それでは、どうぞ。
土曜日の午前十時。
ピアプロ通り商店街の入り口、時計台広場のベンチにケイヤは座っていた。約束の十五分前に着いてしまって、もう三回も腕時計を見ている。
「ケイヤ君、おはよう!」
声のほうを見ると、ミクが手を振りながら駆けてくるところだった。肩には大きめの布のトートバッグ。秋らしい、からし色のカーディガンを羽織っている。
「おはようございます、ミク」
「待った?」
「いえ、今来たところです」
十五分前から座っていたことは言わないでおいた。
「じゃあ、さっそく行こっか。今日の料理教室、第一回!」
ミクはトートバッグからメモを取り出して得意げに広げた。
『第一回 ネギ粥・ネギ入り卵焼き』
「どっちも前にミクが作ってくれたものですね」
「うん。食べたことのある料理のほうが覚えやすいでしょ。それにどっちもネギがおいしいの」
「……どっちもネギが主役なんですね」
「当然でしょ」
ミクは何を言っているの、という顔で首をかしげた。
その様子を時計台の裏から二つの頭がのぞいていた。
「……ネギ、二品とも」
「さすがミク。ブレないね」
リンは変装用のキャップを目深にかぶり直した。レンはリンに押しつけられた大きなエコバッグを抱えて、小さくため息をついた。
*
商店街のスーパーに入ると、ケイヤは迷わず野菜売り場へ向かった。
長ネギの棚の前で一番手前の一本をひょいとつかんでかごに入れる。
「ケイヤ君」
ミクの声がすぐ後ろから飛んできた。
「もう、授業は始まっているんだよ」
「え?」
ミクはケイヤのかごからネギを取り出すと、棚に戻した。それから棚に並んだネギを一本ずつ見比べはじめる。
「ネギはね、白いところがつやつやしてて、巻きがしっかり固いのがいいの。指で押して、ふかふかしてるのはだめ。それから緑のところと白いところの境目がくっきりしてるのが新鮮なしるし」
ミクは吟味した一本を手に取って、ケイヤの目の前に差し出した。
「はい、これ。さっきのと比べてみて」
ケイヤは二つのネギを見比べた。言われてみれば白い部分のつやがまるで違う。
「……本当だ。全然違いますね」
「でしょ」
ケイヤはスマートフォンを取り出して、メモを取りはじめた。『ネギ。白い部分のつや。巻きの固さ。境目』
「ケイヤ君、メモ取るの?」
「はい。授業ですから」
真面目な顔でそう答えるケイヤにミクは思わず吹き出した。
卵はパックの日付を確かめる。生姜は皮にはりがあって、持つとずっしり重いもの。お米は、二人分なら小さな袋で十分。ミクが一つ選ぶたびにケイヤが理由を聞き、ミクが答え、ケイヤがメモを取る。
図書室の勉強会とちょうど逆だった。
――ケイヤ君、いつもこんな気持ちで教えてくれてたのかな。
自分の言葉を一つも聞きもらさないように聞いてくれる人がいる。それがこんなに嬉しいことだとは知らなかった。
隣の通路ではリンがお菓子の棚の陰からレジのほうをうかがっていた。かごの中にはいつの間にか新作の和菓子が三つ入っている。
「リン、それ監視に必要?」
「変装の一部。買い物客に見せかけないと怪しまれるでしょ」
「……ほんとかな」
*
レジを済ませて、スーパーを出たところでミクが立ち止まった。
「材料はこれで全部そろったね」
「はい。じゃあ、うちに――」
「あ、待って。もう一軒、寄りたいお店があるの」
「お店、ですか?」
「うん。すぐそこ」
ミクが向かったのは商店街の中ほどにある、小さな雑貨屋だった。木の扉を開けると、からん、とベルが鳴る。棚には手作りの食器や布の小物が所狭しと並んでいた。
ミクはまっすぐに食器の棚の前へ歩いていった。そして並んだマグカップを真剣な顔で一つずつ手に取りはじめた。
「カップ、ですか?」
「うん。料理教室を始める記念」
ミクは二つのカップを手に取ってケイヤの前に並べてみせた。
白い陶器に細い一本のラインが入ったカップ。片方はミクの髪と同じ青緑色のライン。もう片方は深い紺色のライン。形も大きさもまったく同じだった。
「先生のカップと生徒のカップ。これ、ケイヤ君の家に置いといてね。料理教室の時に二人で使うの」
「ペ、ペア、ですか……」
「うん。おそろい」
「どうして、おそろいに……?」
ミクは少しだけ考えた。
記念なら一つずつ違うカップでもよかったはずだ。先生と生徒なら、むしろ違うほうがわかりやすい。それなのに棚の前に立った瞬間から二つ並んだカップしか目に入らなかった。
