それでは、どうぞ。
夏フェスから三日が過ぎた。
ケイヤは自室の机でスマートフォンとにらめっこをしていた。画面には地元のグルメ情報サイト。検索窓には『ネギ 料理 専門店』の文字。
「……あった」
商店街の一本裏の通りに小さな店が一軒、ひっそりと載っていた。
『ねぎ処 葱坊主(ねぎぼうず) 全国のネギを使った創作料理の店。ネギ好きの聖地』
口コミの評価は星四つ半。写真には緑一色に染まった料理の数々が並んでいる。
ケイヤは写真を一枚ずつ確かめた。ネギの天ぷら。ネギの丸焼き。ネギのグラタン。デザートにネギのアイスまである。
――これだ。
あの日、約束を守れなかった。空っぽのステージの前でミクは「次は生で聴いて」と言って笑って許してくれた。けれど許してもらったからといって、何もしなくていいわけではない。
ケイヤはメッセージの画面を開いた。何度か書き直してから送信する。
『初音さん。夏フェスのお詫びにごちそうさせてください。ネギ料理の専門店を見つけました』
返信は十秒で届いた。
『ネギ料理の専門店!?!?!?』
『行く!!! 絶対行く!!!!』
『いつ!? 明日!? 今日でもいいよ!?』
感嘆符の数が尋常ではなかった。ケイヤは思わず声を出して笑った。
*
約束の日は八月二十四日の日曜日になった。
時計台広場で待ち合わせるのもこれで四回目になる。ケイヤは十分前に着いた。初めは三十分前、次は二十分前ときて、今日は十分前。進歩なのか、慣れなのか、自分でもよくわからない。
「ケイヤくーん!」
広場の向こうからミクが駆けてきた。今日は水色のブラウスに白いキュロット。肩から提げた小さなショルダーバッグのファスナーでふわふわのネギのマスコットが揺れている。
夏祭りの射的でケイヤがあげたものだった。
「おはよう! ネギのお店、楽しみすぎて昨日あんまり眠れなかった!」
「アンドロイドも眠れないことがあるんですか?」
「あるよ! スリープモードに入ろうとしてもネギのことを考えると処理が止まらないの」
ミクは大まじめな顔で言った。それからケイヤのカバンに目を留めてぱっと顔を輝かせた。
「あ、騎士! 付けてくれてるんだ!」
ケイヤの肩掛けカバンの持ち手でドット絵の騎士が揺れていた。
「……はい。せっかく取ってもらったので」
「わたしもネギ付けてる! ほら、おそろい!」
ミクはショルダーバッグを持ち上げて、ネギのマスコットを揺らしてみせた。
騎士とネギ。何一つおそろいではない。けれど互いの好きなものを互いに身につけている。
ケイヤはそれを「おそろい」と呼ぶミクの言葉を否定する気にはなれなかった。
*
『ねぎ処 葱坊主』は商店街の裏通りの古い木造の二階建てにあった。
入り口には緑色ののれん。その横の黒板には白いチョークで今日のおすすめが手書きされている。
『本日の葱 九条ネギ(京都) 下仁田ネギ(群馬) 深谷ネギ(埼玉) 岩津ネギ(兵庫)』
「ネギの産地が書いてある……!」
ミクが黒板の前で震えていた。
「ケイヤ君、ここ本物だよ。ネギに対する愛が本物」
「入る前からわかるんですか」
「わかるよ! だってネギの名前にちゃんと産地まで書いてあるんだもん!」
のれんをくぐると店内はカウンター席が六つと小さなテーブル席が二つだけのこぢんまりとした空間だった。カウンターの奥で白い調理服を着た小柄な老人が包丁を握っている。
「いらっしゃい」
老人はミクの顔を見てふっと目を細めた。
「……お嬢ちゃん、ネギ好きの顔をしとるな」
「わかりますか!?」
「わかるとも。四十年ネギを切っとるとな、ネギ好きの顔は一目でわかる」
老人とミクが無言でうなずき合った。何かが通じ合っていた。
ケイヤはネギ好きの顔とはどんな顔なのか少しだけ気になった。
二人はテーブル席に座った。お品書きはほぼすべてにネギの文字が入っている。
「……全部食べたい」
「さすがに全部は無理だと思います」
「じゃあ、おまかせコースにしよう! ネギ尽くし!」
最初に運ばれてきたのは九条ネギの天ぷらだった。細くて柔らかい青ネギが薄い衣をまとって扇のように皿に広がっている。
ミクは一口かじって、目を閉じた。
「……おいしい」
しばらく何も言わなかった。それからゆっくりと目を開ける。
「ケイヤ君。これ九条ネギの甘さをいちばん生かす揚げ方だよ。衣が薄いからネギの香りが逃げないの。油の温度もきっと百七十度くらい。すごい」
「解析してるんですか」
