放課後の廊下に気まずい沈黙が流れていた。
携帯ゲーム機の画面では主人公のキャラクターが力なく倒れたままになっている。持ち主の音無ケイヤはその画面とミクの顔とを何度も交互に見比べていた。
「……ええと」
ようやく絞り出された声はひどく戸惑っていた。
「勉強を、ですか。僕が、初音さんに?」
「うん!」
「なぜ僕なんでしょう。その……ほとんど話したこと、ないですよね」
「ゼロ回だよ」
「ゼロ回……」
即答されて、ケイヤは言葉に詰まった。ミクとしては正確な情報を伝えただけなのだが、どうやら相手を追い詰めてしまったらしい。
ミクは慌てて両手をぶんぶんと振った。
「あのね、わたし、プレ試験で化学が赤点だったの。それで、今度の期末で一教科でも赤点を取ったら夏フェスに出られなくなっちゃうの。軽音部の大事なステージでわたし、メインボーカルなんだ。だからどうしても点数を上げたくて。そしたらレン君がケイヤ君は教えるのがすごく上手だって」
ケイヤの視線が部室のドアの隙間に向いた。縦に並んでいた二つの顔がさっと引っ込む。
「……レン」
「ご、ごめん、ケイヤ」
観念したようにレンがおずおずと顔を出した。その後ろからリンが「ケイヤ君、お願い! ミクを救って!」と元気よく手を合わせる。
ケイヤは困ったように頭をかいた。それからゲーム機の電源を静かに切る。
「僕も、人に教えるのが得意というわけではないですけど」
ミクの判断回路が、断りの前置きだと予測した。
「期末まであと十日ですよね。毎日放課後に図書室で一時間半。それでよければ」
「……え?」
「教科は赤点の化学を中心に。数学と英語も見ます。それでどうでしょう」
予測は見事に外れた。
「い、いいの!?」
「はい。夏フェスに出られないのは困るでしょうから」
ケイヤはそう言って少しだけ笑った。
「ありがとう! よろしくお願いします、ケイヤ先生!」
「先生はやめてください……」
頭を下げるミクの後ろでリンが「やったー!」と飛び跳ね、レンがほっとしたように息をついた。今日のゲームセンター行きが中止になったことには、誰も触れなかった。
*
翌日の放課後。
ピアプロ学院の図書室は期末前とあっていつもより多くの生徒で埋まっていた。窓際の四人掛けの机を確保したケイヤは鞄から数枚のプリントを取り出してミクの前に並べた。
「まず、これを解いてみてください。十五分で」
「もう問題作ってきたの?」
「昨日の夜に。初音さんがどこでつまずいているのかを知りたいので」
ミクはプリントを見下ろした。化学の基礎問題が十問。手書きの文字は几帳面で、問題の順番は易しいものから難しいものへ、きれいに並んでいる。
――このプリントの作成には少なくとも一時間はかかっているはずだ。
昨日まで会話ゼロ件だった相手のために。ミクの中で、その事実が小さな疑問として記録された。
十五分後。ケイヤは採点した答案を見ながら、うーん、と小さくうなった。
「計算ミスは少ないですね。でも、物質量――モルのところで全部止まっています」
「うっ。モル、苦手なんだよね。なんか、ぼんやりしてて」
「なるほど……」
ケイヤは少し考えてから言いにくそうに口を開いた。
「あの、失礼な質問だったら、すみません」
「なあに?」
「アンドロイドなら、わからないことはすぐに調べられるんじゃないんですか? その、ネットで」
ミクはきょとんと目を瞬かせ、それから首を横に振った。
「それがダメなんだ。試験中はもちろん、勉強のときも外部への接続は禁止されてるの。学校の決まりで」
「勉強のときも、ですか」
「うん。それにね、もし調べられたとしても、あんまり意味がないんだって。わたしたちの知識って人間と同じ手順でちゃんと理解しながら覚えないとぜんぜん定着しないの。データを流し込むだけじゃ使える知識にならないんだって」
ミクは少しだけ肩をすくめた。
「だからわたしもリンもみんなと同じように教科書を読んで、ノートを取って、問題を解いて覚えるしかないの。……それで、こうなっちゃってるんだけど」
「そうだったんですね」
ケイヤは真剣な顔でうなずいた。
「でも、それは人間も同じかもしれません」
「人間も?」
「はい。僕たちだってわからない問題の答えはネットで調べればすぐに出てきます。でも、答えだけ写してもどうしてそうなるのかがわかっていなければ試験では一問も解けません。次に似た問題が出たらまた調べるしかない」
ケイヤはミクの答案に視線を落とした。
「答えを知っていることと、わかっていることは別なんだと思います」
その表情がふっと和らぐ。
「だから、僕たちと条件は同じなんですね」
「同じ?」
「はい。条件が同じなら――あとは、教え方次第です」
そう言って、ケイヤは新しいノートを開いた。
*
「モルというのはものすごくたくさんの粒をひとまとめにして数える単位なんです」
「ひとまとめ?」
