わたしが『ボーカロイド』になるまで   作:雪田琉摩

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8月31日。ミクさんの誕生日です。
プレゼント選びは難しいですが、ケイヤ君はすぐに思いついたようです。
では、どうぞ。


第十三話 八月の終わりの五日間(前編)

 八月二十四日、日曜日の夜。ネストのリンの部屋。

「というわけで、作戦会議を始めます」

「……また?」

 パジャマ姿のレンはもはや抵抗する気力もなく、床に正座していた。

「今日、見ちゃったんだよね。川沿いの道でミクとケイヤ君が手をつないで歩いてるとこ」

「えっ」

 レンの目がまんまるになった。

「手を……?」

「つないでた。ばっちり。ミク、見たこともないくらい嬉しそうに笑ってた」

 リンは腕を組んで、うんうんとうなずいた。

「でもね、まだ確信はしてないの。ミクの口から何も聞いてないから。だから次の作戦」

 リンはスマートフォンのカレンダーをレンの目の前に突きつけた。

 八月三十一日。小さなケーキのマーク。

「ミクの誕生日」

「……あ」

「ケイヤ君、たぶん知らないよね。ミク、自分からそういうこと言わないし」

「たぶん……」

「だからレンが教えてあげて。さりげなく。あくまで、さりげなく」

「なんでぼくが……」

「あたしが言ったらわざとらしいでしょ。レンならうっかり口が滑った感じになるから」

 レンはうっかり口が滑る役が自分に似合いすぎていることを否定できなかった。

「報酬は?」

「商店街の和菓子屋さんの秋の新作。栗きんとん」

「やる」

 レンは即答した。

 

  *

 

 翌日の月曜日。商店街のレトロゲームのゲームセンター。

『スターダスト・ナイト』の筐体機の前でケイヤとレンは並んで座っていた。夏休みも残り一週間。宿題はとっくに終わらせてある。

「ケイヤ、三面の左上、もう完璧だね」

「おかげさまで。……ルカ先輩のおかげ、とも言いますけど」

「そ、それは、その、ミクさんから聞いた話だって……」

「はい。そういうことにしておきます」

 ケイヤは画面を見たまま小さく笑った。レンは冷や汗をかきながら、話題を変えるきっかけを探した。

 そして今がその時だと思った。

「そ、そういえばさ、ケイヤ。今度の日曜日、ミクさんの誕生日だよね」

「……え?」

 ケイヤの手が止まった。画面の騎士がボスの炎に包まれて倒れた。

「誕生日?」

「うん。八月三十一日。ネストでは稼働開始の日を誕生日って呼んでるんだ。ミクさん、去年の八月三十一日にネストに来たから」

 レンはなるべく自然に聞こえるようにゲームの画面を見たまま言った。うっかり口が滑った、という顔をしているつもりだった。

「……知りませんでした」

 ケイヤの声がかすれていた。

「あれ? ミクさん、言ってなかった?」

「一度も」

 ケイヤはコントローラーから手を離した。その顔からすうっと血の気が引いていく。

「……今度の日曜日。あと六日……」

「う、うん」

「六日しかないじゃないですか……!」

 ケイヤは頭を抱えた。

 誕生日。ミクの誕生日。

 お礼のおでかけをした。雨の日に部屋でうどんを食べた。プールに行って夏祭りで手をつないで、昨日は名前で呼んでほしいと言われた。

 そのミクの誕生日を自分はたった六日前まで知らなかった。

「何か贈らないと……」

「ケイヤ、落ち着いて」

「落ち着いていられません。何を贈ればいいんでしょう。初音さんが喜ぶもの……」

 口をついて出たのは以前の呼び方だった。昨日あれほど「ミク」と呼ぶ練習をしたのに。けれど今のケイヤにはそれに気づく余裕すらなかった。ミクに聞かれていたらまた「間違えてる」と頬をふくらまされていたところだ。

 ネギ。いや、ネギはミクが自分で育てている。昨日、店主からネギの種までもらっていた。ネギのグッズ。いや、ネギのマスコットはすでに夏祭りで渡してしまった。

 考えれば考えるほど、わからなくなる。

 その時、ケイヤの頭にある光景がよみがえった。

 オーディオ専門店のショーウィンドウ。黒とダークグレーのヘッドセット。青緑色に光るライン。『限定生産品・メーカー完売 当店在庫限り』のカード。

 そして、ガラスに手を当てるようにして、それを見つめていたミクの横顔。

 ――ずっと、憧れてるの。

「……レン。すみません、今日はここまでにします」

「え、ケイヤ?」

「急用を思い出しました」

 ケイヤはカバンをつかんで立ち上がった。騎士のキーホルダーが大きく揺れた。

 ゲームセンターを飛び出していくケイヤの背中をレンはぽかんと見送った。それからスマートフォンを取り出してリンにメッセージを送った。

『言った。ケイヤ、すごい勢いでどこか行った』

 返信は一秒で来た。

『よくやった!!! 栗きんとん確定!!!』

 

