でもミクさんの心の成長には欠かせない話しなので、何卒お付き合いください。
それでは、どうぞ。
九月八日、月曜日。二学期が始まってちょうど一週間。
朝のホームルームで担任がプリントの束を抱えて教室に入ってきた。
「えー、連絡事項だ。来週の水曜日と木曜日の二日間、実力試験を行う」
一瞬、教室の時間が止まった。
「……え?」
「実力、試験……?」
「範囲は一学期の内容すべて。夏休みの間にきちんと復習していたかどうかの確認だ。成績にもしっかり反映されるからそのつもりで」
担任は配り終えたプリントを手で払うと、何事もなかったかのように出席簿を開いた。
次の瞬間、教室中から悲鳴が上がった。
「聞いてないってー!」
「夏休み、ゲームしかしてねえよ!」
「一学期の内容って、全部!?」
阿鼻叫喚の中、ミクの前の席でリンがゆっくりと机に突っ伏した。
「……世紀末、再び」
「リン、しっかりして……」
そう言うミクの声も少しだけ震えていた。
夏休みの間、勉強をしなかったわけではない。けれどプールに行ったり、夏祭りに行ったり、ネギ料理のお店に行ったりしていた。そして二学期が始まってからはヘッドセットのことで頭がいっぱいだった。一学期の内容を全部覚えているかと聞かれたら、自信はまったくない。
それにルカの言葉もよみがえる。試験の結果は部長に報告される。結果次第では部活動の制限もある。
ピアプロ祭のステージまであと二か月足らず。ここで赤点を取るわけにはいかなかった。
*
一時間目が終わると同時にミクは席を立った。
向かった先は窓際の一番後ろの席だった。
「ケイヤ君!」
ケイヤは一学期のノートを開いて何かを書き込んでいた。顔を上げて駆け寄ってきたミクを見る。
「ケイヤ君、どうしよう! 実力試験だって! 一学期の内容、全部だって!」
「落ち着いてください。まだ一週間以上あります」
「一週間しかないんだよ!」
ミクはケイヤの机に両手をついて身を乗り出した。その勢いにケイヤは思わず椅子ごと少し後ろに下がった。
周りの席のクラスメイトたちがちらりとこちらを見る。人気者の初音ミクがまた音無に話しかけている。けれどそれ以上の興味は示さず、それぞれの悲鳴の続きに戻っていった。
ケイヤは周りをそっと確かめた。それから少しだけミクのほうへ顔を寄せて、ミクにだけ聞こえる声で言った。
「……また、勉強会しましょうか、ミク」
ミクの顔がぱあっと輝いた。
「うん! やろう!」
大きな声だった。周りのクラスメイトがまた振り返る。
「初音さん、また音無に勉強見てもらうんだ」
「一学期もそれで赤点回避したんだっけ」
「いいなー、音無の家庭教師」
ひそひそと、そんな声が聞こえてくる。誰もケイヤの小さな一言には気づいていなかった。
――ただ一人を除いて。
ケイヤの斜め前の席で、咲音メイコが教科書を広げたまま、ぴたりと手を止めていた。
ほんの小さな声だった。けれど、すぐ近くにいたメイコの耳には確かに届いていた。
――ミク、って言った。音無君が。
メイコは少しだけ眉を上げた。それから、何も言わずにふっと口元を緩めた。そして何事もなかったかのように教科書のページをめくった。
*
その日の放課後から図書室での勉強会が再開された。
窓際の四人掛けの机。一学期と同じ場所。ケイヤが鞄からプリントの束を取り出して並べる。
ミクはそのプリントに見覚えがあった。
「これ……一学期の勉強会の?」
「はい。捨てられなくて取っておいたんです。今日はこれで一学期の内容をざっと復習して、ミクがどこを忘れているか確かめましょう。新しいプリントは明日から作ってきます」
ミクはプリントを見下ろした。几帳面な手書きの文字。七月に毎日この机で解いたものだ。
けれど、一つだけあの時にはなかったものがあった。
プリントの余白にところどころ小さな書き込みがある。
