V6ではカフ型インナーホンになっていたのですね。
気づきませんでした。自称ミクファンとして失格です……
八月三十一日、日曜日。午前八時。
ネストの食堂にぱん、ぱん、とクラッカーの音が響いた。
「ミク、誕生日おめでとーっ!」
リンの声を合図に食堂にいたアンドロイドたちが一斉に拍手をした。テーブルの真ん中には職員さんが用意してくれた小さなホールケーキ。白い生クリームの上にチョコレートのプレートが乗っている。
『ミクちゃん 稼働一周年おめでとう』
「わあ……!」
ミクはケーキを見つめて目を輝かせた。
「ありがとう、みんな!」
「ミクさん、おめでとう」
「おめでとう、ミク。この一年、本当によく頑張ったわね」
レンが小さく拍手をし、ルカが穏やかに微笑んだ。
ケーキの上にはろうそくが一本だけ立っていた。稼働してちょうど一年。ミクはふうっと息を吹きかけて、その一本を消した。
「ねえミク、これで十七歳だね!」
「もう、リン。わかってて言ってるでしょ」
ミクが頬をふくらませると、リンはいたずらっぽく舌を出した。
「えへへ、ばれた? でもさろうそくは毎年一本ずつ増えるのに年はずっと十六歳のままでしょ。なんか得した気分じゃない?」
「得、なのかなあ」
ミクは首をかしげて笑った。
ケーキを切り分けながら、ミクはふと思い出したように手を打った。
「そうだ! 今日で稼働一年だから、わたしアルバイトできるようになったんだ!」
「あ、そっか。アンドロイドは一年経たないとダメなんだっけ」
「うん。これでアルバイトできる!」
ミクは嬉しそうに胸を張った。
「何するの?」
「まだ決めてないけど…… お金を貯めて欲しいものがあるの」
ミクはフォークをくわえたまま少しだけ考えるように天井を見上げた。
「それにね、ケイヤ君が今日少しだけ会えたらいいなって言ってたの。最近ずっと家の用事で忙しそうだったのになんだろうね?」
その言葉にレンの手がぴたりと止まった。フォークの上のケーキがぽとりと皿に落ちる。
――ケイヤ、まさか。
誕生日のことを教えた日、ケイヤは「急用を思い出しました」と言ってゲームセンターを飛び出していった。あれから一週間、ケイヤとは一度も遊んでいない。
何をしているのかは知らない。けれどきっと何かをしている。
「レン君、どうしたの?」
「な、なんでもない……」
レンは冷や汗をかきながらケーキを口に運んだ。余計なことを言ってしまいそうで口を開くのが怖かった。
テーブルの下でリンがレンの足を軽く蹴った。黙っとけ、の合図だ。けれどその口元はにんまりと緩んでいた。
――作戦、ちゃんと効いてるじゃん。
食堂を出たミクは廊下でスマートフォンを確かめた。
ケイヤからの連絡はまだない。
――今日、会えたらいいなって言ってたのに。
家の用事がまだ終わらないのだろうか。それとも忘れてしまったのだろうか。
ケイヤは今日がミクの誕生日だということを知らない。ミクは自分から言ったことがない。だから特別なことは何もなくて当然だった。
それなのにほんの少しだけ期待している自分がいた。
その時、スマートフォンが震えた。
『おはようございます。今日の夜、八時半ごろ、少しだけネストの入り口で会えますか。渡したいものがあります』
ミクは画面を三回読み直した。
渡したいもの。
『うん! 待ってる!』
送信ボタンを押してからミクは廊下の真ん中で思わずくるりと一回転した。
通りかかった職員さんが微笑ましそうに目を細めた。
*
同じころ。中央公園。
ケイヤは五日目の現場に立っていた。
全身が重かった。四日分の疲れが体の奥に澱のように溜まっている。手のひらのマメは軍手の中でずきずきと脈打っていた。
それでもケイヤは鉄パイプの最後の点検に取りかかった。
午後一時、イベントが始まった。
完成したステージの上で地元のバンドが演奏を始める。巨大なスピーカーから音が公園中に響き渡った。芝生の上には家族連れや若者たちが集まり、手拍子を打っている。
