夏休み前と何かが違う、そう感じざるを得ないリンです。
九月一日、月曜日。
ピアプロ学院の正門には日焼けした顔、夏休みの名残を引きずった眠そうな顔が次々と吸い込まれていった。
「おはよー!」
「久しぶりー! 焼けたね!」
あちこちで再会の声が弾んでいる。
ミクは正門をくぐりながら通学カバンの持ち手をぎゅっと握りしめた。ファスナーでネギのマスコットが揺れている。
今日から二学期。
――毎日、ケイヤ君に会える。
夏休みの間は会う約束をしなければ顔を見ることもできなかった。けれど今日からは教室に行けば窓際の一番後ろの席にケイヤがいる。
そう考えるだけで歩く速さが自然と上がっていった。
一年三組の教室の扉を開けると窓際の一番後ろの席に見慣れた姿があった。
少し長めの前髪。目立たない眼鏡。カバンの持ち手にはドット絵の騎士のキーホルダー。
ケイヤが顔を上げた。
目が合った。
ミクはぱっと顔を輝かせて手を振ろうとした。ケイヤも何かを言いかけて口を開いた。
「おはよう、ミクー!」
その瞬間、背後からリンが飛びついてきた。今朝はネストで盛大に寝坊して、ミクを先に行かせていた。息を切らしているところを見ると、全力で走ってきたらしい。
「わっ、リン!」
「久しぶりの教室だね! あ、ケイヤ君もおはよー!」
「……おはようございます、鏡音さん」
ケイヤは言いかけた言葉を飲み込んで小さく会釈した。
ミクも振りかけた手をそっと下ろした。
――あれ?
ミクは自分の中に生まれた小さな感覚に首をかしげた。
リンのことは大好きだ。久しぶりの教室も楽しい。それなのにほんの少しだけ何かが物足りない。
ケイヤ君にちゃんと「おはよう」を言いたかった。二人で。
*
始業式が終わり、教室に戻るとホームルームまでの短い休み時間になった。
ミクは窓際の席に近づいた。ケイヤは配られたプリントを整理していた。
「ケイヤ君、おはよう」
「あ……おはようございます」
ケイヤが顔を上げた。
ミクはケイヤの手に目を留めた。左右の手のひらに、白い絆創膏がいくつも貼られている。指の付け根にはまだうっすらと赤い跡が残っていた。
「手、ちゃんと手当てしたんだね」
「はい。約束しましたから」
「痛くない?」
「もう、ほとんど。……ありがとうございます、心配してくれて」
ケイヤは少し照れくさそうに絆創膏だらけの手をひらひらと振ってみせた。
ミクはその手を見つめた。
あの夜、この手がヘッドセットの箱を差し出してくれた。その記録を思い出すだけで胸の奥がふわりと温かくなる。
「ねえ、ケイヤ君」
「はい」
「あの……」
何かを言いたかった。けれど何を言いたいのかミクにもよくわからなかった。ありがとう、はもうあの夜に言った。それ以外の言葉が見つからない。
「おい、音無! その手どうしたんだよ、夏休みに何やってたんだ?」
前の席の男子が振り返って声をかけてきた。
「あ、いえ、ちょっと……」
「なんだよ、怪しいな。まさかケンカか?」
「違いますよ……」
「なに、音無がケンカ?」
あっという間にケイヤの周りに男子が集まってきた。ミクはその輪から一歩離れた。
――二人きりじゃないんだ。
当たり前のことだった。ここは教室でクラスメイトが四十人もいる。夏休みのように時計台広場で待ち合わせて、二人だけで出かけるのとは違う。
毎日会える。それは嬉しい。
けれど、毎日会えても二人きりにはなれない。
その事実にミクの中でまた小さな「物足りない」が生まれた。
席に戻る途中でミクは窓際を振り返った。男子たちに囲まれながらケイヤがちらりとこちらを見た。そして困ったように小さく笑った。
――ケイヤ君も同じなのかな。
そう思うと物足りなさがほんの少しだけ和らいだ。
*
昼休み。
ミクとリンはいつものように机を向かい合わせて弁当を広げた。窓際ではケイヤとレンが並んで座っている。
「ねえリン。今日、ケイヤ君たちと一緒に食べない?」
「えっ、ミクから言うの珍しいね」
リンは目をぱちくりさせた。それからにやりと口の端を上げる。
「いいよいいよ。レン、ケイヤ君、こっちおいでー!」
四つの机をくっつけて、四人で弁当を囲む。
ケイヤの前には今日もコンビニの菓子パンが一つ。それを見たミクは迷わず自分の弁当箱からネギ入り卵焼きを二切れ取り分けた。
「はい、ケイヤ君」