「……なんでだろ。おそろいだとなんだか嬉しいから」
ミクはそう言って笑った。それ以上の理由は自分でも見つからなかった。
ケイヤは何も言えなくなった。眼鏡の奥で目が泳いでいる。
「お代は僕が……」
「だめ。わたしが買いたいの」
ミクはカップを二つ抱えてさっさとレジへ向かった。今月の随意金の残りを頭の中で計算する。ぎりぎり大丈夫。
店の外、向かいの八百屋の店先でトマトを選ぶふりをしていたリンがショーウィンドウ越しにその光景を目撃していた。
「ぺっ……ペアカッ――むぐっ」
「リン、声! 声!」
レンがとっさにリンの口を手でふさいだ。八百屋のおじさんが怪訝そうに二人を見ていた。
*
ケイヤの住むマンションは五階建ての白い建物だった。
エントランスの自動ドアの前でケイヤが暗証番号を打ちこむ。ドアが開き二人の姿がエレベーターホールの奥へ消えていった。
自動ドアが静かに閉まる。
少し離れた電柱の陰でリンががっくりと膝をついた。
「……オートロック」
「そりゃ、そうだよ」
「四階……窓も、見えない……」
リンはマンションを見上げて悔しそうにうなった。
「あーあ。盗聴器が欲しいな」
「リン、それストーカーだからね」
レンは暴走しかけている姉を真顔で制した。
*
ケイヤの家のキッチンはミクが最後に来た時とは少しだけ様子が違っていた。
流しの横に積まれていたコンビニの袋は一つもなくなっていた。代わりにまな板と包丁がきれいに洗われて立てかけてある。水切りかごには一人分の茶碗と汁椀、それに箸が一膳、きちんと洗って伏せてあった。今朝の朝ごはんの分だろう。
「あれから少しずつ自分で片づけるようにしたんです。料理はまだ全然ですけど」
ケイヤが照れくさそうに頭をかいた。
ミクは何も言わずに少しだけ笑った。
「よし。じゃあ、始めよう」
ミクはトートバッグを開けて中をのぞきこんだ。それからぴたりと動きを止めた。
「……あ」
「どうしました?」
「エプロン、忘れてきちゃった」
ミクはしばらくトートバッグを見つめてから、袖をくるくるとまくり上げた。
「まあ、いっか。汚さなきゃいいんだもんね」
料理教室は包丁の持ち方から始まった。
「左手は猫の手。指を丸めて爪のところで材料を押さえるの。そうすると指を切らないから」
「猫の手……」
ケイヤは真剣な顔で左手を丸めた。ネギを押さえてゆっくりと包丁を下ろす。とん。とん。とん。ミクが刻む時の倍以上、時間がかかった。それでも一つ一つの小口切りは驚くほどきれいにそろっていた。
「上手! ケイヤ君、几帳面だから切るのは向いてるかも」
「……ありがとうございます」
次は卵だった。
ケイヤは卵をボウルのふちに打ちつけた。ぐしゃっ、という音がして殻ごと中身がボウルに落ちた。
「……」
「……」
「すみません」
「だ、大丈夫、大丈夫! 殻は取れるから!」
ミクは菜箸でボウルの中の殻をつまみ出しながら、ふと、気づいた。
ケイヤは卵を割る時、力を入れすぎる。慎重になろうとすればするほど手に力がこもるのだ。
――ケイヤ君はここで力を入れすぎやすい。
一学期のプリントの余白に書かれていた、ケイヤの小さな文字を思い出した。『初音さんはここで符号を間違えやすい』 あの時のケイヤも、きっとこんなふうにミクのことを見ていたのだ。
「ケイヤ君、卵はね、平らなところに、こつんって軽く当てるの。ボウルのふちじゃなくてまな板の上。力はいらないよ」
「こつん……」
二個目の卵はきれいに割れた。
ケイヤは割れた卵をじっと見つめて小さく息をついた。それからほんの少しだけ誇らしそうな顔をした。
「ミク先生、割れました」
「先生はやめて」
卵焼きは一回目、巻く途中でばらばらになって、ほとんど炒り卵になった。
二回目は形にはなったが端が少し焦げた。
三回目。ミクがフライパンの持ち方を後ろから直してやると、ようやくネギの緑が散った黄色い卵焼きが一本、まな板の上に転がり出た。
「できた……」
「できたね!」
ネギ粥はケイヤが作った。ミクは隣で手順を言うだけ。
米を研ぐ。水を多めに入れて、弱火にかける。ネギの白い部分を刻む。生姜をすりおろす。米がふっくらと煮えてきたら、ネギを入れてことことと煮込む。最後に溶き卵を細く回し入れる。今度の卵は一回できれいに割れた。
あの日、ミクがこのキッチンで作ったのと同じ手順だった。
湯気とともに、ネギと生姜のやさしい香りがキッチンいっぱいに広がった。ケイヤは鍋をのぞきこんで小さくつぶやいた。