「勝手にしちゃうの! でもおいしいのは解析じゃなくてわかるよ」
次に下仁田ネギの丸焼き。太くて短い白ネギが皮ごと真っ黒に焼かれて出てきた。黒い皮をむくと中からとろりとした真っ白な身が現れる。
「わあ……!」
ミクは熱々のネギをはふはふ言いながら頬張った。ケイヤも一口食べて驚いた。ネギなのにまるで果物のように甘い。
「これ本当にネギですか」
「ネギだよ! 下仁田ネギは火を通すとすごく甘くなるの。殿様ネギって呼ばれてたんだって」
ミクは自分のことのように誇らしげだった。
それから深谷ネギのグラタン。岩津ネギの焼きおにぎり。ネギ味噌を添えた冷奴。どれもネギが主役でありながら驚くほど味が違った。
途中でケイヤはお品書きの隅に気になる一品を見つけた。
「初音さん。ネギトロもありますね」
その瞬間、ミクの箸が止まった。
「……ケイヤ君」
「はい」
「ネギトロはネギじゃないんだよ」
「え?」
「ネギトロの『ネギ』は骨から身を『ねぎ取る』っていう言葉から来てるっていう説があるの。ネギは入ってることもあるけど本当は主役じゃないの。だからネギトロはネギ料理じゃないんだよ」
ミクはものすごく真剣な顔をしていた。
カウンターの奥で老人が深く深くうなずいていた。
「……その通りだ、お嬢ちゃん」
「ですよね!」
「だからうちのネギトロにはネギを山ほど乗せとる。ネギトロの名に恥じんようにな」
「店長さん……!」
ミクと老人がまた無言でうなずき合った。
ケイヤはネギトロを注文するのをそっとやめた。
最後にデザートのネギアイスが運ばれてきた。淡い緑色の小さなアイスクリーム。
「ネギのアイス……」
ケイヤはおそるおそるスプーンを入れた。ほんのりとネギの香りがしてその奥にミルクの甘さが広がる。不思議な味だった。けれどまずくはない。むしろまた食べたくなる。
「どう?」
「……不思議な味です。でも、おいしいです」
「よかった」
ミクは自分のアイスをゆっくりと口に運んでからケイヤの顔を見てにっこりと笑った。
「ケイヤ君、こんなに素敵なお店、探してくれてありがとう。夏フェスのこと、もう全然気にしてないからね」
「……はい」
「でも、生で聴く約束はちゃんと守ってもらうからね」
「はい。それは必ず」
ケイヤはまっすぐにミクを見て答えた。ミクは満足そうにうなずいて、最後の一口のアイスを大事そうに口に入れた。
お会計の時、老人はミクに小さな紙袋を手渡した。
「おまけだ。うちの九条ネギの種。育ててみなさい」
「いいんですか!? ありがとうございます! 大事に育てます!」
ミクは紙袋を宝物のように抱きしめた。
*
店を出ると午後の日差しが少しだけ傾き始めていた。
腹ごなしに二人は商店街を歩いた。本屋をのぞき、雑貨屋の前を通り過ぎる。ケイヤのカバンの騎士とミクのバッグのネギが歩くたびに小さく揺れた。
オーディオ専門店の前を通りかかった時だった。
ミクの足がぴたりと止まった。
「……初音さん?」
ミクは店のショーウィンドウを見つめていた。
ガラスの向こうの照明に照らされたショーケース。その中央に一つのヘッドホンが飾られていた。
黒とダークグレーを基調にした、近未来的なヘッドセットだった。耳をすっぽりと覆うのは角の取れた四角い形の大きなイヤーパーツ。その側面にはミクの髪と同じ青緑色のライトがラインを描くように淡く光っている。耳元からは細いマイクアームがすっと口元へ伸びていた。
音楽の道具というより、まるで未来から来た通信機のような洗練されたデザインだった。
ショーケースの隅には小さなカードが添えられていた。『限定生産品・メーカー完売 当店在庫限り』
「きれい……」
ミクはガラスに手を当てるようにしてそのヘッドホンを見つめていた。
その横顔にケイヤは息をのんだ。
ネギの店で見せたはしゃいだ顔とはまるで違う。静かで、まっすぐで、何かを強く願っているような顔だった。
「欲しいんですか?」
「うん。ずっと憧れてるの」
ミクはショーケースから目を離さずに言った。
「このヘッドホン、すごいんだよ。自分の声をそのままの音で返してくれるの。息づかいとか、声のかすれとか、ほんの小さな音まで。マイクも付いてるから歌いながら自分の声を細かく確かめられるの」
「今持っているのとは違うんですか?」
「今のはネストに来た時に支給されたものなんだ。ちゃんと使えるし壊れてもいないんだけど……やっぱり、ちょっと古くて」
ミクは少しだけ寂しそうに笑った。