「たとえば鉛筆十二本を『一ダース』って言いますよね。あれと同じです。ただ、モルの場合はひとまとめにする数がとんでもなく大きいだけで」
「どのくらい?」
「六・〇かける十の二十三乗個」
「……ぼんやりしてきた」
ミクの眉がきゅっと寄った。ケイヤは少し考え込み、それから何かを思い出したように顔を上げる。
「初音さん、料理するんでしたっけ。昨日、鏡音さんがネギがどうとか言っていた気がしますけど」
「するよ! ネギ料理なら任せて!」
ミクの目がぱっと輝いた。
「じゃあ、ネギで考えましょう」
「ネギで!?」
ケイヤはノートに細長いネギの絵をいくつも描き始めた。お世辞にも上手とは言えない。ネギというより、少し曲がった棒だ。
「スーパーでネギを買う時、一本ずつじゃなくて三本一束で売っていることが多いですよね」
「うん、三本束。特売の時は二束買うよ」
「その『一束』がモルです。ネギ三本を一束と数えるみたいに粒を六・〇かける十の二十三乗個集めて、一モルと数える。だから、ネギが六本あったら」
「二束!」
「そうです。では粒が十二・〇かける十の二十三乗個あったら?」
「……二モル!」
「正解です」
ミクはぽかんと口を開けたままノートの中の少し曲がったネギの絵を見つめた。
ぼんやりしていたものの輪郭がすうっとはっきりしていく。
「わかった……わかったよ、ケイヤ君!」
気がつくとミクは身を乗り出してそう叫んでいた。
この出来事を何に分類し、どの表情を出力するか。いつもならその判断が先に組み上がるはずだった。けれど今は判断よりも先に声と笑顔が出ていた。
――今のはなんだったんだろう。
ほんのわずかな処理順序の乱れ。ミクはそれをひとまず誤差として記録した。
「しーっ」
近くの席の上級生が口元に指を立ててこちらを睨んだ。ミクは慌てて両手で口を押さえ、ケイヤと二人、首をすくめる。
ところが、その直後。
「だーかーらー! なんで英語って主語のあとにすぐ動詞が来るの!? もったいぶりなよ!」
「リン、声……! 図書室だから……!」
書架を挟んだ向こうの机から聞き覚えのある声が響いてきた。リンとレンだ。
「動詞がもったいぶらないのは英語の性格だから……」
「性格なら仕方ないか。じゃあ次!」
「そこで納得するんだ……」
カウンターの司書が無言で立ち上がるのが見えた。数秒後、リンの「ごめんなさーい!」という声と、レンの深いため息が聞こえてくる。
ミクとケイヤは顔を見合わせた。そして、こらえきれずに肩を震わせて小さく笑い合った。
*
一時間半はあっという間に過ぎた。
下校のチャイムが鳴る頃にはミクのノートは少し曲がったネギの絵と、自分で解いた計算式でいっぱいになっていた。
「今日の分はここまでにしましょう。明日は化学反応式をやります」
「はーい。ケイヤ君、今日はほんとにありがとう」
昇降口で靴を履き替えながら、ミクは改めて頭を下げた。
「すごくわかりやすかった。ネギのおかげだね」
「ネギのおかげ、ではないと思いますけど……」
ケイヤは苦笑して少しだけ視線をそらした。
「初音さんはわからないところをわからないってちゃんと言ってくれるので。教えやすかったです」
「そうなの?」
「はい。それはたぶん大事なことです」
校門の前で二人は軽く手を振って別れた。
ケイヤは自宅のマンションがある西へ。ミクは、ネストのある東へ。
アンドロイドには帰る実家も親もいない。そのため地区ごとに『アンドロイド学習生居住施設』という住まいが設けられており、ミクたちはそこで暮らしている。もっとも、そんな堅苦しい正式名称で呼ぶ者はほとんどいない。若いアンドロイドたちが育ち、やがて巣立っていく場所――誰が呼び始めたのか、みんなそこを『ネスト』と呼んでいた。寮のような建物で、一人ひとりに個室が与えられ、食事も用意される。ピアプロ学院から歩いて十分ほどの場所にあり、リンやレン、ルカも同じ建物の住人だった。
*
ミクがネストに到着した頃、ケイヤもまた自宅に着いていた。
鍵を開けて入ったマンションの部屋はしんと静まり返っていた。
「……ただいま」
返事はない。父は単身赴任先で、母も今週はそちらへ出かけている。この家でケイヤが一人きりになるのは珍しいことではなかった。
帰り道のコンビニで買った弁当を電子レンジで温め、一人で食卓につく。
食べながらふと思った。勢いに押されてとんでもないことを引き受けてしまった気がする。クラスの人気者と放課後に二人きりで勉強会。冷静に考えれば自分には不釣り合いもいいところだ。
けれど、「わかった」と叫んだ時のミクの顔を思い出すと不思議と悪い気はしなかった。
弁当を片付けるとケイヤは机に向かい、白紙のプリントを広げた。
明日の化学反応式。初音さんは具体的なものに置き換えるとすぐに理解できるタイプだ。だったら、例えは――。
「……また、ネギかな」
ひとり言をつぶやいて、ケイヤは小さく笑った。
部屋の明かりが消えたのは日付が変わる少し前のことだった。
(第二話 了)