  *

 

 オーディオ専門店の前に着くと、ケイヤは息を切らしたままショーウィンドウに駆け寄った。

 ガラスの向こう、店内の窓際に置かれた照明に照らされたショーケース。その中央にそれはまだあった。

 ――よかった。まだある。

 ケイヤは値札を確かめた。

 八万円。

 何度見ても数字は変わらなかった。

「いらっしゃいませ。そちら、お気に召しましたか」

 カウンターの奥から店員の男性が声をかけてきた。三十代くらいの穏やかそうな人だった。

「あの、これ……あとどのくらい残っていますか」

「その一点限りです。メーカーにももう在庫がありません」

「この一つ、だけ……」

「ええ。実は最近、問い合わせも何件かありまして。いつまで残っているかは正直、わかりません」

 ケイヤの心臓がどくんと鳴った。

 家に帰れば貯金箱がある。小さい頃からお年玉やお小遣いを少しずつ貯めてきた。ゲームを買いたい気持ちをこらえて、こつこつと。

 中身はたしか四万円と少し。

 半分しか足りない。

「……あの」

 ケイヤは意を決して口を開いた。

「取り置きって、できますか」

「取り置き、ですか」

「はい。今、手持ちが半分しかなくて。でも残りは必ず用意します。今度の日曜日、八月三十一日までに」

 店員は少し困ったように眉を下げた。

「申し訳ありません。限定品ですので通常は取り置きをお受けしていないんです。ただ……」

 店員はケイヤの顔をじっと見た。それから少しだけ声を和らげた。

「内金をいただければ期限付きでお取り置きすることはできます。半額の四万円を先にお預かりして三十一日の閉店時間、夜の八時までに残りをお支払いいただく。それでよろしければ」

「お願いします!」

 ケイヤはほとんど食い気味に答えた。

「ただし、期限までにお支払いがなかった場合、内金はお返ししますが商品は通常の販売に戻させていただきます。よろしいですか」

「……はい」

 ケイヤは深く頭を下げた。

「今から家に取りに行ってきます。一時間で戻ります」

 ケイヤは店を飛び出し、自宅のマンションまで走った。貯金箱を割り、中身を数え、封筒に詰めてまた走った。

 店に戻ったのは四十分後だった。

 息を切らしながら差し出した封筒を店員は丁寧に受け取った。そしてショーケースのヘッドセットに小さな札を掛けた。

『お取り置き中』

 その三文字を見た時、ケイヤはようやく息ができた気がした。

「どなたかへのプレゼントですか」

 店員が内金の控えを書きながら尋ねた。

「……はい。大事な人の、誕生日に」

 言ってからケイヤは自分の言葉に赤くなった。店員は何も言わずに少しだけ微笑んだ。

 

  *

 

 その夜。ケイヤは自室の机でスマートフォンとにらめっこをしていた。

 残り四万円。期限は六日後の夜八時。

 毎月のお小遣いを前借りしても到底足りない。両親に頼むことも考えた。けれど、それは違う気がした。ミクへの贈り物は自分の力で用意したかった。

 ――アルバイトしかない。

 ピアプロ学院ではアルバイトが認められている。夏休みの残り一週間で四万円。ケイヤは短期アルバイトの求人サイトを片っ端から調べた。

 コンビニ、飲食店、清掃。どれも時給は千円前後だった。しかし高校生が入れるシフトは一日四、五時間のものがほとんどだ。それでは五日間働いてもせいぜい二万円と少し。四万円にはとても届かない。

 一日中働ける短期の仕事もあるにはあった。けれどその多くには「十八歳以上」「高校生不可」の条件がついている。条件に合うものを見つけても、すでに「募集終了」の文字が躍っていた。夏休みの終わりの短期アルバイトはどうやら早い者勝ちらしい。

 

