それでは、どうぞ。
日曜日の朝。
カフェ『こもれび』のキッチンで、リンは伊達眼鏡の位置をもう十回は直していた。
「鏡音君、今日はなんだか落ち着きがないね」
「そ、そうですか?」
「昨日の倍くらい、窓の外を見てる」
店長はコーヒー豆を量りながら、ちらりとリンを見た。リンは慌ててボウルの生地をかき混ぜた。
ミクは何時に来るとは言っていなかった。けれどミクのことだ、開店してすぐ一番乗りで来るに違いない。
リンはもう一度、髪を顔の前に垂らした。リボンなし、眼鏡あり、声は一オクターブ上。昨日、お冷やを注いだ時だって、ルカ先輩は気づかなかった。ミクとケイヤ君にだって、ばれるはずがない。
――ばれずに見届ける。
監視記録を始めて以来、ずっと遠くから見ることしかできなかった。双眼鏡越し。植え込みの陰。オートロックの外。それが今日はすぐそばで、二人のテーブルに料理を運ぶことができるのだ。
カラン、と扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませー!」
一オクターブ高い声で振り返ったリンの目に青緑色のツインテールが飛びこんできた。その後ろに少し緊張した顔の眼鏡の男子。
十時三分。
――ほら、やっぱり一番乗り。
「二名様ですね! こちらのお席へどうぞー!」
リンは二人を窓際のテーブルへ案内した。昨日ルカが座っていた席のすぐ隣だ。キッチンから一番よく見える席を朝のうちに目星を付けておいたのだった。
「わあ、かわいいお店だね、ケイヤ君」
「はい。落ち着いた雰囲気ですね」
ミクはきょろきょろと店の中を見回してから、メニュー表を開いた。そして一点を指さして、目を輝かせた。
「これ! これにする!」
『超絶鬼スーパーパンケーキ極みプレミアムW』
「……ミク、これ二段ですよ。フルーツと生クリームもこんなに」
「うん。二人で分ければ大丈夫」
「二人で……」
ケイヤはメニューの写真をじっと見つめて小さく息をのんだ。
「それと、ブレンドコーヒーを一つと、ミルクティーを一つ、お願いします」
「かしこまりましたー!」
リンは伝票に注文を書きつけながら、ミクの顔をちらりと見た。ミクはリンの顔を見ても何の反応も示さなかった。
――よし、ばれてない。
キッチンに戻りながら、リンは心の中で小さくガッツポーズをした。
パンケーキが焼き上がるまで、二人はテーブルの上にメモ帳を広げていた。
キッチンの隅から、リンは生地を流しこむ手を止めずに窓際のテーブルを盗み見た。
ミクがメニューの写真を指さして、何か熱心に話している。ケイヤが真面目な顔でうなずいて、メモ帳にペンを走らせる。
何を話しているのかはここからではまったく聞こえなかった。店のBGMと、コーヒーを淹れる音。それにキッチンと窓際の席の間には思ったより距離があった。
――デートでメモ帳?
リンは、首をかしげた。遊びに行く、とミクは言っていた。それなのに二人そろって、まるで授業でも受けているみたいにノートを取っている。
――何の勉強? パンケーキの? なんで?
聞きたいことが山ほどあった。けれど今の自分はただの店員だ。聞けるはずがない。
「鏡音君、窓際の二番さん、お冷やお願い」
「は、はいっ!」
リンは水差しを手に窓際のテーブルへ向かった。足音を殺して近づくと、ようやく二人の声が届いた。
「……なるほど。ミク先生」
「先生はやめて」
――先生!? 何の!?
リンは表情を変えないように必死にこらえながら、二つのグラスに水を注いだ。
「お冷や、お注ぎしまぁす」
「ありがとうございます」
二人そろってぺこりと頭を下げられた。リンはにこにこと一礼してキッチンへ戻った。
もう一度、窓際のテーブルを見る。
ミクが何か話している。ケイヤがうなずきながら聞いている。ミクが笑う。ケイヤもつられたように笑う。
声はもう聞こえない。見えるのはただそれだけだった。それだけなのにリンはなぜか、胸の奥がむずむずした。
そして、ふと冷蔵庫の横に並んだグラスと、クリームソーダの材料が目に入った。
――あ。
リンの判断回路にある考えがぴかっと点灯した。
*
「お待たせいたしましたー! 超絶鬼スーパーパンケーキ極みプレミアムW、でございまーす!」
テーブルに置かれた皿を見て、ミクが「わああ」と声を上げた。
分厚いパンケーキが二段。その上にいちご、ぶどう、梨、栗の甘露煮。てっぺんには山のような生クリームとミントの葉っぱが一枚。
「すごい……ふわふわ……」
「写真より、大きいですね……」
そしてリンはもう一つのグラスをテーブルの真ん中に置いた。
鮮やかな緑色のメロンソーダにまんまるのバニラアイス。てっぺんには真っ赤なさくらんぼ。そしてグラスには二本のストローが向かい合うように差してあった。
「こちら、カップル様へ当店からのサービスでございまーす!」
ケイヤの動きがぴたりと止まった。
「カ、カップル……!?」
「わあ、ありがとうございます!」
ミクがぱっと顔を輝かせた。
「クリームソーダだ! ストロー、二本もついてる!」
「え、あ、いや、その……」
ケイヤの顔が耳までみるみるうちに赤く染まっていく。ミクはその顔を見て不思議そうに首をかしげた。どうやら、このクリームソーダに添えられている二本のストローの意味を理解したのはケイヤだけのようだ。
「ケイヤ君、顔が赤いよ? 暑い?」
「い、いえ……」
リンは伝票を胸に抱えてにこにこと一礼してから、キッチンへ戻った。冷蔵庫の陰に身を隠して窓際のテーブルを凝視する。
ここから先はまた声は聞こえない。見えるのは二人の動きだけだ。
――さあ、二人で同時に…… カップル飲みを……!
