リンのアルバイト。当然、平常に終わるわけがありません。
それでは、どうぞ。
十月に入って最初の月曜日の夜。
リンはネストの自室でスマートフォンの家計簿アプリを見つめたまま固まっていた。
『今月の随意金 残高…… 三百二十円』
「……うそでしょ」
十月はまだ始まったばかりだった。
リンは震える指で今月の履歴をさかのぼった。
栗きんとん、三つ。実力試験で赤点ゼロだった時のレンへの報酬。随意金が入るのを待って、月の初めにまとめて払った。
どら焼き、二つ。勉強会の延長料金。
商店街の和菓子屋の新作、三つ。土曜日、ミクとケイヤ君の尾行中に「変装の一部」として買ったもの。
水羊羹、最中、わらび餅。これは全部自分で食べた。
そして、秋限定の「栗まんじゅう三種食べ比べセット」の予約。代金は前払いだった。
「……あたしの、ばか」
リンはベッドに倒れこんで枕に顔をうずめた。
コンコン、とドアがノックされた。
「リン、入るよ」
レンだった。手には小さなメモ帳を持っている。
「先月分の報酬の確認なんだけど。栗きんとん三つとどら焼き二つはもらったよね。それと球技大会の監視の分と料理教室の尾行の分がまだ――」
「レン」
「うん?」
「あたし、反省した」
リンは枕から顔を上げた。その目はなぜかキラキラと輝いていた。
「報酬、払いすぎてた。レンの言い値でずっと払ってた。これは、いくない」
「……え?」
「つまり、今後は価格交渉の余地があるってこと」
「反省って、そっちなの!?」
レンの悲鳴を無視して、リンはスマートフォンを突き出した。画面には商店街の和菓子屋のお知らせが表示されている。
『来週、秋の新作和菓子、三種同時発売!』
「しかも来週、新作が三つも出るの。三つも。このままじゃ一個も買えない」
「それは自業自得なんじゃ……」
「だから」
リンはベッドの上にすっくと立ち上がった。
「あたし、アルバイトする」
*
リンが見つけたのはネストから歩いて五分ほどの小さなカフェだった。
カフェ『こもれび』
木の扉と大きな窓。窓辺には観葉植物の鉢がいくつも並んでいる。週末だけホールとキッチンの補助を募集していた。
「鏡音リンさん。アンドロイドで稼働開始から…… うん、一年以上たってるね。問題なし」
面接をしてくれたのは三十代くらいの落ち着いた雰囲気の女性の店長だった。
「土日の十時から四時まで。一時間休憩があるから、実際に働くのは五時間ね。時給は千円だから、一日五千円。今週末、来られる?」
「はい! よろしくお願いします!」
二日でちょうど一万円。随意金、一か月分だ。
店を出たところでリンはぐっと拳を握った。
問題は一つだけあった。
土曜日の午後は軽音部の練習がある。ピアプロ祭まで、あと一か月と少し。ルカにとっては引退前の最後のステージだ。ここからの練習をルカがどれだけ大切にしているかリンにもよくわかっていた。
――アルバイトで休みます、なんて言ったら。
ルカの静かな笑顔が目に浮かんだ。あの笑顔のまま「そう。和菓子のために…… ね?」と言われるところまではっきりと想像できた。
リンはぶるっと震えた。
それにミクに知られるのもなんとなく恥ずかしかった。和菓子のためにアルバイトを始めた、なんて。
「……よし」
リンはスマートフォンを取り出した。
*
土曜日の朝。
ネストの自室でリンはルカ宛てのメッセージを慎重に打ちこんだ。
『ルカ先輩、おはようございます。急に緊急メンテナンスが入ってしまいました。今日の練習はお休みさせてください。すみません』
送信。
人間で言うところの、仮病だった。
返事は一分もしないうちに来た。
『わかったわ。無理はしないでしっかり診てもらいなさい。お大事に』
リンの胸がちくりと痛んだ。
「……ごめんなさい、ルカ先輩」
リンはスマートフォンに向かって、小さく頭を下げた。それから鏡の前に立った。
