わたしが『ボーカロイド』になるまで   作:雪田琉摩

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球技大会編は今回で終わりです。
それでは、どうぞ。


第二十二話 言葉より先に

 コートの入り口をくぐると、足元の感触がさっきまでと違って感じられた。

 同じコートだ。午前中、ミクが一回戦で負けた、あのコートと同じ土。それなのに今は一歩ごとに地面が少しだけ浮き上がるような気がした。

 メイコはケイヤに支えられてコートの端のベンチまで歩き、そこに腰を下ろしたところだった。保健委員の女子が救急箱を抱えて走ってくるのが見える。

「初音さん、こっち、こっち」

 メイコが手招きをした。

 ミクがそばまで行くと、メイコはケイヤのほうを振り返った。

「音無君、ちょっとだけ初音さん借りるね。ラケット、取ってきてあげて」

「え? あ、はい」

 ケイヤがミクのラケットを取りにフェンスのほうへ小走りで向かっていく。

 その背中を見送ってから、メイコはミクの耳元に顔を寄せた。

「攻略のアドバイス、してあげる」

「攻略……?」

「うん。三つだけ。よく聞いてね」

 メイコは声をひそめた。

「一つ目。初音さん、練習の時ずっとわたしたちのコートの方を見てたでしょ」

 ミクの肩がびくっと跳ねた。

「し、知って……」

「わかるよー。あんなに見られてたら、こっちも気になってついそっちのコートを見ちゃうもん。おかげで四日目のあのすっごいサーブもばっちり見ちゃった」

 メイコはくすっと笑った。

「二つ目。わたしね、他の学校に彼氏いるの。音無君のことはいい人だなーとは思うけど、それだけ。特別な気持ちとか全然ないから」

「……え」

 ミクの中でこの一週間ずっと焦げついていた何かが、すうっと音を立てて冷えていった。

「それから三つ目。これが一番大事」

 メイコはちらりとフェンスのほうを見た。ケイヤがミクのラケットを受け取って、こちらへ戻ってこようとしている。

「音無君もね、練習中ずーっと手前のコートの方見てたよ」

「……え?」

「打ち終わるたびに、ちらっ、ちらって。本人はたぶん気づいてないと思うけど。わたしがボール打ってる時まで、目がそっち行ってるんだもん。おかげで何回ボール見送られたか」

 メイコはやれやれというように肩をすくめた。

「あ、でも、四日目のあのすっごいサーブの時だけはちょうどボール拾ってて、見てなかったみたいだけどね。惜しかったねー」

 ミクは言葉が出なかった。

 ――見ていた。

 ケイヤ君も。こっちのコートを。

 毎晩、ログに書いた。ケイヤ君はこっちのコートなんて、一度も見ていないのかもしれないと。わたしばっかりあっちのコートを見ている、と。

 違ったのだ。

「以上、攻略のアドバイスでした」

 メイコがポンとミクの肩を叩いた。

 ミクはメイコの顔を見た。それからメイコの右の足首を見た。

 ひねったのは本当だろう。少し赤くなっている。けれどさっき先生に「続けるのは無理だ」と言われた時のあのあっさりした返事。フェンスの外を見回してまっすぐにミクを見つけたあの視線。そして交代のルール。勝ち残っている選手とは交代できない。交代できるのは敗退した登録者だけ。一回戦で負けたミクはその条件を満たしていた。

「メイコちゃん……もしかして、わざと……」

「んー? 何のこと?」

 メイコは首をかしげた。それから急に顔をしかめて足首を押さえる。

「いたたたた。あー、痛い痛い。これはもう絶対に試合なんて無理だなー」

「……メイコちゃん」

「ほら音無君、戻ってきたよ。がんばってね、初音さん」

 メイコはミクの背中をそっと押した。

「大丈夫。初音さんなら大丈夫だから」

 

