それでは、どうぞ。
エレベーターで四階に上がり、廊下の突き当たりの扉の前に立つ。
四〇三号室。表札には『音無』の二文字。
ミクがインターホンを押す前に扉が内側からゆっくりと開いた。
「……いらっしゃい、ませ」
そこに立っていたのは紺色のパジャマを着たケイヤだった。
ミクは息をのんだ。
顔色は昨日よりはましになっていた。けれど、それでもまだ白い。髪は寝ぐせであちこちに跳ねていて、眼鏡の奥の目は熱っぽく潤んでいる。扉の枠に片手をついて、体を支えるようにして立っていた。
いつものきちんとしたケイヤとはまるで別人だった。
「ケイヤ君……」
「すみません、こんな格好で。……でも、本当にもう大丈夫なので」
ケイヤはいつものように笑おうとした。だがその笑顔は半分も形になっていなかった。
ミクの目の奥がじんと熱くなった。
――泣きそう。
ミクの体は泣くことができる。人間と同じように涙を流すことができる。けれど稼働してから一年、ミクは一度も泣いたことがなかった。
その「一歩手前」をミクは初めてはっきりと自覚した。
しかし、ここで泣いたらまた迷惑がかかる。ケイヤ君がわたしのことを心配する。それだけは嫌だった。
――泣いちゃ、だめだ。
ミクはぎゅっと唇を結んだ。そして買い物袋を持ち上げてみせた。
「お邪魔します。キッチン、借りてもいい?」
「え?」
「ご飯作るから。ケイヤ君は寝てて」
*
ケイヤの家はきれいに片付いていた。
リビングの棚には古いゲーム機とソフトが整然と並んでいる。どれもパッケージの角まで傷一つない。几帳面なケイヤらしい部屋だった。
けれどキッチンだけは少し様子が違った。
流しの横にコンビニの袋がいくつも積まれている。中には菓子パンの空き袋と紙パックの飲み物ばかり。冷蔵庫を開けるとペットボトルの水と賞味期限の近い卵が二つ入っているだけだった。
ミクはその光景を黙って記録した。
保健の先生が言っていた、栄養不足。その原因が目の前に積み上がっていた。
「すみません、散らかっていて」
背後からケイヤの声がした。寝室に戻ったはずなのにリビングの入り口に立っている。
「寝ててって言ったでしょ」
「でも、お客さんに料理してもらうのに、寝ているわけには……」
「ケイヤ君は病人なの。わたしのことは気にしなくていいの」
ミクはケイヤの背中を両手で押して、寝室の扉の前まで連れていった。ケイヤは抵抗しようとしたが足元がふらついて結局、押されるままにベッドに座り込んだ。
「できたら持ってくるから。ちゃんと横になっててね」
「……はい」
ケイヤは観念したように布団にもぐり込んだ。
ミクはキッチンに戻って袖をまくった。
土鍋が見つからなかったので小さな片手鍋を使う。米を研いで、水を多めに入れ、弱火にかける。
まな板の上に長ネギを置く。
白い部分を細かく刻む。とん、とん、とん、と包丁がリズムを刻む。ネストの小さなキッチンで毎朝弁当を作る時と同じ音。けれど今日はその音がいつもより少しだけ慎重だった。
生姜をすりおろし鍋に加える。米がふっくらと煮えてきたら刻んだネギの白い部分を入れて、さらにことことと煮込む。最後に溶き卵を細く回し入れて火を止める。仕上げにネギの青い部分を細かく刻んで上に散らした。
湯気とともにネギと生姜のやさしい香りがキッチンいっぱいに広がった。
ネギ粥。
体が弱っている時にいちばんやさしい料理。データベースには知識として何百ものレシピが入っている。けれどミクが選んだのはこれだった。
ネギは体を温める。生姜も体を温める。卵は栄養がある。米は消化にいい。
――それに、ケイヤ君はわたしのネギ料理をいつもおいしいって言ってくれるから。
最後の理由はデータベースのどこにも書かれていなかった。
*
「お待たせ。起きられる?」
ミクがお盆を持って寝室に入ると、ケイヤはゆっくりと体を起こした。
小さな器に盛られたネギ粥から白い湯気が立ち上っている。
「……いい匂いですね」
「熱いから、気をつけてね」
ケイヤはれんげで少しすくって、ふうふうと冷ましてから口に運んだ。
