それでは、どうぞ。
金曜日の朝。
ネストの自室でミクはいつもより早く目を覚ました。
――目を覚ました、というのは正確ではない。スリープモードに入ろうとしても、昨日の記録が何度も再生されてほとんど休めなかったのだ。
床に倒れたケイヤ。紙のように白い顔。呼びかけても開かない目。
ミクはスマートフォンを手に取った。
ケイヤからのメッセージが一件届いていた。送信時刻は午前六時半。
『おはようございます。おかげさまで体調はすっかり回復しました。ただ今日発売のゲームをどうしても買いに行きたいので、学校はサボることにします。先生には内緒にしておいてください』
ミクはその文章を一度読んだ。
そして、すぐに気づいた。
――うそだ。
一秒もかからなかった。
保健の先生は数日はしっかり休まないとだめだと言っていた。一晩で「すっかり回復」するはずがない。
それにケイヤは学校をサボったりしない。一学期から今まで遅刻すら一度もしたことがない。真面目で几帳面で先生の目を盗むようなことは絶対にしない人だ。
何より「ゲーム」
ケイヤが本当のことを隠す時、決まって口にする言葉だった。一学期の勉強会でも、今回の勉強会でも、夜遅くまでプリントを作っていたのをずっと「ゲーム」でごまかしていた。
ミクはメッセージをもう一度読んだ。
わざと明るく書かれた一つ一つの言葉。「すっかり回復」「どうしても買いに行きたい」「サボる」ケイヤらしくない言葉ばかりが無理やり並べられている。
――心配、かけたくないんだ。
昨日の夜も倒れた本人なのに真っ先に「ミクは試験どうでしたか?」と聞いてきた。
そういう人なのだ。自分のことはいつも後回しにして。
ミクは返信を打とうとした。けれど何を書いてもケイヤの嘘を責めることになる気がした。そしてその嘘をつかせているのは自分なのだ。
結局、ミクは何も返さないままスマートフォンを伏せた。
*
「レン君。今日発売のゲームって、何かある?」
朝のネストの食堂で、ミクはトーストをかじっているレンに尋ねた。
「今日? えっと……」
レンはスマートフォンでゲームの発売スケジュールを確かめた。
「新作は特にないかな。来週ならいくつかあるけど。……ミクさん、ゲームに興味あったっけ?」
「……そっか。ありがとう」
ミクは小さくうなずいた。
答え合わせはそれで十分だった。
レンは首をかしげてミクを見た。それからテーブルの上に置かれたミクのスマートフォンに目をやる。開いたままの画面にメッセージが表示されていた。送り主の名前はケイヤ。
「ミクさん、もしかしてケイヤから何か……」
「ううん。なんでもない」
ミクは首を振って自分のトーストを口に運んだ。味がよくわからなかった。
隣でリンが黙ってミクの顔を見ていた。何かを言いかけて、やめる。それからミクのトーストの皿に自分のいちごジャムの小袋をそっと置いた。
*
一年三組の教室。
窓際の一番後ろの席が空いていた。
朝のホームルームで担任が告げた。
「音無は今日は体調不良で欠席だ。昨日は皆も驚いただろうが大事には至っていないから安心しなさい」
教室のあちこちからほっとしたような声が漏れた。
「よかったー」
「音無、急にぶっ倒れるんだもんな」
「勉強のしすぎだって? さすがだよな、学年一桁は」
何気ないクラスメイトたちの言葉がミクの中に小さな棘のように刺さった。
勉強のしすぎ。
違う。ケイヤ君は自分の勉強のしすぎで倒れたんじゃない。わたしの勉強のために倒れたんだ。
一時間目は国語だった。
先生の声が教室に響く。黒板に文字が書かれていく。ミクはノートを開いてペンを握った。
けれど、何も頭に入ってこなかった。
先生の言葉は音としては聞こえている。黒板の文字も見えている。それなのに意味として処理されない。記録しようとしても片っ端からこぼれ落ちていく。
気がつくと、視線が窓際の一番後ろの席に向いていた。
誰も座っていない机。椅子の背には何もかかっていない。机の横のフックにも騎士のキーホルダーのついたカバンはない。
昨日のこの時間、あそこにケイヤがいた。試験の問題用紙に向かって真剣な顔でペンを走らせていた。
――今、何してるんだろう。
ちゃんと寝ているだろうか。ご飯は食べただろうか。お母さんは今夜まで帰ってこない。まだ一度も行ったことのないケイヤ君の家で一人きり。
熱はあるのだろうか。昨日みたいにまた倒れたりしていないだろうか。誰もそばにいないのに。
