それでは、どうぞ。
月曜日。空は雲一つない秋晴れだった。
グラウンドにはクラスごとにそろえたはちまきの色があちこちで揺れている。一年三組は青。ミクは自分のはちまきの結び目を鏡の前で三回も結び直した。
「ミク、それさっきから何回やってんの」
「……ちょうどいい長さにならなくて」
「十分ちょうどいいって。ほら行くよ!」
リンに背中を押されてミクは開会式の列に並んだ。
開会式の後、種目ごとに分かれてルールの説明があった。
テニスコートの前に一年生の出場ペアが集められる。全部で十五組。体育委員の三年生がプリントを片手に早口で読み上げていく。
「えー、時間の都合で試合はすべて二ゲーム先取の短縮ルールです。トーナメント表はコートの入り口に貼ってあります。審判はソフトテニス部の部員がやります。それから試合中にけがなどで続けられなくなった場合は同じクラスのテニス出場登録者となら交代できます。男子は男子、女子は女子とです。交代の相手は本人かペアが指名してください。ただし交代できるのはすでに敗退した登録者だけです。勝ち残っている選手を交代要員にはできませんし、登録者以外とも交代できないので注意してください。以上!」
隣でカイトが大きなあくびをした。
「初音さん、今の聞いてた?」
「うん。二ゲーム先取、だよね」
「そっかー。ぼく最初の『えー』しか聞いてなかった」
ミクは思わず小さく笑った。
視線の先、出場者の列の反対側にケイヤとメイコが並んでいた。メイコが何か話しかけて、ケイヤが小さくうなずいている。
今日は話し声の届く距離だった。それなのにミクには二人が何を話しているのか、聞き取ることができなかった。いや、聞き取ろうとしなかったのかもしれない。
ミクはトーナメント表のほうへ目をそらした。
*
ミクとカイトの一回戦は二番目の試合だった。
「初音さん、がんばろうねー」
「うん。……カイト君」
「ん?」
ミクはラケットを握ったまま、カイトのほうに向き直った。
「練習の時、ごめんね。何回もきつい言い方しちゃって」
カイトはきょとんとした顔でミクを見下ろした。それからのんびりと首をかしげる。
「初音さん、怒ってなかったんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ、いいよー」
カイトはそれだけ言って、へらっと笑った。
ミクは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。この一週間、カイトは一度もミクに文句を言わなかった。休憩を断られても、ボールを取りに行かされても、嫉妬サーブを真横に打ち込まれても。
「……ありがとう、カイト君」
「どういたしまして。終わったらアイス食べに行こうね」
「それはなんで?」
試合はあっという間に終わった。
ミクのサーブは練習の時とはうってかわって、一本もまともに入らなかった。力を抜けばネットにかかる。力を入れればラインのはるか向こうへ飛んでいく。ちょうどいい出力がどうしても見つからなかった。
カイトは長い手足を伸ばして必死にボールを追いかけた。けれど相手は二組のテニス経験者どうしのペアだった。
「ゲームセット! 二組ペアの勝ち!」
審判の声が響いた。零対二。一回戦敗退だった。
「あー、負けちゃったねー」
「ごめんねカイト君。わたしのサーブ、ぜんぜん入らなくて」
「いいよー。いい思い出、いい思い出」
カイトはラケットを肩にかついで空を見上げた。
「さ、アイス、アイス」
そう言って、カイトは購買の方へのんびりと歩いていった。
ミクはコートの外のフェンスに寄りかかって息をついた。
これでミクの球技大会は終わりだ。あとはクラスの応援に回るだけ。
ちょうどその時、隣のコートからひときわ大きな歓声が上がった。
「ゲームセット! 三組、音無・咲音ペアの勝ち!」
ミクは思わず顔を上げた。
隣のコートでメイコがラケットを高く掲げて跳びはねていた。ケイヤはネット越しに相手のペアと握手をして、ぺこりと頭を下げている。