しばらく何も言わなかった。
それからぽつりとつぶやいた。
「……おいしい」
ケイヤは二口、三口とゆっくりと食べ進めた。食欲がなかったはずなのにれんげが止まらない。
「誰かが作ってくれたご飯、本当に久しぶりで。……体の中から温かくなります」
「よかった」
ミクはベッドの横の椅子に座って、ケイヤが食べる様子をじっと見守っていた。
器が半分ほど空になった頃だった。
部屋に静けさが落ちた。
壁の時計の秒針の音だけが聞こえる。
ミクは膝の上で両手をぎゅっと握りしめた。
――言わなきゃ。
ここに来るまでの道でずっと考えていた。何を言えばいいのか。何を謝ればいいのか。
答えはまだ出ていなかった。けれど言わなければいけないことはわかっていた。
「ケイヤ君」
「はい」
「……ごめんなさい」
ケイヤがれんげを持つ手を止めた。
「ケイヤ君が倒れたの、わたしのせいだよね」
「え……」
「保健の先生から聞いたの。この十日間、毎晩夜中まで起きてたって。ゲームなんかしてなかったんでしょ。わたしのためのプリント、毎晩作ってたんでしょ」
ケイヤは何も答えなかった。その沈黙が答えだった。
「一学期の時もそうだった。夏休みのアルバイトもわたしの誕生日プレゼントのためだった。その疲れが取れないうちに今度はわたしの勉強のために毎晩無理して……。試験の前の日だって缶コーヒー、二本も飲んでた。わたし見てたのに気づかなかった」
声が少しずつ震えていく。
「わたしがケイヤ君に頼りすぎたの。ケイヤ君の優しさに甘えてたの」
目の奥が焼けるように熱くなった。視界の端がにじみそうになる。
――だめ。
ミクは膝の上の手をぎゅっと握りしめた。
ここで泣いたら、またケイヤ君に迷惑がかかる。病気のケイヤ君がわたしのことを心配する。倒れた本人なのに、また自分のことを後回しにして。
それだけは嫌だった。
――泣いちゃ、だめだ。
ミクは唇をかみしめてうつむいた。
「ミク」
ケイヤの声は静かだった。
「顔を上げてください」
ミクはゆっくりと顔を上げた。ケイヤが熱っぽい目で、だがまっすぐにミクを見つめていた。
「プリントを作っていたのは僕が作りたかったからです。ミクが「わかった」って言う時の顔が見たくて。アルバイトもミクが一番喜ぶものを贈りたかった。どっちも僕が自分で決めたことです」
「でも……」
「倒れたのは僕が自分の体のことをちゃんと考えなかったからです。ミクのせいなんかじゃ、絶対にありません」
ケイヤは少しだけ笑った。責めるような響きはどこにもなかった。
その優しさがミクの胸にまっすぐ刺さった。
また目の奥が熱くなる。さっきよりもずっと強く。
――だめ。泣いちゃ、だめ。
ミクはもう一度ぎゅっと手を握りしめた。肩が小さく震えた。
「それに頼りすぎたって言いましたけど」
ケイヤは器をお盆に置いて、少しだけ言葉を探すように窓の外を見た。
「人は……もちろんアンドロイドもですけど、みんな誰かに頼らないと生きていけないんだと思います。だから頼ることは悪いことじゃないです」
「……」
「僕だって今、ミクに頼っています。こうしてご飯を作ってもらって」
ケイヤは空になりかけた器を見下ろして、照れくさそうに笑った。
「実は今回のことで料理を覚えようと思っているんです。睡眠や体調の管理は自分で気をつければなんとかなります。でも料理だけは本当にまるでダメで。カップ麺くらいしか作れないんです」
「カップ麺……」
「はい。だから…… ミク、料理を教えてくれませんか」
ミクは目を見開いた。
「わたしが…… ケイヤ君に……?」
「はい。僕はミクに勉強を教える。ミクは僕に料理を教える」
ケイヤはまっすぐにミクを見た。
「ただし、お互い絶対に無理はしない。これでどうですか」
ミクはしばらく何も言えなかった。
頼ることは悪いことじゃない。
一方的に頼っていたんじゃない。これからはケイヤ君もわたしを頼ってくれる。わたしにもケイヤ君のためにできることがある。
その瞬間、ミクの胸を締めつけていたものがふっとゆるんだ。