『初音さんはここで符号を間違えやすい』
『問題文が長いと全部一度に処理しようとして混乱する。一文ずつ区切る練習を』
『具体例があると強い。ネギで例えるのも可』
初音さん、と書いてある。まだ名前で呼んでいなかった頃の文字だ。勉強会が終わった後、夏休みのどこかでケイヤはこのプリントを見返して書き込んでいたのだろう。
ミクは思わず顔を上げた。
「これ……わたしのこと?」
「あ、それは……自分用のメモです。消し忘れました」
ケイヤは慌ててプリントを引き寄せようとした。けれどミクのほうが早かった。ミクはプリントを両手で抱えてケイヤから遠ざけた。
「だめ。これ、もらう」
「いや、でも、恥ずかしいので……」
「だめ」
ミクはプリントの書き込みをもう一度読んだ。
ネギで例えるのも可。
一学期の勉強会でケイヤが初めてネギでモルを説明してくれた日のことをミクは覚えている。あの日からケイヤはずっとミクのことを見ていてくれたのだ。どこでつまずくのか。どうすればわかるのか。
胸の奥がふわりと温かくなった。
書架を挟んだ向こうの机ではリンとレンも勉強会を開いていた。
――はずだった。
「……リン。英語の教科書、逆さまだよ」
「しっ。今いいところなの」
リンは逆さまの教科書で顔を半分隠しながら、書架の隙間から窓際の机をじっと見つめていた。
「ミク、ケイヤ君のメモ、抱きしめてる……。あれ、絶対大事にするやつだ……」
「リン、監視より勉強して。リンの英語、一学期より下がってるって先生言ってたよ」
「監視も大事な任務なの!」
「その任務、試験に出ないよ……」
レンは深いため息をついて、リンの教科書を正しい向きに直した。
翌日からケイヤは約束通り、毎日新しいプリントを作ってくるようになった。
勉強会は一学期よりもずっと順調に進んだ。
「この文章題、ミクはたぶん最初の一文を読んだ時点で全部の条件を同時に計算しようとしていますよね」
「……どうしてわかるの?」
「一学期に同じ間違い方を三回していたので」
ケイヤはノートに問題文を一文ずつ区切って書き出した。
「まず、ここまでだけ読んでください。わかっていることは何ですか」
「えっと……ネギが三束ある」
「そうです。じゃあ、次の一文」
「一束を二人で分ける……」
「一つずつ、です。全部を一度に考えなくていいんです」
言われた通りに一文ずつ区切って考える。するとあれほど複雑に見えた文章題がするすると解けていった。
「解けた!」
「正解です」
ミクはぱっと顔を上げた。ケイヤが少しだけ誇らしそうに笑っている。
――ケイヤ君はわたしの思考のクセをわたしよりもよく知っている。
アンドロイドの思考回路は自分で自分のことを分析するのが得意なはずだった。それなのに、ケイヤのほうがミクのつまずき方をよくわかっている。
不思議だった。けれど嫌ではなかった。むしろ少しだけ嬉しかった。
勉強会が始まって、四日目のことだった。
ふと、ミクはケイヤの顔を見た。
眼鏡の奥の目の下にうっすらと影ができている。あくびを噛み殺すように口元が小さく動いた。
「ケイヤ君、眠いの?」
「あ、いえ。少しだけ」
「昨日、プリント作るの、遅くまでかかった?」
「……ゲームを少しやりすぎてしまって」
ケイヤは苦笑して目をそらした。
ミクは少しだけ首をかしげた。その答えをどこかで聞いたことがある気がした。一学期の勉強会でも同じことを言っていた。そしてその時、レンは「最近ケイヤはゲームをしてないらしい」と言っていた。
あの時の小さな食い違いをミクはまだ覚えていた。
けれど問いただす前にケイヤが次のプリントを取り出していた。
「次は英語の長文です。これも一文ずつ区切っていきましょう」
「……うん」
ミクは浮かんだ疑問をひとまずログの片隅にしまった。
*
勉強会が始まって、一週間が過ぎた。
実力試験まであと二日。
