続きをどうぞ。
中央公園の野外ステージ裏。白いテントが三つ並んだ控え室には出番を待つ出演者たちの声と楽器の音合わせの音が入り混じっていた。
ピアプロ学院軽音部の出番は十五時から。開演まであと二時間。
「ミク、リボン曲がってるよ。じっとして」
「ありがと、リン」
ステージ衣装に着替えたミクの髪をリンが手際よく整えていく。白と青緑を基調にした軽やかな衣装。リンはオレンジと白のおそろいのデザインだ。
「ケイヤ君、もう大会終わったかな」
「お昼過ぎって言ってたから、そろそろじゃない?」
ミクは膝の上のスマートフォンを見下ろした。今朝送った『終わったら、待ってるね』にまだ既読がついたまま返信はない。
大会で忙しいのだろう。ミクはそう判断して画面を伏せた。
その時、スマートフォンが震えた。
ケイヤからだった。ミクはぱっと画面を開き、浮かんだ文字を読む。
それから、もう一度読んだ。
『ごめんなさい。大会の機材トラブルで出番が午後三時過ぎになってしまいました。夏フェスに間に合いそうにありません。本当にごめんなさい』
「ミク? どうしたの?」
リンがミクの顔をのぞき込んだ。
「……ケイヤ君、来られなくなっちゃった」
「えっ!?」
「大会で機材のトラブルがあったんだって」
「はあ!? なにそれ!」
リンはミクの手からスマートフォンを奪い取るようにして画面を読んだ。それからむっと頬をふくらませる。
「抜けてくればいいじゃん! レンに任せてさ! あたし、今からレンに電話して――」
「だめだよ、リン」
ミクは静かにリンの手を押さえた。
「二人一組の大会なんだって。ケイヤ君が抜けたらレン君が一人になっちゃう。レン君、すごく頑張って練習してたんでしょ?」
「それは、そうだけど……」
「ケイヤ君はレン君を置いていかなかったんだよ。それってすごく正しいことだと思う」
リンは何か言いかけて口を閉じた。ミクの顔をじっと見つめる。
「……ミクはそれでいいの?」
「うん。しょうがないよ」
ミクはにこりと笑った。
判断回路が状況を整理する。
原因は機材の故障。誰かが悪いわけではない。ケイヤ君は部の大事な大会に出ている。レン君と一緒に最後まで出ると決めた。それは正しい判断だ。友達を置いていかないのはとても良いことだ。
だから悲しむ理由はどこにもない。
――それなのに。
ミクの胸の奥に重たい何かがずしりと沈んでいった。
昨日の夜、ケイヤに初めて歌を聴いてもらえると思った時のあの温かいものとは正反対の何か。冷たくて、重くて、どこにも行き場のない何か。
これはたぶん知識として知っている「悲しい」だ。
けれど悲しむ理由がないのに悲しいなんて、そんなことがあるのだろうか。
ミクは自分の胸に手を当て、自己診断を走らせる。
冷却系統、正常。
演算処理、正常。
どこにも異常はない。
異常はないのに重たい。
「ミク」
テントの入り口にルカが立っていた。和紅茶の入った水筒を手に静かにミクの隣に腰を下ろす。
「話は聞こえたわ。……残念ね」
「ルカ先輩……」
ルカは水筒の紅茶をカップに注いで、ミクに手渡した。ほのかな香りがテントの中に広がる。
「ケイヤ君はレン君と一緒に残ったのね」
「うん」
「そう。……いい子ね、あの子」
ルカは少しだけ目を細めた。何かを思い出しているような、懐かしむような顔だった。
「でも、ミク。今日のステージを見に来てくれる人はほかにもたくさんいるのよ」
ルカはテントの隙間から見える客席を指さした。開演二時間前だというのにもう人が集まり始めている。
家族連れ、学生、日傘を差した地元のおばあちゃん。前の席には手作りのうちわを持った小さな女の子もいた。