「……あの日の匂いだ」
ミクは何も言わずにほんの少しだけ笑った。
*
ダイニングのテーブルに皿が並んだ。
ネギ入り卵焼きと炒り卵になった一回目と端の焦げた二回目。それから片手鍋いっぱいのネギ粥。
そして二つのカップ。
雑貨屋で買ってきたばかりのカップをミクが洗って温かい緑茶を注いだ。青緑のラインのカップを自分の前に紺のラインのカップをケイヤの前に置く。
「いただきます」
「いただきます」
ミクは三回目の卵焼きを一切れ口に運んだ。
少しだけ、甘さが足りない。少しだけ、巻きがゆるい。けれどネギの香りがふんわりと広がった。
「……おいしい」
「本当ですか?」
「うん。本当においしい」
ケイヤはほっとしたように息をついた。それから自分も一切れ食べて首をかしげた。
「……ミクが作ったほうがずっとおいしいと思います」
「それは当たり前だよ。わたし先生だもん」
「先生はやめてって、言ってませんでした?」
「今のはいいの」
ミクはカップを両手で包んで緑茶を一口飲んだ。
テーブルの上で二つのカップが並んでいる。青緑と紺。同じ形の同じ大きさのカップ。
――なんだろう、これ。
胸の奥がふわふわと温かい。嬉しいに分類できる。けれどそれだけではない気がする。この時間がずっと続けばいいのに、というもう一つの何か。
ミクはその何かの名前を探そうとはしなかった。ただカップの温かさを手のひらでじっと感じていた。
その時だった。
玄関のほうで、がちゃり、と鍵の回る音がした。
「ただいまー! ケイ君、いるー?」
明るい女性の声が廊下に響いた。
ケイヤの顔からさあっと血の気が引いた。
「……か、母さん?」
「え?」
ミクが振り返るのとダイニングの扉が開くのがほとんど同時だった。
旅行かばんを提げた女性がそこに立っていた。肩までの髪を一つに結んだ、明るい目元の人だった。笑うと目の形がケイヤとよく似ている。
「いやー、聞いてよケイ君。お父さん、急に今日から出張になっちゃってね。工場で機械の入れ替えするから立ち会うって。一人であっちのアパートにいてもつまらないから帰ってきちゃった――」
そこまで言って、ケイヤの母は口をつぐんだ。
その目がダイニングの中をゆっくりと一周した。
テーブルの上の手料理。湯気の立つネギ粥と炒り卵と端の焦げた卵焼き。キッチンに残ったネギの切れ端。息子の向かいに座っている緑色のツインテールの女の子。
そしてテーブルの上に並んだ、二つのおそろいのカップ。
ケイヤの母の顔にゆっくりと満面の笑みが広がっていった。
「……あら。あらあら。あらあらあら」
「か、母さん、これは、その……」
「もしかしてあなた、冷蔵庫にネギ粥を作っておいてくれた子?」
ミクは慌てて立ち上がった。
「は、はい! 初音ミクです。ケイヤ君と、同じクラスで……」
「やっぱり! あの時は本当にありがとうね。帰ってきたら冷蔵庫にネギ粥が入ってて、びっくりしたのよ。この子ったら『クラスメイトが作ってくれた』としか言わないんだもの」
ケイヤの母はミクの手を両手で包んで、ぶんぶんと振った。それからにこにこしたまま首をかしげた。
「それでミクちゃん。ケイ君とはいつから付き合ってるの?」
「母さんっ!!」
ケイヤが椅子をがたんと鳴らして立ち上がった。耳まで真っ赤になっている。
「つ、付き合ってない! そういうのじゃなくて、料理を教えてもらってるだけで……!」
「あら、そうなの?」
ミクはきょとんとしていた。
「つきあう……?」
ミクは少し考えてから真面目な顔で答えた。
「料理教室にはこれから毎週、付き合ってもらう約束です」
一瞬の沈黙。
それからケイヤの母がお腹を抱えて笑い出した。ケイヤは両手で顔を覆って、テーブルに突っ伏した。
「……もう、やだ……」
*
「せっかくだから晩ごはんの仕込み、一緒にやらない? ミクちゃんにうちの肉じゃがの作り方、教えてあげる」
ケイヤの母の誘いにミクは目を輝かせた。
「いいんですか!?」
「もちろん。ほら、エプロンも貸してあげる」
ケイヤの母が引き出しから一枚のエプロンを取り出した。淡い水色の生地に裾に小さなフリルがついている。値札のタグがまだついたままだった。
「この前、通販で買ってみたんだけどね。届いてみたら、ちょっとデザインが若い人向きだったのよねえ。一回も着ないでしまいっぱなし」
ケイヤの母はタグをぷちんと切ってミクに手渡した。