「――初音。初音?」
先生の声にミクははっと顔を上げた。
「この段落の筆者の主張は何だと思う?」
「あ……えっと……」
ミクは教科書に目を落とした。どこの段落なのかすらわからなかった。
「……すみません。わかりません」
「珍しいな。まあ、昨日の今日だからな。しっかりしなさい」
先生はそれ以上は何も言わず別の生徒を指名した。
ミクの前の席でリンがちらりと振り返った。心配そうな目だった。
二時間目も、三時間目も、同じだった。
数学の授業では昨日の試験の問題が解説された。二次関数。平方完成。マイナスをくくり出す時は符号に注意。
昨日、この問題を解いている最中にケイヤが倒れた。
ミクのペンは一文字も動かなかった。
休み時間になるたびにミクはスマートフォンを確かめた。ケイヤからの新しいメッセージはない。こちらから送ろうとして、また手が止まる。
『大丈夫?』
大丈夫なはずがない。
『無理しないでね』
昨日も、一昨日も、同じことを言った。それなのに止められなかった。
『ごめんなさい』
何に対して? 謝ればケイヤ君の体が良くなるわけでもないのに。
打っては消し、打っては消し、結局、何も送れないまま休み時間が終わった。
三時間目と四時間目の間の休み時間。
「ねえ、初音さん」
声をかけてきたのはメイコだった。
「音無君、大丈夫かな。昨日、すごく顔色悪かったでしょ」
「……うん」
「わたし試験の前に音無君に数学の質問しちゃったでしょ。あれで時間とらせちゃって、そのぶん音無君の勉強が夜にずれ込んだりしてないかなって……ちょっと気になってて」
メイコは申し訳なさそうに眉を下げていた。
ミクはメイコの顔を見た。
一昨日、メイコがケイヤに話しかけた時、自分の中に生まれたあのじりじりとした焦げつくような感覚。今はそれがまったく生まれなかった。ただメイコもケイヤのことを心配してくれている、という事実だけが静かに記録された。
「ううん。メイコちゃんのせいじゃないよ」
ミクは首を横に振った。
メイコのせいじゃない。悪いのはわたしだ。
その言葉を飲み込んで、ミクは小さく笑ってみせた。メイコは少しだけ不思議そうな顔をして、それから「そっか。早く元気になるといいね」と言って自分の席に戻っていった。
*
昼休み。
ミクとリンはいつものように机を向かい合わせて弁当を広げた。
ミクは自分の弁当箱のふたを開けて、手を止めた。
ネギ入りの卵焼きが四切れ入っていた。いつもより二切れ多い。
今朝、ネストの小さなキッチンで弁当を作る時、無意識のうちに多めに焼いていたのだ。ケイヤに分けるために。
分ける相手は今日はいない。
「……ミク」
リンが自分のおにぎりを置いてミクの顔をのぞき込んだ。
「行ってきなよ」
「え?」
「ケイヤ君のとこ。今日の放課後」
ミクは目を見開いた。
「でも……」
「でも、じゃないよ。ミク、朝からずっとケイヤ君の席ばっかり見てるじゃん。授業、一個も頭に入ってないでしょ」
「……」
「それにさ、ケイヤ君のお母さん、今夜まで帰ってこないんでしょ? 昨日、保健の先生がそう言ってたって、ミク言ってたじゃん。だったら今頃、ケイヤ君、一人で寝てるよ。たぶん、ご飯もろくに食べてない」
リンはミクの弁当箱の四切れの卵焼きを指さした。
「ミクが行かなかったら、ケイヤ君また一人でパンかじってるよ」
ミクは卵焼きを見下ろした。
行きたい。今すぐにでも行きたい。
けれど、判断回路がブレーキをかける。
「……わたしが行ったら、迷惑じゃないかな」
「なんで?」
「だって、ケイヤ君が倒れたのわたしのせいなんだよ。わたしの勉強を見るために毎晩夜中まで起きてて。わたしの誕生日プレゼントのために手を傷だらけにして。わたしがケイヤ君に頼りすぎたから……」
言葉がだんだん小さくなっていった。
「そんなわたしがのこのこ顔を出したら、ケイヤ君また無理して笑うと思う。大丈夫ですって元気なふりして。今朝のメッセージみたいに」
リンはしばらく黙ってミクを見つめていた。
それから、はあ、と大きなため息をついた。
「ミクってさ、ほんと変なところで頭いいよね」
「え?」
「そうだよ。ケイヤ君はたぶん無理して笑うよ。ミクが来たら大丈夫ですって言うよ。でもさ」
リンはミクの額を人差し指でつんと突いた。
「無理して笑ってる人をそのまま放っとくほうが、よっぽどひどいと思うけど?」