「その人たちのために歌いましょう。それに――」
ルカはミクの肩にそっと手を置いた。
「届けたい人がいる歌はきっと、もっといい歌になるわ。今日届かなくても、いつかちゃんと届く日が来る」
ミクはルカの言葉をゆっくりと記録した。
届けたい人がいる歌。
その言葉の意味はまだよくわからない。けれどなぜか胸の重たいものの隣にほんの小さな灯りがともった気がした。
「……うん。わたし、歌う」
ミクは顔を上げた。
紅茶を一口飲む。温かさが喉の奥に広がった。
*
十三時半。市民ホール。
大会が再開された。八組目、九組目。モニターに映るドット絵の騎士が次々とボスに挑んでいく。
ケイヤは膝の上で両手を組んでじっと画面を見つめていた。
時計を見ないようにしていた。見ても何も変わらないからだ。
「ケイヤ」
「はい」
「ぼく、絶対に勝つから」
レンが前を向いたまま言った。その横顔はこれまで見たどんな時よりも真剣だった。
「ケイヤが残ってくれた意味、ちゃんと作るから」
ケイヤは何も言わずにうなずいた。
*
十五時。中央公園、野外ステージ。
照明が灯った。客席から大きな歓声が上がる。
「みなさん、こんにちはー! ピアプロ学院軽音部です!」
リンの元気な声がマイクを通して夏の空に響き渡った。
ルカのキーボードが最初の和音を鳴らす。ドラムがカウントを刻み、ギターとベースが重なる。
ミクはマイクを握った。
一曲目は夏をテーマにした明るいアップテンポの曲。息を吸い込み、最初のフレーズを歌い出した瞬間、客席の空気が変わった。
ざわめきがすっと消える。最前列の小さな女の子が手作りのうちわを握りしめたままぽかんと口を開けている。日傘のおばあちゃんが日傘を少しだけ傾けてステージを見上げる。
ミクの声が公園中に広がっていく。リンの声が重なり二つの声が一つの音になる。
歌いながらミクは客席を見渡した。
前の列。真ん中の列。そしていちばん後ろの立ち見の人たちの列。
探していた。
少し長めの前髪と目立たない眼鏡。いつも少しだけ困ったように笑う顔。
――いない。
わかっている。
来られないとメッセージに書いてあった。判断回路はとっくにその事実を理解している。
それでもミクの視線は何度も客席の後ろへと戻っていった。
二曲目。三曲目。曲の合間にちらりとステージ脇の時計を見る。十五時二十分。
――ケイヤ君、今ごろプレイしてるのかな。
あの騎士のゲーム。わたしが一分ももたなかった、あのゲーム。ケイヤ君は最後まで死なずに行けているだろうか。
そう考えた時、ミクの胸の重たいものの隣でまた小さな灯りがともった。
――がんばれ、ケイヤ君。
ミクは四曲目のルカの新曲を歌い始めた。
夏の終わりの少しだけ切ない曲。誰かを思う気持ちをまっすぐに歌った曲。
練習では何度も歌った。けれど今日、ミクはその歌詞の一つ一つをこれまでとは違う気持ちで歌っていた。誰に向けて歌っているのか自分でもはっきりとはわからないまま。
最後のロングトーンが夏の空に吸い込まれていく。
一瞬の静寂。それから客席から割れるような拍手が湧き起こった。
ステージの後ろでルカがキーボードに手を置いたまま、静かに目を閉じていた。
*
同じころ。市民ホール。
「ピアプロ学院パソコン部、先攻、鏡音レン選手!」
レンがコントローラーを握った。
画面の騎士が走り出す。迫り来る敵を最小限の動きでかわし、次々と倒していく。客席からどよめきが起こった。
二面のボーナスステージ。レンは普通なら避けて通る危険なルートに迷わず飛び込んだ。一歩間違えば即死の針の山。騎士はその隙間をすり抜けるようにして駆け抜けた。
画面の右上でスコアが跳ね上がる。
「すげえ……」