 画面をスクロールする指が一つの求人の上で止まった。

『【急募・日払い】イベント会場の設営・撤去スタッフ 日給八千円 八月二十七日~三十一日の五日間 未経験歓迎・学生可 ※体力に自信のある方』

 会場は中央公園。夏の終わりに毎年開かれる、地域の大きな野外イベントの準備と片付けだという。

 日給八千円。五日間で四万円。

 ――ぴったりだ。

 ただし、注意書きの最後に小さな文字でこう書かれていた。

『※重い機材の運搬が中心です。かなりハードな作業になります』

 ケイヤは自分の腕を見下ろした。

 体力と言っても、中一の時に運動部に在籍していたくらいだ。だがそれも一年足らずで辞めてしまった。それ以来、運動とは無縁の生活をしている。今ではパソコンとゲームのコントローラーばかり握っている、細い腕だ。

 体力に自信なんてあるはずがない。

 それでも迷いはなかった。

 ケイヤは応募ボタンを押した。

 

 翌日、電話で簡単な面接を受け、採用が決まった。

 それからケイヤはもう一つのことを決めた。

 ――このことはミクには秘密にしよう。

 アルバイトのことを話せばきっとミクは理由を聞いてくる。誕生日のことも、プレゼントのことも、当日まで知られたくなかった。驚かせたい。喜ぶ顔が見たい。

 それにもう一つ。

 ミクに心配をかけたくなかった。ミクは自分が無理をすることをきっと嫌がる。

 

  *

 

 八月二十七日、水曜日。午前七時。

 中央公園の広場にはすでに大型トラックが三台、横付けされていた。荷台には鉄パイプ、木の板、巨大なスピーカー、照明の機材が山のように積まれている。

「よし、集合ー! 今日から五日間、よろしく頼むぞ!」

 日焼けした大柄な男性が拡声器で声を張り上げた。作業の現場責任者でみんなからは「親方」と呼ばれているらしい。

 集まったアルバイトは十人ほど。大学生らしき若者が多い。高校生はケイヤ一人だけだった。

「お、ずいぶん若いのがいるな。名前は?」

「音無です。よろしくお願いします」

「おう、音無。おまえ細っこいな。大丈夫か?」

「……がんばります」

「がんばるのは当たり前だ。無理はするなよ。けがしたら元も子もないからな」

 親方は、がははと笑ってケイヤの背中を叩いた。その衝撃だけでケイヤは一歩よろめいた。

 軍手とヘルメットが配られ、作業が始まった。

 

 一日目は地獄だった。

 鉄パイプは想像していたよりもずっと重かった。一本持ち上げるだけで腕がぶるぶると震える。それをトラックの荷台から広場の奥まで何十往復も運ぶ。

 八月の終わりとはいえ、日差しはまだ容赦がなかった。照り返しが地面から顔を焼く。汗が目に入ってしみた。

「おい、高校生! ペース落ちてるぞ!」

「は、はい!」

 昼休憩の頃にはケイヤの腕はもう自分のものではないように感じられた。コンビニのおにぎりを握る手が震えて止まらない。

 軍手を外すと手のひらに赤い水ぶくれがいくつもできていた。

 スマートフォンが震えた。ミクからだった。

『ケイヤ君、今日なにしてる? ネギの種、植えてみたよ! 写真送るね』

 ネストの部屋の窓辺。小さな植木鉢に黒い土が盛られている。その横でミクがピースサインをしていた。

 ケイヤは震える指で返信を打った。

『すみません、今週はちょっと家の用事で忙しくて。芽が出るの、楽しみですね』

 送信してからケイヤは自分の文章をもう一度読んだ。そっけない。いつもならもっといろいろ書くのに。

 けれど何かを書けばぼろが出てしまいそうだった。

 

 夕方、作業が終わった時、ケイヤは立っているのがやっとだった。

 親方が一人一人に封筒を手渡していく。

「ほい、音無。今日の分だ」

 封筒の中には八千円が入っていた。

 ケイヤはその封筒を両手でしっかりと握りしめた。

 ――あと、四日。

 

  *

 

 同じころ。ネストのミクの部屋。

 ミクはケイヤからの返信を何度も読み返していた。

『すみません、今週はちょっと家の用事で忙しくて。芽が出るの、楽しみですね』

 いつもよりずっと短い文章。

 家の用事。ケイヤ君の家には今、お母さんもいないはずだ。前にそう言っていた。一人きりの家でどんな用事があるのだろう。

「……忙しいんだね」

 ミクは小さくつぶやいた。

 判断回路が状況を分析する。家の用事は誰にでもある。忙しい時に返信が短くなるのは自然なことだ。気にする必要はない。

 それなのに。

 昨日までは名前で呼んでもらえて、手をつないで、あんなに温かかったのに。今日はその温かさが急にどこかへ行ってしまったような気がした。

 ミクは窓辺の植木鉢を見つめた。まだ何も芽吹いていない、黒い土。

「早く、芽が出ないかな」

 誰に言うでもなくつぶやいた声は静かな部屋に吸い込まれていった。

 