ミクは額を押さえたまま固まった。
「嘘つかれて悔しいなら、嘘つかなくていいようにそばにいてあげればいいじゃん。ミクにしかできないことでしょ」
リンはにっと笑っておにぎりを頬張った。
ミクはもう一度弁当箱の卵焼きを見た。
ケイヤに分けるために無意識に焼いた二切れ。
――ミクにしかできないこと。
「……ケイヤ君の家、どこか知ってる?」
「レンが知ってる。ほら、レン!」
リンが窓際に向かって手を振ると、ケイヤの空いた席の隣で弁当を食べていたレンがびくりと顔を上げた。
*
放課後。
ミクは軽音部室に寄って、ルカに今日の練習を休ませてほしいと頼んだ。
理由を言いかけたミクをルカは片手で制した。
「言わなくていいわ。顔に書いてあるもの」
「……ルカ先輩」
「行ってらっしゃい。練習はまた明日から取り戻せばいい」
ルカはそう言って、窓の外に視線を移した。それからほんの少しだけ付け加える。
「無理をする人には無理をさせない人がそばにいるべきよ」
ミクは深く頭を下げて部室を飛び出した。
学院を出て商店街へ向かう。
スーパーの前でミクは足を止めた。
青々とした太くて立派な長ネギ。それから米と、卵と、生姜。手早く買い物かごに入れていく。
何を作るかはもう決めていた。
体が弱っている時に一番やさしい料理。ネストの料理のデータベースにも知識としては入っている。けれどそれを誰かのために作るのは初めてだった。
レンに教えてもらった住所をスマートフォンの地図で確かめる。学院から歩いて七分。ミクが毎日、校門で手を振って別れていた西の道の先。
その道をミクは初めて歩いた。
夕方の日差しが商店街のアーケードの向こうに傾いている。買い物袋の中で長ネギが揺れた。
――着いたらなんて言おう。
判断回路が会話のパターンをいくつも組み立てる。お見舞いに来たよ。心配したんだよ。嘘ついたでしょ。ごめんなさい。
どれも正しいような気がした。どれも足りないような気がした。
七分後。
ミクは白い外壁の五階建てのマンションの前に立っていた。
エントランスのインターホンに部屋番号を打ち込む。四〇三。指が少しだけ震えた。
呼び出し音が鳴る。
パネルの上でカメラの横の小さなランプが緑色に灯った。今ごろ四〇三号室のモニターにはネギの飛び出した買い物袋を提げたミクの姿が映っているはずだった。
一回。二回。三回。
応答はない。
――寝てるのかな。それとも、まさか、また……。
頭部の温度がすうっと冷えていく感覚がした。
やがて呼び出し音が途切れ、パネルに『応答がありませんでした』という文字が浮かんだ。
ミクはもう一度、四〇三を押した。
一回。二回。三回。四回。
やはり応答はない。
ミクは緑のランプを見つめたまま考えた。
眠っているだけならいい。けれどケイヤは今朝、わざわざ嘘をついてまでミクを遠ざけようとした。そういう人がモニターに映ったミクを見たらどうするか。
――出ない。きっと出ない。
呼び出しが途切れる。ミクは三度目のボタンを押した。
呼び出している間はカメラの映像と一緒にこちらの声も部屋のモニターに届く。
ミクはレンズに向かってまっすぐに顔を上げた。
「ケイヤ君。いるんでしょ」
返事はない。呼び出し音だけが静かなエントランスに響いている。
「今日発売のゲームなんてないでしょ。レン君に聞いたもん」
やはり返事はない。
ミクは買い物袋の持ち手をぎゅっと握りなおした。
「……出るまで、帰らない」
一度口にしたら声は思っていたよりもずっとしっかりしていた。
「ネストの門限は九時だから、それまでずっとここにいる。ネギ持ってずっとここに立ってる」
呼び出し音が途切れた。
――また、だめ……?
そう思いかけた、その時。
スピーカーからぷつ、と小さな音がした。
『……ずるいですよ、それは』
かすれた声だった。
ケイヤの声だった。けれどミクの知っているどの声よりも弱々しかった。
『そんなふうに言われたら…… 開けるしかないじゃないですか』
「うん。だから言った」
スピーカーの向こうで長い溜め息が聞こえた。それからほんの少しだけ、笑ったような気配がした。
小さな電子音とともに、エントランスの自動ドアがゆっくりと開いた。
(第十七話 了)
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次回「第十八話 ネギ粥とこらえた涙」
お楽しみに。