ミクはエプロンを受け取って首にかけた。腰のひもを後ろで結んで、くるりと一回転してみせる。フリルがふわりと揺れた。
「ケイヤ君、どう?」
ダイニングの椅子に座っていたケイヤはミクを見た。
そして、すぐに視線をそらした。
「すごく……似合ってます……」
「ケイ君ってね、小さいときから恥ずかしがると必ず視線をそらして言うのよ」
ケイヤの母が楽しそうに言った。
「母さん!?」
ミクは首をかしげた。
「ケイヤ君、なんで恥ずかしがってるの?」
「もちろん、ミクちゃんがあまりにもカワイイからでしょ」
「ホント? ケイヤ君!」
ミクがぱっと顔を輝かせてケイヤのほうへ身を乗り出した。
ケイヤは両手を前に突き出して声を裏返らせた。
「もうやめて! とっくに僕のライフは0だよ!」
キッチンにケイヤの母の笑い声とミクの笑い声が重なって響いた。
肉じゃがの仕込みはにぎやかだった。
「ミクちゃん、包丁さばき上手ねえ」
「毎朝、ネストでお弁当作ってるんです」
「えらいわねえ。……あら、じゃがいもにもネギ入れるの?」
「入れちゃだめですか?」
「ううん、入れてみましょ。新しい音無家の味ね」
二人はまるで前から知り合いだったみたいに肩を並べてキッチンに立っていた。ケイヤの母が冗談を言い、ミクが笑う。ミクがネギの話を始めると、ケイヤの母が感心したように聞き入る。
ケイヤはダイニングの椅子に座ったまま、その背中を眺めていた。
淡い水色のエプロン。揺れる青緑色のツインテール。母と並んで楽しそうに鍋をのぞきこんでいる横顔。
この家のキッチンにこんな音がするのはいつ以来だろう。母は月の半分以上を父のところで過ごし、自分は一人でコンビニの袋を積み上げていた。その同じキッチンで今、ミクが笑っている。
テーブルの上には二つのカップが並んだままだった。
ケイヤは紺のラインのカップをそっと両手で包んだ。もう緑茶はすっかり冷めていた。
胸の奥にしまっている『何か』が、また一つ大きくなった気がした。
それが何なのかはとっくにわかっていた。わかっていてまだ、言葉にできずにいた。
*
夕方。マンションのエントランスの前でケイヤの母はミクの手をもう一度ぎゅっと握った。
「また来てね、ミクちゃん。今度はわたしにもネギ料理、教えてちょうだい」
「はい! ぜひ!」
「エプロンはミクちゃんにあげる。うちに置いといて料理教室の時に使ってね」
ケイヤの母はそう言ってケイヤにだけ見えるように片目をつむってみせた。ケイヤはまた視線をそらした。
ミクは帰り道を跳ねるような足取りで歩いた。
その後ろ姿を通りの向こうのベンチから、リンとレンが見送っていた。
「……出てきた。五時間ぶり」
「顔、ずっとにやけてるね」
「くっ……中で何があったのか気になる……! 気になりすぎる……!」
リンは手元の和菓子の包みをぎゅっと握りしめた。三つ目の包みはとっくに空になっていた。
その夜。
ネストの自室でミクは備え付けの無地のカップに緑茶を注いだ。
一口飲んで、ふと手を止める。
白い何の模様もないカップ。いつも使っているいつものカップ。それなのに今日はなぜか少しだけ物足りなく感じた。
――あのカップは今ごろケイヤ君の家の食器棚にあるんだ。
夕方、ケイヤが二つのカップを洗って食器棚に並べてしまうところをミクは見ていた。紺のラインのカップの隣に青緑のラインのカップ。水色のエプロンはそのすぐ下の引き出しに。
自分の物がケイヤの家にある。
そう思ったら、物足りなさの奥からふわりと温かいものが湧き上がってきた。
ミクは指を折って数えた。次の土曜日まで、あと七日。
スマートフォンを手に取る。検索窓に「付き合う 意味」と打ちかけて、ミクは指を止めた。
ケイヤの母が言った、あの言葉。ケイヤが真っ赤になった、あの言葉。どうしてだか今はまだ、調べないでおこうと思った。
ミクは検索窓の文字を消してログを開いた。
――料理教室、第一回。ケイヤ君、卵が割れるようになった。ネギ粥は一回で上手にできた。
――ケイヤ君のお母さんに会った。肉じゃがの作り方を教わった。エプロンをもらった。
――おそろいのカップを買った。わたしのカップはケイヤ君の家にある。
――次の土曜日まで、あと七日。
(第二十三話 了)
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次回「第二十四話 リンのアルバイト(前編)」
お楽しみに。