わたしが『ボーカロイド』になるまで   作:雪田琉摩

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シリアス場面、続きます。
それでは、どうぞ。


第十六話 倒れた午後

 実力試験の前日。

 放課後の図書室でミクは窓際の四人掛けの机にケイヤより先に座っていた。

 昨日の夜、ログの最後に書いた一行がずっと頭から離れなかった。

 ――原因不明の不具合。発生源、不明。……たぶん、わたし。

 ケイヤは何も悪くない。悪いのは冷たい言葉ばかり出力したわたしのほうだ。だから謝らなければいけない。

 けれど何を謝ればいいのか、まだわからなかった。メイコちゃんがケイヤ君に話しかけた時、なぜ自分がおかしくなったのか。それを説明できないまま、ただ「ごめんなさい」と言っても、それは本当の謝罪になるのだろうか。

「お待たせしました」

 ケイヤが少し息を切らして席に着いた。鞄から新しいプリントの束を取り出す。今日の分もちゃんと作ってきてくれていた。

「あの、ケイヤ君」

「はい」

「昨日は……その、ごめんね」

 ミクは膝の上で手を握りしめた。

「なんか変な態度とっちゃって。ケイヤ君、何も悪くないのに」

 ケイヤは少しだけ目を丸くした。それからふっと表情を緩めた。

「気にしていません。試験の前ですから、誰だってぴりぴりしますよ」

「……そうかな」

「そうです。僕も昨日はちょっと焦っていましたし」

 ケイヤはそう言って笑った。

 ミクはその笑顔を見てほっとした。けれど同時に胸の奥に小さな棘が残っているのも感じていた。

 ケイヤは昨日のことを「試験前だから」で片付けてくれた。優しい。いつも通りのケイヤ君だ。

 でも、本当はそうじゃないことをミクは知っている。試験のせいじゃない。あれはもっと別の何かだ。

 その何かの正体をミクはまだ言葉にできなかった。

 

 最後の勉強会は穏やかに進んだ。

 ケイヤの説明はいつも通りわかりやすかった。いや、いつもよりもむしろ調子がいいくらいだった。

「明日の国語、この評論文のパターンは絶対に出ます。賭けてもいいです」

「ケイヤ君、今日なんだか元気だね」

「試験前日ですから。気合いです」

 ケイヤはいつもより少しだけ大きな声で笑った。机の端には自販機で買ったらしい缶コーヒーが二本、並んでいる。一本はもう空になっていた。

「ケイヤ君、コーヒー飲むんだ」

「たまには。大人の味というやつです」

「ふうん」

 ミクはそれ以上気にしなかった。ケイヤがいつもより元気で、いつもより饒舌で、いつもより楽しそうに見えた。昨日、冷たい態度をとってしまったことをまるで気にしていないみたいに。

 それがミクには嬉しかった。

「少し休憩する?」

「いえ大丈夫です。今日のうちに全部の教科を一周しておきましょう。ミクならできますから」

 そう言って、ケイヤは次のプリントを取り出した。その手つきはいつも通り几帳面だった。

 ただ、ミクがふと顔を上げた時、ケイヤがほんの一瞬だけ目を閉じていたことがあった。

 まばたきにしては少しだけ長かった。

「ケイヤ君?」

「――はい。どうしました?」

 ケイヤは何事もなかったように顔を上げた。

「ううん。なんでもない」

 ミクは首を振って問題に戻った。きっと気のせいだろう。

 帰り際、昇降口でミクはもう一度だけ言った。

「明日から試験だね。ケイヤ君も無理しないでね」

「僕は大丈夫ですよ。ミクこそ今日は早く寝てください」

 ケイヤはいつものように笑って手を振った。

 

  *

 

 実力試験、一日目。

 一時間目の国語の問題用紙を表に返した瞬間、ミクは自分でも驚いた。

 問題文がすっと頭に入ってくる。

 一文ずつ区切って読む。わかっていることは何か。聞かれていることは何か。ケイヤに教わった通りに一つずつ。するとあれほど苦手だった長文読解がまるで霧が晴れるように解けていった。

