図書室での勉強会が始まって五日が過ぎた。
窓際の四人掛けの机はいつの間にかミクとケイヤの指定席になっていた。放課後のチャイムが鳴るとミクは鞄をつかんで図書室へ向かう。少し遅れてケイヤがやって来て、その日の手作りプリントを机に並べる。それがすっかり二人の日課になっていた。
その日の昼休み。いつものようにリンと机を向かい合わせて弁当を広げていたミクはふと窓際の席に目をやった。
ケイヤとレンが並んで昼食をとっている。レンの前にはネストで用意された弁当。ケイヤの手にはコンビニの袋から取り出した菓子パンが一つと、紙パックのコーヒー牛乳。
「ケイヤ君、いつもパンだね」
「ん? あー、そういえばそうかも」
リンがネギ入り卵焼きを勝手につまみながら答えた。
「お家の人、忙しいのかな」
ミクの中で菓子パン一つと飲み物一本の栄養価が自動的に計算された。成長期の男子高校生の一食分としては明らかに足りない。
「……あれじゃ、お腹空いちゃうよね」
「じゃあミクがお弁当作ってあげれば? ネギ山盛りで」
「えっ、わたしが?」
「冗談だって。いきなりネギ山盛りのお弁当渡されたらケイヤ君びっくりしちゃうよ」
リンはけらけらと笑い、二つ目の卵焼きに手を伸ばした。ミクはその手をぺしっと叩きながらもう一度だけ窓際を見た。
ケイヤは片手でパンをかじりながらもう片方の手で何かのプリントにペンを走らせていた。
「化学反応式の係数は、料理のレシピの分量だと思ってください」
ケイヤはノートに、相変わらず少し曲がったネギの絵を描いた。
「たとえば、ネギ塩ダレ。ネギ二本と塩ひとつまみでタレが二人前できる。この『二本』とか『二人前』の数字が係数です」
「うんうん」
「水素と酸素から水ができる反応も同じです。水素の分子二つと酸素の分子一つで水の分子が二つできる。だから2H2+O2→2H2O」
「あ、そっか。左と右で材料の数が合ってないとダメなんだ。ネギが急に増えたり減ったりしたらおかしいもんね」
「そうです。原子の数が反応の前と後で変わらないように合わせる。それが係数を決めるということです」
ミクは自分のノートに式を書き写し、続けて練習問題をさらさらと解いていった。ケイヤが赤ペンで丸をつけていく。
一つ、二つ、三つ――最後の一問まですべて丸だった。
「……全問正解です」
「やったあ!」
ミクは小さくガッツポーズをして慌てて図書室であることを思い出し、両手を膝の上に戻した。
初日の小テストは十問中四問。それが昨日は七問になり、今日は十問すべて解けた。
自分の中で知識が一つずつきちんとつながっていく感覚がある。データを読み込むのとは違う、手で一つずつ積み上げていくような感覚。それがミクには新鮮だった。
「ケイヤ君の説明、ほんとにわかりやすいね。なんで先生より上手なの?」
「先生より上手、ということはないですけど」
ケイヤは照れくさそうに頬をかいた。
「初音さんがどこでつまずくのか、だいぶわかってきたので」
そう言ったケイヤがふわ、と小さくあくびを噛み殺した。眼鏡の奥の目の下にうっすらと影が浮かんでいる。
「ケイヤ君、眠いの?」
「あ、いえ。ちょっと昨日の夜にゲームをやりすぎてしまって」
「ゲーム?」
「はい。新しいステージがなかなかクリアできなくて」
ケイヤは苦笑して次のプリントを取り出した。ミクはそれ以上何も聞かなかった。
*
「ミクー、そっちはどう?」
休憩時間。書架の陰からリンとレンがひょっこりと顔を出した。二人も相変わらず同じ図書室の別の机で勉強会を続けている。ただし、初日に司書から注意を受けて以来、リンの声のボリュームは三割ほど下がっていた。
「今日、化学の小テスト全問正解だったよ!」
「えっ、すごっ! いいなあ。あたしなんか英語の長文で三回寝落ちしたよ」
「三回……」
レンが遠い目をした。リンの勉強の面倒を見るのはどうやら相当な重労働らしい。
「ねえレン、ケイヤ君みたいにあたしにもわかりやすく教えてよ。ほら、ミクにはネギで説明してるんでしょ? あたしにはスイーツで例えて!」
「スイーツで例えた英文法って、なに……」
「関係代名詞は、どら焼きのあんこ、みたいな?」
「どら焼き……」
レンは頭を抱えてしばらく本気で考え込んだ。そして、ぽつりとつぶやく。
「……前の名詞と後ろの文をあんこみたいにくっつけてひとつにしてる……とか?」