トレードマークの大きな白いリボンをほどく。いつも外にはねている髪をブラシで丁寧にとかして、まっすぐに下ろす。最後に雑貨屋で買った伊達眼鏡をかけた。
鏡の中に見知らぬ女の子が立っていた。
「……誰?」
自分で言って自分で驚いた。リボンを取って眼鏡をかけただけなのに、まるで別人だった。
これならネストの誰かとすれ違っても気づかれない。リンはこっそりと部屋を抜け出した。
カフェ『こもれび』の仕事は思っていたよりずっと忙しかった。
「鏡音君、三番テーブルにお冷や、二つ!」
「はい!」
「鏡音君、パンケーキの生地、もう一回分お願い!」
「はい!」
店長はなぜかリンのことを「鏡音君」と呼んだ。スタッフ全員を男女関係なく「君」付けで呼ぶ人らしい。
午前中はほとんどキッチンで過ごした。皿を洗い、生地を混ぜ、果物を切る。昼どきになるとホールにも出て、注文を取って、料理を運んだ。
「いらっしゃいませ! ご注文がお決まりでしたら、お呼びくださいませ!」
接客の時だけは自然と声が一オクターブ高くなった。知り合いに会った時のための変装の一部だ。
メニュー表を手に取った時、リンは思わず二度見した。
『超絶鬼スーパーパンケーキ極みプレミアムW』
「……店長、これ何ですか?」
「うちの名物。パンケーキを二段重ねにして、季節のフルーツと生クリームをこれでもかってくらいのせたやつ」
「名前が……」
「この町の人ってこういう名前、好きでしょ?」
店長はなぜか誇らしげに言った。リンは夏のプールのウォータースライダーと夏祭りのポスターを思い出して、何も言い返せなかった。
*
午後三時を過ぎて店の中が少し落ち着いた頃だった。
カラン、と扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいま――」
リンの声が途中で止まった。
入ってきたのは桃色がかった長い髪のすらりとした女性だった。肩には軽音部の楽譜が入ったトートバッグ。
――ルカ先輩!?
リンはとっさにカウンターの陰にしゃがみこんだ。
「鏡音君? どうしたの?」
「て、店長! あのお客さん、お願いできますか! あたし、ちょっと生地の様子を見てきます!」
リンはそのまま四つんばいでキッチンへ逃げこんだ。
キッチンの奥、冷蔵庫の陰からそっとホールをのぞく。
ルカは窓際の一人席に座った。店長に和紅茶とスコーンを注文している。練習が終わってまっすぐここへ来たらしい。
――なんで、よりによってここに……。
ネストから徒歩五分。学院からも近い。考えてみればルカが立ち寄ってもまったく不思議ではない店だった。
ルカはトートバッグからヘッドホンを取り出して耳にかけた。それからスマートフォンを操作して目を閉じた。
リンの頭にある夜の光景がよみがえった。
ネストの談話室。ヘッドホンをつけて、静かに目を閉じていたルカ。膝の上のケース。ご機嫌な横顔。
――あの時の曲名、不明。
リンの監視記録にずっと引っかかっていた一行だった。
「鏡音君、窓際のお客さんにお冷やのおかわりお願い」
店長の声にリンはびくりと肩を跳ねさせた。
「え、あ、あたしが、ですか」
「手、空いてるでしょ?」
空いていた。リンは伊達眼鏡の位置を直して、髪を顔の前に少し垂らし、水差しを手に取った。
――大丈夫。リボンもないし眼鏡もある。声も変える。絶対にばれない。
足音を殺して窓際の席に近づく。
「お冷や、お注ぎしまぁす」
一オクターブ高い声で言いながら、グラスに水を注ぐ。ルカは目を閉じたまま、小さくうなずいただけだった。
その時、テーブルの上に置かれたスマートフォンの画面がリンの目に入った。
再生中のアルバムのジャケット。星空を背景に剣を掲げたドット絵の騎士。
『スターダスト・ナイト アレンジ・コレクション』
――え?
リンは目をぱちぱちさせた。
スターダスト・ナイト。聞いたことがある。たしかレンとケイヤ君がいつも部室でやっている、古いゲームの名前だ。
――ルカ先輩がゲームの曲を?