  *

 

 二日目。三日目。

 ケイヤの体は悲鳴を上げ続けていた。

 朝、目を覚ますと全身が筋肉痛で布団から起き上がるだけで時間がかかる。手のひらの水ぶくれはつぶれ、その上にまた新しいマメができた。軍手越しでも鉄パイプを握るたびにじんじんと痛む。腕には資材の角で引っかいた細い傷がいくつも走っていた。

 それでもケイヤは毎朝、七時に現場に立った。

 三日目の昼休憩。木陰で座り込んでいると親方が隣に腰を下ろした。

「音無。お前、なんでこのバイトを選んだ?」

「え?」

「高校生がやるにはきつすぎる現場だ。初日で辞めると思ってたんだがな」

 ケイヤは少し迷ってから正直に答えた。

「……どうしてもお金が必要なんです。今度の日曜日までに」

「ほう。何に使う?」

「誕生日プレゼントです。……大事な人の」

 親方はしばらく黙っていた。それから、がははと豪快に笑った。

「そうか、そうか! そりゃあ、辞めるわけにはいかねえな!」

 大きな手がケイヤの背中をばんばんと叩いた。

「おまえ、運ぶのは遅いけどな、丁寧なんだよ。ボルトの締め方も、板の置き方も、きっちりしてる。そういうやつは現場じゃ信用される」

「……ありがとうございます」

「ステージってのはな、上で歌うやつだけで作るもんじゃねえ。こうやって裏で支えるやつがいて初めて立つんだ。覚えとけ」

 ケイヤは目の前の広場を見た。

 三日前には何もなかった芝生の上に大きなステージの骨組みが少しずつ形になり始めている。自分が運んだ鉄パイプも、自分が締めたボルトも、その中のどこかにある。

 ――このステージの上で誰かが歌う。

 ふと、ミクの姿が浮かんだ。照明に照らされてマイクを握るミク。その足元を自分が作ったステージが支えている。

 なぜだか胸の奥が少しだけ熱くなった。

 

 その夜も、ミクからメッセージが届いた。

『ケイヤ君、お疲れさま! まだ家の用事、忙しい?』

『はい。もう少しで終わりそうです。初音さんは元気ですか』

 送信してから、ケイヤは自分の打ち間違いに気づいた。

 返信はすぐに来た。

『また間違えてる』

 その後にぷんすかと頬をふくらませたネギのスタンプが続いた。

 ケイヤは疲れ切った顔のまま思わず小さく笑った。

『すみません。ミクは元気ですか』

『元気だよ! でも、ちょっとだけ、つまんない』

 その一文にケイヤの指が止まった。

 ちょっとだけ、つまんない。

 ――ごめん、ミク。あと少しだけ待ってて。

 そう打ちかけてケイヤは消した。代わりに短い文を送った。

『日曜日は空いていますか』

『空いてるよ。どうして?』

『いえ。……少しだけ会えたらいいなと思って』

 返信は少しだけ時間がかかった。

『うん! 会いたい!』

 

  *

 

 四日目、八月三十日。

 ステージは、ほぼ完成していた。照明のやぐらが組み上がり、巨大なスピーカーが両脇に据えつけられる。明日の午後からイベントが開かれ、夜には撤去作業が待っている。

 作業を終えたケイヤはふらつく足で自宅に帰り着いた。

 机の上に四つの封筒を並べる。

 八千円が四つ。三万二千円。

 残り、あと一日。明日の分の八千円を受け取ればちょうど四万円になる。

 ケイヤは手のひらを見下ろした。

 マメと擦り傷だらけのぼろぼろの手。ペンとコントローラーしか握ったことのなかった手が五日足らずでまるで別人のようになっていた。

 スマートフォンの画面に明日の予定を確かめる。

 明日の作業はイベント終了後の撤去。終わるのは夜の七時の予定だった。

 オーディオ専門店の閉店は夜の八時。

 中央公園から店までは走って十分。

 ――間に合う。間に合わせる。

 ケイヤは四つの封筒をまとめてカバンの奥にしまった。騎士のキーホルダーが小さく揺れた。

 明日は、八月三十一日。

 ミクの誕生日だ。

 

(第十三話 前編 了)




ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次回「第十三話 八月の終わりの五日間(後編)」
お楽しみに。
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