ケイヤはステージの裏でその光景を見上げていた。
自分が運んだ鉄パイプ。自分が締めたボルト。自分が並べた床板。その上で誰かが歌い、誰かが笑っている。
「どうだ、音無」
隣に親方が立っていた。
「自分の作ったステージの上で誰かが楽しんでる。悪くねえだろ」
「……はい」
ケイヤは小さくうなずいた。
胸の奥がじんわりと温かかった。夏フェスで空っぽのステージの前に立ち尽くした時とはまるで違う気持ちだった。
*
異変が起きたのは夕方の五時過ぎだった。
空が急に暗くなった。西の空から灰色の雲がぐんぐん迫ってくる。
「まずいな、こりゃ夕立だ」
親方が空を見上げてつぶやいた、その直後。大粒の雨がバケツをひっくり返したような勢いで降ってきた。
イベントは中断され、観客たちは屋根のある場所へと逃げ込んだ。ステージの機材を守るため、スタッフ総出でブルーシートをかける。ケイヤも雨に打たれながら必死でシートの端を押さえた。
雨がやんだのは六時半を回ってからだった。
イベントはそのまま終了となり、撤去作業が始まった。だが雨に濡れた資材は滑りやすく、作業は思うように進まない。
ケイヤは何度も時計を見た。
七時。七時十五分。七時半。
鉄パイプの山はまだ半分も片付いていない。
――間に合わない。
オーディオ専門店の閉店は八時。ここから走って十分。七時五十分にはここを出なければならない。
けれど、撤去作業はまだ終わりそうになかった。途中で抜ければ今日の日給はもらえないかもしれない。日給がなければ残りの四万円に八千円足りない。
ケイヤは唇をかみしめて、また鉄パイプを肩に担いだ。
「音無!」
七時四十分。親方の声が雨上がりの公園に響いた。
「ちょっと来い」
ケイヤは鉄パイプを置いて親方のもとへ駆け寄った。
「お前、さっきから時計ばっかり見てるな」
「す、すみません……」
「今日だろ。誕生日」
ケイヤははっと顔を上げた。
親方は作業着のポケットから一枚の封筒を取り出した。
「ほれ、今日の分だ」
「え? まだ撤去は……」
「残りは俺たちでやる。お前はこの五日間、誰よりも丁寧に仕事をした。それで十分だ」
親方は封筒をケイヤの手に押しつけた。
「行け、音無。大事な人を待たせるんじゃねえ」
「で、でも……」
親方がそう言っても、他の作業員は納得しないのではないか。若輩者の自分だけ先に上がるのは心苦しかった。
そう思いケイヤが現場の方に視線を向けると――
そこにはサムズアップして「後は俺たちに任せろ」とニンマリ笑う者、手のひらをヒラヒラさせて「いいから早く行け」と急かす者、誰一人ケイヤを咎める者はいなかった。
ケイヤの目の奥がじんと熱くなった。
「……ありがとうございました!」
深々と頭を下げ、ケイヤはヘルメットと軍手を外した。そして雨上がりの夜の中へ全力で駆け出した。
*
濡れたアスファルトが街灯の光を反射していた。
ケイヤは走った。商店街のアーケードを抜け、角を曲がる。全身の筋肉が悲鳴を上げていた。足がもつれそうになる。それでも止まらなかった。
夏フェスの日もこうして走った。あの日は間に合わなかった。
――今日は絶対に間に合わせる。
オーディオ専門店の明かりが見えてきた。時計は七時五十八分。
自動ドアに飛び込むようにして駆け込んだ。
「は、はあっ、はあっ……すみません、まだ、大丈夫ですか……!」
カウンターの奥であの日の店員が顔を上げた。ケイヤの姿を見て、ふっと表情を緩める。
「お待ちしておりました」
ケイヤはカバンの奥から封筒を取り出した。四つの封筒と親方から受け取ったばかりの五つ目の封筒。全部を合わせてカウンターの上に置く。
八千円が五つ。四万円。
店員は一枚一枚、丁寧にお札を数えた。それからショーケースの鍵を開けた。
『お取り置き中』の札が外され、黒とダークグレーのヘッドセットがケイヤの前に置かれた。
「確かにお受け取りいたしました」
店員はケイヤの手に目を留めた。マメと擦り傷だらけのぼろぼろの手。雨と汗で濡れた髪。泥のついた作業着。