 そこへのんびりした足音が近づいてきた。

「あれー? どうしたの、これ」

 カイトだった。両手にソーダ味の棒アイスを一本ずつ持っている。

「咲音さん、ケガ?」

「ちょっと、ひねっちゃって」

「そっかー。……これ、冷やすのに使う?」

 カイトが真顔でアイスを差し出した。メイコがぶはっと吹き出した。

「それ、初音さんの分でしょ。保健室に氷あるから大丈夫」

「あ、そうだった。初音さん、はいアイス」

「ご、ごめんね、カイト君。わたし今から試合で……」

「え、そうなの? じゃあ、溶けないうちにぼくが二本食べとくねー」

 カイトはそれだけ言うと、ベンチに腰を下ろして、二本のアイスを交互にかじりはじめた。

 メイコは保健委員の女子に肩を借りて、ひょこひょこと保健室のほうへ歩いていった。途中で一度だけ振り返って、ミクに小さく手を振った。

 

  *

 

「ミク」

 ケイヤがミクのラケットを差し出した。

「……はい、これ」

「ありがとう」

 受け取る時、指先がほんの少しだけ触れた。

 ケイヤは何か言いたそうに口を開いて、それから閉じた。ミクも何を言えばいいのかわからなかった。

 一度も一緒に練習したことがない。ペアを組むのはこれが初めてだ。

 それなのに、なぜか不安はなかった。

「……いきましょうか」

「うん」

 それだけ言って二人はコートに入った。

 

 準決勝。ゲームカウントは一対一で勝負の三ゲーム目。四ポイントを先に取ったほうがこのゲームをそして試合を制する。ポイントは一対二で五組のペアがリードしていた。

 相手のサーブ。

 ボールが鋭くケイヤの足元へ沈んでくる。ケイヤが低い姿勢で拾い上げた。打球は相手の前衛の頭上を越えていく。

「ミク、前を――」

 ケイヤが言いかけた時にはミクはもうネットの前に詰めていた。

 相手の返球がネットぎりぎりに浮く。ミクはラケットを軽く合わせるだけで、それを相手コートの空いた場所へ落とした。

 ポイント、二対二。

 フェンスの外がどっと沸いた。

 ケイヤが少しだけ目を見開いてミクを見た。ミクも振り返ってケイヤを見た。

 目が合う。

 それだけだった。けれどそれだけで十分だった。

 ケイヤは口を閉じた。そしてそれきり、何も言わなかった。

 

 ミクにはわかった。

 ケイヤが次にどこへ動くのか。どのボールを取りにいって、どのボールをミクに任せるのか。

 一週間、ずっと見ていたのだ。一番奥のコートでケイヤがどんなふうに走り出すのか。どんな打球の時に前に出るのか。どんな時に一歩下がるのか。焦げつくような気持ちで目をそらしたくてもそらせずに見続けていたもの全部が今、ミクの中で一つ残らず役に立っていた。

 そして、ケイヤのほうも同じだった。

 ミクが後ろに下がる前にケイヤはもう前に詰めている。ミクが左に走る前にケイヤはもう右の空いた場所を埋めている。

 ――ケイヤ君も見ていたんだ。

 メイコの言葉が本当だったことをミクはコートの上で知った。

 相手のロブがネット際のケイヤの頭上を越えた。

 ミクはもう走り出していた。ケイヤが前から下がってくるのと、ミクが後ろへ回り込むのがほとんど同時だった。二人の位置が言葉もなく入れ替わる。ミクの打ち返したボールを相手が苦しまぎれに返す。それを入れ替わったばかりのケイヤがボレーで叩き落とした。

 ポイント、三対二。あと一本。

 次の一球は相手の男子が二人のちょうど真ん中を狙って打ちこんできた。

 ミクは迷わなかった。足を止め一歩だけ引く。そこへケイヤのラケットがすっと伸びてきた。

 打球は相手コートの一番奥で深く弾んだ。

「ゲームセット! 三組、音無・初音ペアの勝ち!」

 審判の声にフェンスの外が爆発したような歓声に包まれた。

 ケイヤとミクはネット越しに相手のペアと握手をした。五組の男子が首をかしげながらつぶやいた。

「……お前ら、なんで掛け声なしで、あんなに動けるんだよ」

 ケイヤは困ったように笑って、頭を下げただけだった。

 