「だから春に経費の申請をしてみたの。歌の勉強に必要です、って。でも通らなかった」
「どうしてですか?」
「ヘッドホンはもう持ってるでしょう、って。壊れてないなら新しいのは必要ありません、って」
ミクは肩をすくめた。
「理屈はわかるんだけどね。わたしもたぶん同じ判断をすると思う」
「それにね、これ限定販売だったの。去年発売されてすぐに売り切れちゃって。メーカーにももう在庫がないんだって」
ミクはショーケースの隅のカードを指さした。
「この街で残ってるのはたぶんこのお店の一つだけ。わたし通りかかるたびにまだあるか確かめてるの」
ケイヤはショーケースの中の値札に目をやった。
八万円。
高校生にとっては気が遠くなるような金額だった。ミクの随意金は月に一万円。八か月分を一円も使わずに貯めなければ届かない。
「……でも、いいの」
ミクはガラスから手を離してくるりとケイヤのほうを向いた。
「見てるだけで楽しいから。いつか自分で買えるようになったらいいなって」
そう言ってミクはいつもの明るい笑顔に戻った。
「行こう、ケイヤ君!」
ケイヤはもう一度だけショーウィンドウを振り返った。
黒いヘッドセット。青緑色に光るライン。在庫限りのカード。そしてそれを見つめていたミクの横顔。
その光景がなぜか頭から離れなかった。
*
商店街を抜けて、川沿いの道に出る頃には空は橙色に染まり始めていた。
夕暮れの風が川面をなでていく。遠くでひぐらしが鳴いていた。夏の終わりが少しずつ近づいている。
二人は並んで歩いていた。
ふと、ケイヤの手の甲がミクの手の甲に触れた。
一瞬だけ、二人とも動きを止めた。
夏祭りの夜なら、きっと慌てて手を引っ込めていた。ごめんなさい、と謝って気まずい沈黙が続いていた。
けれど今日は。
ケイヤは自然とミクの手を取っていた。
人混みもない。はぐれる心配もない。手をつなぐ理由なんてどこにもない。それでもケイヤの手は迷わずミクの手を包んでいた。
ミクは少しだけ驚いたようにつないだ手を見下ろした。
それからそっと握り返した。
夏祭りの夜とは何もかもが違っていた。
手汗を気にする気持ちも、握り方を迷う気持ちも、もうなかった。顔が熱くなることもない。花火の下であれほど身じろぎ一つできなかったのが嘘のようだった。
ただ、手のひらの温度がちょうどいい。
ミクの手は少しひんやりしていて、けれどつないでいるうちにケイヤの手と同じ温度になっていく。その変化がなんだかたまらなく心地よかった。
ミクも同じことを感じていた。
頭部の冷却は正常に動いている。夏祭りの夜のように温度が急に上がることもない。それなのに胸の奥のあたりがふわりと温かかった。
――これは、なんだろう。
これまでの分類できない数値とは少し違う。どきどきしない。慌てない。ただ穏やかで、温かくて、ずっとこのままでいたいと思う。
知識として知っている言葉の中でいちばん近いのは――
『幸せ』という言葉だった。
ミクはその言葉をまだログに書き込めなかった。書き込んでしまったら何かが変わってしまう気がした。だから、ただつないだ手にほんの少しだけ力を込めた。
ケイヤも同じだけ握り返してくれた。
川沿いの道はゆるやかに続いていた。
二人はほとんど何も話さなかった。話さなくても平気だった。夕日が二人の影を長く伸ばしている。地面の上で二つの影の手が一つにつながっていた。
「……ねえ、ケイヤ君」
しばらく歩いてからミクが口を開いた。
「はい」
「一つ、お願いしてもいい?」
「なんですか?」
ミクは前を向いたまま、少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「名前で呼んでほしいな」
ケイヤの足が止まった。
「……名前、ですか」
「うん。『初音さん』じゃなくて、『ミク』って」
ミクはケイヤを見上げた。夕日がその瞳の中で揺れていた。
「リンも、レン君も、ルカ先輩も、みんなわたしのこと、ミクって呼ぶでしょ。ケイヤ君だけずっと『初音さん』なの。なんだかケイヤ君だけちょっと遠くにいるみたいで」
「遠く……」
「わたしはケイヤ君に遠くにいてほしくないの」
ミクの声は静かだった。けれどためらいはなかった。
ケイヤはしばらく何も言えなかった。
名前で呼ぶ。たったそれだけのこと。けれど、それはケイヤにとってとても大きな一歩に思えた。
つないだ手にミクの指がきゅっと力を込めた。
ケイヤは小さく息を吸った。
「……ミク、さん」
声が少しだけ震えた。
