。細い指。花火の音に合わせて、ほんの少しだけ力がこもった瞬間。
――手汗、本当にばれてなかっただろうか。
思い出した途端に顔が熱くなった。ケイヤは机に突っ伏して、しばらく動けなかった。
最適だから。初音さんはそう言った。きっと本当にそれだけなのだろう。
それでも自分は。
ケイヤは顔を上げポケットから騎士のキーホルダーを取り出した。少し考えてから通学カバンの持ち手にそっと付ける。ドット絵の騎士が小さく揺れた。
――二学期になったら毎日これを持って学校へ行く。
それだけのことなのになんだか少しだけ二学期が楽しみになった。
同じころ、ネストのミクの部屋。
部屋着に着替えたミクは巾着からネギのマスコットを外していた。
ふわふわの手のひらに収まるネギ。ケイヤ君が狙いを外してそれでも迷わずくれたもの。
ミクはそれを通学カバンのファスナーに付け替えた。
――二学期になったら毎日これを持って学校に行く。
そう思った時ログにまた小さな数値が一つ増えた。今日のログはもう分類できない数値でいっぱいだった。
ミクはそれを一つも消さずにそっと保存した。
(第十話 了)
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
次回「第十一話 届かなかった午後(前編)」
ボリューム過多となったため初の前編・後編でお届けします。