 二時間目の英語も、三時間目の化学も、同じだった。

 化学の物質量の問題ではまたあの少し曲がったネギの絵が頭に浮かんだ。三本で一束。ミクは思わず小さく笑いそうになって、慌てて口元を引き締めた。

 ――ちゃんとわかる。

 一学期の期末試験の時は赤点を回避するのが精一杯だった。けれど今は違う。解ける問題を確実に解いている手応えがある。

 

 昼休み、ミクはリンと弁当を食べながらちらりと窓際を見た。

 ケイヤは菓子パンを半分ほどかじったところで手を止めていた。机に肘をついてこめかみを押さえている。

「ねえリン。ケイヤ君、なんか具合悪そうじゃない?」

「え? あー、確かに顔色悪いかも。試験疲れじゃない?」

「……そうなのかな」

 ミクは自分の弁当箱から、ネギ入りの卵焼きを一切れ取り分けて、窓際へ持っていった。

 ミクが近づいてくるのに気づいた瞬間、ケイヤはこめかみから手を離して、すっと背筋を伸ばした。

「ケイヤ君、これ、食べて。パン、半分しか食べてないでしょ」

「あ、ありがとうございます。ちょうど何か食べたいと思っていたところです」

 ケイヤは卵焼きを受け取ってぱくりと口に運んだ。

「おいしいです。これで午後の試験も戦えます」

 そう言ってケイヤはいつものように笑った。

 さっきの具合の悪そうな姿は見間違いだったのだろうか。ミクは少しだけ首をかしげたけれど、ケイヤの笑顔を見てほっと胸をなでおろした。

 

  *

 

 実力試験、二日目。

 この日もミクの手応えは上々だった。

 社会、物理と順調に終わり、残るは最後の一科目、数学だけになった。

 五時間目。チャイムが鳴り監督の先生の「はじめ」の声とともに、教室中で問題用紙をめくる音が響いた。

 ミクは最初の問題に目を通した。二次関数。平方完成。マイナスをくくり出す時は符号に注意。

 ペンがするすると動いていく。

 ――あと少し。これが終わったらケイヤ君にちゃんとお礼を言おう。

 そしてもう一度、昨日のことを謝ろう。今度はもっとちゃんとした言葉で。

 

 試験が始まって三十分ほどが過ぎた頃だった。

 がたん、と大きな音が静まり返った教室に響いた。

 椅子が倒れる音。それに続いて何か重たいものが床に落ちる鈍い音。

 ミクは反射的に振り返った。

 窓際の一番後ろの席。

 ケイヤが床に倒れていた。

「――――え」

 ミクの思考が完全に停止した。

 ケイヤの体は横向きのまま、ぴくりとも動かない。眼鏡が外れて、床に転がっている。手から離れたシャープペンシルがころころと机の脚のほうへ転がっていった。

「おい、音無!」

「音無君!?」

 教室中が一斉にざわめいた。監督の先生が慌てて駆け寄る。

「音無、大丈夫か! 音無!」

 先生がケイヤの肩を揺すり、大きな声で呼びかける。けれどケイヤは目を閉じたまま、何の反応も示さなかった。

 ――反応が、ない。

 その事実を記録した瞬間、ミクの中で何かが壊れた。

 