その日もミクとケイヤは窓際の四人掛けの机で向かい合って座っていた。
ミクはケイヤの作った数学の模擬問題に取り組んでいた。ペンは順調に進んでいる。一学期の終わりに比べても、理解の速さが明らかに上がっていた。
ケイヤはミクの答案を横から見ながら、時折、小さくうなずいていた。その視線はずっとミクの手元に向けられている。
問題を解きながら、ミクはその視線を感じていた。
ケイヤ君が見てくれている。自分の解き方をちゃんと見てくれている。それがなんだか心地よかった。
「ねえ音無君。ちょっといい?」
明るい声とともに一人の女子生徒が机の横に立った。
茶色のショートヘアにきりっとした目元。咲音メイコだった。手には数学の問題集が開かれている。
「この二次関数の最大値と最小値の問題、場合分けがどうしてもわからなくて。悪いけど少しだけ教えてもらえないかな」
「あ、はい。どこですか?」
ケイヤはメイコの問題集をのぞき込んだ。
「ここですね。軸の位置によって、場合分けが三通りになるんです。まず軸が定義域より左にある場合……」
「あ、なるほど。そこから考えるんだ」
ケイヤの視線がメイコの問題集に移った。
ほんのそれだけのことだった。
その瞬間、ミクの中で何かが小さく軋んだ。
――あれ?
さっきまでケイヤの視線はミクの手元に向いていた。自分の答案を見てくれていた。
それが今、メイコの問題集に向いている。
ケイヤがメイコに勉強を教えている。自分に教えてくれる時と同じ丁寧な声で。わかりやすい説明で。
ミクのペンが止まった。
目の前の問題が急に読めなくなった。文字は見えている。意味もわかる。それなのに思考がまったく前に進まない。一文ずつ区切って考えるはずの頭の中が、ざわざわと落ち着かない。
――なんだろう、これ。
ミクは自分の中を探った。
一学期の勉強会の最終日。同じようにメイコがケイヤに数学の質問をしに来た。あの時の記録を呼び出す。
『メイコちゃんの質問中も学習効率に影響なし』
あの時は何も感じなかった。ケイヤがメイコに教えている間、ミクは平然と自分の問題を解き続けていた。
状況はあの時とまったく同じだ。
それなのに、今はペンが一文字も進まない。
胸の奥に小さな棘のようなものが刺さっている。重たくて、ちくちくして、なんとも言えない、嫌な感じ。夏フェスの日の「悲しい」とも違う。誕生日の夜の「嬉しいのに苦しい」とも違う。
知識の中を探してもぴったり当てはまる言葉が見つからなかった。
ミクは自分の頭部の温度を確かめた。いつもより少しだけ高い。冷却用の人工汗がこめかみににじんでいる。けれど、ケイヤと手をつないだ時のようなふわりと温かい熱ではなかった。もっと、じりじりと焦げつくような熱だった。
「――ありがとう、音無君! すっごくわかりやすかった!」
数分後、メイコは問題集を閉じて、ぺこりと頭を下げた。それからミクのほうに向き直る。
「ごめんね、初音さん。勉強中に音無君を借りちゃって」
そう言いながら、メイコはミクの顔を見てほんの一瞬だけ目を瞬かせた。いつもにこにこしている初音さんがなぜかうつむいたまま黙っている。
――あれ。もしかして悪いタイミングで来ちゃったかな。
メイコは少し気まずそうに頬をかいて、苦笑いを浮かべた。
「えっと……お邪魔しました。試験、お互い頑張ろうね」
メイコは軽く手を振って、自分の席へと戻っていった。
ミクはその背中を見送ったまま、何も答えられなかった。
一学期は「ううん、大丈夫だよ」と笑って言えたのに。
「すみません、ミク。お待たせしました」
ケイヤがミクのほうに向き直った。
「どこまで進みましたか?」
「……別に」
ミクの口から出たのは自分でも驚くほど、そっけない声だった。
「え?」
「別に、待ってない。続き、やろう」
ミクはケイヤの顔を見ずに、問題用紙に視線を落とした。