二対零。ケイヤとメイコは危なげなく一回戦を勝ち上がっていた。
*
昼前にはトーナメントの半分以上が消化されていた。
一年三組のもう一組のペアは準々決勝で敗れた。三組の中で勝ち残っているのはケイヤとメイコのペアだけになった。
そのケイヤとメイコは準々決勝で一組のペアをまたしても二対零で下した。
気がつくと、テニスコートのフェンスの周りには三組の生徒たちが集まっていた。サッカーやバレーで早々に負けた男子や女子が次々と応援に駆けつけてきたのだ。
「音無って、あんなに動けたっけ? パソコン部だろ?」
「なんか中学でテニス部だったらしいよ」
「まじか。ずっとゲームしかしてないと思ってた」
「メイコもすごくない? あれ、ほんとに初心者?」
ミクもその輪の中にいた。フェンスの金網越しにコートを見つめる。
今日は練習の時とは違った。すぐ目の前で二人がプレーしている。ボールを打つ音も、シューズがコートをこする音も、二人の声も、全部そのまま届いてくる。
「音無君、前お願い!」
「はい!」
メイコが後ろに下がり、ケイヤがネット際に詰める。相手の打球をケイヤがボレーで鋭く叩き落とした。
「ナイス、音無君!」
「咲音さんがいいところに返してくれたので」
「でしょー!」
メイコが笑いながらケイヤとラケットの面を軽く合わせた。
一週間の練習で二人はずいぶん息が合うようになっていた。
「前、お願いします!」
「オッケー!」
「右、行きます!」
「任せた!」
テンポよく言葉を交わしながら二人はコートの中を軽快に動き回る。
「あの二人、息ぴったりじゃない?」
「ね。なんかお似合いかも」
すぐ後ろでクラスの女子たちが楽しそうにささやき合っていた。
ミクの指がフェンスの金網をぎゅっと握った。
――お似合い。
その言葉がログの中で何度も何度も再生される。消そうとしても消えない。
ミクは自分に言い聞かせた。
ケイヤはメイコのことを「咲音さん」と呼んでいる。わたしのことは「ミク」と呼んでくれる。夏の帰り道にわたしがお願いしてケイヤ君が呼び直してくれた。その違いはちゃんとある。
それなのに。
今、コートの中にいるのはわたしじゃない。ケイヤ君の隣でケイヤ君と同じ方向を向いて、同じボールを追いかけているのは――わたしじゃない。
「ミク、いた!」
背後から声がして振り返るとリンが息を切らして駆け寄ってきた。
「リン、バレーは?」
「準決勝で負けた! 相手のクラス、バレー部が三人もいるんだもん。反則だよ、反則。……で、こっちはどう?」
「ケイヤ君たち、次、準決勝」
「おー、すごいじゃん!」
リンはフェンスに飛びつくようにしてコートをのぞきこんだ。それからちらりと横目でミクの顔を見た。
何か言いかけて、リンは口を閉じた。代わりにミクの手の甲を指先でとんと軽くつついた。
「……ミク。顔、こわばってるよ」
「え……そう?」
「そう」
リンはそれ以上は何も言わなかった。ただミクの隣に並んで黙ってフェンスの金網に指をかけた。
少し遅れてレンもやってきた。ジャージの胸のあたりが泥だらけになっている。
「レン、サッカーは?」
「……一回戦、零対七」
「キーパー、立ってるだけでよかった?」
「全然よくなかった。ボールがずっとこっちに飛んできた」
レンは遠い目をした。リンがぶはっと吹き出した。
*
午後。準決勝。
相手は五組のペアだった。男子のほうはソフトテニス部の補欠で女子もかなり動ける。トーナメント表の反対の山からはすでに二組のペアが決勝進出を決めていた。ミクとカイトが一回戦で負けた、あのペアだ。
試合は一進一退だった。
一ゲーム目は五組のペアが取った。
二ゲーム目はケイヤとメイコが粘りに粘って取り返した。
一対一。運命の三ゲーム目。
フェンスの周りの三組の生徒たちはいつの間にか声をそろえて応援していた。
「おーとーなし! さーきーね!」
コートの中でケイヤがネットに詰める。メイコが後ろで構える。ケイヤの打ったボールをメイコが拾う。メイコが崩されたところをケイヤがカバーする。
そのたびに二人の声が飛び交った。