「ケイヤ君っ!」

 気がつくと、ミクは席を立っていた。椅子が大きな音を立てて倒れる。答案用紙が床に舞い落ちた。

「初音、席に戻りなさい! 試験中だぞ!」

「ケイヤ君! ケイヤ君っ!」

 先生の声は聞こえていた。けれど体が言うことを聞かなかった。ミクは机の間を駆け抜けて、ケイヤのそばに膝をついた。

 ケイヤの顔は紙のように白かった。額には冷たい汗がにじんでいる。

「ケイヤ君、起きて! ねえ、起きてよ!」

 ミクはケイヤの肩をつかんで揺すった。反応がない。呼吸はしている。浅いけれど確かにしている。心拍もある。それなのに目を開けてくれない。

 判断回路が警告を出し続けている。落ち着け。状況を分析しろ。適切な行動を選択しろ。

 けれど、何一つ選べなかった。

 頭部の温度が急激に上がっていく。冷却がまったく追いつかない。視界の端でシステムの警告表示がちかちかと点滅している。

「やだ……やだよ、ケイヤ君……!」

 自分の声が自分のものではないみたいだった。こんな声をミクは今まで一度も出力したことがなかった。

「ミク!」

 後ろから誰かがミクの肩を抱きかかえた。リンだった。

「ミク、落ち着いて! 先生が保健室に連絡してるから!」

「だって、ケイヤ君が……! 目、開けないの……!」

「わかってる! わかってるから!」

 リンはミクの体をぎゅっと抱きしめた。その腕がかすかに震えていた。

 隣の席の男子たちがケイヤの体をそっと仰向けにする。廊下から別の先生たちが駆け込んでくる。誰かがケイヤの眼鏡を拾い上げた。

 レンが青ざめた顔で立ち尽くしていた。メイコが両手で口元を押さえていた。

 やがて保健の先生が担架を持って現れた。先生たちがケイヤの体を慎重に担架に乗せる。

「ケイヤ君……!」

 運ばれていく担架を追いかけようとしたミクをリンが必死に引き止めた。

「ミク、だめ! 今は先生たちに任せて!」

 担架が教室の扉の向こうに消えていく。

 ミクはリンの腕の中でその扉をいつまでも見つめていた。

 

  *

 

 試験はそのまま続けられた。

 席に戻されたミクの前で答案用紙は半分以上が白紙のままだった。

 ペンを握る。問題文を読む。けれど文字の意味がまったく頭に入ってこない。一文ずつ区切って読もうとしても一文目で思考が止まる。

 ケイヤ君は大丈夫なのか。目を覚ましたのか。

 それ以外のことが何一つ処理できなかった。

 チャイムが鳴った時、ミクの答案用紙は試験が始まって三十分の時点から一文字も増えていなかった。

 

 答案が回収されると同時にミクは教室を飛び出した。

 廊下を走り、階段を駆け下り、保健室の扉を開ける。

「失礼します! ケイヤ君は……!」

 保健の先生が人差し指を口元に当てた。

「静かにね。今、眠っているから」

 白いカーテンで仕切られたベッドの上でケイヤが横になっていた。顔色はまだ白い。けれど、さっきよりはほんの少しだけ血の気が戻っているように見えた。

 規則正しい寝息が聞こえる。

 ミクの膝から力が抜けた。その場にへたり込みそうになるのを扉の枠につかまってなんとかこらえた。

「さっき、一度目を覚ましたのよ。今は点滴の代わりに経口補水液を飲ませて休ませているところ」

「……ケイヤ君、どうして」

「過労ね」

 保健の先生はカルテに何かを書き込みながら言った。

「本人に少し話を聞いたけれど、この十日ほど毎晩夜中の二時、三時まで起きていたそうよ。睡眠不足に栄養不足。食事はほとんどコンビニのパンだけだったみたい。それに八月の終わりにかなりきつい力仕事のアルバイトをしていたとか。疲れが全然抜けきっていなかったのね」

 ミクは言葉を失った。

「病院に行くほどではないけれど、数日はしっかり休まないとだめね。お家の方に連絡したんだけど、お母様が遠方にいらっしゃるそうで、明日の夜にならないと戻れないって。今日は担任の先生が車で送っていくことになったわ」

 保健の先生の言葉がミクの中をゆっくりと通り過ぎていった。

 

 この十日間、毎晩、夜中まで起きていた。

 十日前。実力試験が発表されて勉強会が再開した頃だ。

 ――試験前日ですから。気合いです。

 机の端の二本の缶コーヒー。まばたきにしては長すぎた、あの一瞬。

 ――ゲームを少しやりすぎてしまって。

 ミクの中で記録が次々と再生されていく。

 毎日、新しく作られてきたプリント。几帳面な手書きの文字。ミクのつまずき方に合わせて、一問一問選ばれた問題。

 一学期の勉強会でも同じだった。「ゲームをやりすぎた」と言っていた。けれどレンは「最近ゲームはしてない」と言っていた。

 あの時の、小さな食い違い。ミクはずっとログの片隅にしまったままにしていた。

 ようやくその答えがわかった。

 ケイヤ君はゲームなんてしていなかった。

 毎晩、わたしのためのプリントを作っていたんだ。

 そして、八月の終わりのアルバイト。手を傷だらけにして、五日間、重たい鉄パイプを運び続けた。わたしの誕生日プレゼントを買うために。

 その疲れが抜けないまま、今度は毎晩わたしの勉強のために夜更かしをして。

 食事はパンだけで。

 ミクはベッドの上のケイヤを見つめた。

 ――原因は。

 判断回路が、答えを出した。

 ――原因は、わたし。

 