「え、いいんですか」
「だってパンだけじゃ足りないでしょ。それに今日のは自信作なの」
ケイヤはありがとうございます、と小さく頭を下げて卵焼きを口に運んだ。
「……おいしいです」
「でしょー!」
そのやりとりをリンはおにぎりをかじりながらじっと観察していた。
――ナチュラルにおかずを分けてる。
一学期の期末前にミクが卵焼きを持っていった時は「お礼の前払い」なんて理由をつけていた。今は理由すら言わない。当たり前のように取り分けて渡している。
「ねえケイヤ。その手ほんとにどうしたの?」
レンがケイヤの絆創膏を不思議そうに見つめた。
「夏休みの最後、急用だって言ってゲームセンター飛び出していったきりだったよね」
「ああ……」
ケイヤはちらりとミクを見た。ミクは黙って卵焼きを食べている。
「少し、アルバイトをしていました。イベントの設営の」
「えっ、ケイヤが!? 力仕事を!?」
「意外ですか」
「すっごく意外」
レンは本気で驚いた顔をしていた。
ケイヤは苦笑して、それからレンのほうに少しだけ体を向けた。
「レン。あの時はありがとうございました」
「え? 何が?」
「教えてくれて。……助かりました」
レンはきょとんと首をかしげた。何のことだかさっぱりわからない、という顔だった。
その隣でおにぎりを口へ運ぼうとしていたリンの手がぴたりと止まった。
――教えてくれて。
レンがケイヤ君に教えたこと。それは一つしかない。ミクの誕生日だ。
それを聞いたケイヤ君は急用だと言って飛び出していった。そして手を傷だらけにしてアルバイトをしていた。
リンはゆっくりとミクのほうを見た。
ミクは何も言わずにケイヤの手の絆創膏を少しだけ心配そうに見つめていた。
――これは、まだ何かある。
リンはおにぎりを一口かじって何事もなかったような顔をした。
*
放課後。軽音部室。
夏休み明け最初の練習とあって、部室にはいつもより多くの部員が集まっていた。
「みんな、久しぶりね。二学期の最初の目標はもちろんピアプロ祭のステージよ」
ピアプロ祭。――ピアプロ学院の文化祭であり、年間を通して最大規模のイベントである。もちろん軽音部もライブという形で出演する。そのステージは毎年ピアプロ祭で最大の観客動員数を誇っていた。
窓際の椅子でルカが手元のタブレットを操作しながら言った。
「曲目と構成は来週までに決めるわ。各自、夏の間に鈍った体をしっかり戻しておいて」
「はーい!」
「失礼します……」
部室の扉が開いてレンが顔をのぞかせた。
「あ、レン、来た来た! こっちこっち!」
リンが手招きする。夏休み明けに部室の機材の配置を変えることになっていた。重たいアンプやスピーカーを動かすための人手としてリンが朝のうちに呼びつけておいたのである。
「パソコン部の活動は……」
「ケイヤ君にはあたしから言っといたから!」
レンは窓際のルカにちらりと目をやってから、あきらめたようにアンプの前にしゃがみ込んだ。ルカに「レン君、いつもありがとう」と声をかけられて耳まで赤くなる。
練習の準備が始まる中、ミクは自分のカバンからそっと黒いケースを取り出した。
「ルカ先輩、ちょっと見てもらいたいものがあるんですけど」
「何かしら」
ミクはケースのふたを開けた。
中に収まっていたのは黒とダークグレーのヘッドセットだった。角の取れた四角いイヤーパーツ。側面の青緑色のライン。口元へ伸びる細いマイク。
部室の空気が一瞬、静まり返った。
「うわっ、それ……!」
真っ先に食いついたのはリンだった。ミクの手元に顔がくっつきそうなほど身を乗り出す。
「オーディオショップに飾ってあった、限定のやつじゃん! ミクがいっつもガラス越しに見てた! どうしたのこれ?」
ミクは少しだけ照れくさそうに、けれどとても嬉しそうに答えた。
「ケイヤ君にプレゼントされたの。誕生日に」
「――――っ」
リンの動きが完全に止まった。
ケイヤ君に。プレゼントされた。誕生日に。
頭の中でいくつものピースがかちり、かちりとはまっていく。
レンが誕生日を漏らした。
ケイヤ君が「急用」と言って飛び出していった。
それから一週間、家の用事だと言ってミクに会わなかった。
手を傷だらけにしてアルバイトをしていた。
そして、誕生日の夜にこのヘッドセット。
――あたしの作戦、ちょっと効きすぎじゃない?