 フェンスの外でリンが隣のレンの腕をばしばしと叩いていた。

「見た!? 見た!? 今の見た!?」

「見てたよ。痛いよリン」

「決勝! 次、決勝だよ! ミクとケイヤ君で!」

 リンはにやーっと口の端を上げてポケットからスマートフォンを取り出した。監視記録のメモがすごい勢いで埋まっていく。

 

  *

 

 決勝の相手は二組のペアだった。

 午前中、ミクとカイトが零対二で負けた相手。男子も女子も中学時代はソフトテニス部で二人とも県大会に出たことがあるらしい。

「よろしくお願いしまーす」

 二組の女子がミクの顔を見て、ほんの少しだけ意外そうな顔をした。一回戦でサーブを一本も入れられなかった相手だ。無理もなかった。

 一ゲーム目はあっという間に取られた。

 打球の速さが違った。回転のかけ方も、コースの狙い方も、準決勝の相手とは比べものにならない。ケイヤが必死に食らいついても、ミクが走り回っても、相手のボールは二人のラケットのわずか先を次々とすり抜けていった。

 ゲームカウント、〇対一。

 コートチェンジの間、ケイヤがタオルで汗をぬぐいながら小さく息をついた。

「……強いですね」

「うん。すごく」

 ミクは相手のコートを見た。二組のペアは余裕のある顔で短く言葉を交わしている。

 それからケイヤを見た。

 ケイヤもミクを見ていた。

 何も言わなかった。けれどケイヤの目はまだ少しも負けていなかった。ミクの目もたぶん同じだった。

 

 二ゲーム目。

 相手の強烈なショットがミクの足元へ飛んでくる。ミクはそれを拾うことだけを考えた。きれいに打ち返さなくていい。とにかく相手のコートに返せばいい。

 ふわりと浮いた返球を相手の男子が待ってましたとばかりに叩きこんでくる。

 その打球の先にはもうケイヤがいた。

 相手が打つ前からケイヤは動きはじめていた。ミクが浮いた球を返すしかないことも、相手がそれをどこへ叩きこんでくるかも、全部わかっていたみたいに。

 ケイヤのラケットが相手の渾身の一打をそのまま相手コートへ跳ね返した。

 フェンスの外がどよめいた。

 

「……レン、どうなってるの、これ」

 リンがフェンスに顔を押しつけるようにしてつぶやいた。

「技術だけなら、二組のほうがずっと上だよ。打球の速さも、コントロールも。一対一で打ち合ったら、たぶんミクさんもケイヤもほとんど勝てないと思う」

 レンはコートから目を離さずに言った。

「でも、二人のコンビネーション、って意味なら――」

 コートの中でミクがロブを追って後ろへ下がる。その瞬間、ケイヤが前に詰める。誰も何も言わない。ただ二人の動きだけがぴたりと噛み合っていく。

「――あの二人、少しも負けてない」

 

 二ゲーム目はデュースにもつれこんだ末にケイヤとミクが取った。

 ゲームカウント、一対一。

 そして、運命の三ゲーム目。

 ポイントは行ったり来たりを繰り返した。相手の技術に押しこまれる。それを二人の連携でしのぐ。しのいだボールを相手がまた強打で返してくる。フェンスの外の三組の生徒たちはもう応援の声を出すことも忘れて、ただ息をのんでコートを見つめていた。

 ポイント、三対三。デュース。

 そして三組のアドバンテージ。マッチポイント。

 サーブはミクだった。

 ミクはベースラインの後ろに立って、ボールを手のひらにのせた。

 一回戦では一本も入らなかったサーブ。力を抜けばネットにかかる。力を入れればラインのはるか向こうへ飛んでいく。ちょうどいい出力がどうしても見つからなかった。

 けれど、今は。

 ミクは前衛のケイヤの背中を見た。

 ケイヤは振り返らなかった。ただネットの前で少しだけ腰を落として構えた。

 ――大丈夫。

 そう言われた気がした。

 判断回路の警告はもうどこにも点滅していなかった。胸の奥の焦げついた感覚もいつの間にか消えていた。代わりに体の中のどこかで何かが静かに、まっすぐに、整っていくのがわかった。

 ミクはボールを高く放り上げた。

 ぱぁんっ!