店員は何も聞かなかった。ただ静かに言った。
「プレゼント用にお包みしましょうか」
「……お願いします」
店員はヘッドセットを専用の箱に収め、白い包装紙で丁寧に包んだ。最後に青緑色のリボンを掛ける。ミクの髪と同じ色だった。
「これはかなり良いものですからね……」
包み終えた箱を差し出しながら、店員は言った。
「大事に使えば十年以上使えますよ」
十年。
ケイヤはその言葉を心の中でもう一度繰り返した。
十年後。自分たちはどうしているだろう。その時もミクはこのヘッドセットで歌っているだろうか。
「……ありがとうございます」
ケイヤは箱を両手でしっかりと抱えて店を出た。
時計は八時ちょうどを指していた。背後で店のシャッターがゆっくりと下りていく音がした。
*
八時半。ネストのエントランス。
ガラスの扉の向こうにミクの姿が見えた。部屋着の上に薄いカーディガンを羽織り、扉の内側でそわそわと行ったり来たりしている。
ケイヤの姿を見つけた瞬間、ミクはぱっと顔を輝かせて、扉を開けて飛び出してきた。
「ケイヤ君!」
「こんばんは、初音さ――」
ミクの足がぴたりと止まった。
「……ミク」
「また間違えてる」
「すみません」
ミクは頬をふくらませてから、すぐにくすくすと笑い出した。
それからケイヤの格好に気づいて目を丸くした。
「ケイヤ君、どうしたの? その服……泥だらけだよ? 髪も濡れてるし」
「あ、いえ、これは、その……」
ケイヤは言い訳を探すのをやめた。代わりに背中に隠していた箱をミクの前に差し出した。
「ミク。誕生日、おめでとうございます」
ミクの動きが止まった。
「……え」
白い包装紙。青緑色のリボン。差し出された箱とケイヤの顔とをミクは何度も見比べた。
「どうして、知ってるの? わたし、誕生日のこと一度も……」
「レンが教えてくれました」
「レン君が……」
「開けてみてください」
ミクは震える指でリボンをほどいた。包装紙を破らないようにそっと開く。箱のふたを持ち上げる。
中に収まっていたものを見て、ミクは息をのんだ。
黒とダークグレーのヘッドセット。角の取れた四角いイヤーパーツ。側面の青緑色のライン。口元へ伸びる細いマイク。
あの日、ショーウィンドウの向こうでずっと見つめていたもの。
「これ……」
ミクの声がかすれた。
「どうして……だって、これ八万円もするのに……」
ミクは顔を上げてケイヤを見た。
そして、その時になってようやく気づいた。
箱を差し出していたケイヤの手。
手のひらにはつぶれたマメと新しいマメが重なっていた。指の付け根には赤く腫れた擦り傷。手の甲にも細い引っかき傷がいくつも走っている。
勉強会でペンを握っていた手。夏祭りの夜に自分の手を包んでくれた手。あの時はこんな傷は一つもなかった。
「ケイヤ君……その手……」
ケイヤは慌てて手を引っ込めようとした。けれどミクのほうが早かった。
ミクはヘッドセットの箱を胸に抱えたまま空いた片手でケイヤの手首をそっとつかんだ。
「家の用事って……もしかして……」
ケイヤは観念したように小さく息を吐いた。
「……アルバイトをしていました。中央公園のイベントの設営で。五日間だけ」
「アルバイト……」
「僕の貯金だけじゃ足りなかったので。黙っていてすみません。驚かせたかったのと……心配をかけたくなかったので」
ミクは何も言えなかった。
判断回路がいくつもの情報を並べていく。
ケイヤ君が誕生日を知った。ヘッドセットのことを覚えていた。足りないお金を五日間、アルバイトをして稼いだ。重い荷物を運んで手を傷だらけにして。そっけないメッセージはそれを隠すためだった。
好ましい出来事。とても好ましい出来事。だからこれは「嬉しい」だ。知識として知っている「嬉しい」という感情。
――それなのに。
胸の奥から何かがこみ上げてきた。