全部が消えたわけではない。けれどさっきまでのどこにも逃げ場のない重さとはまるで違っていた。
「……うん」
ミクは小さくうなずいた。
「教える。ネギ料理ならいくらでも」
「よろしくお願いします、ミク先生」
「先生はやめて」
思わずミクは笑っていた。一学期の勉強会の初日、自分がケイヤを「ケイヤ先生」と呼んで、同じことを言われたのを思い出した。
ケイヤもつられたように笑った。今度は無理をしていない笑顔だった。
「約束だよ。お互い絶対に無理はしない」
ミクは小指を差し出した。ケイヤはまだ絆創膏の跡が残る手でその小指に自分の小指を絡めた。
二人の間で交わされた、四回目の指切りだった。
*
ネギ粥の器が空になり、ミクが洗い物を済ませた頃には窓の外はすっかり暗くなっていた。
「お母さん、何時ごろ帰ってくるの?」
「八時過ぎだそうです。駅に着いたら連絡すると言っていました」
「じゃあ、それまでに冷蔵庫に明日の分も作っておくね。お母さんが帰ってきてもケイヤ君の分、ちゃんとあったほうがいいでしょ」
「そこまでしてもらうわけには……」
「いいの。わたしがやりたいの」
ミクはきっぱりと言った。
さっき、ケイヤが言った言葉。「僕が作りたかったからです」
今のミクにはその気持ちが、少しだけわかる気がした。
残りの米とネギでもう一食分の粥を作り、小さな容器に入れて冷蔵庫にしまう。空になった冷蔵庫にネギ粥の容器が一つ。たったそれだけで冷蔵庫の中が少しだけ温かく見えた。
玄関で靴を履きながらミクは振り返った。パジャマ姿のケイヤが壁にもたれて見送ってくれている。
「ちゃんと寝てね。元気になったら料理の練習、始めようね」
「はい。最初はネギ粥からですか」
「うん。今日のはお手本だから。ちゃんと覚えておいてね」
「……味しか覚えていません」
「それで十分」
ミクはくすっと笑った。
「ミク」
「なに?」
「本当にありがとうございました。ネギ粥、すごくおいしかったです」
「……うん」
ミクは小さく手を振って扉を閉めた。
*
夜の道をミクは一人で歩いていた。
学院の前を通り過ぎ、東の道へ。いつもは校門で手を振って別れて、一人で歩く道。今日は逆の方向から歩いている。
ミクは今日一日の自分の行動を一つずつ振り返った。
朝、ケイヤの嘘を一秒で見破った。
授業中、ケイヤの空いた席ばかり見て、何一つ頭に入らなかった。
練習を休んで、まだ一度も行ったことのないケイヤの家まで押しかけた。
頼まれてもいないのにネギ粥を作った。明日の分まで作った。
ケイヤの前で何度も泣きそうになった。そのたびに必死でこらえた。
それから、試験の二日前。メイコがケイヤに話しかけた時の、じりじりと焦げつくような感覚。
どれも判断回路が出した答えではなかった。合理的に考えればもっと他の選び方があったはずだ。それなのにミクの体は、言葉は、判断回路より先に動いていた。
――どうして?
ミクは足を止めた。
ケイヤ君のことになるとわたしはわたしじゃなくなる。
思考が止まって、冷たいことを言って、勝手に体が動いて、泣きたくなって。誕生日の夜も、夏祭りの夜も、川沿いの夕暮れも。いつもそうだった。
この感覚に名前はあるのだろうか。
データベースを検索すればきっと何かしらの答えは見つかる。けれどミクは検索しなかった。
誕生日の夜に決めたのだ。この感情の名前は自分の中から自分の言葉で見つけたい、と。
ミクはもう一度歩き出した。
ネストの明かりが通りの向こうに見えてきた。
その夜、ミクはログの最後にこう書き込んだ。
――ケイヤ君と約束した。お互い絶対に無理はしないって。それからケイヤ君に料理を教えることになった。
――泣きたかった。でも、泣かなかった。
――いつか、泣いてもいいって思える日が来るのかな。
(第十八話 了)
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次回「第十九話 騎士の復活祭と二人だけの秘密」
日常回です。パソコン部のメンバー(二人)とあの人のお話です。