ミクがグラスに差さった二本のストローをしげしげと見比べた。それからポンと手を打った。
グラスをテーブルの真ん中に引き寄せ、自分の側のストローにすっと顔を近づける。
――そう! そう、それ! 分かってるじゃん、ミク!
リンは思わず冷蔵庫の扉に爪を立てた。
グラスの向こう側でケイヤがびくっと顔を引きつらせた。グラス一つ分の距離にミクの顔がある。ケイヤはのけぞるように身を引くと、両手を胸の前でぶんぶんと振った。口が早口で何か言っている。
ミクはストローをくわえかけたまま、きょとんとケイヤを見た。それからグラスとケイヤの顔と、自分の顔の位置を順番に見比べて、なるほどというようにこくこくとうなずいた。
ケイヤが大きく肩を落とした。安堵のため息だろう。ここからでもそれくらいはわかった。
――なんでほっとしてんの?
次にケイヤの人差し指がミクを指し、それから自分自身を指した。ミクが先、自分が後。そう言っているらしい。
ところがミクは首を横に振った。そしてグラスをケイヤのほうへ、すーっとすべらせると、アイスの上のさくらんぼを指さした。さくらんぼはケイヤの側の斜面にちょこんとのっていた。
――さくらんぼがそっち側だから、ケイヤ君が先、ってこと? なにその理屈。
ケイヤは目の前のグラスをしばらく見つめていた。それからおそるおそる自分の側のストローをくわえて少しだけ飲んだ。
ミクがテーブルに身を乗り出して、何か聞いている。ケイヤが小さくうなずく。ミクがぱあっと笑う。
ミクはそのままにこにことケイヤを見つめていた。ケイヤがもう一口飲むのを楽しそうに待っているようだった。
ケイヤはストローから口を離すとグラスをそっとミクのほうへ押し戻した。手のひらを上に向けて、どうぞというしぐさをする。
ミクがぱっと顔を輝かせて、ぺこりと頭を下げた。それからもう一本のストローをくわえて、ちゅーっと飲んだ。
グラスがまたケイヤのほうへすべっていく。ケイヤが一口飲んで、また手のひらを上に向けて、ミクのほうへ押し戻す。
それを二回、繰り返した。
要は交互に飲みましょう、ということらしい。
冷蔵庫の陰で、リンは能面のような顔になった。
「いや、違げぇだろ……」
ケイヤの不甲斐なさに、リンは言葉遣いが悪くなった。
「鏡音君?」
「な、なんでもないです!」
パンケーキの研究は順調に進んでいるようだった。
ミクがナイフを入れた断面をケイヤに見せながら何か説明している。ケイヤが身を乗り出して断面をのぞきこみ、メモを取る。ミクが一口ずつ味わっては何か言い、ケイヤがまたメモを取る。二段のパンケーキは少しずつ形を変えていった。
ふと、ミクが手を止めた。
フォークの先にパンケーキを一切れ。その上にたっぷりの生クリームと、いちごを一粒。それをテーブル越しにケイヤの口元へまっすぐ差し出した。
ミクの口が大きく動く。
声は聞こえない。けれど聞こえなくてもわかった。
――あーん、だ。
キッチンでリンは息を止めた。
――来た……! 来た来た来た……!
ケイヤは目の前のフォークを見つめて完全に固まっていた。
耳が根元からみるみるうちに赤く染まっていく。眼鏡の位置を一回、二回、三回、超高速でガクガクと意味もなく直す。視線がフォークと、ミクの顔と、隣のテーブルの客と、天井の照明の間を、せわしなく行ったり来たりしている。
ミクはフォークを差し出したまま、何か付け足した。たぶんこの一切れがいかにおいしいかを説明しているのだろう。
ケイヤの口がぱくぱくと動いた。そして両手を小さく上げて首を横に振った。
――断った?