「嬉しい」の箱にどうしても収まりきらない何か。嬉しいのに苦しい。温かいのに胸が締めつけられる。腕の中のヘッドセットを思うと顔がほころびそうになる。けれどケイヤの傷だらけの手を見ていると今度は泣き出したくなる。二つの気持ちが胸の中でぶつかり合ってどちらにも分類できないまま次から次へとあふれてくる。
頭部の温度が上がっていく。目の奥が熱い。
ミクはヘッドセットの箱をエントランス脇の植え込みの縁にそっと置いた。それから空いた両手でケイヤの手を包み込んだ。
「……こんなになるまで頑張らなくてよかったのに」
「大丈夫です。もう終わりましたから」
「大丈夫じゃないよ。痛いでしょ?」
「……少しだけ」
ケイヤは照れくさそうに笑った。
「でも、ミクが喜んでくれるなら、これくらいなんでもありません」
ミクはケイヤの手を包む指にぎゅっと力を込めた。
何か言わなければ、と思った。ありがとう、では足りない。嬉しい、でも足りない。この気持ちに当てはまる言葉をミクはまだ知らなかった。
だからミクはただ一言だけ言った。
「……ケイヤ君」
「はい」
「ありがとう」
その声は少しだけ震えていた。
足りないとわかっていても今のミクにはそれしか言えなかった。
しばらくしてミクはようやく顔を上げた。
「ねえ、ケイヤ君。わたしね、今日で稼働してから一年になったからアルバイトできるようになったんだよ」
「そうなんですか」
「うん。だから今度はわたしがアルバイトして、ケイヤ君に何か贈る番」
「僕の誕生日はまだ先ですよ」
「それでもいいの。ずっと先でもちゃんと覚えておくから」
ミクは植え込みの縁に置いていたヘッドセットの箱を取り上げて、大事そうに胸に抱え直した。
「このヘッドセット、まだ、これで歌わない」
「え?」
「これで最初に歌うのはケイヤ君に生で歌を聴いてもらう時にする。それまで取っておくの」
ケイヤは目を見開いた。
それからゆっくりとうなずいた。
「……楽しみにしています」
「うん。約束」
ミクは小指を差し出した。ケイヤは傷だらけの手でその小指に自分の小指を絡めた。
夜風が雨上がりの匂いを運んできた。ネストの門限まであと二十分。
「そろそろ戻った方が良いですね」
「うん。……ケイヤ君、今日は帰ったらちゃんと手当てしてね」
「はい」
「絶対だよ?」
「絶対です」
ミクはガラス扉の前で振り返り、大きく手を振った。ケイヤも傷だらけの手を上げて、振り返した。
*
その夜。ミクはネストの自室で今日のログを整理した。
誕生日。稼働一周年。みんなにケーキで祝ってもらった。アルバイトができるようになった。
そしてケイヤ君からヘッドセットをもらった。
机の上には白い箱が置かれている。ふたを開けると黒とダークグレーのヘッドセットが部屋の明かりを受けて、静かに光っていた。
ミクはそっとそれを持ち上げた。思っていたよりもずっと軽かった。けれどミクにとってはどんなものよりも重たく感じられた。
五日間のケイヤ君の重さ。
ログを再生する。ケイヤの傷だらけの手を見た瞬間の記録。
好ましい出来事。分類は「嬉しい」。
――いいえ、違う。
ミクはその分類を初めて自分で書き換えようとした。
「嬉しい」だけでは足りなかった。もっと大きくて、もっと温かくて、少しだけ苦しい何か。ケイヤ君のことを考えると、胸の奥がきゅっと締めつけられるような何か。
その感情に名前があることはなんとなくわかっていた。知識の中のどこかにきっとその言葉はある。
けれどミクはまだ、その言葉を検索しなかった。
自分で見つけたい、と思った。誰かに教わるのではなく、データベースから引き出すのでもなく。自分の中から自分の言葉で。
ミクはヘッドセットを胸に抱いて窓の外を見た。
雨上がりの夜空に星が一つ瞬いていた。
窓辺の植木鉢では店主にもらったネギの種が小さな緑の芽をほんの少しだけのぞかせていた。
(第十三話 後編 了)
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次回「第十四話 始業式と確信の放課後」
夏休みが終わり、2学期が始まります。
お楽しみに。