「あの子、高校生だろ?」
大人のゲーマーたちが身を乗り出していた。
レンのプレイが終わった時、スコアは十四万点を超えていた。自己ベストを二万点も上回っていた。
「後攻、音無ケイヤ選手!」
ケイヤはコントローラーを受け取った。
レンの手のひらの汗で少しだけ湿っていた。
画面に向き合う。騎士が走り出す。
――攻めなくていい。死ななければいい。
レンの作戦を頭の中で繰り返す。
一面。二面。順調だった。けれど三面に入った時、ふと時計の存在が頭をよぎった。
十五時二十五分。
今ごろステージでは何曲目だろう。初音さんはどんな顔で歌っているのだろう。客席の後ろを探しているのだろうか。来ないとわかっている自分を――
騎士の足が一瞬だけ止まった。
ボスの炎がすぐ目の前に迫る。
「――左上!」
背後からレンの声が飛んだ。
ケイヤは反射的にレバーを倒した。騎士が画面の左上の隅に滑り込む。炎がそのすぐ横を通り過ぎていった。
ケイヤは大きく息を吐いた。
――集中しろ。
今、自分がいるのはここだ。レンと二人で戦っているこの場所だ。ここで負けたら残った意味がなくなる。
ボスの首が一瞬だけ右に傾く。三回目の炎の後、弱点が光る。
ケイヤは連続攻撃を叩き込んだ。
ボスがドット絵の爆発とともに崩れ落ちた。
十五時四十分。
「――優勝は、ピアプロ学院パソコン部!」
司会者の声とともに大型モニターに二人の合計スコアが大きく映し出された。二十六万八千点。二位に三万点以上の差をつけての優勝だった。
客席から大きな拍手が湧き起こる。レンは呆然とモニターを見上げそれからケイヤに飛びついた。
「勝った……勝ったよ、ケイヤ!」
「はい……! レンのおかげです」
「ケイヤが最後まで死ななかったからだよ!」
表彰式を終え、賞状と小さなトロフィーを受け取るとケイヤはレンに頭を下げた。
「レン、すみません。後はお願いします」
「うん、行って! 早く!」
ケイヤは市民ホールを飛び出した。
*
夏の日差しの中を全力で走った。
トロフィーの入った紙袋が走るたびに膝に当たる。アスファルトの照り返しが容赦なく顔を焼く。シャツが背中に張りつき、息が切れて、喉の奥が鉄の味になった。
それでも足を止めなかった。
――もしかしたら。もしかしたら、まだ。
ステージが押していて、まだ最後の一曲が残っているかもしれない。アンコールが続いているかもしれない。そんな都合のいい想像にすがるようにして走った。
商店街を抜け、川沿いの道を駆け、中央公園の入り口にたどり着いた時には十六時を少し回っていた。
野外ステージは静まり返っていた。
客席のパイプ椅子をスタッフが黙々と畳んでいる。軽音部の部員たちがアンプやドラムセットを台車に載せて運び出している。照明はすべて落とされ、ステージの上にはマイクスタンドが一本ぽつんと残されているだけだった。
地面に落ちたストリーマーキャノンの紙吹雪。風に揺れるほどけかけた飾りのリボン。ついさっきまでここに大勢の人がいて、歓声が上がって、歌声が響いていた。その名残だけが夏の夕方の空気の中に漂っていた。
ケイヤは膝に手をついて荒い息を吐いた。
――間に合わなかった。
わかっていたはずなのに。走り出した時から、本当はわかっていたのに。それでも目の前の空っぽのステージはケイヤの胸を思いのほか強く締めつけた。
「……ケイヤ君?」
振り返るとステージの脇にミクが立っていた。
まだステージ衣装のままだった。白と青緑を基調にした軽やかな衣装。両腕に片付け途中のケーブルの束を抱えている。
ミクは汗だくのケイヤを見て目を丸くした。
その瞬間、ミクの中で何かがふっと軽くなった。