 乾いた破裂音がコートに響いた。

 ボールは白い残像だけを残して、相手コートのサービスエリアの隅ぎりぎりで弾んだ。相手の女子は一歩も動けなかった。

 ボールはそのまま、相手コートの後ろのフェンスに激突した。金網が、びいいいん、と低くうなった。

 一瞬の静寂。

「……ゲームセット」

 審判の部員が呆然とした声で告げた。

「三組、音無・初音ペアの……優勝です!」

 次の瞬間、フェンスの外が割れんばかりの歓声に包まれた。

 

 ネットの前でケイヤがゆっくりと振り返った。

 眼鏡の奥の目がまん丸になっていた。

「……今の、ミクが?」

「え?」

「今のサーブ……ミクが打ったんですか?」

 ミクはきょとんとした。

 ――そうだ。ケイヤ君はあのサーブを見ていなかったんだ。

 四日目、ちょうどボールを拾っていて。

「うん。……手が、すべっちゃった」

 ミクはそう言って少しだけ舌を出した。

 ケイヤはしばらく言葉を失ったようにミクの顔を見つめていた。それから、ふっと、肩の力が抜けたように笑った。

 どちらからともなく二人は右手を上げていた。

 声をかけたわけでも、目で合図したわけでもなかった。ただ気がついた時には二人とも、同じ高さに同じように手を上げていた。

 ぱちん、と。

 手のひらが合わさった。

 四日目、遠いコートでミクにだけ聞こえた気がした、あの音。

 今度は本当に聞こえた。ミクの手のひらからまっすぐに。

 

  *

 

 表彰式が終わって、コートの周りの人だかりが少しずつほどけていった頃。

 足首に包帯を巻いたメイコが保健委員の女子に付き添われて、コートの端のベンチに戻ってきていた。その隣ではカイトが二本目のアイスの棒をくわえたまま、のんびりと拍手をしていた。

「おめでとー、初音さん」

「メイコちゃん……」

 ミクはメイコの前に駆け寄った。何か言おうとして言葉が出てこない。ありがとう、では足りない気がした。ごめんね、では違う気がした。

 メイコはそんなミクの顔を見上げて、片目をつむってみせた。

「攻略、成功だね」

「……うん」

 ミクはそれだけ言って深く頭を下げた。

 ケイヤが少し遅れてやってきた。

「咲音さん、足、大丈夫ですか」

「平気平気。音無君こそ、おめでとう。わたしと組んでた時より、ずっと楽しそうだったじゃん」

「え、いや、そんなことは……」

「あるよー。顔に書いてあったもん」

 メイコはいたずらっぽく笑った。

 ケイヤは困ったように口をつぐんだ。それから、何かを考えるように隣のミクを見た。

 ミクもケイヤを見上げた。

 二人とも何も言わなかった。

 

 その夜。

 ネストの自室でミクはログを開いた。

 ――球技大会。ソフトテニス、男女混合ダブルス、優勝。

 ――ペア、ケイヤ君。一度も一緒に練習していないのに、どこへ動けばいいか、全部わかった。ケイヤ君もわかってくれていた。

 ――メイコちゃんにありがとうをちゃんと言えなかった。明日、言う。

 少しだけ迷ってから、ミクはもう一行だけ書き足した。

 ――ケイヤ君の隣にいると、出力がちょうどいいところで止まる。

 練習四日目の夜、ログの最後に書いた一行をミクは読み返した。

 ――次のメンテナンスで念のため点検をお願いしてみよう。

 ミクはしばらくその一行を見つめていた。それからそっとその一行を消した。

 

 同じ頃。ネストの別の部屋でリンがスマートフォンのメモに一行を書き加えていた。

『監視記録 球技大会。ミク&ケイヤ君ペア、優勝。会話、ゼロ。連携、完璧。

 ……もう、さっさと付き合っちゃえ!』

 

(第二十二話 了)




ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次回「第二十三話 ミク先生の料理教室とおそろいのカップ」
球技大会前の約束、ケイヤがミクに料理を教わります。
しかし、そこに闖入者が……
お楽しみに。
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