ミクの表情がぴたりと固まった。
見上げてくる顔がみるみるうちにぷうっとふくれていく。
「……さん、はいらない」
「え」
「レン君と同じになっちゃうでしょ。それじゃ意味ないの」
ミクは頬をふくらませたままじっとケイヤを見上げていた。つないだ手に抗議するようにぎゅっと力がこもる。
ケイヤは観念した。
これ以上、逃げ道はない。目の前のふくれっ面のクラスメイトをちゃんと見る。
「……ミク」
今度は声は震えなかった。
その瞬間、ふくれていたミクの顔がぱあっと明るくなった。
判断回路が笑顔を出力するより、ずっと、ずっと早く。
「うん!」
ミクはこれまでケイヤが見た中でいちばん嬉しそうに笑った。
「もう一回、呼んで」
「ミク」
「もう一回!」
「……ミク。もう、勘弁してください」
「あはは、ケイヤ君、顔真っ赤!」
「夕日のせいです」
ケイヤはそっぽを向いた。けれどつないだ手は離さなかった。
二人はまた並んで歩き出した。
しばらく歩いて、川沿いの道が商店街へと折れる角まで来たところで、ケイヤは時計を見た。
「そろそろ、門限に間に合うように戻りましょうか。初音さ――」
ミクが、無言でケイヤを見上げた。
「……ミク」
「早速、間違えてる」
「すみません。慣れなくて……」
「慣れるまで、何回でも言うからね」
ミクはいたずらっぽく笑った。
ミクは何度も、その響きを頭の中で再生した。
ミク。ケイヤ君の声で、ミク。
それはミクがこれまでに聞いた、どんな音よりもきれいな音に思えた。
*
ちょうどその頃。
川の向こう岸の道を一人の少女が歩いていた。
和菓子屋の紙袋を提げた鏡音リンだった。今日は隣町の和菓子屋の限定わらび餅を求めて、一人で遠征してきた帰り道である。
「ふんふーん、わらび餅、わらび餅……ん?」
リンはふと、川の向こう岸に目をやった。
夕日に照らされた川沿いの道を二つの人影が歩いている。
水色のブラウスに、青緑色のツインテール。その隣に白いシャツと、眼鏡。
「……ミクと、ケイヤ君?」
リンは目を凝らした。
二人の距離が近い。近すぎる。そしてその間で何かがつながっている。
手だ。
ミクとケイヤが手をつないで歩いている。
「――――っ!?」
リンの手から和菓子屋の紙袋がすべり落ちそうになった。慌てて両手で抱え直す。
川の向こうの二人はリンには気づいていない。何かを話しているようだが川の流れの音にかき消されて声は聞こえない。ただミクが見たこともないほど嬉しそうに笑っているのだけは遠くからでもわかった。
ネストのエントランスで見た、名残惜しそうな横顔。プールで見た、ケイヤの真っ赤な顔。そして今、目の前のつながれた二つの手。
リンの頭の中でこれまでの「もしかして?」が、一つずつ並べられていく。
「……ほぼ、黒じゃん」
リンは思わずつぶやいた。
ほぼ、黒。いや、限りなく黒に近い。
けれど、リンはぎりぎりのところで踏みとどまった。
――まだ、ミクの口から何も聞いてない。
ミクは自分の気持ちにまだ名前をつけていないのかもしれない。だったら自分が先に決めつけるのは違う気がした。
確信するのはミク自身がちゃんと変わったと自分の目で見た時だ。
リンはゆっくりと息を吐いた。それから二人の背中が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。
「……そういえば」
ふと、リンはスマートフォンのカレンダーを開いた。
八月の終わり。三十一日の欄に小さなケーキのマークが付いている。
ミクの稼働開始日。ネストでは誕生日と呼んでいる日。
リンの口元にゆっくりと悪だくみの笑みが浮かんだ。
「――これは、使えるかも」
夕日の中でわらび餅の紙袋が小さく揺れた。
(第十二話 了)
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
今回、ちょっと驚きました。
ミクへの謝罪→ネギ料理専門店、と短絡的に思いつきネット検索。
実際に専門店があること、ネギ料理等を調べました。
その結果をClaude君に投げましたが、Claude君、さらにぶっ込んできました。「ネギトロ」の件です。あの部分、私は書いてません。ネギトロの由来など知りませんでした。恐るべしClaude君。
次回「第十三話 八月の終わりの五日間(前編)」
はい、誕生日回です。ケイヤ君が奮闘します。
こちらも長いので前後編に分けての投稿となります。
お楽しみに。