メッセージを読んでからずっと胸の奥に沈んでいた重たいもの。それがケイヤの姿を見た途端にほんの少しだけ浮き上がったような感覚。来られなかったはずの人が今目の前にいる。
――どうして、軽くなったんだろう。
ステージはもう終わっている。ケイヤ君は歌を聴けなかった。状況は何も変わっていない。それなのに。
「初音さん」
ケイヤがふらつく足でミクの前まで歩いてきた。そして、深々と頭を下げた。
「すみません。本当にすみません。……間に合いませんでした」
汗が顎からぽたぽたと地面に落ちる。
「約束、したのに。必ず行くって、指切りまでしたのに」
「ケイヤ君、顔上げて」
「僕が、もっと早く……」
「ううん」
ミクはケーブルの束を地面に置いて首を横に振った。
「メッセージ、ちゃんと読んだよ。レン君と最後まで一緒に出たんでしょ?」
「……はい」
「それで、どうだったの?」
「優勝、しました」
「ほんと!? すごい! おめでとう!」
ミクはぱっと笑った。
好ましい出来事。友達の努力が報われた。だからここは笑う場面だ。判断回路がそう答えを出した。笑顔の出力は完璧だったはずだ。
けれど顔を上げたケイヤはミクのその笑顔を見て少しだけ眉を寄せた。
「……初音さん。無理、していませんか」
「え?」
「いえ。なんとなく、ですけど。いつもの笑い方と少し違う気がして」
ミクは言葉に詰まった。
――ばれた。
出力は完璧だったはずなのに。勉強会の初日ならきっと誰にも見抜けなかった笑顔なのに。この一か月半でケイヤ君はわたしのどこを見るようになったんだろう。
ミクはしばらく黙っていた。それからステージのほうに視線を移してぽつりと言った。
「……ほんとはね。ちょっとだけ、悲しかった」
ケイヤが息をのむ気配がした。
「でも、変なの。ケイヤ君は何も悪いことしてないでしょ? 機材が壊れたのは誰のせいでもないし。レン君を置いていかなかったのはすごく正しいことだと思う。わたしがケイヤ君でも、きっと同じことをした」
ミクは自分の胸のあたりにそっと手を当てた。
「だから悲しむ理由なんて、どこにもないはずなの。理由がないのに悲しいなんて、おかしいよね。わたし、どこか壊れてるのかな」
「壊れてなんか、いません」
ケイヤの声は思っていたよりもずっと強かった。
「楽しみにしていたことがなくなったら、悲しいのは当たり前です。誰も悪くなくても、悲しいものは悲しいんです。……人間だって、そうです」
「人間も?」
「はい。僕だって、今、すごく悲しいです。初音さんの歌、聴きたかったですから」
ミクはケイヤの顔を見上げた。
汗で前髪が額に張りつき、眼鏡は少しずれている。その目はまっすぐにミクを見ていた。
――ケイヤ君も悲しいんだ。
その情報を記録した時、ミクの胸の奥の重たいものがまた少しだけ形を変えた。一人で抱えていた時よりもほんの少しだけ軽くなった気がした。
「あの、初音さん」
ケイヤは意を決したように言った。
「今日のステージ、きっと誰かが動画を撮っていますよね。客席の人とか、部員の人とか。後でそれを見せてもらえたら――せめて、それで」
「だめ」
ミクの声がケイヤの言葉を遮った。
いつもの明るい声ではなかった。静かで、けれど、はっきりとした声だった。
ケイヤは驚いて口を閉じた。ミクがこんなふうにきっぱりと何かを拒むのを初めて見た。
「動画は見ないで」
「え……」
「最初は生で聴いてほしいの」
言いながらミクは自分の言葉に自分で少し驚いていた。
判断回路は別の答えを用意していたはずだった。動画を見てもらえば今日の歌はケイヤ君に届く。合理的に考えればそのほうがいい。
けれど、口から出たのはその反対の言葉だった。
――どうして?