「ミク」

 保健室の扉のところにリンとレンが立っていた。

「ケイヤ君、大丈夫なの?」

「……うん。眠ってる。過労だって」

「過労……」

 レンが唇をかんだ。

「ぼく、気づかなかった……。ケイヤ、ずっと顔色悪かったのに……」

「レン君のせいじゃないよ」

 ミクは静かに言った。

 その声は自分でも驚くほど、平坦だった。

「わたしのせい」

「ミク……?」

「ケイヤ君、毎晩、わたしのためにプリント作ってたの。ゲームしてたんじゃなかった。それに夏休みのアルバイトもわたしの誕生日プレゼントのためだった。ケイヤ君が倒れたのは全部……」

「ちょっと、ミク! そんなこと――」

「わたしがケイヤ君に勉強を頼まなければ。わたしがあのヘッドセットを欲しそうに見ていなければ。わたしが……」

 言葉が続かなかった。

 リンがミクの手を握った。何かを言おうとして、けれど、何も言えないままただ強く握りしめた。

 

  *

 

 その夜。ネストの自室。

 ミクは明かりもつけずにベッドの上で膝を抱えていた。

 窓辺の植木鉢ではネギの芽が月明かりに照らされている。

 机の上には黒いケースが置かれていた。中にはあのヘッドセットが入っている。

 昨日まではそのケースを見るだけで胸の奥が温かくなった。毎日カバンに入れて持ち歩きたくなるほど大切なものだった。

 けれど今はそのケースを見ると、ケイヤの傷だらけの手が浮かんでくる。床に倒れてぴくりとも動かなかったケイヤの姿が重なってくる。

 ミクはケースから目をそらした。

 ログを開く。今日の記録。

 実力試験、二日目。数学、答案の半分以上が白紙。

 ケイヤ君、試験中に倒れる。過労。

 原因――。

 ミクはその欄に何度も同じ言葉を打ち込んでは消した。

 原因は、わたし。

 わたしがケイヤ君に頼りすぎた。わたしがケイヤ君の優しさに甘えた。ケイヤ君が無理をしているサインはいくつもあったのに。元気そうに見えた笑顔をそのまま信じてしまった。「ゲーム」という嘘を見破っていたのに問いただしもしなかった。

 昨日は冷たい態度までとった。

 自己診断を走らせる。結果はやはり「異常なし」。

 異常なしのはずがない。こんなにも胸の奥が重くて、苦しくて、どこにも逃げ場がないのに。

 これは知識として知っている言葉の中でいちばん近いものは――。

「……自己嫌悪」

 ミクは小さくつぶやいた。

 その言葉をログに書き込んだ。それはミクが自分の感情に初めて自分で名前をつけた瞬間だった。

 皮肉にもその最初の名前はミク自身を責める言葉だった。

 スマートフォンが小さく震えた。

 ケイヤからのメッセージだった。

『今日はご心配をおかけしてすみませんでした。もう大丈夫です。担任の先生に送ってもらって家に着きました。ミクは試験どうでしたか?』

 ミクはその画面を長い間見つめていた。

 倒れたのはケイヤ君のほうなのに。

 どうして真っ先にわたしのことを聞いてくるんだろう。

 返信しようとして指が止まる。何を打っても言葉が軽すぎる気がした。

 結局、ミクは一言だけを送った。

『ちゃんと、休んでね』

 送信してからミクはスマートフォンを胸に抱えてうずくまった。

 月明かりが静かに部屋を照らしていた。

 

(第十六話 了)




ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次回「第十七話 ケイヤのいない教室」
お楽しみに。
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