リンの判断回路が高速で回転した。
ルカ先輩は軽音部の部長で作詞も作曲もする。ピアプロ祭に向けて、新しい曲を作っている最中だ。そのルカ先輩が普段は絶対に聴かないような、ゲームの曲を目を閉じて真剣に聴いている。
答えは一つしかなかった。
――研究だ。
普段聴かないジャンルまで聴かないと良い曲は作れないんだ。好きな曲ばっかり何回も何回も聴いてちゃだめなんだ。だからルカ先輩は休みの日までこうして勉強してるんだ。
――さすが、ルカ先輩……!
リンは胸の奥がじーんと熱くなるのを感じた。それに比べて自分は仮病で練習を休んで、和菓子のためにアルバイトをしている。
リンは水差しを抱えて、そっとキッチンへ戻っていった。
窓際の席でルカは目を閉じたまま小さくつぶやいた。
「……やっぱり、スターダスト・ナイトは何度聴いても良いわね」
その声はうっとりと、とろけるようにやわらかかった。
同じアルバムを頭から再生するのは今日だけでもう三周目だった。
キッチンの奥でリンはスマートフォンのメモを開いた。
『監視記録(番外編) ルカ先輩の曲名、判明。「スターダスト・ナイト アレンジ・コレクション」。ピアプロ祭に向けた研究と思われる。休日まで勉強熱心。尊敬』
「鏡音君、それ仕事中にやること?」
「す、すみません!」
*
その夜。
アルバイトを終えて、こっそりネストに戻ったリンは自分の部屋で伊達眼鏡を外し、リボンを結び直した。
足がぱんぱんだった。けれど財布の中には一日分の給料が入っている。それだけで、疲れが少しだけ軽くなる気がした。
さて夕ごはん。何食わぬ顔で食堂へ――。
コン、コン。
ドアがノックされた。
「リン。いるかしら」
リンの全身が凍りついた。
ルカの声だった。
「は、はいっ!」
ドアを開けると、ルカが腕を組んで立っていた。いつもの静かな笑顔。その笑顔のままルカはゆっくりと口を開いた。
「体の具合は、どう?」
「え、あ、はい! もう、すっかり!」
「そう。それはよかったわ」
ルカはにっこりと微笑んだ。
「ところで、リン。メンテナンス、行ってないでしょう?」
リンの頭部の温度が一瞬で跳ね上がった。
「え、い、行きました、けど……」
「練習の後、管理室に問い合わせたの。緊急メンテナンスなんて、大丈夫なのかしらと思って。そうしたら今日、鏡音リンのメンテナンスの記録は一件もありませんって」
ルカの笑顔は少しも崩れなかった。それがかえって恐ろしかった。
「軽音部の練習をサボるなんて、どういうことかしら」
リンは廊下の床を見つめた。
ごまかす言葉が一つも浮かばなかった。それにルカは本気で心配して、管理室にまで問い合わせてくれたのだ。その人にこれ以上、嘘を重ねることはできなかった。
「……すみませんでした」
リンは深く頭を下げた。
「随意金がなくなっちゃって。来週、新作の和菓子が出るから……それで『こもれび』でアルバイトをしてました」
ルカの肩がびくっと跳ねた。
「こ、こもれび……?」
「はい。ネストのすぐ近くの、カフェです」
「そ、そう、こもれびで……。それで?」
ルカの声がほんの少しだけ、上ずっていた。けれど頭を下げたままのリンはそれに気づかなかった。
「それで、練習が終わった頃にルカ先輩がいらしたので……あたしキッチンに隠れました」
「ひっ!」
短い悲鳴のような声がして、リンは思わず顔を上げた。
ルカの顔が引きつっていた。
「そ、そう……。私を見たのね……」
「はい。ルカ先輩、窓際の席で音楽を聴いていました」
ルカの額にじわりと、冷却用の汗の粒が浮かんだ。一粒、また一粒。廊下の明かりを受けて、きらりと光る。
「あの、ルカ先輩。あの曲って、スターダスト・ナ――」
「いいこと、リン」
ルカがリンの言葉をさえぎった。その声はいつもの部長の声に戻っていた。少なくとも戻ろうとしていた。
「今回のことは特別に目をつぶってあげる」
「え……」
「だから、リン。あなたもこのことは誰にも言わないように。絶対よ。他の部員に示しがつかないから」
「わ、わかりました……!」
「ミクにも、レン君にも、よ」