ミクは自分の中を探った。そして今日のステージの上で何度も客席の後ろを探していた自分を思い出した。
見つからないとわかっていても、探してしまった。歌いながら、ずっと。
ああ、そうか、とミクは思った。
わたしは今日、ケイヤ君に歌を「聴いてもらいたかった」んじゃない。ケイヤ君に「向かって」歌いたかったんだ。
動画の中のわたしはケイヤ君のいない客席に向かって歌っている。それでは意味がない。
「わたしの歌をケイヤ君が初めて聴くのは画面の中じゃなくて、ちゃんと同じ場所でわたしがケイヤ君に向かって歌ってる時がいい」
ケイヤは言葉を失ったようにミクを見つめていた。
「だから、約束して。動画は絶対に見ないって」
ミクは小指を立ててケイヤの前に差し出した。
お礼のおでかけの日、洋食屋で交わした指切り。あの時の約束は守れなかった。
ケイヤは差し出された小指を見つめた。それから汗に濡れた自分の手をシャツで拭って、その小指にしっかりと自分の小指を絡めた。
「……約束します。絶対に見ません」
小指にぎゅっと力がこもる。
「次は、必ず。何があっても、生で聴きに行きます」
「うん」
ミクはようやく笑った。
判断回路が答えを出すより、ほんの少しだけ早く。
今度の笑顔は無理をしていなかった。ケイヤにもそれがわかった。
夕暮れの風が二人の間を吹き抜けていった。片付けの終わりかけたステージの向こうからリンの呼ぶ声が聞こえる。
「ミクー! ケーブル、まだー?」
「あ、いけない! 今行くー!」
ミクは慌ててケーブルの束を抱え直した。それからケイヤを振り返る。
「優勝、ほんとにおめでとう。レン君にも伝えておいてね」
「はい。……初音さんもステージ、お疲れさまでした」
ミクは小さく手を振って、仲間たちのほうへ駆けていった。
ステージの向こうでリンがこちらをじろりとにらんでいる。けれどミクが何か耳打ちするとリンは「……まあ、ミクがいいならいいけどさ」とでも言いたげに肩をすくめた。
ケイヤはその背中が見えなくなるまで空っぽのステージの前に立っていた。小指にはまだ約束の感触が残っていた。
*
その夜。ミクはネストの自室で今日のログを整理した。
ステージ、成功。お客さん、たくさん。新曲、ミスなし。リンとのハーモニー、今までで一番。ルカ先輩に褒められた。最前列の女の子がうちわを振ってくれた。
好ましい出来事がたくさん並んでいる。
それなのにログの真ん中には大きな穴が一つ空いていた。
――ケイヤ君、来られなかった。
メッセージを読んだ時の記録をもう一度再生する。胸の奥に沈んだ、冷たくて重たいもの。悲しむ理由はどこにもなかった。それでも悲しかった。
理由のない「悲しい」。そんなものがあることをミクは今日、初めて知った。
けれどログには続きがあった。
ルカ先輩が「届けたい人がいる歌」と言った時。重たいものの隣に小さな灯りがともった。
ステージの上で「がんばれ、ケイヤ君」と思った時。その灯りが少しだけ大きくなった。
汗だくのケイヤが公園に駆け込んできた時。重たいものがふっと軽くなった。
ケイヤが「僕も悲しい」と言った時。一人で抱えていた重さが半分になった気がした。
指切りをした時、胸の奥の灯りがはっきりと温かくなった。
悲しいことは何も解決していない。ケイヤは歌を聴けなかった。それなのに今日の終わりのログは悲しいだけでは終わっていなかった。
悲しいことと、温かいことが同じ一日の中に同じ場所に並んでいる。そんなことがあるなんてミクは知らなかった。
ミクは机の上のヘッドホンを手に取って今日のステージの録音を再生した。
自分の声が耳の奥に流れ込んでくる。四曲目のルカの新曲。誰かを思う気持ちを歌った曲。
悪くない。むしろ、今までで一番の出来だった。
でも、この歌はまだケイヤ君には届いていない。
――次は、必ず。
ミクはヘッドホンを外して、窓の外を見た。夏の夜空に小さな星が瞬いている。
次に大勢の前で歌うのは秋のピアプロ祭のステージだ。
その日までこの歌は取っておこう。いちばんいい歌をいちばん聴いてほしい人に届けるために。
ミクはログの最後に一行だけ書き加えた。
――ケイヤ君に向かって歌う日まで、あと少し。
(第十一話 後編 了)
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次回「第十二話 夕暮れは手のひらの温度で」
ステージに間に合わなかったケイヤが、ミクにお詫びする回です。
お楽しみに。