リンはヘッドセットとミクの顔とを何度も見比べた。
「これ、すっごく高いやつじゃん!」
「……うん」
ミクはヘッドセットのイヤーパーツを指先でそっとなでた。
「だからルカ先輩にこれが部の音響設備につながるか見てもらいたくて。ピアプロ祭のステージで使いたいから」
ルカはタブレットを置いて、ミクの手元のヘッドセットを手に取った。メーカーのロゴと型番を確かめ、イヤーパーツの側面にある小さなボタンを長押しする。
部室の隅に置かれたミキサーの受信機で小さなランプが青緑色に点った。
「……うちの受信機とも問題なくペアリングできるわね。これなら使えるわ」
「よかった!」
「いいものをもらったのね」
ルカはヘッドセットをミクの手に戻しながら静かに言った。
「じゃあ、さっそく使ってみなよ! 今日の練習から!」
リンが目を輝かせて言った。
けれど、ミクは首を横に振った。
「ううん。まだ使わない」
「え? なんで?」
「これで最初に歌う日はもう決めてあるの」
ミクはヘッドセットを大事そうにケースに戻して、ふたを閉じた。
「決めてあるって、いつ?」
「ないしょ」
ミクはくすっと笑った。
リンは口をぱくぱくさせた。何かを聞こうとして言葉が見つからない、という顔だった。
ルカだけが窓際の椅子で静かに目を細めていた。
夏フェスの日、テントの中でミクに言った言葉。届けたい人がいる歌はきっと、もっといい歌になる。
その歌をミクはいつ誰に向かって歌うつもりなのか。ルカにはなんとなくわかる気がした。
ミクはケースをカバンにしまうと、いつものように支給品の古いヘッドホンを首にかけた。
「さ、練習しよ、リン!」
「う、うん……」
リンはまだ半分ぼうっとしたまま、マイクスタンドの前に立った。
*
練習が終わったのは夕方の六時過ぎだった。
片付けを終えた部員たちがぞろぞろと部室を出ていく。ミクとリンもカバンを肩に掛けて扉へ向かった。
扉を開けると、廊下の窓際の壁にケイヤがもたれていた。手元の携帯ゲーム機から、顔を上げる。
レンを待っているのだ。一学期から何度も見てきた光景だった。
ケイヤは出てきたミクを見て、ふっと表情を和らげた。
「ミク、お疲れさま」
ごく自然な声だった。
何の気負いもなく、当たり前のように。まるでずっと前からそう呼んでいたかのように。
「うん、ケイヤ君もお疲れさま! レン君、まだ中でアンプの片付け手伝ってるよ」
「そうですか。じゃあ、もう少し待ちます」
ケイヤはゲーム機をポケットにしまった。
その隣でリンが石像のように固まっていた。
――今、なんて言った?