キッチンの奥で何かが切れる音がした。
「あの、ヘタレメガネがぁー……っ!」
リンは言葉遣いだけでなく、ガラまで悪くなった。がなる声がキッチンに響く。
皿を洗っていた店長がびくっと肩を跳ねさせた。
「鏡音君!?」
「す、すみません、なんでもないです! ちょっと、生地のこね具合が……!」
リンはボウルを抱えたまま、作り笑顔で取り繕う。
窓際のテーブルで、ミクは差し出していたフォークをゆっくりと下ろした。
唇が短く動く。たぶん「そっか」とかそんな一言だった。
ミクはフォークの先のパンケーキをじっと見つめていた。ツインテールがしゅんと下を向いているように見えた。いつも元気に跳ねている青緑色の髪が今はまるで水をやり忘れた草花のようだった。
ケイヤはその顔を見て固まった。
しばらく、二人とも動かなかった。
それから、ケイヤが口元に拳骨を当てて、小さく咳払いをした。目をそらしたまま、何か短く言う。耳どころか首筋まで真っ赤になっていた。
ミクが顔を上げた。一瞬きょとんとして、それからぱあっと顔を輝かせた。しおれていたツインテールが一瞬で元気を取り戻したように見えた。
――え。え? 今、オッケーした? したの!?
フォークがもう一度、ケイヤの目の前に差し出された。
ケイヤは膝の上で両手を握りしめた。肩ががちがちに固まっている。目をぎゅっとつぶる。そしてほんの少しだけ口を開けた。
ミクが首をかしげて、何か言った。ケイヤが目をつぶったままもう少しだけ口を開ける。たぶん、「それじゃ入らないよ」とでも言われたのだろう。眼鏡の奥でまぶたがぷるぷると震えているのがここからでも見えた。
ミクがそっとフォークを運んだ。
ぱくり。
ケイヤが目をつぶったまま、ゆっくりと口を動かす。ミクが身を乗り出して何か聞く。ケイヤがぎこちなく、こくこくとうなずく。
ミクは満面の笑顔でうなずき返すと、同じフォークで自分の分の一切れをぱくりと口に運んだ。
ケイヤがそれを見てもう一度固まった。
――あ。今、気づいたな。同じフォークだって。
次の瞬間、ケイヤはお冷やのグラスに飛びつき、一気に飲み干して肩を大きく震わせた。盛大にむせているらしい。ミクが慌てて身を乗り出して、ケイヤの背中のほうへ手を伸ばしている。
ケイヤは両手で顔を覆って、テーブルに額をつけそうになっていた。
キッチンでリンはボウルを抱えたまま、その場にへなへなと座りこんだ。
「……よし。よし。一回。一回は、いった……」
なぜか目の奥が少しだけ熱かった。
ミクのあんな顔。あんなに嬉しそうな、あんなに幸せそうな顔。中等部のころからいろんなアンドロイドを見てきたけれど、あんな顔で笑う子をリンは見たことがなかった。
――あたしが見たかったのは、これなんだ。
双眼鏡越しでも植え込みの陰からでもなく、すぐそばでミクがあんなふうに笑うところを。
「鏡音君」
頭の上から店長の声が降ってきた。
見上げると、店長が腕を組んで立っていた。その目は窓際のテーブルの半分ほどになったクリームソーダに向けられていた。
「あのクリームソーダ。うちカップル向けのサービスなんてやってないんだけど」
「……え、えへへ」
「代金、君の給料から引いとくからね」
「……はい」
店長はため息をついてから、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「ま、いい仕事だったけど」
*
「ごちそうさまでした!」
会計を済ませたミクがレジのリンに向かって、ぺこりと頭を下げた。
「クリームソーダ、ありがとうございました! すっごくおいしかったです!」
「ま、またのお越しを、お待ちしておりますー!」
リンは一オクターブ高い声で深々と頭を下げた。顔を上げられなかった。上げたら、にやけているのがばれてしまう。
ケイヤも軽く会釈をして、扉に手をかけた。
そして扉を開ける直前、ほんの一瞬だけ、振り返った。
眼鏡の奥の目がレジのリンをじっと見た。
リンの背筋がぴしっと凍った。
「……ケイヤ君?」
「いえ。……いいお店でしたね」
ケイヤはそれだけ言って、ミクと一緒に扉の外へ出ていった。カラン、とベルが鳴った。
リンはレジの前でしばらく動けなかった。
――今の何? ばれた? ばれてないよね? ばれてないって言って!
夕方四時。
シフトを終えたリンは店の裏口で二日目の給料を受け取った。そして二日分の明細を見る。
『時給千円×五時間×二日 一万円 ただしクリームソーダ代 五百五十円を差し引く』
「九千四百五十円……」
一か月分の随意金には五百五十円、足りない。
けれどリンは明細を胸に抱いてにっと笑った。
「……まあ、良し!」
来週の新作和菓子三種は余裕で買える。それに今日のあれは五百五十円どころの価値じゃなかった。
その夜。
ネストの自室でリンはスマートフォンのメモに一行を書き加えた。
『監視記録 日曜日。カフェにて。クリームソーダ(ストロー二本)→交互に飲む。違げぇだろ。あーん→一度断る。ヘタレメガネ。→ミクがしょげて一回だけ成功。……ミク、今までで一番いい顔してた』
少し迷ってからもう一行。
『追記 帰り際、ケイヤ君がこっちを見た。ばれてないと思う。たぶん。……たぶん』
(第二十四話 後編 了)
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次回「第二十五話 鏡の中のリン、鏡の中のレン」
リンとレンにトラブルが……
お楽しみに。