ケイヤは少し戸惑ったようにミクを見つめた。
「ミク? どうかしましたか」
「どうもしてない」
「でも、さっきから一問も進んでいないような……」
「進んでる」
「……そうですか」
ケイヤはそれ以上何も言わなかった。困ったように眉を下げて、ミクの答案を黙って見守っている。
ミクはペンを握りしめた。
――どうしてこんな言い方をしているんだろう。
ケイヤは何も悪いことをしていない。クラスメイトに質問されたから、親切に答えただけだ。ケイヤは誰にでも優しい。それはミクが一番よく知っている。
それなのに口から出てくる言葉がことごとく冷たかった。判断回路が「今の言い方は良くない」と警告を出しているのに、出力が言うことを聞かない。
その日の勉強会はそのまま、いつもよりずっと静かに終わった。
*
図書室を出て、昇降口で靴を履き替える。
いつもなら校門までの短い道のりを二人で並んで歩きながら、今日の勉強会のことを話す。ネギの芽がどれくらい伸びたとか、ケイヤが昨日クリアしたゲームのこととか。
けれど今日はミクが口を開かなかった。ケイヤも何を話していいかわからない様子で、黙って隣を歩いていた。
校門の前でケイヤが足を止めた。
「あの、ミク」
「……なに?」
「もし、僕が何か気に障るようなことをしたなら……」
「してないよ」
ミクは首を横に振った。それは本当のことだった。ケイヤは何もしていない。
「してない。ケイヤ君は何も悪くない」
「でも……」
「明日も勉強会、お願いします」
ミクは小さく頭を下げた。それからケイヤの返事を待たずに東の道へと歩き出した。
背中にケイヤの視線を感じた。振り返りたかった。けれど振り返ったらまた何か冷たいことを言ってしまいそうで怖かった。
*
その夜。ミクはネストの自室で自己診断を走らせた。
――冷却系統、正常。人工筋肉、正常。演算処理、正常。音声出力、正常。
結果はすべて「異常なし」。
「……うそ」
ミクはベッドの上で膝を抱えた。
異常なしのはずがない。今日の自分は、明らかにおかしかった。メイコがケイヤに話しかけた瞬間から思考が止まって、ペンが進まなくなった。何も悪くないケイヤに冷たい言葉ばかり投げつけた。判断回路の警告を出力が無視した。
これが不具合でなくて、何なのだろう。
ミクは今日のログを再生した。
メイコが机の横に立った時。ケイヤの視線がミクの手元からメイコの問題集に移った時。その瞬間に記録が乱れている。分類できない数値。けれど今までの「分類できない数値」とは、明らかに違う。
温かくない。ふわりとしない。じりじりと胸の奥を焦がすような数値。
――バグ、なのかな。
ミクはネストの保守窓口の連絡画面を開いた。
『不具合の内容を入力してください』
入力欄に文字を打ち込む。
『特定の状況下で思考処理が停止する。また、意図しない攻撃的な言語出力が発生する。発生条件:クラスメイトの男子生徒が他の女子生徒と会話している時』
送信ボタンの上で指が止まった。
――発生条件:クラスメイトの男子生徒が他の女子生徒と会話している時。
自分で打ち込んだ文章をもう一度読む。
その瞬間、なぜかひどく恥ずかしくなった。頭部の温度がぐんと上がる。
ミクは慌てて入力欄の文字をすべて消した。
「……送れないよ、こんなの」
画面を閉じて、ミクはベッドに倒れ込んだ。
天井を見上げる。窓辺の植木鉢ではネギの芽が少しずつ背を伸ばしていた。
明日、ケイヤ君にちゃんと謝ろう。
そう思ってから、ミクは気づいた。
何を謝ればいいのかすら、自分にはまだわからないのだ。
ミクはログの最後に短い一行を書き込んだ。
――原因不明の不具合。発生源、不明。……たぶん、わたし。
(第十五話 了)
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次回「第十六話 倒れた午後」
お楽しみに。