ミク。
ケイヤ君がミクのことをミクって呼んだ。
初音さん、じゃなくて。ミク、って。
リンの頭の中で夏休みのすべての光景が一気に再生された。
雨の日ネストのガラス扉の向こうで名残惜しそうに手を振っていたミク。プールで顔を真っ赤にしていたケイヤ君。川の向こう岸で手をつないで歩いていた二人。見たこともないほど嬉しそうに笑っていた、ミクの顔。
そして、今日のナチュラルな卵焼き。誕生日のヘッドセット。「これで最初に歌う日は、もう決めてある」という言葉。
最後にたった今の「ミク、お疲れさま」。
すべてのピースがぴたりとはまった。
――確信した。
これはもう「もしかして」なんかじゃない。
「リン? どうしたの? 固まってるよ?」
ミクがリンの顔の前でひらひらと手を振った。
「……な、なんでもない」
リンはぎこちなく首を振った。
「あ、あたし、ちょっと忘れ物! レン手伝ってくる! ミクは先に帰ってて!」
「え? う、うん」
リンはくるりと踵を返して、部室の中へ駆け戻っていった。
部室の奥ではレンが一人でケーブルを巻き取っていた。
「レン!」
「わっ、リン!? どうしたの?」
リンはレンの両肩をがしっとつかんだ。その目は獲物を見つけた猫のようにらんらんと輝いていた。
「確信した」
「……何を?」
「ミクとケイヤ君。もう確定。百パーセント」
「え、えっと……」
「今、ケイヤ君がミクのこと『ミク』って呼んだの! 当たり前みたいに!」
「えっ」
レンの手からケーブルがするりと落ちた。
「ケイヤが……?」
「そう! それにさっきのヘッドセット! レンも聞いてたでしょ、誕生日プレゼントだって。あの手の傷はそのためのバイトだったんだよ! レンが誕生日を教えたから!」
「……あ」
レンは口を半開きにしたまま固まった。昼休みのケイヤの「教えてくれて、助かりました」の意味がようやくわかったのだ。
あの絆創膏だらけの手。自分がうっかり――いや、リンに言われて――口を滑らせた一言のせいでケイヤは手を傷だらけにして力仕事をしていたのだ。
「ぼく、そんなつもりじゃ……ケイヤ、あんな手になるまで……」
「いいの! レンは最高の仕事をしたの! 栗きんとん、二個にしてあげる!」
リンはレンの肩をばんばんと叩いた。それからすっと真顔になる。
「レン。今日から新しい任務を与えます」
「……いやな予感しかしない」
「名付けて『ミクのラブコメイベント監視』」
「監視……」
「あの二人、絶対にこれから色々あるから。それを全部見届けるの。あたしたちで」
「なんでぼくまで……」
「だって、レンは共犯者でしょ?」
リンはにんまりと笑った。
レンは深い深いため息をついた。断れないことは、もうわかっていた。
*
それから三日が過ぎた。
ミクは毎日、あのヘッドセットのケースをカバンに入れて登校した。
ルカに接続を確かめてもらったのだから、もう持ってくる必要はない。ネストの部屋に大事にしまっておけばいい。
判断回路はそう答えを出している。
それなのに朝、カバンに教科書を詰めていると、気がつけばケースに手が伸びている。
カバンの中にあの黒いケースがある。それだけでなんだか一日が少しだけ心強くなる気がした。
「ねえミク」
昼休み、カバンからそっとケースを取り出して中を確かめていたミクにリンが声をかけた。
「接続の確認、もう終わったんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、なんで毎日持ってきてるの?」
ミクはケースのふたを閉じて首をかしげた。
「……なんでだろう?」
「本人がわかんないの!?」
「うん。わかんない。でも持ってたいの」
ミクはケースを胸に抱えてふわりと笑った。
リンはその笑顔を見て、何も言えなくなった。
――ミク。それはね、たぶん。
言いかけてリンは口を閉じた。
それは自分が教えることじゃない。ミクが自分で見つけることだ。
「……ふーん。まあ、いいけどさ」
リンは肩をすくめて、自分の弁当に向き直った。
その目の端で窓際の席のケイヤがミクのほうをちらりと見ていた。
リンはこっそりとスマートフォンのメモを開いた。
『監視記録 九月四日 ミク、ヘッドセットを毎日持参。本人、理由不明。ケイヤ君、こっち見てる』
保存ボタンを押してリンは小さくガッツポーズをした。
(第十四話 了)
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次回「第十五話 勉強会再び」
二人の原点の勉強会。だが以前とは何かが違うようです。
お楽しみに。