「は、はいっ!」
「……それじゃあ、おやすみなさい」
ルカはくるりと背を向けて、廊下を歩いていった。いつもより明らかに足が速かった。
リンはドアにもたれて大きく息をついた。
――助かったぁ……。
胸を何度もなで下ろす。
けれど一つだけ、わからなかった。
あのルカ先輩が。最後のステージに向けた練習を誰よりも大切にしているあのルカ先輩が。仮病でサボった自分をどうして、あんなにあっさり許してくれたのだろう。
――ルカ先輩、やっぱり優しいんだ……。
リンは少しだけ目をうるませた。
廊下の角を曲がったところで、ルカは壁に手をついて立ち止まった。
――見られた。
窓際の席。ヘッドホン。スマートフォンの画面。あのジャケット。
――よりによってリンに。
ルカは額の汗をハンカチでぬぐった。ぬぐっても、ぬぐっても、冷却が追いつかなかった。
自分の部屋に戻って扉を閉める。それからベッドに腰を下ろして、スマートフォンのプレイリストを開いた。
『スターダスト・ナイト アレンジ・コレクション』
ルカはしばらくその画面を見つめてから、そっとプレイリストの名前を『作曲資料』に変えた。
――これで、大丈夫。たぶん。
その夜、ルカはなかなか寝つけなかった。
*
リンは、何食わぬ顔で食堂に向かった。
「リン!」
食堂の入り口でミクが駆け寄ってきた。
「メンテナンス、大丈夫だった?」
リンの動きがぴたりと止まった。
「え」
「ルカ先輩から聞いたよ。緊急メンテナンスだったんでしょ? どこか悪いところあったの?」
ミクは本気で心配そうな顔をしていた。眉が少しだけ下がっている。
――ミクにも、レン君にも、よ。
ついさっきのルカの声が頭の中によみがえった。
リンの頭部の温度が急上昇した。
「あ、う、うん! えっと、その……関節! 右ひざの関節がちょっと、ぎしぎしいってて!」
「ひざ?」
「そ、そう! もう直ったから! ほらこのとおり!」
リンはその場で屈伸してみせた。一日じゅう立ちっぱなしだった足が悲鳴を上げた。
「……っ」
「リン? 今、顔ゆがんだよ?」
「ゆ、ゆがんでない! 直りたてだから、ちょっと慣らし運転中なだけ!」
「そっかあ。よかった」
ミクはほっとしたように笑った。リンは心の中で何度も何度も頭を下げた。
――ごめん、ミク。ほんとにごめん。
二人で夕食のトレーを受け取って、いつもの席に座る。ミクはなんだかそわそわしていた。
「ねえ、リン。明日ね、ケイヤ君と遊びに行くの」
「へえ、デート?」
リンは味噌汁をすすりながら、冗談半分で聞いた。
「そ、そういうわけじゃ…… ない、と思うけど……」
ミクは箸の先でご飯をつつきながら、もごもごと言葉を濁した。
――なん…… だと……
リンはお椀を口につけたまま固まった。
――完全に否定しない!?
一学期の終わり。「それって、デートじゃん」と言ったリンに、ミクは「デートっていうのは恋愛関係にある二人、もしくは恋愛関係を望む二人が一緒に出かけることでしょ?」と、まるで辞書を読み上げるように答えたのだ。そしてきっぱりと「該当しないよ」と言い切った。
あの時のミクはどこへ行ってしまったのだろう。
「……ふ、ふーん。で、どこ行くの?」
「ネストのすぐ近くにおいしいパンケーキのお店があるんだって」
「へえ。なんてお店?」
「えっと、『こもれび』っていうカフェ」
リンは味噌汁を噴き出しそうになった。
「げほっ、ごほっ」
「リン!? 大丈夫!?」
「だ、だいじょ……ごほっ……関節の後遺症……」
「関節でむせるの!?」
リンは咳きこみながら、テーブルの下で拳を握りしめた。
明日もシフトは十時から四時まで。
――ミクとケイヤ君があたしのバイト先に来る。
それは、絶体絶命のピンチだった。
そして同時に監視記録を始めて以来の最大のチャンスでもあった。
(第二十四話 前編 了)
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次回「第二十四話 リンのアルバイト(後編)」
リンのバイト先にケイヤとミクがやって来ます。
お楽しみに。