一度だけ二人の声が重なった。
「わたし!」
「僕が!」
二人のラケットの間を相手の打球がすり抜けていく。
「ごめん、音無君!」
「いえ、僕のほうこそ!」
すぐに声をかけ直して二人は構え直した。次の一球からはまた声が途切れなかった。
「ナイス、音無君!」
「咲音さん、次、右です!」
「了解!」
ミクはもう、声を出すことができなかった。
ケイヤの隣にいるのはメイコだ。ケイヤが「次、右です」と声をかけるのはメイコだ。ケイヤが振り返ってうなずいてみせる相手もメイコだ。
じり、じり、と。
胸の奥が焦げていく。実力試験の前よりも、練習の四日目よりも、ずっと強く。判断回路の警告が視界の端でちかちかと点滅しはじめた。冷却が追いつかない。
――メイコちゃんは何も悪くない。
わかっている。わかっているのに。
――もう、見たくない。
ケイヤ君とメイコちゃんが並んでいるところを。
二人で笑い合っているところを。
これ以上、一秒も。
ミクはフェンスから指を離した。
「ミク?」
リンの声がすぐ横から聞こえた。
「……ちょっと飲み物、買ってくる」
それだけ言って、ミクはコートに背を向けた。
一歩。二歩。
後ろでまた歓声が上がる。ボールを打つ音。シューズがコートをこする音。
三歩目を踏み出そうとした、その時だった。
「――あっ!」
メイコの声だった。
その直後、どさっ、という鈍い音がして、フェンスの周りの歓声が悲鳴に変わった。
ミクは振り返った。
コートの隅でメイコが倒れていた。
相手の打ったライン際ぎりぎりのボール。それを追いかけて、無理に体を伸ばしたのだろう。メイコはコートに膝をついたまま、右の足首を両手で押さえていた。
「咲音さん!」
ケイヤがラケットを放り出して駆け寄った。
「大丈夫ですか!? どこを……」
「いったぁ……。ちょっと、ひねったかも……」
メイコは顔をしかめて笑ってみせた。
審判のソフトテニス部員がすぐに体育の先生を呼んだ。駆けつけた先生がメイコの足首を慎重に確かめる。
「……捻挫だな。骨は大丈夫そうだがこのまま試合を続けるのは無理だ。保健室で冷やしてもらいなさい」
「はーい。……ですよね」
メイコはあっさりとうなずいた。足首を押さえたまま、けれどどこか落ち着いた声だった。
フェンスの外がざわめいた。
「えー、ここで棄権?」
「せっかく準決勝まで来たのに……」
「待って、交代ってできるんじゃなかった?」
誰かの声に審判の部員がうなずいた。
「はい。同じクラスのテニス出場登録者で、すでに敗退した人となら交代できます。女子の代わりなので、女子から。……咲音さん、どうしますか? 棄権にしますか?」
メイコはケイヤの肩を借りてゆっくりと立ち上がった。
それから、フェンスの外をぐるりと見回した。
その視線がある一点で止まった。
人垣から少し離れた場所で、振り返ったまま立ち尽くしている青緑色のツインテール。
メイコはまっすぐにミクを指さした。
「交代します。――初音さんで」
フェンスの周りが、しん、と静まり返った。
ミクは自分の耳を疑った。
「……え?」
「初音さん。わたしの代わりに出てくれる?」
メイコは足首の痛みなんて忘れたような顔でにっと笑った。
三組の生徒たちの視線がいっせいにミクに集まる。
隣でリンがミクの背中をばしっと叩いた。
「ほら、ミク! 呼ばれてるよ!」
「で、でも、わたし、一回戦で負けて……」
「だから交代できるんです。敗退した登録者しか交代要員にはなれないので」
審判の部員がプリントを確かめながら事務的に言った。
ミクはコートの中を見た。
メイコの肩を支えたまま、ケイヤがこちらを見ていた。
驚いたような、戸惑ったような顔。けれど眼鏡の奥の目はまっすぐにミクだけを見ていた。
飲み物を買いに行くはずだった足が、いつの間にかコートの入り口のほうを向いていた。
(第二十一話 了)
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次回「第二十二話 言葉より先に」
お楽しみに。