「おお、なんかわかった気がする!」
「わかったんだ……」
ケイヤが感心したようにレンを見た。
「レン、教えるの上手じゃないですか」
「上手くなりたくてなったわけじゃないよ……」
レンは力なく笑った。リンへの報酬のわらび餅は毎日少しずつ量が増えているらしい。
レンはケイヤの顔をのぞき込んで首をかしげた。
「そういえばケイヤ、最近ゲームセンター来ないよね。家でもゲームしてないって、この前言ってなかったっけ」
「……あ、うん。まあ、試験前だし」
ケイヤが少しだけ歯切れ悪く答えた。
ミクの中でさっきのケイヤの言葉と今のレンの言葉が並んで記録された。
――昨日の夜、ゲームをやりすぎた。最近、ゲームはしていない。
二つの情報は矛盾している。けれど、その矛盾が何を意味するのかミクにはまだわからなかった。
*
休憩が終わり、リンとレンが自分たちの机に戻ろうとした、その時だった。
「――あら。ここにいたのね、ミク」
落ち着いた、よく通る声。
振り返ると図書室の入り口に長い髪の女子生徒が立っていた。腕には返却する本が数冊抱えられている。
「ルカ先輩!」
ミクが手を振るより早くレンの背筋がぴんっと伸びた。
「ル、ルカ先輩、こんにちは!」
「こんにちは、レン君。リンもちゃんと勉強しているみたいね」
「もっちろん! 三回しか寝てません!」
「……三回は寝ているのね」
ルカは小さくため息をついてからミクの向かいに座るケイヤに目を留めた。
ケイヤはこの上級生のことを知っていた。レンを待って軽音部室の前に立っていると、時々ドアの隙間から見かける美人の部長。ただ、言葉を交わしたことは一度もない。
慌てて立ち上がったケイヤにルカは穏やかに微笑んだ。
「あなたが音無ケイヤ君ね。ミクから聞いているわ。勉強を見てくれているそうね」
「は、はい。音無です。……巡音先輩」
「ルカでいいわ。部員たちもみんなそう呼んでいるから」
「では……ルカ先輩」
「ありがとう、ケイヤ君」
ルカはケイヤとミクに向かって丁寧に頭を下げた。
「部長としてお礼を言わせて。ミクはうちの大事なボーカルなの。夏フェスに出られるかどうかはあなたにかかっているのよ」
「そ、そんな、大げさです」
「大げさじゃないわ。……プレッシャーをかけるつもりはないのだけれど」
ルカはわずかに眉を下げた。厳しく見える言葉の後ろにほんの少しの申し訳なさがにじむ。ケイヤはこの人が噂に聞くほど怖い人ではないのかもしれない、と思った。
その時、ルカの視線がふとケイヤの筆箱に吸い寄せられた。
使い込まれた布の筆箱には小さなドット絵のワッペンが縫いつけられている。剣を掲げた、八ビット風の騎士。
「……それ」
「え?」
「『スターダスト・ナイト』の初期版のドット絵よね。マントの色が後の移植版と違う……」
つぶやくように言ってからルカははっと口元を押さえた。
「ルカ先輩、知ってるんですか?」
ケイヤとレンの声がきれいに重なった。三十年以上前に発売された知る人ぞ知るレトロゲームだ。普通の高校生がましてや軽音部の部長が知っているはずがない。
「……な、なんでもないわ。たまたまどこかで見かけただけよ」
ルカはすっと背筋を伸ばし、いつものクールな表情に戻った。だが、その耳の先がほんのりと赤い。
「それじゃあ、私は本を返して帰るわ。ミク、リン、しっかりね」
くるりと背を向け、ルカはカウンターのほうへ去っていった。その足取りがいつもよりほんの少しだけ速い。
残された四人はしばらく無言で顔を見合わせていた。
「……ねえレン。ルカ先輩って、ゲームとかするの?」
「わかんない。でも、もしするなら……」
レンの目が、きらきらと輝き出した。
「話が合うかもしれない……!」
「レン、顔」
リンに頬をつねられてもレンの口元は緩みっぱなしだった。
*
その夜。ミクはネストの自室で今日のログを整理した。
化学、反応式の単元を理解。小テスト、全問正解。ルカ先輩とケイヤ君、初対面。
それから、ケイヤの目の下の影と、彼の言葉とレンの言葉の小さな食い違い。
最後に、もう一つ。
全問正解してケイヤが「全問正解です」と言った時。あの瞬間も判断より先に、声が出ていた。
――処理順序の誤差。本日、二件。
初日に一件だったものが少しずつ増えている。ミクはその数字をしばらく眺めてから、そっとログを閉じた。
期末試験まで、あと五日。
(第三話 了)